25 太平記 巻第二十五 (その一)


○持明院殿御即位事付仙洞妖怪事
貞和四年十月二十七日、後伏見院御孫御年十六にて御譲を受させ給て、同日内裏にて御元服あり。剣璽を被渡て後、同二十八日に、萩原法皇の第一の御子、春宮に立せ給ふ。御歳十三にぞ成せ給ひける。卜部宿禰兼前、軒廊の御占を奉り、国郡を卜定有て、抜穂の使を丹波国へ下さる。其十月に行事所始め有て、已に斉庁場所を作らむとしける時、院の御所に、一の不思議あり。二三歳許なる童部の頭を、斑なる犬が噛て、院の御所の南殿の大床の上にぞ居たりける。平明に御隔子進せける御所侍、箒を以て是を打むとするに、此犬孫廂の方より御殿の棟木に上て、西に向ひ三声吠てかき消様に失にけり。加様の夭怪、触穢に可成、今年の大甞会を可被停止、且は先例を引、且は法令に任て可勘申、法家の輩に被尋下。皆、「一年の触穢にて候べし。」と勘申ける中に、前の大判事明清が勘状に、法令の文を引て云、「神道は依王道所用といへり。然らば只宜在叡慮。」とぞ勘申たりける。爰に神祇大副卜部宿禰兼豊一人、大に忿て申けるは、「如法意勘進して非触穢儀、神道は無き物にてこそ候へ。凡一陽分れて後、清濁汚穢を忌慎む事、故ら是神道の所重也。而るを無触穢儀、大礼の神事無為被行、一流の神書を火に入て、出家遁世の身と可罷成。」と無所憚申ける。若殿上人など是を聞て、「余りに厳重なる申言哉、少々は存る処有とも残せかし。四海若無事にして、一事の無違乱大甞会を被行ば、兼豊が髻は不便の事哉。」とぞ被笑ける。され共主上も上皇も、此明清が勘文御心ければ、今年大甞会を可被行とて武家へ院宣を被成下。武家是を施行して、国々へ大甞会米を宛課せて、不日に責はたる。近年は天下の兵乱打続て、国弊民苦める処に、君の御位恒に替て、大礼止時無りしかば、人の歎のみ有て、聊も是こそ仁政なれと思ふ事もなし。されば事騒がしの大甞会や、今年は無ても有なんと、世皆脣を翻せり。

☆ 持明院殿が御即位されたことと、仙洞御所の妖怪のこと

さて貞和四年(正平三年::1348年)十月二十七日、後伏見院のお孫(北朝第三代、崇光天皇)が御年十六歳にて、皇位を譲っていただき、同日内裏において御元服の儀式が行われました。剣璽の引渡しがあってから、同月二十八日に萩原法皇(花園天皇)の第一子(直仁親王)が皇太子になられました。お年は十三歳でした。

卜部宿禰兼前は軒廊の御占(こんろうのみうら::紫宸殿の東軒廊下で大嘗祭用の新穀奉納の土地選定を占う)の命を受け、国や郡の吉兆を占い、抜穂の使(ぬきほのつかい::大嘗祭用の新穀の穂を献上するための勅使)を丹波国に派遣しました。すでに十月には大嘗祭を行うため臨時の施設を設けようとした時、院の御所にある一つの不思議な出来事がありました。

それは二、三歳ほどの小さな童の頭を、まだら模様の犬がくわえて、院の御所にある南殿の大床にいたのです。明け方、格子の開閉をつかさどる御所の侍が、箒にてこの犬を叩き出そうとしましたが、この犬は庇の外側にある孫庇から、御殿の棟木に上り、西に向かって三度吠えたかと思うと、その姿は消えるように見えなくなりました。

このような妖怪が現れるとは、何か穢れに出遭うに違いない、今年の大嘗祭は中止すべきものか、先例を調査するとか、また法令によって吉兆を調べるとか、法律家の人たちに尋ねました。法律家の全員が、「一年の穢れが原因であろう」と上申する中で、前の大判事明清の上申書に法令の一文を引用し、

