24 太平記 巻第二十四 (その二)


○天竜寺供養事付大仏供養事
此上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行ひ、翌日に御幸可有とて、同八月二十九日、将軍並左兵衛督路次の行装を調て、天竜寺へ被参詣けり。貴賎岐に充満て、僧俗彼れに成群、前代未聞の壮観也。先一番に時の侍所にて山名伊豆守時氏、声花に冑ふたる兵五百余騎を召具して先行す。其次に随兵の先陣にて、武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・戸次丹後守頼時・伊東大和八郎左衛門尉祐煕・土屋備前守範遠・東中務丞常顕・佐々木佐渡判官入道息男四郎左衛門尉秀定・同近江四郎左衛門尉氏綱・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・吉良上総三郎満貞・高刑部大輔師兼、以上十二人、色々の糸毛の胄に烏帽子懸して、太く逞き馬に、厚総懸て番たり。三番には帯刀にて武田伊豆四郎・小笠原七郎・同又三郎・三浦駿河次郎左衛門尉・同越中次郎左衛門尉・二階堂美作次郎左衛門尉・同対馬四郎左衛門尉・佐々木佐渡五郎左衛門尉・同佐渡四郎・海老名尾張六郎・平賀四郎・逸見八郎・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽したる色々の直垂に、思々の太刀帯て、二行に歩み連たり。其次に正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿、小八葉の車の鮮なるに簾を高く揚げ、衣冠正く乗給ける。五番には後陣の帯刀にて設楽五郎兵衛尉・同六郎、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見又三郎・同源太・小笠原蔵人・秋山新蔵人・佐々木出羽四郎左衛門尉・同近江次郎左衛門尉・富永四郎左衛門尉・宇佐美三河守・清久左衛門次郎・森長門四郎・曾我左衛門尉・伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人、衣服帯剣如先、行列の次等をぞ守ける。其次に参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義、巻纓老懸に蒔絵の細太刀帯て、小八葉の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守宗継・高播磨守師冬二人は御剣の役。長井大膳大夫広秀・同治部少輔時春御沓の役。佐々木吉田源左衛門尉秀長・同加地筑前三郎左衛門貞信は御調度の役。和田越前守宣茂・千秋三河左衛門大夫惟範は御笠の役、以上八人、布衣に上括して列を引。八番には高武蔵守師直・上杉弾正少弼朝貞・高越後守師泰・上杉伊豆守重能・大高伊予守重成・上杉左馬助朝房、布衣に下括して、半靴著て、二騎充左右に打並たり。九番には、後陣の随兵、足利尾張左近大夫将監氏頼・千葉新介氏胤・二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光・佐竹掃部助師義・同和泉守義長・武田甲斐前司盛信・伴野出羽守長房・三浦遠江守行連・土肥美濃守高実、以上十人、戎衣甲冑何れも金玉を磨たり。十番には外様の大名五百余騎、直垂著にて相随。土佐四郎・長井修理亮・同丹波左衛門大夫・摂津左近蔵人・城丹後守・水谷刑部少輔・二階堂安芸守・同山城守・中条備前守・薗田美作権守・町野加賀守・佐々木豊前次郎左衛門尉・結城三郎・梶原河内守・大内民部大夫・佐々木能登前司・太平六郎左衛門尉・狩野下野三郎左衛門尉・里見蔵人・島津下野守・武田兵庫助・同八郎・安保肥前守・土屋三河守・小幡右衛門尉・疋田三郎左衛門尉・寺岡九郎左衛門尉・田中下総三郎・須賀左衛門尉・赤松美作権守・同次郎左衛門尉・寺尾新蔵人、以上三十二人打混に、不守次第打たりけり。此後は吉良・渋河・畠山・仁木・細川を始として、宗との氏族、外様の大名打混に弓箭兵杖を帯し、思々の馬鞍にて、大宮より西郊まで、無透間袖を連て支へたり。薄馬場より、随兵・帯刀・直垂著・布衣の役人、悉守次第列を引く。已に寺門に至しかば、佐々木佐渡判官秀綱検非違使にて、黒袴著せる走下部、水干直垂、金銀を展たる如木の雑色、粲に胄たる若党三百余人、胡床布衣の上に列居して山門を警固す。其行装辺りを払て見へたり。尊氏卿・直義朝臣既に参堂有しかば、勅使藤中納言資明卿、院司の高右衛門佐泰成陣参して、即法会を被行。其日は無為に暮にけり。

☆ 天竜寺落慶供養のことと、大仏供養のこと

さてこの結論として当日は幕府の指図のもと落慶法要を執り行い、翌日に光厳上皇の御幸を仰ぐこととなり、康永四年(興国六年:1345年)八月二十九日、尊氏将軍と左兵衛督直義は正装の上、天竜寺に参詣されました。わき道はあらゆる身分の人達で満ち溢れ、僧侶や俗人が群れを成している様子は、

前代未聞の壮観です。参詣の行列として、まず一番手はこの時、侍所を勤めていた山名伊豆守時氏が、美しい鎧に身をつつんだ兵士五百余騎を率いて先頭を歩みました。その次は警備を受け持つ兵士の先陣として、武田伊豆前司信氏、小笠原兵庫助政長、戸次丹後守頼時、

