21 太平記 巻第二十一  (その二)


○塩冶判官讒死事
北国の宮方頻に起て、尾張守黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外に周章して、助の兵を下さるべしと評定あり。則四方の大将を定て、其国々へ勢をぞ添られける。高上野介師治は、大手の大将として、加賀・能登・越中の勢を率し、加賀国を経て宮の腰より向はる。土岐弾正少弼頼遠は、搦手の大将として、美濃・尾張の勢を率し、穴間・郡上を経て大野郡へ向はる。佐々木三郎判官氏頼は江州の勢を率して、木目岳を打越て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路の大将として、出雲・伯耆の勢を率し兵船三百艘を調へ、三方の寄手の相近付んずる黎、津々浦々より上て敵の後を襲、陣のあはいを隔て、戦を機変の間に致すべしと、合図を堅く定らる。陸地三方の大将已に京を立て、分国の軍勢を催れければ、塩冶も我国へ下て、其用意を致さんとしける最中に、不慮の事出来て、高貞忽に武蔵守師直が為に討れにけり。其宿意何事ぞと尋れば、高貞多年相馴たりける女房を、師直に思懸られて、無謂討れけるぞと聞へし。其比師直ちと違例の事有て、且く出仕をもせで居たりける間、重恩の家人共是を慰めん為に、毎日酒肴を調て、道々の能者共を召集て、其芸能を尽させて、座中の興をぞ促しける。

☆ 塩冶判官が讒言のため命を失ったこと

北国において宮方の蜂起が続き、尾張守高経の守る黒丸城が落とされたと連絡が入ると、京都の陣営の驚きは大きく、救援部隊を派遣すべきと議論が起こりました。そして直ちに軍勢各方面の大将を選定して、諸国の軍勢を振り分けて従わせました。

高上野介師治は大手の大将として、加賀、能登、越中の軍勢を率い、加賀国経由で宮の腰より越前に向かいました。土岐弾正少弼頼遠は搦手の大将として、美濃、尾張の軍勢を率いて穴間、郡上を経由し大野郡に向かいました。また佐々木三郎判官氏頼は江州の勢を率いて、

木ノ芽峠を越えて、敦賀の津より向かいました。塩冶判官高貞は船路の大将として、出雲、伯耆の軍勢を率い、兵船三百艘を調達し、三方よりの寄せ手軍が集結する頃を見計らって、津々浦々より上陸して敵の背後を襲い、各陣営との距離を保ちながら、機に応じた合戦が出来るよう、

互いに合図の確認をしました。陸地を進軍する三方の大将はすでに京都を進発し、各自が自領の軍勢を召集していますので、塩冶判官高貞も自国に戻り軍勢召集の用意を考えていた時、思いも寄らぬ事態が発生し、突然塩冶高貞は高武蔵守師直に討ち取られたのです。

一体何が起こったのか調べてみると、塩冶高貞が長年連れ添ってきた奥方を、師直が横恋慕した挙句、無法にも討ったのだと言われています。その頃、師直に少し事情があって、しばらく出仕もせずにいましたが、長年彼に仕えてきた家来らが、

師直を慰め元気付けようと毎日酒や肴を用意して、その道の達者らを呼び集め、諸芸を競わせ酒宴を盛り上げさせました。


或時月深夜閑て、荻葉を渡風身に入たる心地しける時節、真都と覚都検校と、二人つれ平家を歌けるに、「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺と云怪鳥飛来て夜な/\鳴けるを、源三位頼政勅を承て射て落したりければ、上皇限なく叡感有て、紅の御衣を当座に肩に懸らる。「此勧賞に、官位も闕国も猶充に不足。誠やらん頼政は、藤壷の菖蒲に心を懸て堪ぬ思に臥沈むなる。今夜の勧賞には、此あやめを下さるべし。但し此女を頼政音にのみ聞て、未目には見ざんなれば、同様なる女房をあまた出して、引煩はゞ、あやめも知ぬ恋をする哉と笑んずるぞ。」と仰られて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同様に装束せさせて、中々ほのかなる気色もなく、金沙の羅の中にぞ置れける。さて頼政を清涼殿の孫廂へ召れ、更衣を勅使にて、「今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。其手は緩とも、自ら引て我宿の妻と成。」とぞ仰下されける。頼政勅に随て、清涼殿の大床に手をうち懸て候けるが、何も齢二八計なる女房の、みめ貌絵に書共筆も難及程なるが、金翠の装を餝り、桃顔の媚を含で並居たれば、頼政心弥迷ひ目うつろいて、何を菖蒲と可引心地も無りけり。更衣打笑て、「水のまさらば浅香の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政、五月雨に沢辺の真薦水越て何菖蒲と引ぞ煩ふとぞ読たりける。時に近衛関白殿、余の感に堪かねて、自ら立て菖蒲の前の袖を引、「是こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政にこそ下されけれ。頼政鵺を射て、弓箭の名を揚たるのみならず、一首の歌の御感に依て、年月久恋忍つる菖蒲の前を給つる数奇の程こそ面目なれ。」と、真都三重の甲を上れば、覚一初重の乙に収て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞に、簾中庭上諸共に、声を上てぞ感じける。平家はてゝ後、居残たる若党・遁世者共、「さても頼政が鵺を射たる勧賞に、傾城を給たるは面目なれ共、所領か御引出物かを給りたらんずるには、莫太劣哉。」と申ければ、武蔵守聞もあへず、「御辺達は無下に不当なる事を云物哉。師直はあやめほどの傾城には、国の十箇国計、所領の二三十箇所也とも、かへてこそ給らめ。」とぞ恥しめける。

そんなある時、月も傾き夜も静まって、荻の葉を吹き抜けてくる風が身にしみるように感じられる頃、真都(しんいち)と覚都(かくいち)検校(盲人に与えられる最高の官名)の二人が平家物語を歌っていたのですが、「近衛院(永治元年::1142年-久寿二年::1155年)の御時、

宮中の紫宸殿の屋根の上に、鵺と言う怪鳥が飛んで来て、夜な夜な鳴き声をあげるのを、源三位頼政が勅命を受けて射落としました。この手際の良さに上皇は大変お喜びになり、紅色の御衣を差し当たっての褒章として、頼政の肩に掛けられました。

『この殊勲に報いるには、如何なる官位の下賜であろうと、領主不在地の分与と言えども不十分である。本当なのか知らぬが、最近頼政は藤壺の菖蒲に思いを寄せて恋焦がれているようだ。今夜の功績には、この菖蒲を与えるのが良いだろう。しかし、頼政はこの女を話に聞いているだけで、

実際に見たわけではないので、同じような女性を多数揃えて困らせれば、訳の分らない恋をしたものだと笑うだろう』と仰せられ、後宮三千人とも言う侍女の中から、花がやっかみ月も妬むと言う程の美女を十二人、同じような装束に身を包んで、それほど薄暗くない、

金色のうすぎぬを垂らした内側に控えさせました。それから頼政を清涼殿の孫廂(母屋から出ている廂の外側にある廂)に呼び入れ、更衣(後宮に仕える女官)を勅使にして、『今夜の殊勲に対する褒賞として、浅香の沼(歌枕)のあやめを下さることになりました。

ご面倒かもしれませんが、自ら手を取って連れ帰り、自分の妻にすれば良い』と、仰せられたのです。頼政は帝の指図によって、清涼殿の大床に手をかけておられましたが、歳の頃なら十六ばかりの女性で、絵にも描けないばかりの美しさを、なおも華やかに着飾り、

薄紅色の美しい顔に艶めかしさを含んで並んでいましたから、頼政は心の動揺を抑えることも出来ず、目は宙に浮き、どなたが菖蒲なのか分らず、手を取る気持ちも失せてしまいました。この様子に更衣はお笑いになり、『水かさが増えれば浅香の沼にある菖蒲も、

