24 太平記 巻第二十四 (その一)


○朝儀年中行事事
暦応改元の比より兵革且く静り、天下雖属無為京中の貴賎は尚窮困の愁に拘れり。其故は国衙・荘園も本所の知行ならず。正税官物も運送の煩有て、公家は逐日狼戻せしかば、朝儀悉廃絶して政道さながら土炭に堕にける。夫天子は必万機の政を行ひ、四海を治給ふ者也。其年中行事と申は、先正月には、平旦に天地四方拝・屠蘇白散・群臣の朝賀・小朝拝・七曜の御暦・腹赤の御贄・氷様・式兵二省内外官の補任帳を進る。立春の日は、主水司立春の水を献る。子日の若菜・卯日の御杖・視告朔の礼・中春両宮の御拝賀。五日東寺の国忌・叙位の議白。七日兵部省御弓の奏。同日白馬節会。八日大極殿の御斉会。同日真言院の御修法・太元の法・諸寺の修正・女叙位。十一日外官の除目。十四日殿上の内論議。十五日七種の御粥・宮内省の御薪。十六日蹈歌節会・秋冬の馬料・諸司の大粮・射礼・賭弓・年給の帳・神祇官の御麻。晦日には御巫御贖を奉る。院の尊勝陀羅尼。二月には上の丁日尺奠・上の申日春日祭。翌日卒川祭。上の卯日大原野祭・京官の除目・祈年の祭・三省考選の目録・列見の位禄・季の御読経・仁王会を被行。三月には三日御節供・御灯・曲水の宴。七日薬師寺の最勝会・石清水の臨時の祭・東大寺の花厳会授戒。同日鎮花祭あり。

☆ 朝廷で行われる正式な年中行事のこと

さて暦応改元(1338年)の頃になって漸く内乱が収まり、天下に平和がよみがえったとは言え、京中の人々は身分に関係なく、困窮の極みに苦しんでいました。その訳は国衙領も荘園も本所(領主から寄進を受けた者、公家や有力者)が支配出来なかったからです。正税官物(正規の租税)も運送において問題があり、

公家らは日に日に貧窮の度を増して行き、朝廷の儀式など全て廃止しなければならず、国家の政治は最悪の状況におちいりました。もともと天子たる者は、国内の重要事項に関して政務を執り、国内の安寧秩序に務める者です。そのために朝廷で行われる年中行事とは、以下のようなものです。

まず正月には平旦(夜明け頃、午前四時頃)に天地四方拝(天地、四方の諸神などなどと、先祖代々の御霊を遥拝され、年災を祓い国家の幸を祈られる儀式)を行い、屠蘇や白散(屠蘇酒などとともに服用する散薬)を飲んで健康長寿を願い、諸臣下から祝賀を受け、親王以下六位蔵人以上の者からの拝賀を受けます。

また七曜(火、水、木、金、土星に太陽と月)の位置を記した暦の献上を受け、腹赤(マスまたはニベの別名)が大宰府から献上されるのを内膳司(天皇の食事を司る役所)が受けます。氷様奏(ひのためしのそう::その冬収納した氷の厚さを昨年と比較し、豊凶を占う)の奏聞を受け、式部、

兵部両省の内外官(在京と地方の官吏)の任命簿を受け取ります。立春の日には主水司(しゅすいし::水、氷の調達や粥の調理を司る役所)から立春の若水の献上を受けます。そして、子日の若菜(初子の日に天皇に若菜を献上された)や、卯日の御杖(卯の日に悪鬼を祓う道具として杖が献上された)

視告朔(こうさく::有位の文官、武官が公文書を提出し、天皇が閲覧する儀式)の礼、中宮、春宮両宮の御拝賀が行われます。五日は東寺において天皇の追善供養を行い、また五位以上の位階を授ける儀式があります。七日には兵部省で御弓の奏(天皇が用いる弓を矢と共に献上する儀式)が行われます。

また同じ日に、天皇が邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出し、群臣らと宴を催す、白馬節会の儀式があります。八日には大極殿に精進料理を用意し、国家の安寧を祈願する御斎会と言う法会があります。同じ八日に真言院の御修法(天皇の身体安穏と国家の安泰、繁栄を祈って宮中真言院で行われた儀式)があり、

太元の法(国土を護り、敵や悪霊の調伏に功徳のある大元帥明王の修法)を行います。そして諸寺の修正会(国家、皇室の安泰、五穀豊穣などを祈願する諸寺で行われる法会)があり、隔年ですが女官に位階を授ける、女叙位があります。十一日には、外官の除目(地方官に国司の任命を行う儀式)が行われます。

十四日は殿上の内論議(八日に行われた御斎会結願の日、天皇の前で最勝王経を論議すること)があり、十五日には七種(米、アワ、キビ、ヒエ、ムツオレグサ::水田の雑草、ゴマ、アズキ)の御粥が天皇に供えられ、宮内省の御薪(みかまぎ::在京の官人が位階に応じて、一定数量の薪を宮内省に進納する儀式)があります。

十六日は蹈歌の節会(男女の舞人を召して、足で地を踏み拍子をとり三周して退出する舞の儀式。紫宸殿で天皇がご覧の後、宴を賜る)があり、秋冬の馬料(官人に支給された給与の一部)の支給、諸司の大粮(諸官庁の下級役人に米、塩、布などの支給)、射礼(じゃらい::天皇臨席のもとに、親王以下五位以上その他の官人が参加して射技を披露し、

終了後宴が開かれ禄を賜る)が行われ、賭弓(のりゆみ::弓馬殿で左右近衛府、兵衛府の舎人が弓の技を競うのを、天皇がご覧になる儀式)、年給の帳(天皇以下公卿以上はその身分に従って、一定の官位に一定の人員を申請すること、かな?)、神祇官(中央の最高官庁であり、朝廷の祭祀を担当し諸国の官社を総轄する役所)による

御麻(神祇官による麻で身の穢れを取り除く儀式、かな?)が行われます。月末には御巫に御贖を下賜します(みかんなぎ::各種の神事に奉仕してきた女官に御衣を賜る)。院の尊勝陀羅尼(院の尊勝陀羅尼の読誦を行う)。二月になれば、上の丁の日には釈奠(せきてん::上のひのとの日に、孔子と孔門十哲の画像を揚げる儀式)があり、

上の申日に春日祭(上のさるの日に春日大社の祭礼)を行います。翌日は率川祭(率川神社の祭礼、六月に行われる三枝祭と混同される事が多いらしい?)が行われます。上の卯日には大原野祭(上のうの日に大原野神社の祭礼)があります。京官の除目(在京の諸官を任命する儀式)があり、

祈年の祭(穀物の豊穣と国家の安泰を祈る祭り)が行われ、三省考選の目録(式部、兵部と女官の昇叙対象の人選を行うための目録)を提出し、列見の位禄(翌日それらの人の官位俸禄を決めるため、大臣もしくは上卿による引見の儀式)が行われます。季の御読経(大般若経を衆僧に転読させる儀式)が行われ、

また仁王会(天下太平、国家鎮護を祈願するため仁王経の講義など)が行われます。そして三月になれば、三日に御節供(上巳の節句::ひなまつり)があります。御灯(天皇が北辰::北極星に灯火をささげる儀式)があり、曲水の宴(庭園の曲水に沿って参加者が座り、上流から流される杯が通り過ぎない内に詩歌を詠み、

杯の酒を飲んでから杯を次へ流す遊び)が行われます。七日には薬師寺の最勝会(薬師寺で行われる天皇による、金光明最勝王経十巻を講ずる儀式)があり、石清水の臨時の祭(例祭以外に三月の午の日に行われる臨時の祭)を行い、東大寺の華厳会授戒(東大寺で華厳経を読誦する法会を行い、戒を授けてもらう)があり、

同じ日に鎮花祭(疫病が流行しないように疫病神を鎮める祭り)が行われます。


四月には朔日の告朔。同日掃部寮冬の御座を徹して夏の御座を供ず。主水司始て氷を献り、兵衛府御扇を進る。山科・平野・松尾・杜本・当麻・当宗・梅宮・大神の祭・広瀬立田の祭あり。五日は中務省妃・夫人・嬪。女御の夏の衣服の文を申す。同日准蔭の位記。七日は擬階の奏也。八日は潅仏。十日は女官、春夏の時の飾り物の文を奏す。内の弓場の埒。斉内親王の御禊。中の申日国祭。関白の賀茂詣。中の酉日賀茂の祭。男女の被馬。下の子日吉田宮祭。東大寺の授戒の使。駒牽神衣の三枝の祭あり。五月には、三日六衛府、菖蒲并花を献る。四日は走馬の結番、并毛色を奏す。五日端午の祭、薬玉御節供・競馬・日吉祭・最勝講を被行。六月には、内膳司忌火の御飯を供ず。中務省暦を奏す。造酒司の醴酒。神祇官の御体の御占。月次。神今食。道饗。鎮火の祭。神祇官の荒世の御贖を奏す。東西の文部、祓の刀を奏す。十五日祇薗の祭。晦日の節折、大祓。七月には、朔日の告朔。広瀬竜田の祭に可向。五位の定め。女官の補任帳。二日最勝寺の八講・七夕の乞巧奠。八日の文殊会。十四日盂蘭盆。十九日尊勝寺の八講。二十八日相撲節会。八月には、上の丁の尺奠。明る日内論議。四日北野祭。十一日官の定考・小定考。十五日八幡放生会。十六日駒引・仁王会・季御読経あり。

四月に入ると、一日の告朔(こうさく::天皇が大極殿において、各役所が奏上する官吏の勤務状況を記した公文書を閲覧する儀式)を行い、その日に掃部寮(朝廷の諸行事を担当する役所)が冬の御座を取り払い、夏の御座を用意します。主水司が氷室に保管していた氷を初めて献上し、

兵衛府(宮門の守備や行幸の護衛などを担当する役所)が御扇を天皇にお渡しします。山科、平野、松尾、杜本、当麻、梅宮、大神の例祭が行われ、広瀬神社(水の神を祭る)、竜田神社(風の神を祭る)の例祭があります。五日には中務省(天皇に近侍して宮中の政務を司る役所)が妃、夫人、嬪や女御の夏服について答申を行います。

また同じ日に女性の官人に対して、官職に応じての位階や俸禄を記した文書、また蔭位(おんい::高位者の子孫に一定の叙位を行う制度)による位階を授ける旨を記した文書を与えます。七日は擬階(諸司官人で六位以下に叙すべき者の名簿)を天皇に提出します。

八日は潅仏会(釈迦の誕生日、釈迦像に五色の水を注いで功徳を求める儀式)があり、十日には女官に対して春夏にふさわしい装飾品の答申を行います。天皇が射技をご覧になるため、宮中にある施設に柵を設けます。賀茂祭を主宰する斎内親王が、御手洗池に手を浸し清めの儀式を行います。

賀茂祭の行われる一日前、中の申の日に賀茂の国祭(賀茂神社の本祭。賀茂神社は山城国の地主神であるから)を行い、同じ日に摂政関白が賀茂神社を参詣します。中の酉の日は下鴨神社と上賀茂神社の例祭です。男女とも飾りをつけた馬に乗ります(賀茂祭の始まりの時、猪の頭をかぶった人が鈴をつけた馬に乗り、

全力疾走して生命の力を神に見てもらい、たたりを和らげた)。下の子の日には吉田神社の例祭が行われます。東大寺より授戒を伝える使者が参ります。また駒牽(馬を天皇がご覧になる行事)や神衣(伊勢神宮の例祭の一つで、絹や麻の御衣を捧げる祭)と三枝の祭(三枝::ササユリで初夏の流行病を防ぐ祭)があります。

五月になれば、三日に六衛府(左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府)が邪気を払う効能があると言われる菖蒲を、薬玉(くすだま::色々な薬草を包んだ物)の材料として、花と共にあやめ輿(菖蒲、よもぎを一つの輿に盛る)にして紫宸殿の南階の東西に立てます。四日は賀茂祭を締めくくる神事で、

