21 太平記 巻第二十一  (その一)


○天下時勢粧事
暦応元年の末に、四夷八蛮悉く王化を助て大軍同時に起りしかば、今はゝや聖運啓ぬと見へけるに、北畠顕家卿、新田義貞、共に流矢の為に命を墜し、剰奥州下向の諸卒、渡海の難風に放されて行方知ずと聞へしかば、世間さてとや思けん。結城上野入道が子息大蔵少輔も、父が遺言を背て降人に出ぬ。芳賀兵衛入道禅可も、主の宇都宮入道が子息加賀寿丸を取篭て将軍方に属し、主従の礼儀を乱り己が威勢を恣にす。此時新田氏族尚残て城々に楯篭り、竹園の連枝時を待て国々に御座有といへ共、猛虎の檻に篭り、窮鳥の翅を削れたるが如に成ぬれば、戻眼空く百歩の威を闔、悲心遠く九霄の雲を望で、只時々の変有ん事を待計也。天下の危かりし時だにも、世の譏をも不知侈を究め欲を恣にせし大家の氏族、高・上杉の党類なれば、能なく芸無くして乱階不次の賞に関り、例に非ず法に非して警衛判断の識を司る。初の程こそ朝敵の名を憚りて毎事天慮を仰ぎ申体にて有しが、今は天下只武徳に帰して、公家有て何の用にか立べきとて、月卿雲客・諸司格勤の所領は云に及ず、竹園椒房・禁裡仙洞の御領までも武家の人押領しける間、曲水重陽の宴も絶はて、白馬蹈歌の節会も行れず執事侍所の辺に、如形儀計也。禁闕仙洞さびかへり、参仕拝趨の人も無りけり。況や朝廷の政、武家の計に任て有しかば、三家の台輔も奉行頭人の前に媚を成し、五門の曲阜も賄顕して、武家のふ。されば納言宰相なんど路次に行合たるを見ても、声を学び指を差て軽慢しける間、公家の人々、いつしか云も習はぬ坂東声をつかい、著もなれぬ折烏帽子に額を人に紛んとしけれ共、立振舞へる体さすがになまめいて、額付の跡以外にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙に歩を失し人の如し。

☆ 天下の様子に変化が表れたこと

さて暦応元年(延元三年::1338年)の末に日本国中の武士や豪族らが、朝廷の味方をするため大軍を催して同時に蜂起したので、後醍醐天皇の運勢もここに開くと思われたのですが、北畠顕家卿と新田義貞の二人ともが、流れ矢のために命を落とすことになり、

その上奥州に下向して、再起をはかった諸軍勢が、渡海途中で暴風に遭い、行方不明になったと聞けば、世間は後醍醐の命運もこれまでかと思いました。結城上野入道の子息、大蔵少輔も父の遺言に背いて降伏を申し出ました。また芳賀兵衛入道禅可も主人の宇都宮公綱入道の子息、

加賀寿丸を軟禁して尊氏将軍に加勢し、主従の礼儀を破って、自分の勢力を欲しいままにしました。この時新田一族はまだまだ健在であり、各城々に立て篭もっていますし、各地の宮様たちも時期の到来を待っているとは言え、猛虎のいる檻に篭っているか、

窮鳥でありながら羽をむしられた状態であれば、戻眼空く百歩の威を闔(解読不能)、悲嘆の気持ちで遠く天の雲を眺めて、ただただ何か騒動の起こることを待ち望むばかりです。天下が安定していない時であっても、世間の誹謗中傷など無視して、おごり高ぶった振る舞いをしていた、

足利家の重臣、高家や上杉家の一族や郎等であれば、特に才能や技能が優れていなくても、順序を無視した破格の官位を与えられたり、恩賞を受けたりして、過去の例や法令などに従うことなく、重要な官職に就任しました。最初の頃こそ、朝敵の名を受けることを恐れて、

何事も天皇のお考えを考慮していましたが、今は天下のこと全て武力で解決可能と考え、公家など何の役にも立たないと決め付け、公卿、殿上人や諸官庁の役人、また彼らに仕える武士らの所領は言うまでも無く、皇族の御所や天皇、上皇の御所に関わる御領まで、

足利家の人によって横領されたので、曲水の宴や重陽の宴も絶え果てて、白馬の節会(あおうまのせちえ::邪気を払うとされる白馬を引き出して行う宴)や蹈歌の節会(舞踏の儀式)も行われず、足利家の役所近辺で、形ばかりの儀式を行うだけでした。皇居や上皇の御所もさびれて、

参内してお仕えする人や、出向いてくる客人もいなくなりました。それだけでなく朝廷が行う政治も、武家に任せきりとなってしまったので、太政大臣級の高級公家の人でも、武家の行政府の役人の機嫌をとる有様です。また摂政関白に任じられる家柄の人たちも、武家に取り入ろうと金品を贈り、

何かと武家に頼ろうとしました。そのような状況ですので、納言、参議などは道で武家に出会った時など、坂東の言葉を覚えようとしたりするので、武家はおごり高ぶってしまい、公家は公家で何時の間にか習いもせぬ坂東弁を使い、着慣れない武士用の折烏帽子を被って、

武家の真似をしようとしましたが、公家だけに立ち居振る舞いがさすが艶かしく、月代の剃り具合も不自然なので、公家にも見えずかと言って武家にも似つかず、ただ都にも田舎にも行き場を無くした人のようです。


