23 太平記 巻第二十三  (その一)


○大森彦七事
暦応五年の春の比、自伊予国飛脚到来して、不思議の註進あり。其故を委く尋れば、当国の住人大森彦七盛長と云者あり。其心飽まで不敵にして、力尋常の人に勝たり。誠に血気の勇者と謂つべし。去ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上り給し時、新田義貞兵庫湊河にて支へ合戦の有し時、此大森の一族共、細川卿律師定禅に随て手痛く軍をし、楠正成に腹を切せし者也。されば其勲功異他とて、数箇所の恩賞を給りてんげり。此悦に誇て、一族共、様々の遊宴を尽し活計しけるが、猿楽は是遐齢延年の方なればとて、御堂の庭に桟敷を打て舞台を布、種々の風流を尽さんとす。近隣の貴賎是を聞て、群集する事夥し。彦七も其猿楽の衆也ければ、様々の装束共下人に持せて楽屋へ行けるが、山頬の細道を直様に通るに、年の程十七八許なる女房の、赤き袴に柳裏の五衣著て、鬢深く削たるが、指出たる山端の月に映じて、只独たゝずみたり。彦七是を見て、不覚、斯る田舎などに加様の女房の有べしとは。何くよりか来るらん、又何なる桟敷へか行らんと見居たれば、此女房彦七に立向ひて、「路芝の露払べき人もなし。可行方をも誰に問はまし。」とて打しほれたる有様、何なる荒夷なりとも、心を不懸云事非じと覚ければ、彦七あやしんで、何なる宿の妻にてか有らんに、善悪も不知わざは如何がと乍思、無云量わりなき姿に引れて心ならず、「此方こそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、適用意の桟敷候。御入候へかし。」と云ければ、女些打笑て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云て、跡に付てぞ歩ける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、未一足も土をば不蹈人よと覚へて、行難たる有様を見て、彦七不怺、「余に露も深く候へば、あれまで負進せ候はん。」とて、前に跪たれば、女房些も不辞、「便なう如何が。」と云ながら、軈て後ろにぞ靠ける。白玉か何ぞと問し古へも、角やと思知れつゝ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたど/\しく心も空にうかれつゝ、半町許歩けるが、山陰の月些暗かりける処にて、さしも厳しかりつる此女房、俄に長八尺許なる鬼と成て、二の眼は朱を解て、鏡の面に洒けるが如く、上下の歯くひ違て、口脇耳の根まで広く割、眉は漆にて百入塗たる如にして額を隠し、振分髪の中より五寸許なる犢の角、鱗をかづひて生出たり。其重事大磐石にて推が如し。彦七屹と驚て、打棄んとする処に、此化物熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴で虚空に挙らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組で深田の中へ転落て、「盛長化物組留めたり。よれや者共。」と呼りける声に付て、跡にさがりたる者共、太刀・長刀の鞘を放し、走寄て是を見れば、化物は書消す様に失にけり。彦七は若党・中間共に引起されたれ共、忙然として人心地もなければ、是直事に非ずとて、其夜の猿楽は止にけり。さればとて、是程まで習したる猿楽を、さて可有に非ずとて、又吉日を定め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双べたれば、見物の輩群をなせり。

☆ 大森彦七のこと

さて暦応五年(興国三年::1342年)春の頃、伊予国から飛脚が到来し、不可解な情報がもたらされました。以下はその情報の詳しい調査結果です。伊予国に住居する大森彦七盛長と言う者が居りました。その男の性格はあくまで乱暴かつ無法であり、膂力も尋常ではありません。

まことに血気盛んな勇者とも言うべき人間です。去る建武三年(延元元年::1336年)五月に、現在の足利尊氏将軍が九州から攻め上って来た時、新田義貞が兵庫の湊川で防衛戦を行いましたが、この大森の一族らは、細川卿律師定禅の指揮下にあって激戦を制し、楠木正成に腹を切らせた者です。

そこでその功績は他と異なり特別であると、数ヶ所の恩賞地を賜りました。彼はこのことを喜ぶと共に名誉に感じ、一族らとさまざまな遊宴を催して、贅沢三昧の日々を送っていましたが、猿楽については長寿を願うものであるとの理由から、寺院の庭に桟敷を設け、舞台も設置し種々の趣向を凝らしました。

この噂を聞いた近隣の人々などが、身分に関係なく大勢集まりました。彦七もその猿楽に出演する予定なので、いろいろな装束など下人に持たせて楽屋に向かいました。山ふもとあたりの細道をまっすぐに歩んでいると、年の頃、十七、八歳の女性が、

赤い袴に柳裏の五衣(やなぎうら::織によって裏が青色。五衣::五枚の重ね着)を着て、耳際の髪を美しく整え、折から山の端より顔を出した月に照らされて、只一人たたずんでいました。彦七はこの女性を見て、このような田舎に、れほど美しい女性がいるとは思えない。きっと他所から来たのだろう。

また何処の桟敷に向かうのかと見ていると、この女性は彦七に向かって、「案内をしてくれる方が誰も居りません。どう行くのか誰に聞けば良いのでしょう」と、しょんぼりしています。この様子に如何に荒々しく粗野な武士と言えども、心を動かさずに言葉をかけないではいられず、