馬の疾駆する姿を神に奉納する走馬の儀があり、その後、馬の持ち主や毛色について天皇に申し上げます。五日は端午の祭で、薬玉を臣下に賜り、二頭の馬で競走し勝敗を争い、新日吉祭(いまひえ::新日吉神社の例祭)を行い、また清涼殿にて金光明最勝王経を読誦し、天下太平、国家安穏を祈りました。

六月は、内膳司(天皇の食事を担当する役所)が忌火(いんび::特別に穢れをはらった清浄な火)でご飯を炊き、天皇が召し上がる神事があります。中務省(天皇に近侍し宮中の政務担当をする役所)が七月以降の下巻の暦について天皇に申し上げます。酒造司(宮中で使用する酒、甘酒や酢などを醸造する役所)

醴酒(れいしゅ::甘酒)を天皇に献上します。神祇官が御体の御占(ごたいのみうら::天皇の身体に特に注意するべき日を占う)を行い、天皇に申し上げる儀式があります。月次(つきなみ::諸社に幣帛を捧げ、国家の平安、天皇の健康を祈願する祭)が行われ、前年に収穫された穀物を、

天皇が神と一緒に食する神今食(じんこんじき)の神事があります。京都の四隅において妖怪変化などの侵入を防ぐため、路上に神をまつり、饗応を行うと言う道饗祭(みちあえのまつり)があります。また鎮火の祭(火災を防ぎ、火のけがれを払うため、都の四隅に火をつかさどる神を祭る神事)が行われます。

神祇官が天皇に身のけがれや罪を負わせ、川に流すための衣服や調度品を献じます。東文氏と西文氏が大祓の時、天皇にけがれや罪を断ち切るため、金の刀を献じます。十五日は祇園の祭。みそかには天皇、皇后、皇太子の身長を竹の枝で測り、祓えを行う神事(節折::よおり)と、

大祓と言う罪障やけがれ、災いをはらい清めるため行う神事があります。七月には、一日に天皇が大極殿にて、各役所からの官吏の勤務や出勤日を記した公文書を閲覧する儀式があり、水の神を祭る廣瀬神社と、風の神を祭る竜田神社の祭に向かい、稲が悪風や悪水の害を受けぬよう祈りを捧げます。

また五位の定め、女官の補任帳(中務省が五位以上の女官について、選考用の人事録を作成したもの)を天皇に見せます。二日は最勝寺において八講(法華経八巻を読誦する法会)があり、七夕の乞巧奠(きっこうでん::女子が手芸、裁縫の上達を祈願する)があります。八日には文殊会(文殊菩薩を供養する法会)があります。

十四日は盂蘭盆(祖先の冥福を祈る仏事)。十九日は尊勝寺の八講があります。二十八日は相撲節会(宮中において相撲を見物し、群臣に宴を賜る儀式)があります。八月になると、上の丁の日には釈奠(せきてん::上のひのとの日に、孔子と孔門十哲の画像を揚げる儀式)があり、

翌日に内論議(ないろんぎ::博士によって天皇の御前で、最勝王経などの経文などの論争を行う)があります。四日は夏野菜を奉納し感謝の祈りを捧げる、北野天満宮の例祭があります。十一日は官の定考(こうじょう::上皇との同音を避け、転倒して読むのを慣例とする。六位以下の昇進を定める儀式)があり、

翌日小定考(下級官吏の官職を定める儀式)があります。十五日は石清水八幡宮放生会(殺生を禁ずる思想のもと、魚鳥獣を山野に放す仏教的儀式)があります。十六日は駒牽(こまひき::信州から六十頭の馬を官人が従えて献上し、天皇が紫宸殿でご覧になる)があり、仁王会(天下太平、鎮護国家を祈願するため、

仁王経を大極殿や紫宸殿などで読誦する法会)が行われ、また季御読経(きのみどきょう::国家安泰を祈願して、宮中に僧を招き大般若経を転読する仏教法会)が行われます。


九月には、九日重陽の宴。十一日伊勢の例幣・祈年・月次・神甞・新甞・大忌風神。十五日東寺の灌頂。鎮花・三枝・相甞・鎮魂・道饗の祭あり。十月には、掃部寮夏の御座を徹して、冬の御座を供ず。兵庫寮鼓吹の声を発し、刑部省年終断罪の文を進る。亥日三度の猪子。五日弓場始。十日興福寺の維摩会。競馬の負方の献物。大歌始あり。十一月には、朔日に内膳司忌火の御飯を供じ、中務省御暦を奏す。神祇官の御贖。斎院の御神楽。山科・平野・春日・森本・梅宮・大原野祭。新甞会。賀茂臨時祭あり。十二月には、自朔日同十八日まで内膳司忌火の御飯を供ず。御体の御占。陰陽寮来年の御忌を勘禄して、内侍に是を進る。荷前の使。御仏名。大寒の日、土牛の童子を立、晦日に宮内省御薬を奏す。大禊。御髪上。金吾四隊に列て、院々の焼灯不異白日。沈香火底に坐して吹笙と云ぬる追儺の節会は今夜也。委細に是を註さば、車に載とも不可尽。唯大綱を申許也。是等は皆代々の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機なれば、一度も不可断絶事なれ共、近年は依天下闘乱一事も不被行。されば仏法も神道も朝儀も節会もなき世と成けるこそ浅猿けれ。政道一事も無きに依て、天も禍を下す事を不知。斯れ共道を知者無れば、天下の罪を身に帰して、己を責る心の無りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉、年々に有て、蒸民の苦みとぞ成にける。

九月になれば、九日は天皇が紫宸殿に出御され、群臣に宴を賜る、重陽の宴があります。十一日は伊勢大神宮で行われる神嘗祭(その年の初穂を天照大神に奉納する儀式)に幣帛(神前に奉納する物、総称)を奉納するため、勅使の派遣があります。祈念祭(としごいのまつり::五穀豊穣を祈る祭)

月次(天皇の健康と国家の平安を祈る祭)、神嘗、新嘗(天皇が新穀を全ての神々に供え、自らもそれを食する祭儀)、大忌風神(廣瀬神社と竜田神社の神事)など大小の祭が行われます。十五日は東寺の灌頂(天皇の安泰を祈願する儀式?)があります。また鎮花祭(ちんかさい::疫病神をはらうための行事)

三枝祭(前出、四月)、相嘗祭(あいなめのまつり::特定少数の神社に朝廷より供物を捧げ、共に食する儀式)、鎮魂祭(たましずめのまつり::天皇、皇后、皇太子などの魂を鎮め、御代の長久を祈願する儀式)、道饗祭(前出、六月)などが行われます。十月には掃部寮が夏用の御座を格納して、冬用の御座を用意します。

兵庫寮(兵器庫や儀礼用の武器や武具の管理など全般を担当する役所)の鼓吹司(軍隊用の鼓や笛の訓練を行う役所)が鼓や笛の演奏を行い、刑部省が本年度最終となる、訴訟や罪人についての判決を天皇に報告します。亥日三度の猪子(亥の月::旧暦十月、最初の亥の日に群臣に対して三度にわたって猪子餅を下賜する行事)が行われます。

五日は弓場始(天皇が弓場殿に臨んで、公卿以下殿上人が賞品をかけて射る弓をご覧になる行事)があります。十日は興福寺で維摩会(ゆいまえ::大乗仏教経典の一つである、維摩経を講義、解説する大会)が行われます。競馬の負方の献物(五月に行われた競馬での敗者側が、諸衛府、馬寮を通じて行う献物としての遊興)があり、

大歌始(おおうたはじめ::宮廷の行事でうたわれる歌の教習や管理をつかさどる役所を開く)があります。十一月には、一日に内膳司が忌火の御飯を用意し(前出、六月)、中務省が翌年の御暦をお渡しします。神祇官の御贖(?)。斎院の御所にて御神楽が行われます。

山科、平野、春日、森本、梅宮、大原野神社などの例祭が行われます。新嘗祭(天皇が新穀を天つ神と国つ神、全ての神々に供え、みずからもそれを食する祭儀)が行われ、賀茂神社の臨時の祭礼があります。十二月になると、一日から十八日まで内膳司が忌火の御飯(前出、六月)を天皇に供します。

御体の御占(前出、六月)を行い、陰陽寮が来年の御忌(天皇や皇后の年忌法会)を調査し、天皇に近侍し、後宮の礼式をつかさどる女性職員に報告します。荷前の使(のさきのつかい::諸国から貢がれてきた初物を、伊勢神宮をはじめ諸方の神や天皇の陵墓に献上するための勅使)を派遣します。

御仏名(おぶつみょう::前世、現世、来世の三世の諸仏一万三千の仏名を唱え、懺悔を行いまた罪障の消滅を祈願)をします。大寒の日の前夜、土人形と土製の牛の像を流行病をはらうために立てて、晦日に宮内省が天皇にお薬を献じます。大祓(おおはらえ::親王以下在京の百官を朱雀門の前に集めて、

万民の罪や穢れをはらう神事)を行います。御髪上(みぐしあげ::十二月下の午の日に、天皇、東宮などの一年間の髪のくずを焼く儀式)が実施されます。除夜には衛門府の職員が四隊に連なり、宮中の諸院には灯がともされ、白昼と変わらない明るさです。沈香をたく火のそばで座した楽人が

笙を吹く(王建作、漢詩「除夜」より)と言われている追儺の節会が、大晦日の今夜行われます。これらの年中行事をくまなく書きとめようとすれば、車に乗せきれないほどの量になるので、止むを得ず大要を記すだけになります。これらの諸行事は全て過去代々の天皇が、天から受けた命を守り、

地に奉ずることによって世の中を鎮め、国を治めるために一番重要なことであり、過去一度も絶えることなく行われてきたことですが、最近は天下の騒乱が相次ぎ、何も実施されていません。そのため仏法も神道も、また朝廷の行う儀式や節会さえ、行われない世の中になってしまったことは、

本当に情けなく悲しい限りです。国を治めることさえ行われない状況にあって、天さえ災禍を加えることを忘れている。ところが道理をわきまえる者がいないような状況にあっては、天下に対してその罪を己に帰して、我が身を責めようとする気さえないのは、まことに嘆かわしい限りです。

そればかりでなく、疫病や飢饉が毎年のように起こり、万民はその苦しみと戦い続けなければなりません。


○天竜寺建立事
武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。何様是は吉野の先帝崩御の時、様々の悪相を現し御座候けると、其神霊御憤深して、国土に災を下し、禍を被成候と存候。去六月二十四日の夜夢に吉野の上皇鳳輦に召て、亀山の行宮に入御座と見て候しが、幾程無て仙去候。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔に逍遥し御座す。西郊の霊迹は、檀林皇后の旧記に任せ、有謂由区々に候。哀可然伽藍一所御建立候て、彼御菩提を吊ひ進せられ候はゞ、天下などか静らで候べき。菅原の聖廟に贈爵を奉り、宇治の悪左府に官位を贈り、讃岐院・隠岐院に尊号を諡し奉り、仙宮を帝都に遷進られしかば、怨霊皆静て、却て鎮護の神と成せ給候し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。此為に宋朝へ宝を被渡しかば、売買其利を得て百倍せり。又遠国の材木をとれば、運載の舟更に煩もなく、自順風を得たれば、誠に天竜八部も是を随喜し、諸天善神も彼を納受し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余宇の寮舎・八十四間の廊下まで、不日の経営事成て、奇麗の装交へたり。此開山国師、天性水石に心を寄せ、浮萍の跡を為事給しかば、傍水依山十境の景趣を被作たり。所謂大士応化の普明閣、塵々和光の霊庇廟、天心浸秋曹源池、金鱗焦尾三級岩、真珠琢頷龍門亭、捧三壷亀頂塔、雲半間の万松洞、不言開笑拈花嶺、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋。此十景の其上に、石を集ては烟嶂の色を仮り、樹を栽ては風涛の声移す。慧崇が烟雨の図、韋偃が山水の景にも未得風流也。康永四年に成風の功終て、此寺五山第二の列に至りしかば、惣じては公家の勅願寺、別しては武家の祈祷所とて、一千人の僧衆をぞ被置ける。

