23 太平記 巻第二十三  (その二)


○就直義病悩上皇御願書事
去程に諸国の宮方力衰て、天下武徳に帰し、中夏静まるに似たれ共、仏神三宝をも不敬、三台五門の所領をも不渡、政道さながら土炭に堕ぬれば、世中如何がと申合へり。吉野の先帝崩御の後、様々の事共申せしが、車輪の如くなる光物都を差して夜々飛度り、種々の悪相共を現じける間、不思議哉と申に合せて、疾疫家々に満て貴賎苦む事甚し。是をこそ珍事哉と申に、同二月五日の暮程より、直義朝臣俄に邪気に被侵、身心悩乱して、五体逼迫しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰て御祈不斜。陰陽寮、鬼見・泰山府君を祭て、財宝を焼尽し、薬医・典薬、倉公・華佗が術を究て、療治すれ共不痊。病日々に重て今はさてと見へしかば、京中の貴賎驚き合ひて、此人如何にも成給なば、只小松大臣重盛の早世して、平家の運命忽に尽しに似たるべしと思よりて、弥天下の政道は徒事なるべしと、歎ぬ者も無りけり。持明上皇此由を聞召し殊に歎き思食しかば、潜に勅使を被立て八幡宮に一紙の御願書を被篭て、様々の御立願あり。其詞云、敬白祈願事右神霊之著明徳也。安民理国為本。王者之施政化也。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海之安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日勅使勘解由長官公時、御願書を開て宝前に跪き、泪を流て、高らかに読上奉るに、宝殿且く振動して、御殿の妻戸開く音幽に聞へけるが、誠に君臣合体の誠を感じ霊神擁護の助をや加へ給けん。勅使帰参して三日中に、直義朝臣病忽平愈し給ひけり。是を聞者、「難有哉、昔周武王病に臥て崩じ給はんとせし時、周公旦天に祈て命に替らんとし給しかば、武王の病忽痊て、天下無為の化に誇に相似たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無りけれ。又傍に吉野殿方を引人は、「いでや徒事な云そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛の偽を受ん。只時節よく、し合せられたる願書也。」と、欺く人も多かりけり。

☆ 直義が急病になり、上皇が快癒を祈って願書を納められたこと

さて諸国にいた宮方の勢力が衰え、世の中は武家による支配が確立し、都も治安が安定したように思われましたが、武士らは神仏や三宝などを敬おうとせず、三台(太政、左、右大臣)五門(五摂家)の所領を返還もせず、その上、政治向きのことが極めてひどい状況になったので、

これでは世の中一体どうなるのかと、皆は不安を言い合ったのです。また吉野朝廷の先帝後醍醐が崩御されてから、様々な噂や風評が流れていましたが、車輪のようなものが都に向かって、毎晩のように光りながら飛んで行き、不穏な出来事を色々と起こしているので、

不思議な話だと話し合っている内に、疫病が流行し出し、各家々に患者が溢れ、身分に関係なく大変な苦しみを受けました。これだけでも一大事であるのに、暦応五年(興国三年::1342年)二月五日頃より、突然直義朝臣が体調を崩され、心身とも不安定な状況に陥り、

五体に危険が迫ってきたので、諸寺の貴僧、高僧に命じて矢継ぎ早に祈祷を行わせました。陰陽寮の人たちは、鬼見(意味不明)、泰山府君(中国泰山の神。人の寿命、福禄をつかさどる陰陽道の主祭神)を祭り、財宝など資産を全て焼却し、

薬医(典薬寮の次官、医師の意味か?)や典薬(典薬寮の頭、薬剤師の意味か?)が倉公(中国漢代の名医)や華陀(中国後漢末期の伝説的な医師)らの伝える秘術を尽くして治療にあたりましたが、思わしい結果はあらわれません。病は日に日に重くなり、今はもう回復不可能とも思われ、

状況を知った京中の人々は、身分に関係なく驚かれ、もしこの人に何かあれば、これは小松大臣平重盛が早世して、その結果平家の運命がたちまち尽きたのに良く似ているではないかと思い、今後ますます天下の政治は乱れるのではなかろうかと、嘆かない人はいませんでした。

持明上皇(光厳上皇?)はこの事情をお聞きになると、お嘆きも大きく、密かに勅使を立てられ、石清水八幡宮に願書を納めて、色々と願をかけられました。その願書には、「敬白祈願事右神霊之著明徳也。安民理国為本。王者之施政化也。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣者、

匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海之安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平癒乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神璽縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、

懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日」と、書いてありました。(願文の訳はむずい、大意::この国の安危は全てこの人の力にかかっています。

私はこの臣下の補佐を必要としております。薬石の効果を期待できない今は、神仏のご加護を必要としています)勅使の勘解由長官公時が御願書を開いて神前に跪き、涙を流しながら声高らかに読み上げたところ、神殿がしばらく振動して、中で妻戸の開く音がかすかに聞こえましたが、

確かに君臣一体となって祈願する真情を神が汲み取られ、更なるご加護を加えられたのです。そのためか、勅使がお戻りになって三日の内に、直義朝臣の病気は忽ちに全快したのです。この話を聞いた人は皆、「ありがたい話だ。昔、周の国の武王が病に倒れ、

崩御も間近だと思われていた時、武王の臣下、周公旦は自分の命を縮めてでも武王の命を救ってくださいと、天に祈願したところ、武王の病状は直ちに快癒に向かい、天下の騒乱を未然に防いだ快挙とよく似ている」と上皇の徳を、ありがたがらない人はいませんでした。

しかし一方、吉野朝廷を贔屓する人は、「とんでもないことを言うものではない。神は非礼を受けず、正直な人間を守ると言うではないか。どうしてお世辞に固まった偽りの祈願など、お受けになられることはあるはずがない。これはただ単に病気快癒の時と合致しただけの願書である」と、批判的な人も多かったのです。


○土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事
同九月三日は故伏見院御忌日也しかば、彼御仏事殊更故院の御旧迹にて、執行はせ給はん為に、持明院上皇伏見殿へ御幸なる。此離宮はさしも紫楼紺殿を彩り、奇樹怪石を集て、見所有し栖■なれ共、旧主去座を、年久く成ぬれば、見しにも非ず荒はて、一村薄野と成て、鶉の床も露滋く、八重葎のみ門を閉て、荻吹すさむ軒端の風、苔もり兼る板間の月、昔の秋を思出て今の泪をぞ催しける。毎物曳愁添悲秋の気色、光陰不待人無常迅速なる理、貴きも賎きも皆古に成ぬる哀さを、導師富楼那の弁舌を借て数刻宣説し給へば、上皇を奉始旧臣老儒悉直衣・束帯の袖を絞許にぞ見へたりける。種々の御追善端多して、秋の日無程昏はてぬ。可憐九月初三の夜の月、出る雲間に影消て、虚穹に落る雁の声、伏見の小田も物すごく、彼方人の夕と、動静まる程にも成しかば、松明を秉て還御なる。夜はさしも深ざるに、御車東洞院を登りに、五条辺を過させ給ふ。斯る処に土岐弾正少弼頼遠・二階堂下野判官行春、今比叡の馬場にて笠懸射て、芝居の大酒に時刻を移し、是も夜深て帰けるが、無端樋口東洞院の辻にて御幸にぞ参り合ける。召次御前に走散て、「何者ぞ狼籍也。下候へ。」とぞ罵ける。下野判官行春は是を聞て御幸也けりと心得て、自馬飛下傍に畏る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸も不知けるにや、此比時を得て世をも不恐、心の侭に行迹ければ、馬をかけ居て、「此比洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚ぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原蟇目負せてくれよ。」と罵りければ、前駈御随身馳散て声々に、「如何なる田舎人なれば加様に狼籍をば行迹ぞ。院の御幸にて有ぞ。」と呼りければ、頼遠酔狂の気や萌しけん、是を聞てから/\と打笑ひ、「何に院と云ふか、犬と云か、犬ならば射て落さん。」と云侭に、御車を真中に取篭て馬を懸寄せて、追物射にこそ射たりけれ。竹林院の中納言公重卿、御後に被打けるが、衛府の太刀を抜馳寄せ、「懸る浅猿き狼籍こそなけれ。御車をとく懸破て仕れ。」と、被下知けれ共、牛の胸懸被切て首木も折れ、牛童共も散々に成行き、供奉の卿相雲客も皆打落されて、御車に当る矢をだに、防ぎ進らする人もなし。下簾皆撥落され三十輻も少々折にければ、御車は路頭に顛倒す。浅猿しと云も疎か也。