紛れて分らなくなるのでしょう』と申されますと、頼政は、
      五月雨に 沢辺の真薦 水越えて 何菖蒲と 引くぞ煩ふ (五月雨に沢が増水し、水辺の真薦も菖蒲も水没し、菖蒲だけを引き抜くことは悩ましい)

と、詠まれました。その時近衛関白殿(藤原忠通?)が頼政の歌に感じ入り、耐え切れずに席を立つと、自ら菖蒲の前の袖を引き、『この方こそ貴家の妻女だよ』と言いながら、頼政に下さったのです。頼政は鵺を射ることによって、弓箭に関しての名誉を得ただけでなく、

一首の歌を詠んで帝を感激させ、長年恋焦がれてきた菖蒲の前を賜るという、考えられないような結果もまた名誉なことです」と、真都が三重(琵琶の音の高さ)の甲音をあげたのを、覚都が初重(琵琶の音の高さ)の乙音に収めて歌い終わると、

師直が枕を押しのけ耳をそばだてて聞いていた様子に、部屋の中はもとより庭に控えていた者たちも、声をあげて感動したのです。平家物語が終わってから居残っていた若武者や御隠居らが、「しかし頼政が鵺を射落とした褒章に、絶世の美女を賜ったことは名誉なことに違いないが、

所領かそれなりの物品を頂くことと比べれば、やはり大変な不足とも思える」と話すのを、武蔵守師直は最後まで聞かずに、「汝らは何も知らずに困ったことを言うものだ。この師直だったらあやめほどの美女が手に入るなら、国の十ヶ国ばかりでも、所領の二、三十ヵ所でも交換に応じても良い」と、皆を馬鹿にしました。


かゝる処に、元は公家のなま上達部に仕て、盛なりし御代を見たりし女房、今は時と共に衰て身の寄辺無まゝに、此武蔵守が許へ常に立寄ける侍従と申女房、垣越に聞て、後の障子を引あけて無限打笑て、「あな善悪無の御心あて候や。事の様を推量候に、昔の菖蒲の前は、さまで美人にては無りけるとこそ覚て候へ。楊貴妃は、一笑ば六宮に顔色無と申候。縦千人万人の女房を双べ居へて置れたり共、あやめの前誠に世に勝れたらば、頼政是を引かね候べしや。是程の女房にだに、国の十箇国計をばかへても何か惜からんと仰候はゞ、先帝の御外戚早田宮の御女、弘徽殿の西の台なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土・天竺にもかへさせ給はんずるや。此御方は、よく世に類なきみめ貌にて御渡りありと思食知候へ。いつぞや雲の上人、花待かねし春の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞の美夫人、九嬪更衣達を、花の譬にせられ候しに、桐壷の御事は、あてやかにうちあらはれたる御気色を奉見たる事なければ、譬て申さんもあやなかるべけれ共、雲井の外目も異なれば、明やらぬ外山の花にやと可申。梨壷の御事は、いつも臥沈み給へる御気色物がなしく、烽の昔も理にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心も空に知れしかば、「玉顔寂寞として涙欄干たり。」と喩ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様なるべし。或は月もうつろふ本あらの小萩、波も色ある井出の山吹、或は遍照僧正の、「我落にきと人に語るな。」と戯し嵯峨野の秋の女郎花、光源氏大将の、「白くさけるは。」と名を問し、黄昏時の夕顔の花、見るに思の牡丹、色々様々の花共を取々に譬られしに、梅は匂ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香もなし。柳は風を留る緑の糸、露の玉ぬく枝異なれ共、匂もなく花もなし。梅が香を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌には譬へめとて、遂に花のたとへの数にも入せ給はざりし上は、申も中々疎なる事にてこそ。」と云戯て、障子を引立て内へ入んとするを、師直目もなく打笑て、「暫し。」と袖をひかへて、「其宮はいづくに御座候ぞ。御年は何程に成せ給ふぞ。」と問けるに、侍従立留て、「近比は田舎人の妻と成せ給ぬれば、御貌も雲の上の昔には替り給、御年も盛り過させ給ぬらんと、思やり進て有しに、一日物詣の帰さに参て奉見しが、古の春待遠に有し若木の花よりも猶色深く匂ひ有て、在明の月の隈なく指入たるに、南向の御簾を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂、芙蓉の眸、丹花の脣る、何なる笙の岩屋の聖なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚てこそ候しか。うらめしの結の神の御計にや。いかなる女院、御息所とも奉見か、さらずば今程天下の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔の鳩の鳴く様にて、御副臥もさこそこは/\しく鄙閑たるらんと覚る出雲の塩冶判官に、先帝より下されて、賎き田舎の御棲にのみ、御身を捨はてさせ給ぬれば、只王昭君が胡国の夷に嫁しけるもかくこそと覚て、奉見も悲くこそ侍りつれ。」とぞ語ける。

この様子に昔、未熟な若公卿らに仕えて、栄華に酔った全盛時代を見てきた女性で、時代と共に今は以前ほどの勢いを失い、身を寄せる場所も無いままに、この武蔵守のもとに良く立ち寄っている侍従と言う女房が、この話を垣根越しに聞き、

後ろの障子を開くと笑い転げ、「まぁ、何か大きな間違いをされているようです。話の内容を想像して言えば、昔の菖蒲の前は、それほどの美人では無かったと覚えていますが。昔、中国の楊貴妃は一度笑うと後宮の女性らは、その美しさに圧倒されたと言います。

たとえ一千万人の女性を居並べていたとしても、菖蒲の前が本当にこの世に二人と居ない美しさであれば、何故頼政は手を引こうとしなかったのでしょうか。この程度の女性であっても、国の十ヶ国と交換しても何も惜しくないと仰るならば、

先帝後醍醐の外戚である早田宮(さわだのみや::後嵯峨天皇の孫、真覚)の娘、弘徽殿の西の台などをご覧になれば、日本国はもとより中国や印度でも交換に応じるでしょう。それほどこのお方は世にも絶えなる美しい方とお考えください。いつのことでしたか、

殿上人たちが春の日に花の咲くのを待ちかねて、退屈しのぎに宮中や仙洞御所の美しい夫人や九嬪(後宮に仕える女官の一つ)、女官らを花にたとえていましたが、桐壷の君については、いつもあでやかなご様子を見せておられ、たとえて申し上げるのも失礼とは思いますが、

宮中の人たちの見る目も違うでしょうから、ここは未だ明け切れない人里近くの山に咲く花とでも申し上げましょう。梨壷の君はいつも静かで、控えめなところが物悲しく思え、烽火三月に連なる昔の出来事も、当然の結果かなと思われている帝のお気持ちも察しておられ、

『玉顔寂寞として涙欄干たり(長恨歌::美しい顔は寂しげで、悲しみに涙も流れ止まない)』とたとえた、雨の中で濡れている梨の花そっくりの梨壷の君でとでも言いましょうか。もしくは藤原良経が、故郷の本あら(雑然と咲いている様子?)の小萩と詠んだ、庭にさす月の光の中の小萩にたとえるが良いのか、

また小野小町が詠んだ、井出の渡りの山吹の花にたとえたり、ある人は遍照僧正の、『我落にきと人に語るな』とふざけて折った、嵯峨野の秋の女郎花にたとえ、また光源氏大将が、『白く咲けるは』と側近に尋ねて、夕顔ですとの答えに一房折らせた、たそがれ時の夕顔の花に、

また賀茂重保(平安末期の歌人)が、『人知れず思ふこころは深見草』と詠んだ、牡丹(ふかみぐさ)など、色々様々な花に人それぞれがたとえられたのですが、梅は香りが強いけれども、その枝はしとやかさや上品さに欠けますし、桜はその花こそ素晴らしいけれど香りが有りません。