彦七はどのような事情があるのか、また誰の奥方なのかも知らないのに、声をかけて良いのか分らないまま、その姿を無視することも出来ず、思わず、「こちらの道を行かれれば良いでしょう。もし桟敷の用意がなければ、たまたま空いている桟敷をご利用してください。

どうぞお入りなさい」と話せば、女性はにっこりと微笑んで、「うれしゅうございます。では桟敷にお邪魔させていただきます」と言って、彦七の後について歩みました。美しい衣装にさえ耐えるのが精一杯の姿は、まことに痛々しく、未だ一歩たりと土を踏んだこともない人とも思え、

おぼつかない歩き姿を見て彦七はこらえ切れず、「この道はあまりにも露が多く歩き辛いので、あっちまで背負って進ぜましょう」と言って、彼女の前にひざまずくと、女性は別に断ることもなく、「お願いしても良いでしょうか」と言いながら、すぐ彦七の背に回って寄りかかりました。

白玉か何ぞと問し古も(伊勢物語::女を背負って連れ出した時の話)、このような状況だったのかと思いながら、嵐のため散った花が、袖にかかるほどの重さも感じず、梅花の香りを思いながら、歩む足元もおぼつかなく、心も上の空で半町ばかりを歩き、山陰の月が少しばかり隠れて薄暗くなった所で、

これほど美しい女性が、にわかに身の丈、八尺ほどの鬼に変身したのです。二つの眼は朱を解いて鏡の表面に落としたように赤く、耳の根元まで裂けた口は上下の歯がかみ合わず、眉は眉で漆を百回も塗り重ねたように額を隠していますが、振り分けになった髪の中より、

五寸ほどの仔牛の角のようなものが、鱗をまとって生え出ています。その重さはまるで大きな岩に押しつぶされそうにも感じられます。彦七はびっくりして投げ捨てようとしましたが、この化け物は熊のような手で、彦七の髪を掴んで空中に放り投げようとしました。

しかし彦七も元々強く勇敢な男ですから、この鬼に向かって力任せに組み付き、そのまま深田に転げ落ち、「盛長が化け物を組み伏せたぞ。皆の者寄って来い」と呼ばわると、その声に誘われて後ろに下がっていた武士らが、太刀、長刀を鞘から抜き放ち走り寄って見ると、

化け物は掻き消すようにいなくなっていました。彦七は若侍や中間らに引き起こされましたが、呆然として平常心を失っており、今回の出来事もただ事と思われず、その夜の猿楽は中止になりました。とは言ってもこれほど練習を重ねてきた猿楽を、このまま中止にすることも出来ず、

また吉日を選んで堂の前に舞台を造り、桟敷も設置したので、見物の人たちが大勢集まりました。


猿楽已に半ば也ける時、遥なる海上に、装束の唐笠程なる光物、二三百出来たり。海人の縄焼居去火か、鵜舟に燃す篝火歟と見れば、其にはあらで、一村立たる黒雲の中に、玉の輿を舁連ね、懼し気なる鬼形の者共前後左右に連なりたり。其迹に色々に胄たる兵百騎許、細馬に轡を噛せて供奉したり。近く成しより其貌は不見。黒雲の中に電光時々して、只今猿楽する舞台の上に差覆ひたる森の梢にぞ止りける。見物衆みな肝を冷す処に、雲の中より高声に、「大森彦七殿に可申事有て、楠正成参じて候也。」とぞ呼りける。彦七、加様の事に曾恐れぬ者也ければ、些も不臆、「人死して再び帰る事なし。定て其魂魄の霊鬼と成たるにてぞ有らん。其はよし何にてもあれ、楠殿は何事の用有て、今此に現じて盛長をば呼給ぞ。」と問へば、楠申けるは、「正成存命の間、様々の謀を廻して、相摸入道の一家を傾て、先帝の宸襟を休め進せ、天下一統に帰して、聖主の万歳を仰処に、尊氏卿・直義朝臣、忽に虎狼の心を挿み、遂に君を傾奉る。依之忠臣義士尸を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属に成て瞋恚を含む心無止時。正成彼と共に天下を覆さんと謀に、貪瞋痴の三毒を表して必三剣を可用。我等大勢忿怒の悪眼を開て、刹那に大千界を見るに、願ふ処の剣適我朝の内に三あり。其一は日吉大宮に有しを法味に替て申給りぬ。今一は尊氏の許に有しを、寵愛の童に入り代て乞取ぬ。今一つは御辺の只今腰に指たる刀也。不知哉、此刀は元暦の古へ、平家壇の浦にて亡し時、悪七兵衛景清が海へ落したりしを江豚と云魚が呑て、讃岐の宇多津の澳にて死ぬ。海底に沈で已に百余年を経て後、漁父の綱に被引て、御辺の許へ伝へたる刀也。所詮此刀をだに、我等が物と持ならば、尊氏の代を奪はん事掌の内なるべし。急ぎ進せよと、先帝の勅定にて、正成罷向て候也。早く給らん。」と云もはてぬに、雷東西に鳴度て、只今落懸るかとぞ聞へける。盛長是にも曾て不臆、刀の柄を砕よと拳て申けるは、「さては先度美女に化て、我を誑さんとせしも、御辺達の所行也けるや。御辺存日の時より、常に申通せし事なれば、如何なる重宝なり共、御用と承らんに非可奉惜。但此刀をくれよ、将軍の世を亡さんと承つる、其こそえ進すまじけれ。身雖不肖、盛長将軍の御方に参じ、無弐者と知れ進せし間、恩賞厚く蒙て、一家の豊なる事日比に過たり。されば此猿楽をして遊ぶ事も偏に武恩の余慶也。凡勇士の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦ひ身を寸々に割れ、骨を一々に被砕共、此刀をば進すまじく候。早御帰候へ。」とて、虚空をはたと睨で立たりければ、正成以外忿れる言ばにて、「何共いへ、遂には取ん者を。」と罵て、本の如く光渡り、海上遥に飛去にけり。見物の貴賎是を見て、只今天へ引あげられて挙る歟と、肝魂も身に添ねば、子は親を呼び、親は子の手を引て、四角八方へ逃去ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休にけり。