○佐渡判官入道流刑事
此比殊に時を得て、栄耀人の目を驚しける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過るとて、跡にさがりたる下部共に、南底の紅葉の枝をぞ折せける。時節門主御簾の内よりも、暮なんとする秋の気色を御覧ぜられて、「霜葉紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給けるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部共が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官一人庭に立出て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ。」と制しけれ共、敢て不承引。「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や。」なんど嘲哢して、弥尚大なる枝をぞ引折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候けるが、「悪ひ奴原が狼籍哉。」とて、持たる紅葉の枝を奪取、散々に打擲して門より外へ追出す。道誉聞之、「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を。」と忿て、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押寄て、則火をぞ懸たりける。折節風烈く吹て、余煙十方に覆ければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼上る。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有けるが、御心早く後の小門より徒跣にて光堂の中へ逃入せ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有けるが、板敷の下へ逃入せ給ひけるを、道誉が子息源三判官走懸て打擲し奉る。其外出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹覆。在京の武士共、「こは何事ぞ。」と遽騒で、上下に馳せ違ふ。事の由を聞定て後に馳帰りける人毎に、「あなあさましや、前代未聞の悪行哉。山門の嗷訴今に有なん。」と、云ぬ人こそ無りけれ。

☆ 佐渡判官入道が流刑に処されたこと

最近とりわけ時運に乗って、その栄華を誇り世間の人を驚かしていた、佐々木佐渡判官入道道誉の一族や若党らが、この頃はやりのバサラ風を吹かせて、都の西郊や東山で小鷹狩を楽しんでの帰路、妙法院の門前を通り過ぎる時、後を付いてきている下僕らに、

南底(南庭?・南天?)の紅葉した枝を折らせました。ちょうどその時、妙法院の門跡寺院の住職が御簾の内より、暮れなずむ秋の景色をご覧になって、「霜葉紅於二月花なり(杜牧::霜を経て紅葉した葉は二月に咲く花よりも赤く美しい)」と優雅な気分で、心静かに詩など吟じ楽しんでおられたのですが、

特に色づき良く紅葉した下枝を、不心得な下僕らが引き折るところをご覧になり、「誰か居ないか、狼藉を止めさせよ」と仰せられたので、妙法院の職員一人が庭に出て、「御所の紅葉をこのように折るのは、何処の誰なのか」と制止しましたが、言うことを聞きません。

下僕らは、「何、御所とはどう言うことだ、片腹痛いことを言うものだ」などと馬鹿にして、なおも大きな枝を引き折ったのです。当時妙法院の門徒である山法師らが多数、院内に宿泊していましたが、「憎たらしい奴らの狼藉だな」と、手にしている紅葉した枝を奪い取り、

散々殴りつけて門から外に追い出しました。道誉はこのことを聞くと、「如何なる門跡寺院の住職か知らぬが、今時道誉の身内者に対して、このような行動に出る者など聞いたことがない」と怒って、自ら三百余騎の兵を率いて妙法院の御所に押し寄せると、すぐに火をかけました。

折から風が激しく吹いていたので、煙は四方八方に広がって、建仁寺の輪蔵(転輪蔵::一切経用の回転書架)、開山堂、並びに塔頭、瑞光菴などが同時に全焼しました。その時住職は行法の最中で、持仏堂に篭っておられましたが、気づくのが早かったので、

後方の小門から裸足で光堂(金色堂)の中へ逃げ込みました。御弟子の若宮はいつもの御所に居られましたが、板敷きの下へ逃げ込まれたのを見つけ、道誉の子供、源三判官(佐々木秀綱)が走り寄って殴りつけました。その他、僧侶や職員、稚児また僧兵などは方々へ逃げ散りったのです。

夜中の出来事なので、閧の声は京白川周辺に響き渡り、兵火は四方に吹き渡って天を覆いました。京都にいる武士らは、「これは一体何事が起こったのか」と慌て騒ぎ、上へ下へと駆け回りました。事の次第を確認してから駆け戻る人達は皆、「なんとも情けない話だ。

前代未聞の悪行ではないか。延暦寺の強訴はきっと免れられないだろう」と、皆が話しました。


山門の衆徒此事を聞て、「古より今に至まで、喧嘩不慮に出来る事多といへ共、未門主・貫頂の御所を焼払ひ、出世・坊官を面縛する程の事を聞ず。早道誉・秀綱を給て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞し、武家に触れ訴ふ。此門主と申も、正き仙院の連枝にて御座あれば、道誉が翔無念の事に憤り思召て、あわれ断罪流刑にも行せばやと思召けれ共、公家の御計としては難叶時節なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛督も、飽まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴も疲て、款状徒に積り、道誉は法禁を軽じて奢侈弥恣にす。依之嗷儀の若輩、大宮・八王子の神輿を中堂へ上奉て、鳳闕へ入れ奉んと僉儀す。則諸院・諸堂の講莚を打停め、御願を停廃し、末寺・末社の門戸を閇て祭礼を打止。山門の安否、天下の大事、此時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴難黙止覚へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流に可被処歟。」と奏聞しければ、則院宣を成れ山門を宥らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是には総て休るまじかりしか共、「時節にこそよれ、五刑の其一を以て山門に理を付らるゝ上は、神訴眉目を開くるに似たり。」と、宿老是を宥て、四月十二日に三社の神輿を御帰座成し奉て、同二十五日道誉・秀綱が配所の事定て、上総国山辺郡へ流さる。道誉近江の国分寺迄、若党三百余騎、打送の為にとて前後に相順ふ。其輩悉猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手毎に鴬篭を持せ、道々に酒肴を設て宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替り、美々敷ぞ見へたりける。是も只公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したる翔也。聞ずや古より山門の訴訟を負たる人は、十年を過ざるに皆其身を滅すといひ習せり。治承には新大納言成親卿、西光・西景、康和には後二条関白、其外泛々の輩は不可勝計。されば是もいかゞ有んずらんと、智ある人は眼を付て怪み見けるが、果して文和三年の六月十三日に、持明院新帝、山名左京大夫時氏に被襲、江州へ臨幸成ける時、道誉が嫡子源三判官秀綱堅田にて山法師に討る。其弟四郎左衛門は、大和内郡にて野伏共に殺れぬ。嫡孫近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門二人は、摂津国神崎の合戦の時、南方の敵に誅せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申ながら、是等は皆医王山王の冥見に懸られし故にてぞあるらんと、見聞の人舌を弾して、懼れ思はぬ者は無りけり。

