25 太平記 巻第二十五 (その二)


○自伊勢進宝剣事付黄粱夢事
今年、古安徳天皇の壇の浦にて海底に沈めさせ給し宝剣出来れりとて、伊勢国より進奏す。其子細を能々尋ぬれば、伊勢国の国崎神戸に、下野阿闍梨円成と云山法師あり。大神宮へ千日参詣の志有ける間、毎日に潮を垢離にかいて、隔夜詣をしけるが、已千日に満ける夜、又こりをかゝんとて、礒へ行て遥の澳を見るに、一の光物あり。怪く思て、釣する海人に、「あれは何物の光りたるぞ。」と問ければ、「いさとよ何とは不知候。此二三日が間毎夜此光物浪の上に浮で、彼方此方へ流ありき候間、船を漕寄せて取らんとし候へば、打失候也。」とぞ答へける。かれを聞に弥不思議に思て、目も不放是を守て、遠渚海づらを遥々と歩行処に、此光物次第に礒へ寄て、円成が歩むに随てぞ流て来ける。さては子細有と思て立留たれば、光物些少く成て、円成が足許に来れり。懼しながら立寄て取上たれば、金にも非ず石にも非る物の、三鈷柄の剣なんどのなりにて、長さ二尺五六寸なる物にてぞ有ける。是は明月に当て光を含なる犀の角か、不然海底に生るなる珊瑚樹の枝かなんど思て、手に提て大神宮へ参たりける。爰に年十二三許なる童部一人、俄に物に狂て四五丈飛上々々けるが、思ふ事など問ふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけきと云歌を高らかに詠じける間、社人村老数百人集て、「何なる神の託させ給ひたるぞ。」と問に、物付き口走申けるは、「神代より伝て我国に三種の神器あり。縦ひ継体の天子、位を継せ給ふといへ共、此三の宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等是を見ずや、承久以後代々の王位軽くして、武家の為に威を失せ給へる事、偏に宝剣の君の御守と成せ給はで海底に沈める故也。剰へ今内侍所・璽の御箱さへ外都の塵に埋れて、登極天子空く九五の位に臨ませ給へり。依之四海弥乱て一天未静。爰に百王鎮護の崇廟の神、竜宮に神勅を被下て、元暦の古へ海底に沈し宝剣を被召出たる者也。すは爰に立て我を見るあの法師の手に持たるぞ。便宜の伝奏に属て此宝剣を内裏へ進らすべし。云処不審あらば是を見よ。」とて、円成に走懸て、手に持たる光物を取て、涙をはら/\と流し額より汗を流しけるが、暫く死入たる体に見へて、物の気は則去にけり。神託不審あるべきに非れば、斎所を始として、見及処の神人等連署の起請を書て、円成に与ふ。円成是を錦の袋に入て懸頚、任託宣先南都へぞ赴きける。春日の社に七日参篭して有けるが、是こそ事の可顕端よと思ふ験も無りければ、又初瀬へ参て、三日断食をして篭りたるに、京家の人よと覚しくて、拝殿の脇に通夜したる人の有けるが、円成を呼寄て、「今夜の夢に伊勢の国より参て、此三日断食したる法師の申さんずる事を、伝奏に挙達せよと云示現を蒙て候。御辺は若伊勢国よりや被参て候。」とぞ問ける。円成うれしく思て、始よりの有様を委細に語りければ、「我こそ日野大納言殿の所縁にて候へ。此人に属て被経奏聞候はん事、最安かるべきにて候。」とて、軈て円成を同道し京に上て、日野前大納言資明卿に属て、宝剣と斎所が起請とをぞ出たりける。

☆ 伊勢から宝剣が奉納されたことと、黄梁夢のこと

さて今年になって、昔安徳天皇と一緒に壇ノ浦の海底に沈んだ宝剣が出てきたと、伊勢国から天皇に奏上がありました。その事情について詳しく問いただしてみると次のようでした。伊勢国の国崎神戸に下野阿闍梨円成と言う山法師がいました。伊勢大神宮に千日参詣の志を持っていましたから、

毎日のように海水で水垢離をし、隔夜詣(一晩おきの参詣)をしてきましたが、早くも千日の満願になった夜、また水垢離をしようと磯に行き、遥か沖を見ると何か光る物が一つ見えます。不審に思い、釣りをしていた漁師に、「あれは一体何が光っているのですか」と問いかけると、「それがねえ、何か分らないんだよ。

ここ二、三日の間、毎晩この光る物が波に浮かんで、あちこち漂っているので、舟を漕ぎ寄せて取ろうとすると、消えてしまうのだ」と、答えがありました。この話を聞くと、ますます不思議に思い、この物体から目を離さず見守りながら、渚を海辺に沿って歩いていると、この光る物がだんだんと磯に寄ってきて、

円成の歩みに合わせて流れて来たのです。さては何か事情があるに違いないと思い、立ち止まると、光る物は少し小さくなって円成の足元に来たのです。恐ろしいとは思いながらも、取り上げてみると金でもなく、石でもない物が、三鈷(法具の一つ。両端が三つに分かれているもの)柄の剣(刀剣の柄を三鈷の形に作ったもの)の形をして、

長さは二尺五、六寸ほどの物です。これは月の光に当たると、その光を内部に入れるという犀の角なのか、でなければ、海底にある珊瑚樹の枝なのかと思い、手に提げて大神宮に参りました。その時、年齢十二、三歳ほどの子供一人が突然物狂になり、四、五丈を飛び上がると、また飛ぶということを繰り返し、

      思ふ事 など問ふ人の なかるらん あふげば空に 月ぞさやけき(思うことを問う人がなぜいないのか、仰げば空に月が澄み渡っているのに)

と言う歌を高らかに詠じたので、神官や村の長老ら数百人が集まり、「何の神に頼まれたのか」と、問いかけました。取り付かれた子供は、「神代から我が国には三種の神器が伝わっています。たとえ天皇の位を継がれたと言えども、この三つの宝物がなければ、天皇も天皇ではなく、国家も国家とは言えません。

皆様はこれに気付いていますか。承久(1219-1221年)以後、天皇の地位が軽んじられ、また武家のためにその権威が失墜したのも、全て宝剣が帝の御守りとならずに、海底に沈んだままになっているからです。そればかりでなく、現在、内侍所(八咫の鏡)や璽(八尺瓊曲玉::やさかにのまがたま)を保管した御箱でさえ、

都の塵に埋もれ、即位をされた天子も、空しく天皇の地位に身を置かれています。このため世の中はますます混乱におちいり、未だにその沈静化は見られません。そこで百王鎮護(永遠に国を鎮め守護する)を司り、皇室の祖先を祭る神社(伊勢神宮)の神(天照大神)が、竜宮に神としての命令を下し、

元暦二年(寿永四年::1185年)の昔、海底に沈んだ宝剣を提出させたのです。アっ、ここで立って私を見ている法師が手にしているではないか。良い機会を見つけて宮中に取次ぎをする人に頼み、この宝剣を内裏に奉納するように。私の話に不審があれば、見ていなさい」と言って、円成に走りより、

手に持った光る物を取り、涙をハラハラと流し、額からは汗を流して、しばらく死人のように見えましたが、取り付いていた物の怪はすぐ出て行ったのです。この神託(神のお告げ)には特別な不審は感じられないので、神にお仕えする人たちをはじめに、出来るだけ多くの神官らの連署をもらった起請文を書き、

円成に手渡しました。円成はこの起請文を錦の袋に収めて首に懸け、神のお告げの通り、まず南都に向かいました。春日大社に七日間参篭しましたが、これこそが、この大事を行うべき兆候だと思われることも起こらないので、また長谷寺に参り、三日間断食して篭りました。

そこには京都の公家らしい人で、拝殿の脇に夜通しで参拝している人がいたのですが、円成を呼び寄せ、「今夜私の見た夢の中で、伊勢国より来て、ここ三日間断食をしている法師の言うことを、帝にお伝えするようにと神からお告げを受けました。貴殿はもしかして、

