22 太平記 巻第二十二  (その一)


○畑六郎左衛門事
去程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国の間に、宮方の城一所も無りけるに、畑六郎左衛門時能、僅に二十七人篭りたりける鷹巣の城計ぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は、去年杣山の城より平泉寺へ越て、衆徒を語ひ、挙旗と被議けるが、国中宮方弱して、与力する衆徒も無りければ、是も同く鷹巣城へぞ引篭りける。時能が勇力、氏政が機分、小勢なりとて閣きなば、何様天下の大事に可成とて、足利尾張守高経・高上野介師重、両大将として、北陸道七箇国の勢七千余騎を率して、鷹巣城の四辺を千百重に被囲、三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。彼畑六郎左衛門と申は、武蔵国の住人にて有けるが、歳十六の時より好相撲取けるが、坂東八箇国に更に勝者無りけり、腕の力筋太して股の村肉厚ければ、彼薩摩の氏長も角やと覚て夥し。其後信濃国に移住して、生涯山野江海猟漁を業として、年久く有しかば、馬に乗て悪所岩石を落す事、恰も神変を得るが如し。唯造父が御を取て千里に不疲しも、是には不過とぞ覚へたる。水練は又憑夷が道を得たれば、驪龍頷下の珠をも自可奪。弓は養由が迹を追しかば、弦を鳴して遥なる樹頭の栖猿をも落しつべし。謀巧にして人を眤、気健にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡け堅に当る事、樊■・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚る習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜とて、少しも不劣悪僧あり。又中間に悪八郎とて、欠脣なる大力あり。又犬獅子と名を付たる不思議の犬一疋有けり。此三人の者共、闇にだになれば、或帽子甲に鎖を著て、足軽に出立時もあり。或は大鎧に七物持時もあり。様々質を替て敵の向城に忍入。先件の犬を先立て城の用心の様を伺ふに、敵の用心密て難伺隙時は、此犬一吠々走出、敵の寝入、夜廻も止時は、走出て主に向て尾を振て告ける間、三人共に此犬を案内者にて、屏をのり越、城の中へ打入て、叫喚で縦横無碍に切て廻りける間、数千の敵軍驚騒で、城を被落ぬは無りけり。「夫犬は以守禦養人。」といへり。誠に無心禽獣も、報恩酬徳の心有にや、斯る事は先言にも聞ける事あり。

☆ 畑六郎左衛門のこと

さて京都から討手の大軍が北陸に攻め込んだので、杣山の城も陥落し、越前、加賀、能登、越中、若狭の五ヶ国には、宮方の城は一つも無くなったのです。しかし畑六郎左衛門時能が僅か二十七人で立て篭もっている鷹栖の城だけが残っていました。

一井兵部少輔氏政は、昨年杣山の城から平泉寺に向かい、衆徒に語りかけて挙兵のことを相談しましたが、国中の宮方の勢力が弱いため、協力を明言する衆徒もいなかったので、今は同じように鷹栖城に立て篭もっています。畑時能の武勇と氏政の器量を考えれば、

小勢だからと言ってそのままにしておくと、天下の形勢に悪影響を及ぼすかも知れないので、足利尾張守高経と高上野介師重を両大将として、北陸道七ヶ国の軍勢、七千余騎を率いて鷹栖城の周囲を十重二十重に取り囲み、三十余ヶ所に向かい城を構築しました。

さて、畑六郎左衛門と言う武士は、武蔵国に住む豪族で、十六歳の頃から相撲が強くて、坂東八ヶ国において彼を負かす者はなく、また腕の筋肉が発達して太い上、股の肉付きも厚く、あの麑藩(げいはん::薩摩藩)名勝考にある、相撲に秀でた薩摩氏長をも凌ぐかと思わせるほどです。

彼はその後、信濃国に移住し、山野河川での狩猟や漁業を生業として、長らく生活していたので、馬に乗って足場の悪い所を岩を落として走らせ、馬を自在に扱うこと神技とも思えます。確かに周国の穆王に可愛がられた、御者の造父が手綱を持って、千里の道を疲れることなく走らせたことも、

畑六郎に勝るとは思えません。また水泳の技術にしても、憑夷(ひょうい::中国の神話に出てくる黄河の神)の極意を会得しているので、手に入れるのは危険だと言われている、黒い竜のあごの下にある珠でさえ、奪い取ることさえ出来ます。

弓術においても養由基(中国、春秋時代の弓の名人)の生まれ変わりとも言われているので、弦を鳴らすだけで、遥かかなたの樹上にいる猿を落とすことだって出来ます。謀略についても非常に優れていて、人をたぶらかすことに巧みであり、思想信条に揺らぎがないので、

戦場に臨めばいつも敵を丸め込んでから堅陣を攻撃することなど、あの樊かい(かい::口偏に會・秦から前漢にかけての武将)や周勃(秦から前漢にかけての武将)らが得ることの出来なかった能力を手に入れたようです。このような人物ですから、類は類を以って集まるの例え通り、