また柳は風を受け止める緑の糸のようであり、露の玉を貫くように見える枝もまた素晴らしいけれど、匂いも無ければ花もありません。梅の香りを桜の花に移して、柳の枝に咲かせられたなら、間違いなく彼女の容貌にふさわしいたとえになるでしょうと、とうとう花にたとえることが出来なかった以上、

これ以上話しても無駄ですね」と、冗談を言いながら障子を開き、部屋の中に入り閉めようとするのを、師直は目を細めて笑いながら、「ちょっとお待ちください」と、袖をつかんで引き止め、「その宮は何処に居られるのですか。お年はいくつになられたのでしょうか」と尋ねると、

侍従は立ち止まり、「最近、洛外にお住みになっておられる方の奥方になられましたので、容貌も宮中に居られた頃とはお変わりになり、また御年も盛りを過ぎていることと想像しておりました。ところがある日、寺社参詣の帰りがけにお寄りして、お目にかかってきましたが、

昔、春を待ち望んでいた頃の若木に咲いた花よりも、今はさらに色も深くなり趣もあって、有明の月が部屋一杯にさし込むところで、南向きの御簾を高く捲き上げて、琵琶をかき鳴らされていましたが、その時ハラハラとこぼれた鬢のはしより、チラッと見えた眉の雰囲気や、

美しくさわやかな目許、赤い花を思わせる唇など、大峰山系大普賢岳にある笙の岩屋で修行を重ねた聖であろうとも、心に迷いが生じるのではないかと、不思議な感じを覚えたのでございます。恨みに思えますが、縁結びの神による残念な結果なのでしょうか。

本来なら帝にお仕えする女院か、また親王の御息所ともなられるか、それでなければ、時の天下を支配する権力者の妻となることもなく、土鳩の鳴くような声を持ち、添い寝をするのものも何か恐ろしく、ひなびて寂しい国と思える出雲の塩冶判官高貞に、先帝である後醍醐より下げ渡されて、

貧しい田舎の住居に我が身を置いていることは、ただ中国の四大美人(楊貴妃、西施、貂蝉、王昭君)とも言われる王昭君が、異民族国家、匈奴の未開人に嫁いだことを思い出さされ、お会いするのも悲しく思えたのです」と、語られました。


武蔵守いとゞうれしげに聞竭して、「御物語の余りに面白く覚るに、先引出物申さん。」とて、色ある小袖十重に、沈の枕を取副て、侍従の局が前にぞ置れたる。侍従俄に徳付たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物やと思て、立かねたるに、武蔵守近く居寄て、「詮なき御物語故に、師直が違例はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病の付たる身に成て候ぞや。さりとては平に憑申候はん。此女房何にもして我に御媒候てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望に随て可進。」とぞ語ける。侍従の局は、思寄ぬ事哉。只独のみをはする人にてもなし。何としてかく共申出べきぞと思ながら、事の外に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失れ、思の外の目にもや合んずらんと恐しければ、「申てこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守が許より様々の酒肴なんど送り、「御左右遅。」とぞ責たりける。侍従は辞するに言無して、彼女房の方に行向ひ、忍やかに、「かやうの事は申出に付て、心の程も推量られ進せぬべければ、聞しばかりにてさて有べき事なれ共、かゝる事の侍るをば如何が御計候べき。露計のかごとに人の心をも慰られば、公達の御為に行末たのもしく、又憑方なき我等迄も立よる方無ては候はじ。さのみ度重ならばこそ、安濃が浦に引綱の、人目に余る憚も候はめ。篠の小ざゝの一節も、露かゝる事有共、誰か思寄り候べき。」と、様々書くどき聞ゆれ共、北の台は、「事の外なる事哉。」と計り打わびて、少も云寄べき言葉もなし。さても錦木の千束を重し、夷心の奥をも憐と思しる事もやと、日毎に経廻て、「我にうきめを見せ、深き淵河に沈ませて、憐と計後の御情はあり共、よしや何かせん。只日比参仕へし故宮の御名残と思召ん甲斐には、責て一言の御返事をなり共承候へ。」と、兎角云恨ければ、北台もはや気色打しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞へそ。哀なる方に心引れば、高志浜のあだ浪に、うき名の立事もこそあれ。」と、かこち顔也。侍従帰て角こそと語りければ、武蔵守いと心を空に成て、度重らばなさけによはることもこそあれ、文をやりてみばやとて、兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て、紅葉重の薄様の、取手もくゆる計にこがれたるに、言を尽してぞ聞へける。返事遅しと待処に、使帰り来て、「御文をば手に取ながら、あけてだに見給はず、庭に捨られたるを、人目にかけじと懐に入帰り参て候ぬる。」と語りければ、師直大に気を損じて、「いや/\、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず。」とぞ忿ける。

武蔵守は大変喜びながら聞き終わると、「貴女のお話が非常に面白かったので、とりあえず何か贈り物でも差し上げましょう」と言って、色物の小袖十重ねに沈の枕(意味不明)を添えて、侍従の局の前に置きました。侍従は突然の出来事に、人徳がついたかのような気もしながら、

普通とは思えないこの引き出物に、その場を立ちかねていると武蔵守が近くに寄ってきて、「どうでも良いような無駄話を聞いたからか、師直の病はすぐに治る気もするが、またとんでもない病が我が身に取り付いたようだ。そこでだ、一つ真剣に頼みたいことがある。

それは、その女性を何とかこの私のために仲立ちをしてほしいのだ。もしこの願いが実現できれば、所領でも、我が家にある財物何なりとも所望に任せるが」と、話されました。侍従の局にとっては、思ってもいない展開になったのです。

と言ってもその女性(塩冶判官の妻、顔世御前)は独身ではありません。一体どのようにこの話を切り出せば良いのかと思えば思うほど、ことの難しさが感じられるのですが、かと言って、この依頼を辞退したいと言い出せば、命を取られることになるのか、

それともとんでもない辛い目に遭わされるのかと恐ろしくなり、「お話してみましょう」と言って、とりあえず帰りました。二、三日はどうすれば良いのだろうか、こう話してみようかと考えていましたが、普段とは違って武蔵守のもとより、色々な酒肴品が送りつけられ、

「遅いではないか、どうなっているのだ」と、きつく責め立ててきます。侍従はもう頼みを断ることも出来ず、その女房のところに行くと声を潜めるようにして、「このようなことを申し上げると、人間性を疑われるかもしれませんが、とりあえずお聞きください。

本来なら聞き流すべきことかも知れませんが、このようなことが有るのです。一体どのように事を運べば良いでしょうか。口実などはどうであっても、人の気持ちを慰めることが出来れば、お子様の将来にも何かと頼りになり、また私らのように頼る人のいない者にとっても、

身を寄せることの出来る方は必要でしょう。それも度重なれば人に知られてしまうかも知れませんが、篠竹の一節に露の降りることがあっても、誰がそれを知るというのでしょう」と、あれこれ繰り返し話しました。しかし奥方は、「とんでもない話です」と言って、

迷惑そうにするばかりで、少しも話を続けられそうにありません。思いがかなうとか言われている錦木を千束も重ねれば、情緒を理解出来ないような私の心の奥を、少しでも哀れんでくれるかと、毎日のように立ち寄り、「私を辛い目にあわせた上、深い川の淵に沈ませておきながら、

哀れな人だったと同情などされても仕方ありません。ただ昔、ご一緒に亡き宮様にお仕えしていたと言うご縁もお考えになられ、せめて一言のご返事でもお聞かせください」と、恨み言一杯に話されるので、奥方も何をどうすれば良いのか、