伊東大和八郎左衛門尉祐煕、土屋備前守範遠、東中務丞常顕、佐々木佐渡判官入道の子息四郎左衛門尉秀定、同じく近江四郎左衛門尉氏綱、大平出羽守義尚、粟飯原(あいばら)下総守清胤、吉良上総三郎満貞、高刑部大輔師兼ら以上十二人が、色とりどりの糸で威した鎧に烏帽子をつけ、

逞しく大きな馬の各所に、糸の房を厚く垂らして続きました。三番手は宮中の警衛に当たる武田伊豆四郎、小笠原七郎、同じく又三郎、三浦駿河次郎左衛門尉、同じく越中次郎左衛門尉、二階堂美作次郎左衛門尉、同じく対馬四郎左衛門尉、佐々木佐渡五郎左衛門尉、

同じく佐渡四郎、海老名尾張六郎、平賀四郎、逸見八郎、小笠原太郎次郎の以上十六人が、色々な色に染め上げた直垂に、思い思いの太刀を帯び、二列になって並進しました。その次には正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿が、小八葉(小さな蓮の花八枚で形作った紋)のついた色鮮やかな美しい牛車に乗り、

簾を高く掲げ衣冠を正して乗られていました。五番手は後陣の警衛隊として、設楽五郎兵衛尉、同じく六郎、寺岡兵衛五郎、同じく次郎、逸見又三郎、同じく源太、小笠原蔵人、秋山新蔵人、佐々木出羽四郎左衛門尉、同じく近江次郎左衛門尉、富永四郎左衛門尉、宇佐美三河守、清久左衛門次郎、

森長門四郎、曾我左衛門尉、伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人が先を行く者らと同じように衣服を正し、太刀を帯びて行列の警衛に当たりました。その後ろには、参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義が、巻纓(けんえい::冠の纓という紐を内に巻いた武官用の方式)老懸(おいかけ::武官の正装時の冠につけて顔の左右を覆う飾り)に整え、

蒔絵の細太刀を帯び、小八葉の車に乗られています。七番手は役目を持った武士の列であり、南部遠江守宗継と高播磨守師冬の二人が御剣の役を勤めています。また長井大膳大夫広秀と同じく治部少輔時春は御沓(くつ)の役を受け持ち、その他佐々木吉田源左衛門尉秀長と、

同じく加地筑前三郎左衛門貞信は御調度の役(武具その他の道具や器具を携える)を勤めました。また和田越前守宣茂と千秋三河左衛門大夫惟範は御笠の役にあたり、以上八人は狩衣の裾を膝下でくくり、列に連なっています。八番目には高武蔵守師直、上杉弾正少弼朝貞、高越後守師泰、

上杉伊豆守重能、大高伊代守重成、上杉左馬助朝房らは狩衣を膝下でくくり、半靴(ほうか::乗馬用の履物)を履いて二騎づつ左右に並んで進みました。九番目は後陣を詰める警衛兵として、足利尾張左近大夫将監氏頼、千葉新介氏胤、二階堂美濃守行通、同じく山城三郎左衛門尉行光、

佐竹掃部助師義、同じく和泉守義長、武田甲斐前司盛信、伴野出羽守良房、三浦遠江守行連、土肥美濃守高実の以上十人が、戦陣用の衣装も甲冑も華やかに輝かせて続きます。十番目には、外様の大名五百余騎が直垂を身に着け歩んでいきます。土佐四郎、長井修理亮、同じく丹波左衛門大夫、

摂津左近蔵人、城丹後守、水谷刑部少輔、二階堂安芸守、同じく山城守、中条備前守、薗田美作権守、町野加賀守、佐々木豊前次郎左衛門尉、結城三郎、梶原河内守、大内民部大夫、佐々木能登前司、太平六郎左衛門尉、狩野下野三郎左衛門尉、里見蔵人、島津下野守、武田兵庫助、

同じく八郎、安保肥前守、土屋三河守、小幡右衛門尉、疋田三郎左衛門尉、寺岡九郎左衛門尉、田中下総三郎、須賀左衛門尉、赤松美作権守、同じく次郎左衛門尉、寺尾新蔵人らの三十二人が入り乱れて、順序を守ることもなく進んで行きます。その後は、吉良、渋河、畠山、仁木、細川をはじめとして、

足利家と血縁関係にある主なる人たちや、外様の大名らが混ざり合った状態で、身を弓箭武具で固め思い思いの馬に鞍を乗せ、大宮から都の西郊外まで、隙間もなく袖を連ねて進んで行きました。天竜寺の東、鹿王院近くのススキの馬場からは、警備の兵士、宮中の警備兵、直垂に身を包んだ兵士、

また狩衣のすそを膝下でくくった兵士らが、列を乱すことなく進んで行きます。早くも天竜寺の門前に到着しますと、検非違使の佐々木佐渡判官秀綱が役目として、黒袴を着た走下部(刑を免じられたり、刑期を終了し検非違使の支配下にいる者)や、水干(のりを使用せず水張りで乾燥させた布)で作った狩衣を金銀で飾り付けて公卿の供をする下級職員、

