26 太平記 巻第二十六 (その一)


○正行参吉野事
安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。さても今年両度の合戦に、京勢無下に打負て、畿内多く敵の為に犯し奪はる。遠国又蜂起しぬと告ければ、将軍左兵衛督の周章、只熱湯にて手を濯が如し。今は末々の源氏国々の催勢なんどを向ては可叶共不覚とて、執事高武蔵守師直、越後守師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山・東海二十余箇国の勢をぞ被向ける。軍勢の手分事定て、未一日も不過に、越後守師泰は手勢三千余騎を卒して、十二月十四日の早旦に先淀に著く。是を聞て馳加る人々には、武田甲斐守・逸見孫六入道・長井丹後入道・厚東駿河守・宇都宮三川入道・赤松信濃守・小早河備後守、都合其勢二万余騎、淀・羽束使・赤井・大渡の在家に居余て、堂舎仏閣に充満たり。同二十五日武蔵守手勢七千余騎を卒して八幡に著く。此手に馳加る人々には、細川阿波将監清氏・仁木左京大夫頼章・今河五郎入道・武田伊豆守・高刑部大輔・同播磨守・南部遠江守・同次郎左衛門尉・千葉介・宇都宮遠江入道・佐々木佐渡判官入道・同六角判官・同黒田判官・長九郎左衛門尉・松田備前三郎・須々木備中守・宇津木平三・曾我左衛門・多田院御家人、源氏二十三人、外様大名四百三十六人、都合其勢六万余騎、八幡・山崎・真木・葛葉・鹿島・神崎・桜井・水無瀬に充満せり。

☆ 楠木正行が吉野の皇居に参内したこと

阿倍野の合戦は貞和三年(正平二年::1347年)十一月二十六日のことですから、渡辺橋から攻め落とされ、流されている兵士ら五百余人は、思いがけなく命を楠木に助けられて、川から引き上げられたものの、霜月の刺すような冷たい水は皮膚を痛めつけ、明け方の氷が肌に凍りつき、

とても生き永らえるとも見えなかったのですが、楠木正行は情け深い人ですので、小袖を脱がせて替えを渡し、体を暖めさせると共に薬も与えて、傷の手当をさせました。このように四、五日休養させて、馬に乗るものは馬を与え、甲冑を失った人には甲冑を着せて、恩情溢れる取り扱いをして送り返しました。

そのため敵でありながら、その恩義を感ずる人は、今日を境に楠木に心を寄せようと思い、またその恩に報おうと考える人は、すぐに彼の支配下に入り、その後起こった四条畷の合戦に討ち死にを遂げました。ところで今年行われた二度の合戦に、京都勢はなすことなく負けてしまい、

畿内の多くは敵である宮方のために侵犯されました。また遠国においても蜂起する者が出てきたとの報告を受け、尊氏将軍や左兵衛督直義の慌て振りは、まるで熱湯で手を洗うようなものでした。今は源氏の末流の国々に軍勢を要請して向かわせたとしても、とても勝ち目があるとも思えず、

執事の高武蔵守師直と越後守師泰兄弟を大将として、四国、中国、東山、東海の二十余ヶ国の軍勢を向かわせることにしました。軍勢の配置など決定してから、まだ一日も経たないのに、越後守師泰は我が配下の三千余騎を率いて、十二月十四日の早朝、淀に先着しました。

この事態を知って、武田甲斐守、逸見孫六入道、長井丹後入道、厚東駿河守、宇都宮三川入道、赤松信濃守、小早川備後守ら総勢二万余騎が駆けつけて来ました。その軍勢は淀、羽束使、赤井、大渡の民家に溢れ返り、社寺の建物、仏閣に満ち溢れました。

同じく二十五日には武蔵守師直が、手勢の七千余騎を率いて八幡に到着しました。この陣営には、細川阿波将監清氏、仁木左京大夫頼章、今河五郎入道、武田伊豆守、高刑部大輔、同じく播磨守、南部遠江守、同じく次郎左衛門尉、千葉介、宇都宮遠江入道、