伊勢国よりお参りに来られたのではないですか」と、問いかけられました。円成は嬉しく思い、事情を最初から詳しく説明すると、「私は日野大納言殿の縁者でございます。この人に頼んで天皇に事情を伝えることは、たやすいことでございます」と言って、円成と同行して京に上ると、

日野前大納言資明卿のもとに参り、宝剣と神官らの書いた起請文を提出しました。


資明卿事の様を能々聞給て、「誠に不思議の神託也。但加様の事には、何にも横句謀計有て、伝奏の短才、人の嘲哢となす事多ければ、能々事の実否を尋聞て、諸卿げにもと信を取程の事あらば可奏聞。何様天下静謐の奇瑞なれば引出物せよ。」とて、銀剣三振・被物十重、円成にたびて、宝剣をば前栽に崇め給へる春日の神殿にぞ納められける。神代の事をば、何にも日本記の家に可存知事なれば、委く尋給はんとて、平野の社の神主、神祇の大副兼員をぞ召れける。大納言、兼員に向て宣ひけるは、「抑三種の神器の事、家々に相伝し来る義逼也といへ共、資明は未是信。画工闘牛の尾を誤て牧童に笑れたる事なれば、御辺の被申候はん義を正路とすべきにて候。聊以事次に、此事存知度事あり。委く宣説候へ。」とぞ被仰ける。兼員畏て申けるは、「御前にて加様の事を申候はんは、只養由に弓を教へ、羲之に筆を授けんとするに相似て候へ共、御尋ある事を申さゞらむも、又恐にて候へば、伝る処の儀一事も不残申さんずるにて候。先天神七代と申は、第一国常立尊、第二国挟槌尊、第三豊斟渟尊。此時天地開け始て空中に物あり、葦芽の如しといへり。其後男神に泥土瓊尊・大戸之道尊・面足尊、女神に沙土瓊尊・大戸間辺尊・惶根尊。此時男女の形有といへ共更に婚合の儀なし。其後伊弉諾伊弉冊の男神女神の二神、天の浮橋の上にして、此下に豈国なからむやとて、天瓊鉾を差下して、大海を掻捜り給ふ。其鉾の滴、凝て一の島となる、をのころ島是也。次に一の州を産給ふ。此州余りに少かりし故、淡路州と名付、吾恥の国と云心なるべし。二神此島に天降り給て、宮造りせんとし給ふに、葦原生繁て所も無りしかば、此葦を引捨給ふに、葦を置たる所は山となり、引捨たる跡は河と成。二神夫婦と成て栖給ふといへ共、未陰陽和合の道を不知給。時に鶺鴒と云鳥の、尾を土に敲けるを見給て、始て嫁ぐ事を習て、喜哉遇可美小女焉読給。是和歌の始なり。

資明卿は事情をよく聞くと、「誠に不思議な神託です。ただし、このような話には、とかく虚偽や謀略が含まれており、馬鹿なことを取り次いだものだと、他人から嘲笑を受けることが多いので、よくよく事実関係を調査し、諸卿らが納得するだけの信憑性があれば、帝に取次ぎをいたしましょう。

これによって天下が安定に向かう良い兆候になるようであれば、是非とも朝廷に奉納されるよう」と話し、銀製の刀剣三振、装束十重を円成に与えて、宝剣を前庭に勧請し、信仰篤い春日神社の神殿に奉納しました。また遠く神代の事情については日本記の家(日本書紀を研究している家)が間違いなく詳しいので、

聞いてみようと考え、平野神社の神主、神祇の大副兼員をお呼びになりました。大納言は兼員に向かって、「そもそも三種の神器について、各家々に伝わっていることは、諸説まちまちであると言われており、この資明はいまだ何も信じてはいません。

画工闘牛の尾を誤て牧童に笑われたる(専門家の意見は素直に耳を傾けなければならない)事なので、貴殿の申されることを全面的に正論としましょう。事のついでに少しばかり知りたく思うことがあります。詳しく説明をお願いいたします」と、仰せられました。兼員は畏まって、

「貴殿の御前において、ご質問について説明申し上げるのは、ただただ養由基(ようゆうき::中国、春秋時代の弓の名人)に弓を教えたり、王羲之(おうぎし::中国、東晋の書家、書聖)に書を教授するすることと変わらないのですが、お尋ねに対してご返事をしないのも、また畏れ多いとも考えられるので、

我が家に伝わっていることを、残すことなく全て申し上げましょう。まず最初に天神七代(てんじんしちだい::日本神話で天地開闢の初めに現れた七代の天神)と言うのは、第一は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、第二は国挟槌尊(くにのさつちのみこと)、第三は豊斟淳尊(とよくむぬのみこと)です。

まだ天と地は混ざり合っていましたが、この時に清浄なものは上昇して天になり、重く濁ったものは大地となって開き始め、空中に何か物体が現れました。葦の芽のようなものだったと言われています。その後、その葦の芽のようなものが、男の神として泥土瓊尊(ういじにのみこと)

大戸之道尊(おおとのじのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)になり、女の神として沙土瓊尊(すいじにのみこと)、大戸間辺尊(おおとまべのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)となりました。この時、神は男と女の形はしていましたが、未だ男女としての交合の事実はありませんでした。

その後、男神の伊弉諾(いざなぎ)と女神の伊弉冉(いざなみ)の二神が天の浮橋(天と地を結ぶ宙に浮く橋)の上で、この下には間違いなく国があるはずだと、天瓊矛(あめのぬぼこ)を海面に下ろし、かき回して探しました。その時矛に付いたしずくが固まって、一つの島となりました。おのころ島がこれです。

次に一つの陸地をお産みになりました。しかし、この陸地はあまりにも小さいので、淡路島と名付けました。その心は吾が恥じの国ということです。この島に男女の二神が天降られて、神殿などを造営しようとしましたが、葦が一面に生い茂って建設地がないので、この葦を抜き取りましたが、

葦を捨て置いた場所は山になり、引き抜いた跡は川となりました。この二神は夫婦になって、一緒にお住みになりましたが、未だ陰陽和合(男女交合)の方法をご存知ありませんでした。ある時、セキレイと言う鳥が、尾っぽで地面を叩くのを見られて、初めて男女の交合を行い、

      喜哉 遇可美小女(あぁ素晴らしい、なんと美しい乙女に会ったことか)
と詠まれました。これが和歌の始まりです」


角て四神を生給ふ。日神・月神・蛭子・素盞烏尊是也。日神と申は天照太神、是日天子の垂跡、月神と申は、月読の明神也。此御形余りにうつくしく御坐、人間の類にあらざりしかば、二親の御計ひにて天に登せ奉る。蛭子と申は、今の西宮の大明神にて坐す。生れ給ひし後、三年迄御足不立して、片輪に坐せしかば、いはくす船に乗せて海に放ち奉る。かぞいろは何に哀と思ふらん三年に成ぬ足立ずしてと読る歌是也。素盞烏尊は、出雲の大社にて御坐す。此尊草木を枯し、禽獣の命を失ひ、諸荒く坐せし間、出雲の国へ流し奉る。三神如此或は天に上り、或は海に放たれ、或流し給し間、天照太神此国の主と成給ふ。爰に素盞烏尊、吾国を取らんとて軍を起て、小蝿なす一千の悪神を率して、大和国宇多野に、一千の剣を掘り立て、城郭として楯篭り給ふ。天照太神是をよしなき事に思召て、八百万神達を引具して、葛城の天の岩戸に閉ぢ篭らせ給ひければ、六合内皆常闇に成て、日月の光も見へざりけり。此時に島根見尊是を歎て、香久山の鹿を捕へて肩の骨を抜き、合歓の木を焼て、此事可有如何と占なはせ給ふに、鏡を鋳て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ可有御出と、占に出たり。香久山の葉若の下に占とけて肩抜鹿は妻恋なせそと読る歌は則此意也。さて島根見尊、一千の神達を語ひて、大和国天の香久山に庭火を焼き、一面の鏡を鋳させ給ふ。此鏡は思ふ様にもなしとて被捨ぬ。今の紀州日前宮の神体也。次に鋳給ひし鏡よかるべしとて、榊の枝に著て、一千の神達を引調子を調へて、神歌を歌ひ給ければ、天照太神是にめで給て、岩根手力雄尊に岩戸を少し開かせて、御顔を差出させ給へば、世界忽に明に成て、鏡に移りける御形永く消ざりけり。此鏡を名付て八咫の鏡とも又は内侍所とも申也。