さて、その日の猿楽も半ばまで進んだ頃、遥か遠くの海上に、正装の時に持つ傘くらいの光るものが、二、三百ほど出現しました。漁師が縄を燃やす漁り火か、また鵜飼いの篝火かと見れば、そうではなく、ひとかたまりになった黒雲の中に、玉の輿をかつぎ連ねて、恐ろしい形相の鬼のような者どもが、

前後左右に並んでいました。その後ろには種々の甲冑を身に着けた兵士ら百騎ばかりが、駿馬に轡を取り付けてお供しています。近づいてきてもその顔は分りません。時々黒雲の中で雷光が輝き、その中を進んできた一行らは、現在行われている猿楽の舞台に、

覆いかぶさっている森の梢に止まりました。見物の群集ら全員が、驚き恐れて見守っている中、雲の中から声高々と、「大森彦七殿に申し上げたいことがあり、楠木正成が参上して来ました」と、呼びかけたのです。彦七はこの程度で恐れるような男ではありませんから、

少しも動じることなく、「人は死んでから再びこの世に戻ってくることなどあり得ない。きっと貴殿の霊魂(死者の魂)が悪鬼と化したものであろう。そのことはどうでも良いが、楠木殿は一体何の用があって、今ここに現れ盛長を呼ばれたのだ」と問いかけると、

楠木は、「正成は存命中、様々な謀略をめぐらして、北条相模入道一家を滅亡に導き、先帝後醍醐のお心を和ませ奉り、天下の統一を実現し、帝と朝廷の幾久しい安定を期待していたところ、尊氏卿とその弟、直義朝臣は瞬く間に邪悪なる考えを起こし、とうとう帝の追放と言う暴挙に出た。

このため、先帝のために戦い、死屍を戦場にさらした忠臣や義士らは、皆が皆、修羅道(争いの世界)の一族となって、その怒りは収まるところを知らない。この正成は彼らと共に、現在の天下を覆えすべく計画をしているが、そのためには貪瞋痴(貪欲、怒り、愚痴三つの煩悩)と言う三毒を表す三つの剣が必要である。

我ら大勢の者が怒りの眼を開き、瞬時にこの三千大千世界(仏の教化の及ぶ範囲)を見てみれば、我らの望む剣が我が国に三振りある。その一つは日吉大社に蔵していたものを、法要の実施と引き換えに貰い受けた。また今一つは、尊氏のもとにあったものを、

寵愛対象の美童を送り込むことで乞い願いました。そして残る一つは、今、貴殿が腰に差して居られる太刀です。ご存知ではないでしょうか。この刀は元暦(1184-1185年)の昔、平家が壇ノ浦にて滅亡した時、悪七兵衛景清が海に落としたものを、イルカ(江豚)と言う魚が飲み込んで、

その後、讃岐の宇多津の沖にて死にました。海底に沈んでから、すでに百余年が過ぎた頃、漁師の網によって引き上げられ、貴殿のもとに伝えられた刀である。と言うことで、その刀さえ我らが手に入れることが出来れば、尊氏の地位を奪うことは、いとも簡単なことである。

すぐに差し出させるようにと、先帝後醍醐の命令に従って、正成が参上してきたものである。早速頂こう」と言い終わらぬ内に、雷鳴が東西に響き渡り、今にも落ちそうに聞こえます。盛長はこの状況にあっても、全く恐れることなく、刀の柄を砕けよとばかりに握り締め、

「すると先程、美女に化けて私をたぶらかそうとしたのも、貴殿らの仕業だったのか。貴殿の存命中より常に言い続けてきたことですが、いかに貴重な物であっても、帝よりのご依頼であれば、どうして差し出すことをためらうでしょうか。しかしながら、この刀を差し出してくれ、

そして将軍の世を滅ぼそうではないかと聞いた以上、とても差し出すことは出来ません。私、盛長はそれ程大した人物ではありませんが、将軍の味方に属し、二心の無い忠義溢れる人物として知られ、恩賞も十分に賜り、一家は豊かに日々を過している。

そして、このように猿楽を行って遊べると言うのも、とりもなおさず将軍よりの恩賞のおかげです。一般に勇者と呼ばれる者が持つ本来の考えは、ただ心を変えることなく、ひたすら義に生きようとすることである。そこでたとえ身体をずたずたに切り刻まれ、骨を粉々に砕かれようとも、

