22 太平記 巻第二十二  (その二)


○作々木信胤成宮方事
懸る処に伊予国より専使馳来て、急ぎ可然大将を一人撰て被下、御方に対して忠戦を可致之由を奏聞したりしかば、脇屋刑部卿義助朝臣を可被下公議定けり。され共下向の道、海上も陸地も皆敵陣也。如何して可下、僉議不一ける処に、備前国住人、佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤早馬を打てて、「去月二十三日小豆島に押渡り、義兵を挙る処に、国中の忠ある輩馳加て、逆徒少々打順へ、京都運送の舟路を差塞で候也。急近日大将御下向有べし。」とぞ告たりける。諸卿是を聞て、大将進発の道開て、天運機を得たる時至りぬと、悦給事限なし。抑此信胤と申は、去建武乱の始に、細川卿律師定禅に与力して、備前備中の両国を平げ、将軍の為に忠功有しかば、武恩に飽て、恨を可含事も無りしに、依何今俄に宮方に成ぞと、事の根元を尋ぬれば、此比天下に禍をなす例の傾城故とぞ申ける。其比菊亭殿に御妻とて、見目貌無類、其品賎からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共、元来心軽く思定めたる方もなければ、何となく引手数たのうき綱の、目もはづかなる其喩へも猶事過て、寄瀬何くにかと我ながら思分でぞ有渡りける。さはありながら、をぼろけにては、人の近付べきにもあらぬ宮中の深棲なるに、何がして心を懸し玉垂の、間求得たる便にか有けん、今の世に肩を双る人もなき高土佐守に通馴て、人しれず思結れたる下紐の、せきとめがたき中なれば、初の程こそ忍けれ、後は早山田に懸るひたふるに打ひたゝけて、あやにくなる里居にのみまかでければ、宮仕ひも常には疎そかなる事のみ有て、主の左のをほゐまうち公も、かく共しらせ給しかば、むつかしの人目を中の関守や、よひ/\ごとの深過るをまたず共あれかしと被許、まかで出ける時もあり。

☆ 佐々木信胤が宮方になったこと

さてこのような状況にあった時、伊予国より特使が駆け上ってくると、大急ぎでしかるべき大将を選定の上、伊予に下って頂きたい、宮方として忠義溢れる戦闘を行いたいと申し出てきました。そこで脇屋刑部義助朝臣を派遣するべく会議が持たれました。

しかしながら伊予国までの道中は、海上も陸上も敵軍に支配されています。一体如何にして下向すれば良いのか、意見がまとまらないところに、備前国の豪族、佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤が早馬をもって、「先月二十三日、小豆島に進攻して義兵を募ったところ、

当国の忠義ある武将らが駆け加わり、逆徒らを少なからず従わせ、京都往還の船路を確保いたしました。急遽近日中に大将を派遣していただきたい」と、申し出てきました。諸卿らはこの報告を聞き、大将進発の見通しが立ち、ここに天運も到来したと大喜びをしました。

そもそもこの佐々木信胤と言う武将は、以前建武の乱(建武二年頃::1335年)勃発の当初、細川卿律師定禅に味方して備前備中の両国を平定支配し、足利将軍に多大な勲功があるので、その恩賞に飽き足らず不満を持つこともないと思われるのに、

なぜ今頃急に宮方に味方するのかその訳を調べてみると、最近天下に何かと災いをもたらす例の傾城(遊女)にありと言われています。当時菊亭(菊亭兼季によって創設された公家)殿の息女に御妻と言う、絶世の美女にして、気品にあふれた優雅な女性がいました。

しかし彼女は元来気が多く、これと言った彼氏も居ないため、多くの男性が言い寄り、どちらかと言えば大勢の引き手に振り回されている網のように思われ、誰か一人に身を寄せようかと考えているところでした。とは言っても普通ではとても人など近づき難い宮中奥深くにあって、

一体どのような事情があったのか、今の世間において肩を並べる人も無いような、高土佐守師秋と馴染みが出来て、人知れず思いをかけていた仲でしたが、思いは募るばかりで始めの内こそ人に気づかれないようにしていたものの、恋心がだんだんと激しさを増すとともに、

良くないことですが実家のもとへの宿下も頻繁になるに従い、当然宮仕えはついついおろそかになりました。彼女の仕える主人、左のをほゐまうち公もこの事情をお知りになり、恋路の邪魔など無粋なことはせず、毎夜、夜の更けるのを待つこともないとお許しになって、お出掛けになる時もありました。