☆ 天竜寺建立のこと

さて幕府側の人間どもにとって、このように諸国を支配することも、軍事費を捻出するためには、止むを得ないことですが、それにしても気の使いようもあるに関わらず、実際は無駄なバサラ(勝手気ままに振舞ったり、派手を競うことなど)にふけり、身には派手な衣装を着け、食卓には山海の珍味をならべ、

茶の会や酒宴に多額の費用をかけたり、遊女や田楽の演者にも多くの財物を与えたりするので、国費は圧迫され人は疲れきって、飢饉や疫病が蔓延し、盗賊や戦乱もとどまることがありません。これらのことは何も天が災禍を加えようとしているのではありません。

ただ一つ、政治の不毛に因るものです。にもかかわらず、道理を理解しようとする人もいないため、この世の罪科を我が身に帰して、自分自身に責任を科そうともしません。夢窓国師は左兵衛督直義に、「最近、天下の情勢を見ていると、人の力で天災を克服しようとしているように思えてなりません。

ところが考えてみれば、吉野の先帝、後醍醐が崩御された時、種々様々な不吉な現象が起きました。これは先帝のみたまが怒りを発し、国土に災いを起こし、苦しみを与えようとしているのではと思わざるを得ません。去る暦応二年(延元四年::1339年)六月二十四日の夜、

夢の中に吉野の上皇が鳳輦(天皇の晴れ用の乗り物)に乗られて、亀山の行宮にお入りになられたと見受けられたのですが、しばらくして崩御されました。それからも、しばしば金龍(天子の乗物?)に乗られて大堰川の周辺を散策されました。京都の西郊嵯峨野にある神聖な跡地については、

嵯峨天皇の皇后、檀林皇后の古い書き物によると、まとまりがなく雑然とした地だということです。願わくば、そこにしかるべき伽藍の一宇などを建立され、後醍醐先帝の菩提を弔われれば、間違いなくこの天下の動揺は収まるでしょう。菅原道真を祭った神社に爵位を贈り、

保元の乱を起こした宇治の悪左府、藤原頼長に官位を追贈し、讃岐院、崇徳上皇や隠岐院、後鳥羽上皇に尊号を贈り、その御所を帝都京に遷されたところ、怨霊は全ておとなしくなり、反対に都を護る神々になられたのです」と申し上げると、尊氏将軍も左兵衛督直義も、

「この提案は全く当を得ている」と、全面的に賛同されたのでした。そこで早速夢窓国師を開祖の僧侶として一寺の建立を計画し、亀山殿の旧跡をその地と決めると同時に、安芸や周防の国に必要資金や資材充当の税を課し、天竜寺の造営にかかりました。

この事業のために、宋朝と財宝の取引を行ったので、その売買利益は莫大なものになりました。また遠国の材木を使用のため、その運搬に使用する舟など全て順調に進み、その上順風に恵まれたので、天竜八部衆(天、竜をはじめとする仏法守護の八神)もこれを喜ばれ、

諸天善神(大梵天王、帝釈、大日など法華経行者を守護する神々)も願いを聞き入れてくれるように思えました。それらの加護を受けて、仏殿、法堂、庫裏、僧堂、山門、総門、鐘楼、方丈、浴室、輪蔵、雲居庵、七十余宇の寮舎そして八十四間の廊下に至るまで、順調に工事が進み、荘厳な美しい寺院が完成したのです。

この開山に当たった夢窓国師は天性、泉水や庭石に造詣が深く、浮き草の如く居を定めようとしない人でしたから、水や山を取り入れた天竜寺十境を含む新しい庭園を造りあげたのでした。この天竜寺十境と言われるものは、仏、菩薩が衆生救済のため現れたという、

(一)普明閣(ふみょうかく::三門の雅称)、仏、菩薩が本来の威光を和らげ、仮の姿で現れ衆生を救済する、(二)霊庇廟(れいひびょう::後醍醐天皇の廟、旧鎮守八幡宮)、天心浸秋(?)の(三)曹源池(方丈裏の庭園)、金鱗焦眉(美しいうろこの模様がついた琴)の音と思える(四)三級巌(川中にある音無瀬の滝)

真珠琢頷(?)の(五)龍門亭(亀山の麓、大堰川に接して建てた茶亭)、棒三壷(?)の(六)亀頂塔(きちょうとう::亀山頂上の九重の塔)、雲半間(?)の(七)万松洞(ばんしょうどう::門前から渡月橋までの松並木)、不言開笑(?)の(八)拈華嶺(ねんげれい::後醍醐天皇菩提のため、吉野の桜を移した嵐山のこと)

無声聞音(?)の(九)絶唱渓(大堰川の清流)、上銀漢(天の川に架けた)の(十)渡月橋のことです。これら十景を見下ろす山々に、石を集めてきて霞や雲などのかかっている峰を表現し、樹木を植えて風のざわめく音を再現しました。慧崇の描いた烟雨の絵や、韋偃(いえん)が描く山水画にも得がたい風流を感じます。

康永四年(興国六年::1345年)に完成を見て、京都五山(京都所在の臨済宗五大寺の称)の第二列に位置しましたので、一般には公家の勅願寺であり、特に武家の祈祷所として、一千人の僧侶衆を抱えました。


○依山門嗷訴公卿僉議事
同八月に上皇臨幸成て、供養を可被逐とて、国々の大名共を被召、代々の任例其役を被仰合。凡天下の鼓騒、洛中の壮観と聞へしかば、例の山門の大衆忿をなし、夜々の蜂起、谷々の雷動無休時。あはや天魔の障碍、法会の違乱出来ぬるとぞみへし。三門跡是を為静御登山あるを、若大衆共御坊へ押寄て、不日に追下し奉り、頓て三塔会合して大講堂の大庭にて僉議しける。其詞に云、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武皇帝建平安城也。契将来於吾山、伝教大師開比叡山也。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議しければ、三千大衆一同に皆尤々とぞ同じける。同七月三日谷々の宿老捧款状陳参す。其奏状に云、延暦寺三千大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居之遺基、為人処之栖界、何不傷哉。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居哉。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千学侶忽為雷動、一紙表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐天皇御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之由、所有其沙汰也。山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也。望請天裁急断葛藤、於天竜寺者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千大衆法師等上とぞ書たりける。

☆ 山門延暦寺の強訴が起こり、公卿らが会議を開いたこと

さて貞和元年(興国六年::1345年)八月に光厳上皇をお迎えして落慶供養を執り行うことになり、諸国の大名らを召集し、各自代々携わってきた役職に関して話し合いました。この行事には世間も大騒ぎになり、洛中における一大事業と言われましたから、いつもの如く山門、延暦寺の大衆らは激怒し、

夜毎に大衆らは抗議活動の集会を持ち、谷々にその動きが収まることもありません。あぁ、人心を悩ます悪魔の妨害がなす技か、追善の落慶供養の実施に暗雲が立ちこめたようです。そこで三門跡(妙法院、青蓮院、三千院)はこの事態を収拾するため、比叡山に登りましたが、

若い大衆らが堂舎に押し寄せ、すぐに彼らを山から追い落としてしまいました。その後、西塔、東塔、横川の大衆らが大講堂の大庭に集まって会議を行いました。その結果として決議文には、「君主が行う政治の盛衰は、全て仏教に対する考え方の正邪にあり、国家の安全を得るには、

山門を尊重し護り続けることある。よく言われるように、桓武天皇がこの平安京を建設された時、わが山と将来に渡っての約束によって、伝教大師がこの比叡山を開山されたものである。そこで京都の守護に努めてきました。それ以来、山門延暦寺は僧侶による衆生を教え導く根本道場として、

また天子にとっての重要な道場として、真言密教と天台顕教の発展と共にありました。英邁なる帝の御代には、これをあがめ大切にしてきたのであります。ところが最近になって、禅宗が実施しようとしている儀式が、世間で大騒ぎになっており、天台顕教、真言密教など無きに等しい有様です。

これはまさしく亡国の前兆であり、仏法の滅亡を意味していると、思わない人などおりません。わが山門はこの事態を驚き嘆いています。他国にこのような例を求めると、宋朝の幼い皇帝が禅宗を重視したため、蒙古によって国家を奪われました。我が国においても、

武家、北条相模守がこの禅宗に傾倒したため、当代の天皇によって家系を傾けることとなりました。最近起こった先人の失敗を見て、我々は何故戒めようとしないのでしょうか。今後の天竜寺落慶供養の儀式については、すでに式次第など勅願により整い、天皇の臨幸もあり、

その壮観は一体どれほどのものか、などなど。噂で聞くような事であれば、天子は非常に驚かれるので、夢窓疎石法師を遠流に処した上、天竜寺は犬神人(八坂神社に隷属した身分の低い神人)によってでも破却させるべきである。もしこの決定に時間がかかるようであれば、

すぐにでも日吉七社の神輿による神威をかざして、宮中に向かうことになるだろう」と、書いてありました。この決議に三千大衆は全員が納得し賛同しました。同じく七月三日、谷々の長老が決議による嘆願書を手にして陳情に向かいました。その陳情書には、延暦寺三千の大衆、法師らは、

まことに畏れ多いことですが、天皇の直裁を頂きたくここに申し上げます。それは過去の例に従って、疎石法師(夢窓国師)の邪法を即刻停止すると共に、その身は遠島に追放し、天竜寺にあっては落慶供養の儀を中止させて、顕蜜両宗の発展を進めることにより、国家の安泰を図るべく、

ますます祈願に邁進を致しましょう。(以下訳不能::要するに疎石を遠島に処し、天竜寺の落慶法要を中止してさえ頂けたら、山門は朝廷のため安全を祈願いたしましょうということ)右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。

鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。

何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居之遺基、為人処之栖界、何不傷哉。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。

譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居哉。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。

天下言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千学侶忽為雷動、一紙表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐天皇御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、

為御聴聞密々可有臨幸歟之由、所有其沙汰也。山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。

偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也。望請天裁急断葛藤、於天竜寺者、須令削勅願之号停止勅会之儀、

流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等誠恐誠惶謹言。康永四年(興国六年::1345年)七月日三千大衆法師等と、書かれていました。


奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此事可有如何と僉議あり。去共大儀なれば満座閉口の処に、坊城大納言経顕卿進で被申けるは、「先就山門申詞案事情、和漢の例を引て、此宗を好む世は必不亡云事なしと申条、愚案短才の第一也。其故は異国に此宗を尊崇せし始を云ば、梁武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺に禅坐し給しより以来、唐代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也。我朝には武臣相摸守此宗に傾て、九代累葉を栄へたり。而に幼帝の時に至て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初に当て、高時一家を亡事は、全非禅法帰依咎、只政を乱り驕を究し故也。何必しも治りし世を捨て、亡びし時をのみ取んや。是■濫謀訴也。豈足許容哉。其上天子武を諱とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎此夢窓は三代の国師として四海の知識たり。山門縱訴を横すとも、義を知礼を存せば、過言を止て可仰天裁。漫疎石法師を遠島へ遣し、天竜寺を犬神人に仰て可破却と申条、奇怪至極也。罪科不軽。此時若錯刑者向後の嗷訴不可絶。早三門跡に被相尋、衆徒の張本召出し、断罪流刑にも可被行とこそ存候へ。」と、誠に無余儀被申ける。此義げにもと覚る処に、日野大納言資明卿被申けるは、「山門聊嗷訴に似て候へ共、退て加愚案一義有と存候。其故は日本開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺専とす。故に乱政行朝日は山門是を諌申し、邪法世に興る時は衆徒是を退る例其来尚矣。先後宇多院御宇に、横岳太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其儀を被止畢。又以往には土御門院御宇元久三年に、沙門源空専修念仏敷演の時、山門訴申て是を退治す。後堀河院御宇嘉禄三年尚専修の余殃を誡て、法然上人の墳墓を令破却。又御鳥羽院御宇建久年中に、栄西・能忍等禅宗を洛中に弘めし時、南都北嶺共起て及嗷訴。而に建仁寺建立に至て、遮那・止観の両宗を被置上へ、開山以別儀可為末寺由、依被申請被免許候き。