話は続きます。「このように夫婦として結ばれた結果、四神をお産みになられました。日神、月神、蛭子、素盞烏尊がそうです。日神と言うのは天照大神で、太陽の神が地上に神となって現れたものです。月神と言うのは月読の明神(夜をつかさどる神)のことです。この神は姿があまりにも美しくて、

人間の仲間とは違うようなので、両親のお計らいで天に昇らせました。また蛭子と言うのは現在の西宮神社の大明神でございます。この神はお生まれになってから、三年の間足が立たなかったので障害者だと思われ、いはくす舟(汚穢屈す舟::鳥之石楠船神が乗られる舟)にお乗せし、海に流されたのです。

      かぞいろ(父母)は 何に哀と思ふらん 三年に成ぬ 足立ずして(両親はどれほど可哀そうに思っただろうか、三年過ぎても足が立たずに)

と、詠まれたのがこの歌です。最後に素盞烏尊は出雲大社に居られます。この神は草木を枯らしたり、鳥や獣を殺したりと、何事につけ荒々しい性質なので、出雲国に流されました。このように三神はある神は天に昇り、またある神は海に流されたり、また遠流とかにされたのですが、

天照大神はこの国の主とお成りになったのです。この時、素盞烏尊は我が国を手に入れようと戦争を起こし、群がり騒ぐ一千の悪神らを引き連れて、大和国の宇多野に、一千本の剣を地面に立て並べて城郭にし、立て篭もりました。天照大神はこの事態に手の打ちようがないと考え、

八百万神(やおろずのかみ::数多くの神々)を率いて、葛城にある天の岩戸に閉じ篭りましたので、六合(りくごう::上下四方、全宇宙)全て永遠の真っ暗闇に成り、太陽はもとより月の光も見えなくなりました。この事態を島根見尊(素性確認出来ず:天児屋根尊か?)が嘆かれ、香具山の鹿を捕らえて肩の骨を抜き取り、

合歓の木を焼いて、この状況を占ってみたところ、鏡を鋳造して岩戸の前に掛け、歌を歌えば出て来られるだろうと、占いに出ました。

      香具山の 葉若の下に 占とけて 肩抜鹿は 妻恋なせそ

と、詠まれた歌の意味はこのことです。そこで島根見尊は一千の神たちに誘いかけ、大和国天の香具山で神事としての火を燃やし、一面の鏡を鋳造しました。しかしこの鏡は思ったように出来なかったので、捨てることになりました。現在の紀州日前神宮に鎮座する御神体です。

次に鋳た鏡は良く出来ていたので、榊の枝に掛け一千の神々を集め、調子を調えて神歌を歌ったところ、天照大神はこの歌に感興を覚え、岩根手力雄尊(いわねたぢからをのみこと::天手力男尊、または天手力雄尊)に岩戸を少し開かせて、お顔をお出しになると世界は急に明るくなり、

鏡にうつった天照大神のお顔は永らく消えませんでした。そして、この鏡は八咫の鏡と名付けられました。また内侍所とも言われています」


天照太神岩戸を出させ給て、八百万神達を遣し、宇多野の城に掘立たる千の剣を皆蹴破て捨給ふ。是よりして千剣破とは申つゞくる也。此時一千の悪神は、小蛇と成て失ぬ。素盞烏尊一人に成て、彼方此方に迷行玉ふ程に、出雲国に行玉ひぬ。海上に浮で流るゝ島あり。此島は天照太神も知せ給べき所ならずとて、尊御手にて撫留て栖給ふ。故に此島をば手摩島とは申也。爰にて遥に見玉へば、清地の郷の奥、簸の川上に八色の雲あり。尊怪く思て行て見玉へば、老翁老婆二人うつくしき小女を中に置て、泣悲む事切也。尊彼泣故を問給へば、老翁答て曰、「我をば脚摩乳、うばをば手摩乳と申也。此姫は老翁老婆が儲たる孤子也。名をば稲田姫と申也。近比此所に八岐大蛇とて、八の頭ある大蛇、山尾七谷七にはい渡て候が、毎夜人を以て食とし候間、野人村老皆食尽、今日を限の別路の遣方もなき悲さに、泣臥也。」とぞ語ける。尊哀と思食て、「此姫を我にえさせば、此大蛇を退治して、姫が命を可助。」と宣に、老翁悦て、「子細候はじ。」と申ければ、湯津爪櫛を八作て、姫が髻にさし、八■の酒を槽に湛て、其上に棚を掻て姫を置奉、其影を酒に移してぞ待給ける。夜半過る程に、雨荒風烈吹過て、大山の如動なる物来る勢ひあり。電の光に是を見れば、八の頭に各二の角有て、あはいに松栢生茂たり。十八の眼は、日月の光に不異、喉の下なる鱗は、夕日を浸せる大洋の波に不異。暫は槽の底なる稲田姫の影を望見て、生牲爰に有とや思けん、八千石湛へたる酒を少しも不残飲尽す。尽ぬれば余所より筧を懸て、数万石の酒をぞ呑せたる。大蛇忽に飲酔て惘然としてぞ臥たりける。此時に尊剣を抜て、大蛇を寸々に切給ふ。至尾剣の刃少し折て切れず。尊怪みて剣を取直し、尾を立様に割て見玉へば、尾の中に一の剣あり。此所謂天叢雲剣也。尊是を取て天照太神に奉り玉ふ。「是は初当我高天原より落したりし剣也。」と悦玉ふ。其後尊出雲国に宮作し玉て、稲田姫を妻とし玉ふ。八雲立出雲八重垣妻篭にやへ垣造る其やへ垣を是三十一字に定たる歌の始也。

なおも話は続きます。「天照大神は岩戸を出られると、八百万神達を派遣して、宇多野の城に掘り立ててあった千本の剣を、全部蹴散らして捨てさせました。このことから千剣破(ちはやぶる)と言い伝えられています。この時に、素盞烏尊に従っていた一千の神々は、小蛇となっていなくなりました。

素盞烏尊は一人になってしまい、あちこちと行き迷っている内に、出雲国にお着きになりました。その時、海上に浮かんで流れている島がありました。この島は天照大神もご存じないだろうと、素盞烏尊は手で島を引き寄せ、其処にお住みになりました。そこでこの島を手摩島(たましま?)と言います。

この時遥か遠方を見渡すと、須賀(安来市)郷の奥地、斐伊川の上流に八色の雲があります。尊は怪しく思い行ってみると、老翁と老婆二人が美しい乙女を間にして、泣き悲しんでいる様子はただ事ではありません。尊が何故これほど泣き悲しんでいるのかと問われると、

老翁は、『私の名は脚摩乳(あしなづち)、姥は手摩乳(てなづち)と言います。またこの姫は私ら老夫婦が儲けた娘の一人です。名前は稲田姫(奇稲田姫::くしなだひめ)と言います。最近この地に八岐大蛇と言って、八つの頭を持った大蛇が、山々谷々を這い回っているのですが、

毎夜、食事の度に人を食べているので、村人や村の長老らは皆食べ尽くされて、今日を限りに、この娘との別れから逃れられない悲しみに、泣き伏しているのです』と、話されました。尊は可哀そうな話だと思い、『この姫を私に頂ければ、その大蛇を退治して、姫の命も助けてあげましょう』と仰せられると、