懸し程に、此土佐守に元相馴て、子共数た儲たる鎌倉の女房有ける。是は元来田舎人也ければ、物妬はしたなく心武々敷て、彼源氏の雨夜の物語に、頭中将の指をくひ切たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉とは乍思、いなと云べき方も無て、年を送ける処に、土佐守伊勢国の守護に成て下向しけるが、二人の女房を皆具足して下らんとて、元の女房をば先くだしぬ。御妻を同様にと待しか共、今日よ明日よとて少しうるさげなる気色に見へしかば、土佐守猶も思の色増て、伴行かでは叶まじきとて、三日まで逗留して、兎角云恨ける程に、さらばとて、夜半許に輿指寄せ、几帳指隠して扶乗られぬ。土佐守無限うれしくて、道に少しも不休、軈て伊勢路に趣けり。まだ夜を篭て、逢坂の関の岩かど蹈鳴し、ゆう付鳥に被送て、水の上なる粟津野の、露分行けばにほの海、流の末の河となる、勢多の橋を打渡れば、衣手の田上河の朝風に、比良の峯わたし吹来て、輿の簾を吹揚たり。出絹の中を見入たれば、年の程八十許なる古尼の、額には皺のみよりて、口には歯一もなきが、腰二重に曲てぞ乗たりける。土佐守驚て、「是は何様古狸か古狐かの化たるにてぞ有らん。鼻をふすべよ。蟇目にて射て見よ。」と申ければ、尼泣々、「是は媚者にても候はず。菊亭殿へ年来参通者にて候を、御妻の局へ被召て、「加様にて京に住わびんよりは、我が下る田舎へ行て、且くも慰めかし。」と被仰候し間、さそふ水もがなと思ふ憂身にて候へば、うれしき事に思て昨日御局へ参りて候へば、被留進せて、妻戸に輿を寄たりしに、それに乗れと仰候しかば、何心もなく乗たる許にて候ぞ。」と申ける。土佐守、「さては此女房に出抜れたる者也。彼御所に打入て、奪取ずば下るまじき者を。」とて、尼をば勢多の橋爪に打捨て、空輿を舁返して、又京へぞ上りける。元来思慮なき土佐守、菊亭殿に推寄て、四方の門を差篭て、無残所捜しける。御所中の人々、「こは何なる事ぞ。」とて、上下周章騒事無限。何に求れ共なければ、此女房の住しあたりなる局に有ける女の童を囚へて、責問ければ、「其女房は通方多かりしかば、何くとも差ては知がたし。近来は飽浦三郎左衛門とかや云者にこそ、分て志深く、人目も憚らぬ様に承候しか。」と語りければ、土佐守弥腹を居兼て、軈て飽浦が宿所へ推寄て討んと議りけるを聞て、自科依難遁、身を隠しかね、多年粉骨の忠功を棄て、宮方の旗をば挙ける也。折得ても心許すな山桜さそふ嵐に散もこそすれと歌に読たりしは、人心の花なりけりと、今更思知ても、浅猿かりし事共也。

ところがこの高土佐守師秋には昔から寄り添い、子供など沢山もうけた奥方が鎌倉にいます。この方は元々地方の人ですから、嫉妬心など起こすのは、はしたないと気丈にしていました。しかし彼女も、あの源氏物語の雨夜の物語にある、嫉妬深い女性が頭中将の指に噛み付いたようなことも多々ありました。

とは言っても子供を持つ親であれば、常識はずれなことも出来ず、ずるずると日を送っていましたが、そんな時、土佐守師秋が伊勢国の守護に任命され、下向することとなりました。彼は鎌倉と御妻、二人の女房を引き連れて下ろうと考え、まず鎌倉の女房を先に下しました。

続けて御妻を同じように向かわせようとしましたが、待てども今日か明日かと、何となく気の進まないさそうな感じが見えたので、土佐守は却ってむきになり、こうなればどんなことがあっても連れて行かねばならぬと、彼女のもとに三日に亘って泊り込み、

しつこい程恨みがましく説得を続けたところ、もう断りきれないと観念し、夜半近くなって輿を呼び寄せ目隠しをした上、助けられながら輿に乗られたのです。土佐守は大喜びし途中休憩など取らずに歩み続け、早くも伊勢路に入りました。

まだ夜も明けきらない内に、逢坂の関の石畳を踏みしめて、鶏(ゆうつけ鶏::世の中が乱れたとき、鶏に木綿を付け、都の四境の関所で祓えをした。鶏の別名)に見送られ、湖岸近くの粟津野を、露を踏み分け進む琵琶湖が、やがて流れも終わりになって川となり、

瀬田の橋を渡れば田上河(大津市南西部田上森町を流れる天神川?)を吹く朝の風は、比良山の峰々を吹き降ろす風と一緒になって、輿のすだれを吹き上げたのです。すだれの下から出ていた裾先の奥を見ると、年の頃なら八十歳ばかりの年老いた女性で、額は皺ばかりで口には歯の一本も見えない尼が、

腰の折れ曲がった状態で乗っていました。これをご覧になった土佐守はびっくり仰天、「これは間違いなく古狸か古狐が化けているのだろう。 鼻をいぶしてやれ。蟇目(鏑矢)で射るが良い」と話せば、尼は泣きながら、「私は決して化け物ではございません。

菊亭殿に長年お仕えのため通っていた者ですが、御妻の局に呼ばれて、『このように京都に住んで、心細い暮らしを嘆いているよりも、私が下ろうとしている田舎にでも行って、しばらく心をお安めになれば良いでしょう』と仰って頂き、今更誰からもお誘いを受けることなどないと思っていた我が身ですので、

ありがたいお話だと思い、昨日御局のもとに参じたところ、引き止められているうち、妻戸(開き戸)に輿が寄せられてきて、それに乗られるが良いと仰せられ、何も考えずに乗って来ただけでございます」と、話されたのでした。土佐守は、「しまった。この女にまんまとしてやられたぞ。

菊亭に討ち入ってでも、御妻を奪い取らねばならない」と言って、尼を瀬田の橋近くに捨て置き、空になった輿を担いで再び京に上って行きました。元来物事を深く考えることのない土佐守ですから、菊亭殿の屋敷に押し寄せて、四方の門を閉鎖した上、屋敷内をくまなく探しました。

屋敷にいた人たちは、「これは一体どうしたことでしょう」と皆が皆、ただただうろたえ騒ぐばかりです。いくら探しても見つからないので、御妻の住んでいたと思われる部屋にいた女童を捕らえて、詰問したところ、「あのお方には通ってくる殿方が多く、誰が意中の人なのかはっきりとは知りません。

しかし最近は飽浦三郎左衛門とか申す方が、とりわけ熱心で人目もはばからないほどだと、聞いております」と、話しました。聞いた高土佐守師秋がますます腹を立て、すぐに飽浦の屋敷に押し寄せ、討ち取ってしまえと企てているらしいと聞いた飽浦三郎は、我が身の犯した罪であり逃れ難く、

身を隠すところもないと考え、長年に亘って積み上げてきた忠義や功績を捨てて、宮方に寝返り旗を揚げることにしたのです。
      折得ても 心許すな 山桜 さそふ嵐に 散もこそすれ