佐々木佐渡判官入道、同じく六角判官、同じく黒田判官、長九郎左衛門尉、松田備前三郎、須々木備中守、宇津木平三、曾我左衛門、多田院御家人など源氏二十三人、そして外様大名四百三十六人など総勢六万余騎が駆けつけ、八幡、山崎、真木、葛葉、鹿島、神埼、桜井、水無瀬に溢れました。


京勢如雲霞淀・八幡に著ぬと聞へしかば、楠帯刀正行・舎弟正時一族打連て、十二月二十七日芳野の皇居に参じ、四条中納言隆資を以て申けるは、「父正成■弱の身を以て大敵の威を砕き、先朝の宸襟を休め進せ候し後、天下無程乱て、逆臣西国より責上り候間、危を見て命を致す処、兼て思定候けるかに依て、遂に摂州湊河にして討死仕候了。其時正行十三歳に罷成候しを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し死残候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡し君を御代に即進せよと申置て死て候。然に正行・正時已壮年に及候ぬ。此度我と手を砕き合戦仕候はずは、且は亡父の申しし遺言に違ひ、且は武略の無云甲斐謗りに可落覚候。有待の身思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世仕事候なば、只君の御為には不忠の身と成、父の為には不孝の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸合、身命を尽し合戦仕て、彼等が頭を正行が手に懸て取候歟、正行・正時が首を彼等に被取候か、其二の中に戦の雌雄を可決にて候へば、今生にて今一度君の竜顔を奉拝為に、参内仕て候。」と申しも敢ず、涙を鎧の袖にかけて義心其気色に顕れければ、伝奏未奏せざる先に、まづ直衣の袖をぞぬらされける。主上則南殿の御簾を高く巻せて、玉顔殊に麗く、諸卒を照臨有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮先憤を慰する条、累代の武功返返も神妙也。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし。進退当度反化応機事は、勇士の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也。可退見て退は、為全後也。朕以汝股肱とす。慎で命を可全。」と被仰出ければ、正行首を地に著て、兔角の勅答に不及。只是を最後の参内也と、思定て退出す。正行・正時・和田新発意・舎弟新兵衛・同紀六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監・西河子息・関地良円以下今度の軍に一足も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人、先皇の御廟に参て、今度の軍難義ならば、討死仕べき暇を申て、如意輪堂の壁板に各名字を過去帳に書連て、其奥に、返らじと兼て思へば梓弓なき数にいる名をぞとゞむると一首の哥を書留め、逆修の為と覚敷て、各鬢髪を切て仏殿に投入、其日吉野を打出て、敵陣へとぞ向ける。

雲霞のような京都の大軍が淀、八幡に到着したと知ったので、楠木帯刀正行と舎弟正時は、一族を率いて十二月二十七日に吉野の皇居に参内し、四条中納言隆資を通じて、「父正成は、おう弱(おう::兀の横に王::ひ弱)の身をもって、敵の強大なる軍勢を撃退し、先帝後醍醐殿のお心を和ませられた後、

天下はやがて乱れ出し、逆臣尊氏が西国より攻め上ってきました。危急に際しては命を捧げて戦おうと、かねてから決めていたので、とうとう摂津、湊川において討ち死にを遂げました。その時この正行は十三歳になっていましたが、合戦の場には同行させてもらえず河内に引き返させて、

生き残った一族を養い、朝敵を滅ぼし帝の即位を果たすようにと遺言して亡くなりました。そして今、すでに正行、正時は壮年に達しました。このたび粉骨砕身して合戦をしなければ、一つは亡き父の遺言に反しますし、また武略について無能だと、誹謗を受けるのを恐れます。