「日本古来の宗教行事は有徳の君主により、それは決められるべきと申します。そうであれば、ここは帝のお考えのままにされるが良いと思われます」と、上申されました。その時、神祇大副卜部宿禰兼豊一人が非常に憤慨し、「法令の一文を取り上げて上申し、穢れなどないと判断するのは、神道など無視した暴言である。

凡一陽分れて後(?)、清濁を意識して穢れを忌み嫌うことは、神道においては特別重視されるべきものです。にもかかわらず、穢れなど無いと判断し、神事を滞りなく実施するようにとは、一門の者たちこぞって法務に関する書籍など火に投じて出家し、現世と離脱した身になるほうが良いでしょう」と、遠慮することなく話されました。

若い武者たちや僧侶たちはこの発言を聞き、「あまりにも逃げ場の無い厳しい言葉ではないか。少しばかりは救いの場所も残すべきだろう。もし国内に何事も無く大嘗祭が実施出来れば、兼豊の髷もまた都合の悪い話だ」と言って、笑いました。しかし、天皇も上皇もこの前の大判事明清の上申書に心を寄せておられるので、

今年の大嘗祭は実施する旨、幕府側に院宣を下されました。幕府はこの命令に従って、国々に大嘗祭に献上すべき新米を割り当て、即刻献上するよう強く命じました。ここ最近は天下に兵乱の休むことがなく、国家も民衆も疲弊しきっているのに、皇位だけは関係なく交替し、即位のたびに行われる大礼も休むときが無く、民衆の嘆きだけが残り、

これこそ思いやりのある政治だと思うことなどありません。そのような訳でただ煩わしいだけの大嘗祭など、今年は無くてもよいのにと、世間の人々は不満たらたら話し合ったのです。


○宮方怨霊会六本杉事付医師評定事
仙洞の夭怪をこそ、希代の事と聞処に、又仁和寺に一の不思議あり。往来の禅僧、嵯峨より京へ返りけるが、夕立に逢て可立寄方も無りければ、仁和寺の六本杉の木陰にて、雨の晴間を待居たりけるが、角て日已に暮にければ行前恐しくて、よしさらば、今夜は御堂の傍にても明せかしと思て、本堂の縁に寄居つゝ、閑に念誦して心を澄したる処に、夜痛く深て月清明たるに見れば、愛宕の山比叡の岳の方より、四方輿に乗たる者、虚空より来集て、此六本杉の梢にぞ並居たる。座定て後、虚空に引たる幔を、風の颯と吹上たるに、座中の人々を見れば、上座に先帝の御外戚、峯の僧正春雅、香の衣に袈裟かけて、眼は如日月光り渡り、觜長して鳶の如くなるが、水精の珠数爪操て坐し給へり。其次に南都の智教上人、浄土寺の忠円僧正、左右に著座し給へり。皆古へ見奉し形にては有ながら、眼の光尋常に替て左右の脇より長翅生出たり。往来の僧是を見て、怪しや我天狗道に落ぬるか、将天狗の我眼に遮るかはと、肝心も身にそはで、目もはなたず守り居たる程に又空中より五緒の車の鮮なるに乗て来る客あり。榻を践で下を見れば、兵部卿親王の未法体にて御座有し御貌也。先に座して待奉る天狗共、皆席を去て蹲踞す。暫有て坊官かと覚しき者一人、銀の銚子に金の盃を取副て御酌に立たり。大塔宮御盃を召れて、左右に屹と礼有て、三度聞召て閣せ給へば、峯僧正以下の人人次第に飲流して、さしも興ある気色もなし。良遥に有て、同時にわつと喚く声しけるが、手を挙て足を引かゝめ、頭より黒烟燃出て、悶絶■地する事半時許有て、皆火に入る夏の虫の如くにて、焦れ死にこそ死けれ。穴恐しや、是なめり、天狗道の苦患に、熱鉄のまろかしを日に三度呑なる事はと思て見居たれば、二時計有て、皆生出給へり。爰に峯僧正春雅苦し気なる息をついて、「さても此世中を如何して又騒動せさすべき。」と宣へば、忠円僧正末座より進出て、「其こそ最安き事にて候へ。先左兵衛督直義は他犯戒を持て候間、俗人に於ては我程禁戒を犯さぬ者なしと思ふ我慢心深く候。是を我等が依所なる大塔宮、直義が内室の腹に、男子と成て生れさせ給ひ候べし。又夢窓の法眷に妙吉侍者と云僧あり。道行共に不足して、我程の学解の人なしと思へり。此慢心我等が伺処にて候へば、峯の僧正御房其心に入替り給て、政道を輔佐し邪法を説破させ給べし。智教上人は上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔が心に依託して、師直・師泰を失はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守・越後守が心に入替て、上杉畠山を亡ぼし候べし。依之直義兄弟の中悪く成り、師直主従の礼に背かば、天下に又大なる合戦出来て、暫く見物は絶候はじ。」と申せば、大塔宮を始進せて、我慢・邪慢の小天狗共に至るまで、「いしくも計ひ申たる哉。」と、一同に皆入興して幻の如に成にけり。