また美しい鎧に身を固めた若武者三百余人らが、腰掛に並んで山門を警固しています。その華やかで厳しい様子はあたりを威圧しています。すでに尊氏卿と直義朝臣は堂内に控えていますから、勅使の藤中納言資明卿と院の事務官、高右衛門佐泰成が到着するとすぐに落慶法要を執り行いました。

このようにその日の法会は無事に終えることが出来ました。


明れば八月晦日也。今日は又為御結縁両上皇御幸なる。昨日には事の体替て、見物の貴賎も閭巷に足を立兼たり。御車総門に至しかば、牛を懸放して手引也。御牛飼七人、何れも皆持明党とて綱取て名誉の上手共也。中にも松一丸は遣手にて、綾羅を裁ち金銀を鏤めたり。上皇御簾を揚て見物の貴賎を叡覧あり。黄練貫の御衣に、御直衣、雲立涌、生の織物、薄色の御指貫を召れたり。竹林院大納言公重卿、濃香に牡丹を織たる白裏の狩衣に、薄色の生の衣、州流に鞆絵の藤の丸、青鈍の生の織物の指貫にて、御車寄に被参たり。左宰相中将忠季卿、薄色の織襖の裏無に、蔦を紋にぞ織たりける。女郎花の衣、浮紋に浅黄の指貫にて供奉せらる。殿上人には左中将宗雅朝臣、■線綾の女郎花の狩衣に、槿を紋にぞ織たりける。薄色の生の衣、藤の丸の指貫也。頭左中弁宗光朝臣、■線綾の比金襖の狩衣、珍しく見へたりける。右少将教貞朝臣、紫苑唐草を織たる生青裏、紅の引繕木はえ/゛\敷ぞ見へし。春宮権大進時光は、■線綾に萩を経青緯紫段にして、青く織たる女郎花の生の衣二藍の指貫也。此後は下北面の輩、中原季教・源康定・同康兼・藤原親有・安部親氏・豊原泰長、御随身には、秦久文・同久幸此等也。参会の公卿には三条帥公季卿・日野中納言資明卿・別当四条中納言隆蔭卿・春宮大夫実夏・左兵衛督直義、何れも皆行装当りを耀かす。仏殿の北の廊四間を餝て、大紋の畳を重ね布き、其上に氈を被展たり。平敷の御座其北にあり。西の間に屏風を立隔て御休所に構へたり。御前に風流の島形を被居たり。表大井河景趣、水紅錦を洗ひて、感興の心をぞ添たりける。是は三宝院僧正賢俊、依武命儲進す。仏殿の裏二間を拵て御簾を懸、御聴聞所にぞ構へたる。其北に畳を布て、公卿の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄を打て、左右の伶倫十一人、唐装束にて胡床に坐す。左には光栄・朝栄・行重・葛栄・行継・則重也。右には久経・久俊・忠春・久家・久種也。鳳笙・竜笛の楽人十八人、新秋・則祐・信秋・成秋・佐秋・季秋・景朝・景茂・景重・栄敦・景宗・景継・景成・季氏・茂政・重方・重時是等也。国師既に自山門進出させ給へば、楽人巻幄乱声を奏する事、時をぞ移しける。聴聞の貴賎、此時感涙を流しけり。

明けて翌日は八月の晦日です。今日は結縁を求めるため光厳上皇と花園上皇(?)のお二人が御幸されました。昨日とは打って変わって、見物の群集らは足の踏み場もないほど、路傍に溢れ返りました。上皇のお車が天竜寺の総門に到着すると、牽いてきた牛を離し、そこからは人の手によって牽いて行きました。

牛を牽く者の七名はいずれも持明院統に属する牛飼いで、評判の技量持ちばかりです。その中でも、松一丸は特に優れており、美しい布で作った衣服を身につけ、それには金銀をちりばめています。上皇は御簾を上げられ、見物の人々をご覧になっています。上皇は黄色い平織りのお着物に、

雲立湧の模様(平行した蛇行曲線の中に雲の形を描いた模様)がついた生の織物(生糸で織ってから精錬したもの)で縫われた、薄紫色の袴を召されていました。竹林院大納言公重卿は濃香(?)に牡丹を織り込んだ白い裏地つきの狩衣に、薄紫色の生の織物で作った、洲流(砂浜の波跡や、水の流れを思わせる模様)

巴の藤丸の紋がついた青鈍(あおにび::青みがかった薄墨色)の袴を召され、御車寄に居られます。左宰相中将忠季卿は薄紫色の織(おりあお::浮き織や二重の織物で作った狩衣)の裏地なしに、蔦を紋にして織った女郎花(秋物)のお着物に、浮き織の模様がついた薄黄色の袴を召されて、お供をされています。

また殿上人の参列者としては、左中将宗雅朝臣が浮線綾(ふせんりょう::文様の線を浮かして織った綾織物)の秋物の狩衣を、槿を紋にして織ってあります。薄紫色の生の織物で藤丸の模様の袴という姿です。頭左中弁宗光朝臣は浮線綾で比金襖(ひごんあお::青黒の縦糸に黄色の横糸)に織った狩衣を着られて、

珍しく見えました。右少将教貞朝臣はシオン唐草模様を織り込んだ織物に、青の裏地をつけた紅の衣服が輝くように見えました。春宮権大進時光は浮線綾の生地を、萩の模様を縦糸に青、横糸に紫色を使用して青く織り出した秋物の狩衣に、二藍(ふたあい::青味のある紫色)の袴を召されています。(この段、衣装説明訳文は信用ならない?)