☆ 土岐頼遠が御幸の列に出会い狼藉を行ったことと、公卿らが下車の礼を取ったこと

さて暦応五年(興国三年::1342年)の九月三日も故伏見院の御忌日であり、今回の仏事は特に故院の御旧跡にて執り行おうと、持明院光厳上皇が伏見殿に御幸されました。この離宮はとても豪華絢爛な建物に彩られ、珍しい木々や岩などを集めて造園された美しい庭園を持ち、

閑居にふさわしい宮殿でした。しかし伏見院がお亡くなりになってから、長年が経過していますので、見るも無残な荒れようで、一面にススキが群生し、鶉の巣などには露が落ち、八重葎(やえむぐら::イネ科の一年草または二年草)ばかりが門を閉ざし、軒を吹き抜ける風が荻(おぎ::イネ科ススキ属の植物)の葉を揺さぶり、

苔の繁茂を妨げるかのように、板間に月の光が差し込み、その様子にかえって昔の秋を思い出し、今は涙を止めることが出来ません。見るもの聞くもの全てが悲しみを誘うような秋の景色と、光陰は人を待つことなく流れ、また世の移り変わりが極めて速いと言う道理に従って、

人は皆身分に関係なく老いて行く哀しさを、導師が富楼那(ふるな::釈迦十大弟子の一人、弁舌に優れていたとされる)の言葉を借りて数刻説教をされますと、上皇をはじめとして旧臣や老儒者らは、衣服の袖を絞るほど涙を流されたのでした。次々と数多くの追善法要を行っている内、

やがて秋の日はとっぷりと暮れたのでした。九月初めの可憐な三日月も、出る雲にその光を消され、雁の鳴き声が空から聞こえ、伏見周辺の小さな田など何か不安を感じさせ、人々の営みも落ち着きを見せる頃になったので、手に手に松明を灯してお帰りになられました。

まだ夜はそれほど更けてはなく、お車は東洞院を北に五条あたりを進んでいました。その時、土岐弾正少弼頼遠と二階堂下野判官行春の二人が、比叡の馬場で行われた笠懸に矢を射た後、芝居の大酒に時間を過し、夜も深くなってきたので帰宅中でしたが、

偶然にも五条樋口東洞院の辻で、上皇の御幸の列と出会ったのです。上皇側から召使が前に走り出し、「何者であるか、無礼をするでない、馬から下りるよう」と、怒鳴りつけました。下野判官行春はこれを聞いて御幸の列と理解して、馬から飛び降りると、傍らに畏まって控えたのでした。

しかし土岐弾正少弼は御幸などとは知ってか知らずか、最近時流に乗って世の中、怖いもの知らずにわがまま放題な行動をしているため、馬を駆け寄せ、「最近ではこの洛中で頼遠ともあろう者を、馬から下ろすことを出来る人間などいないはずだ、一体どんなばか者が言うのだ。

一人ずつ順番に鏑矢でもくれてやろうか」と大声で騒ぎたてたので、前に駆け寄っていたお供の人たちは、逃げ惑いながらも声々に、「このような狼藉をするのは、何処の田舎者だ。これは院の御車、院の御幸であるぞ」と叫んだので、頼遠はこれを聞くと酔いに任せて面白がり、

カラカラと笑いながら、「何だと、院と言うのか、それとも犬と言うのか。犬ならば射落としてやろう」と言うや、真正面から御車に馬を駆け寄せて、馬上から射掛けたのです。竹林院の中納言西園寺公重卿は御車の後ろをお供されていたのですが、警備の役人から太刀を抜き取って駆け寄り、

「こんな血迷った乱暴など見たことない。御車を早くここから動かすように」と命じられましたが、牛の胸懸(むながい::牛の胸に車を固定するための革紐)を切られている上、くびき(牛の首の後ろにかける車の横木)も折れ、牛を牽いていた人達も散りじりに逃げてしまい、お供をしてきた公卿殿上人たちも皆追い払われて、

御車に中る矢を防ぐ人さえおりません。車の下簾も払い落とされて三十(みそのや::車輪の軸と外側の輪を結ぶ三十本の細長い棒、スポーク)も少しばかり折れているので、お車は路傍で転倒してしまいました。情け無く、恥ずかしいことこの上ありません。