老翁は喜び、『何も言うことはございません』と、答えられました。そこで湯津爪櫛(ゆつつまぐし::細かい歯の多い爪の形をした櫛)を八つ作って姫の髪に挿し、八回にわたって醸した酒を桶に湛えて、その上に棚を作って姫を座らせ、その影を酒に写して待ち構えました。やがて夜半を過ぎる頃、

激しい雨と共に風が吹き荒れ、山のように大きな動物がやって来るような気配がしました。稲妻の明りで見てみると、八つの頭にそれぞれ二本の角を生やし、その間には松や柏の木が生い茂っています。十八個(十六個?)の眼は太陽や月のように光り、喉の下にある鱗は、夕日を水面に写した大海の波のように見えます。

しばらくは酒桶の底に写った稲田姫の影を見ながら、生贄はここにあるのかと思ったのか、八千石を湛えていた酒を残さず飲み干しました。酒が無くなったので他所から筧を引き、さらに数万石の酒を飲ませました。そのため大蛇はすぐ酔いつぶれ、ぼんやりとしたまま動かなくなりました。

その時、尊は剣を抜き、大蛇をずたずたに切り刻みました。しかし尻尾の辺りで剣の刃が少しこぼれ、切れなくなりました。尊は不思議に思い、剣を持ち直し尻尾を縦に切り裂いて見ると、尾の中に一振りの剣がありました。これがいわゆる、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。尊はこの剣を手に取ると、

天照大神に奉納されました。天照大神は、『この剣はその昔、私が高天が原より落とした剣です』と、喜ばれました。その後、素盞烏尊は出雲国須賀の地に宮殿を建て、稲田姫を妻にしました。

      八雲立 出雲八重垣 妻籠に 八重垣造る 其八重垣を(幾重にも雲の湧き出る出雲に、妻を守るために幾重もの垣を巡らした宮殿を建造した)

これが三十一文字に定めた最初の歌です」


其より以来此剣代代天子の御宝と成て、代十つぎを経たり。時に第十代の帝、崇神天皇の御宇に、是を伊勢太神宮に献り給ふ。十二代の帝景行天皇四十年六月に、東夷乱て天下不静。依之第二の王子日本武尊東夷征罰の為に東国に下り給ふ。先伊勢太神宮に参て、事の由を奏し給ひけるに、「慎で勿懈。」直に神勅有て件の剣を下さる。尊、剣を給て、武蔵野を過給ひける時、賊徒相謀て広野に火を放て、尊を焼殺し奉らんとす。燎原焔盛りにして、可遁方も無りければ、尊剣を抜て打払ひ給ふに、刃の向ふ方の草木二三里が間、己れと薙伏られて、烟忽に賊徒の方に靡きしかば、尊死を遁させ給て朝敵若干亡にけり。依之草薙の剣とは申也。此剣未大蛇の尾の中に有し程、簸の河上に雲懸りて、天更に不晴しかば、天の群雲の剣とも名付く。其尺僅に十束なれば又十束の剣とも名付たり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に亦被召て、内裏に収られしより以来、代々の天子の御宝なればとて、又宝剣とは申也。神璽は、天照太神、素盞烏尊と、共為夫婦ありて、八坂瓊の曲玉をねふり給しかば、陰陽成生して、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を生給ふ。此玉をば神璽と申也。何れも異説多端、委細尽すに不遑。蓬■に伝る所の一説、大概是にて候。」と委細にぞ答申たりける。大納言能々聞給て、「只今何の次でとしもなきに、御辺を呼候て、三種の神器の様を委く問つる事は、別の子細なし。昨日伊勢国より、宝剣と云物を持参したる事ある間、不審を開かん為に尋申つる也。委細の説大畧日来より誰も存知の前なれば、別に異儀なし。但此説の中に、十束の剣と名付しは、十束ある故也と聞つるぞ。人の無左右可知事ならずと覚る。其剣取出せ。」とて、南庭に崇給へる春日の社より、錦の袋に入たる剣を取出して、尺をさゝせて見給ふに、果して十束有けり。「さては無不審宝剣と覚。但奏聞の段は一の奇瑞なくば叡信不可立。暫此剣を御辺の許に置て、何なる不思議も一祈出されよかし。」と宣へば、兼員、「世は澆季に及て仏神の威徳も有て無きが如くに成て候へば、何に祈候とも、誠に天下の人を驚す程の瑞相、可出来覚候はず、但今も仏神の威光を顕して人の信心を催すは、夢に過たる事はなきにて候。所詮先此剣を預け給て、三七日が間幣帛を捧げ礼奠を調、祈誓を致し候はんずる最中、先は両上皇、関白殿下、院司の公卿、若は将軍、左兵衛督なんどの夢に、此剣誠に宝剣也けりと、不審を散ずる程の夢想を被御覧候はゞ、御奏聞候へかし。」と申て、卜部宿禰兼員此剣を給てぞ帰りける。

兼員の話は続きます。「その時以来、この剣は代々天皇の御宝となって、十代にわたって引き継がれてきました。そして第十代崇神天皇の御代に、この剣を伊勢大神宮に献上しました。十二代の帝、景行天皇四十年六月、都を遠く離れた東国の未開地で騒乱が起こり、天下が不安定になりました。

このため第二皇子の日本武尊が、未開人征伐のため東国に下られました。まず最初に伊勢大神宮に参詣し、東征の事情を説明したところ、『慎重に油断なく励むように』と、直ちに神より命令があり、例の剣を授けられました。剣を賜った尊が武蔵野を通過されている時、賊徒らが共謀して広々とした野原に火を放ち、

尊を焼き殺そうとしました。燃え広がった野原は炎の勢いが激しく、逃げる方法もないので尊は剣を抜いて、草を切り払うと、刃の先が向かった二、三里の草木はひとりでに薙ぎ伏せられ、煙はすぐに賊徒に向かって流れ出し、尊は死を逃れ朝敵の多くが死亡しました。

このことから、この剣は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と言われるようになりました。また、この剣がまだ大蛇の尾の中にあった時、斐伊川の上流に雲が常にかかり、空の晴れることがなかったので、天の群雲の剣(あめのむらくものつるぎ)とも名付けられています。剣の長さが僅か十束(束は拳一つの幅)なので、

十束の剣(とつかのつるぎ)とも名付けられました。この剣は天武天皇の御代、朱鳥元年(686年)に再び宮中に奉納されて、内裏にて保管されるようになって以来、代々天皇の宝物とされていますから、また宝剣と言われています。神璽(しんじ)は天照大神と素盞烏尊が男女として交合の結果、

八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)をねふり(意味不明)給しかば、陰陽の作用により、天照大神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)をお産みになりました。この八尺瓊の勾玉を神璽と言います。いずれにしてもこれらの解釈は異説が多く、

とても短時間で詳しく御説明することは出来ません。我が家に伝わっている一説は、概略このようなもので御座います」と、詳しくお答えされました。日野前大納言資明卿は真剣にこの話を聞き終わると、「今回特に用件がある訳でないのに貴殿をお呼びし、三種の神器について詳しく質問をさせていただいたことは、

特別な理由があるわけではありませんが、実は昨日伊勢国より、宝剣だと言う物を持参してきたので、不審を解こうと考えてお尋ねしました。詳しい説明の概略は世間で言われていることなので、特に異論はございません。但しこの説明の中で、十束の剣と名付けられたのは、長さが十束だからと聞きました。

このことはあまり知られていないと思います。その剣をここに持ってくるように」と言って、南庭に勧請している春日のお社から、錦の袋に入った剣を取り出して、長さを測ってみると果たして十束でした。「するとこれは疑いなく宝剣と思われる。とは言えども、帝に取り次ぐとなれば、

一つ何か良い知らせの前兆でもなければ、帝の信用は得られないように思われます。しばらくこの剣を貴殿の手元に置き、祈祷によって何か一つでも、不思議な現象を起こしてはもらえませんか」と仰せられると、兼員は、「世の中今や道徳も衰えて、末世の様相を示しているような状況で、