☆ 宮方怨霊会六本杉のことと、医師評定のこと

さて仙洞御所で起こった妖怪は、滅多にない出来事だと聞いていましたが、また仁和寺で一つ不思議なことが起こりました。通行中の禅僧が嵯峨から京に帰る途中、夕立に出遭ったのですが、雨宿りをするにも適当な場所がなく、仁和寺の六本杉の木陰で雨の止むのを待っていました。

しかし、なかなか止まず、そのうち日も暮れてしまい、たとえ止んでも帰るには道中恐ろしく、これなら今夜は御堂の傍ででも、夜を明かそうと思い、本堂の縁に寄り添って静かに経を唱えて、心を落ち着かせようとしていました。夜も更けて行き月がこうこうと照らす中、目をこらしてみると、愛宕の山や比叡の山岳地帯あたりから、

四方輿(輿に屋形をつけ、四方に簾を垂らしたもの)に乗った者が大空から集まって来て、この六本杉の梢に並んだのです。居並ぶ席が決まってから、大空に引かれていた幔幕が風にサッと引き上げられた時、その座に居られる人々を見てみると、上座には先帝後醍醐の御外戚である峯の僧正春雅(遊雅法師?)が、

香染め(黄色を帯びた薄紅色に染めたもの)の衣に袈裟をかけ、眼は日月のように光り渡り、くちばしは鳶のように長く、水晶で作られた数珠を手にして座っておられます。その隣には南都興福寺の智教上人と浄土寺の忠円僧正(共に倒幕の加担をして逮捕された)が左右に座を占めています。これらの人達は皆、昔のお姿と同じですが、

眼の光だけは異常に異なり、左右の脇からは長い羽のようなものが生え出ています。先ほどの僧侶はこの状況を見て、おかしいな自分は天狗道(天狗の住む、堕落した者が落ちると言う魔界)に落ちたのか、それとも天狗のため我が眼がくらんだのかと、心身ともここにあらずの状態となり、そのままじっと見続けていたところ、

又、空中より鮮やかな五緒の車(車の一種::五つ緒の簾を掛けた車)に乗って客がやってきました。榻(しじ::牛車の一部、乗り降りに際して踏み台にする)を踏んで降りる様子を見ると、兵部卿親王(護良親王)がまだ法体となる前のお姿です。先に座って待っていた天狗たちは、皆、席を立って両膝を折ってうずくまりました。しばらくすると、