上皇は只御夢の心地座て、何とも思召分たる方も無りけるを、竹林院中納言公重卿御前に参られたりければ、上皇、「何公重か。」と許にて、軈て御泪にぞ咽び座しける。公重卿も進む泪を押へて、「此比の中夏の儀、蛮夷僭上無礼の至極、不及是非候。而れ共日月未天に掛らば、照鑒何の疑か候べき。」と被奏ければ、上皇些叡慮を慰させ御座す。「されば其事よ。聞や何に、五条の天神は御出を聞て宝殿より下り御幸の道に畏り、宇佐八幡は、勅使の度毎に、威儀を刷て勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代と謂からに、懸る狼籍を目の当見つる事よ。今は末代乱悪の習俗にて、衛護の神もましまさぬかとこそ覚れ。」と被仰出て、袞衣の御袖を御顔に押当させ御座せば、公重卿も涙の中に書闇て、牛童少々尋出して泣々還御成にけり。其比は直義朝臣、尊氏卿の政務に代て天下の権柄を執給ひしかば、此事を伝へ承て、「異朝にも未比類を不聞。況て本朝に於ては、曾耳目にも不触不思議也。其罪を論ずるに、三族に行ても尚不足、五刑に下しても何ぞ当らん。直に彼輩を召出して車裂にやする、醢にやすべき。」と、大に驚嘆申されけり。頼遠も行春も、角ては事悪かりなんと思ければ、皆己が本国へぞ逃下ける。此上はとて、軈て討手を差下し、可被退治評定一決したりければ、下野判官は不叶とや思けん、頚を延て上洛し、無咎由を様々陳じ申ける間、事の次第委細に糾明有て、行春をば罪の軽に依て死罪を被宥讃岐国へぞ被流ける。土岐頼遠は、弥罪科遁るゝ所無りければ、美濃国に楯篭て謀反を起さんと相議して、便宜の知音一族共を招寄と聞へしかば、急ぎ討手を差下し、可被退治とて、先甥の刑部大輔頼康を始として、宗との一族共に御教書を被成下しかば、頼遠謀反も不事行、角ては如何と思案して、潜に都へ上、夢窓国師をぞ憑ける。夢窓は此比天下の大善知識にて、公家武家崇敬類ひ無りしかば、さり共と被憑仰しか共、左兵衛督、是程の大逆を緩く閣かば、向後の積習たるべし。而れ共御口入難黙止ければ、無力其身をば被誅て、子孫の安堵を可全と返事被申、頼遠をば侍所細川陸奥守顕氏に被渡て、六条河原にて終被刎首けり。其弟に周済房とて有をも、既に可被切と評定有けるが、其時の人数にては無りける由、証拠分明也ければ、死刑の罪を免て、軈て本国へぞ下りける。

上皇はただ夢見心地のようで、何をどう理解したら良いのかも分らないご様子でしたが、竹林院中納言公重卿が御前に参られると、上皇は、「どうしたのだ、公重よ」と、だけ言うと、すぐ涙に咽ばれたのです。公重卿も流れる涙を押さえながら、「最近に於ける都の風潮では、

無法者が身分をわきまえず無礼な行動をするのは仕方がないことです。とは言え、日月が今もって天空にある限り、神仏が見守ってくれていること疑う余地はありません」と奏上されたので、上皇もいくらか心が安らいだのでした。そして上皇は、「その件だが、

聞くところによると五条の天神宮は帝のお出ましと聞けば、神殿を出られて御幸の路傍に畏まり、宇佐八幡宮では勅使が下向されるたび毎に、威儀を正して勅使に返答をすると言う。しかしながら、今は武臣が無礼を行う時代となったと言えども、このような無礼な狼藉を目の当たりにするとは。

現代は道義も衰えた末の世になり、乱暴、悪事を事ともしない風潮がはびこり、護ってくれる神さえ居られないのかとも思う」と仰せられ、礼服のお袖をお顔に当てられたのです。また公重卿も涙にくれながら、牛牽きの者を幾人か探し出し、涙の中を還御されたのでした。

このような事件が起こった頃は、足利直義朝臣が兄の尊氏卿から政務を引き受け、天下の実権を握っていましたから、このことを伝え聞き、「異朝中国においても、このような事件など聞いたことがない。まして我が国において、未だかつて耳にしたこともなければ見たこともない、

とんでもない出来事である。この罪に対する刑罰を検討するに、三族(身近な三つの親族::父方、母方、妻の一族、また父・子・孫など)に課してもまだまだ不足であろうし、五刑(笞、杖、徒::懲役、流、死)に処すことも妥当ではない。直ちに彼奴らを呼び出し、車裂きにしてやろうか、