この刀をお渡しすることは出来ません。すぐにお帰りになってください」と言って、キッと空を睨み立ち続けました。正成は激怒して、「どうとでも言えば良い。最後には取り上げて見せようぞ」と罵倒し、元のように光を放ちながら、海上遥か遠方に飛び去ったのでした。

猿楽見物に来ていた人々はこの様子を見て、すぐにでも天に引き上げられるのではないかと、生きた心地もせず、子供は親を呼び、親は子の手を引いて四方八方に逃げ惑ったので、また今夜の猿楽も二、三番で中止となりました。


其後四五日を経て、雨一通降過て、風冷吹騒ぎ、電時々しければ、盛長、「今夜何様件の化物来ぬと覚ゆ。遮て待ばやと思ふ也。」とて、中門に席皮敷て胄一縮し、二所藤の大弓に、中指数抜散し、鼻膏引て、化物遅とぞ待懸たる。如案夜半過る程に、さしも無隈つる中空の月、俄にかき曇て、黒雲一村立覆へり。雲中に声有て、「何に大森殿は是に御座ぬるか、先度被仰し剣を急ぎ進せられ候へとて、綸旨を被成て候間、勅使に正成又罷向て候は。」と云ければ、彦七聞も不敢庭へ立出て、「今夜は定て来給ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初は何共なき天狗・化物などの化して候事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及候はざりき。今慥に綸旨を帯したるぞと奉候へば、さては子細なき楠殿にて御座候けりと、信を取てこそ候へ。事長々しき様に候へ共、不審の事共を尋ぬるにて候。先相伴ふ人数有げに見へ候ば、誰人にて御渡候ぞ。御辺は六道四生の間、何なる所に生てをわしますぞ。」と問ければ、其時正成庭前なる鞠の懸の柳の梢に、近々と降て申けるは、「正成が相伴人々には、先後醍醐天皇・兵部卿親王・新田左中将義貞・平馬助忠政・九郎大夫判官義経・能登守教経、正成を加へて七人也。其外泛々の輩、計るに不遑。」とぞ語ける。盛長重て申けるは、「さて抑先帝は何くに御座候ぞ。又相随奉る人々何なる姿にて御座ぞ。」と問へば、正成答て云、「先朝は元来摩醯首羅王の所変にて御座ば、今還て欲界の六天に御座あり。相順奉る人人は、悉脩羅の眷属と成て、或時は天帝と戦、或時は人間に下て、瞋恚強盛の人の心に入替る。」「さて御辺は何なる姿にて御座ぬる。」と問へば、正成、「某も最期の悪念に被引て罪障深かりしかば、今千頭王鬼と成て、七頭の牛に乗れり。不審あらば其有様を見せん。」とて、続松を十四五同時にはつと振挙たる、其光に付て虚空を遥に向上たれば、一村立たる雲の中に、十二人の鬼共玉の御輿を舁捧たり。其次には兵部卿親王、八竜に車を懸て扈従し給ふ。新田左中将義貞は、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲数百騎にて後陣に支らる。其迹に能登守教経、三百余艘の兵船を雲の浪に推浮べ給へば、平馬助忠政、赤旗一流差挙て、是も後陣に控へたり。又虚空遥に引さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些も不違、紺地錦胄直垂に黒糸の胄著て、頭の七ある牛にぞ乗たりける。此外保元平治に討れし者共、治承養和の争に滅し源平両家の輩、近比元弘建武に亡し兵共、人に知れ名を顕す程の者は、皆甲胄を帯し弓箭を携へて、虚空十里許が間に無透間ぞ見へたりける。此有様、只盛長が幻にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽に風に順雲の如、漸々として消失にけり。只楠が物云ふ声許ぞ残ける。盛長是程の不思議を見つれ共、其心猶も不動、「「一翳在眼空花乱墜す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足ん。縦如何なる第六天の魔王共が来て謂ふ共、此刀をば進ずまじきにて候。然らば例の手の裏を返すが如なる綸旨給ても無詮。早々面々御帰候へ。此刀をば将軍へ進候はんずるぞ。」と云捨て、盛長は内へ入にけり。正成大に嘲て、「此国縱陸地に連なりたり共道をば輒く通すまじ。況て海上を通るには、遣事努々有まじき者を。」と、同音にどつと笑つゝ、西を指てぞ飛去にける。

さてその後四、五日過ぎてからのある日、通り雨が過ぎると冷たい風が吹き荒れ、稲妻も時々光り出したので、盛長は、「今夜はどうも例の化け物が現れそうに思われる。化け物の現れる前に、先立って待ってやろうと思う」と言って、中門に皮を敷き、

鎧に身を固めて二所籐(籐を二ヶ所巻いた弓)の大弓に、実戦用の矢を数本用意して、鼻の脂で矢を滑らかにし、化け物め、今や遅しと待ちました。案の定夜半が過ぎた頃、あれほど陰や曇るところも無く、中空に浮かんでいた月が突然かき曇り、一団の黒雲が天を覆いました。

その雲の中から声がして、「どうして大森殿はここに居られるのだ。先日言い渡しておいた剣をすぐ差し出させるようにと、綸旨を蒙ったので、勅使として正成が再び参った」と、言いました。彦七はそれを最後まで聞くことなく庭に立って出ると、「今夜はきっと来られるに違いないと考え、