この後に居並ぶ人々は、下北面の武士たちで中原季教、源康定、同じく康兼、藤原親有、安部親氏、豊原泰長、また護衛の武士として、秦久文、同じく久幸たちです。また本日参会の公卿としては、三条帥公季卿、日野中納言資明卿、別当四条中納言隆蔭卿、春宮大夫実夏、左兵衛督直義らで、

皆様そのいでたちは華やかで、回りを圧倒しています。仏殿の北側の廊下は、四間にわたって飾り付けられ、大きな紋の付いた畳を敷き重ね、その上に毛織の敷物が敷かれています。平敷の御座(ひらしきのおまし::天皇や皇族などが出御の際に用いる床に敷く座)はここの北にあります。西の間には屏風を立てて仕切り、

休憩所が設けられています。上皇の御前には、山水を模した雅やかな置物が置かれています。置物は大堰川の景観雰囲気を表して、水が錦に染まる木々の中を流れ行くようで、興味を起こし心が動かされます。これは三宝院僧日野正賢俊が幕府の命によって、寄進したものです。

仏殿の裏には二部屋が設けて御簾を懸け、御聴聞所(帝が何かと話をお聞きになる場所かな?)となっています。その北は畳を敷き、公卿の座所になっています。仏殿の庭には、東西に臨時のとばり(テント)が設けられ、左右に十一人の楽人が中国風の衣装で椅子に腰掛けています。

左側は光栄、朝栄、行重、葛栄、行継、則重です。右側には、久経、久俊、忠春、久家、久種です。鳳笙(ほうしょう::雅楽に用いる管楽器、笙の美称)、竜笛(雅楽用の竹製の横笛)を受け持つ楽人の十八人は、新秋、則祐、信秋、成秋、佐秋、季秋、景朝、景茂、景重、栄敦、景宗、景継、景成、季氏、茂政、重方、重時らです。

さて、すでに夢窓国師が山門からお出でになられましたので、楽人らはとばりを出て、乱声(らんじょう::雅楽の曲名。太鼓、鉦鼓などの合奏)をしばらく奏しました。これを聞いていた人々は、身分に関係なく感激の涙を流されました。


導師は金襴の袈裟・鞋著て、莚道に進ませ給へば、二階堂丹後三郎左衛門執蓋、島津常陸前司・佐々木三河守両人執綱にて、同く歩出たり。左右の伶倫何れも皆幄より起て、参向の儀有て、万秋楽の破を奏して、舞台の下に列を引けば、古清衆導師に従て入堂あり。南禅寺の長老智明・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏・万寿寺の友松・真如寺の良元・安国寺の至孝・臨川寺の志玄・崇福寺の慧・清見寺の智琢、本寺当官にて、士昭首座、是等は皆江湖の竜象也。釈尊の十大弟子に擬して、扈従の装厳重なり。其後正面の戸■を閉て、願文の説法数剋也。法会終しかば、伶人本幄に帰て舞あり。左に蘇合右に古鳥蘇、陵王荒序・納蘓利・太平楽・狛杵也。中にも荒序は当道の神秘にて容易雖不奏之、適聖主臨幸の法席也。非可黙止とて、朝栄荒序を舞しかば、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂ぞ仕たる。当道の眉目、天下の壮観無比し事共也。此後国師一弁の香を拈じて、「今上皇帝聖躬万歳。」と祝し給へば、御布施の役にて、飛鳥井新中納言雅孝卿・大蔵卿雅仲・一条二位実豊卿・持明院三位家藤卿、殿上人には、難波中将宗有朝臣・二条中将資将卿・難波中将宗清朝臣・紙屋川中将教季・持明院少将基秀・姉少路侍従基賢・二条少将雅冬・持明院前美作守盛政、諸大夫には、千秋駿河左衛門大夫・星野刑部少輔・佐脇左近大夫、金銀珠玉を始として綾羅綿繍はさて置ぬ。倭漢の間に名をのみ聞て未目には不見珍宝を持連立て如山積上たり。只是王舎城の昔年、五百の車に珍貨を積で、仏に奉りしも是には過じとぞ見へし。総て此両日の儀を見る者、悉福智の二報を成就して、済度利生の道を広せし事、此国師に過たる人は非じとて、改宗帰法、偏執の心をぞ失ける。さしも違乱に及びし大法会の無事故遂て、天子の叡願、武家の帰依、一時に望み足ぬと喜悦の眉をぞ被開ける。