それとも処刑後の死体を塩漬けにしようか」と、大変な驚きと嘆きを込めて話されました。対して頼遠も行春も、事態の進行に最悪の結果を考え、それぞれ自分の国に逃げ帰りました。こうなれば即刻討手を向かわせ、討伐すべきだと全員一致で決まったので、下野判官行春は抵抗など不可能と考え、

首を差し出す気持ちで上洛し、無罪であることを様々に申し述べました。その結果事実が十分に究明されて、行春はその罪軽微であると認定を受け、死罪を許されて讃岐国に配流となりました。しかし土岐頼遠はとても罪を逃れることは出来ないと考え、美濃国に立て篭もって謀反を起こそうと相談し、

決起意思のある知己や、一族などに召集をかけているらしいと聞こえてきたので、急遽討手を下し征伐しようと、まず甥の刑部大輔頼春をはじめとして、主なる一族に御教書(三位以上の貴人の意向を伝える奉書)を下したため、頼遠は謀反を起こすことが不可能になり、

今後の打開策を考えようと、密かに都に上り夢窓国師を頼っていきました。夢窓国師は当時天下最高の僧侶と言われ、公家や武家から類まれな尊崇を受けていましたから、このようにとりなしを頼まれたことを申し上げたのですが、左兵衛督直義はこれほどの大逆に対して、

甘い判決を言い渡せば今後の判例となるだろう。とは言っても、夢窓国師の頼みとあれば看過することも出来ず、止む無く本人の処刑は実施するが、子孫に対してその身の安全は保障すると返事され、頼遠は侍所(御家人の統制を司る役所)の細川陸奥守顕氏に引渡し、

ついに六条河原にて首を刎ねられたのでした。彼の弟、周済房と言う者も、斬首すべきだと議決されていましたが、狼藉を行った時、その場にはいなかったことが証明されて死罪を逃れ、すぐ本国に下りました。


夢窓和尚の武家に出て、さりともと口入し給し事不叶しを、欺く者や仕たりけん、狂歌を一首、天竜寺の脇壁の上にぞ書たりける。いしかりしときは夢窓にくらはれて周済計ぞ皿に残れる此頼遠は、当代故ら大敵を靡け、忠節を致しかば、其賞翫も人に勝れ、其恩禄も異他。さるを今浩る行迹に依て、重て吹挙をも不被用、忽に其身を失ひぬる事、天地日月未変異は無りけりとて、皆人恐怖して、直義の政道をぞ感じける。頃比習俗、華夷変じて戎国の民と成ぬれば、人皆院・国王と云事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸に参会て、狼籍したりとて、被切進せたれ。」と申ければ、道を過る田舎人共是を聞て、「抑院にだに馬より下んには、将軍に参会ては土を可這か。」とぞ欺きける。さればをかしき事共浅猿き中にも多かりけり。爰に如何なる雲客にてか有けん、破れたる簾より見れば、年四十余りなりけるが、眉作り金付て、立烏帽子引かづき著たる人の、轅はげたる破車を、打てども行ぬ疲牛に懸て、北野の方へぞ通りける。今程洛中には武士共充満して、時を得る人其数を不知。誰とは不見、太く逞しき馬共に思々の鞍置て、唐笠に毛沓はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたゝめ、たき残したる紅葉の枝、手毎に折かざし、早歌交りの雑談して、馬上二三十騎、大内野の芝生の花、露と共に蹴散かし、当りを払て歩ませたり。主人と覚しき馬上の客、此車を見付て、「すはや是こそ件の院と云くせ者よ。頼遠などだにも懸る恐者に乗会ひして生涯を失ふ。まして我等様の者いかにとゝがめられては叶まじ。いざや下ん。」とて、一度にさつと自馬下、ほうかぶりはづし笠ぬぎ、頭を地に著てぞ畏りける。車に乗たる雲客は、又是を見て、「穴浅猿哉。若是は土岐が一族にてやあるらん。院をだに散々に射進らする、況て吾等こゝを下では悪かりぬべし。」と周章騒ぎ、懸もはづさぬ車より飛下ける程に、車は生強に先へ行馳るに、軸に当て立烏帽子を打落し、本鳥放ちなる青陪従片手にては髻をとらへ、片手には笏を取直し、騎馬の客の前に跪き、「いかに/\。」と色代しけるは、前代未聞の曲事なり。其日は殊更聖廟の御縁日にて、参詣の貴賎布引き也けるが、是を見て、「けしからずの為体哉、路頭の礼は弘安の格式に被定置たり。其にも雲客武士に対せば、自車をり髻を放とはなき物を。」とて、笑はぬ者も無りけり。