宵の内からここでお待ちししていました。当初はその辺にいる天狗や化け物の仕業と理解していたので、詳しく質問などしませんでした。しかし今、確かに綸旨をお持ちになっていると聞けば、このお方は間違いなく楠木殿であろうと信用しました。

少し長くなりますが、不審に思うことなどお尋ねしたく思います。まず最初に、伴われている人が数多く見受けられますが、どなた方が来られているのですか。また貴殿は六道四生(死ぬと業により輪廻転生する世界から、生まれ変わる四種類)の中、何処に生まれておられるのですか」と、問いかけました。

問いかけに対して正成は、庭の蹴鞠場に植えてある柳の式木の梢近くに降りてきて、「正成がお供をしている人々とは、まず後醍醐天皇、兵部卿護良親王、新田左中将義貞、平馬助忠政(保元の乱の時、崇徳上皇の味方をする)、九郎大夫判官義経そして能登守教経に、

私、正成を加えて七人である。その他、大勢の人々については、数える暇はない」と、答えました。盛長は重ねて、「それならば先帝後醍醐殿は何処に居られるのでしょうか。またお供として従われている人々は、如何なる姿をされているのでしょうか」との問いに対して、

正成は、「先帝後醍醐殿は本来、摩醯首羅王(大自在天::自在天外道の主神)がこの世に姿を変えて現れたお方なので、今はお帰りになり、欲界の六天(六欲天::三界のうちの本能の支配する欲界に属する六つの天)に居られます。またお供として従っている人々は、全員修羅の一族として、

ある時は天帝(帝釈天::梵天と共に仏法守護の善神)と戦い、またある時は人間界に下って、煩悩に溺れた人の心に入り込みます」「それでは貴殿は如何なるお姿ですか」と問えば、正成は、「それがしも、最期の悪念に引きずられ、成仏を妨げる障害が多いため、

今や千頭王鬼(意味不明)となって、からだは一つにして、かしらの七つある牛に乗っている。ご不審であればその有様を見せて進ぜよう」と言って、松明を十四、五本同時にパッと振り上げ、その光を追って空中はるかを見上げれば、一群の雲の中で十二人の鬼どもが、

帝の乗られた玉の御輿を担いでいました。その次には兵部卿親王が八竜に車を懸けて(意味不明)付き従っておられます。新田左中将義貞は三千余騎を従えて先陣を固め、また九郎大夫判官義経は、一同揃って鎧兜に身を固めた数百騎にて、後陣の警戒に当たっています。

その後に続いて能登守教経が三百余艘の兵船を、雲の波に浮かべられると、平馬助忠政が赤旗一旒を差し上げ、同じく後陣に控えています。また空中遥か後方に、楠木正成が湊川における合戦の時見た姿と寸分違わず、紺地錦の鎧直垂に黒糸嚇しの鎧を身に着け、

頭の七つある牛に乗っています。この人たち以外に、保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)において討たれた者たち、また治承(1177−1181年)、養和(1181年)の源平合戦いのため滅亡した源平両家の人たち、また最近の元弘(1331年)、建武(1334年)に起こった騒乱に討たれた兵士らで、

その名を人に知られた武将ら全員が、甲冑を身に着け弓箭を手にして、空中十里に渡って隙間なく並んでいるのが見えています。この様子は盛長一人だけに幻のように見えて、他の人たちには見えません。盛長が左右に向かって、「あれが見えないのか」と言おうとすれば、

たちまち風に吹き流される雲のように、次第に消え去ります。そして楠木の話す声だけが残っています。盛長はこれほどの不可解な出来事に出会っても、依然として少しも動じることなく、「『目に何か影や曇りがあれば、実態のない花のようなものが乱れ落ちるのが見える』と、言われている。

様々に変化しようが、怪奇な現象であろうが何も驚くことなどない。たとえ第六天にいる如何なる魔王どもが来て要求しようとも、この刀は決して渡さない。だから、すぐに手のひらを返すような綸旨など受け取っても仕方ない。一同の方々、早々にお引取りください。

この刀は尊氏将軍に献上しようぞ」と言い捨て、盛長は室内に入りました。正成は大いに軽蔑を含んで、「この国がたとえ陸地に連なっているとはいえ、たやすく通行することは許さない。いわんや海上の通行など、決して許すことはないだろう」と言うと、皆はいっせいにドッと笑い、西に向かって飛び去りました。