延暦寺の衆徒らはこの事件を聞き、「昔から現在に至るまで、喧嘩は思いがけなく起こる事が多いとは言うが、未だかつて、門跡寺院の住職や天台座主の御所を焼き払い、僧侶や職員を面縛(後ろ手に縛り、顔を突き出しさらすこと)するような侮辱をしたことなど、聞いたことがない。

即刻佐々木道誉、秀綱親子を引き渡してもらい、死罪に処すべきだ」と公家に申し入れ、武家側にも訴えを起こしました。この妙法院の住職と言われる人も、まさに光厳上皇の実弟、亮性法親王ですから、道誉の行為に対して憤慨されていましたので、

どんなことがあっても、斬首か流刑に処すべきと思われていましたが、公家の裁定では最近の諸事情を考慮して、止む無く武家に申し入れましたが、尊氏将軍と左兵衛督直義の二人とも、あくまで道誉をかばって受付けようとしません。山門としては理非を問うべき訴訟でしたが、

訴状ばかりがいたずらに増えるだけで疲れ果て、反対に道誉は法による禁制など無視したかのように、ますます好き勝手な振る舞いをしていました。このため山門の若者どもが衆を頼んで日吉大社、八王子の神輿を延暦寺根本中堂に運び上げ、皇居に持ち込もうと相談の上、決議しました。

そこで早速諸院、諸堂で行われていた講義を中止し、あらゆる祈願についても取りやめになり、末寺、末社の門戸を閉じて、あらゆる祭礼も打ち止めになりました。山門の興廃、天下の安危など全てこの解決の如何にかっていると思えました。

武家政権もさすがに山門の強訴を黙止する訳にもいかず、「道誉の事案に対して、死罪一等を減じて遠流に処する」と朝廷に申し入れたところ、即刻院宣が下り山門を宥めたのです。今までの例ならば、衆徒の強訴はこの程度では収まらなかったのですが、「現在の天下の実情に照らせば、

五刑(笞、杖、徒、流、死)の一つに処して、山門に理解を示してくれた以上、神威を用いて訴えた事も意味があった」と、山門の長老たちは衆徒を宥められ、暦応四年(興国二年::1341年)四月十二日に三社の神輿を元通りにお返ししました。

そして同年四月二十五日には道誉、秀綱の配流先が決まり、上総国山辺郡に流されることとなりました。流されていく道誉には、近江の国分寺まで若党ら三百余騎が、見送りのためと称して前後に従いました。その勢は全員が猿皮で飾った、うつぼ(矢を入れて背負う筒)を背負い、

同じく猿皮の腰当をして、めいめいに鶯篭を持たせ、途上には酒肴の用意をさせ、宿泊地ごとに遊女を呼び集めました。一般的な流人の様子とは大きく異なり、華やかに見えたのでした。このような型破りな行動も、ただ公家の行った裁定を軽蔑したり、

山門の裁定に対するやりきれなさを馬鹿にするためのものでした。古来より山門から起こされた訴訟に負けた人は、十年を過ぎることなく皆その身を滅ぼすと、言い伝えられています。治承(1177-1181年)には新大納言成親卿、西光、西景が、

康和(1099-1103年)には後二条関白(藤原師通)が強訴の要求を拒否して、その後急死しました。その外無名の連中などその数さえはっきりしないほどです。という訳で、この道誉も如何なものかと疑って、知識人は注目していましたが、案の定、文和三年(正平九年::1354年)六月十三日に、

持明院の新帝(後光厳天皇)が山名左京大夫時氏の襲撃を受け、近江国武佐寺に臨幸された時、道誉の嫡子、源三判官秀綱は堅田で山法師に討たれました。その弟、四郎左衛門は大和内郡で野伏らに殺されました。また嫡孫、近江判官秀詮とその弟、次郎左衛門の二人は、

摂津国神埼の合戦において、南朝宮方の敵に討たれました。弓馬の家のことですから、当然のことであり本意とは言いながら、これらのことは全て医王山王(根本中堂の薬師如来と日吉神社の日吉山王権現)が衆生を見ておられるからに違いないと、道誉一族の不幸を見聞きしたものは、口々に恐ろしいことだと言い合いました。


○法勝寺塔炎上事
康永元年三月二十日に、岡崎の在家より俄失火出来て軈て焼静まりけるが、纔なる細■一つ遥に十余町を飛去て、法勝寺の塔の五重の上に落留る。暫が程は燈篭の火の如にて、消もせず燃もせで見へけるが、寺中の僧達身を揉で周章迷けれ共、上べき階もなく打消べき便も無れば、只徒に虚をのみ見上て手撥てぞ立れたりける。さる程に此細■乾たる桧皮に焼付て、黒煙天を焦て焼け上る。猛火雲を巻て翻る色は非想天の上までも上り、九輪の地に響て落声は、金輪際の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風頻に吹て余煙四方に覆ければ、金堂・講堂・阿弥陀堂・鐘楼・経蔵・総社宮・八足の南大門・八十六間の廻廊、一時の程に焼失して、灰燼忽地に満り。焼ける最中外より見れば、煙の上に或は鬼形なる者火を諸堂に吹かけ、或は天狗の形なる者松明を振上て、塔の重々に火を付けるが、金堂の棟木の落るを見て、一同に手を打てどつと笑て愛宕・大岳・金峯山を指て去と見へて、暫あれば花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼ける事こそ不思議なれ。院は二条河原まで御幸成て、法滅の煙に御胸を焦され、将軍は西門の前に馬を控られて、回禄の災に世を危めり。抑此寺と申は、四海の泰平を祈て、殊百王の安全を得せしめん為に、白河院御建立有し霊地也。されば堂舎の構善尽し美尽せり。本尊の錺は、金を鏤め玉を琢く。中にも八角九重の塔婆は、横竪共に八十四丈にして、重々に金剛九会の曼陀羅を安置せらる。其奇麗崔嵬なることは三国無双の鴈塔也。此塔婆始て造出されし時、天竺の無熱池・震旦の昆明池・我朝の難波浦に、其影明に写て見へける事こそ奇特なれ。かゝる霊徳不思議の御願所、片時に焼滅する事、偏に此寺計の荒廃には有べからず。只今より後弥天下不静して、仏法も王法も有て無が如にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼て呈す物也と、歎ぬ人は無りけり。