と、歌に詠まれたのも、人が持つ心の花だったのかと、今更思い知っても情け無い話です。


○義助予州下向事
去程に四国の通路開ぬとて、脇屋刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙て、四国西国の大将を奉て、下向とぞ聞へし。年来相順ふ兵其数多しといへ共、越前美濃の合戦に打負し時、大将の行末を不知して山林に隠忍び、或は危難を遁て堺を隔てしかば、芳野へ馳来る兵五百騎にも不足けり。され共四国中国に心を通ずる官軍多く有しかば、今一日も可急とて、未明に芳野を打立て、紀伊の路に懸り被通けるに、加様の次ならでは早晩か参詣の志をも遂げ、当来値遇の縁をも可結と被思ければ、先高野山に詣て、三日逗留し、院々谷々拝み廻るに、聞しより尚貴くて、八葉の峯空にそびへ、千仏の座雲に捧げたり。無漏の扉苔閉て、三会の暁に月を期す。或は説法衆会の場もあり、或は念仏三昧の砌もあり。飛行の三鈷地に堕、験に生たる一株の松、回禄の余烟風に去て、軒を焦せる御影堂、香烟窓を出て心細く、鈴の声霧に篭て物冷し。此は昔滝口入道が住たりし菴室の迹とて尋れば、旧き板間に苔むして、荒ても漏ぬ夜の月、彼は古西行法師が結置し、柴の庵の名残とて立寄れば、払はぬ庭に花散て、蹈に迹なき朝の雪、様々の霊場所々の幽閑を見給にぞ、「遁ぬべくは角てこそあらまほしく。」と宣し、維盛卿の心中、誠と被思知たる。且くも懸る霊地に逗留して、猶も憂身の汚れを濯度思はれけれ共、軍旅に趣給ふ事なれば不協して、高野より紀伊の路に懸り、千里の浜を打過て、田辺の宿に逗留し、渡海の舟を汰へ給に、熊野の新宮別当湛誉・湯浅入道定仏・山本判官・東四郎・西四郎以下の熊野人共、馬・物具・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我不劣と奉りける間、行路の資け卓散也。角て順風に成にければ、熊野人共兵船三百余艘調へ立、淡路の武島へ送奉る。此には安間・志知・小笠原の一族共、元来宮方にて城を構て居たりしかば、様々の酒肴・引出物を尽して、三百余艘の舟を汰へ、備前の小島へ送奉る。此には佐々木薩摩守信胤・梶原三郎自去年宮方に成て、島の内には又交る人もなし。されば大船数た汰へて、四月二十三日伊予国今張浦に送著奉る。大館左馬助氏明は、先帝自山門京へ御出有し時、供奉仕て有しが、如何思けん降人になり、且くは将軍に属して居たりけるが、先帝偸に楼の御所を御出有て、吉野に御座有と聞て、軈て馳参たりしかば、君御感有て伊予国の守護に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。又四条大納言隆資子息少将有資は此国の国司にて自去々年在国せらる。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉の者共、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を堺ふて居たりければ、大将下向に弥勢ひを得て、竜の水を得、虎の山に靠が如し。其威漸近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至九国の方までも、又大事出来ぬと云はぬ者こそ無りけれ。されば当国の内にも、将軍方の城僅に十余箇所有けるも、未敵も向はぬ先に皆聞落してんげれば、今は四国悉一統して、何事か可有と憑敷思あへり。

☆ 脇屋義助が伊予国に下向されたこと

さて四国への進撃路が確保出来たので、脇屋刑部卿義助は暦応三年は間違いで、実際は康永元年(興国三年::1342年)四月一日、勅命を拝して四国、西国の軍勢を率いる大将として、下向されることになったと噂されています。長年に亘って義助に従ってきた兵士らは数多くいるとは言っても、

越前や美濃の合戦に負けた時、大将の行方を知らずに山林に隠れたり、或いは危機を脱するため遠方に逃れたりしたので、吉野へ駆けつけて来た兵士らは、五百騎にも届きませんでした。しかし四国や中国には志を同じくする官軍も多くいるので、

一日でも早くと未明には吉野を進発して、紀伊路に入り進軍を続けるうちに、ついでに今まで果たせなかった参詣を済ませ、来世の仏縁をも結んで置こうと考え、まず高野山に詣でて三日間逗留し、院々や谷々の堂塔を順次礼拝して回りましたが、

その高貴な雰囲気は聞いていたより以上で、蓮の花のように八葉の峰々が空にそびえ、千体の仏像が雲に居並んでいるようです。古い昔より煩悩から隔絶され、弥勒菩薩の出現その時を待っているようでもあります。ある所は衆生に対して説法を行う場所であり、

またある所は一心不乱に念仏を唱える場所でもあります。弘法大師が唐より帰朝の際、日本に密教の根本道場を建立したいと、願いを込めて密教法具の三鈷杵を空中に投げました。日本に帰ってくると三鈷杵は一株の松の生えた場所に落ちており、その枝に三鈷杵は掛かっていました。

そこでお大師さまはこの地に伽藍を建立することにしました。数度の火災を受けましたが、その煙は風に流れ去って、一部軒を焦がしたままの御影堂の窓からは、香煙が流れ出て細くたなびき、鈴の声は霧にこもって物寂しく感じられます。ここはその昔、

滝口入道が住まわれていた庵室と聞き尋ねてみれば、古びた板敷きの部屋には苔が一面に生え、荒れてはいるものの、夜になっても月の光が漏れることはありません。またここは、古く西行法師が結ばれた柴の庵の跡だと立ち寄ってみると、手入れのされていない庭には花が一面に散り、

朝の雪は踏み行けども跡も残りません。このようにあちこちの霊場や、処々の由緒ある場所を尋ねてみるにつけ、「逃れることが出来ないのであれば、こうするのが最善であろう」と仰られた、平惟盛卿の心中も、また本心であっただろうと思い知らされました。

このような霊地にしばらく逗留してみると、我が憂き身の汚れをもっともっと洗い落としたく思いましたが、軍旅の途中である我が身では叶い難く、高野山より紀伊路に入りました。千里の浜を過ぎ行き、田辺の宿に滞在して、四国へ渡る舟の段取りをしていると、