坊官(事務にあたる在俗の僧)と思われる者が一人現れ、銀の銚子に金の盃を添えて酌に立たれました。大塔宮(護良親王)は盃を手にされると左右をにらむようにして礼をされ、三度に分けて召し上がり盃を置かれました。峯の僧正以下の人々も次々と飲みましたが、特に興を起こす気配もありません。少しばかり時間が過ぎた頃、

一斉にワッと喚くような声がして、手を上げ足をくの字にまげて、頭から黒煙を噴き出しながら、苦しみもだえ(びゃくち::地に倒れ転げ回ること)を続け、そのまま半時(約一時間)ばかりして、皆、火に入る夏の虫のように黒焦げになって死んだのです。あぁ、なんて恐ろしいことだ、これが天狗道の苦患(魔界で受ける苦しみ)にある、

日に三度熱鉄の玉を飲まされることかと思いながら見ていたところ、二刻(約四時間)ほどして皆、生き返りました。その時、峯の僧正春雅が苦しそうな息を吐きながら、「さて如何にしてこの世を再び乱世に巻き込もうか」と仰せられると、忠円僧正が末座から進み出て、「それはいとも簡単なことでございます。

先の左兵衛督直義は仏本来の戒律を破っていながら、在家の俗人では自分ほど戒律を守っている者はいないと思うほど、高慢なところがあります。そこで我々の頼みとする大塔宮が、直義の奥方の腹に男子としてお生まれになるのです。また夢窓国師の弟子に妙吉と言う僧侶がいます。彼は学問や修行が不足しているのに関わらず、

自分ほど優れた人はいないと思っています。この自信過剰な態度を我々は聞いているので、峯の僧正が彼の心の中に替って入り込み、政治などを補佐したり、また邪法を説き伏せるのです。その外、智教上人は上杉伊豆守重能と畠山大蔵少輔の心を操って、高師直や師泰を亡き者にすることを計画させるのです。

また忠円は反対に、武蔵守高師直や越後守高師泰の心に入れ替わり、上杉や畠山を滅ぼそうとするのです。このため尊氏、直義兄弟の仲が悪くなり、師直が主従の礼に背くこととなるので、天下に再び大きな騒動が巻き起こり、しばらくは、見物に事欠かないでしょう」と話されると、大塔宮をはじめに我慢(他を見くびり我意を張ること)

邪慢(徳が無いのに、あるとうぬぼれること)の小天狗たちまで、「見事な計略を話されるものだ」と一同が、皆面白がっている内、その姿はまぼろしのように消え去ったのです。


夜明ければ、往来の僧京に出、施薬院師嗣成に、此事をこそ語りたりけれ。四五日有て後、足利左兵衛督の北方、相労る事有て、和気・丹波の両流の博士、本道・外科一代の名医数十人被招請て脈を取せらるゝに、或は、「御労り風より起て候へば、風を治する薬には、牛黄金虎丹・辰沙天麻円を合せて御療治候べし。」と申す。或は、「諸病は気より起る事にて候へば、気を収る薬には、兪山人降気湯・神仙沈麝円を合せてまいり候べし。」と申。或は、「此御労は腹の御病にて候へば、腹病を治〔す〕る薬には、金鎖正元丹・秘伝玉鎖円を合て御療治候べし。」とぞ申ける。斯る処に、施薬院師嗣成少し遅参して、脈を取進せけるが、何なる病とも不弁。病多しといへ共束て四種を不出。雖然泯散の中に於て致料簡をけれ共、更に何れの病共不見、心中に不審を成処に、天狗共の仁和寺の六本杉にて評定しける事を屹と思出して、「是御懐姙の御脈にて候ける。しかも男子にて御渡候べし。」とぞさゝやきける。当座に聞ける者共、「あら悪の嗣成が追従や、女房の四十に余て始て懐姙する事や可有。」口を噤めぬ者は無りけり。去程に月日重、誠に只ならず成にければ、そゞろなる御労りとて、大薬を合せし医師は皆面目を失て、嗣成一人所領を給り、俸禄に預るのみならず、軈て典薬頭にぞ申成されける。猶懐姙誠しからず、月比にならば、何なる人の産たらむ子を、是こそよとて懐き冊かれむずらんとて、偏執の族は申合ひける処に、六月八日の朝、生産容易して、而も男子にてぞ坐しける。蓬矢の慶賀天下に聞へしかば、源家の御一族、其門葉、国々の大名は中々不申及、人と肩をも双べ、世に名をも知られたる公家武家の人々は、鎧・腹巻・太刀・々・馬・車・綾羅・金銀、我人にまさらんと、引出物を先立て、賀し申されける間、賓客堂上に群集し、僧俗門に立列る。後の禍をば未知、「哀大果報の少き人や。」と、云はぬ者こそ無りけれ。