☆ 法勝寺の堂塔が炎上したこと

さて康永元年(興国三年::1342年)三月二十日、岡崎周辺の民家から突然出火し、すぐに消火されたのですが、小さな燃えさし一つがはるか十余町を飛び去り、法勝寺の五重の塔の上に落ちたのです。しばらくは灯篭の火の程度で、消えもせず燃えもしないように見えていましたが、

寺の僧侶達はどうすれば良いのかうろたえるばかりです。しかし消そうにも上ることの出来る階段もなければ、消火の方法も無いので、ただ空しく空を見上げ、手を広げて立ちすくむだけでした。しばらくすると、この燃えさしが乾燥しきった桧皮に燃え移り、黒煙が天を焦がすばかりに燃え上がったのです。

激しく燃える炎は雲を巻き込み、巻き上がる火の色は非想天(衆生の住む世界の最頂部)の上まで上り、また相輪の九輪が地上に落下すると、その音たるや金輪際(大地の最底部)の底まで、聞こえたのではと思うほど激しいものでした。悪魔の仕業かと思える風は四方に激しく吹き荒れ、

その舞い上げる火をはらんだ煙は四方に流れ、天を覆ったので、金堂、講堂、阿弥陀堂から鐘楼や経蔵、総社宮、八足の南大門また八十六間の廻廊など一度に消失し、その焼け跡が瞬く間に地を覆ったのでした。燃焼を続ける最中に、その様子を離れた場所から見れば、

たとえば煙の上に鬼の姿をした何者かが、火を諸堂に吹きかけているようであり、また天狗の姿をした者が松明を振り上げ、何度も何度も塔に火を付け、やがて金堂の棟木が落ちるのを見て、皆がそろって手を打ちながらドッと笑い、その後、愛宕、大岳(大比叡)、金峰山に向かって去ったと思え、

しばらくすると、華頂山知恩院の五重の塔が同時に燃えたのも不思議なことでした。光厳院は二条河原までお出ましになり、仏法の滅亡を予測するかのような煙に胸を痛められ、また尊氏将軍は西門の前まで馬を進められて、火災のため世が乱れることを危惧しました。

そもそもこの法勝寺と言う寺院は、我が国の安泰を祈念すると共に、過去代々と未来における皇位の安全をはかるため、白河院が建立された霊地であります。そこで堂舎の建造技法も最善を尽くし、美術的な装飾にも贅を尽くしています。本尊の荘厳についても黄金を一面にちりばめ、

玉も美しく磨いてあります。その中でも八角九重の塔は、縦横共に八十四丈の敷地に建っており、各階には金剛九会(金剛界曼荼羅)の曼荼羅(浄土の姿を図化したものなど)が安置されています。美しい姿で高くそびえている様子は、世界に類を見ることの出来ない立派な塔です。

この塔が建造された時、天竺(印度)にある無熱池(ヒマラヤの北にあるという想像上の池)や、震旦(中国)の昆明池(中国雲南省、昆明の南方にある湖)、また我が国の難波浦に、その姿がはっきりと写し出されたこともまた、不思議な現象でした。このように神秘な加護を与えてくれる不思議な寺院が、

瞬く間に全焼し消滅してしまうとは、何もこの寺だけの荒廃に留まらず、この時より将来、ますます天下には騒乱が続き、仏教も天皇の権威も有って無いが如くになるのでしょうか。この事件は公家も武家も一緒になって衰退していく前兆をあらわしているのではと、嘆かない人はいませんでした。


○先帝崩御事
南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有けるが、次第に重らせ給。医王善逝の誓約も、祈に其験なく、耆婆扁鵲が霊薬も、施すに其験をはしまさず。玉体日々に消て、晏駕の期遠からじと見へ給ければ、大塔忠雲僧正、御枕に近付奉て、泪を押て申されけるは、「神路山の花二たび開る春を待、石清水の流れ遂に澄べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進せらるゝ事はよも候はじとこそ存候つるに、御脈已に替せ給て候由、典薬頭驚申候へば、今は偏に十善の天位を捨て、三明の覚路に趣せ給ふべき御事をのみ、思召被定候べし。さても最期の一念に依て三界に生を引と、経文に説れて候へば、万歳の後の御事、万づ叡慮に懸り候はん事をば、悉く仰置れ候て、後生善所の望をのみ、叡心に懸られ候べし。」と申されたりければ、主上苦げなる御息を吐せ給て、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり。悲哉、北辰位高して百官星の如に列と雖も、九泉の旅の路には供奉仕臣一人もなし。奈何せん、南山地僻にして、万卒雲の如に集といへ共、無常の敵の来をば禦止むる兵更になし。只中流に舟を覆て一壷の浪に漂ひ、暗夜に燈消て、五更の雨に向が如し。葬礼の御事、兼て遺勅有しかば、御終焉の御形を改めず、棺槨を厚し御坐を正して、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘を高く築て、北向に奉葬。寂寞たる空山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳数尺の草、一経涙尽て愁未尽。旧臣后妃泣々鼎湖の雲を瞻望して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裡の花に慕ふ。哀なりし御事也。天下久乱に向ふ事は、末法風俗なれば暫く言に不足。

☆ 先帝後醍醐が崩御されたこと

南朝の年号による延元三年(暦応元年::1338年)八月九日より、吉野朝廷の後醍醐天皇はご病気になられたのですが、次第に病状が悪化していきました。薬師如来との固い約束に基づく祈祷も、その霊験が見られず、扁鵲(へんじゃく::中国の半ば伝説的な名医)