熊野の新宮別当湛誉、湯浅入道定仏、山本判官、東四郎、西四郎以下熊野の人たちが、馬、甲冑、弓矢、太刀、長刀そして兵糧米に至るまで、我こそ人に負けるものかと持ち寄って来たので、往路の装備は完璧なものになりました。やがて風向きも良くなってきたので、

熊野の人たちが兵船三百余艘を準備し、淡路島の武島(むしま::沼島?)にお送りしました。この島には安間、志知、小笠原などの一族らが、元々宮方として城を構えていましたので、様々な酒肴や引き出物を揃え、三百余艘の舟を備前国の児島に向かってお送りました。

またこの地には佐々木薩摩守信胤と梶原三郎の二人が昨年より宮方に寝返り、島内には特に交戦関係のある武士団もいません。そこで大船を多数揃え集めて、康永元年(興国三年::1342年)四月二十三日、伊予国今治浦までお送りしました。

ここ伊予国にいる大館左馬助氏明は、先帝後醍醐が山門より京都に還幸された時、お供をしたのですが、何を思ってか足利軍に降伏し、しばらく足利将軍に従属していたのですが、先帝がひそかに花山院の旧御所を脱出し、吉野に臨幸されたと聞くと、

急ぎ吉野に駆けつけ参内しましたので、後醍醐の君は大いに感激されて、伊予国の守護を命じられ、昨年(興国二年)の春から当国に居住しています。また四条大納言隆資の子息、少将有資はこの国の国司として、一昨年(興国元年)より在国しています。

そのほか土居、得能、土肥、河田、武市、日吉らの武将たちは長年宮方として、足利武家方に属する讃岐の敵を牽制し、西は土佐国の畑庄を境にして勢力圏を維持していたので、大将脇屋義助の下向にますます意気盛んとなり、それは水を得た竜のようでもあり、

また虎が大自然に生き生きとするようなものです。その勢力は徐々に近国まで影響を及ぼし出し、四国は言うに及ばず備前、備後、安芸、周防から九国(九州)方面まで、このままでは再び戦乱が起こるのではと、言わない者などいませんでした。

そのため当国に於いても、僅か十余ヶ所有った将軍方の城も、まだ敵が向かってくる前に、話を聞いただけで全て落城してしまったので、今や四国中は完全な支配下に置くこととなり、危惧すべきことなど皆無だと頼もしく思えたのでした。


○義助朝臣病死事付鞆軍事
斯る処に、同五月四日、国府に被坐たる脇屋刑部卿義助、俄に病を受て、身心悩乱し給ひけるが、僅に七日過て、終に無墓成給にけり。相順ふ官軍共、始皇沙丘に崩じて、漢・楚機に乗事を悲み、孔明籌筆駅に死して、呉・魏便りを得し事を愁しが如く、五更に灯消て、破窓の雨に向ひ、中流に舟を失て、一瓢の浪に漂ふらんも、角やと覚へて、此事外に聞へなば、敵に気を得られつべしとて、偸に葬礼を致て、隠悲呑声いへ共、さすが隠無りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河刑部大輔頼春、此事を聞て、「時をば且くも不可失。是司馬仲達が弊に乗て蜀を亡せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千余騎を率して、先伊予の堺なる河江城へ押寄て、土肥三郎左衛門を責らる。義助に順付たりし多年恩顧の兵共、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者共、金谷修理大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後攻の為に海上に推浮ぶ。是を聞て、備後の鞆・尾の道に舟汰して、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推出す。両陣の兵船共、渡中に帆を突て、扣舷時を作る。塩に追ひ風に随て推合々々相戦ひける。其中に大館左馬助氏明が執事、岡部出羽守が乗たる舟十七艘、備後の宮下野守兼信、左右に別て漕双べたる舟四十余艘が中へ分入て、敵の船に乗遷々々、皆引組で海中へ飛入けるこそ、いかめしかりし行迹なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫・舳に櫓を高く掻て、指下して散々に射る。伊予・土佐の舟は皆小舟なれば、逆櫓を立て縦横に相当る。両方の兵、よしや死して海底の魚腹に葬せらるゝ共、逃て天下の人口には落じ者をと、互に機を進め、一引も不引終日戦ひ暮しける処に、海上俄に風来て、宮方の舟をば悉く西を差て吹もどす。寄手の舟をば悉く伊予の地へ吹送る。夜に入て風少静まりければ、宮方の兵共、「是程に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元の方へ漕返べき歟。」と申けるを、大将金谷修理大夫、「運を計り勝つ事を求る時こそ、身を全して功をなさんとは思へ。只一人憑たる大将軍脇屋義助は病に被侵失給ぬる上は、今は可為方なき微運の我等が、生てあらば何許の事か可有。命を限の戦して、弓矢の義を専にする許なるべし。されば運の通塞も軍の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆へ推寄て、其城を追落して、中国の勢著かば西国を責随へん。」とて、其夜の夜半許に、備後の鞆へ押寄する。城中時節無勢也ければ、三十余人有ける者共、且く戦て皆討死しければ、宮方の士卒是に機を挙て、大可島を攻城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待処に、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押寄たり。

☆ 義助朝臣が病死されたことと、鞆の浦で行われた合戦のこと

ところが、同じ年康永元年(興国三年::1342年)五月四日、伊予国の国府今治に陣営を構えていた脇屋刑部卿義助は、急病に襲われ心身とも苦しんだ挙句、僅か七日間の闘病で急死しました。彼に付き従ってきた官軍らは、秦国の始皇帝が沙丘の平台で崩御され、

敵の漢国や楚国らがこの機に乗じて攻撃してくることを悲しんだり、蜀漢国の諸葛孔明が、駐屯地としていた籌筆駅で病を得て死亡し、この情報が呉国や魏国に知られることを心配したような状態に陥りました。この危機はまさしく五更(午前三時から六時頃)に明りを失った上、