神や仏の威徳さえ有ってないような時に、如何に祈祷に励んだところで、天下の人々を驚かすような、めでたい前兆が現れるとも思えません。とは言え、今の時代であっても、神仏の威光を世間に知らしめ、人の信仰心を喚起させることは、決して夢物語でもございません。

そこで、とりあえずこの剣を預けて頂き、三七、二十一日間、神前にお供え物を捧げて祭り、祈祷を行い続ける最中に、まず第一に両上皇、関白殿下、院に仕える公卿、もしくは尊氏将軍や左兵衛督直義公などの夢に、この剣が確かに宝剣に違いないと、不審を晴らすような夢見があれば、

帝にお取次ぎをされると良いでしょう」と申し上げ、卜部宿禰兼員はこの剣を受け取って帰られました。


翌日より兼員此剣を平野の社の神殿に安じ、十二人の社僧に真読の大般若経を読せ、三十六人の神子に、長時の御神楽を奉らしむるに、殷々たる梵音は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は垂迹五能の応化をも助くらんとぞ聞へける。其外金銀弊帛の奠、蘋■蘊藻の礼、神其神たらば、などか奇瑞もこゝに現ぜざらんと覚る程にぞ祈りける。已に三七日に満じける夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣の見給ける夢こそ不思議なれ。所は大内の神祇官かと覚へたるに、三公・九卿・百司・千官、位に依て列座す。纛の旗を建幔の坐を布て、伶倫楽を奏し、文人詩を献ず。事の儀式厳重にして大礼を被行体也。直義朝臣夢心地に、是は何事の有やらんと怪く思て、竜尾堂の傍に徘徊したれば、権大納言経顕卿出来り給へるに、直義朝臣、「是は何事の大礼を被行候やらん。」と問給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進らせらるべしとて、中議の節会を被行候也。」とぞ被答ける。さては希代の大慶哉と思て、暫見居たる処に、南方より五色の雲一群立出て、中に光明赫奕たる日輪あり。其光の上に宝剣よと覚へたる一の剣立たり。梵天・四王・竜神八部蓋を捧げ列を引て前後左右に囲遶し給へりと見て、夢は則覚にけり。直義朝臣、夙に起て、此夢を語給に、聞人皆、「静謐の御夢想也。」と賀し申さぬは無りけり。其聞へ洛中に満て、次第に語伝へければ、卜部宿禰兼員、急ぎ夢の記録を書て、日野大納言殿に進覧す。大納言此夢想の記録を以て、仙洞に奏聞せらる。事の次第御不審を非可被残とて、八月十八日の早旦に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日是を取進せし円成阿闍梨、次第を不経直任の僧都になされ、河内国葛葉の関所を恩賞にぞ被下ける。只周の代に宝鼎を掘出、夏の時に河図を得たりし祥瑞も是には過じとぞ見へし。此比朝庭に賢才輔佐の臣多といへ共、君の不義を諌め政の不善を誡めらるゝは、坊城大納言経顕・日野大納言資明二人のみ也。夫両雄は必諍ふ習なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明卿申破らむとし、資明卿の被執奏たる事をば経顕卿支申されけり。

翌日から兼員は、この剣を平野神社の神殿に安置し、十二人の僧侶に大般若経を省略すること無しに読ませ、三十六人の巫女に長時間にわたって御神楽を奉納させました。その鳴り響く読経の声と神楽の音は、現世に姿を現す前の神や仏のお耳に達し、リンリンと鳴り響く鈴の音は、

この世に姿を変えて現れた菩薩らが行う衆生の救済を、手伝っているように聞こえます。そのほか金銀や供物の数々、蘋はん蘊藻(ひんはんうんそう)の礼(粗末な供物に対する詫びの言葉?)など、神であればどうして目出度い前兆を出現させずに居られるのかと思うほど、祈りに祈りました。

早くも二十一日になろうかとする夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣が見られた夢は、確かに不思議なものでした。その夢は、場所は皇居内、朝廷の祭祀を担当する役所だと思われますが、三公(太政、左右大臣など)、九卿(諸公卿)、百司(多くの高級役人)、千官(多くの役人)らが、それぞれの官位に応じて列席しています。

竿先に飾りのついた旗竿を立て、幔幕内には席を設け、楽団は雅楽を演奏し、文筆家は詩を献上しています。その様子は厳しい管理の中、重要な儀式が執り行われているようです。直義朝臣は夢見心地ながら、一体何が行われているのかと怪しみ、竜尾堂のそばを歩んでいると、

権大納言経顕卿に出くわしました。直義朝臣は、「これは一体何の儀式を行っているのですか」と、問いかけると、「伊勢大神宮より宝剣が奉納されるということで、中程度の規模で儀式を行っているのです」と、答えられました。ということは滅多にない慶事だと思い、しばらく見物していると、

南の方角から一群の五色の雲が群がり出て来て、その中に光り輝く太陽が見えます。その光りの上方に、宝剣らしいものが一本立っています。梵天(仏法護持の神)、四王(四天王::四人の仏教守護神)、竜神八部(仏法を守護する八部衆::天、竜、夜叉など)が大きな笠のようなものを捧げ持って、

前後左右を列をなして礼拝しているように見えた時、夢は突然覚めたのでした。直義朝臣は朝早く起きて、この夢のことを話されると、聞いていた人は皆、「天下太平が続くと言う、夢のお告げでしょう」と、祝福しない人はいませんでした。やがてその話は洛中に広まり、次々と語り継がれて行くうち、

卜部宿禰兼員は大急ぎでこの夢の状況を記録して、日野大納言殿に報告しました。大納言はこの報告書に基づき、仙洞御所の上皇に申し上げました。事の次第に対して、不審に思われるところは無いので、八月十八日の早朝、諸卿が参列される中、宝剣の受け取りが行われました。

翌日、この宝剣を手に入れ届け出た円成阿闍梨は、順序を踏むことなく数段上の僧都(僧正に次ぐ地位)に任じられ、河内国の葛葉の関所を恩賞として賜りました。周の時代に宝鼎(殷時代製造か?)を発掘したことや、夏時代に河図(かと::黄河に現れた竜馬の背中にあった模様の図)を手に入れた縁起のよい出来事にも、

我が国の今回の吉兆には劣ると思われます。当時朝廷には優秀な人材や、帝を補佐する廷臣など多数存在していましたが、帝の道義に反する行為や、政治における過ちなどを、お諌めする人としては、坊城大納言経顕と日野大納言資明の二人だけでした。一般に両雄といわれる人達は、

決まって何かにつけ相争うことが多く、互いに自己の主張、論理を通そうと競うため、経顕卿の申される事案は、資明卿が反対意見を述べ、資明卿が帝に取り次ごうとする事については、経顕卿が反対意見を述べるという有様です。