耆婆(ぎば::古代インドの名医。釈迦の弟子の一人)の処方する霊薬も投薬を行いましたが、薬効は見られませんでした。お身体は日を追うごとに衰えを見せ、御崩御の時も近づいてきたように思われたので、大塔忠雲僧正が枕元にお近づきになり、

涙をこらえながら、「神路山(伊勢、五十鈴川上流域の総称)の花は、春になって再び開くことを待ち、石清水の流れ(放生川::世に異変があれば濁ると言われた川)も、やがては澄み切る時もあると思われたので、滅多に仏や神、また三宝(仏、法、僧)に見捨てられることなど無いと思われていましたが、

御脈もすでに弱くなりつつあると、医薬部の長が動揺を隠さずに話すのを聞けば、今は十善の皇位(前世に十善を行った果報として天子に生まれた)をお捨てになり、仏門に向かわれることだけをお考えになってください。しかし臨終の時、心のあり方によって、

来世の善悪が決まると経文に書かれていますので、御崩御後のことで何か心にかかる事などあれば全て仰せられ、後生は浄土に生まれ変わることだけ望み、ほかは何も考えないよう心がけてください」と申し上げると、天皇は苦しそうな呼吸の中、「妻子珍宝及王位、

臨命終時不随者(妻子や財宝、王位など死ぬ時には全て置いていくものである)、と言う言葉は釈迦如来の金言であり、普段から私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで、宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、

私には何一つ興味がありません。しかし、何年経とうが追い続けてやまない願望は、朝敵を全て滅亡に導き、我が国を泰平の世にしたいと思うばかりです。私が世を終えた後は、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠義ある朝臣や思慮深い賢臣らと相談の上、

新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。こう考えるからこそ、たとえ骨が吉野山の苔に埋もれたとは言え、私の魂魄は常に北にある皇居の空を見ていようと思う。

もし朝敵征伐に我が身を捧げようとしなければ、天皇であってもそれは天皇ではなく、朝臣も忠義溢れる朝臣ではない」と、こと細かくお言葉を残され、左手には法華経の五巻をお持ちになり、右の御手は御剣の柄にかけられ、延元四年(暦応二年::1339年)八月十六日の丑刻(午前二時頃)にとうとう崩御されたのです。

悲しいことですが、天皇の位は高いゆえ、百官が星の如く居並ぶとは言えども、黄泉への旅路にはお供する臣下は一人もいません。その上残念なことに、ここ吉野は僻地であり、多数の兵士らが雲の如くに集まっているとは言いながら、命を狙って攻めてくる敵を防ぐ兵士は全くいません。

これはまた、川の中程で舟が転覆し、投げ出されたまま波間に漂うようであり、また暗夜にともし火が消えた中、明け方、降る雨に向かって歩むようなもので、心細い限りです。また葬儀の件に関しては、前もって帝より指示がなされていた通り、御臨終のことについては決して偽わることなく、

お棺は余裕のある空間を持たせて正しく置き、吉野山の麓、蔵王堂の艮(北東)にあたる林の奥に、円形に土を高く盛り上げて、その中に北向きにして収められたのです。人気もなく寂しい山は、すでに日も暮れ鳥が鳴くばかりです。盛り上がった土には数尺の草、涙は尽きるとも嘆き悲しみが尽きることはありません。

古くから仕えてきた臣下や后妃は、泣きながら遠くの雲を見渡して、別れのうらみや未練を天の月に訴え、墳墓を吹き抜ける風の中で、朝から夜遅くまで過ごし、別れの辛さを夢に見る花に紛らせました。本当に哀れで悲しい別れです。しかしながら、今後とも天下が長期にわたり乱れるのも、

末法の世では当然のことと思わざるを得ません。


延喜天暦より以来、先帝程の聖主神武の君は未をはしまさざりしかば、何と無共、聖徳一たび開て、拝趨忠功の望を達せぬ事は非じと、人皆憑をなしけるが、君の崩御なりぬるを見進て、今は御裳濯河の流の末も絶はて、筑波山の陰に寄人も無て、天下皆魔魅の掌握に落る世に成んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進らせし卿相雲客、或は東海の波を蹈で仲連が跡を尋、或は南山の歌を唱て■戚が行を学んと、思々に身の隠家をぞ求給ける。爰に吉野執行吉水法印宗信、潜に此形勢を伝聞て、急参内して申けるは、「先帝崩御の刻被遺々勅、第七の宮を御位に即進せ、朝敵追伐の御本意を可被遂と、諸卿親り綸言を含せ給し事也。未日を経ざるに退散隠遁の御企有と承及候こそ、心ゑがたく存候へ。異国の例を以吾朝の今を計候に、文王草昧の主として、武王周の業を起し、高祖崩じ給て後、孝景漢の世を保候はずや。今一人万歳を早し給ふとも、旧労の輩其功を捨て敵に降んと思者は有べからず。就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。造次にも忠戦を不計と云事なし。他家の輩には、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸に有井、石見には三角入道・合四郎、出雲伯耆に長年が一族共、備後には桜山、備前に今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、山徒には南岸の円宗院、此外泛々の輩は数に不遑。皆義心金石の如にして、一度も変ぜぬ者共也。身不肖に候へども、宗信右て候はん程は、当山に於て又何の御怖畏か候べき。何様先御遺勅に任て、継体の君を御位に即進せ、国々へ綸旨を成下れ候へかし。」と申ければ、諸卿皆げにもと思れける処に、又楠帯刀・和田和泉守二千余騎にて馳参り、皇居を守護し奉て、誠に他事なき体に見へければ、人々皆退散の思を翻て、山中は無為に成にけり。

延喜(901-923年)天暦(947-957年)の昔から、いまだかつて、先帝後醍醐ほど神のように優れた武徳をお持ちになった帝は居られませんでした。それゆえに何があっても帝の徳により事態が急転し、忠義ある功績もあげることが出来、参内の望みもかなえられるのではと、