山門よりの文書が公卿らに披露され、これにより諸公卿らが集まり、この申し入れに如何に対処すべきか話し合いました。とは言ってもことは重大な事案であり、皆は押し黙っていましたが、坊城大納言経顕卿が前に進み出て、「まず最初に山門の主張する論理について言えば、

我が国や中国の例を上げて、この宗教を保護するような世の中は滅亡するに違いないと言う推論は、まったく愚かな考えであり考慮の余地などありません。なぜなら、この禅宗を異国中国において、最初に尊び敬ったのは、梁王朝の武帝が達磨大師に功徳などあるものでは無いと言う話を聞き、

大同寺で座禅をして以来、唐代の二百八十八年また宋朝の三百十七年に渡り、皇帝の地位は安定し、国家は平和を保ってきました。我が国においては、武臣である相模守がこの宗教に傾倒して、九代に渡ってその子孫代々は繁栄を続けました。

ところが大宋南朝は幼帝順帝が擁立されるに至って蒙古に国を奪われ、また我が国では元弘(1331-1333年)の初期に、北条高時が一族を滅亡させたことは、まったくこの禅宗に帰依したためではありません。ただ政治を誤り、繁栄に奢りきったことにその原因があります。

どうして治安の安定した時代を取り上げず、滅亡した時の事情だけで結論付けるのでしょうか。この要求には何ら正義など感じられず、決して許されるものではありません。その上、天子が諡号に武の字を用いた時、世の中の人は武の名に意味を持たせませんし(?訳不可)

ましてこの夢窓法師は三代にわたっての国師として、我が国の仏教界における第一人者であります。山門はたとえ強訴を強行しても、道理をわきまえ、礼儀を知っているならば、極論ばかりを言い立てずに、天皇の裁決に従うべきであります。軽率にも疎石法師を遠島に流し、

天竜寺を犬神人に命じて破却するなどの言い草は、まことに理解の範囲を超えた申し入れであります。これらの要求を申し出た罪は決して軽いものではありません。この時に当たって、もし誤った処罰を科したりすれば、今後強訴はますます激しく起こることになるでしょう。

大至急、三門跡に問い合わせ、衆徒らを扇動している張本人を呼び出して、斬首なり遠島なりの刑罰を実施することこそ重要と考えます」と、他には全く考えようがないように話されました。この説明に皆が全面的に納得していたところ、日野大納言資明卿が、

「山門が行っていることは、強訴のようにも思えますが、一歩下がって考えれば、一片の理もあるようにも思えます。その理由として、日本国の起こりは天台山から始まったのであり、宮城の鎮護は延暦寺が全面的に担当してきました。そのため天下の政治に乱れが起これば、

山門がこれを諌めたり、世に邪法が興れば衆徒らがこれを退けた例は過去に何度もあります。まず最初として、後宇多院の御代に嘉元寺を建造し、禅僧である横岳大応国師(南浦紹明)を招請しようとしましたが、山門の抗議によって中止となりました。

またその後、土御門院の御代、元久三年(1206年)においても、僧侶源空(法然上人)が専修念仏(南無阿弥陀仏と唱えるだけで往生できると言う教え)を説こうとした時、山門が訴え出て中止させました。後堀川院の御代、嘉禄三年(1227年)には、専修念仏の悪影響を払拭するため、

法然上人の墳墓を破却することまでしました。また後鳥羽院の御代、建久(1190−1198年)年間において、栄西や大日房能忍らが盛んになってきた禅宗を都で広めていた時、南都興福寺と北嶺延暦寺が結束して強訴に及びました。ところがその後、栄西が開山僧として建仁寺を建立するに当たって、

遮那業(真言宗)、止観業(天台宗)の二宗を含め、三宗(台、密、禅)兼修の寺として申請したので、創建の許可が得られたのでした」


惣て仏法の一事に不限。百王の理乱四海の安危、自古至今山門是を耳外に不処、所謂治承の往代に、平相国清盛公、天下の権を執て、此平安城を福原の卑湿に移せし時も、山門独捧奏状、終に遷都の儀を申止畢ぬ。是等は皆山門の大事に非ずといへども、仏法与王法以相比故、被裁許者也。抑禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴ぶ処は祖師の行迹也。然に今の禅僧之心操法則、皆是に相違せり。其故は、宋朝には西蕃の帝師とて、摩訶迦羅天の法を修して朝家の護持を致す真言師あり。彼れ上天の下、一人の上たるべき依有約、如何なる大刹の長老、大耆旧の人も、路次に行会時は膝をかゞめて地に跪き、朝庭に参会する時は伸手沓を取致礼といへり。我朝には不然、無行短才なれども禅僧とだに云つれば、法務・大僧正・門主・貫頂の座に均からん事を思へり。只今父母の養育を出たる沙弥喝食も、兄を超父を越んと志あり。是先仁義礼智信の法にはづる。曾て宋朝に無例我朝に始れり。言は語録に似て、其宗旨を説時は、超仏越祖の手段有といへども、向利に、他之権貴に媚る時は、檀那に諂ひ富人に不下と云事なし。身には飾五色食には尽八珍、財産を授て住持を望み、寄進と号して寄沙汰をする有様、誠に法滅の至りと見へたり。君子恥其言過其行と云り。是豈知恥云乎。凡有心人は信物化物をみじと可思。其故は戒行も欠、内証も不明ば、所得の施物、罪業に非と云事なし。

日野資明卿の話は続きます。「これらのことは、何も仏法に関することだけに限りません。代々の帝による治世や乱世、また国家の安全と危急に関しても、過去から現在に至るまで山門は無関心であったことはありません。いわゆる治承(1177−1181年)の過去においても、

平相国清盛公が天下の権力を握り、ここ平安京を福原のじめじめした低地に移した時も、山門ただ一人だけが天子に文書で申し入れ、最終的に遷都の実現はかないませんでした。これらのことは何も山門にとって、重要なことではないのですが、仏教と朝廷による政権は、

お互いが助け合っている関係上、健全なる決定がなされてきたのです。もともと禅宗が持つ基本的な思想は、宋王朝の儀礼儀式を踏襲し、宗派を開いた達磨大師の功績を尊重することにあります。ところが現在の禅僧を支配している思想や行動は、それとは大きく異なっています。

何故かと言えば、宋朝では皇帝を補佐する者として、隣接するチベット人で、摩訶迦羅天(チベット仏教、大黒天)の教義を学び、修行をおさめて、朝廷の真言師として加持祈祷を行い、護持に努めている者がいました。彼は天下において天子の上に立つべきという決まりをもっているので、

如何なる大規模寺院の長老や年配の人であっても、道路上で彼に出会えば膝をかがめ地にひざまずきますし、朝廷に参内する時は、くつを手にすることが礼法だと言われていました。ところが我が国では、特に修行に秀でているわけでなく、才能が劣っていても、禅僧であるとさえ言えば、

法務(延暦寺や園城寺などの大寺で寺務をつかさどる僧職)、大僧正(僧位の最高位)、門主(一山、一経派の長)、貫頂(各宗総本山や諸大寺の住職)などの立場と異ならないと思っています。たった今、父母による養育を終えたばかりの新人僧侶見習いであっても、兄を追い越し、父をも凌ごうとする志を持っています。

この事はすでに仁義礼智信(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の道を説く)の教えを無視しています。過去において宋朝にはそのような例がなく、我が国において始まったものです。その主張することは学説や教理に基づいたものですが、宗教としての中心的な教義を説くときは、仏や祖師の影響を感じさせることはなく、

何らかの利を得ようとして、権力や富貴に媚を売り、布施を施す人にへつらたっり、裕福な人に対して卑下することを厭いません。我が身は五色の装束で飾り立て、食事にはあらゆる珍味をもって調理し、金品を貰い受けて住職になることを望み、寄進という名のもと寄付を申し入れるその態度は、

誠に仏法の破滅を感じさせるものです。君子恥其言過其行(君子たるもの言葉が過ぎることを恥じるが、行動は過ぎるほど努力する)と言います。こんな状態で恥を知っていると言えるのでしょうか。少しでも思慮分別のある人ならば、信物化物(まやかしなこと?)など相手にしないと思われます。

何故かと言えば戒律を守り修行に励むこともせず、自身の心に真理を悟っているわけでもなければ、財貨の布施を行うことは罪業としか言い様がないからです」


又心有道学の者に三機あり。上機は人我無相なれば心に懸る事なし。中機は一念浮べ共、人我無理を観ずる故に二念と相続で無思事。下機は無相の理までは弁ぜね共、慙愧懺悔の心有て諸人を不悩慈悲の心あり。此外に応堕地獄者有べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非を顕す此等也。凡寺を被建事も、人法繁昌して僧法相対せば、真俗道備尤可然。宝堂荘厳に事を寄、奇麗厳浄を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持し人を謗して徒に明し暮さば、仏法興隆とは申難かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕して諸有所得の心を離て清浄を修すべきに、今禅の体を見るに、禁裏仙洞は松門茅屋の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客は木食草衣なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽けり。祖師行儀如此ならんや。昔摩羯陀国の城中に一人の僧あり。毎朝東に向ては快悦して礼拝し、北に向ては嗟嘆して泪を流す。人怪みて其謂を問に答て云、「東には山中に乗戒倶に急なる僧、樹下石上に坐して、已に証を得て年久し。仏法繁昌す。故に是を礼す。北には城中に練若あり。数十の堂塔甍を双べ、仏像経巻金銀を鏤たり。此に住する百千の僧俗、飲食衣服一として乏しき事なし。雖然如来の正法を究めたる僧なし。仏法忽に滅しなんとす。故に毎朝嗟傷す。」と、是其証也。如何に寺を被造共人の煩ひ歎のみ有ては其益なかるべし。朝廷の衰微歎て有余。是を見て山門頻に禁廷に訴ふ。言之者無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申処有其謂歟とこそ存候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。

なおも話は続きます。「また分別のある修行者には、悟りを開く能力として、三つの段階があるようです。上機(悟りを開く最高の能力を持つ)の人は他人と自分の区別や、執着などから離脱しているので、心中何らわだかまることなどありません。また中機の人は仏の救済を信じて一度は念仏を唱えますが、

他人との関係から逃れられないと思うから、他の異なった考えにとらわれて、念仏を唱え続けようとはしません。そして下機(悟りに関する能力の劣る)の人は、一切の執着から離脱するという理屈は理解できませんが、自分の過ちを恥じたり、罪を告白し悔い改めようとする気持ちから、

多くの人々の悩みや苦しみを取り除こうと考えています。このほかにも、地獄に落ちるのがふさわしく思える人も見られます。人としての道義を失うことを顧みず、他人の非難ばかりしている人のことです。基本的に寺院を建立することも、一般の人々が大いに栄え、また僧侶もそれと共に栄えるならば、

僧俗ともに繁栄し望ましいことです。しかし、殿舎、仏像などを厳かに飾りつけることに事寄せて、いかに美しく厳かなことが好まれると言えども、僧侶たちが慈悲の心を持たず、また不真面目に仏教を我が物とし、俗人を馬鹿にして日々を無駄に明かし暮らしていては、とても仏教が繁栄しているとは言えません。