落ち込むばかりで、「ちょっと待ってください。そのような悲しいことなど、言わないでください。そのように思いつめた可哀そうな方に心が引かれれば、噂に高い高志の浜に寄せてはすぐに引くような浮気な波を相手に、辛い評判が立つことになるでしょう」と、恨みがましい顔になりました。

やむなく侍従は引き返し事情を話しますと、武蔵守高師直は心ここにあらずとも思えるようになったものの、しつこく何度も申し入れれば、情にほだされるということも有り得るかと、手紙を送ってみようと考え、吉田兼好と言う文字の上手な世捨て人を呼び寄せ、

紅葉襲の色目をした薄紙を、手にすれば移るかと思えるほど強く香を焚き染め、言葉を尽くして書き送ったと言うことです。今か今かと返事を待っているところに使者が帰ってきて、「お手紙を手にはしましたが開こうとはせず、庭に捨てられたので、他人の目に触れてはいけないと思い、

懐に入れて持ち帰ってきました」と話されたので、師直は大いに気分を害し、「本当にしょうがないなぁ。物の役に立たないのは、文字の上手な奴なのか。今日より以降、その兼好法師などここに寄り付かすな」と、激怒しました。


かゝる処に薬師寺次郎左衛門公義、所用の事有て、ふと差出たり。師直傍へ招て、「爰に文をやれ共取ても見ず、けしからぬ程に気色つれなき女房の有けるをばいかゞすべき。」と打笑ければ、公義、「人皆岩木ならねば、何なる女房も慕に靡ぬ者や候べき。今一度御文を遣されて御覧候へ。」とて、師直に代て文を書けるが、中々言はなくて、返すさへ手やふれけんと思にぞ我文ながら打も置れず押返して、媒此文を持て行たるに、女房いかゞ思けん、歌を見て顔打あかめ、袖に入て立けるを、媒さては便りあしからずと、袖を引へて、「さて御返事はいかに。」と申ければ、「重が上の小夜衣。」と計云捨て、内へ紛入ぬ。暫くあれば、使急帰て、「かくこそ候つれ。」と語に、師直うれしげに打案じて、軈薬師寺を呼寄せ、「此女房の返事に、「重が上の小夜衣と云捨て立れける。」と媒の申は、衣小袖を調て送れとにや。其事ならば何なる装束なりともしたてんずるにいと安かるべし。是は何と云心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是はさやうの心にては候はず、新古今の十戒の歌に、さなきだに重が上の小夜衣我妻ならぬ妻な重そと云歌の心を以て、人目計を憚候物ぞとこそ覚て候へ。」と、哥の心を尺しければ、師直大に悦て、「嗚呼御辺は弓箭の道のみならず、歌道にさへ無双の達者也けり。いで引出物せん。」とて、金作の団鞘の太刀一振、手づから取出して、薬師寺にこそ引れけれ。兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時に地を易たり。師直此返事を聞しより、いつとなく侍従を呼て、「君の御大事に逢てこそ捨んと思つる命を、詮なき人の妻故に、空く成んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必侍従殿をつれ進て、死出の山三途の河をば越んずるぞ。」と、或時は目を瞋て云ひをどし、或時は又顔を低て云恨ける程に、侍従局もはや持あつかいて、さらば師直に此女房の湯より上て、只顔ならんを見せてうとませばやと思て、「暫く御待候へ。見ぬも非ず、見もせぬ御心あては、申をも人の憑ぬ事にて候へば、よそながら先其様を見せ進せ候はん。」とぞ慰めける。師直聞之より独ゑみして、今日か明日かと待居たる処に、北台の方に中居する女童に、兼て約束したりければ、侍従局の方へ来て、「今夜このあれの御留主にて、御台は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告たりける。侍従右と師直に申せば、頓て侍従をしるべにて、塩冶が館へ忍び入ぬ。二間なる所に、身を側めて、垣の隙より闖へば、只今此女房湯より上りけりと覚て、紅梅の色ことなるに、氷の如なる練貫の小袖の、しほ/\とあるをかい取て、ぬれ髪の行ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚だきの煙匂計に残て、其人は何くにか有るらんと、心たど/\しく成ぬれば、巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疎なる心ちして、師直物の怪の付たる様に、わな/\と振ひ居たり。

そんな折、薬師寺次郎左衛門公義が所用のためひょっこり現れました。師直は傍に招き寄せ、「実は手紙を送っても手に取って読もうともしない、我慢ならないほど愛想の悪い女性がいるのだが、どうしてくれよう」と苦笑したので、公義は「人である以上、岩や木でもあるまいし、

いかなる女性であっても言い寄られて、それに応えない者などいないはずです。もう一度お手紙を送ってみられたらどうですか」と言って、師直に代わって手紙を書きましたが、中途半端な言葉など書かず、

      返すさへ 手やふれけんと 思ふにぞ 我文ながら うちも置かれず(私の手紙は付き返されたけど、貴女が触れた手紙なので大事にしよう)

と、詠んで再度送り付けました。仲立ちを務める者が持って行くと、女性は何を思ったのか、この歌を読むと顔を赤くし、袖にしまいこんでその場を立とうとしました。使いの者はこの応対に脈を感じ、袖を取って引きとめ、「ところで、ご返事はいかがでしょうか」と申し上げると、

「重が上の小夜衣」と言い捨てると、部屋の中に入ってしまわれました。しばらくして使いの者は急いで引き返し、「このようなご返事でした」と話すと、師直は嬉しそうに真意をはかりながら、すぐに薬師寺を呼び寄せ、「この女性の返事にある、『重が上の小夜衣と云捨て立れける』と、使いの者が言うのは、

衣小袖を整えて送ってほしいと言うことか。もしそうであるなら、どんな衣装でも仕立てて送ることなどたやすいことだが。実際この意味は何なのだ」と、問われました。公義は、「いや、そうではないでしょう。新古今和歌集の中にある十戒の歌に、

寂蓮の歌で、『さなきだに 重きが上の 小夜衣 わが褄ならぬ 褄な重ねそ(それでなくても夜着は重いのに、人のものまで重ねるものではない)』を引用して、人の目を気にしているのだと思います」と、歌の真意を解きました。師直は大変お喜びになり、「何と貴殿は弓箭の道だけではなく、

歌の道にも大変造詣が深いのだな。よし褒美を取らせよう」と言って、黄金作りの丸鞘の太刀一振りを自ら取り出して、薬師寺に手渡しました。吉田兼好の不運と公義の幸運は、栄枯を一瞬に逆転したようなものです。師直はこの返事を聞いてからと言うものは、

しょっちゅう侍従を傍に呼び、「天皇の重大事に際してこそ命を捨てても良いと思っていたが、どうでも良いような他人の妻のため、命を落とすとは悲しい限りである。もうこれまでと言う時には必ず侍従殿をお連れし、死出の山(冥土にあるという険しい山)や三途の川を越えようぞ」と、

ある時は目に怒りを含ませて脅かしたり、またある時は顔を低く下げて恨みたらしく話すので、侍従の局はいささか持て余し、こうなれば師直にこの奥方の湯上りで、化粧なしの素顔を見せて幻滅を感じさせようと考え、「少しお待ちください。まだ見たこともないのに、

あてずっぽうの想像ばかりしていては、何を言っても始まりませんので、離れたところからでも彼女の姿をお見せいたしましょう」と、宥めました。この提案を聞いてから、師直はひとりで笑みを漏らしながら、今日か明日かと待っていたところ、その奥方の家にお仕えしている少女が、

前もって約束していた通り、侍従の局のもとにやって来て、「今夜はご主人がお留守なので、奥方は入浴のためお湯の用意をさせるでしょう」と、連絡してきました。侍従がこのことを師直に話すと、早速、侍従の局を案内に立たせて、塩冶の屋敷に忍び込みました。