彼の甥に所大夫房快舜と言うとんでもない無頼僧がいました。また中間に悪八郎と言うミツクチ(兎唇)の大力自慢がいました。それ以外に犬獅子と名付けた、不思議な犬を一匹飼っていました。この二人の者と一匹は闇夜になれば、帽子兜(眉庇のない兜)と言う粗末な兜をかぶり、

鎖帷子を着て足軽に扮して出かけたりします。またある時には大鎧を着けて七物(武士の持つ七種の武器)を携えることもあります。そのように色々と手口を変えて、敵の向かい城に忍び込みました。その手法としては、まず例の犬を最初に忍び込ませ、城側の警戒程度を調べ、

厳しい警戒がなされていて、隙のない時にはこの犬一匹だけが激しく吠えながら走り出て来ます。しかし敵が寝入って、警戒の夜回りも行われていない時には、走り出て来ると尾を振って知らせますから、この犬を案内に立たせて塀を乗り越え、城の中に突入し、

喚き騒ぎ立てて好き勝手に斬りまわると、数千の敵軍は驚き騒ぐばかりで、城が落とされないことなどありません。「そもそも犬は飼い主に対して、守護を以って仕える」と、言います。確かに意思や感情もないと思われる禽獣でさえ、受けた恩や加護に報いる気持ちがあるのでしょうか。

このようなことは、昔から言い伝えられていると聞きます。


昔周の世衰へんとせし時、戎国乱て王化に不随、兵を遣して是を雖責、官軍戦に無利、討るゝ者三十万人、地を被奪事七千余里、国危く士辱しめられて、諸侯皆彼に降事を乞。爰に周王是を愁て■を安じ給はず。時節御前に犬の候けるに魚肉を与、「汝若有心、戎国に下て、窃に戎王を喰殺して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千の宮女を一人下て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯て被仰たりけるを、此狗勅命を聞て、立て三声吠けるが、則万里の路を過て戎国に下て、偸に戎王の寐所へ忍入て、忽に戎王を喰殺し、其頚を咆へて、周王の御前へぞ進ける。等閑に戯れて勅定ありし事なれ共、綸言難改とて、后宮を一人此狗に被下て、為夫婦、戎国を其賞にぞ被行ける。后三千の列に勝れ、一人の寵厚かりし其恩情を棄て、勅命なれば無力、彼犬に伴て泣々戎国に下て、年久住給しかば、一人の男子を生り。其形頭は犬にして身は人に不替。子孫相続て戎国を保ちける間、依之彼国を犬戎国とぞ申ける。以彼思之、此犬獅子が行をも珍しからずとぞ申ける。されば此犬城中に忍入て機嫌を計ける間、三十七箇所に城を拵へ分て、逆木を引屏を塗ぬる向城共、毎夜一二被打落、物具を捨て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方に笑れん事を恥て、偸に兵粮を入、忍々酒肴を送て、可然は我城を夜討になせそと、畑を語はぬ者ぞ無りける。爰に寄手の中に、上木九郎家光と云けるは、元は新田左中将の侍也けるが、心を翻して敵となり、責口に候けるが、数百石の兵粮を通して畑に内通すと云聞へ有しかば、何なる者か為けん、大将尾張守高経の陣の前に、「畑を討んと思はゞ、先上木を伐。」と云秀句を書て高札をぞ立たりける。是より大将も上木に心を被置、傍輩も是に隔心ある体に見ける間、上木口惜事に思て、二月二十七日の早旦に、己が一族二百余人、俄に物具ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面に当、かづき連てぞ責たりける。自余の寄手是を見て、「城の案内知たる上木が俄に責るは、何様可落様ぞ有らん。上木一人が高名になすな。」とて、三十余箇所の向城の兵共七千人、取物も不取敢、岩根を伝ひ、木の根に取付て、差も嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に責上り、切岸の下にぞ著たりける。

昔、古代中国の周国が衰亡しつつあった時、周辺の未開国が周国に従うことを拒否したため、軍勢を派遣して攻撃しましたが、官軍は戦闘を有利に進めることが出来ず、討たれた者は三十万人に達した上、領土も七千余里を侵略されることになり、国の存続も危うくなり、

また将校や兵士らも屈辱的な敗戦を喫したので、諸侯は全員が降参することを国王に求めました。時の周王もこの事態を心配して、心の休む間もありませんでした。丁度その時御前にいた犬に魚肉を与えて、「もしお前に心が有るならば、蛮国に下って行き、密かに蛮国の王を食い殺して、

世の乱れを鎮静せよ。もしうまく行ったら、汝に三千人いる後宮の女の中から一人を与えて夫婦にさせ、蛮国の王にしてやろう」と、冗談半分に仰せられたところ、この犬はこの話を勅命と聞き、立ち上がって三回吼えると、すぐに万里の道を走り通し、未開の国まで行き着くと、