破れた窓から雨が降り込んだり、川の流れの中ほどで舟を失って、流れに漂う不安もこのようなものだろうと思い、この事実が外部に漏れたなら、敵は好機到来と考えるに違い有りません。そこで密かに葬礼を執り行い、嘆き悲しみを内に秘めていましたが、とても完全なる秘密は得られがたく、

四国の大将軍として、尊氏が配置していた阿波、備後の守護、細川刑部大輔頼春がこの事を聞きつけ、「ここは直ちに行動すべきだ、時間を置いてはならぬ。まさしく魏国の司馬仲達が、敵の混乱に乗じて蜀を滅ぼしたのと同じ作戦である」と言って、

伊予、讃岐、阿波、淡路の軍勢七千余騎を率いてまず最初に、伊予との国境近くにある川之江城に押し寄せ、宮方の土肥三郎左衛門を攻撃しました。脇屋義助に長年に亘り従ってきた恩顧ある武将、土居、得能、合田、二宮、日吉、多田、三木、羽床、三宅、高市らは、金谷修理大夫経氏を大将として、

兵船五百余艘にて土肥の後方支援のため、海上に浮かび出ました。これを聞いた足利武家方軍は備後国、鞆、尾道で舟を用意し、土肥が守る城の攻撃をするため備後、安芸、周防、長門らの軍勢が、大船千余艘にて海上に浮かびました。

両軍の兵船は海峡の中間あたりで帆を突き立て、船べりを叩いて閧の声を挙げました。潮流に追われたり、風に流されたりしながら、双方もみ合うように戦いました。その中で宮方である大館左馬助氏明の執事、岡部出羽守の乗った舟など十七艘が、備後の武家方である宮下野守兼信が乗って、

左右に分かれて漕ぎ進んでいる四十余艘の舟に分け入り、敵の舟に乗り移っては組み付き、また乗り移っては組み付いて海中に飛び入ると言う、激闘を演じました。武家方の備後、安芸、周防勢の舟は全て大船なので、舟の艫や舳先に櫓を高く構築し、そこから下に向かって激しく射込みました。

対して宮方の伊予や土佐の舟は皆小舟なので、逆櫓(櫓を反対向けにつけ、後方にも進むようにする)を取り付けて、縦横無尽に攻撃しました。両軍の兵士らは例え討ち死にして、海底の魚などに食われようとも、逃げ延びて天下の人からそしりを受けたくないと、お互いに闘争心を高め合いながら、

一歩も引かずに終日戦い続けました。しかし、その時海上にわかに風が強くなり、宮方の舟は全て西に向かって追いやられ、寄せ手武家方の舟はまた、全て伊予の地に吹き着けられました。夜に入って風が少し収まったので、宮方の兵士らは、「これほどついてない時は何をやってもうまくいくものではない。

今は元の場所まで漕ぎ返すが良いのでは」と話すのを、大将の金屋修理大夫は、「つきに恵まれない我らが、運を天に任せて勝機を得ようとするには、ここは全力で戦うしかない。ただ一人頼みとしてきた大将軍、脇屋義助殿が病に倒れお亡くなりになってしまい、

天運に見放された我々が、たとえ生き延びたとしてもどれほどのことがあると言うのか。命の続く限り戦って、弓矢の道に殉ずるのが良いだろう。そう思えば運の良し悪しとか、合戦について縁起が良いとか悪いとか何も言うことはない。さあ、今夜には備後の鞆へ押し寄せ、

そこの城を追い落とし、中国の軍勢を味方につけることが出来れば、西国を攻略し従属させようではないか」と言って、その夜の夜半頃には備後の鞆へ押し寄せました。当時城内には軍勢が駐留しておらず、留守を守っていた三十余人も、しばらく戦ったものの全員が討ち死にしたので、

宮方の軍勢らは大いに気勢をあげ、大可島城を攻撃の拠点として、宮方の軍勢全てを鞆の浦に集結させ、武島(沼島?)や小豆島の味方を待っているところへ、武家方将軍に従う、備後、備中、安芸、周防の四ヶ国の軍勢が、三千余騎で押し寄せてきました。


宮方は大可島を後ろに当て、東西の宿へ舟を漕寄て、打てはあがり/\、荒手を入替て戦たり。将軍方は小松寺を陣に取て、浜面へ騎馬の兵を出し、懸合合揉合たり。互に戦屈して、十余日を経ける処に、伊予の土肥が城被責落。細河刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の被篭たる世田の城へ懸ると聞へければ、土居・得能以下の者共、同く死なば、我国にてこそ尸を曝さめとて、大可島を打棄て、伊予国に引返す。敗軍の士卒相集て、二千余騎有ける其中より、日来手柄露はし名を被知たる兵を、三百余騎勝り出して、懸合の合戦に勝負を決せんと云。是は細川刑部大輔目に余る程の大勢也と聞、「中々何ともなき取集勢を対揚して合戦をせば、臆病武者に引立られて、御方の負をする事有べし。只一騎当千の兵を勝て敵の大勢を懸破り、大将細川刑部大輔と引組で差違へんとの謀也。さらば敵の国中へ入ぬ先に打立。」とて、金谷修理大夫経氏を大将として、勝たる兵三百騎、皆一様に曼荼羅を書て母衣に懸て、兎ても生ては帰まじき軍なればとて、十死一生の日を吉日に取て、大勢の敵に向ひける心の中、樊■も周勃も未得振舞也。あはれ只勇士の義を存する志程、やさしくも哀なる事はあらじとて、是を聞ける者は、皆胄の袖をぞぬらしける。去程に細川刑部大輔七千余騎を率して、敵已に打出るなれば、心よく懸合の合戦を可致とて、千町が原へ打出て、敵の陣を見渡せば、渺々たる野原に、中黒の旗一流幽に風に飛揚して、僅に勢の程三百騎許ぞ磬へたる。細川刑部大輔是を見給て、「当国の敵是程の小勢なるべしとは思はぬに、余に無勢に見ければ、一定究竟の者共を勝て、大勢の中を懸破、頼春に近づかば、組で勝負を決せん為にてぞあるらん。然者思切たる小勢を一息に討んとせば、手に余て討れぬ事有べし。只敵破らんとせば被破て然も迹を塞げ、轡を双て懸らば、偽て引退て敵の馬の足を疲らかせ、打物に成て一騎合に懸らば、あひの鞭を打て推もぢりに射て落せ。敵疲ぬと見ば、荒手を替て取篭よ。余に近付て敵に組るな。引とも御方を見放な。敵の小勢に御方を合すれば、一騎に十騎を対しつべし。飽まで敵を悩まして、弊に乗て一揉々たらんに、などか是等を可不討。」と、委細に手段を成敗して、旗の真前に露れて、閑々とぞ進まれたる。