導師をつとめる夢窓国師が金襴(織物の一種)の袈裟を着て、履物をつけて筵を敷いた道を進まれると、二階堂丹後三郎左衛門が背後から大きな傘を差しかけ、島津常陸前司、佐々木三河守の二人が傘を支えるため綱を持ち、あとを続いて歩まれました。左右の楽人たちは全員とばりから出て一礼の上、

万秋楽(まんじゅらく::雅楽の曲名)の破(楽曲区分、序破急の一つ)の部分を奏して舞台の下に整列すると、古老の僧侶たちが導師に続いて堂内に入られました。南禅寺長老の智明、建仁寺の友梅、東福寺の一鞏、万寿寺の友松、真如寺の良元、安国寺の至孝、臨川寺の志玄、崇福寺の慧聰、

清見寺の智琢、そしてここ天竜寺の僧侶で士昭首座です。これらの人々は皆、仏教界では名のある優れた僧侶たちです。釈尊の十大弟子になぞらえて、付き添いの人達の姿や動作まで、厳しく重々しい雰囲気です。その後、正面の戸■(こよう?)を閉じて、納められる願文の読み上げが数刻行われました。

やがて法会が終了しましたので、楽人たちは元のとばりに戻り、舞踊が始まりました。左側では蘇合(そごう::蘇合香という雅楽の曲に合わせて踊る舞)、右側では古鳥蘇(ことりそ::雅楽の大曲)です。曲は陵王荒序、納蘇利(なそり)、太平楽、狛鉾(こまほこ)などです。その中でも陵王荒序は盲人が組織した芸能団体においては、

神秘を感じさせる曲であり、簡単に演奏することは出来ませんが、帝がご臨幸されている法会の場と言うことで可能でした。この状況に黙ってはいられないとばかり、朝栄が荒序を舞い始めると、笙は新秋、笛は景朝そして太鼓は景茂がつとめました。芸能団体にとって名誉なことであり、

天下においてもその例が見られないほど、素晴らしいものでした。その後夢窓国師は一つまみの香を薫じ、「今上天皇、健康その他の安泰よ永遠に」と祝辞を申し上げましたので、布施をお渡しする役として参列していた、飛鳥井新中納言雅孝卿、大蔵卿雅仲、一条二位実豊卿、持明院三位家藤卿、

そして殿上人としては、難波中将宗有朝臣、二条中将資将卿、難波中将宗清朝臣、紙屋川中将教季、持明院少将基秀、姉小路侍従基賢、二条少将雅冬、持明院前美作守盛政、また諸大夫(高級官僚)として千秋駿河左衛門大夫、星野刑部少輔、佐脇左近大夫らが、金銀や珠玉(真珠や宝石類など)をはじめとして、

高級な布で縫製された美しい衣類などをその場に並べました。我が国や中国にあるらしいと名前だけは聞き、未だ我が目にしたことのない珍しい物品や、財宝など次々と持ち運んできましたから、山のように積み上がることになりました。これは昔、古代インド、マダカ国の首都が王舎城であった時代、

五百両の車に珍宝を積み込んで、釈尊に布施をしたと言う富豪の在家信者がいましたが、それにも劣らない布施と思われました。この二日間にわたる諸法会を見物した人は、皆、幸福感に浸り、知恵を授かった気分になって、救済を確実に受けるには、この夢窓国師をおいて他にはいないだろうと思い、

改宗を決意したり、仏教本来の真理に立ち帰ろうとしたり、皆、素直な心になりました。あれほど反対が多く、騒動の起こった大法会もここに無事終了し、帝の願望もかない、幕府の禅宗への信仰が決定付けられるなど、すべて一度に望みが達せられたと喜び、人々は皆、晴れやかな顔になったのです。


夫仏を作り堂を立つる善根誠に勝れたりといへ共、願主聊も■慢の心を起す時は法会の違乱出来して三宝の住持不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕建寺事一千七百箇所、僧尼を供養する事十万八千人、有功徳乎。」と問給しに、達磨、「無功徳。」と答給ふ。是誠に無功徳云には非ず。叡信■慢を破て無作の大善に令帰なり。吾朝の古、聖武天皇東大寺を造立せられ、金銅十六丈の廬舎那仏を安置して、供養を被遂しに、行基菩薩を導師に請じ給ふ。行基勅使に向て申させ給けるは、「倫命重して辞するに言なしといへ共、如此の御願は、只冥顕の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計ひ申されける。天子を始進せて諸卿悉世既及澆季、如何してか百万里の波涛を隔たる天竺より、俄に導師来て供養をば可被遂と大に疑をなしながら、行基の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄に、導師をば未被定。已に其日に成ける朝、行基自摂津国難波の浦に出給ひ、西に向て香花を供じ、坐具を延て礼拝し給ふに、五色の雲天に聳て、一葉の舟浪に浮で、天竺の婆羅門僧正忽然として来給ふ。諸天蓋を捧て、御津の浜松、自雪に傾歟と驚き、異香衣を染て、難波津の梅忽に春を得たるかと怪しまる。一時の奇特こゝに呈れて、万人の信仰不斜。行基菩薩則婆羅門僧正の御手を引て、伽毘羅会に共に契しかい有て文殊の御貌相みつる哉と一首の謌を詠じ給へば、婆羅門僧正、霊山の釈迦の御許に契てし真如朽せず相みつる哉と読給ふ。供養の儀則は、中々言を尽すに不遑。天花風に繽紛として梵音雲に悠揚す。上古にも末代にも難有かりし供養也。仏閣供養の有様は、尤如此こそ有べきに、此の天竜寺供養事に就て、山門強に致嗷訴、遂に勅会の儀を申止めつる事非直事、如何様真俗共に■慢の心あるに依て、天魔波旬の伺ふ処あるにやと、人皆是を怪みけるが、果して此寺二十余年の中に、二度まで焼ける事こそ不思議なれ。