仏教に携わる僧侶と言われる人は、我が身命を惜しむことなく、世間に奉仕することを第一に考え、あらゆる財貨に対する欲望を捨て去り、煩悩、私欲などから超越した修行をするべきであるに関わらず、最近の禅の状況を見てみると、皇居や仙洞御所は松の木が門の代わりをし、

建物は荒れ果てているのに、禅宗の寺院は黄金や玉で飾り付けた美しく立派な建物を並べ、公卿や殿上人が粗食、粗衣に甘んじているのに、禅僧は贅沢な食事や美しく着飾ることを第一としています。開祖の理念、教えはこのようなものだったのでしょうか。

昔、摩訶陀国(まがだこく::古代インドの十六大国の一つ)の城中に一人の僧がいました。彼は毎朝東に向かって、喜びに満ちた様子で礼拝をし、北に向かっては、嘆きを隠すことなく涙を流します。人はこの様子を不審に思い、その訳を聞いてみると、『東の山中には、仏の教えや戒律などに厳しい僧侶が、

山野、路傍に野宿をして、真理を悟ってからすでに長い年月が経っています。仏教は大いに栄えると思われますので、このことに礼を尽くしています。しかし、北の方には、城内に修行道場があるのですが、そこは数十の堂塔が甍を並べ、仏像や経巻には金銀がちりばめられています。

この道場に寄宿する百千の僧侶、俗人らは、衣食に何ら不足することもありません。それにも関わらず、釈迦如来の正しい教えを完璧に身につけた僧はおりません。これでは仏教は瞬く間に滅亡するでしょう。そのため毎朝、嘆き悲しんでいるのです』と、その理由を説明しました。

いかに寺院を建造しようとも、人に負担をかけたり、嘆きの原因になっていては、その建造に何ら利益などありません。朝廷が衰微していく姿に嘆きがつのるばかりで、山門は幾度も朝廷に訴え続けてきました。これを言う者には罪はなく、これを聞く者こそ注意を払うべきではないのでしょうか。

つまるところ、、山門が訴えようとしているのは、こういうことだと思われます」と、歯に衣着せず話されました。


此両義相分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴を静めたり。良有て三条源大納言通冬卿被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦山門申処雖事多、肝要は只正法与邪法の論也。然らば禅僧与聖道召合せ宗論候へかしとこそ存候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡宗論の事は、三国の間先例多く候者を。朝参の余暇に、賢愚因縁経を開見候しに、彼祇園精舎の始を尋れば、舎衛国の大臣、須達長者、此国に一の精舎を建仏を安置し奉らん為に、舎利弗と共に遍く聚落園林を廻て見給ふに、波斯匿王の太子遊戯経行し給ふ祇陀園に勝れたる処なしとて、長者、太子に此地を乞奉る。祇陀太子、「吾逍遥優遊の地也。容易汝に難与。但此地に布余す程の金を以て可買取。」とぞ戯れ給ける。長者此言誠ぞと心得て、軈て数箇の倉庫を開き、黄金を大象に負せ、祇陀園八十頃の地に布満て、太子に是を奉る。祇陀太子是を見給て、「吾言戯れ也。汝大願を発して精舎を建ん為に此地を乞。何の故にか我是を可惜。早此金を以て造功の資に可成。」被仰ければ、長者掉首曰、「国を可保太子たる人は仮にも不妄語。臣又苟不可食言、何ぞ此金を可返給。」とて黄金を地に棄ければ、「此上は無力。」とて金を収取て地を被与。長者大に悦で、軈て此精舎を立んと欲する処に、六師外道、波斯匿王に参て申けるは、「祇陀太子、為瞿曇沙門須達に祇陀園を与て精舎を建んとし給。此国の弊民の煩のみに非ず。世を失ひ国を保給ふまじき事の瑞也。速に是を停給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王、外道の申処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給て、「さらば仏弟子と外道とを召合せ神力を施させ、勝負に付て事を可定。」被宣下しかば、長者是を聞て、「仏弟子の通力我足の上の一毛にも、外道は不及。」とぞ欺給ひける。さらばとて「予参の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既其日に成しかば、金鼓を打て見聞の衆を集め給ふ。舎衛国の三億悉集、重膝連座。斯る処に六師外道が門人、如雲霞早参じて著座したるに、舎利弗は寂場樹下に禅座して定より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗我師の威徳に臆して退復し給ふ。」と笑欺ける処に、舎利弗定より起て衣服を整へ、尼師壇を左の肩に著け、歩む事如師子王来り給ふ。

このように議論は二つに割れ、一体どちらに分があるのか諸卿は決めかね、満座の人々は鳴りを潜めていました。しばらくして三条源大納言通冬卿が、「今、話された二つのご意見は、全く天地とも言うべき違いのあるご意見で、とてもまとめることなど出来ないと思われます。

たとえ山門の言わんとするところ多々あれども、その重要な部分はどちらの宗教が正しい教えなのか、それともまやかしの宗教なのかの議論に尽きます。それならば、禅僧と真言、天台の僧侶を召集し、宗教論争をさせるのが良いと考えます。そうでもしなければ決着をつけるのは難しいと思います。

もともと宗教論争に関しては、三国、つまりインド、中国そして我が国では、過去にその例はたくさんあります。私は参内の合間に賢愚因縁経(賢者、愚者に関する因縁話を集めたもの)を読んでみましたが、あの祇園精舎の起源を調べてみれば、舎衛国(しゃえいこく::釈迦在世の頃、インドにあった国)の大臣、

須達と言う仏教に帰依した長者が、この国に一宇の精舎(寺院)を建立し、仏像を安置したいと考え、舎利弗(しゃりほつ::釈迦十大弟子の一人)と一緒に適地を求めて、集落、山野、農地などもれなく探し回ってみたところ、波斯匿王(はしのく・おう::古代インドに栄えたコーサラ国の王)の子息、祇陀(ぎだ)太子が、

修行のため自由に歩きまわり、心身を整えている祇陀園ほど、精舎建造にとって適地はないだろうと、須達長者は太子にこの土地を頂きたいと願い出ました。しかし祇陀太子は、『私が修行や散歩に使用している土地であり、簡単に貴方に与えるわけにいかない。

しかし、この土地に残すことなく金貨を敷き並べるほどの価格なら貴方に売り渡しても良い』と、冗談半分に話されました。長者はこの言葉を真に受けて、すぐ数ヶ所の倉庫を開き、黄金を大きな象に乗せて、祇陀園八十頃(けい::中国で用いられた土地面積の単位。一頃は約六ヘクタール)の土地に敷き並べ、

太子に全てお渡ししました。祇陀太子はこの事態に、『私は冗談のつもりで話したのです。貴方は大願をもって、精舎を建造しようとこの土地を願い出たのです。どうして私が惜しむことなどするのでしょうか。その黄金は建造費用に充てるのが良いでしょう』と仰せられたのですが、

長者は首を向きなおし、『国を治めるべき太子ともあろう人の言葉に、仮にも戯言などあるはずがありません。臣下もまた卑しくも約束を破ることなど出来ません。どうしてこの黄金を返してもらうことが出来るでしょうか』と言って、黄金を地面に捨て置きました。

太子は、『これ以上何を言っても無駄だろう』と言って、黄金を集め取りこの土地を与えられたのです。長者は大喜びし、早速精舎の建造にかかろうと思っていると、六師外道(釈迦とは思想の異なる、同時代の六人の思想家たち)が波斯匿王のところに来て、『祇陀太子はまだ悟りの境地に入っていない釈迦のため、

須達長者に祇陀園を与え、精舎を建造しようとしている。このような事業は、この国のさほど豊かでもない国民に負担をかけるだけでなく、世の治世に害を与え、国家の存続さえ危惧すほどの出来事であります。速やかにこの事業を中止するように』と、訴えました。

波斯匿王は外道の言い分もそれなりの筋が通っており、かといって長者の願望も捨てがたく思案に困り、『こうなれば、釈迦の弟子と外道を集め、互いに秘儀を戦わせ、その勝敗の結果によって事態の収拾を図ろう』と、仰せられました。長者はこの話を聞き、『釈迦の弟子が持つ神通力は、

私の足に生えた一本の毛にさえ、外道が対抗できるものではない』と、馬鹿にしたのでした。では、『勝負の予定日を決めて、互いの秘術の優劣を見極めよう』と、仰せられたのです。すぐその日がやって来て、金鼓(仏教で用いる楽器の一つ。鐘と太鼓)を打ち鳴らし、見物の人達を集められました。

舎衛国、三億の国民全員が集まり、膝を互いに重ねるようにして連なり並んだのでした。やがて六師外道の門人達が、雲霞のごとく大挙やって来て着座しました。対して舎利弗は物静かに木の下で禅を組んで、精神の集中に努めました。外道の門徒が、『やはり舎利弗は我らの師匠の威厳に恐れをなして、

引き下がるのか』とあざ笑っていると、舎利弗は精神の集中から離れ衣服を整えて、尼師檀(にしだん::僧侶の必需品のうち、座るとき地に敷く布)を左の肩にかけ、まるで獅子のように歩み寄ってきました」


此時不覚外道共五体を地に著て臥ける。座定て後外道が弟子労度差禁庭に歩出て、虚空に向ひ目を眠り口に文咒したるに、百囲に余る大木俄に生出て、花散春風葉酔秋霜。見人奇特の思をなす。後に舎利弗口をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風となり、此木を根より吹抜て地に倒ぬ。労度差又空に向て呪する。周囲三百里にみへたる池水俄に湧出して四面皆七宝の霊池となる。舎利弗又目を揚て遥に天を見給へば、一頭六牙の白象空中より下る。一牙の上に各七宝の蓮花を生じ、一々の花の上に各七人の玉女あり。此象舌を延て、一口に彼池水を呑尽す。外道又虚空に向て且咒したるに、三の大山出現して上に百余丈の樹木あり。其花雲を凝し、其菓玉を連たり。舎利弗爰に手を揚て、空中を招き給ふに、一の金剛力士、以杵此山を如微塵打砕く。又外道如先呪するに、十頭の大龍雲より下て雨を降雷を振ふ。舎利弗又頭を挙て空中を見給ふに、一の金翅鳥飛来、此大龍を割喰。外道又咒するに、肥壮多力の鉄牛一頭出来て、地を■て吼へ忿る。舎利弗一音を出して咄々と叱し給ふに、奮迅の鉄師子走出て此牛を喰殺す。外道又座を起て咒するに、長十丈余の一鬼神を現ぜり。頭の上より火出て炎天にあがり、四牙剣よりも利にして、眼日月を掛たるが如し。人皆怖れ倒れて魂を消処に、舎利弗黙然として座し給ひたるに、多門天王身には金色の胄を著し、手に降伏の鋒をつきて出現し給ふに、此鬼神怖畏して忽に逃去ぬ。其後猛火俄に燃出、炎盛に外道が身に懸りければ、外道が門人悉く舎利弗の前に倒れ臥て、五体を地に投、礼をなし、「願は尊者慈悲の心を起して哀愍し給へ。」と、己が罪をぞ謝し申ける。此時舎利弗慈悲忍辱の意を発し、身を百千に化し、十八変を現して、還て大座に著給ふ。見聞の貴賎悉宿福開発し、随喜感動す。六師外道が徒、一時に皆出家して正法宗に帰服す。是より須達長者願望を遂て、祇園精舎建しかば、厳浄の宮殿微妙の浄刹、一生補処の菩薩、聖衆此中に来至し給へば、人天大会悉渇仰の頭を傾ける。

通冬卿の話は続きます。「このとき思わず外道らは五体を地につけ伏せたのでした。一同座が定まってから、外道の弟子である労度差が庭に歩み出て、虚空に向かって眼を閉じ呪文をあげたところ、百囲(囲は長さの単位。両手を広げ一囲みの良さ)を超えるかと思われる大木が突然生え出て、