宮方は大可島を後方に対する防御陣地として、東西の宿場に舟を漕ぎ寄せ、上陸して戦い、また上陸しては戦い、次々と新手を投入して戦い続けました。将軍方は小松寺に陣営を構え、浜辺に騎馬の兵士を向かわせ、正面衝突を幾度となく繰り返しました。

お互い戦いに疲れの出てくる十余日が過ぎた頃、伊予の土肥三郎左衛門が守っていた、川之江城が攻め落とされました。武家方の細川刑部大輔頼春が、宮方の大館左馬助氏明の立て篭もる世田山の城(西条市)を攻撃すると聞いた、

土居や得能以下の者たちは、同じ死ぬのなら我が国にて屍を晒すほうが良いと考え、大可島を捨てて伊予国に引き返しました。敗軍の将官、兵士らは集まり、残っている二千余騎の中から、日頃より武功が多く、その武勇にかけては名を知られた兵士、三百余騎を選抜し、

騎馬による合戦で勝敗を決しようと決めました。と言うのは、細川刑部大輔が率いる軍勢はとてつもない大軍だと聞き、「なまじっか寄せ集めの兵士らを敵軍に向かわせ合戦などすれば、臆病な武者の影響を受けて、味方の負けることが多々ある。

ここは思い切って一騎当千(一人で敵の千人に匹敵するほどの強兵)の精兵を選び抜いて、敵の大軍を駆け散らし、大将の細川刑部大輔に組み付き、刺し違える作戦で行こう。そうと決まれば敵が国内に入って来ぬうちに進発しよう」と言って、金谷修理大夫経氏を大将にして、

選び抜いた兵士三百騎が皆一様に曼荼羅を書いて母衣(ほろ::鎧の背につけて流れ矢の防止や、存在を示す標識用の布)に掛け、めったに生きては帰れない戦闘なので、吉日を選んで出陣し、大軍に立ち向かおうとする心中は、

あの樊カイ(カイは口偏に會::秦末から前漢初期にかけての武将)や周勃(秦末から前漢初期にかけての武将、政治家)でも理解など出来ないでしょう。勇士としての義だけを重んじての信念、立派ではあっても、あまりにも可哀そうなことなので、この話を聞いた人は皆一様に、鎧の袖を濡らしたのでした。

やがて七千余騎を率いた細川刑部大輔は敵がすでに出陣しているならば、一つ正々堂々とさわやかな騎馬戦をしようではないかと、千町ヶ原に進出して敵陣を見渡してみれば、果てもなく続く野原に、中黒の旗(官軍新田の旗)一旒が風に翻ってるのが遠くかすんで見え、

僅か三百騎ばかりの軍勢が控えています。細川刑部大輔はこれを見られると、「ここ伊予国の軍勢はこれほど小勢ではないはずなのに、あまりにも少なすぎる。これはきっと屈強の兵士らを選りすぐって、我ら大軍の中に駆け込んで乱戦の中、頼春に近づくことが出来たなら、

組打ちで勝負を決しようとの考えに違いない。そうだとすれば、決死の覚悟を持った小勢を一気に討ち取ろうとすれば、かえって手こずって失敗することが多い。ここは敵が撃破を狙ってくれば好きにさせておき、後方を遮断せよ。轡を並べてかかって来たら、わざと退却し敵の馬を疲れさせよ。

敵と武器を持っての一騎打ちになりそうになれば、鞭を一呼吸遅れて打ち、敵をやり過ごして後ろから射落とせ。敵が疲れてきたように見えれば、新手を投入して取り囲んでしまえ。必要以上に敵に近づいて敵と組み打ちになるな。また退却する時も味方を連れ戻せ。

敵の小勢を味方の軍勢で対抗するには、敵の一騎に対して味方は十騎を当てることだ。何処までも敵を休ませることなく攻め続け、敵の疲労に乗じて決定的な攻撃を決めれば、敵を殲滅出来ること必定である」と事細かに作戦を与え、旗の先頭に立って静々と進まれたのです。


金谷修理大夫是を見て、「すはや敵は懸ると見へたるは。」とて、些も見繕ふ処もなく、相懸りにむずと攻て、矢一射違る程こそ有けれ、皆弓矢をば■し棄、打物に成て、喚叫で真闇にぞ懸たりける。細川刑部大輔馬廻に、藤の一族五百余騎にて磬へたるが、兼ての謀也ければ、左右へ颯と分れて引へたり。此中に大将有と思も不寄、三百騎の者共是をば目にも懸ず、裏へつと懸抜、二陣の敵に打て懸る。此陣には三木・坂西・坂東の兵共相集て、七百余騎甲の錣を傾て、馬を立納め、閑まり却て磬へたりけるが、勇猛強力の兵共に懸散されて、南なる山の峯へ颯と引て上りけるが、是もはか/゛\しき敵は無りけりとて、三陣の敵に打て懸る。是には詫間・香西・橘家・小笠原の一族共、二千余騎にて引へたり。是にぞ大将は御座らんと見澄して、中を颯と懸破て、取て返し、引組では差違、落重ては頚を取らる。一足も不引戦けるに、宮方の兵三百余騎忽に蹄の下に討死して、僅十七騎にぞ成たりける。其十七騎と申は、先大将金谷経氏・河野備前守通郷・得能弾正・日吉大蔵左衛門・杉原与一・富田六郎・高市与三左衛門・土居備中守・浅海六郎等也。彼等は一騎当千の兵なれば、自敵に当る事十余箇度、陣を破る事六箇度也といへ共、未痛手をも負ず又疲れける体も無りけり。一所に馬を打寄て、馬も物具も見知ねば、大将何共知がたし。差せる事もなき国勢共に逢て、討死せんよりは、いざや打破て落んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返し、七千余騎が真中を懸破て、備後を差て引て行。いかめしかりし振舞也。