見つからないように王の寝所に忍び込み、一瞬にして蛮国の王を食い殺し、その首をくわえて周王の御前に現れました。いい加減な気持ちで戯れに言った勅定ではありますが、綸言である以上撤回は出来ないと、皇后として女性一人をこの犬に与えて夫婦にさせ、

蛮国をその恩賞として賜ったのです。その女性は後宮三千人の中でも特に優れ、周王の寵愛も一方でなかったのですが、勅命ならばどうすることも出来ず、今まで受けた恩情も捨て去り、かの犬に付き添って泣く泣く蛮国に下ったのです。その後長年にわたって生活している内、

一人の男児を出産しましたが、その子の頭は犬の格好をして、身体は人間そっくりだったのです。その後も子孫は繁栄を続け、この未開の国を維持統治しましたから、それによって犬戎国(中国神話上の国。北海の果て、西北角の先端にある)と名付けられていました。

この神話に思い合わせても、犬獅子の行動も特に珍しいものではないと言われていたのです。そこでこの犬が城中に忍び込み、敵兵の様子を探ってみれば、三十七ヶ所の向かい城を構築し、逆茂木を設置して、塀をも築き終えた攻城側の兵士らは、毎夜一、二の城を落とされては、

甲冑を捨て、馬をも失ってしまうような恥をかくことが多いので、敵の強いことはさておき、味方に笑われることを恥じるばかりに、見つからないように兵糧を差し入れたり、こっそりと酒肴なども送り込み、頼むから我々の城に夜討ちなど仕掛けないでくれと、畑に頼み込まない者などいませんでした。

さて、寄せ手陣の中に、上木九郎家光と言う、元々新田左中将義貞の武士ですが、今は宮方から寝返って敵として、攻城軍に属しています。しかし数百石の兵糧米を提供して、畑に内通したのではと噂され、誰の仕業か分りませんが、大将足利尾張守高経の陣営前に、

「畑を討とう(耕そう)と思うなら、まず上木(植木)を伐れ」と言う、洒落の利いた句を書き込んだ高札が立てられました。このため大将は上木に警戒を強め、また仲間との関係もギクシャクしだすと、上木は悔しく思い興国二年(暦応四年::1341年)二月二十七日の早朝、

上木の一族二百余人が甲冑で厳しく身を固めて、大竹を割り裂いて楯の前に貼り付け、担ぎ連ねて攻め込みました。他の寄せ手軍はこの事態を見て、「城の内情に詳しい上木が突如攻め込むとは、間違いなく城を落とせるからだろう。上木一人の手柄にさせるな」と言って、

三十余ヶ所の向い城にいる兵士ら七千人が、大急ぎで岩根を伝ったり、木の根にしがみついて、あれほど険しい鷹栖城の坂、十八町を一気に攻め上り崖下にまで行き着きました。


され共城には鳴を静めて、「事の様を見よ。」とて閑り却て有けるが、已に鹿垣程近く成ける時、畑六郎・所大夫快舜・悪八郎・鶴沢源蔵人・長尾新左衛門・児玉五郎左衛門五人の者共、思々の物具に、太刀長刀の鋒を汰へ、声々に名乗て、喚て切てぞ出たりける。誠に人なしと由断して、そゞろに進み近づきたる前懸の寄手百余人、是に驚散て、互の助を得んと、一所へひし/\と寄たる処を、例の悪八郎、八九尺計なる大木を脇にはさみ、五六十しても押はたらかしがたき大磐石を、転懸たれば、其石に当る有様、輪宝の山を崩し磊石の卵を圧すに不異。斯る処に理を得て左右に激し、八方を払、破ては返し帰ては進み、散々に切廻りける間、或討れ或疵を被る者、不知其数。乍去其後は、弥寄手攻上る者も無て、只山を阻川を境て、向陣を遠く取のきたれば、中々兎角もすべき様無し。懸し程に、畑つく/゛\と思案して、此侭にては叶ふまじ、珍しき戦ひ今一度して、敵を散すか散さるゝか、二の間に天運を見んと思ければ、我城には大将一井兵部少輔に、兵十一人を著て残し留め、又我身は宗徒の者十六人を引具して、十月二十一日の夜半に、豊原の北に当たる伊地山に打上て、中黒の旌二流打立て、寄手遅しとぞ待たりける。尾張守高経是を聞て、鷹巣城より勢を分て、此へ打出たるとは不寄思、豊原・平泉寺の衆徒、宮方と引合て旌を挙たりと心得て、些も足をためさせじと、同二十二日の卯刻に、三千余騎にてぞ押寄られける。寄手初の程は敵の多少を量兼て、無左右不進けるが、小勢也けりと見て、些も無恐処、我前にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門、敵外に引へたる程は、態あり共被知ざりけるが、敵已一二町に責寄せたりける時、金筒の上に火威の胄の敷目に拵へたるを、草摺長に著下て、同毛の五枚甲に鍬形打て緒を縮、熊野打の肪当に、大立揚の脛当を、脇楯の下まで引篭て、四尺三寸太刀に、三尺六寸の長刀茎短に拳り、一引両に三■の笠符、馬の三頭に吹懸させ、塩津黒とて五尺三寸有ける馬に、鎖の胄懸させて、不劣兵十六人、前後左右に相随へ、「畑将軍此にあり、尾張守は何くに坐すぞ。」と呼て、大勢の中へ懸入、追廻し、懸乱し、八方を払て、四維に遮りしかば、万卒忽に散じて、皆馬の足をぞ立兼たる。是を見て、尾張守高経・鹿草兵庫助旗の下に磬て、「無云甲斐者共哉。敵縦鬼神也とも、あれ程の小勢を見て引事や有べき。唯馬の足を立寄せて、魚鱗に引へて、兵を虎韜になして取篭、一人も不漏打留よや。」と、透間も無ぞ被下知ける。