なるほど仏像を造ったり、堂舎を建立するなどの善根は誠にすぐれたことではありますが、願主が少しでも驕慢な気持ちを持てば、法会は騒動が起こって仏、法、僧の三宝を守りきることは出来ません。だから古代中国の梁国の武帝が、達磨(中国禅宗の開祖といわれるインド人僧侶)に向かって、

「私は寺院を建立すること千七百ヶ所、僧侶や尼の十万八千に供養を行ってきた。功徳があるだろうか」と問いかけると、達磨は、「功徳はない」と、答えられました。これは功徳が全くないと言うことではありません。帝が驕慢な心を捨てるとともに、我が欲望から離脱して天のために行えば、

全て徳を積んだことになります。我が国においても、その昔、聖武天皇が東大寺を建立され、金銅で出来た十六丈の盧遮那仏を安置し、その落慶供養を行うにあたり、行基菩薩を導師として招きました。行基は迎えの勅使に向かい、「天皇の命令は尊重すべきで、辞退など出来ないとはいえども、

このような要請はただこの世でのつとめに過ぎないので、供養の当日、花を仏前に供え、旋律をつけて経文を読むだけなら、天竺から僧侶を招聘し、供養を行えば良いでしょう」と、申されました。天皇をはじめとして諸卿らはすでに末世の世となった今、どうして百万里を隔てた波のかなたインドから、

急遽導師に来ていただいて、供養を行うことなどできるのかと、大いに疑問を感じながらも、行基が話されたことであれば、異議など唱えるべきでないとはいいながら、明日供養の当日だと言うのに、肝心の導師は決まっていません。そして当日になった朝、行基は摂津国、難波の海岸に来られ、

西に向かって花を供え、座具(僧侶の六物の一つである布製の敷物)を敷いて礼拝をされたところ、五色の雲が天に現れ、小舟が一艘波に浮かぶと、天竺(インド)の婆羅門僧正(名前は:菩提僊那。インド出身の僧)が忽然と現れたのです。色々な笠状の装飾物を手にされているので、

御津(大阪難波周辺?)の浜に生えている松も、雪に姿を変えたかと驚き、良い香りが衣装にしみこみ、難波津の梅も突然春を手にしたのかと怪しまれます。珍しい出来事が一時に現れ、万人の信仰心はいやが上にも高まりました。行基菩薩はすぐに婆羅門僧正のお手を引いて、

      伽毘羅衛に 共に契りし かい有て 文殊の御貌 相みつる哉(釈迦の生まれた国で約束した甲斐があって、文殊菩薩のお顔を拝んでいるのだな)
と一首の歌を詠じられると、

婆羅門僧正は、
      霊山の 釈迦の御許に 契りてし 真如朽ちせず 相みつる哉
(釈迦が説法したと言う霊山で約束したことは決して変わることなく、今お会い出来たのだな)

と、詠まれました。

供養の儀式については、

とても言葉にして表すことは出来ません。天花(てんげ::法会で仏前にまき散らす蓮華の花びら形の紙)は風に乱れ散り、読経の声は雲のはるかまで届くようです。過去にもまた将来にもこのような供養はないだろうと思えます。仏閣の落慶法要はこのように行われなければならないのに、

この天竜寺の供養に関しては、山門が強硬に強訴を断行し、とうとう勅旨(天皇の意思)による法会を中止に追い込んだことは、尋常な出来事ではなく、ただそれは僧俗ともに持っている驕慢な心がなせる業であり、天魔波旬(てんまはじゅん::人の善事をおこなうのを妨げる悪魔)が、好機を待ち受けることになるのではと、