金谷修理大夫は敵の動きを見て、「なんと敵はかかって来るようだぞ」と言って、何も考えず敵の攻撃に合わせて攻め込むと、矢の一本ばかりを射込んでから、皆は弓矢を捨て去り、太刀、長刀などの武器を手にして、喚き騒ぎながら、がむしゃらに攻めかかりました。

細川刑部大輔は警護として、藤の一族ら五百余騎を控えさせていましたが、前もっての作戦なので左右にサッと分かれました。金谷軍はまさかこの一団に敵の大将が居るとは思いもよらず、三百騎の兵士らは何も考えず、裏へ駆け抜け、次に控えていた敵陣に攻めかかりました。

この陣には三木、坂西、坂東らの兵士、七百余騎が集まり、矢防ぎのために兜の錣を傾け、馬をおとなしく立たせて静まり返って控えていたのですが、勇猛で屈強の兵士らに蹴散らされ、南方にある山の頂上へサッと引き上げたので、ここにも大した敵は居ないと判断し、

第三の陣に攻めかかりました。ここには詫間、香西、橘家、小笠原らの一族が、二千余騎にて控えていました。ここにはきっと大将が居るだろうと決めてかかり、中央をサッと駆け抜けると引き返し、組み打ちになれば刺し違えられ、馬から重なり落ちては首を取られました。

一歩も引かず戦い続ける内に、宮方の三百余騎の兵士は戦闘の中に討ち死にして、残るは僅か十七騎にまでなりました。その十七騎とは、まず大将の金谷経氏、河野備前守通郷、得能弾正、日吉大蔵左衛門、杉原与一、富田六郎、高市与三左衛門、土居備中守、浅海六郎らです。

彼らは一騎当千の兵士ですから、自ら敵に立ち向かうこと十余ヶ度、また敵陣を破ること六回に及ぶとは言えども、いまだ負傷もせずまた疲労をも感じさせません。彼らは一ヶ所に馬を寄せて、馬や甲冑も知らない状態では、敵の大将を見つけようもない。

このままだと敵の名も無き雑兵に討ち取られることになるだろう、それよりここは敵陣を打ち破って、逃げ落ちようではないかと、十七騎の人たちは再び馬を返し、敵の七千余騎のど真ん中を駆け抜け、備後に向かって退却しました。なんと激しく、またすばらしい動きでしょうか。


○大館左馬助討死事付篠塚勇力事
斯りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散じて、御方の手負死人を注さるゝに、七百人に余れりといへ共、宗徒の敵二百余人討れにければ、人皆気を挙げ勇をなせり。「さらば軈て大館左馬助が篭たる世田の城へ寄よ。」とて、八月二十四日早旦に、世田の後ろなる山へ打上て、城を遥に直下、一万余騎を七手に分て、城の四辺に打寄り、先己が陣々をぞ構へたる。対陣已に取巻せければ、四方より攻寄せて、持楯をかづき寄せ、乱杭・逆木を引のけて、夜昼三十日迄ぞ責たりける。城の内には宗徒の軍をもしつべき兵と憑れし岡部出羽守が一族四十余人、皆日比の与にて自害しぬ。其外の勇士共は、千町が原の戦に討死しぬ。力尽食乏して可防様も無りければ、九月三日の暁、大館左馬助主従十七騎、一の木戸口へ打出て、屏に著たる敵五百余人を、遥なる麓へ追下し、一度に腹を切て、枕を双てぞ臥たりける。防矢射ける兵共是を見て、今は何をか可期とて、或は敵に引組で差違るもあり、或は己が役所に火を懸て、猛火の底に死するもあり。目も当られぬ有様也。加様に人々自害しける其中に、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸無残押開て、只一人ぞ立たりける。降人に出る歟と見ればさは無て、紺糸の胄に、鍬形打たる甲の緒を縮め、四尺三寸有ける太刀に、八尺余りの金撮棒脇に挿て、大音揚て申けるは、「外にては定て名をも聞つらん。今近付て我をしれ。畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国に生長て、新田殿に一人当千と憑れたりし篠塚伊賀守爰にあり。討て勲功に預れ。」と呼て、百騎許磬へたる敵の中へ、些も擬議せず走り懸る。其勢事柄勇鋭たるのみならず、兼て聞し大力なれば、誰かは是を可遮止。百余騎の勢東西へ颯と引退て、中を開てぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持ず、而も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付事無て遠矢に射殺せ。返合せば懸悩して討。」とて、藤・橘・伴の者ども、二百余騎迹に付て追懸る。篠塚些も不騒、小歌にて閑々と落行けるを、敵、「あますな。」とて追懸れば立止て、「嗚呼御辺達、痛く近付て頚に中違すな。」とあざ笑て、件の金棒を打振れば、蜘の子を散すが如く颯とは逃げ、又村立て迹に集り、鏃を汰へて射れば、「某が胄には旁のへろ/\矢はよも立候はじ。すは此を射よ。」とて、後ろを差向てぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なり共若や打止ると、追懸たる敵二百余騎に、六里の道を被送て、其夜の夜半許に、今張浦にぞ著たりける。自此舟に乗て、陰の島へ落ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄て水主許残れる舟数多あり。是こそ我物よと悦で、胄著ながら浪の上五町許を游ぎて、ある舟に岸破と飛乗る。水主・梶取驚て、「是は抑何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是は宮方の落人篠塚と云者ぞ。急此舟を出して、我を陰の島へ送。」と云て、二十余人してくり立ける碇を安々と引挙げ、四十五尋ありける檣を軽々と推立て、屋形の内に高枕して、鼾かきてぞ臥たりける。水主・梶取共是を見て、「穴夥、凡夫の態にはあらじ。」と恐怖して、則順風に帆を懸て、陰の島へ送て後、暇を請てぞ帰にける。昔も今も勇士多しといへ共、懸る事をば不聞とて、篠塚を誉ぬ者こそ無りけれ。