しかし、城内は鳴りを静めて、「しばらく様子を見ていよう」と静観していましたが、はや鹿垣(木や竹で編んだ粗い垣)あたりまで近づいてきた時、畑六郎と所大夫快舜、悪八郎、鶴沢源蔵人、長尾新左衛門そして児玉五郎左衛門の五人らが、それぞれ思い思いに甲冑で身を固め、

太刀や長刀の切っ先を揃え、声々に名乗りを上げながら、喚声と共に城から飛び出しました。これまで人の気配を感じなかったので、油断して無造作に突き進んでいた先陣の寄せ手百余人は、突然の攻撃に驚き散ったものの、お互いに助けを求めて一ヶ所に何とか集まろうとしているところに、

例の悪八郎が八、九尺はあろうかと言う大木を脇に挟み、五、六十人でも動かしがたい大岩石を、敵に向かって転がしたので、その石に当たる様子は輪宝(古代インドの車輪型をした武器)の山を崩して、ごろごろと転がっている卵を、押しつぶす様子と変わりありません。

この展開に勝機を感じた篭城軍は左右の敵を激しく攻撃し、また八方に向かって敵を追い払い、不利になれば引き返し、戻っては進撃に移ると言う、激しい戦闘を繰り広げたので、討たれたり負傷したりした者は、その数さえ分りません。しかしながら、

その後の攻城軍には攻め上って来る者もいなくなり、ただ山を挟んで、また川を境にして向かい陣を退き、遠くまで退却してしまったので、作戦の立てようも無くなりました。この状況の中で、畑は何か打開策はないものかと、色々と考えてはみましたが、

このまま推移したのではとても勝機はめぐって来ません。そこでもう一度華々しい戦闘を敢行して、敵の撃退をはかるか、それとも撃破されるのか二つに一つ、運を天にまかせての作戦に出ました。そこで城には大将一井兵部少輔に、兵士十一人を付けて残しておき、

自分は主だった十六人の者たちを引き連れて、十月二十一日の夜半、豊原の北にある伊地山に上り、中黒(新田の紋所)の旗を二旒立てて、寄せ手の襲来を今や遅しと待ち受けました。尾張守高経はこの情報を聞くと、鷹栖城の篭城軍が兵を割いて、ここへ進出して来るとは思いも寄らず、

この軍勢は豊原や平泉寺の衆徒らが、宮方と示し合わせて旗を揚げたに違いないと考え、ここは下手に勢いをつけさせないため、十月二十二日の卯刻(午前六時)に三千余騎を率いて押し寄せました。寄せ手軍は当初、敵軍の規模が不明なため、慎重に進撃していましたが、

敵が小勢だと思われたので、それからは何も恐れることなく、我先にと進撃しました。畑六郎左衛門は敵軍がまだ遠方に控えている間は、意識して無視を続けていましたが、敵がすでに一、二町付近まで攻め寄せてきた時、突入に移るため、鉄板で補強した胴の上に、

緋縅で敷目(鎧の札が三列になったもの)に嚇した鎧を草摺りを長く垂らして着け、同じ錣を五段に下げ鍬形が打たれた兜の緒を締めて、熊野産の頬当てに、膝頭まで届く長い脛当てを草摺りの中にまで引き上げて身を守りました。そして四尺三寸の太刀と三尺六寸の刀を柄の先の方を握って、

一引両(新田の紋)に三州浜の紋が付いた笠印を三頭の馬に付けて、塩津黒と言う五尺三寸もある馬に鎖の付いた兜を装着した上、強兵十六人を前後左右に従えて、「畑将軍はここにいるぞ。尾張守は何処に居られるのか」と呼ばわりながら、大軍の中に駈け入ると、

敵を追い回し駆け回り、敵の集結を許さなかったので、敵は乱れに乱れて散りじりになり、馬を守ることさえ難しくなってきました。この状況を目にした尾張守高経と鹿草兵庫助は旗の下に控えて、「何とも情け無い奴ばっかりだ。たとえ敵が鬼神であっても、