其後より盛長物狂敷成て、山を走り水を潜る事無休時。太刀を抜き矢を放つ事間無りける間、一族共相集て、盛長を一間なる所に推篭て、弓箭兵杖を帯して警固の体にてぞ居たりける。或夜又雨風一頻通て、電の影頻なりければ、すはや例の楠こそ来れと怪む処に、如案盛長が寝たる枕の障子をかはと蹈破て、数十人打入音しけり。警固の者共起周章て太刀長刀の鞘を外して、夜討入たりと心得て、敵は何くにかあると見れ共更になし。こは何にと思処に、自天井熊の手の如くなる、毛生て長き手を指下して、盛長が本鳥を取て中に引さげ、破風の口より出んとす。盛長中にさげられながら件の刀を抜て、化物の真只中を三刀指たりければ、被指て些弱りたる体に見へければ、むずと引組で、破風より広庇の軒の上にころび落、取て推付け、重て七刀までぞ指たりける。化物急所を被指てや有けん、脇の下より鞠の勢なる物ふつと抜出て、虚空を指てぞ挙りける。警固の者共梯を指て軒の上に登て見れば、一の牛の頭あり。「是は何様楠が乗たる牛か、不然ば其魂魄の宿れる者歟。」とて、此牛の頭を中門の柱に結著て置たれば、終夜鳴はためきて動ける間、打砕て則水底にぞ沈めける。其次の夜も月陰風悪して、怪しき気色に見へければ、警固の者共大勢遠侍に並居て、終夜睡らじと、碁双六を打てぞ遊びける。夜半過る程に、上下百余人有ける警固の者共、同時にあつと云けるが、皆酒に酔る者の如く成て、頭べを低て睡り居たり。其座中に禅僧一人眠らで有けるが、灯の影より見れば、大なる寺蜘蛛一つ天井より下て、寝入たる人の上を這行て、又天井へぞ挙りける。其後盛長俄に驚て、「心得たり。」と云侭に、人と引組だる体に見へて、上が下にぞ返しける。叶はぬ詮にや成けん、「よれや者共。」と呼ければ、傍に臥たる者共起挙らんとするに、或は柱に髻を結著られ、或は人の手を我足に結合せられて、只綱に懸れる魚の如く也。此禅僧余りの不思議さに、走立て見れば、さしも強力の者ども、僅なる蜘のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取て押へたるぞ。火を持てよれ。」と申ければ、警固の者共兎角して起挙り、蝋燭を灯て見に、盛長が押へたる膝を持挙んと蠢動ける。諸人手に手を重て、逃さじと推程に、大なる土器の破るゝ音して、微塵に砕けにけり。其後手をのけて是を見れば、曝たる死人の首、眉間の半ばより砕てぞ残りける。盛長大息を突て、且し心を静めて腰を探て見れば、早此化物に刀を取れ、鞘許ぞ残にける。是を見て盛長、「我已に疫鬼に魂を被奪、今は何に武く思ふ共叶まじ。我命の事は物の数ならず、将軍の御運如何。」と歎て、色を変じ泪を流して、わな/\と振ひければ、聞者見人、悉身毛よ立てぞ候ける。角て夜少し深て、有明の月中門に差入たるに、簾を高く捲上て、庭を見出したれば、空より毬の如くなる物光て、叢の中へぞ落たりける。何やらんと走出て見れば、先に盛長に推砕かれたりつる首の半残たるに、件の刀自抜て、柄口まで突貫てぞ落たりける。不思議なりと云も疎か也。軈て此頭を取て火に抛入たれば、跳出けるを、金鋏にて焼砕てぞ棄たりける。

このことがあってから盛長は、何かに取り付かれているように、山を走ったり水に潜ったりと休むことを知りません。また太刀を抜いたり、矢を放つことなど止まることもないので、一族の者は相談の上、盛長を一間に押し込め、弓箭や武器を手にして周辺を警固しました。

さてある夜のこと、また激しい風雨がひとしきりあり、それが去ったあと稲光がしきりにするので、さてはまた、例の如く楠木が来るのではと怪しんでいたところ、案の定、盛長が寝ている枕もとの障子をガバっと蹴破り、数十人のなだれ込む音がしました。

警固についていた武士ら、飛び起きると、大慌てで太刀、長刀の鞘を抜き放ち、これは夜討に違いないと考え、敵は一体何処にいるのかと見渡しても、何も見えません。一体何事かと思っていると、天井から熊の前足のように毛むくじゃらの長い手が下りてきて、盛長のもとどりをつかむと、

空中に引き上げ、破風を通過して出ようとしました。盛長は空中にありながらも例の剣を抜くと、化け物の真っ只中を三度に渡って刺し貫きました。そのため化け物も少し弱ってきたように思われたので、力任せに組み付き、破風から広庇の軒下まで転び落ち、

そのまま押さえつけて再び七度まで刺しました。化け物は急所を刺されたためか、脇の下より鞠のような形をしたものが、突然抜け出してくるや、空に向かって上がって行きました。警固の武士らは梯子を用意して、軒の上に登って見ると、牛の頭が一つありました。

「これは間違いなく楠木が乗っていた牛か、でなければ、楠木の霊魂が取り付いたものだろう」と言って、この牛の頭を中門の柱に結わえ付けておいたところ、一晩中鳴き揺れ動くので、砕いてすぐ水底に沈めてしまいました。そして翌日の夜も、月の光や吹く風に不吉な気配が感じられ、

何か起こりそうな予感がするので、警固の武士らは母屋から遠く離れた武士の詰め所に大勢集まって、今夜は不寝番をしようと、碁や双六をして遊んでいました。夜半を過ぎる頃、身分の上下含めて百余人ほどの警固武士ら全員が、同時にアッと声を挙げると皆が皆、

酒に酔ったように頭を下げて眠ってしまいました。その中で禅僧一人だけが眠らずにいましたが、灯火の光を頼りに見ると、大きな寺蜘蛛(山蜘蛛、土蜘蛛などの妖怪か?)が一匹、天井から降りてきて、寝込んでいる人の上を這いずり回ってから、再び天井に上っていきました。