☆ 大館左馬助が討ち死にしたことと篠塚重広の武勇のこと

さてこのような結果になり、大将の細川頼春は合戦が終わってから、味方の死傷者を調べてみると七百人を超えていましたが、敵の主力、二百余人を討ち取っていましたので、武家方の人たちは皆、意気揚々と戦意も高揚し、

「こうなればすぐに大館左馬助が立て篭もっている世田山の城に押し寄せよ」と言って、康永元年(興国三年::1342年)八月二十四日の早朝に世田山城の裏山に登り、敵城を遥かに見下ろし、一万余騎の軍勢を七手に分け、城の四方から近づき、まず各部隊が自陣を構築しました。

攻撃陣地が城を取り巻き終えたので、四方から攻め寄せ楯をかつぎ上げ、乱杭や逆茂木など引き抜き、昼夜を問わず三十日まで攻め続けました。城内には主力として頼られていた、岡部出羽守の一族四十余人は全員、日比の与(場所不明)で自害しました。

その他の兵士らは千町ヶ原の戦闘で討ち死にしました。もはや力尽き、食料も乏しくなりとても守りきることが出来ず、九月三日の暁、大館左馬助主従十七騎は一の木戸口から躍り出て、塀に取り付いていた敵兵五百余人を、遥か下の麓に追い払い、一度に腹を切り、枕を並べて伏せたのでした。

それまで防ぎ矢を射続けていた兵士らはこの事態に、今となれば何が出来るのかと、ある者は敵に組み付き刺し違えたり、またある者は自分の陣営に火をかけ、燃え盛る炎の中で自害する者もいました。まことに目も当てられない悲惨な状況です。

このように人々が自害していく中で、篠塚伊賀守重広一人は、大手にある十二の木戸全てを開け放ち、ただ一人だけで突っ立っていました。降伏を申し出るのかと見ているとそうではなく、紺糸で威した鎧に、鍬形を打った兜の緒を締めて、四尺三寸もある太刀に、

八尺余りの鉄棒状をした太い武器を脇に挟み込み、大音声を上げて、「世間では定めて名前ぐらいは聞いたであろう。今は近づいて良く見るがよい。畠山庄司次郎重忠の六代の孫で、武蔵国に生まれ育ち、新田殿から一騎当千の武者だと頼りにされている篠塚伊賀守がここにいる。

討ち取って己の勲功にするが良い」と呼ばわり、百騎ばかりが控えている敵の中へ、何らためらうことなく走り込みました。その気勢溢れる勇敢なる突入だけでなく、以前より聞き及んでいる大力の持ち主なので、誰が彼を阻止することが出来るでしょう。

百余騎の敵兵らは東西にサッと引き退き、中央を開けてやり過ごしました。篠塚は馬に乗っているわけではなく、弓矢を手にしているわけでもなく、その上一人だけですから、「何を恐れることがあろうか。近づかないようにして遠矢を射込んで討ち取れ。

引き返してきたなら、駆け寄っては離れ、また駆け寄って疲れさせた上、討ち取ってしまえ」と言って、藤、橘、伴の兵士ら二百余騎が後を追って行きました。篠塚は全く動じることなく、小歌(民間で歌われた当時の流行歌)を口ずさみながら落ちて行こうとするのを、

敵が、「逃すな」と追いかけてくれば、立ち止まり、「ちょっと待った、お前たち。余りに近づきすぎて首と仲間割れするな(首が離れる)」と小ばかにしたように笑い、脇に挟んだ金棒を振り回すと、敵は蜘蛛の子を散らすようにサッと逃げます。そしてまた元の場所に群がるように集まり、

鏃を揃えて射ようとすれば、「私の兜にお前たちの射るヘロヘロ矢はとても立つものではない。それ、ここを射ればよい」と言って、後ろ向きになって休みました。しかしながら彼も世間で評判の人間なので、誰か一人ぐらい討ち取るのではないかと、

追いかけてくる敵二百余騎に、六里の道を送られるようにして、その夜の夜半頃に今治浦に着きました。ここから舟に乗って陰の島(沖ノ島や因島、隠岐島とか諸説あり)に落ち延びようと考え、「舟はあるだろうか」と見れば、敵が乗り捨て、船頭だけの残っている舟が多数あります。

これを頂こうと喜び、甲冑を着けたまま波の上を五町ばかり泳ぎ、ある一艘の舟にガバっと飛び乗りました。船頭や水夫らは驚いて、「一体貴様は何者だ」と問いただすと、「何も言うな。私は宮方の落人で篠塚と言う者だ。すぐにこの舟を出して、私を陰の島に送ってくれ」と言って、

二十余人で扱うような碇をやすやすと引き上げ、十四、五尋(約二十六メートルほど、四十五は間違いか?)もある帆柱を軽々と推し立て、そのまま屋形の中に入り、高枕をし鼾をかいて寝てしまいました。船頭も水夫もこの様子を見て、「これはまたあきれ返るばかりだ。

普通の人間のやることとは考えられない」と恐怖を感じ、すぐに順風を帆に受けさせ、陰の島に送り届けた後、別れを申し出て帰りました。昔も今も勇士と言われる人は多いけれど、これほどの所業は聞いたことがないと、篠塚のことを褒めない者はいません。      (終り)

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