夜が明けたので、雨宿りをしていた禅僧は京に向かい、施薬院師(貧しい病人に薬を与え治療をした施設の役人)嗣也に、このことを話されました。それから四、五日過ぎた頃、足利左兵衛督直義の北の方が体調を崩されたので、和気、丹波(共に典薬寮の長官を務める世襲の二家)の博士と、本道(内科)、外科の今をときめく名医と言われる数十人を呼び寄せて、

脈を取らせたところ、ある医者は、「ご病気は風邪をこじらせたためと思われるますので、風邪の治療薬として、牛黄金虎丹(漢方薬::解熱、降圧、鎮痛などに効果)、辰砂(漢方薬::消炎、鎮静作用)と天麻円(漢方薬::鎮静、頭痛薬)を処方し治療に当たるとよいでしょう」と、診断されました。またある医師は、「種々の病気は、

生命や心の状態によって引き起こされるものなので、その状態を健全な方向に持っていく薬として、気痛(気が滞って全身に痛みを感じる)を治療するための、愈山人降気湯、神仙沈麝香を処方するとよいと思われます」と、話されました。また他の医師は、「この体調不良は腹部の病と思われますので、腹部の治療薬として、

金鎖正元丹、秘伝玉鎖円を処方して治療に当たればよいでしょう」と、話されたのです。その時、少し遅れて施薬院師の嗣成が来て、すぐ脈を取りましたが、如何なる病気とも診断しません。この世に病気は多いけれど、大きく分けて四種類を出ることはありません。とは言えども、この意見の異なる状況の中で、

どう考えをめぐらしてみても全く病名の見当がつきません。おかしいことだと心中不審に思っていたところ、天狗共が仁和寺の六本杉で集会を持ち、会談していた話をフッと思い出し、「これは御懐妊の兆候で御座います。しかも男子で御座いましょう」と、ささやいたのでした。

その場にいた人達はこれを聞き、「なんと憎たらしい嗣成がおべっかを言うものだ、女房が四十を過ぎてから、初めて懐妊することなどあるはずがない」と、皆が口をそろえて言いました。ところが月日が重なるにつれ、本当に体型も変わってくると、大した理由もなくご病気だと診断し、大層な薬を処方した医師達は皆、面目を失って、

嗣成一人だけが所領を賜り、収入が増えただけでなく、やがて典薬頭(典薬寮の長官)に任命されました。やはり御懐妊は間違いなく、臨月頃になると如何なる人がお生みになったお子さまであっても、このお子さまを第一に考え大切に守り育てようと、ひたすらに考えている人たちが話し合っていたところ、

貞和三年(正平二年::1347年)六月八日の朝、安産であっただけでなく、その上男の子(如意丸)が誕生したのでした。蓬矢(ほうし::蓬で作った矢。邪気を除くまじない)による祝賀の行事は、天下の人々に知らされ、源氏の一族や一門に繋がる諸家、また諸国の大名もきわめて当然のように、他の人々と同じように祝福し、