皆は恐れを持っていましたが、何故かこの寺は二十余年の間に、二度まで火災に会って焼けたことも不思議なことです。


○三宅・荻野謀叛事付壬生地蔵事
其比備前国住人三宅三郎高徳は、新田刑部卿義助に属して伊予国へ越たりけるが、義助死去の後、備前国へ立帰り児島に隠れ居て、猶も本意を達せん為に、上野国に坐ける新田左衛門佐義治を喚奉り、是を大将にて旗を挙んとぞ企ける。此比又丹波国住人荻野彦六朝忠、将軍を奉恨事有と聞へければ、高徳潜に使者を通じて触送るに、朝忠悦で許諾す。両国已に日を定て打立んとしける処に、事忽に漏聞へて、丹波へは山名伊豆守時氏三千余騎にて押寄せ、高山寺の麓四方二三里を屏にぬり篭て食攻にしける間、朝忠終に戦屈して降人に成て出にけり。児島へは備前・備中・備後三箇国の守護、五千余騎にて寄ける間、高徳爰にては本意を遂る程の合戦叶はじとや思けん、大将義治を引具し、海上より京へ上て、将軍・左兵衛督・高・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧ける。「勢少くては叶まじ、廻文を遣して同意の勢を集よ。」とて、諸国へ此由を触遣すに、此彼に身を側め形を替て隠れ居たる宮方の兵千余人、夜を日に継でぞ馳参りける。此勢一所に集らば、人に怪しめらるべしとて、二百余騎をば大将義治に付奉て、東坂本に隠し置き、三百余騎をば宇治・醍醐・真木・葛葉に宿し置き、勝れたる兵三百人をば京白河に打散し、態と一所には不置けり。已に明夜木幡峠に打寄て、将軍・左兵衛督・高・上杉が館へ、四手に分て夜討に可寄と、相図を定たりける前の日、如何して聞へたりけん、時の所司代都筑入道二百余騎にて夜討の手引せんとて、究竟の忍び共が隠れ居たる四条壬生の宿へ未明に押寄る。楯篭る所の兵共、元来死生不知の者共なりければ、家の上へ走り上り、矢種のある程射尽して後、皆腹掻破て死にけり。是を聞て、処々に隠居たる与党の謀反人共も皆散々に成ければ、高徳が支度相違して、大将義治相共に、信濃国へぞ落行ける。

☆ 三宅、荻野が謀反を起こしたことと、壬生地蔵のこと

さてその頃、備前国の豪族、三宅三郎高徳は新田刑部義助に従属して伊予国に行っていましたが、義助が死去してから備前国に戻り、児島にその身を隠していました。しかし、本来の願望を何とか実現したく、上野国に居られる新田左衛門義治(義助の子息)をお迎えし、彼を大将に推戴して反旗を翻そうと企てました。

またこの頃、丹波国の豪族で荻野彦六朝忠が尊氏将軍に恨みを持っていると聞き、高徳は密かに使者を送り謀反の計画を伝えたところ、朝忠は喜んで同調しました。すでに両国は蜂起の日など取り決めて、決行の日を待っていたところ、突然計画が漏洩し、幕府側の知るところになり、

丹波国には山名伊豆守時氏が三千余騎にて押し寄せ、高山寺の麓の四方、二、三里を塀で取り囲み、兵糧攻めを続けたところ、朝忠はとうとう戦意を喪失し降伏を申し出ました。また児島に対しては、備前、備中、備後三ヶ国の守護らが、五千余騎にて攻め寄せたところ、

高徳はここでは本懐を遂げる合戦などとても出来ないと思い、大将の義治を引き連れて海上より京に上り、尊氏将軍、左兵衛督直義、高、上杉などを夜討にしようと企てました。「少ない軍勢では無理だろう、回文を回して同調者を集めるように」と言って、諸国に触れたところ、諸方に偽装して身を潜め、

隠れ住んでいた宮方の兵ら千余人が、夜を日に継いで駆けつけて来ました。しかしこれだけの兵士が一ヶ所に集まっていれば、怪しまれること必死なので、二百余騎を大将の義治の支配下において、東坂本に忍ばせておき、三百余騎を宇治、醍醐、真木、葛葉に駐留させ、精兵三百人を選んで京白川周辺に分散配置して、

わざと一ヶ所に集まることは避けました。明日の夜には木幡峠に押し寄せ、将軍、左兵衛督、高、上杉それぞれの舘に四手に分かれて夜討ちをかけることになり、合図も決めていたところ、前日になってどうした訳か計画が漏れ、当時の所司代都筑入道が二百余騎を率いて、夜討ちの仕方を教えてやろうとばかり、

屈強の忍びの者が、隠れ家にしていた四条壬生の宿舎を未明に押し寄せました。立て篭もっていた兵士らは、元々命知らずな者どもばかりなので、家の上に駆け上がり、矢の続く限り射続けてから全員腹を掻き切って死んだのです。