あれほどの小勢を見て退くとは何だ。ここは馬を一ヶ所に集め魚鱗の陣に構え、兵士らを中国の兵法書、六韜の中の虎韜通りに取篭めて、一人残らず討ち取ってしまえ」と、厳しく命令を下しました。


懸しかば三千余騎の兵共、大将の諌言に力を得て、十六騎の敵を真中にをつ取篭、余さじとこそ揉だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗たる馬は、項羽が騅にも不劣程の駿足也しかば、鐙の鼻に充落され蹄の下にころぶをば、首を取ては馳通り、取て返しては颯と破る。相順ふ兵も、皆似るを友とする事なれば、目に当敵をば切て不落云事なし。其膚不撓目不瞬勇気に、三軍敢て当り難く見へしかば、尾張守の兵三千余騎、東西南北に散乱して、河より向へ引退く。軍散じて後、畑帷幕の内に打帰て、其兵を集るに、五騎は被討九人は痛手を負たりけり。其中に殊更憑たる大夫房快舜、七所まで痛手負たりしが、其日の暮程にぞ死にける。畑も脛当の外、小手の余り、切れぬ所ぞ無りける。少々の小疵をば、物の数とも不思けるに、障子の板の外より、肩崎へ射篭られたりける白羽の矢一筋、何に脱けれ共、鏃更に不脱けるが、三日の間苦痛を責て、終に吠へ死にこそ失にけれ。凡此畑は悪逆無道にして、罪障を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊ち、修善の心は露許もなく、作悪業事如山重しかば、勇士智謀の其芸有しか共、遂に天の為にや被罰けん、流矢に被侵て死にけるこそ無慙なれ。君不見哉、舁控弓、天に懸る九の日を射て落し、■盪舟、無水陸地を遣しか共、或は其臣寒■に被殺、或は夏后小康に被討て皆死名を遺せり。されば開元の宰相宋開府が、幼君の為に武を黷し、其辺功を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思合せける許也。畑已に討れし後は、北国の宮方気を撓して、頭を差出す者も無りけり。

すると三千余騎の兵士らは大将の苦言に奮い立ち、十六騎の敵を真ん中に取り囲むと、全滅を狙って激しく攻撃しました。大敵に向かって、恐れずに戦うことは難しいと言えども、畑六郎の乗った馬は、楚国、項羽の愛馬”騅”にも劣らないと言われた駿馬ですので、

鐙の先に当てられ蹄の下に転げ落ちるのを、首を取っては駆け抜け、また引き返して来てサッと包囲を破りました。彼に従う兵士らも、類を以って集まるの言葉通り、目にした敵を取り逃がすことなどありません。決して臆することもなければ、瞬く間も与えず攻め立てる勇気には、

寄せ手の軍勢はとても対抗できそうになく見えたので、尾張守の兵士ら三千余騎は、東西南北に散りじりに乱れながら、河の向こうまで退却しました。合戦が一旦終結してから、畑が帷幕(作戦本部)に引き返し兵士らを集めてみたところ、五騎が討ち取られ、九人が負傷していました。

その中でも特に頼りにしていた大夫房快舜は、七ヶ所にわたって怪我を負っていたため、その日の夕方に死亡しました。畑六郎自身も脛当ての外側や、肘や手首の周辺など負傷していないところなどありません。少しばかりの怪我など、物の数とも思っていなかったのです。

しかし、帷幕を取り囲んでいる障子板の隙間から、射込まれてきた白羽の矢一本が肩先に中り、抜こうにも抜くことが出来ず、まして鏃は抜くことは出来ず、三日間痛みに苦しんだ上、うめきながら死んだのでした。もともとこの畑と言う男は、人の道をわきまえない極悪人であり、

成仏を妨げる行為をも恐れることなく、僧侶や法師など理由もなく殺害したり、仏閣や社殿を焼き払ったりしました。その上彼には善行を積もうという気持ちなどさらさら無く、悪行を重ねた上に、また悪行を山のように重ねてきたため、勇者であり謀略に秀でたものを持っていながら、

とうとう天よりの懲罰を受けることになったのか、流れ矢に中って死ぬと言う、情け無い死に方をすることになったのです。ご存知の如く、げい(羽の下に廾)は弓の名手であり、天に輝く九個の太陽を射落としたし、ごうは水のない陸地で舟を揺り動かすほどの大力でしたが、

ある者は自分の臣下寒さく(さんずい偏に足)に殺され、またある者は夏国の六代皇帝、少康に討ち取られましたが、皆その名を後世に残しました。と言うことになれば、中国唐代の開元(年号::713-741年)の時代、宰相であった宋開府が幼い君主のために、無駄な戦争を仕掛けることなく、

また辺境で行われた合戦に対する勲功も行わなかったのは、物事をあまり深く考えない故の忠臣とも言うべきかと思うばかりです。畑六郎がすでに討たれてしまってからは、北国の宮方は気分も落ち込んでしまい、その後は指導者も現れませんでした。