柱と柱の間が二つになった部屋に身を隠すようにして、垣根の隙間から覗いてみると、今まさに奥方が湯殿から上がられたばかりと思われ、紅梅の色と見紛うばかりの肌に、氷のように白い練貫(ねりぬき::絹織物の一種)の柔らかそうな小袖を取り寄せ羽織ました。

濡れた髪が長く垂れ下がり、袖の下に焚き込められた香の匂いばかりがあたりを覆い、そのお方が何処に居られるのかと、心ここにあらずの心地して、
      巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疎なり
(朗詠集::白居易::巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の中、緑の糸を垂れている)

と朗詠する気分におちいり、師直は何か物の怪にでも取り付かれたように、わなわなと震えていたのです。


さのみ程へば、主の帰る事もこそとあやなくて、侍従師直が袖を引て、半蔀の外迄出たれば、師直縁の上に平伏て、何に引立れ共起上らず。あやしや此侭にて絶や入んずらんと覚て、兎角して帰したれば、今は混ら恋の病に臥沈み、物狂しき事をのみ、寐ても寤ても云なんど聞へければ、侍従いかなる目にか合んずらんと恐しく覚て、其行え知べき人もなき片田舎へ逃下にけり。此より後は指南する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様有と案出して、塩冶隠謀の企有由を様々に讒を運し、将軍・左兵衛督にぞ申ける。塩冶此事を聞ければ、とても遁るまじき我命也。さらば本国に逃下て旗を挙、一旗を促て、師直が為に命を捨んとぞたくみける。高貞三月二十七日の暁、弐ろ有まじき若党三十余人、狩装束に出立せ、小鷹手毎にすへて、蓮台野・西山辺へ懸狩の為に出る様に見せて、寺戸より山崎へ引違、播磨路よりぞ落行ける。身に近き郎等二十余人をば、女房子共に付て、物詣する人の体に見せて、半時計引別れ、丹波路よりぞ落しける。此比人の心、子は親に敵し、弟は兄を失はんとする習なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門、急武蔵守が許へ行て、高貞が企の様有の侭にぞ告たりける。師直聞之、此事長僉儀して、此女房取はづしつる事の安からずさよと思ければ、急将軍へ参て、「高貞が隠謀の事、さしも急に御沙汰候へと申候つるを聞召候はで、此暁西国を指て逃下候けんなる。若出雲・伯耆に下著して、一族を促て城に楯篭る程ならば、ゆゝしき御大事にて有べう候也。」と申ければ、「げにも。」と驚騒れて誰をか追手に下すべきとて、其器用をぞ撰れける。当座に有ける人々、我をや追手にさゝれんと、かたづを飲で、機を攻たる気色を見給て、此者共が中には、高貞を追攻て討べき者なしと思はれければ、山名伊豆守時氏と、桃井播磨守直常・太平出雲守とを喚び寄て、「高貞只今西国を指て逃下り候なる。いづく迄も追攻て打留られ候へ。」と宣ければ、両人共に一儀にも及ず、畏て領状す。時氏はかゝる事共知ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯し勢を率せば、時剋遷て追つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守が若党にきせたりける物具取て肩に打懸、馬の上にて高紐かけ、門前より懸足を出して、父子主従七騎、播磨路にかゝり、揉にもみてぞ追たりける。直常も太平も宿所へは帰ず、中間を一人帰して、「乗替の馬物具をば路へ追付けよ。」と下知して、丹波路を追てぞ下りける。

いつまでもこうしていると、主人の帰ってくることも恐れられ、侍従の局は師直の袖を引き、半蔀(戸の一種::上下に分かれた戸、上部は外側に吊り下げ、下部ははめ込み)の外まで出てくると、師直は縁の上に伏せてしまい、いくら引き起こそうとしても起き上がりません。

このまま死んでしまうのかと恐ろしくなり、侍従は何とか家に帰らせましたが、今度はただただ恋の病におちいって、気の狂ったように寝ても覚めても、何か叫び散らしているらしいと聞き、侍従はこれではどんな目に遭わされるかも知れないと恐ろしくなり、

誰にも知らせず片田舎に逃げ落ち行方をくらましました。これ以降は師直には相談出来る人もなく、どうすれば良いのか嘆いていましたが、やがて一計を案じて、塩冶判官が陰謀を企てているとか、何やかやと尊氏将軍や左兵衛督直義に讒言しました。

塩冶はこの話を聞き、とても自分の命が助かる見込みはないと判断し、それなら本国に逃げ帰って反旗を挙げ、兵を募って師直を相手に、命を捨てる覚悟の一戦を企てました。塩冶高貞は暦応四年(興国二年::1341年)三月二十七日の明け方、

忠義心に間違いのない若党ら三十余人に狩り装束をさせ、各自手には鷹を止まらせて、蓮台野、また西山周辺に鷹狩りに出掛けるように見せて、寺戸(向日市)より山崎へ向きを変え、そのまま播磨路(西国街道)経由で落ちて行きました。近親の家来ら二十余人を女房子供らに付き添わせ、

神社仏閣に参詣する人のようにして、一時間ほど経ってから別れると、丹波路経由で落としました。最近は人の心も大きく変化し、子は親に敵対し、弟は兄を殺害するような風潮なので、塩冶判官の舎弟、四郎左衛門は急いで武蔵守師直のところに行き、

高貞の計画を有りのまま話しました。これを聞いた師直はこの件について、長時間会議を行い、判官の女房を略奪することの難しさを感じ、急いで尊氏将軍のもとに行き、「高貞が謀反の計画をしているので、早急に手を打つようにと申し上げたのにかかわらず、

お聞き入れされなかったため、今日の明け方西国に向かって逃げ落ちて行きました。もし出雲や伯耆の国に到着し、一族に呼びかけて城に立て篭もるてなことになれば、これはまた一大事になります」と申し上げると、将軍は、「もっともだ」と驚くと共に慌てられ、

誰かを追っ手として派遣すべく人選を始めました。この時幕内にいた人々は、自分が追っ手に指名されるのではないかと気が気でなく、固唾を呑んで見守っている状況に、これではとてもこの連中に高貞の追っ手を務め、彼を討ち取ることなど出来そうにないと思われました。

そこで山名伊豆守時氏と共に、桃井播磨守直常、太平出雲守らを呼び寄せ、「高貞が現在、西国に向かって逃亡中である。何処までも追いかけて討ち取ってしまうように」と仰せられ、両人は何ら異議を申し出ることなく了承しました。時氏は用件について知らされていなかったので、

普段通りの出仕装束で来ていましたが、今から宿所に帰って武具を身に付け、軍勢を率いて出発をすれば、時間が経ちすぎて追い付くことなど、不可能ではないかと考え、武蔵守の若党が身に付けていた甲冑を受け取って肩にかけ、馬上で高紐(鎧の胴を肩でつなぐ紐)を結び、

門前から馬を早駆けさせて、父子、主従七騎が播磨路に入ると、激しく馬をせめ立てて追撃しました。直常も太平も宿所には帰らず、中間一人を帰らせ、「乗り換えの馬や甲冑は、途上で追い付くように」と命令し、丹波路を下って追撃にかかりました。