皆は頼りにしていたのですが、帝が崩御されたのでは、未だかつて絶えることのなかった御裳濯河(みもすそがわ::五十鈴川)の流れも絶え果て、また筑波山に古くからの行事である歌垣に集まる人もいなくなり、この世は魔物に支配されることになるのではと、やるせなく思いはじめました。

そこで長年帝に付きまとわっていた公卿や殿上人も、ある者は東海の波を越えて、昔の仲間を訪ねたり、(或は南山の歌を唱て■戚が行を学んと、)思い思いに我が身の安全をはかれる家を探しました。このような状況にあって、吉野執行吉水法印宗信はこの事態を伝え聞き、

急遽密かに参内し、「先帝後醍醐が御崩御にあたって残された遺勅の中に、第七の宮(義良親王)を直ちに天子に就かせ参らせ、朝敵征伐の宿願を遂げるようにと、諸卿に綸言としてお伝えになりました。それ以来それほど日が過ぎた訳でもないのに、ここを引き上げるとか、

どこかに身を隠すことを考えているらしいと聞くなど、とても理解に苦しみます。昔の中国の例に照らして、今の我が国を考えてみると、周朝の始祖である文王がまだ秩序が整っていない土地の主として死去してから、次男の武王が周王朝を立てました。また漢国の高祖が死去してから、

孝景が漢国の維持が出来なかったと言うのでしょうか。今、帝が早く御崩御されたからと言って、今までお仕えしてきた人たちが、これまでの功績を捨てて、敵に降伏しようと思う者などいるはずがありません。そればかりでなく、我が朝廷の危機を感じて、

命を投げ出して官軍に協力をしようと考えている武将らを数えてみると、このようになります。まず最初に、上野国に新田左中将義貞の次男、左兵衛佐義興、武蔵国には新田家の跡取り、義貞の三男、義宗が、越前国には脇屋刑部卿義助、同じく子息の左衛門佐義治がいます。

このほか江田、大館、里見、鳥山、田中、羽河、山名、桃井、額田、一井、金谷、堤、青竜寺、青襲、小守沢の一族など、総勢四百余人が諸国で策を練りながら、諸所に立て篭もっております。合戦が突発した場合でも官軍のため戦うでしょう。

それ以外の他家では、筑紫国には菊池、松浦鬼八郎、草野、山鹿、土肥、赤星らが、四国には土居、得能、江田、羽床らが、淡路には阿間、志知が、安芸国には有井が、石見国には三角入道、合四郎がいます。また出雲伯耆には名和長年の一族達が、備後国には桜山、

備前には今木、大富、和田、児島が、播磨国には吉河が、河内国には和田、楠木、橋本、福塚が、大和国には三輪の西阿、真木の宝珠丸、紀伊国には湯浅、山本、井遠三郎、賀藤太郎、遠江には井介、美濃国には根尾入道、尾張に熱田大宮司、

越前には小国、池、風間、禰津越中守、大田信濃守、山門延暦寺では南岸の円宗院がいます。これら以外にも思いつく軍勢らは、数え切れないほどです。これらの武将たち全員は忠義心において非常に堅固なところがあり、過去一度たりと変節したこともありません。

私はたいした人間では御座いませんが、宗信がこのように考えている以上、今この吉野朝廷には何も恐れることなどありません。とりあえず先帝が残された指示通りに、皇太子様(義良親王)を天子の位に進め参らせ、諸国に向かって朝敵追討の綸旨をお下しになってください」と、申し上げました。

聞いていた諸卿も皆、なるほどと思っている矢先に、楠木帯刀正行と和田和泉守が二千余騎を率いて駆け参ってくると、皇居の護衛に専念し何ら不審も感じられないので、人々は皆、引き上げるなどの考えを改めて、吉野の山は再び平穏を取り戻しました。


○南帝受禅事
同十月三日に、太神宮へ奉幣使を下され、第七の宮天子の位に即せ給ふ。夫継体君登極の御時、様々の大礼有べし。先新帝受禅の日、三種の神器を被伝て、御即位の儀式あり。其明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士、軒廊にして国郡を卜定す。則行事所始ありて、百司千官次第の神事を執行る。同年の十月に、東の河原に成て御禊あり。又神泉苑の北に斎庁所を作て、旧主一日抜穂を御覧ぜらる。竜尾堂を立られ、壇上にして御行水有て、回立殿を建、新帝大甞宮に行幸あり。其日殊に堂上の伶倫、正始の曲を調て一たび雅音を奏すれば、堂下の舞人、をみの衣を袒て、五たび袖を翻す。是を五節の宴酔と云。其後大甞宮に行幸成て御牲の祭を行る程に、悠紀・主基、風俗の歌を唱て帝徳を称じ、童女・八乙女、稲舂の歌を歌て神饌を献る。是皆代々の儲君、御位を天に継せ給ふ時の例なれば、三載数度の大礼、一も欠ては有べからずといへども、洛外山中の皇居の事、可周備にあらざれば、如形三種神器を拝せられたる計にて、新帝位に即せ給ふ。

☆ 南朝において新しい帝が即位されたこと

延元四年(暦応二年::1339年)十月三日、伊勢神宮に供物を奉納する使者を派遣した上、第七の宮、義良親王が天皇の位に就かれました。一般に皇太子が天子の位に就かれる場合は、さまざまな儀式が執り行われます。まず新帝が即位される日に、三種の神器が引き継がれ、

即位の儀式が行われます。即位の翌年三月に卜部宿禰陰陽博士が軒廊(屋根つきの渡り廊下)において、大嘗祭の時に新穀を献上する第一の国郡(悠紀)と、第二の国郡(主基)を占いで決定します。その後すぐに大嘗祭用に臨時の祭事場所を設置し、多数の役人によって神事一切が執り行われます。

同じ年の十月に天皇は賀茂川の河原までお出ましになり、禊をすまされます。また神泉苑の北に神聖な庁舎を作り、先代の天皇が斎田より抜き取った稲穂をご覧になられます。また大極殿の前に竜尾堂を建てて、新しい天皇が壇上で沐浴潔斎を行い、廻立殿の中で衣服を改めて、