人間は思うようにならないのが世の常であり、もし病に冒され早世するようなことがあれば、帝に対しては、ただただ不忠の身になり、父に対しては不孝な子となるので、今回の師直、師泰に合戦を挑み、彼らの首を正行が手にかけて取ることが出来るか、それとも正行、正時の首を彼らに取られるか、

そのどちらかでいくさの雌雄を決することとなるでしょう。そこで今生において今一度竜顔(帝の顔)を拝したく参内いたしました」と申し上げる間もなく、涙が鎧の袖を濡らして、忠義の誠がその表情態度に表れたので、四条中納言は取次ぎをする前に直衣(のうし::公卿の平常服)の袖を濡らされたのでした。

後村上天皇はすぐ南殿の御簾を高く巻き上げさせ、特別麗しいお顔で諸臣下をご覧になると、正行を近くに呼び寄せ、「前回の二度にわたる合戦に勝利を収め、敵軍の意気を消沈させた。これによって朕の義憤は大いに癒され、代々にわたる武功はこの上なく殊勝である。

大敵は今回全力を挙げて向かってくると思われるので、この度の合戦は天下の形勢を決することになろう。時に応じて進退を選び、機に応じて変化をするのが、勇者の心掛けであれば、今回の合戦はあえて手を下すことは無いとは言えども、進むべき時を知って進むのは、好機を失わんためであり、

退くべき時期を見て退くのは、今後において事態を完遂するためである。朕は汝のことを最も信頼できる臣下と思っている。慎重に行動し命を全うされたい」と仰せられると、正行は頭を地面につけ、何もお答えすることが出来ませんでした。ただこれが最後の参内だと心に決めて退出したのです。

正行、正時、和田新発意、舎弟の新兵衛、同じく紀六左衛門の子息二人、野田四郎の子息二人、楠木将監、西河の子息、関地良円以下、今回の合戦においては一歩も退くことなく、一ヶ所で討ち死にを遂げようと約束した兵士ら百四十三人は、先帝後醍醐の御廟に参り、今度の合戦が苦戦に陥れば、

討ち死にを覚悟していますので、お暇を頂きますと申し上げ、如意輪堂(如意輪寺の本堂)の壁板に各自が苗字を過去帳代わりに書き連ね、その最後に、
      返らじと 兼て思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる

と一首の歌を書きとめ、死後の冥福を願うためと思い、各自頭髪を切ると仏殿に投入れ、その日に吉野を出発し敵陣に向かいました。


○四条縄手合戦事付上山討死事
師直・師泰は、淀・八幡に越年して、猶諸国の勢を待調て、河内へは可向と議しけるが、楠已に逆か寄にせん為に、吉野へ参て暇申し、今日河内の往生院に著ぬと聞へければ、師泰先正月二日淀を立て二万余騎和泉の堺の浦に陣を取る。師直も翌日三日の朝八幡を立て六万余騎四条に著く。此侭軈て相近付べけれ共、楠定て難所を前に当てぞ相待らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲の陣をなして、陰に設け陽に備ふ。白旗一揆の衆には、県下野守を旗頭として、其勢五千余騎飯盛山に打上て、南の尾崎に扣たり。大旗一揆の衆には、河津・高橋二人を旗頭として、其勢三千余騎、秋篠や外山の峯に打上て、東の尾崎に控へたり。武田伊豆守は千余騎にて、四条縄手の田中に、馬の懸場を前に残して控へたり。佐々木佐渡判官入道は、二千余騎にて、伊駒の南の山に打上り、面に畳楯五百帖突並べ、足軽の射手八百人馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹射させて猶予する処あらば、真倒に懸落さんと、後ろに馬勢控へたり。大将武蔵守師直は、二十余町引殿て、将軍の御旗下に輪違の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万余騎、馬回に徒立の射手五百人、四方十余町を相支て、如稲麻の打囲ふだり。手分の一揆互に勇争て陣の張様密しければ、項羽が山を抜く力、魯陽が日を返す勢有共、此堅陣に懸入て可戦とは見へざりけり。去程に正月五日の早旦に、先四条中納言隆資卿大将として、和泉・紀伊国の野伏二万余人引具して、色々の旗を手に差上、飯盛山にぞ向ひ合ふ。是は大旗・小旗両一揆を麓へをろさで、楠を四条縄手へ寄させん為の謀也。如案大旗・小旗の両一揆是を忻り勢とは不知、是ぞ寄手なるらんと心得て、射手を分て旗を進めて坂中までをり下て、嶮岨に待て戦んと見繕ふ処に、楠帯刀正行・舎弟正時・和田新兵衛高家・舎弟新発意賢秀、究竟の兵三千余騎を卒して、霞隠れより驀直に四条縄手へ押寄せ、先斥候の敵を懸散さば、大将師直に寄合て、勝負を決せざらんと、少も擬議せず進だり。県下野守は白旗一揆の旗頭にて、遥の峯に控たりけるが、菊水の旗只一流、無是非武蔵守の陣へ懸入んとするを見て、北の岡より馳下馬よりひた/\と飛下て、只今敵のましぐらに懸入んとする道の末を一文字に遮て、東西に颯と立渡り、徒立に成てぞ待懸たる。