世間に知られた公家や武家の人々は、鎧、腹巻、太刀、刀、馬、車、綾羅(高級な布、衣服)や金銀など他の人に負けじとばかり、引き出物を先頭に祝賀を申し上げようとするので、大事な客人は建物内に溢れかえり、僧侶や俗人は門周辺に連なる有様です。今後起こる厄災など知るはずが無く、「本当に良い星の下に生まれたお子さんだ」と、言わない人はいませんでした。


○藤井寺合戦事
楠帯刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、「思様あれば、今度の合戦に我は必ず打死すべし。汝は河内へ帰て、君の何にも成せ給はんずる御様を、見はて進せよ。」と申含めしかば、其庭訓を不忘、此十余年我身の長を待、討死せし郎従共の子孫を扶持して、何にも父の敵を滅し君の御憤を休め奉らんと、明暮肺肝を苦しめて思ひける。光陰過安ければ、年積て正行已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当りしかば、供仏施僧の作善如所存致して、今は命惜とも不思ければ、其勢五百余騎を率し、時々住吉天王寺辺へ打出々々、中島の在家少々焼払て、京勢や懸ると待たりける。将軍是を聞給て、「楠が勢の分際思ふにさこそ有らめ。是に辺境を侵奪れて、洛中驚き騒ぐこと、天下嘲哢武将の恥辱也。急ぎ馳向て退治せよ。」とて、細川陸奥守顕氏を大将にて、宇都宮三河入道・佐々木六角判官・長左衛門・松田次郎左衛門・赤松信濃守範資・舎弟筑前守範貞・村田・奈良崎・坂西・坂東・菅家一族共、都合三千余騎、河内国へ差下さる。此勢八月十四日の午剋に、藤井寺にぞ著たりける。此陣より楠が館へは七里を隔たれば、縦ひ急々に寄する共、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらんと、京勢由断して或は物具を解て休息し、或は馬鞍をおろして休める処に、誉田の八幡宮の後ろなる山陰に、菊水の旗一流ほの見へて、ひた甲の兵七百余騎、閑々と馬を歩ませて打寄せたり。「すはや敵の寄たるは。馬に鞍をけ物具せよ。」とひしめき色めく処へ、正行真前に進で、喚て懸入る。大将細川陸奥守よろいをば肩に懸たれ共未上帯をもしめ得ず、太刀を帯べき隙もなく見へ給ける間、村田の一族六騎小具足計にて、誰が馬ともなくひた/\と打乗て、如雲霞群りて磬へたる敵の中へ懸入て、火を散してぞ戦たる。され共つゞく御方なければ、大勢の中に被取篭、村田の一族六騎は一所にて討れにけり。其間に大将も物具堅め、馬に打乗て、相順ふ兵百余騎しばし支て戦ふたり。敵は小勢也。御方は大勢也。縦進で懸合するまではなく共、引退く兵だに無りせば、此軍に京勢惣て負まじかりけるを、四国中国より駈集たる葉武者、前に支へて戦へば、後ろには捨鞭を打て引ける間、無力大将も猛卒も同様にぞ落行ける。勝に乗て時を作懸々々追ける間、大将已に天王寺渡部の辺にては危く見へけるを、六角判官舎弟六郎左衛門、返合て討れにけり。又赤松信濃守範資・舎弟筑前守三百余騎命を名に替て討死せんと、取ては返し/\、七八度まで蹈留て戦けるに、奈良崎も主従三騎討れぬ。粟生田小太郎も馬を射られて討れにけり。此等に度々被支て、敵さまでも不追ければ、大将も士卒も危き命を助て、皆京へぞ返り上りにける。

☆ 藤井寺で行われた合戦のこと

さて楠木帯刀正行は父の正成が以前湊川に向かわれた時、「私は考えることがあって、今度行われる合戦において、必ず討ち死にをするつもりだ。汝は河内に帰って、後醍醐の君がお亡くなりになるまで、最後まで見守ってほしい」と、こんこんと諭されました。そこで、その教えを忘れることなく、ここ十年余り自分の成長を待ちながら、