○義助被参芳野事并隆資卿物語事
爰に脇屋刑部卿義助は、去九月十八日、美濃の根尾の城に立篭しか共、土岐弾正少弼頼遠・刑部大夫頼康に責落されて、郎等七十三人を召具し、微服潜行して、熱田大宮司が城尾張国波津が崎へ落させ給て、十余日逗留して、敗軍の兵を集めさせ給て、伊勢伊賀を経て、吉野殿へぞ被参ける。則参内し、竜顔に奉謁しかば、君玉顔殊に麗しく照して前席、此五六年が間の北征の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其命無恙して今此に来る事、君臣水魚の忠徳再可露故也と、御涙を浮させ御座て被仰下。次日臨時の宣下有て一級を被加。加之当参の一族、並相順へる兵共に至るまで、或は恩賞を給、或官位を進められければ、面目人に超てぞ見へたりける。其時分殿上の上口に、諸卿被参候たりけるが、物語の次に、洞院右大将実世未左衛門督にて坐しが、被欺申けるは、「抑義助越前の合戦に打負て美濃国へ落ぬ。其国をさへ又被追落て、身の置処なき侭に、当山へ参りたるを、君御賞翫有て、官禄を進ませらる事返々も不心得。是唯治承の昔、権佐三位中将維盛が、東国の討手に下て、鳥の羽音に驚て逃上たりしを、祖父清盛入道が計ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。四条中納言隆資卿、つく/\と是を聞給ひけるが、退て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣く処、其理当るかとこそ存候へ。其故は、義助北国の軍に失利候し事は全彼が戦の拙きに非ず。只聖運、時未到、又勅裁の将の威を軽くせられしに依て也。高才に対して加様の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情にて候へ共、只其の一端を申べし。昔周の未戦国の時に当て、七雄の諸侯相争ひ互に国を奪はんと謀し時、呉王闔廬、孫子と云ける勇士を大将として、敵国を伐ん事を計る。時に孫氏、呉王闔廬に向て申けるは、「夫以不教之民戦しむる事、是を棄よといへり。若敵国を伐しめんとならば、先宮中にあらゆる所の美人を集て、兵の前に立て、陣を張り戈を持しめて後、我其命を司らむ。一日の中に、三度戦の術を教へんに、命に随ふ事を得ば、敵国を滅さん事、立に得つべし。」とぞ申ける。呉王則孫子が任申請、宮中の美人三千人を南庭に出して、皆兵の前陣に立らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈を取て、「鼓うたば進んで刃を交へよ。金をうたば退て二陣の兵に譲れ。敵ひかば急に北るを追へ。敵返さば堪て弱を凌げ。命を背かば我汝等を斬らん。」と、馬を馳てぞ習はしける。三千の美人君の命に依て戦ひを習はす戦場へ出たれども、窈窕たる婉嫋、羅綺にだもたへざる体なれば、戈をだにも擡得ざれば、まして刃を交るまでもなし。あきれたる体にて打笑ぬる計也。孫氏是を忿て、殊更呉王闔廬が最愛の美人三人を忽に斬てぞ捨たりける。是を見、自余の美人相順て、「士卒と共に懸よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止る。聚散応変、進退当度。是全孫氏が美人の殺す事を以て兵法とはせず、只大将の命を士卒の重んずべき処を人にしらしめんが為也。呉王も最愛の美人を三人まで失ひつる事は悲しけれ共、孫氏が教へたる謀誠に当れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡されてげり。

☆ 脇屋義助が吉野朝廷に参内したことと、義助について四条隆資卿が話されたこと

さて脇屋刑部卿義助は去る暦応二年(1339年)九月十八日、美濃国の根尾の城に立て篭もっていましたが、土岐弾正少弼頼遠や刑部大夫頼康に攻め落とされ、家来ら七十三人を引き連れて、人目につかぬよう服装を変えて、密かに熱田大宮司の城、尾張国羽豆崎城(知多半島の先端)に落ちて行きました。

そこで十日余りを過した後、敗軍の兵士らを集められ、伊勢、伊賀経由で吉野の朝廷に向かいました。到着するとすぐに参内し、後醍醐天皇に拝謁しました。天皇はお顔も一段と麗しく、席を前に進みませられて、この五、六年の北朝征討戦争における忠義溢れる勲功に、

特別な感慨を仰せられましたが、敗北を喫した無念にはお触れになられず、無事ここへ参られたことは、帝と朝臣における絆の表れであり、今後も強い絆で結ばれるであろうと、お涙をお浮かべになりながら仰せられたのです。翌日臨時の宣下によって、官位一級の昇級を賜りました。