春風に花が散るかと思えば、秋の霜に葉は赤く染まりました。見ていた人々は不思議な霊力を感じました。その後、舎利弗が口をすぼめて息を吹きかけると、激しい暴風が吹き荒れこの木を根元から吹き飛ばし、地面に倒したのです。再び労度差が空に向かって呪文を上げれば、

周囲三百里もあろうかと思われる池が突如として湧き出し、周囲一面が七宝(七種の宝、金、銀、瑠璃など)を散りばめたありがたい霊池となりました。再び舎利弗が眼を上げて、はるか遠方の空を見たところ、一つの頭に六本の牙を持った白い象が空中より下りてきました。

牙の上にはそれぞれ七宝で飾られた蓮華台があり、その一つ一つの花の上には、七人の玉のように美しい女性が乗っています。この象が舌を伸ばして、一口でその池の水を飲みつくしたのです。次に外道が再び大空に向かって再び呪文を唱えると、今度は三つの大きな山が現れ、

その上には百余丈もある樹木が生えています。その木に咲く花は雲を思わせ、その果実は玉を連ねているようです。この時、舎利弗が空中に向かって誰かを招くように手を上げると、一人の金剛力士(仏法を守護する神。大力で悪魔を降伏する)が現れ、杵でもってこの山を木っ端微塵に打ち砕きました。

またもや外道は先ほどのように呪文を唱えると、今度は十頭の大きな竜が雲より降りてきて、雨を降らせ、雷を起こしました。対して舎利弗が再び頭を持ち上げ空中を見ると、一羽の金翅鳥(こんじちょう::金色の翼で、口から火を吐き、竜を好んで食う)が飛来し、この大きな竜を食いちぎりました。

外道が再び呪文を唱えると、太った元気の良い力の強そうな一頭の鉄製の牛が現れ、地を這うようにして怒りもあらわにうなったのです。舎利弗が舌打ちしながら大声で一喝すると、激しく奮い立った鉄の獅子が走り出てきて、この牛を食い殺しました。外道が座から立ち上がって呪文を唱えると、

今度は長さ十丈ほどの恐ろしい化け物が現れました。その化け物は頭の上より火が出ており、その炎は天に舞い上がり、四本の牙は剣よりも鋭利で、その目はらんらんとひかり輝いています。人々は皆が皆、恐れをなして生きた心地もないのに、舎利弗が黙って座っていると、

多聞天王(北方を守る仏法守護の神将)が身に金色の冑を着け、手には神仏の力により、悪魔を追う払うことのできる剣を突き出して現れたので、鬼神は恐れおののいて忽ち逃げ去りました。その後、突然激しく火が燃え出し、その炎が外道の体にまとわりついたので、外道の門人ら全員が、

舎利弗の前に倒れ込み、五体を地に投げ出し敬意を表して、『お願いですから貴方には慈悲の心を起こし、我々を不憫に思って許してください』と、自分らの罪を謝罪しました。この時舎利弗は、慈悲の心を持って全てを許そうと思い、我が身を数多くに分け、次々と変化をしながら元の席に戻りました。

この様子を見ていた人々は、身分に関わらず全員が前世の善行による功徳を得て、喜び感動したのです。六師外道の門人らは皆、一度に出家し、正法宗に帰依しました。これによって須達長者は願望をかなえ、祇園精舎を建造しました。厳かで清冽な宮殿は、趣が豊かな清浄な寺院として、

菩薩の中でも最高位の菩薩(弥勒菩薩?)や、極楽浄土の諸菩薩がこの寺院に集まってくるので、人間界、天上界ともに、ここで法会を行うことを願って止みません」


又異朝に後漢の顕宗皇帝、永平十四年八月十六日の夜、如日輪光明を帯たる沙門一人、帝の御前に来て空中に立たりと御夢に被御覧、夙に起て群臣を召て御夢を問給に、臣傅毅奏曰、「天竺に大聖釈尊とて、独の仏出世し給ふ。其教法此国に流布して、万人彼化導に可預御瑞夢也。」と合せ申たりしが、果して摩騰・竺法蘭、仏舎利、並四十二章経を渡す。帝尊崇し給事無類。爰に荘老の道を貴で、虚無自然理を専にする道士列訴して曰、「古五帝三皇の天下に為王より以来、以儒教仁義を治め、以道徳淳朴に帰し給ふ。而るに今摩騰法師等、釈氏の教を伝へて、仏骨の貴き事を説く。内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違へり。早く彼法師を流罪して、太素の風に令復給べし。」とぞ申ける。依之、「さらば道士と法師とを召合せて、其威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕の東門に壇を高く築て、予参の日をぞ被定ける。既其の日に成しかば、道士三千七百人胡床を列て西に向ひ座す。沙門摩騰法師は、草座を布て東に向ひ座したりけり。其後道士等、「何様の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯上天入地擘山握月術を可致。」とぞ被宣下ける。道士等是を聞て大に悦び、我等が朝夕為業所なれば、此術不難とて、玉晨君を礼し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士低面失機処に、摩騰法師、瑠璃の宝瓶に仏舎利を入て、左右の手に捧て虚空百余丈が上に飛上てぞ立たりける。上に著所なく下に踏所なし。仏舎利より放光明、一天四海を照す。其光金帳の裏、玉■の上まで耀きしかば、天子・諸侯・卿大夫・百寮・万民悉金色の光に映ぜしかば、天子自玉■を下させ給て、五体を投地礼を成し給へば、皇后・元妃・卿相・雲客、悉信仰の首を地に著て、随喜の泪を袖に余す。懸りしかば確執せし道士共も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百余人即時に出家して摩騰の弟子にぞ成にける。此日頓て白馬寺を建て、仏法を弘通せしかば、同時に寺を造事、支那四百州の中に一千七百三箇所なり。自是漢土の仏法は弘りて遺教于今流布せり。

話は続きます。「また中国において、後漢の顕宗皇帝(明帝)が永平十四年(71年)八月十六日の夜、太陽のようにひかり輝いた僧侶一人が帝の御前に現れると、空中に立つという夢を見られ、すぐ起きて臣下を呼び寄せ、この夢について質問をされました。

臣下の傅毅が、『インドにおいて釈迦牟尼と言う一人の仏陀がこの世に生まれました。その教えはこの国においても広まり、万人が彼の教え導きに頼ることになるという、目出度い夢でございます』と追従を申し上げましたが、それを裏付けるかのように、迦葉摩騰(かしょうまとう::インドの僧侶)

竺法蘭(じくほうらん::後漢の経典翻訳家)の二人が仏舎利(釈迦の遺骨)並びに四十二章経(仏教の要旨を四十二章に分けて説いたもの)をこの国に伝えました。顕宗皇帝がこれを尊敬すること並ではありませんでした。ところが老荘思想の説く教えを尊び、老子が言うところの万物の根源、

本体は無であるという虚無思想に凝り固まった道教の信奉者が、連れ立って訴えるには、『古代中国における神話伝説時代の三皇五帝(八人の帝王)が王として君臨して以来今まで、儒教による仁義で世を治め、道徳をもって純なる人間関係を形成してきました。

ところが今、摩騰法師らが釈尊の教えを伝えて、釈迦の遺骨が貴いと説いています。聖人であることを内に秘め、外部に対して王者としての徳を兼備した者が取るべき態度ではなく、徳があればあえて何するでなく、自然体を通すことからも外れています。ここは出来るだけ早くあの法師を流罪に処して、

我が国本来の美風を復活させるべきでしょう』と、申し上げたのです。これによって、『それならば、道士と摩騰法師を呼び寄せ、お互い威徳の優劣を競わせて、ご覧になればよい』と言って、皇居の東門に壇を高く築き、集合の日を決められたのでした。

すぐにその日はやって来て、道教の信奉者ら三千七百人が席を並べて、西に向いて座りました。仏教徒の摩騰法師は草の葉をかたどった敷物を敷いて、東に向かって座られました。その後道士らが、『どのような方法で勝敗を決めるのですか』と、聞いてきたので、

『唯上天入地擘山握月術(天に上り、地に入り込み、山を突き破って、月を掴む術?)をかければ良い』と、仰せられました。道士らはこの返答に大喜びし、我らが朝夕に行っているお勤めなので、この術での勝負はたやすいことだと、玉晨君を拝し、焚芝荻呑気向鯨桓審(?)、天に昇ろうとしても上に行かず、

地中に入ろうにも入ることが出来ず、それだけでなく山を突き破ろうとしても、山は裂けないばかりでなく、月を掴もうとしても月は下りてきません。色々と仙術を試してみましたが、全て仏の持つ不思議な力に押し返され、何事もなし得なかったので、この様子に万人は手を叩き笑いました。

道士が面目を失い気落ちしていると、摩騰法師は瑠璃で出来た瓶に仏舎利を入れると左右の手に捧げ、天空百余丈の上まで飛び上がって立たれたのです。上方にも下方にも何ら妨げるものはありません。仏舎利から発する光は、天下全体をあまねく照らしました。

その光は黄金のとばりの中、皇帝の座所にまで届きましたので、天子、諸侯、諸貴族をはじめに多くの役人や、また万民も金色の光に映し出されたので、天子はみずから座所を降りられ、五体投地の礼(両手、両膝、額を地面に投げ伏して礼拝すること)をされました。

また皇后、元妃、公卿、貴族らは皆が皆、強い信仰心を持って頭を地に着け、喜びの涙で袖を濡らしました。この状況に自分らの主張にこだわっていた道士らも、心を入れ替えて信心の気持ちを心に刻みつけ、三千七百余人がすぐ一度に出家して、摩騰法師の弟子になりました。

またこの日早速、白馬寺を建て、仏教の布教に力を注ぐため、一度に寺を建立すること、支那四百州にその数千七百三ヶ所に上りました。これによって漢における仏教は大いに広まり、釈迦の残した教えである仏教は、現在も大いに広まっています」