爰に伊勢国より宝剣進奏の事、日野大納言被執申たりと聞へしかば、坊城大納言経顕卿、院参して被申けるは、「宝剣執奏の事、委細に尋承候へば、一向資明が阿党の所より事起て候なる。佞臣仕朝国有不義政とは是にて候也。先思て見候に、素盞烏尊古へ簸の河上にて切られし八岐の蛇、元暦の比安徳天皇と成て、此宝剣を執て竜宮城へ帰り給ひぬ。其より後君十九代春秋百六十余年、政盛に徳豊なりし時だにも、遂に不出現宝剣の、何故に斯る乱世無道の時に当て出来り候べき。若我君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其よりも先天下の静謐こそ有べく候へ。若又直義が夢を以て、可有御信用にて候はゞ、世間に無定相事をば夢幻と申候はずや。されば聖人に無夢とは、是を以て申にて候。昔漢朝にして富貴を願ふ客あり。楚国の君賢才の臣を求給ふ由を聞て、恩爵を貪らん為に則楚国へぞ趣ける。路に歩疲て邯鄲の旅亭に暫休けるを、呂洞賓と云仙術の人、此客の心に願ふ事暗に悟て、富貴の夢を見する一の枕をぞ借したりける。客此枕に寝て一睡したる夢に、楚国の侯王より勅使来て客を被召。其礼其贈物甚厚し。客悦で則楚国の侯門に参ずるに、楚王席を近付て、道を計り武を問給ふ。客答ふる度毎に、諸卿皆頭を屈して旨を承くれば、楚王不斜是を貴寵して、将相の位に昇せ給ふ。角て三十年を経て後、楚王隠れ給ける刻、第一の姫宮を客に妻せ給ひければ、従官使令、好衣珍膳、心に不叶云事なく、不令目悦云事はなし。座上に客常満、樽中に酒不空。楽み身に余り遊び日を尽して五十一年と申すに、夫人独の太子を産給ふ。楚王に位を可継御子なくして、此孫子出来にければ、公卿大臣皆相計て、楚国の王に成し奉る。蛮夷率服し、諸侯の来朝する事、只秦の始皇の六国を合、漢の文慧の九夷を順へしに不異。王子已に三歳に成給ける時、洞庭の波上に三千余艘の舟を双べ、数百万人の好客を集て、三年三月の遊をし給ふ。紫髯の老将は解錦纜、青蛾の御女は唱棹歌。彼をさへや大梵高台の花喜見城宮の月も、不足見不足翫と、遊び戯れ舞歌て、三年三月の歓娯已に終ける時、夫人彼三歳の太子を懐て、舷に立給たるが、踏はづして太子夫人諸共に、海底に落入給ひてげり。数万の侍臣周章て一同に、「あらや/\。」と云声に、客の夢忽に覚てげり。倩夢中の楽みを計れば、遥に天位五十年を経たりといへ共、覚て枕の上の睡を思へば、僅に午炊一黄粱の間を不過けり。客云人間百年の楽も、皆枕頭片時の夢なる事を悟り得て、是より楚国へは不越、忽に身を捨て、世を避る人と成て、遂に名利に繋るゝ心は無りけり。是を揚亀山が謝日月詩作て云く、少年力学志須張。得失由来一夢長。試問邯鄲欹枕客。人間幾度熟黄粱。是を邯鄲午炊の夢とは申也。就中葛葉の関は、年来南都の管領の地にて候を、無謂召放れん事、衆徒の嗷訴を招くにて候はずや。綸言再し難しといへ共、過則勿憚改と申事候へば、速に以前の勅裁を被召返、南都の嗷訴事未萌前に可被止や候らん。」と委細に奏申されければ、上皇もげにもとや思召けん、則院宣を被成返ければ、宝剣をば平野社の神主卜部宿禰兼員に被預、葛葉の関所をば如元又南都へぞ被付ける。

このような状況にある時、伊勢国より奉納された宝剣の献上について、日野大納言が帝に取次ぎをされると聞いた坊城大納言経顕卿は、院に参上して、「宝剣の献上取次ぎの件について、詳しく事情を尋ねてみたところ、むしろ資明の仲間が中心になって画策しているようです。

よこしまな考えを持った廷臣が朝廷に仕えると、政治に悪影響を及ぼすとは、まさにこのことでございます。順序立てて考えてみれば、素盞烏尊が昔、斐伊川の上流において切られた八岐大蛇は、元暦(1184-1185年)の頃、安徳天皇に姿を変え、この宝剣を取り返して竜宮城にお帰りになりました。

それより後、十九代に亘っての天皇、時間として百六十余年間、政治は安定と隆盛を誇り、道徳も正しく守られていた時でさえ、決して現れることのなかった宝剣が、なぜ現在のような乱世、末世の時代に出現したのでしょうか。もし、我が君の天皇としての徳に感心して出現したと言うなら、

その前に天下の安定を図ることが先決です。またもしも直義の夢を理由に信用されたとしても、世間では一定の形や、実態の無いことを夢幻と言うのでは。そこで徳のある聖人は、心身が安らかで憂いや悩みがないので、夢を見ることがないのは、こういう理由からではないでしょうか。

昔、中国の漢王朝において、財産と身分を追い求める人がいました。その時、楚国の帝が優秀な人材を求めていると聞き、どうあっても恩賞と高位の身分を得んがため、即刻、楚国に向かいました。道中歩き疲れて邯鄲の旅館でしばらく休憩していたところ、呂洞賓と言う仙術使いが、

この休憩している人間が心に持っている願望を見抜き、富貴の夢を見ることが出来る枕を貸してやりました。男がこの枕を頭にして一眠りした時の夢に、楚国の王より勅使がやって来て、この男を呼びたてたのです。男に対する礼儀や引き出物は非常なるものでした。男は喜んですぐ楚国の宮廷に参ったところ、

国王は男を近くに呼び寄せ、教養と武術の程度を尋ねられました。男が返答するたびにその場にいる諸卿らは皆、うなづき男の返事を納得して聞くので、国王も大いに彼を大事にすると共に可愛がり、将相(文武の長)の地位を与えました。このようにして三十年が過ぎて、楚王が崩御される時、

一番上の姫宮を男に娶わせられたので、彼は侍従らを思うように使役し、気に入った衣装を身に着け、珍しい食事など全てにおいて思い通りにし、眼を楽しませないことなどもありませんでした。彼の居るところに客の絶えることなく、樽にはいつも酒が満ちていました。

身に過ぎた快楽な日を過すうち五十一年が過ぎた頃、夫人が一人の王子を出産されました。楚王に皇位を継ぐべき子供がいない時、この孫がお生まれになったので、公卿や大臣は皆で相談の上、男を楚国の王に推戴しました。このため周辺の未開人らは彼に服従し、諸侯らが楚国の朝廷に参内する様子は、

まさしく秦国の始皇帝が六国(韓、魏、趙、斉、楚、燕)を併合したり、漢国の文慧が九夷(漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国)を従えたのと変わりません。やがて王子が三歳に成られた時、洞庭湖の水面に三千余艘の舟を浮かべ、数百人に及ぶ客人を集めて、三年三月と言う長時間にわたる遊宴を行いました。

赤みがかった頬髯の老武将が錦のとも綱を解くと、美しい女性が舟歌を歌いました。華やかな宮殿に咲く花も、喜見城かと思われるこの楽園を照らす月も、これでもか、これでもかと遊びまた歌い続け、さすが長時間の宴遊も終わろうとした時、夫人があの三歳になった王子を懐に抱き、船べりにお立ちになりました。

その時、夫人は足を踏み外し、王子もろとも水底に落ちてしまわれました。数万の近侍する臣下は慌てふためき、「あれよ、あれよ」と、一斉に騒ぎ立てたその声に、ハッと男は夢から覚めました。考えて見れば、夢の中で過ごした快楽の時間を計ると、遥かに五十年、天位にあったと言えども、

夢から覚めてその眠りの時間を思えば、僅か昼食の黄粱(こうりゃん::粟)を蒸し上げる時間も過ぎていませんでした。男はこれにより、人間百年の快楽も全て、睡眠中の瞬時の夢に過ぎないと悟り、楚国へ向かう事をやめるとすぐ出家し、世捨て人となって富や地位にこだわる気持ちも無くなりました。

この話を揚亀山(ようきさん)が、”日月に謝する”と言う詩に詠みました。

      少年力学志須張 得失由来一夢長 試問邯鄲欹枕客 人間幾度熟黄梁

この話のことを”邯鄲午炊の夢”と言います。特に葛葉の関所は、長年にわたり南都の支配領有する土地であり、理由も無く取り上げれば、衆徒の強訴を招くことになるかもしれません。綸言(天皇の言葉)は訂正出来ないとは言いますが、過則勿憚改(過ちがあればすぐに改めることを逡巡することなかれ)とも言いますので、

速やかに以前に下された決裁を改正され、南都による強訴の兆しが出る前に処理されるべきでしょう」と事細かく申し上げたので、上皇も納得されたのか、すぐに院宣を取り消されると、宝剣を平野神社の神主、卜部宿禰兼員の預けられると共に、葛葉の関所も元通り南都の領有としました。