討ち死にを遂げた家来らの子孫に対して、生活を支えながら、何としても父の敵を滅亡させ、後醍醐の君が持つ憤りをお静めしようと、明け暮れ心を砕いてきました。瞬く間に年月は過ぎ行き、正行は早くも二十五歳になり、その上今年は父の十三年忌に当たるので、供物のことや僧侶へのお布施など追善万端を尽くして、

今はもう命など惜しくないと思い、五百余騎の軍勢を率いて、繰り返し住吉や天王寺近辺に進出し、中島の民家を少しばかり焼き払って、何時京都勢が攻めてくるかと待ち構えていました。尊氏将軍はこの状況を聞き、「楠木ごときの軍勢など大したことなど無いはずだ。それらに都の郊外周辺を侵略されて、洛中が驚き騒ぐようなことがあれば、

天下の笑いものになり、武将にとっては恥辱そのものである。ここは大至急軍を派遣し征伐することだ」と話し、細川陸奥守顕氏を大将にして、宇都宮三河入道、佐々木六角判官、長左衛門、松田次郎左衛門、赤松信濃守範資、その舎弟筑前守範貞、村田、奈良崎、坂西、坂東、菅家一族らの総勢三千余騎を、河内国に発向させました。

そして幕府軍は貞和三年(正平二年::1347年)八月十四日午刻(正午頃)に、藤井寺に到着しました。この陣営から楠木の本営がある舘までは七里を隔てており、たとえすぐに押し寄せて来たとしても、到着は明日か明後日頃になるだろうと、幕府軍は油断し、ある者は甲冑を脱いで休憩し、またある者は馬から鞍をはずして休んでいました。

とその時、誉田の八幡宮の裏山に、菊水の旗一旒がちらちらと見え隠れし、全員鎧兜に身を固めた兵士ら七百余騎が、静々と馬を歩ませて押し寄せてきました。「ヤッ、敵が押し寄せてきたぞ、鞍を馬に載せよ、甲冑を身に着けろ」と騒ぎ立て動揺する中、正行が先頭に立って、喚きながら駈け入りました。

大将の細川陸奥守顕氏は、鎧だけは肩に懸けていましたが、まだ鎧につける上帯をしめることが出来ず、太刀を差すこともままならないように見えたので、村田の一族六騎が小具足(鎧下の防具だけで鎧をつけていない格好)だけの姿で、誰の馬とも分らないのにサッと飛び乗り、雲霞のように群がり待ち受けている敵の中へ駈け入り、

火花を散らして戦いました。しかしながら、後に続く味方がおらず、やがて大勢の敵中に取り囲まれ、村田一族の六騎は同じ所で討ち死にしました。この戦いの間に、大将は甲冑で身を固めると馬に飛び乗って、従う兵士ら百余騎でしばらく防戦に努めました。敵は小勢であり、味方は多勢です。たとえば積極的に戦闘を挑まなくても、

退却する兵士さえいなければ、この合戦に負けを喫することなど無いはずですが、四国や中国などからかき集めた雑兵らが、前線で防戦していても、後方では馬に乗るや鞭打って早がけで逃げる様では、やむを得ず大将も勇猛な兵士らも、雑兵と一緒になって逃げ落ちる有様です。正行軍は勝利に乗じて閧の声を挙げながら追跡を続けたので、

大将細川顕氏は天王寺渡部あたりで、もはやこれまでかと危険な状態になったのですが、救助のため六角判官の舎弟六郎左衛門が引き返し討たれました。また赤松信濃守範資、舎弟の筑前守らの三百余騎が名を惜しんで討ち死にせんと、引き返し引き返し七、八度まで踏みとどまって防戦しました。

奈良崎もまた主従三騎が討たれました。それ以外、粟生田小太郎も馬を射られ討ち死にしました。このように彼らの数度にわたる防戦のお陰で、敵もそれ以上追跡を続けなかったので、大将も将官や兵士らも、命からがら皆京都に引き上げました。      (終り)

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