又我朝には村上天皇の御宇応和元年に、天台・法相の碩徳を召て宗論有しに、山門よりは横川慈慧僧正、南都よりは松室仲■已講ぞ被参ける。予参日に成しかば、仲■既南都を出て上洛し給けるに、時節木津河の水出て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺に輿を舁居させて、案じ煩給たる処に、怪気なる老翁一人現して、「何事に此河の辺に徘らひ給ぞ。」と問ければ、仲■、「宗論の為に召れて参内仕るが、洪水に河を渡り兼て、水の干落る程を待也。」とぞ答給ひける。老翁笑て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽にだにも不及、以何可致宗論。」と恥しめける間、仲■誠と思て、十二人の力者に、「只水中を舁通せ。」とぞ下知し給ひける。輿舁、「さらば。」とて水中を舁て通るに、さしも夥しき洪水左右に■と分れて、大河俄に陸地となる。供奉の大衆悉足をも不濡渡けり。慈慧僧正も、比叡山西坂下松の辺に車を儲させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出、逆浪浸岸茫茫たり。牛童扣轅如何と立たる処に、水牛一頭自水中游出て車の前にぞ喘ぎける。僧正、「此牛に車を懸替て水中を遣。」とぞ被仰ける。牛童随命水牛に車を懸け一鞭を当たれば、飛が如く走出て、車の轅をも不濡、浪の上三十余町を游あがり、内裏の陽明門の前にて、水牛は書消様に失にけり。両方の不思議奇特、皆権者とは乍云、類少き事共也。去程に清涼殿に師子の座を布て、問者・講師東西に相対す。天子は南面にして、玉■に統■を挑げさせ給へば、臣下は北面にして、階下に冠冕を低る。法席既に定て、僧正は草木成仏の義を宣給へば、仲■は五性各別の理を立て難じて曰、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣しかば、慈慧僧正則円覚経の文を引て、「地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道。」と誦し給ふ。仲■此文に被詰て暫閉口し給処に、法相擁護の春日大明神、高座の上に化現坐て、幽なる御声にて此文点を読替て教させ給けるは、「地獄天宮皆為浄土、有性も無性も斉成仏道。」と、慈慧僧正重て難じて曰、「此文点全法文の心に不叶。一草一木各一因果、山河大地同一仏性の故に、講答既に許具理仏性。若乍具理仏性、遂無成仏時ば、以何曰仏性耶。若又雖具仏性、言不成仏者、有情も不可成仏、有情の成仏は依具理仏性故也。」難じ給しかば、仲■無言黙止給けるが、重て答て曰、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先自身成仏の証を顕し給はずば、以何散疑。」と宣ひしかば、此時慈慧僧正言を不出、且が程黙座し給ふとぞ見へし。香染の法服忽に瓔珞細■の衣と成て、肉身卒に変じて、紫磨黄金の膚となり、赫奕たる大光明十方に遍照す。されば南庭の冬木俄に花開て恰春二三月の東風に繽紛たるに不異。列座の三公九卿も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下に来かとぞ覚ける。爰に仲■少欺る気色にて、揚如意敲席云、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦し給ふ。此時慈慧僧正の大光明忽消て、本の姿に成給ひにけり。是を見て、藤氏一家の卿相雲客は、「我氏寺の法相宗こそ勝れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給ける処に、門外に繋たる牛、舌を低て涎を唐居敷に残せるを見給へば、慥に一首の歌にてぞ有ける。草も木も仏になると聞時は情有身のたのもしき哉是則草木成仏の証歌也。春日大明神の示給ひけるにや。何れを勝劣とも難定。理哉、仲■は千手の化身、慈慧は如意輪の反化也。されば智弁言説何れもなじかは可劣、唯雲間の陸士竜、日下の荀鳴鶴が相逢時の如く也。而ば法相者六宗の長者たるべし。天台者諸宗の最頂也と被宣下、共に眉目をぞ開ける。抑天台の血脈は、至師子尊者絶たりしを、緬々世隔て、唐朝の大師南岳・天台・章安・妙楽、自解仏乗の智を得て、金口の相承を続給ふ。奇特也といへども、禅宗は是を髣髴也と難じ申。又禅の立る所は、釈尊大梵王の請を受て、於■利天法を説給ひし時、一枝の花を拈じ給ひしに、会中比丘衆無知事。爰摩訶迦葉一人破顔微笑して、拈花瞬目の妙旨を以心伝心たり。此事大梵天王問仏決疑経に被説たり。然るを宋朝の舒王翰林学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此経失たりと申条、他宗の証拠に不足と、天台は禅を難じ申て邪法と今も訴へ候上は、加様の不審をも此次に散度こそ候へ。唯禅与天台被召合宗論を被致候へかし。」とぞ被申ける。

なお話は続きます。「また我が国では村上天皇の御代、応和元年(961年)に天台宗と法相宗から徳の高い僧を呼んで、宗教に関する論争が行われた時、山門延暦寺からは横川慈慧僧正、南都興福寺よりは松室の貞松房に住む仲算(原帖は竹かんむりに弄)已講(ちゅうざんいこう)が出席することになりました。

予定の日になったので、早くも仲算は南都を出発し、上洛しようとしましたが、時節柄木津川の水量が多くて、舟も橋も利用できず、何か良い方法はないものかと、川の近くに輿を下ろし思案していると、正体不明の年老いた男が一人現れ、『どうしてこの川のほとりでウロウロしているのですか』と問いかけてきたので、

仲算は、『宗教論争に呼ばれて参内するところですが、洪水に出会って川を渡ることが出来ず、水の引くのを待っているところです』と、返事しました。老人は笑って、『水は深いし知恵は浅い。鱗の退化した水鳥にも劣るようでは、何を根拠にして宗論をするのか』と言われ、辱めを受けました。

仲算も言われてみれば確かにそうだと思い、十二人の力者(りきしゃ::寺社等に属し輿をかつぐ剃髪の者)に向かって、『一気に水の中、輿を担いで渡れ』と、命令しました。力者は、『では行くぞ』と水中を担いで通ると、あれほどおびただしい水も左右に分れ、大河は突然陸地になったのです。

お供をしていた大衆らは全員、足を濡らすことなく渡り終えました。また慈慧僧正も、比叡山西坂下松(さがりまつ)のあたりに車を準備させ、洛内に入ろうとしましたが、鴨川の増水が激しく、逆巻く波は川岸を洗い水煙が立ち上がっています。牛を牽いている童がどうすればよいのか分らず、

轅を手にして立ち止まっていると、水牛が一頭、水中から泳ぎ出てくると車の前で息を切らせました。慈慧僧正は、『この牛に車を牽かせ川を渡るよう』と、仰せられました。童は言われた通り水牛に車を牽かせるようにして一鞭当てたところ、飛ぶように走り出し、

車の轅を濡らすことなく波の上三十余町を浮き上がり、内裏の陽明門の前に着くと、水牛はかき消すようにいなくなりました。この二つの不思議な出来事は皆、権者(ごんじゃ::仏、菩薩が衆生を救うため仮の姿で現れたもの)に起こったことではありますが、滅多にない珍しい出来事です。

やがて清涼殿に獅子の座(獅子は百獣の王であるように、仏は人中で最も尊いものであるから、高徳の僧などが座する所)を敷き、質問をする僧侶と講師が東西に分かれて座を占めています。天皇が南に向かって前後に玉すだれのついた冠をかぶり、中国風の装束でお座りになられると、

臣下は北を向いて、階下で冠冕(べんかん::上部に長方形の板状のものを乗せた冠)をかぶって低い姿勢をとりました。二人の高僧はすでに所定の座につき、慈慧僧正が草木成仏(心を持たない草木でも成仏すること)についてその意義を話されると、仲算は法相宗で唱えるところの、

五性格別(人の五性:本性は決定的でそれを変えることは出来ない。仏になれない者も存在する)の理論を前面に出し、慈慧僧正の論理を非難して、『感情を持たない草木が本来、仏となるべき性質を持っていると言えども、修行によって仏の本性を得なければならず、修行を行わない者がどうして成仏出来ると言うのか。

ただし文献によって、仏の本性を得ていると言う証拠を持っている者はしばらく除外します(?)』と、話されました。それに対して慈慧僧正はすぐ円覚経にある文を引用し、『地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道(地獄も天人の住む宮殿も皆浄土であり、仏性のあるなしに関わらず等しく成仏できます)』と、

節をつけて唱えられました。仲算はこの一節による反撃に、しばらく口を閉ざされていましたが、法相宗を擁護する春日大明神が、高座の上に姿を変えて現れられると、小さなお声でこの文に対して解釈を変え、『もし地獄も天宮も皆浄土であれば、有性も無性も等しく成仏できるのに』と、教示しました。

慈慧僧正は重ねて反論し、『この読み方は円覚経の本質に適しません。一草一木各因果(草や一本の木でさえ、すべてのものはその原因と結果によって存在し、それなりの個性を持っている)、山河大地同一仏性(山河、大地も草木と同じく仏性を持っているので、成仏が可能です)ですから、

すでに本来持っている仏となるべき性質を備えていること間違いありません。もしその性質を備えていながら、ついに成仏出来なければ、何を以って仏性と言うのですか。またもしも仏性を備えていながら、成仏を望まなければ人間や鳥獣であっても成仏が出来ず、

それでも成仏出来るのはただ本来持っている性質によるからです(?)』と反論したので、仲算は言葉なく黙っていましたが再び、『草木の成仏についての異議はありません、感情を持たないものについてはおいておきましょう。それよりまずご自身が成仏出来ることの証明をしていただけなければ、

どうしても疑念をなくすことが出来ません』と仰せられると、慈慧僧正は言葉を発することなく、しばらく黙って座っておられました。しかし、薄茶色の法衣が一瞬にして瓔珞(ようらく::珠玉を連ねた装身具)細なん(?)の衣に変化すると共に、肉体もにわかに紫を帯びた黄金色の肌となり、

輝く光明は四方をあまねく照らしました。そのため冬の装いをして南庭に生えていた木が、突然花を咲かせ、まるで初春二、三月の東風に吹き散らされているのと変わりありません。その場に列をなして座っていた諸公卿らも、何も分らず生きたまま浄土に到り、

妙雲如来(密教において竜猛菩薩の本地である仏)のもとに来たのかと思いました。この時仲算は少しばかり非難がましく如意(にょい::僧が読経や説法の際、手にする道具)で席を打ちながら、『止々、不須説、我法妙難思(止めましょう、妙法蓮華経は不可思議で、仏のみが理解できるほど難解である)』と、うたうように話されました。

すると慈慧僧正の光明はたちまち消えて、元の姿に戻りました。この状況に藤原氏一族の諸卿らは、『我々の氏寺である法相宗が勝利を収めたぞ』と、自慢しながらその場を退出しようとしましたが、門外に繋がれていた牛が舌を伸ばし、涎が門の下部にある材木に流れている様を見れば、確かに一首の歌のようです。

      草も木も 仏になると 聞時は 情有身の たのもしき哉

この歌はすなわち、草木も成仏することを証明する歌です。春日大明神がお考えを表したものでしょう。これでどちらが勝者なのか判定は難しくなりました。これもまた当然です、何故かと言えば、仲算は千手観音の化身であり、慈慧僧正は如意輪観音の化身だからです。

そういう訳でいずれが劣るとかは、ただ俊才と言われている雲間(地名)の陸士竜と、日下(じっか::地名)の荀鳴鶴が出会った時のやり取りのように難しいものです。だから法相宗は南都六宗の統率者であり、天台宗は諸宗教の最高位にあると宣下され、お互い面目を保ったのでした。

そもそも天台宗の継承は師子尊者に至って絶え、その後永い年月が過ぎて行き、唐朝の時代になって大師南岳(中国南北朝末期の高僧、天台宗の事実上の開祖)、天台(隋の天台智者大師、天台宗の実質的な開祖)、章安(中国天台宗の僧侶、天台宗の第四祖、章安灌頂)、妙楽(唐代の天台宗の僧侶、天台宗の第六祖)などが、

自解仏乗(自ら仏乗を解く::他から教えを受けることなく、自ら悟りの境地を会得すること)の境地に到り、釈迦の教義、説法を次々と受け継ぎました。非常に珍しく不思議なことですが、禅宗ではこれが事実かどうか疑わしいと批判しています。また禅宗が主張するのは、悟りを開いた釈尊がその喜びに浸っていましたが、

悟りの法を衆生に説くことを、大梵天(色界十八天の中の第三天、仏法の守護神)から要求を受けて、とう利天(とう::りっしんべんに刀)においてその法を説いている時、一枝の蓮華をひねられたのですが、その場にいた修行僧や大衆らは、その意味が分らなかったのです。

しかし摩訶迦葉(まかかしょう::釈迦十大弟子の一人)一人が理解し、破顔微笑して応えたので、花をひねった僅かな瞬間に、釈尊心中にある仏教の真理が、無言の内に摩訶迦葉に伝わったことです。この事は大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんもんぶつけつぎきょう::禅宗がよりどころとする経典)に説かれています。

ところが宋朝の舒王(人物不特定)が翰林学士(かんりんがくし::天子に直属した高官で、詔勅の起草にあたった)を務めていた時、こっそりこの経典を官庫に収めてから紛失したと主張するのは、他の宗教が検証を行うのに不都合だと、天台宗は禅宗を非難し、これこそ邪法の証拠だと今も訴え続けています。