道に行合人に、「怪げなる人や通りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎が程、女房をば輿にのせて急がはしげに通りつる。其合は二三里は過候ぬらん。」とぞ答へける。「さては幾程も延じ。をくれ馳の勢共を待つれん。」とて、其夜は波々伯部の宿に暫く逗留し給へば、子息左衛門佐・小林民部丞・同左京亮以下侍共、取物も取あへず、二百五十余騎、落人の跡を問々、夜昼の境もなく追懸たり。塩冶が若党共も、追手定て今は懸るらん。一足もと急けれ共、女性・少人を具足したれば、兎角のしつらいに滞て、播磨の陰山にては早追付れにけり。塩冶が郎等共、今は落得じと思ければ、輿をば道の傍なる小家に舁入させて、向敵に立向、をしはだぬぎ散々に射る。追手の兵共、物具したる者は少かりければ、懸寄ては射落し、抜てかゝれば射すへられて矢場に死せる者十一人、手負者は数を知ず。右ても追手は次第に勢重る。矢種も已に尽ければ、先女性をさなき子共を差殺して、腹を切らんとて家の内へ走り入て見ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜の泪に沈んで、さらず共我と消ぬと見ゆる気色なるが、膝の傍に二人の子をかき寄て、是や何にせんと、あきれ迷へる有様を見るに、さしも武く勇める者共なれ共、落る泪に目も暮て、只惘然としてぞ居たりける。去程に追手の兵共、ま近く取巻て、「此事の起りは何事ぞ。縦塩冶判官を討たり共、其女房をとり奉らでは、執事の御所存に叶べからず。相構て其旨を存知せよ。」と下知しけるを聞て、八幡六郎は、判官が次男の三歳に成が、母に懐き付たるをかき懐て、あたりなる辻堂に修行者の有けるに、「此少人、汝が弟子にして、出雲へ下し進て、御命を助進せよ。必ず所領一所の主になすべし。」と云て、小袖一重副てぞとらせける。修行者かい/゛\しく請取て、「子細候はじ。」と申ければ、八幡六郎無限悦て、元の小家に立帰り、「我は矢種の有ん程は、防矢射んずるぞ。御辺達は内へ参て、女性少なき人を差殺し進て、家に火を懸て腹を切れ。」と申ければ、塩冶が一族に山城守宗村と申ける者内へ走り入、持たる太刀を取直して、雪よりも清く花よりも妙なる女房の、胸の下をきつさきに、紅の血を淋き、つと突とをせば、あつと云声幽に聞へて、薄衣の下に臥給ふ。五になる少人、太刀の影に驚て、わつと泣て、「母御なう。」とて、空き人に取付たるを、山城守心強かき懐き、太刀の柄を垣にあて、諸共に鐔本迄貫れて、抱付てぞ死にける。自余の輩二十二人、「今は心安し。」と悦て、髪を乱し大裸に成て、敵近付ば走懸々々火を散してぞ切合たる。

途中行き会った人に、「怪しい人間が通らなかったか」と、質問すると、「小さな鷹を何羽か止まらせた殿方ら十四、五騎ほどが、女性を輿に乗せて大急ぎで通っていきました。その人たちとの距離は二、三里を超えないでしょう」と、答えが返ってきました。

「そうすると、それほど遅れている訳ではない。後から駆けて来る軍勢を待つことにするか」と言って、その夜は波々伯部(ほほかべ::篠山市)の宿にしばらく駐留しましたが、子息の左衛門佐と小林民部丞、同じく左京亮以下の武士ら二百五十余騎が、取るものも取りあえず、

落人の逃げた道を周囲に問い合わせながら、夜昼の区別なく追跡しました。一方、塩冶判官に仕える若侍たちも、敵は間違いなく追っ手を向かわせているだろう。少しでも遠くにと急いではいるものの、女性や子供らを引き連れていますので、何やかやの所用のため遅れがちになり、

播磨国、陰山にて早くも追いつかれました。塩冶の家来らは今はもう逃げ落ちることは出来ないと考え、輿を路傍の民家に運び込み、向かってくる敵を狙って、上半身肌脱ぎになり激しく射込みました。追っ手の兵士らには甲冑を身に着けた者が少ないので、駆け寄って行っては射落とし、

太刀を抜き接近戦を挑む者は射殺され、この戦場で命を落とした者は十一人、負傷者はその数も分らないほどです。しかし追っ手はその軍勢が次第に増えてきますし、迎え撃つ塩冶側はすでに矢も射尽くしてしまったので、まず女性や幼い子供を刺し殺してから、腹を切ろうではないかと、

家の中に走り込みました。中ではあでやかではありますが、何する気力も失い寂しそうにした女房が、終夜の祈りに流した涙に静まり返り、何をせずとも自ら命を絶つような様子です。しかし、膝の周りに二人の子供をかき寄せ、一体何をなさろうとしているのですかと、

あっけに取られうろたえる様子を見て、さすが武勇には劣らない者どもですが、落ちる涙に目の前もはっきりせず、ただ呆然とするばかりです。やがて追っ手の兵士らが近くまで来て取り巻き、「この事態の発端は何であったのか。たとえ塩冶判官を討ち取ったとしても、

その女房の身柄を確保しなければ、師直執事の望みは果たせないのだ。このことよくよく心に刻んでおけ」と命令をするのを聞いて、塩冶高貞の家臣、八幡六郎は判官の三歳になる次男が、母に抱き付いているのを抱き取り、近くの辻堂にいた修行者に、「この子供を汝の弟子にして出雲に下り、

お命を助けてやってください。必ずや貴僧には、どこか所領一つの主になってもらいましょう」と言って、小袖一着を添えて頼み込みました。修行者は全てを理解したかのように受け取り、「何もご心配に及びません」と、返事したのです。

八幡六郎は大変喜び安心して元の小屋に帰り、「私は矢の尽きるまで敵に防ぎ矢を射続けるから、貴殿らは小屋の中に入り、女性や幼い子供を刺し殺し、家に火を放ってから腹を切るように」と話されましたので、塩冶の一族である山城守宗村と言う武士が小屋内に走り込み、

手にした太刀を持ち直すと、雪よりも清らかで、花をも凌ぐ美しい奥方の、胸の下あたりに当てた切っ先を一気に突き通せば、紅の血潮が流れる中、小さくアッと言う声と共に、薄衣の上に伏せられたのでした。五歳になる子供は太刀の光に驚いて、ワッと泣き出し、「お母様」と言いながら、

すでに絶え果てた母親に取りすがるのを、山城守は心を鬼にして無理やり抱き取ると、太刀の柄を垣に当て、そのまま一緒になって鍔の根元まで貫き、抱きついたまま死んだのです。他の家来ら二十二人は、「今はもう心配することはない」と喜び、髪をザンバラに乱し、もろ肌脱ぎになりました。