☆ 四条畷の合戦のことと、上山が討ち死にしたこと

さて高師直、師泰は淀、八幡で年を越し、尚も諸国の軍勢の到着を待ち、軍を再編成してから河内に向かおうと決めていましたが、反対に楠木側が攻め寄せようと考えて、吉野に参内し帝に別れを告げて、今日河内の往生院に着いたと報告を受けたので、師泰はまず貞和四年(正平三年::1348年)正月二日に淀を出発し、

二万余騎で和泉国、堺の浜辺に陣を構えました。師直も翌日三日の朝、八幡を出発し六万余騎が四条畷に到着しました。このまますぐ攻撃のため近づこうとも思うが、楠木はきっと攻撃困難な地形を前にして待ち構えているに違いない。そこで寄せるのは得策ではないが、敵が寄せてくるのは都合が良いと、

全軍を五ヶ所に分け鳥雲の陣(鳥や雲の集散が変化するように、自在に展開、集合できるような陣立)に構えて、万全の陣立てを築きました。白旗一揆(武蔵国と上野国の土豪集団)の軍勢は県下野守を長として、五千余騎の軍勢を飯盛山に上らせ、南側のなだらかな山裾の先端部に控えさせました。

大旗一揆(高師直が築いた土豪連合の一つ)の軍勢は、河津、高橋の二人を長にして、その勢三千余騎を秋篠や外山の峯に上らせ、東側の山裾に陣取らせました。武田伊豆守は千余騎を率いて、四条畷の水田に馬の駆け合せが出来る場所を前にして展開しました。

また佐々木佐渡判官入道は、二千余騎を率いて生駒の南方の山に上り、正面に板塀のように並べた楯五百帖を立て、足軽の射手八百人を馬から下ろして、下から上ってくる敵がいれば、馬の太腹を射させ、進攻に躊躇する様子が見えれば、真っ逆さまに蹴落とそうと、後方に騎馬勢を控えさせました。

そして大将の高武蔵守師直は二十余町引き下がり、将軍の旗の下に高家の輪違の旗を立て、前後左右を騎馬の兵士、二万余騎と、馬回りには徒歩立ちの射手五百人らが四方の十余町を警固して、稲や麻が群生するかのように取り囲みました。手分けして配置された二つの土豪連合(白旗一揆、大旗一揆)は、

互いに競い合って厳しく陣を構えているので、たとえ山を動かすほどの項羽の軍勢であっても、また戦いの最中に太陽を呼び戻したと言う、楚国の魯陽が率いる軍勢であっても、この堅陣に駆け込んで戦いを行うことは出来るとも思えません。そして正行軍は正月五日の早朝、