大嘗宮悠紀殿、主基殿から成るに行幸の予定です。大嘗祭当日は、昇殿の許された楽士が、ひとたび妙なる音を奏でれば、清浄な上着をまとった舞い姫が、五度にわたって袖を翻します。このことを五節の晩餐会と言います。その後新帝は大嘗宮に行幸され、神に動物を捧げる儀式を行ううちに、

悠紀や主基に選ばれた国郡に伝承されてきた歌が歌われる中、帝の徳を褒め称え、女児や八乙女(神楽や舞で奉仕する八人の巫女)が米を突き精白する作業歌を歌いながら神に供物を捧げます。この様な行事は代々の皇太子が、天皇の位におつきに成る時の慣例ですので、

この大祭では一つの祭事たりとて中止などあってはならないのですが、都を遠く離れた吉野の山中の皇居では、何分条件が悪く、三種の神器に対して、形ばかりの拝礼をすることによって、新しく帝位に即位されたのです。


○任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
同十一月五日、南朝の群臣相義して、先帝に尊号を献る。御在位の間、風教多は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄有とて、後醍醐天皇と諡し奉る。新帝幼主にて御座ある上、君崩じ給たる後、百官冢宰に総て、三年政を聞召れぬ事なれば、万機悉く北畠大納言の計として、洞院左衛門督実世・四条中納言隆資卿、二人専諸事を被執奏。同十二月先北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅異于他上は、不替故義貞之例、官軍恩賞以下の事相計て、可経奏聞之由被宣下。其外筑紫の西征将軍宮、遠江井城に御座ある妙法院、奥州新国司顕信卿の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之由、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討れし後勢微也といへども、所々の城郭に軍勢を篭置、さまでは敵に挟められざりければ、何まで右ても有べきぞ。城々の勢を一に合て、黒丸の城に楯篭られたる尾張守高経を責落さばやと評定有ける処に、先帝崩御の御事を承て、惘然たる事闇夜に灯を失へるが如し。さは有ながら、御遺勅他に異なる宣旨の忝さに、忠義弥心肝に銘じければ、如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をも扶ばやと、御国忌の御中陰の過を遅とぞ相待ける。此両三年越前の城三十余箇所相交て合戦の止日なし。中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落さゞりし城は、義助の若党畑六郎左衛門時能が、纔二十三人にて篭たりし平城也。南帝御即位の初天運図に膺る時なるべし。諸卒同城を出て一所に集り、当国の朝敵を平げ他国に打越べき由を大将義助の方より牒せられければ、七月三日に畑六郎左衛門三百余騎にて湊城を出て、金津・長崎・河合・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所を打落て、首を切事八百余人、女童三歳の嬰児迄のこさず是を差殺す。同五日に、由良越前守光氏、五百余騎にて西方寺の城より出て、和田・江守・波羅密・深町・安居の庄内に、敵の稠く構へたる六箇所の城を二日に攻落し、則御方の勢を入替て六箇所の城を守らしむ。同五日、堀口兵部大輔氏政、五百余騎にて居山の城より出て、香下・鶴沢・穴間・河北、十一箇所の城を五日が中に攻落して、降人千余人を引率し、河合庄へ出合はる。

☆ 後醍醐天皇の遺勅によって綸旨が下されたことと、義助が黒丸城を攻め落としたこと

さて延元四年(暦応二年::1339年)十一月五日、南朝の武将らが相談の上、先帝後醍醐に尊号を贈りました。この先帝はご在位の間、治世の基本政策として延喜(901-923年)の醍醐天皇による親政(天子自ら政治を行う)を目標においていましたので、尤もふさわしいと思える後醍醐天皇と贈り名されました。

新帝、後村上天皇はまだ幼い上、先帝が崩御された場合、天皇を補佐し役人の管理をする者は全員、三年間政治を執らないのが先例なので、世の全てのことは北畠大納言親房の方針の下、洞院左衛門督実世と四条中納言隆資卿の二人を中心に進められました。

同年十二月には、まず最初に北国に控えている脇屋刑部卿義助朝臣のもとに綸旨を下されました。先帝の御遺勅を尊重し、故義貞が行った例に従って、官軍の行うべき恩賞などについて裁定の上、朝廷に申請をするよう宣下されました。その外、

筑紫の西征将軍宮(懐良親王)や遠江国井伊城に居られる妙法院(宗良親王)、また奥州の新国司北畠顕信卿の方にも、先帝の遺勅に従い忠義心あふれる合戦をするよう、綸旨を下されました。先帝崩御のことをまだ知らない義助は、兄の義貞が討たれてから、少ない軍勢ではありますが、

所々の城郭に軍勢を配置し、そう簡単に敵から挟み撃ちに遭うこともないでしょうが、いつまでもこうしては居られません。そこで各城々に分散している軍勢を一つにまとめ、黒丸城に立て篭もっている尾張守斯波高経を攻め落とそうと相談していたところ、

先帝崩御の連絡が入り、ただ呆然とするばかりで、闇夜に灯火を失ったようなものです。しかしながら御遺勅の特別な計らいに感激し、ますます忠義心が奮い立ち、ここは肝に銘じて何とあってもこの一戦に勝利を得て、吉野朝廷に仕えている人々の気持ちを安らげてあげようと、

国としての忌が明ける四十九日の過ぎるのを、今や遅しと待ち受けていました。ここ三年ほどは、越前の城の三十余ヶ所と交戦状態が続いており、合戦が行われない日などありません。その中でも、湊城(三国湊城)と言うのは、北陸道の七ヶ国の軍勢がとうとう攻め落とすことの出来なかった城であり、

脇屋義助に属する若武者、畑六郎左衛門時能がわずか二十三人で立て篭もっている平城です。吉野朝廷において新帝が御即位された今は、天運に恵まれているに違いない。諸兵士らは城を出て一ヶ所に集結し、越前国の朝敵を追討し他国に向かって進軍するよう、大将の義助より命令があり、