そして敵が近づいて来たので、敵中に走り込み、また走り入って激しく斬り合いました。


とても遁まじき命也。さのみ罪を造ては何かせんとは思ながら、爰にて敵を暫も支たらば、判官少も落延る事もやと、「塩冶爰にあり、高貞此にあり。頚取て師直に見せぬか。」と、名乗懸々々々二時計ぞ戦たる。今は矢種も射尽しぬ、切疵負はぬ者も無りければ、家の戸口に火を懸て、猛火の中[に]走り入、二十二人の者共は、思々に腹切て、焼こがれてぞ失にける。焼はてゝ後、一堆の灰を払のけて是を見れば、女房は焼野の雉の雛を翅にかくして、焼死たる如にて、未胎内にある子、刃のさき[に]懸られながら、半は腹より出て血と灰とに塗たり。又腹かき切て多く重り臥たる死人の下、少き子を抱て一つ太刀に貫れたる、是ぞ何様塩冶判官にてぞあるらん。され共焼損じたる首なれば取て帰るに及ばずとて、桃井も太平も、是より京へぞ帰り上りける。さて山陽道を追て下りける山名伊豆守が若党共、山崎財寺の前を打過ける処に跡より、「執事の御文にて候、暫く御逗留候へ。可申事有。」とぞ呼りける。何事やらんとて馬を引へたれば、此者三町計隔りて、「余りにつよく走て候程に、息絶てそれまでも参り得ず候。此方へ打帰せ給へ。」山名我身は馬より下、若党を四五騎帰して、「何事ぞ。あれ聞、急馳帰れ。」とぞ下知しける。五騎の兵共誠ぞと心得て、使の前にて馬より飛をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此者莞爾と打笑、「誠には執事の使にては候はず。是は塩冶殿の御内の者にて候が、判官殿の落られ候けるを知候はで伴をば不仕候。此にて主の御為に命を捨て、冥途にて此様を語り申べきにて候。」と云もあへず抜合、時移る迄ぞ切合ける。三人に手負せ我身も二太刀切れければ、是迄とや思けん、塩冶が郎等は腹かき破て死にけり。「此者に出しぬかれ時剋移りければ、落人は遥に延ぬらん。」とて、弥馬を早め追懸ける。京より湊河までは十八里の道を二時計に打て、「余りに馬疲ければ、今日はとても近付事有がたし。一夜馬の足を休てこそ追はめ。」とて、山名伊豆守湊河にぞとゞまりける。其時生年十四歳に成ける子息右衛門佐、気早なる若者共を呼抜て宣けるは、「北る敵は跡を恐て、夜を日に継で逃て下る。我等は馬労て徒に明るを待。加様にては此敵を追攻て討つと云事不可有。馬強からん人々は我に同じ給へ、豆州には知せ奉らで、今夜此敵を追攻て、道にて打留めん。」と云もはてず、馬引寄て乗給へば、小林以下の侍共十二騎、我も々と同じて、夜中に追てぞ馳行ける。

とても助かるとは思えない命です。この期に及んでまだ殺人を犯し、罪を作ってどうなるのだとは思いながらも、ここで少しでも敵を迎え撃てば、判官殿も少しは落ち延びることも出来るかと、「判官はここにいるぞ。高貞はここだぞ。首でも取って師直に見せたらどうだ」と名乗りを上げながら、

ふた時(四時間?)ばかりを戦いました。やがて矢も射尽くしてしまい、傷を負っていない者など誰もいないので、家の戸口に火を放ち、燃え盛る屋内に走り込み、二十二人の者達は思い思いに腹を切り、焼け焦げになって死んだのです。燃え尽きてから、一塊になった灰を掻き分けてみると、

顔世御前は焼け野原で雉が雛を羽に隠して焼け死んでいるかのように、太刀にかけられてもまだ胎内にいた子供を守るように死んでいました。しかしその子供も半ばは胎内から出て、血と灰にまみれていたのです。また腹を掻き切り、多数が折り重なっている死者の下に、

幼い子供を抱くようにして、一本の太刀に貫かれた遺骸がありました。これがきっと塩冶判官に違いない、しかし焼け焦げた首なので、取って帰ることもなかろうと、桃井播磨守直常も太平出雲守もこの場から京に上りました。ところで、山陽道を追い下っている山名伊豆守時氏に従う若武者らが、

山崎財寺(天王山山頂)の前を通過している時、後方より、「執事殿からの書状です。しばらく留まってください。申し上げる事がございます」と、呼びかけてきました。何事かと馬を引き止めると、後ろから来た者は三町ばかり離れた所から、「あまりにも急いで駆けて来たので、

息が上がってそこまで行くことが出来ません。こちらに来てはもらえませんか」と、言ってきました。山名伊豆守は馬を下りて、若党の四、五騎を引き返させ、「何事か聞いたら、すぐ駆け戻ってこい」と、命じました。五騎の兵士らは何ら疑うこともなく、

使者の前で馬から飛び降り、「何事ですか」と問いかけると、使者はニッコリと笑い、「本当は執事の使いではないのです。私は塩冶殿の身内の者ですが、判官殿が落ちられたことを知らなくて、お伴が出来なかった者です。この場所で主人のため命を捨て、

冥土にて、ことのいきさつをお話しするつもりです」と、言い終わらぬ内に太刀を抜き放ち、かなりの時間にわたって切り合ったのです。三人に怪我を負わせましたが、自分も二太刀を斬られたので、これまでと思ったのか、塩冶の家来は腹を掻き切って死にました。

「こやつの計略に引っ掛かって、要らぬ時間を使ってしまったので、落人どもは遥か遠くまで逃げたに違いない」と言って、その後はますます馬を急がせて追いかけました。京都より湊川まで十八里の道を、四時間ほどで走り抜けたので、「あまりにも馬を疲れさせたようだ。

今日はとても敵に近づくことは出来ないだろう。今夜一晩馬の足を休めて、それから追うことにしよう」と言って、山名伊豆守は湊川に留まりました。その時、今年十四歳になる子息の右衛門佐は、血気に逸る若者らを選り抜いて呼び寄せ、「逃げる敵どもは追跡を恐れて、

夜を日に継いで逃げ下っているはずだ。しかし我らは馬が疲れたと言って、無駄に夜の明けるのを待っている。こんなことでは、とても敵を追撃し討ち取ることなど出来ない。馬の疲労が大したことのない人々は私に付いてきてくれ。山名伊豆守には知らせず、

今夜にはこの敵を追撃し、途上で討ち取ってやろう」と言い終わる間もなく、馬を引き寄せ乗ったので、小林以下の侍たち十二騎が、我も我もと一緒になって、夜中を追撃すべく駆けて行きました。


湊河より賀久河迄は、十六里の道を一夜に打て、夜もはやほの/゛\と明ければ、遠方人の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間より、向の方を見渡しければ、旅人とは覚ぬ騎馬の客三十騎計、馬の足しどろに聞へて、我先にと馬を早めて行人あり。すはや是こそ塩冶よと見ければ、右衛門佐川縁に馬を懸居て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿と見奉るは僻目か、将軍を敵に思ひ、我等を追手に受て、何くまでか落られぬべき。踏留て尋常に討死して、此長河の流に名を残され候へかし。」と、言を懸られて、判官が舎弟塩冶六郎、若党共に向て申けるは、「某は此にて先討死すべし。御辺達は細路のつまり/\に防矢射て、廷尉を落奉れ。一度に討死にする事有べからず。」と、無らん跡の事までも、委是を相謀て、主従七騎引返す。右衛門佐の兵十二騎、一度に河へ打入て、轡を双て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向の岸に鏃をそろへ散々に射る。右衛門佐が胄の吹返し射向の袖に矢三筋受て、岸の上へ颯と懸上れば、塩冶六郎抜合て、懸違懸違時移る程こそ切合たれ。小林左京亮、塩冶に切て落されて已に打れんと見へければ、右衛門佐馳塞て、当の敵を切て落す。残り六騎の者共、思々に打死しければ、其首を路次に切懸て、時剋を移さず追て行。此間に塩冶は又五十町計落延たりけれ共、郎等共が乗たる馬疲て、更にはたらかざりければ、道に乗捨歩跣にて相従ふ。右ては本道を落得じとや思けん、御著宿より道を替て、小塩山へぞ懸ける。山名続て追ければ、塩冶が郎等三人返合て、松の一村茂りたるを木楯に取て、指攻引攻散々に射る。面に前む敵六騎射て落し、矢種も尽ければ打物に成て切合てぞ死にける。

湊川より加古川まで十六里の道を一夜に走り抜け、夜は早くもほの白く明けてきたので、遠くにいる人の袖なども見え出し、川霧の切れ間から遥か向こうの方を見渡すと、普通の旅人とは思えない騎乗の人たち三十騎ばかりで、脚もよろよろの馬を急がせて行く人々が見えました。

あれこそ塩冶に違いないと思い、右衛門佐は川岸に駆け寄り、「おーい、馬を急がせておられる人々が、もしかして塩冶殿だと思うのは、私の見間違いですか。尊氏将軍を敵に回して我らの追撃を受けては、何処にも落ち延びることは出来ません。