まず四条中納言隆資卿を大将として、和泉と紀伊国の野伏二万余人を引き連れて、種々の旗を手に手に差し上げ、飯盛山に集合すべく向かいました。これは大旗、小旗の両連合を麓に下ろさせずに、楠木の軍勢を四条畷に寄せるための謀略です。

案の定、大旗、小旗の両軍勢はこれを見せ掛けの軍勢とは思わず、寄せ手の本軍に違いないと考え、射手を分散配置し旗を進め、坂の半ばまで下りてくると、険しい地形で待ち構えようと考えているところに、楠木帯刀正行、弟の正時、和田新兵衛高家、舎弟の新発意賢秀らが屈強の兵士三千余騎を率いて、

まっしぐらに四条畷に押し寄せてきました。正行軍はまず状況を探るため派遣されていた敵の斥候を駆け散らし、大将の師直の本陣に寄せ、勝負を決しようと躊躇することなく進攻しました。幕府軍の県下野守は白旗一揆の主将であり、遥か遠方の山に控えていましたが、

菊水の旗のただ一旒だけが、まっしぐらに武蔵守師直の陣営に駆け込もうとしているのを見て、北の丘より駆け下りるやパッと馬から飛び降り、今まさに敵が駆け込もうとしている道の先を遮断しようとサッと東西に広がり、徒歩立ちになって待ち構えました。


勇気尤盛なる楠が勢、僅に徒立なる敵を見て、何故か些もやすらふべき。三手に分たる前陣の勢五百余騎、閑々と打て蒐る。京勢の中秋山弥次郎・大草三郎左衛門二人、真前に進て射落さる。居野七郎是を見て、敵に気を付じと、秋山が臥たる上をつと飛越て、「爰をあそばせ。」と射向の袖を敲て、小跳して進だり。敵東西より差合せて雨の降様に射る矢に、是も内甲草摺のはづれ二所箆深に被射、太刀を倒につき、其矢を抜んとすくみて立たる所を、和田新発意つと蒐寄て、甲の鉢をしたゝかにうつ。打れて犬居に倒れければ、和田が中間走寄て、頚掻切て差上たり。是を軍の始として、楠が騎馬の兵五百余騎と、県が徒立の兵三百余人と、喚き叫で相戦ふに、田野ひらけ平にして馬の懸引自在なれば、徒立の兵汗馬に被懸悩、白旗一揆の兵三百余騎太略討れにければ、県下野守も深手五所まで被て叶はじとや思けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。二番に戦屈したる楠が勢を弊に乗て討んとて、武田伊豆守七百余騎にて進だり。楠が二陣の勢千余騎にて蒐合ひ二手に颯と分て、一人も余さじと取篭る。汗馬東西に馳違、追つ返つ旌旗南北に開分れて、巻つ巻られつ互に命を惜まで、七八度まで揉合たるに、武田が七百余騎残少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵を被て、朱に成てぞ控たる。小旗一揆の衆は、始より四条中納言隆資卿の偽て控たる見せ勢に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒によそに直下て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲て麓に扣たるを見て、小旗一揆の中より、長崎彦九郎資宗・松田左近将監重明・舎弟七郎五郎・子息太郎三郎・須々木備中守高行・松田小次郎・河勾左京進入道・高橋新左衛門尉・青砥左衛門尉・有元新左衛門・広戸弾正左衛門・舎弟八郎次郎・其弟太郎次郎以下勝れたる兵四十八騎、小松原より懸下りて、山を後に当て敵を麓に直下して、懸合々々戦ふに、楠が二陣千余騎僅の敵に被遮、進かねてぞ見へたりける。佐佐木佐渡判官入道道誉は、楠が軍の疲足、推量るに自余の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守の旗を見てぞ蒐らんずらん。去程ならば少し遣過して、迹を塞で討んと議して、其勢三千余騎を卒して、飯盛山の南なる峯に打上て、旗打立控たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋の戦ひに、馬疲れ気屈して、少し猶予したる処を見澄して、三千余騎を三手に分て、同時に時をどつと作て蒐下す。