○住吉合戦事
去九月十七日に、河内国藤井寺の合戦に、細川陸奥守顕氏、無甲斐打負て引退し後、楠帯刀左衛門正行、勢ひ機に乗て、辺境常に侵し奪はるといへ共、年内は寒気甚して兵皆指を墜し、手亀る事有ぬべければ、暫とて閣れけるが、さのみ延引せば敵に勢著ぬべしとて、十一月二十三日に軍評定有て、同二十五日、山名伊豆守時氏・細川陸奥守顕氏を両大将にて、六千余騎を住吉天王寺へ被差下。顕氏は去ぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打負て、天下の人口に落ぬる事、生涯の恥辱也と被思ければ、四国の兵共を召集て、「今度の合戦又如先して帰りなば、万人の嘲哢たるべし。相構て面々身命を軽じて、以前の恥を洗がるべし。」と、衆を勇め気を励されければ、坂東・坂西・藤・橘・伴の者共、五百騎づゝ一揆を結んで、大旗小旗下濃の旗三流立て三手に分け、一足も不引可討死と、神水を飲てぞ打立ける。事の■実に思切たる体哉と、先涼しくぞ見たりける。大手の大将山名伊豆守時氏、千余騎にて住吉に陣をとれば、搦手の大将細川陸奥守顕氏、八百余騎にて天王寺に陣を取る。楠帯刀正行是を聞て、「敵に足をためさせて、住吉・天王寺両所に城郭を被構なば、向神向仏挽弓放矢恐有ぬべし。不日に押寄て、先住吉の敵を追払、只攻につめ立て、急に追懸る程ならば、天王寺の敵は戦はで引退ぬと覚るぞ。」とて、同二十六日の暁天に、五百余騎を率し、先住吉の敵を追出さんと、石津の在家に火を懸て、瓜生野の北より押寄たり。山名伊豆守是を見て、「敵一方よりよも寄せじ。手を分て相戦へ。」とて、赤松筑前守範貞に、摂津国播磨両国の勢を差副て、八百余騎浜の手を防んと、住吉の浦の南に陣を取。土岐周済房・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門、其勢三千余騎にて、安部野の東西両所に陣を張る。搦手の大将細川陸奥守は、手勢の外、四国の兵五千余騎を率して、態と本陣を不離、荒手に入替ん為に、天王寺に磬へたり。大手の大将山名伊豆守・舎弟三河守・原四郎太郎・同四郎次郎・同四郎三郎は、千余騎にて、只今馬烟を挙て進みたる先蒐の敵に懸合せんと、瓜生野の東に懸出たり。楠帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所に有と見てければ、多からぬ我勢を数たに分ば、中々可悪とて、本五手に分たりける二千余騎の勢を、只一手に集て、瓜生野へ打てかゝる。此陣東西南北野遠して疋馬蹄を労せしかば、両陣互に射手を進て、時の声を一声挙る程こそあれ、敵御方六千余騎一度に颯と懸合て、思々に相戦。半時許切合て、互に勝時をあげ、四五町が程両方へ引分れ、敵御方を見渡ば、両陣過半滅びて、死人戦場に充満たり。又大将山名伊豆守、切疵射疵七所迄負はれたれば、兵前に立隠して、疵をすひ血を拭ふ程、少し猶預したる処へ、楠が勢の中より、年の程二十許なる若武者、和田新発意源秀と名乗て、洗皮の鎧に、大太刀小太刀二振帯て、六尺余の長刀を小脇に挟み、閑々と馬を歩ませて小哥歌て進みたり。其次に一人、是も法師武者の長七尺余も有らんと覚たるが、阿間了願と名乗て、唐綾威の鎧に小太刀帯て、柄の長一丈許に見へたる鑓を馬の平頚に引副て、少しも不擬議懸出たり。

☆ 住吉で行われた合戦のこと

さて去る貞和三年(正平二年::1347年)九月十七日に行われた河内国藤井寺の合戦で、細川陸奥守顕氏が情け無い負け方で退却してから、楠木帯刀左衛門正行は勢いに乗じて、都からは離れているとは言え、周辺地域を侵略し支配地域を拡大していました。しかし幕府ではこの冬は寒気がひどく、

兵士らは皆、指を落としたり、手にひびやあかぎれになり、暫く休戦やむなしの状況でしたが、それもあまり長くなれば、敵に勢力挽回の機会を与えることになるので、十一月二十三日、作戦会議を開いて、同月二十五日に山名伊豆守時氏と細川陸奥守顕氏を両大将に任命し、

六千余騎の軍勢を住吉天王寺に向かわせました。顕氏は去る九月の藤井寺の合戦で、楠木帯刀左衛門正行に負を喫し、天下の笑いものになったことは一生の恥だと思っていたので、四国の兵士らを集めて、「今回の合戦において、また先日のように退却などすれば、万人の嘲笑を受けることとなるだろう。

ここはどんなことがあっても、各自、我が命を惜しむことなく戦い、先日の恥を雪がねばならない」と、勇気を奮い立たせ励ましたので、坂東、坂西、藤、橘、伴の武将らの五百騎づつが一団になって、大小の旗や裾濃(上が薄く下を濃く染めたもの)の旗を三旒立て、三手に分れて一歩たりと退くまい、

討ち死にせんと、神前で誓いの水を飲み発向しました。その覚悟たるもの誠に潔く見えました。大手を受け持つ大将の山名伊豆守時氏が、千余騎を従えて住吉に陣を構え、搦手の大将、細川陸奥守顕氏は八百余騎にて天王寺に陣を構えようとしました。

楠木帯刀正行は敵陣の構えを聞くと、「敵が進軍をやめて、住吉、天王寺の二ヶ所に城郭を構えられたら、我々は神や仏に向かって弓を引き、矢を放たねばならぬ恐れがある。すぐに押し寄せ、まず住吉の敵を追っ払い、攻めに攻めて追い込んでいけば、天王寺の敵は戦うことなしに退却すると考えられる」と言って、

十一月二十六日の明け方に五百余騎を率いて、まず住吉の敵を追い払おうと、石津の民家に火をかけ、瓜生野(大阪市南部)の北から押し寄せました。山名伊豆守はこれを見て、「敵は一方からだけ攻め寄せないだろう。手を分けて防御せよ」と言って、

赤松筑前守範貞に摂津、播磨両国の軍勢を加えた八百余騎で、海岸からの攻撃に当たるため、住吉浜の南に陣を構えました。土岐周済房、明智兵庫助、佐々木四郎左衛門らは、その勢三千余騎にて、阿倍野の東西二ヶ所に陣を構えました。

また搦手の大将、細川陸奥守は手兵以外に四国の軍勢、五千余騎を率いて、わざと本陣を離れずに、新手の軍勢として天王寺に控えました。大手の大将、山名伊豆守と弟の三河守、原四郎太郎、同じく四郎次郎、同じく四郎三郎は千余騎にて、今まさに、

馬けむり(馬が走る時舞い上がる土ぼこり)を上げて進攻してくる敵の先鋒を迎え撃とうと、瓜生野の東に駆け出しました。楠木帯刀は敵の馬けむりを見て、敵は四ヶ所に分れて陣を構えていると考え、さほど多くも無い自軍の勢を、いくつかに分ければかえって良くないと思い、

もともと五手に分けていた二千余騎の兵士を一手に集め、瓜生野に攻撃をかけました。この戦場は東西南北に野原が遠くまで広がり、馬の疲労が激しいと思われるので、両軍ともお互い射手を進めて、閧の声を一声挙げるや、敵味方の六千余騎が一度にサッと敵陣に駆け込み、思い思いに戦いました。

半時(一時間)ばかり斬り合いをし、お互いに勝鬨を挙げると、四、五町ほど退いて両側に別れ、敵味方を見渡してみると、両軍とも過半数ほどは討ち死にし、死者は戦場を埋め尽くしています。また大将、山名伊豆守は切り傷や矢傷など七ヶ所を数え、兵士の後ろに隠れて傷を吸い血をぬぐったりしながら、