ここは踏みとどまって正々堂々と勝負の上、討ち死にを遂げ、この加古川の流れにその名を残されるが良かろう」と、言葉をかけられました。聞いていた塩冶側では、判官の舎弟、塩冶六郎が若党らに向かって、「私はここで皆に先駆けて討ち死にをする。

みんなは狭い道を選んで、隅々から防ぎ矢を放って、廷尉高貞殿を落とされるように。ここで一度に討ち死にすることは相成らぬ」と、我が亡き後のことまで詳しく指図をして、主従七騎は引き返しました。やがて山名の子息、右衛門佐の手兵十二騎が一度に川に駈け入り、

轡を揃えて渡河に移ると、塩冶の舎弟、六郎の七騎が向こう岸の敵に向かって、次々と激しく矢を射込みました。右衛門佐が兜の吹き返し、射向の袖に矢を三本受けて、岸の上にサッと駆け上ったので、塩冶六郎が太刀を抜き放って、駆け合っては走り抜け、

また掛け合っての斬り合いが長く続きました。山名伊豆守時氏の家臣、小林左京亮は塩冶六郎に切り落とされ、絶体絶命の危機になりましたが、右衛門佐が駆け寄って助けに入り、反対に敵の六郎を切り落としました。残る六騎の武士らも、それぞれが討ち死にしたので、

その首を路上に架けると、すぐ追撃にかかりました。この戦闘の間に、塩冶判官は再び五十町ほど落ち延びたのですが、家来らが乗った馬は疲労の極にあり、とても乗り続けることが出来ず、止む無く途上に乗り捨て、徒歩裸足で判官に追従しました。この状態で本街道を経由していては、

とても落ち延びることは出来ないと考え、御着宿からは道を変えて、小塩山に向かいました。しかし続けて山名の軍勢が追いついてきたので、塩冶の家来三人が引き返し、松の生え茂った場所を盾にして、立て続けに矢をつがえ、次から次へと激しく射込みました。

正面を進んできた敵の六騎を射落としたものの、矢も尽きてしまい太刀を抜いての斬り合いの末、討ち死にしたのです。


此より高貞落延て、追手の馬共皆疲にければ、「今は道にて追付事叶まじ。」とて、山陽道の追手は、心閑にぞ下ける。三月晦日に塩冶出雲国に下著しぬれば、四月一日に追手の大将、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、三百余騎にて同国屋杉の庄に著給ふ。則国中に相触て、「高貞が叛逆露顕の間、誅罰せん為に下向する所也。是を打て出したらん輩に於は、非職凡下を云ず、恩賞を申与ふべき由。」を披露す。聞之他人は云に不及、親類骨肉迄も欲心に年来の好を忘ければ、自国他国の兵共、道を塞ぎ前を要て、此に待彼に来て討んとす。高貞一日も身を隠すべき所無れば、佐々布山に取上て一軍せんと、馬を早めて行ける処に、丹波路より落ける若党の中間一人走付て、「是は誰が為に御命をば惜まれて、城に楯篭らんとは思食候や。御台御供申候つる人々は、播磨の陰山と申所にて、敵に追付れて候つる間、御台をも公達をも皆差殺し進て、一人も残らず腹を切て死て候也。是を告申さん為に甲斐なき命生て、是迄参て候。」と云もはてず、腹かき切て馬の前にぞ臥たりける。判官是をきゝ、「時の間も離れがたき妻子を失れて、命生ては何かせん、安からぬ物哉。七生迄師直が敵と成て、思知せんずる物を。」と忿て、馬の上にて腹を切、倒に落て死にけり。三十余騎有つる若党共をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼へ遣し、木村源三一人付順て有けるが、馬より飛でをり、判官が頚を取て、鎧直垂に裹み、遥の深田の泥中に埋で後、腹かき切て、腸繰出し、判官の頚の切口を陰し、上に打重て懐付てぞ死たりける。後に伊豆守の兵共、木村が足の泥に濁たるをしるべにて、深田の中より、高貞が虚き首を求出して、師直が方へぞ送りける。是を見聞人毎に、「さしも忠有て咎無りつる塩冶判官、一朝に讒言せられて、百年の命を失つる事の哀さよ。只晉の石季倫が、緑珠が故に亡されて、金谷の花と散はてしも、かくや。」と云ぬ人はなし。それより師直悪行積て無程亡失にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云る事、真なる哉と覚へたり。

この場所から塩冶高貞は落ち延び、追っ手の軍勢側では、馬の疲労が激しく、「もう途上で追いつくことことは出来ないだろう」と言って、山陽道を追撃していた追っ手軍は、速度を落として下っていきました。暦応四年(興国二年::1341年)三月晦日に塩冶判官は出雲国に到着しました。

また四月一日には追っ手の大将、山名伊豆守時氏と子息の右衛門佐師氏(師義)らが三百余騎を率いて出雲国、屋杉(安来?)の庄に着きました。すぐ出雲国中に、「高貞の謀反が発覚したため、誅伐を目的に下向してきたところである。この逆賊を討ち取った者には、

官位官職身分等を問わず恩賞を与えるであろう」と、触れを回しました。この発表に他人は言うまでもなく、親類縁者、肉親の者まで欲に釣られて、長年の交誼にとらわれることなく、出雲国やよその国の兵士らが、街道を閉鎖し進路を遮って待ち受けたり、

途中まで行き迎え討とうとしました。高貞は一日たりと身を隠す場所もなく、こうなれば佐々布山(松江市宍道町)に上り一戦しようと考え、馬を急がせていたところ、丹波路経由で逃げ落ちをはかっていた、若党の中間一人が走り寄ってきて、「今、この期に及んで、

誰のために命を惜しみ城に立て篭もろうと思っているのですか。奥方やお供していた人々は、播磨の陰山と言う所で敵に追いつかれてしまい、奥方の顔世御前もお子様たちも皆刺し殺し、供の武士らも一人残らず腹を切って死にました。この事をお知らせするため、取るに足らない命を永らえて、

ここまでやってきました」と言い終わる間もなく、腹を掻き切り馬の前に倒れ込みました。判官はこのことを聞くと、「片時も離れがたい妻子を失っては、命を永らえて何が出来るのだ、何も出来やしない。この世に七度生まれ変わってでも、師直の敵になって思い知らせてやろう」と憤慨し、

馬上にて腹を切り、逆さまになって馬から落ちて死んだのでした。三十余騎いた若武者らを、「城にすることが出来る場所を探せ」と言って、あちこちに残しましたが、ただ一人ここまで付き従ってきた木村源三が、馬から飛び降り判官の首を取ると、鎧直垂に包み込んで、

遥か離れた深田の泥に埋めてから、腹を切り腸を引きずり出して、判官の首の切り口を隠し、その上に折り重なるように抱きついて死にました。その後伊豆守の兵士らが、木村の足に泥が付いているのを参考に、深田の中から亡き高貞の首を探し出し、師直のもとに送りました。

この出来事を見たり聞いたりした人は皆、「あれほど忠義に溢れはしても、何ら罪のない塩冶判官が、ある日突然讒言を受けて命を落とすとは、あまりにも可哀そうな話ではないか。唐物語にある、古代中国、晋国の石季倫が愛妾の緑珠を孫秀が求めてきたのを断り、

そのため金谷の園に咲く花と散り果てた話も、判官の悲話と同じだ」と、皆が話しました。この事があってからも、師直は悪行を重ねていたため、しばらくして命を失うことになりました。「人に良くする者は天が必ず福をもたらすが、人を傷つける者は、天が必ず禍をもたらす」と言うのは、確かに真実だと思えます。      (終り)

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