戦意旺盛な楠木勢は、僅かな人数の徒歩立ちの敵を見て、何ら躊躇することなく攻め込みました。三手に分かれ先頭を行く五百余騎は、喚き散らすこともなく攻撃にかかりました。京都勢の中から秋山弥次郎と大草三郎左衛門の二人が、まん前に進み出たものの射落とされました。

居野七郎はこれを見て敵が調子づかないようにと、秋山が倒れている上を飛び越えて、「ここを狙ったらいかが」と射向の袖(鎧の胴から左右に垂らした内、左側の袖)を叩きながら、小躍りするようにして前線に出てきました。しかし、東西両方向から雨のように射込まれてくる敵の矢に、

内兜と草摺りのはずれ二ヶ所を、矢竹に届くほど深く射られ、太刀を逆さまについて矢を抜こうと、じっと立っているところを和田新発意がサッと駆け寄り、兜の鉢を思い切り叩きつけました。たまらず四つんばいになって倒れたところを、和田の家来が走り寄り、首を切るとその首を差し上げました。

この騒ぎが軍の始まりとなり、楠木の騎馬兵五百余騎と、県の歩兵三百余人が喚きあっての戦いとなりました。戦場は広々とした平原であり、馬の進退に何ら問題がないので、歩兵は激しく動き回る馬に悩まされ、白旗一揆の兵士ら、三百余騎はほとんど討ち取られ、

県下野守も五ヶ所に重傷を負っては、とても勝ち目がないと思ったのか、生き残っている兵士と共に、師直の陣営に引き下がりました。二番手として戦い疲れた楠木の軍勢を、疲労に乗じて討ち取ろうと、武田伊豆守が七百余騎にて攻め込みました。

楠木の二番手に控えていた千余騎の軍勢がこれに応戦し、サッと二手に分れると一人も残すなと取り囲みました。汗にまみれた馬は東西に駆け回り、追っては引き返し、旗は南に北にと、巻いたり巻かれたりしながら動き回り、お互い命を惜しむことなく七、八度まで渡り合ているうち、

武田の七百余騎は残り少なくなるまで討たれてしまい、楠木の二番手の軍勢も大半が傷を負い、血潮にまみれて待機しています。小旗一揆の兵士らは初めから、四条中納言隆資卿の見せ掛けの軍勢に騙されて飯盛山に上り、本命の合戦をただ見下ろしているばかりでしたが、

楠木の第二陣の軍勢が、戦い疲れて麓に集まっているのを見て、小旗一揆の中から、長崎彦九郎資宗、松田左近将監重明、その弟七郎五郎、その子息太郎三郎、須々木備中守高行、松田小次郎、河匂左京進入道、高橋新左衛門尉、青砥左衛門尉、有元新左衛門、

広戸弾正左衛門、舎弟の八郎次郎、その弟太郎次郎以下、精鋭の兵士四十八騎が、小松原より駆け下り山を後ろにし、敵軍を麓に見下ろして駆け込み駆け入って戦いましたので、楠木の千余騎の第二陣勢は僅かな敵に遮られ、進軍は思うようにいかないように見えました。

佐々木佐渡判官入道導誉は楠木の軍勢が疲労しきっていることから想像するに、余計な軍勢には相手にならず、大将武蔵守の旗だけを探して攻め込むに違いないだろう。それならば、ここは少し見過ごして、後方を遮断して討ち取ってやろうと決め、支配下の三千余騎の軍勢を率いて、

飯盛山の南の峯に上り、旗をひるがえして待機しました。そこに楠木第二陣の軍勢が二度にわたる数時間の戦闘に馬は疲れ果て、兵士らも緊張が薄れ、少しばかり戦意も喪失しそうになっているのを見透かすように、三千余騎を三手に分けて、同時に閧の声を挙げると駆け下りました。