そればかりでなく、参内してきた義助の一族や、付き従ってきた兵士らにも恩賞を与えたり、官位を昇らせたりされましたので、最高の名誉を得たのでした。丁度その時、殿上の間(清涼殿にある殿上人の詰め所)に諸卿らが詰めていましたが、話のついでに洞院右大将実世、この時まだ左衛門督でしたが、

彼は不満もあらわにして、「大体が、義助は越前の合戦に負けを喫し、美濃国に落ちて行ったのだ。しかもその国さえ支えることが出来ず、追い落とされて身の置き所がなくなり、止む無く吉野山に来ただけなのに、後醍醐の君は大変な喜びようをされ、官位や俸禄などに便宜を払われたことなど、

どう考えても納得がいかない。これによく似た例として、治承四年(1180年)の昔、権佐三位中将平惟盛が東国に討手として下ったものの鳥の羽音に驚いて、都へ逃げ上ったにも関わらず、祖父清盛入道の計らいで、官位が一級上ったことと変わらないじゃないか」と、苦笑を交えて話されました。

四条中納言隆資卿はこの話を真面目に聞いていましたが、その場を去ってから、「今回の処置は後醍醐天皇のお考えであり、もっともなご配慮であると思われる。何故かと言えば、義助が北国での合戦に負けを喫したのは、彼の戦略、戦術が拙かったからとは、とても考えられない。

ただ言えることは、天皇の御運が開く時期にまだ至っていないからであり、また天皇の命により指名された将官に、十分なる権威を与えられなかったからである。博識なお方に対して、このようなことをお話しするのは、見識の狭さとか、単なる受け売り話だと思われるかもしませんが、

一言その一端だけでも申し上げましょう。昔、周が統一されていない戦国時代、七雄(秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓の七国)の諸侯らが、お互いに国を奪うことを争っていた時、呉国第六代の王、闔廬は孫子と言う勇士を大将に任命し、敵国を征伐することを計画しました。

その時、孫子は呉王闔廬に向かって、『基本的に訓練を受けていない人民を兵士として、戦闘はしてはならないと言います。もし敵国を征伐しようとするなら、まず最初に宮中のあらゆる部署から美しい女性を集めて兵士の前に立たせ、戦陣を構築して武器を持たせてからならば、

私は王の命令に従いましょう。毎日三回にわたって戦闘訓練を実施して、私の命令に従うようになれば、敵国を滅亡に導くことは間違いないでしょう』と、申し上げたのです。早速呉王は孫子の要請どおり、宮中の美人三千人を南庭に呼び出し、全員兵士の陣営の前に立たせました。

するとそこに甲冑を身に着けた孫子が武器を手にして、『鼓を打った時は前進し刃を交えて戦え、鐘を打った時は引き上げ、後に控えた兵士らと交代せよ。敵が退却を始めたら、ためらわず逃げる敵を追いかけろ。しかし敵が引き返して来たら、我が陣の弱点を何としても守りきるように。

もし私の命令に従わない者は斬ることになるぞ』と、馬を駆け回しながら教え込みました。三千人の美女らは王の命令に従って、戦闘訓練を受けることなく戦場に向かいましたが、何と言っても上品でしとやかな女性たちばかりで、身にまとった薄絹にも耐えかねているようなので、

とても武器など手にすることが出来ず、まして刃を交えることなど出来るはずがありません。途方にくれた様子でただ笑っているばかりです。この様子に孫子は激怒し、呉王闔閭が特に寵愛していた美人三人を、有無を言わせずに斬り捨てました。

これを見ていた他の女性たちは皆孫子の命令に従い、『将士や兵と一緒になって攻撃に移れ』と、言えば進撃し、『引き返せ『と言えば、攻撃を止めました。軍兵の集結と展開、また進撃と退避を自在に操ったのです。これらのことは孫子が美人を殺害することをもって兵法だと言うのではなく、

ただ単に大将の命令を士卒が重視することが重要だと、人に知らしめるためです。呉王にしても最愛の美女を三人まで失うことになり、悲しいことには違いありませんが、孫子が指導実践した戦略が見事に的中したと思われたので、最終的に孫子の指導のもと多くの敵国を滅ぼすこととなりました。


されば周の武王、殷の紂王を伐ん為に、大将を立ん事を太公望に問給ふ。太公望答曰、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。君不許之。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也。」といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡し国を治る道は候事なれ。去程に此間北国の有様を伝へ承るに、大将の挙状を不帯共、士卒直に訴る事あれば、軈て勅裁を被下、僅に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之大将威軽、士卒心恣にして、義助遂に百戦の利を失へり。是全戦ふ処に非ず。只上の御沙汰の違処に出たり。君忝も是を思召知るに依て、今其賞を被重者也。秦将孟明視・西乞術・白乙丙、鄭国の軍に打負て帰たりしを秦穆公素服郊迎して、「我不用百里奚・■叔言辱しめられたり。三子は何の罪かある。其専心毋懈。」と云て三人の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽て宣られければ、さしも大才の実世卿、言なくしてぞ立れける。「何ぞ古の維盛を入道相国賞せしに同せん哉。」と被申しかば、実世卿言ば無して被退出けり。