夢窓和尚が武家の政務に関して、まさかの干渉をしたものの、思うようにならなかったことを馬鹿にした者の仕業か、狂歌が一首、天竜寺(初代住職が夢窓国師)の脇壁に書かれていました。

      いしかりし ときは夢窓に くらはれて 周済計ぞ 皿に残れる(旨い食べ物は夢窓に食べられ、周済::どくだみだけが皿に残っている)

この土岐頼遠は当時、大敵を次々に従え、忠節を尽くしてきたので、将軍家の覚えも良く、その恩賞も他を圧していました。それを今回このような行為によって、再度のとりなしも受け入れてもらえず、たちまち命を失うことになり、天地日月は未だ健在であると皆は恐れると共に、

直義の政治的解決に感心しました。最近の風潮は文明と未開が入れ替わり、未開の野蛮な国民と成り下がっているので、人は皆、院や国王と言う意味も知らないのでしょうか。「土岐頼遠ともあろう者が御幸の列に行き会い、狼藉をしたからと言って斬られることになった」と話していると、

道を通り過ぎる地方の人たちがこれを聞き、「と言うことは、院に出会ったら馬から下りなければならないのなら、もし将軍に出会ったら、土の上を這うことになるのか」と、小馬鹿にして言いました。このように理解に苦しむようなことが、情け無い今の風潮の中、数多く有りました。

たとえば、何処の誰だか分りませんが、殿上人でしょうか、牛車の破れた簾から覗いて見ると、年齢四十過ぎで眉を引き、お歯黒をつけ、立烏帽子を頭からかぶった人が、轅(ながえ::牛車の前方にある牛に引かせるための棒)の塗装も剥げたボロ車を、言うことの聞かない疲れきった牛に引かせて、

北野に向かって通り過ぎました。最近洛内には武士どもが溢れ返り、時流に乗って怖いもの知らずの行動をする人など多数います。誰とは分りませんが、太ったたくましい馬にそれぞれ思い思いの鞍を置き、唐笠をかぶって、毛沓(けぐつ::騎馬、狩猟用の毛皮製のくつ)をはき、

様々な色の小袖を脱ぎ下げて(右袖を脱いで後ろに垂らす着方)、酒を暖めるため燃やした紅葉の枝の燃え残りを、それぞれが手にかざして、早歌(はやうた::神楽歌の一つ、テンポが早い)混じりの雑談を交わしながら、馬上の二、三十騎が大内野(内野::平安京大内裏のあった所)の芝生の花を、

露と一緒に蹴散らかして、周囲を圧するように歩ませていました。その中で一行の主人と思われる馬上の人がこの車を見つけ、「あっ、この車は例の院とか言う油断ならないものだ。頼遠でさえこんなものに出くわして、一生を棒に振った。まして我々のような者なら、

どのような難癖をつけられても抵抗できないだろう。さぁ、馬から下りようぞ」と言って、全員が同時ににサッと馬から下りると、ほっかむりを取り、笠も脱ぎ頭を地面につけて畏まりました。車に乗った殿上人はこの様子を見て、「これはえらいことになった。ひょっとしてこの一行は土岐の一族ではないだろうか。

院に対してさえ散々に射掛けた連中だ、当然我らは車から下りなければ具合が悪いだろう」と、あわて騒ぎ、懸(牛と車をつなぐもの)をはずすことなく車から飛び下りたので、車はそのまま前に進み、車軸に当たって立烏帽子を落としてしまったので、冠もかぶっていない若い供人が走りより、

片手でもとどりをつかみ、もう一方の手で笏を持ち直させ、馬に乗っていた人々の前に跪き、「これは、これは」と挨拶するのも、前代未聞のあきれた椿事でありました。特にその日は菅原道真の縁日に当たり、参詣の人々が途切れることもなかったのですが、

この様子を見て、「常識はずれの出来事だ、路上における礼法は弘安の格式(弘安八年::1285年亀山院の評定で定められた礼節に関する規定)で定められている。その規定の中にも殿上人が武士に出会った時、自ら車を下り、冠を脱いで髷をあらわにせよとは、書いてないはずだ」と言って、笑わない者はいませんでした。      (終り)

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