少しばかり気の緩みが生じたところに、楠木の軍勢の中から年の程二十歳ばかりの若武者が、和田新発意源秀と名乗り、洗皮の鎧(薄紅色のなめし革で威した鎧)に大太刀と小太刀の二本ざしで、六尺余りの長刀を小脇に挟み、静々と馬を歩ませ歌を歌いながら進み寄ってきました。その次にまた一人現れ、

この男も法師武者(僧形の武者、僧兵)で身の丈七尺もあろうかと思えますが、阿間了願と名乗り、唐綾威(中国伝来の綾織物を細く裁断したもので威した鎧)の鎧に小太刀を帯び、柄の長さ一丈ばかりに見える槍を、馬の平首に添わすように持って、躊躇することなく飛び出してきました。


其勢事がら、尋常の者には非ずと見へながら、跡に続く勢無ければ、あれやと許云て、山名が大勢さしも驚かで控たる中へ、只二騎つと懸入て、前後左右を突て廻に、小手の迦・髄当の余り・手反の直中・内甲、一分もあきたる所をはづさず、矢庭に三十六騎突落して、大将に近付んと目を賦る。三河守是を見て、一騎合ひの勝負は叶はじとや被思けん。「以大勢是を取篭よ。」と、百四五十騎にて横合に被懸たり。楠又是を見て、「和田討すな続けや。」とて、相懸に懸て責戦ふ。太刀の鐔音天に響き、汗馬の足音地を動す。互に御方を恥しめて、「引な進め。」と云声に退兵無りけり。されども大将山名伊豆守已に疵を被り、又入替る御方の勢はなし、可叶共覚へざりければ、歩立になる兵共、伊豆守の馬の口を引向て、後陣の御方と一処にならんと、天王寺を差て引退く。楠弥気に乗て、追懸々々責ける間、山名三川守・原四郎太郎・同四郎次郎、兄弟二騎、犬飼六郎、主従三騎、返合せて討れにけり。二陣に控たる土岐周済房・佐々木六郎左衛門三百余騎にて安部野の南に懸出て、暫し支て戦けるが、目賀田・馬淵の者共、三十八騎一所にて討れにける間、此陣をも被破て共に天王寺へと引しさる。一陣二陣如此なりしかば、浜の手も天王寺の勢も、大河後にあり両陣前に破れぬ。敵に橋を引れなば一人も生て帰る者不可有。先橋を警固せよとて、渡辺を差て引けるが、大勢の靡立たる習にて、一度も更に不返得、行先狭き橋の上を、落とも云はずせき合たり。山名伊豆守は我身深手を負のみならず、馬の三頭を二太刀切られて、馬は弱りぬ、敵は手繁く懸る。今は落延じとや被思けん、橋爪にて已に腹を切らんとせられけるを、河村山城守只一騎返合せて近付敵二騎切て落し、三騎に手を負て、暫し支へたりける間に、安田弾正走寄て、「何なる事にて候ぞ。大将の腹切所にては候はぬ者を。」と云て、己が六尺三寸の太刀を守木に成し、鎧武者を鎧の上に掻負て橋の上を渡るに、守木の太刀にせき落されて、水に溺るゝ者数を不知。播磨国住人小松原刑部左衛門は、主の三河守討れたる事をも不知、天神の松原まで落延たりけるが、三川守の乗給ひたりける馬の平頚、二太刀切れて放れたりけるを見て、「さては三川守殿は討れ給ひけり。落ては誰が為に命を可惜。」とて、只一騎天神の松原より引返し、向ふ敵に矢二筋射懸て、腹掻切て死にけり。其外の兵共、親討れ共子は不知、主討死すれ共郎従是を不助、物具を脱ぎ棄弓を杖に突て、夜中に京へ逃上る。見苦しかりし分野也。

その二人は勢いや様子から普通の者ではないと見えますが、後に続く勢もいないので、山名の大勢は、「何だあいつは」とばかり言って、さほど驚く様子も見えない軍勢の中へ、たった二騎で駆け込むと前後左右を突き回り、小手や脛当ての外れ、兜のてっぺんの真ん中とか、また兜の内側など、

少しでも開いた隙間を逃すことなく攻撃したので、いきなり三十六騎を突き落とし、大将に近づこうと目を四方にやりました。山名三河守はこれを見て、一騎打ちはとても勝ち目がないと思ったのか、「皆でこいつを取り込めてしまえ」と、百四、五十騎で横合いから攻め立てました。

楠木もまたこの様子を見ると、「和田を討たせるな、皆の者続け」と言って、敵軍の真正面に攻め込み戦いました。太刀の鍔が発する音は天に響き渡り、汗にまみれた馬の足音は、地を揺るがすようです。互いに味方を辱めて奮い立たせ、「退くな、進めや、進め」と喚き立てたので、

退却をする兵士は一人としていませんでした。とは言っても、大将の山名伊豆守はすでに傷を負っており、また交代する味方の軍勢もなく、とても抵抗できる状況とも思えないので、徒歩立ちになった兵士らが伊豆守の乗った馬の口を引いて、後方の味方軍と合流しようと天王寺に向かって退却を始めました。

楠木はますます勝ちに乗じて、追いかけ追いかけ責め続けたので、山名三河守や原四郎太郎、同じく四郎次郎の兄弟二騎、犬飼六郎の主従三騎らは、追ってくる敵に向かって引き返し、討ち取られました。控えの軍勢としての、土岐周済坊と佐々木六郎左衛門は、三百余騎の軍勢で阿倍野の南に駆け出し、

しばらくの間は防戦しましたが、目賀田や馬淵の兵士ら三十八騎が一ヶ所で討ち取られ、この陣営も支えきれずに破られ、一緒になって天王寺に向かって退き下がりました。第一陣も二陣もこの有様なので、住吉浜の軍勢も、天王寺に控えていた軍勢も、大河が後ろに控えており、

一、二陣とも破れた今となっては、敵に橋を落とされたら一人も生きては帰ることが出来ない。まず橋を警固しなければと言って、渡辺に向かって退きましたが、大軍の移動にありがちな状況に、一度たりと順調に退くことが出来ず、行き先狭くなっている橋も、落ちることもいとわず、ひしめき合う有様です。

山名伊豆守は自身重傷を負っているだけでなく、馬も三頭(さんず::背の尻近くの高い所)を二太刀切られて弱っています。しかし敵はしつこく攻めかかってくるので、もうこうなっては落ち延びることは出来ないと思ったのか、橋のたもとで今まさに腹を切ろうとしているところに、

河村山城守がただ一人で引き返してくると、近くにいた敵二騎を切り落とし、三騎に傷を負わせしばらく防戦している間に、安田弾正が走り寄ってくると、「一体どうされたのですか、ここは大将が腹を切る所ではございませんのに」と言って、自分の六尺三寸ある太刀を背負い子のようにして、

鎧武者を鎧の上から背負って橋を渡っていくと、背負い子の太刀に妨げられ、川に落ちて溺れる者、その数も分らないほどです。播磨国の豪族、小松原刑部左衛門は主君の三河守が討たれたことを知らずに、天神の松原(天神の森天満宮?)まで落ち延びてきましたが、三河守が乗っていた馬が、

平首を二ヶ所切られてさまよっているのを見て、「と、言うことは、三河守殿は討たれたのだろう。それなら誰のために命を惜しんで落ち延びるのか」と言うと、ただ一騎で天神の松原から引き返し、向かってくる敵に矢を二本射掛け、腹を掻き切って死んだのでした。その他の兵士らは親が討たれようと、

子供は無視し、主君が討ち死にしても、家来らは助けようとせず、甲冑を脱ぎ捨て、弓を杖にして夜中に京へ逃げ上ったのでした。見苦しい出来事の一つでした。      (終り)

←前へ   太平記総目次に戻る