楠が二陣の勢暫支て戦けるが、敵は大勢也。御方は疲れたり。馬強なる荒手に懸立られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣既に破れて、残止る前陣の勢、僅に三百余騎にも足じと見へたれば、怺じと見る処に、楠帯刀・和田新発意、未討れずして此中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署の兵百四十三人、一所に犇々と打寄て、少しも後陣の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹にぞ控て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守が兵は、御方軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進で是を打取んとて、先一番に細川阿波将監清氏、五百余騎にて相当。楠が三百騎の勢、些も不滞相蒐りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十余騎討れて北をさして引退く。二番に仁木左京大夫頼章、七百余騎にて入替て責るに、又楠が三百余騎、轡を双て真中に懸入り、火を散して戦ふに、左京大夫頼章、四角八方へ懸立られて一所へ又も打寄らず。三番に千葉介・宇都宮遠江入道・同参河入道両勢合て五百余騎、東西より相近て、手崎をまくりて中を破とするに、楠敢て破られず。敵虎韜に連て囲めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗に結て蒐れば竜鱗に進で戦ふ。三度合て三度分れたるに、千葉・宇都宮が兵若干討れて引返す。此時和田・楠が勢百余騎討れて、馬に矢の三筋四筋射立られぬは無りければ、馬を蹈放て徒立に成て、とある田の畔に後を差宛て、箙に差たる竹葉取出して心閑に兵粮仕ひ、機を助てぞ並居たる。是程に思切たる敵を取篭て討んとせば、御方の兵若干亡ぬべし。只後ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻体をば見せざりけり。されば楠縦小勢也とも、落ば落べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚を取て返り参ぜずは、正行が首を六条河原に曝されぬと被思食候へと、吉野殿にて奏し申たりしかば、其言をや恥たりけん、又運命爰にや尽けん、和田も楠も諸共に、一足も後へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼り、閑に歩近付たり。是を見て細川讃岐守頼春・今河五郎入道・高刑部大輔・高播磨守・南遠江守・同次郎左衛門尉・佐々木六角判官・同黒田判官・土岐周済房・同明智三郎・荻野尾張守朝忠・長九郎左衛門・松田備前次郎・宇津木平三・曾我左衛門・多田院の御家人を始として、武蔵守の前後左右に控たる究竟の兵共七千余騎、我先に打取らんと、喚き呼で蒐出たり。

楠木第二陣の軍勢はしばらく持ちこたえて戦いましたが、敵は大軍であり、味方は疲れきっています。馬術にすぐれた新手に駆け散らされてはたまらないと思ったのか、大半は討たれてしまったものの、残っている軍勢は南に向かって退却しました。元々小勢な楠木勢であり、

後方の軍勢はすでに撃破され、残る前陣の兵士も僅か三百余騎にも不足すると思われ、とても抵抗できないと思われたのですが、楠木帯刀と和田新発意が未だ討たれることなく陣中に残っており、今日の合戦に討ち死にを覚悟して、板壁の過去帳に名を連ねた兵士、百四十三人は一ヶ所に寄せ集まり、

後陣が撃破されたことなど何も気にする風でなく、ただ敵の大将師直は後方に控えているだろうと、それだけを目当てに進んで行きました。武蔵守師直の兵は味方がこの戦闘に勝った上、敵は小勢にすぎないので、この好機を逃さず敵を討ち取ってやろうと勇み立ち、

まず最初に細川阿波将監清氏が五百余騎で攻撃しました。楠木の三百騎の勢は少しもひるむことなく迎え撃ち、わき目も振らずに戦かい続けたので、細川の兵士ら五十余騎が討たれ、北に向かって退却しました。二番手として仁木左京大夫頼章が七百余騎を率いて入れ替わって攻めましたが、