その後しばらくして盛長は突然びっくりしたように、「よし、わかった」と言うや、まるで人と取っ組み合いをしているように、上になったり下になったりしました。しかし、とてもかなわないと思ったのか、「皆の者、寄って来い」と呼びつけたので、

傍に伏せていた者どもは起き上がろうとしましたが、ある者は柱にもとどりを結わえ付けられたり、またある者は人の手が自分の足に結びつけられている有様で、まるで網にかかった魚のようです。見ていた禅僧はこの不思議な出来事に、走りよって見ると、

あれほど剛勇の者どもも、僅かな蜘蛛の巣に手足が絡まって、全く動きが取れません。しかし盛長が、「化け物を取り押さえたぞ。明かりを持って来い」と言ったので、警固の武士らは何とか起き上がり、蝋燭をともして見ると、化け物は押さえつけている盛長の膝を持ち上げようと、もがいています。

周りの武士らが大勢の手を重ねて、逃すなと押さえつけたところ、まるで大きな土器が割れるような音と共に、粉々に砕けました。その後、手をのけて様子を見ると、眉間の中ごろから砕け残ったしゃれこうべがありました。盛長は大きなため息をつき、しばし心を落ち着かせてから、

腰の辺りを探ってみると、はやくも化け物に刀を奪われ、鞘だけが残っていました。これを知った盛長は、「私はすでにあの悪病神に魂を奪われたようだ。今更いかに勇気を奮っても無駄だろう。自分の命などどうなっても良いが、尊氏将軍の命運はどうなるのだろうか」と嘆き、顔つきを変え、

涙を流しながらわなわなと震えだしたので、これを聞いた者見た者は皆、身の毛もよだつ恐怖を感じました。やがて夜も更けていき、明け方の月が中門にさしこんできた頃、すだれを高く巻き上げて庭を見渡していると、空から鞠のような物体が、光りながら草むらの中に落ちるのが見えました。

何かと走り出して見れば、先ほど盛長に砕かれ半分残ったしゃれこうべが、自ら鞘から抜けた例の刀に、つかの口もとまで突き貫かれて落ちていました。今更奇怪な出来事だと言っても始まりません。すぐにこのしゃれこうべを取り上げ、火の中に投げ入れたところ、飛び出してきたので金鋏でつかみ、焼き砕いて捨ててしまいました。


事静て後、盛長、「今は化物よも不来と覚る。其故は楠が相伴ふ者と云しが我に来事已に七度也。是迄にてぞあらめ。」と申ければ、諸人、「誠もさ覚ゆ。」と同ずるを聞て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人には限候はじ。」と嘲て謂ければ、こは何にと驚て、諸人空を見上たれば、庭なる鞠の懸に、眉太に作、金黒なる女の首、面四五尺も有らんと覚たるが、乱れ髪を振挙て目もあやに打笑て、「はづかしや。」とて後ろ向きける。是を見人あつと脅て、同時にぞ皆倒臥ける。加様の化物は、蟇目の声に恐るなりとて、毎夜番衆を居て宿直蟇目を射させければ、虚空にどつと笑声毎度に天を響しけり。さらば陰陽師に門を封ぜさせよとて、符を書せて門々に押せば、目にも見へぬ者来て、符を取て棄ける間、角ては如何すべきと思煩ける処に、彦七が縁者に禅僧の有けるが来て申けるは、「抑今現ずる所の悪霊共は、皆脩羅の眷属たり。是を静めん謀を案ずるに、大般若経を読に不可如。其故は帝釈と、脩羅と須弥の中央にて合戦を致す時、帝釈軍に勝ては、脩羅小身を現じて藕糸の孔の裏に隠れ、脩羅又勝時は須弥の頂に座して、手に日月を握り足に大海を蹈。加之三十三天の上に責上て帝釈の居所を追落し、欲界の衆生を悉く我有に成さんとする時、諸天善神善法堂に集て般若を講じ給ふ。此時虚空より輪宝下て剣戟を雨し、脩羅の輩を寸々に割切ると見へたり。されば須弥の三十三天を領し給ふ帝釈だにも、我叶ぬ所には法威を以て魔王を降伏し給ふぞかし。況乎薄地の凡夫をや。不借法力難得退治。」と申ければ、此義誠も可然とて、俄に僧衆を請じて真読の大般若を日夜六部迄ぞ読たりける。誠に依般若講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮程に、導師高座の上にて、啓白の鐘打鳴しける時より、俄に天掻曇て、雲上に車を轟かし馬を馳違る声無休時。矢さきの甲胄を徹す音は雨の下よりも茂く、剣戟を交る光は燿く星に不異。聞人見者推双て肝を冷して恐合へり。此闘の声休て天も晴にしかば、盛長が狂乱本復して、正成が魂魄曾夢にも不来成にけり。さても大般若経真読の功力に依て、敵軍に威を添んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始として、土居・得能に至るまで、或は被誅或は腹切て、如無成にけり。誠哉、天竺の班足王は、仁王経の功徳に依て千王を害する事を休め、吾朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依て三毒を免るゝ事を得たりき。誠鎮護国家の経王、利益人民の要法也。其後此刀をば天下の霊剣なればとて、委細の註進を副て上覧に備しかば、左兵衛督直義朝臣是を見給て、「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや。沙に埋れて年久断剣如なりし此刀、盛長が註進に依て凌天の光を耀す。不思議なりし事共也。