さても此日壬生の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討れける中に、武蔵国住人に、香勾新左衛門高遠と云ける者只一人、地蔵菩薩の命に替らせ給ひけるに依て、死を遁れけるこそ不思議なれ。所司代の勢已に未明に四方より押寄て、十重二十重に取巻ける時、此高遠只一人敵の中を打破て、壬生の地蔵堂の中へぞ走入たりける。何方にか隠ましと彼方此方を見る処に、寺僧かと覚しき法師一人、堂の中より出たりけるが、此高遠を打見て、「左様の御姿にては叶まじく候。此念珠に其太刀を取代て、持せ給へ。」と云ける間、げにもと思ひて、此法師の云侭にぞ随ける。斯りける処に寄手共四五十人堂の大庭へ走入て、門々をさして無残処ぞ捜しける。高遠は長念珠を爪繰て、「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣。」と、高らかに啓白してぞ居たりける。寄手の兵共皆見之、誠に参詣の人とや思けん、敢て怪め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井の上まで打破て探せと許ぞ罵りける。爰に只今物切たりと覚しくて、鉾に血の著たる太刀を、袖の下に引側めて持たる法師、堂の傍に立たるを見付て、「すはや此にこそ落人は有けれ。」とて、抱手三人走寄て、中に挙打倒し、高手小手に禁て、侍所へ渡せば、所司代都筑入道是を請取て、詰篭の中にぞ入たりける。翌日一日有て、守手目も不放、篭の戸も不開して、此召人くれに失にけり。預人怪み驚て其迹を見るに、馨香座に留りて恰も牛頭旃檀の薫の如し。是のみならず、「此召人を搦捕し者共の左右手、鎧の袖草摺まで異香に染て、其匂曾て不失。」と申合ける間、さては如何様非直事とて、壬生の地蔵堂の御戸を開かせて、本尊を奉見、忝も六道能化の地蔵薩■の御身、所々為刑鞭■黒、高手小手に禁し其縄、未御衣の上に著たりけるこそ不思議なれ。是を誡め奉りぬる者共三人、発露涕泣して、罪障を懺悔するに猶を不堪、忽に本鳥切て入道し、発心修行の身と成にけり。彼は依順縁今生に助命、是は依逆縁来生の得値遇事誠に如来附属の金言不相違、今世後世能引導、頼しかりける悲願也。

さてこの日、壬生の宿所に隠れていた謀反人らは、逃げることが出来なくてほとんどの者が討たれたのですが、その中で武蔵国の武将香勾新左衛門高遠と言う者が、ただ一人だけ地蔵菩薩の命と引き換えに死を逃れたことは、不思議な出来事でした。所司代の軍勢が未明すでに四方より押し寄せてきて、

十重二十重に取り囲む中、この高遠ただ一人が敵を突破して、壬生の地蔵堂の中に走り込みました。どこか隠れるところはないかと、あちこち見回していた時、寺僧かと思われる法師が一人、堂の中から出て来ると、この高遠を見つけ、「そのようなお姿では駄目でしょう。

この数珠とその太刀を取り替えて持たれるように」と話され、確かにそうであろうと法師の言われるとおりにしました。その時寄せ手の軍勢四、五十人が堂の大庭に走り込んでくると、各門を残すことなく捜索にかかりました。高遠は長い数珠をもみながら、「以大神通方便力、

勿令堕在諸悪趣(地蔵菩薩本願功徳経の一部::偉大な力によって、すぐれた教化をし、色々な悪行によって迷いの世界に落とさないように)」と高らかに、経を読み上げました。寄せ手の兵士らはこの様子に参詣の人であろうと疑いもせず、不審に思って話を聞こうとする者は一人もいませんでした。

ただ仏壇の内天井を破ってでも探せと、大声で喚いただけでした。そこにたった今、何かを切ったように見える血のついた太刀を、袖の下に隠すように持っている法師が、堂の傍らに立っているのを見つけ、「あっ、落人がここにいたぞ」と言って、捕まえようと三人が走りより、空中に投げ上げるようにして倒すと、

高手小手(両手を後ろにまわして、首から縄をかけ、厳重に縛り上げること)に縛り、侍所に連行しました。所司代の都筑入道がこの者を受け取り、やっと体が入るくらいの狭い牢に放り込みました。一日経った翌日、見張りの者が目をはなす事もなく、牢の戸も開けなかったのに、この囚人は何故かいなくなっていました。

身柄を預かっていた人は驚き、中の形跡を見ると芳香が牢中に香り、それは牛頭栴檀(ごずせんだん::南インドの牛頭山に産する栴檀から作った香料)のような香りです。それだけでなく、「この囚人を捕らえた人たちの左右の手や、鎧の袖から草摺りまで良い香りが染み付き、その匂いは消えることもなかった」と皆が話していたので、

これはただ事ではない、何かあるのではと考え、壬生の地蔵堂の扉を開かせ、本尊を拝見しました。すると六道能化(ろくどうのうげ::六道のちまたに現れて、衆生を救う地蔵菩薩のこと)の地蔵薩た(た::土偏に垂)のお体が、所々鞭打ちの刑罰を受けたかのように黒ずんでおり、高手小手に縛った縄が、

そのまま衣の上についているのも不思議なことです。この縄をかけた三人の兵士らは、罪を認め涙を流して懺悔するだけでは許されないと思い、すぐに髻を切ると出家して、悟りを求め仏道修行の道に入りました。彼は仏道に入る縁となった善事のおかげで、この世でその命を全うすることを得、

これは悪行による縁で、来世において仏縁にめぐり会えることと共に、真理に到達した人だけが発することの出来る言葉であり、現世来世において衆生を導き悟りの道へ案内しようとする、地蔵菩薩の頼もしい願いです。(ちょっと、おかしい?)      (終り)

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