ところで、周国の武王は暴虐な振る舞いが多い、殷国の紂王を征伐しようと、大将の人選について太公望に質問しました。太公望は、『一般的に言って、国家に難題が起こったときには、帝たるものは宮殿を出て、将官に招集を掛け詔を発します。

つまり国家の安危はすべて将軍の采配にかかっているから、将軍たるものは軍隊を率いてこの命に従うようにと。そして将軍が命令に従うと決まれば、早速役人に命じて卜占を実施します。三日の間潔斎をした後、先祖を祭っている建物に入り、霊験ある亀に占い用のくぼみを作り、

開戦の吉日を占った上、将軍に統率の印として斧鉞(ふえつ::斧とマサカリ)を授けます。帝は廟門に入って西向きに立たれ、将軍は同じく廟門に入ると北向きに立ちます。帝は自らマサカリの首部分を手にし、柄の部分を将軍に手渡して、この地上より天に至るまで、将軍はこれを制するべしと仰せられます。

また斧の柄を手にして、刃部分を将軍に授けながら、この地上より下、深い淵の底に至るまで、将軍はこれを制するべきだと仰せられます。合戦に臨んでは、敵の隙を発見すれば直ちに攻撃を始め、手強いと思えば直ちに退くことである。軍全体の規模を頼んで、敵を軽んじてはならない。

命を重視し死を期してはならない。我が身のみ特別扱いして、他の人たちを蔑んではならない。自分の考えにこだわって、他人の意見を無視してはいけない。自説のみで物事を進めてはいけない。兵士が座らない内に座ってはいけないし、食事や寒暑に対しても、兵士を優先すべきである。

このように行動することによって、兵士は必ず死力を尽くすであろう。帝より命を受けた将軍は帝に拝謁し、臣である私はこのように聞いていると話します。国家たるものは外部の支配を受けてはならないし、軍隊は軍内部の者に依る統制を受けてはならない。帝に仕える以上、

二心を持ってはいけないし、不安を感じて敵の誘いに乗ってはならない。臣がすでに帝から命令を受けた以上、斧鉞の権威をもって軍を統制します。帝がこれをお許しにならないなら、臣はあえて将の辞令は受けません。帝はこれに許可を下ろし、臣は命を受けその場を辞し戦場に向かいます。

軍組織内部の諸案件に関して、帝の命令はこれを聞くことなく、全て将より発せられます。敵に遭遇し迷うことなく決戦を挑めば、もはや上に天なく、下に地もなく、前方に敵も居なければ、後方に帝さえ居りません。そこで知恵ある者はこのため謀略をめぐらし、また勇気あるものはこのために戦います。

闘志はますますその激しさを増して行き、兵士らは刃を交えることなく敵を降伏させます。外敵との戦争に勝ちを収め、内部では論功行賞が行われることになります。朝廷の役人らの人事異動が行われ、将士らは恩賞を受け、百姓らは歓喜の声を上げ、将軍はこの上ない喜びを覚えます。

この結果、風雨は時を選び五穀は豊かに実り、朝廷はますます安定を増すことになります』と、話したのです。古来より現在に至るまで、将軍の権威を重視することが、敵を滅亡に導き国家を安定的に治める手法です。所が最近、北国の現状を伝え聞くところによれば、

大将から与えられた添え状もなく、将士、兵士らが直接訴え出たりすれば、すぐに帝からの裁断が下され、その後かろうじて山中の大将にご機嫌伺いに参ることで、軍事行動としているほどです。また北国に所領などを希望する者がいれば、事情聴取など行われることなく、

帝より決裁が下されます。このような状態ですから、大将の威厳はますます軽くなり、将士、兵士らは勝手気ままな行動を続けたので、脇屋義助が今まで百戦にわたって得てきた利を失うことになりました。この損失は全く戦闘によるものではありません。

原因はただ一つ、帝が行った処置、裁断の間違いから起こったことです。帝もこの事情を良くご存知なので、今回過分なる恩賞を与えられたのでしょう。秦国の将官孟明視、西乞術、白乙丙の三人が鄭国の軍勢に敗北を喫して、

帰国してきたのを秦国の穆公は喪服を着用して出迎えに行き、『私は百里奚(中国春秋時代、秦の宰相。孟明視の父)や蹇叔(斉人)の諌めるのを聞かずに鄭を攻撃し、結果として三人を辱めることになった。三人には何の罪もない。今後とも努力を続け、決して怠けることのないように』と話しかけ、

三人の官位、俸禄など元のままにしたではないか」と、理を尽くして話されたので、あれほど博識な右大将実世卿は、一言も発することなく立ち上がられました。「なぜ昔、惟盛を入道相国清盛が賞したことと同一視するのでしょうか」と話されると、実世卿は何も言うことなくその場を退出されたのです。      (終り)

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