その意味では今回このような疑念を払うのも良いでしょう。ここはただ、禅宗と天台宗を召還し、宗論を戦わせて下さい」と、話されたのでした。


此三儀是非区に分れ、得失互に備れり。上衆の趣何れにか可被同と、閉口屈旨たる処に、二条関白殿申させ給けるは、「八宗派分れて、末流道異也といへども、共に是師子吼無畏の説に非と云事なし。而るに何れを取り何れを可捨。縦宗論を致す共、天台は唯受一人の口決、禅家は没滋味の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季なれば、如摩騰虚空に立人もあらじ、慈恵大師の様に、即身成仏する事もあるべからず。唯如来の権実徒に堅石白馬の論となり、祖師の心印空く叫騒怒張の中に可堕。凡宗論の難き事我曾听ぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法・清弁とて二人の菩薩坐き。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を宣給ふ。門徒二に分れ、是彼非此。或時此二菩薩相逢て、空有の法論を致し給ふ事七日七夜也。共に富楼那の弁舌を仮て、智三千界を傾しかば、無心の草木も是を随喜して、時ならず花を開き、人を恐るゝ鳥獣も、是を感嘆して可去処を忘れたり。而れども論義遂に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳を経て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩は蒼天の雲を分ち遥に都率天宮に上り給へば、清弁菩薩は青山の岩を擘、脩羅窟に入給にけり。其後花厳の祖師香象、大唐にして此空有の論を聞て、色即是空なれば護法の有をも不嫌、空即是色なれば清弁の空をも不遮と、二宗を会し給けり。上古の菩薩猶以如斯、況於末世比丘哉。されば宗論の事は強に無其詮候歟。とても近年天下の事、小大となく皆武家の計として、万づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断候べきかとこそ存候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義可然と被同、其日の議定は終にけり。

このように意見は三つに分かれ、お互いの言い分も納得できます。皆はどの意見に賛成すべきか口を閉ざして考えていると、二条関白殿が、「仏教は八つの宗派(天台、真言、臨済、曹洞、浄土、浄土真宗西、浄土真宗東、日蓮)に分れ、それぞれの末流において主義主張は異なっているけれども、

全て釈尊が何ものにも恐れることなく説法してきたことと、何ら変わるものではありません。それなのに、何を選択し、どれを捨てるとか出来るものではありません。たとえ宗論を実施してみたところで、天台宗は師から弟子の一人に直接口伝されたものであり、

また禅宗は闘争や私見から超越することを本意にしている以上、いかに論理を明らかにしても、また奥深い真理を話したところで、誰がそれを理解したり、誰がこれを納得するのでしょうか。今の世は道徳の衰えた末世であり、迦葉摩騰のように空中に立つ者もいないでしょうし、

慈慧大師のように生身のまま成仏を遂げることもないでしょう。ただ釈迦如来の仮定の論理と、究極的な真理をただいたずらに詭弁を弄して論争するにとどまり、釈迦牟尼のお心そのものは、ただ空しく騒ぎ立てるだけの、論争のための論争に落ちることになるでしょう。

私は以前より宗論と言うものは難しいことだと聞いています。釈迦如来の入滅後、壱千壱百年を過ぎてから、西天竺(インド)に護法と清弁という二人の徳の高い僧が現れました。護法菩薩は法相宗の元祖であり、全ての事物や現象は存在していることを説き、

清弁(しょうべん)菩薩は三論宗(仏教の宗派の一つで空を唱える)初代の僧であり、全ての事物や現象は本来空であり、固定した姿はもたないと主張されました。このため門徒は二つに分れ、いずれが正論なのか分りません。ある時この二人の菩薩が会って、有相、無相についての議論は、七日七夜に及びました。

お互い富楼那(ふるな::釈迦十大弟子の一人、弁舌に優れていた)顔負けの弁舌をふるい、全知全能を傾けて論争しましたので、感情を持たない草木もこの事に大喜びして、時期でもないのに花を咲かせたり、人間を警戒するはずの鳥獣たちも、この事を喜んで逃げることを忘れました。

しかしながら議論は尽きることなく続き、法則や真理また道理などの論争にまで発展して行き、とうとう五十六億七千万年を経て、弥勒菩薩がこの世に姿を現される時、法会の席においてこの疑いを晴らそうと考え、護法菩薩は大空の雲を分け遥か兜率天に昇られ、清弁菩薩は草木の生い茂った山の岩をよじ登って、

阿修羅の住む石窟に入られたのです。その後、華厳宗の第三祖、香象大師が大唐国において、この事物の実体はあると肯定する立場と、実体はないと否定する立場の論争を聞き、色即是空であれば護法菩薩の実体が存在する論も捨てがたく、空即是色でもあるので、

清弁菩薩の説く実体は存在しないと言う空の論も受け入れられると、二つの宗教を修行し会得しました。遠い昔の菩薩と言われる僧でさえかくの如くであり、いわんや末世と言われる現在、出家を望む修行僧においては何をすべきなのでしょうか。と言うことで、宗論なんてものは必ずしもその効果は期待できないものです。

とはいえ、最近における天下の案件は大小に関わらず、全て将軍家の裁決にゆだねられ、天皇のお考えは全く無視されている状況なので、ここは山門の申し入れに対して、いかが対処すべきか将軍家に伺いを立て、その返事に基づいて聖断を下されれば如何と考えます」と、話されました。

諸卿らは全員この意見に賛同し、この日の会議は終わったのでした。


さらばとて次日軈て山門の奏状を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛督諸共に、山門の奏状を披見して、「是はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩にもならず、適公家武家帰仏法大善事を修せば、方袍円頂の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍を成んとする条返々不思議也。所詮神輿入洛あらば、兵を相遣して可防。路次に振棄奉らば、京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛か可有。非拠の嗷訴を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞をぞ被経ける。武家如斯申沙汰する上は、公家何ぞ可及異儀とて、已に事厳重なりしかば、列参せし大衆、徒に款状を公庭に被棄て、失面目登山ず。依之三千の大衆憤不斜。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日、三社の神輿を中堂へ上奉り、祇園・北野の門戸を閉、師子・田楽庭上に相列り、神人・社司御前に奉仕す。公武の成敗拘る処なければ、山門の安否此時に有と、老若共に驚嘆す。

そこで翌日、山門から届けられていた天皇宛の書状を急いで幕府に渡し、如何に処置すべきか下問されました。尊氏将軍と左兵衛督直義の二人は山門からの書状を見て、「これは一体どういうことなのだ。寺院を建造したり、僧侶を敬ったりしたからと言って、何も山門の所領に負担をかける訳でもなければ、

衆徒の動員を要求している訳でもなく、公家と武家が仏教を重視し、善根を重ねようとすることは、僧侶にとってもお互い喜ばしいことであるのに、不都合であると妨害するのは、どう考えても不思議な話である。こうなった上はもし神輿が入洛するようなことがあれば、兵士を派遣してでも入洛を阻止しよう。

また途中で神輿を置き去りにするようなことがあれば、京中にある山法師の土蔵に火をつけ、建て替えさせるのに何の苦労があるのか(?)。根拠のない強訴など無視して、ここは厳かに落慶供養を成し遂げることが肝要である」と、山門の申し入れに対して処理することに決められました。

将軍家がこのように決断された以上、公家は何ら異存はないと、すでにこの件に関して厳しく態度を決めたので、申し入れに参上していた大衆らは、空しく嘆願書を宮中の庭に投げ捨て、面目丸つぶれの状態で山に戻りました。この事態には三千人の大衆は憤慨しました。

こうなれば強訴をするしかないと、康永四年(興国六年:1345年)八月十六日、日吉大社三社(十禅師権現、客人、八王子の三社)の神輿を比叡山根本中堂に登らせ、祇園社、北野神社の門戸を閉じ(?)、獅子や田楽舞の芸人らが庭に並び、また神社に奉仕し強訴を行う者や、神社に仕える者らが神輿の前に控えました。

朝廷も幕府も今回のことには無関心を通すことになっているので、山門の今後はこの度の結果如何に左右されると思われ、市中の老若らは驚き嘆きながら見守りました。


角ては猶も不叶とて、同十七日、剣・白山・豊原・平泉寺・書写・法花寺・多武峯・内山・日光・太平寺、其外の末寺末社、三百七十余箇所へ触送り、同十八日、四箇の大寺に牒送す。先興福寺へ送る。其牒状云、延暦寺牒興福寺衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺供養儀■令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之由有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下之謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺供養、院中之御沙汰、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿雲客等、供養以前悉以被放氏、其上猶押而有出仕之人者、貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之由、不日可被触送也。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書たりける。山門既に南都に牒送すと聞へしかば、返牒未送以前にとて、院司の公卿藤氏の雄臣等参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者以非為理事不珍候。其上今度の儀は、旁申処有其謂歟存候。就中行仏事貴僧法事も天下無為にてこそ其詮も候へ。神輿神木入洛有て、南都北嶺及嗷訴者、武家何と申共、静謐の儀なくば法会の違乱なるべし。角て又叡願も徒に成ぬと存候。只速に有聖断衆徒の鬱訴を被宥、其後御心安く法義大会をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠にも近年四海半は乱て一日も不安居、此上に又南北神訴に及び、衆徒鬱憤して忿らば、以外の珍事なるべしとて、枉諸事先院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸可成。」被仰ければ、山門是に静りて、神輿忽に御帰座有しかば、陣頭警固の武士も皆馬の腹帯を解て、末寺末社の門戸も参詣の道をぞ開きける。

この状況に山門側も対応をはかり、八月十七日に剣、白山、豊原、平泉寺、書写、法花寺(法華寺?)、多武峯、内山、日光、太平寺をはじめ、その外末寺末社など三百七十余ヶ所に連絡を取り、同じく十八日には四っつの大寺に書状を送りました。まず最初に興福寺に送りました。

その書状には、次のように書いてありました。延暦寺は興福寺の寺務所に書を送ります。先例に基づき我が山門と協同して、天竜寺の落慶法要の中止を訴えられ、禅宗の僧侶らによる儀式など根絶する要求は書状の通りです。右大道高懸、均戴第一義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。

帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。

爰近年禅法之興行喧天下、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。

今般先蹤弗遠。而今就天竜寺供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之由有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下之謗議、言以不可欺。

吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺供養、院中之御沙汰、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中洛外大小寺院、悉以破却之、

永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿雲客等、供養以前悉以被放氏、其上猶押而有出仕之人者、

貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之由、不日可被触送也。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。

早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。(現代語訳困難::国家の安危は延暦寺と興福寺の安泰にかかっており、天竜寺などの建造はけしからない。天竜寺だけでなく禅宗の寺院も破却し、夢窓国師は遠島に処すべきである。もし我々の要求が受け入れられなければ、我々は神輿を先頭に入洛しますから、貴寺においては神木をお願いします。

どうか我々と一緒になって朝廷に申しれを行ってください。ざっとこのような意味でしょう)康永四年(興国六年:1345年)八月日と書かれていました。山門がすでに南都興福寺に牒状を発送したと聞くと、興福寺からの返事が到着する前にと、院に仕える公卿藤原氏の重臣らが集まり、

「古来より山門による訴訟事は不合理な件で起こされ、何も珍しいことではない。その上今回の主張することには幾分理もあるように思える。仏事を執り行うにあたって、僧侶や法事が何事もなく終えることこそ肝要であります。神輿や神木が入洛し、南都北嶺(興福寺と延暦寺)がする強訴については、

幕府側の言い分がどうあろうとも、これを抑えなければ法会の混乱は避けられないし、その上、帝の願いも実現できないと思われます。ここは速やかに聖断を下されて、衆徒の煩わしい訴えをなだめ、その上安心して法会を執り行うのが良いでしょう」と各自それぞれが話されたので、

確かにここ数年は国内に騒乱があって、一日とて心安らかな日もなく、その上南都北嶺が神威をかざして訴えに及ぶことになり、衆徒らが恨みを込めて怒り狂うようなことがあれば、思いがけない事態も起こるかと考えられ、ここは諸事情色々問題はあるけれど、とりあえず院宣を下し、

「幕府からの要求は却下し、落慶法要翌日に御幸する」と仰せられたので、山門もこの決定を受け入れ、神輿はすぐ日吉大社に帰ったので、前線で警護にあたっていた武士らも馬の腹帯を解くと、末寺末社もその門戸を開き、参詣できるようになりました。      (終り)

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