延元五年(暦応三年::1340年)七月三日に、畑六郎左衛門時能は三百余騎を率いて湊城を出陣し、金津、長崎、河合、河口などあらゆる場所の敵城十二ヶ所を攻め落とし、首を切った敵兵八百余人に上り、童女や三歳の嬰児に至るまで残らず刺し殺しました。

同じく五日には由良越前守光氏が五百余騎で西方寺の城を出て、和田、江守、波羅密、深町、安居などの庄内に敵が隙間なく構築している六ヶ所の敵城を二日で攻略し、即刻味方の軍勢を城内に入れ、これら六つの城の守備にあてました。また同じ五日に、

堀口兵部大輔氏政は五百余騎を率いて居山の城を出て、香下、鶴沢、穴間、河北などにある十一ヶ所の城を五日間で攻め落とし、降伏した敵兵千余人を率いて河合庄に到着しました。


惣大将脇屋刑部卿義助は、禰津・風間・瓜生・川島・宇都宮・江戸・波多野が勢、三千余騎の将として、国府より三手に分て、織田・々中・荒神峯・安古渡の城十七箇所を三日三夜に攻落して、其城の大将七人虜り士卒五百余人を誅して、河合庄へ打出らる。同十六日四方の官軍一所に相集て、六千余騎三方より黒丸を相挟て未戦。河合孫五郎種経降人に成て畑に属す。其勢を率て、夜半に足羽の乾なる小山の上に打上て、終夜城の四辺を打廻り、時を作り遠矢を射懸て、後陣の大勢集らば、一番に城へ攻入んと勢を見せて待明す。爰に上木平九郎家光は、元は新田左中将の兵にて有しが、近来将軍方に属して、黒丸の城に在けるが、大将尾張守高経の前に来て申けるは、「此城は先年新田殿の攻られしに、不思議の御運に依て打勝せ給しに御習候て、猶子細あらじと思召候はんには、疎なる御計にて候べし。其故は先年此所へ向候し敵共、皆東国西国の兵にて、不知案内に候し間、深田に馬を馳こみ、堀溝に堕入て、遂に名将流矢の鏑に懸り候き。今は御方に候つる者共が多く敵に成て候間、寄手も城の案内は能存知候。其上畑六郎左衛門と申て日本一の大力の剛者、命を此城に向て止んと思定て向候なる。恐くは今時の御方に、誰か是と牛角の合戦をし候べき。後攻もなき平城に名将の小勢にて御篭候て、命を失はせ給はん事、口惜かるべき御計にて候。只今夜の中に加賀国へ引退せ給て、京都の御勢下向の時、力を合せ兵を集て、還て敵を御退治候はんに、何の子細か候べき。」とぞ申ける。細川出羽守・鹿草兵庫助・浅倉・斉藤等に至まで、皆此義に同じければ、尾張守高経、五の城に火を懸て、其光を松明に成て、夜間に加賀国富樫が城へ落給ふ。畑が謀を以て、義助黒丸の城を落してこそ、義貞の討れられたりし会稽の恥をば雪けれ。

総大将の脇屋刑部卿義助は禰津、風間、瓜生、川島、宇都宮、江戸、波多野などの軍勢、三千余騎を率いる将官として、国府より軍勢を三手に分け、織田、田中、荒神峯、安古渡などにある十七ヶ所の城々を三日三晩で攻め落とし、それらの城の大将七人を生け捕りにし、

将兵ら五百余人を討ち取って、河合庄に向かいました。同じく十六日に、四方に散らばっている官軍を一ヶ所に集結し、六千余騎になった軍勢を三手に分けると黒丸城を包囲しましたが、戦闘はまだ勃発していません。当時河合孫五郎種経は官軍に降伏し、畑時能に従属していましたが、

彼は手勢を率いて夜半に足羽の乾(北西)方向にある小山に上って、終夜敵城の周辺を巡回しながら閧の声を挙げたり、遠矢を射掛けたりしながら、後方から多数の軍勢が集まってくれば、一番に城に攻め入る意気込みで夜を待ち明かしました。

ところで上木平九郎家光はもともと新田左中将義貞に属する兵士でしたが、最近は足利将軍に属して黒丸城にいました。その彼が大将である張守斯波高経の前に来て、「この城は先年新田殿が攻城されたのですが、不思議とも思える御運に恵まれたのか勝ちを収めた例に習って、

今回も問題ないだろうとお考えになるのは、少し思慮が足りないと思えます。その訳と言うのは、先年攻城に関わった兵士らは皆、東国や西国の兵士であり、地理に不案内のために深田に馬を駆け入れたり、堀や溝に落ち込んだりして、最後には名将義貞殿も流れ矢に中って落命されました。

しかし今は以前味方だった者どもの多くが敵軍に属しています。だから寄せ手軍は城内の様子を良く知っていると思えます。その上、畑六郎左衛門と言う者は、日本一の大力かつ剛勇の武者であり、命がけでこの城を落とそうと攻撃してくるでしょう。

おそらく現在の味方の中で、一体誰が彼と互角に合戦が出来るのでしょうか。後に続く部隊を持たない平城に、名将が率いているとは言え、小勢で立て篭もって討ち死にをするなど悔しい限りでありませんか。ここは今夜の内に加賀国まで退却し、京都から味方の軍勢が下ってきた時、

連携して兵士を集め、反対に敵を征伐することに、何の問題があると言うのですか」と、申し上げました。この意見に細川出羽守、鹿草兵庫助、浅倉そして斉藤らに至るまで賛成したので、尾張守高経は五つの城に火を掛け、その光を照明にして夜間、加賀国の富樫城に落ちて行きました。

畑六郎左衛門の謀略によって、義助は黒丸城を落城させることになり、兄義貞が討たれた会稽の恥を雪ぐことが出来たのでした。      (終り)

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