さてこの不可解な出来事が収まってから盛長が、「今となれば、あの化け物が来るとはとても思えない。なぜかと言えば楠木がお供をしていると言う者たちは、すでにここへ七度も来ている。もうこれまでだろう」と話し、回りの皆が、「確かにそう思う」と、同感を表すのを聞くと、

また空中から、「何を言うか、七人が全てとは限らないぞ」と、小ばかにしたしわがれ声が聞こえました。この声は何だと驚き、皆が空を見上げると、庭の蹴鞠場に眉を太く描き、お歯黒を施した女の首、それも顔の大きさ四、五尺もあろうかと思えるものが、乱れ髪を振り上げ、

えもいわれぬ美しさを湛えて笑い、「恥ずかしい」と言って、後ろを向きました。これを見ていた人は皆、アッと驚くと同時に倒れ込みました。このような化け物は鏑矢の音を怖がるはずだと、毎晩のように宿直当番を決めて、鏑矢を射続けたところ、大空に笑い声が毎度のようにドッと起こり、

天に響き渡りました。こうなれば陰陽師に頼んで門を閉鎖しようと、護符を書かせ、各門々に貼り付けました。しかし目には見えませんが何者かが来て、護符を取って捨ててしまうので、どうすれば良いのか対策に弱りきっているところに、彦七の縁者である禅僧が来て、

「大体今現れている悪霊どもは、皆修羅の一族である。この一族をおとなしくする方法を考えれば、大般若経を読むことに限るでしょう。その訳は、帝釈天と阿修羅が須弥山の中央で合戦を行う時、帝釈天が軍に勝てば、阿修羅は小さな体を現して、蓮の茎にあるような小さい穴の裏に隠れ、

また阿修羅が勝った時は、須弥山の頂上に座を占めて、手で月と太陽を握り、足は大海を踏みつけて支配します。これだけでなく、三十三天(とう利天::須弥山の頂に位置し、閻浮提の上にある天界)の上にまで攻め上り、帝釈天の住む善見城(喜見城)を追い落とし、

欲界にいる衆生をことごとく自分の支配下に置こうとする時、仏法や仏教徒を守護する神々は、寺院の道場に集まり般若経を読誦します。この時天空から悪を打破すると言われる輪宝が降りてきて、武器をばら撒き、修羅の一族どもをずたずたに切り刻むように思えます。

と言うことは、須弥山の三十三天を支配下に置く帝釈天でさえ、自分の力ではかなわないと思えば、仏法の力を借りて魔王を降伏させようとします。いわんや我々のように無知、凡庸なる者においておや。仏法の力をお借りせずに、この強敵を打倒することは難しいでしょう」と話されると、

この理屈ごもっともであると、急遽僧侶らを呼び寄せて、大般若経を省略することなく全部を読むこと、日夜ぶっとうしで六度まで行いました。そして間違いなくこの般若経読誦の効果によって、阿修羅はその威力を失ったのでした。暦応五年(興国三年::1342年)五月三日の夕暮れ時に、

導師(首座として儀式を執り行う僧)が一段高い席で、神仏に願文を申し上げようと鐘を鳴らしたところ、突然天が掻き曇り、雲の上を車の音を響かせながら馬を駆けさせる音が、休むことなく鳴り響きました。鏃が甲冑を貫く音は降る雨以上に響き、武器が交わって出る閃光はきらめく星と変わりません。

この様子を聞いたり見たりした人は、皆が皆、あまりのことに恐ろしがったのでした。しばらくしてこの戦闘の騒ぎ声が収まると、空も晴れ渡り、盛長の精神状態も正常に戻り、正成の霊魂はもはや夢にさえ出てくることはなくなりました。それにしても大般若経の完全なる読誦による功力のため、

敵軍に威圧を加えようとした楠木正成の亡霊も鎮まったので、脇屋刑部卿義助や大館左馬助をはじめに、土居、得能に至るまで、ある者は討ち取られ、またある者は腹を切って果ててしまいました。本当のことなのか、

天竺の斑足王(インドの伝説上の王。足に斑点があった。千人の王の首を得ようとした)は仁王経(にんのうきょう::大乗仏教における経典の一つ)の功徳によって、千王を殺害することを止め、我が国の楠木正成は大般若経読誦によって仏縁が結ばれ、三毒(貪欲、怒り、愚痴)から逃れることが出来ました。

まことに仏法によって国家の安寧を保つには、大般若経は最高の経典であり、その恩恵は人民にとっても重要な部分を占めます。その後この刀は天下にとって霊剣だと、詳しく事の次第を書き添えて、将軍のお目にかけたところ、左兵衛督直義朝臣はこの刀をご覧になり、

「もしこの報告が事実なら、末世における珍しい奇跡が起こったのであろうか」と言って、作り直して小竹作(意味不明)と同様に珍重し愛でられたそうです。長年にわたって砂に埋もれ、折損した刀と変わらなかったこの剣が、盛長の報告によって、天空の光をも凌ぐほど、輝いたのです。まことに不思議な出来事ばかりです。      (終り)

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