また楠木の三百余騎が馬を並べて敵のまん中に駈け入り、火を散らして戦ったので、左京大夫頼章は四方八方に追い詰められて、一ヶ所でさえ反撃が出来ませんでした。三番手には千葉介、宇都宮遠江入道、同じく三河入道の合わせて五百余騎が東西より近づき、

先頭の敵兵を追い立てて、中央を突破しようと試みましたが、楠木勢は全く許しません。敵が虎韜(ことう::中国の兵法書六韜の一巻)に従って連なり囲もうとすれば、虎韜によって分散して敵対し、竜鱗(兵法の一つ?)に構えて攻撃してくれば、こちらも竜鱗に構えて反撃します。

三回にわたって戦い、その都度分かれましたが、千葉、宇都宮の兵士らは多数が討たれて退き返しました。この戦闘で和田、楠木の軍勢百余騎が討たれ、矢の三、四本が射られていない馬などいないので、馬は諦め徒歩立ちになり、とある田んぼのあぜ道を背にして、箙に入れた弁当を取り出し、

心しずかに兵糧を使い、英気を養って居並んでいました。これほどに覚悟を決めた敵を取り囲み討ち取ろうとすれば、味方の兵士も多数が討たれることになるだろう。ここは後方を開いて、落ちる者は落とすが良いと、数万騎の兵士ら全員を一ヶ所に集め、取り囲む態勢は取りませんでした。

こうなれば、楠木の軍勢はたとえ少数であっても、落ちようと思えば落ちることは出来たのですが、初めから今回の合戦では師直の首を取って吉野に参内するのか、でなければ正行の首を六条河原に曝すことになるとお考えくださいと、吉野において帝に申し上げていますので、

その言葉に恥じることになるからか、それとも運命がここに尽きようとしているのか、和田も楠木も一緒になって一歩たりと下がることなどなく、「ただただ師直に近づき勝負を決めよう」と声々に叫び合いながら、徐々に近づいていきました。これを見て細川讃岐守頼春、今川五郎入道、

高刑部大輔、高播磨守、南遠江守、同じく次郎左衛門尉、佐々木六角判官、同じく黒田判官、土岐周斉房、同じく明智三郎、荻野尾張守朝忠、長九郎左衛門、松田備前次郎、宇津木平三、曾我左衛門、多田院の御家人らをはじめとして、

武蔵守の前後左右に控えていた屈強の精兵ら七千余騎が、我先に討ち取ってやろうと、喚き叫びながら駆け出しました。


楠是に些も不臆して、暫息継んと思ふ時は、一度に颯と並居て鎧の袖をゆり合せ、思様に射させて、敵近付ば同時にはつと立あがり、鋒を双て跳り蒐る。一番に懸寄せける南次郎左衛門尉、馬の諸膝薙れて落る処に、起しも立ず討にけり。二番に劣らじと蒐入ける松田次郎左衛門、和田新発意に寄合て、敵を切んと差うつぶく処を、和田新発意長刀の柄を取延て、松田が甲の鉢をはたとうつ。打れて錣を傾る処に、内甲を突れて、馬より倒に落て討れにけり。此外目の前に切て落さるゝ者五十余人、小腕打落されて朱になる者二百余騎、追立々々責られて、叶はじとや思ひけん、七千余騎の兵共、開靡て引けるが、淀・八幡をも馳過て、京まで逃るも多かりけり。此時若武蔵守一足も退く程ならば、逃る大勢に引立られて洛中までも追著れぬと見へけるを、少も漂ふ気色無して、大音声を揚て、「蓬し返せ、敵は小勢ぞ師直爰にあり。見捨て京へ逃たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼をして、四方を下知せられけるにこそ、恥ある兵は引留りて師直の前後に控けれ。斯る処に土岐周済房の手の者共は、皆打散され、我身も膝口切れて血にまじり、武蔵守の前を引て、すげなう通りけるを、師直吃と見て、「日来の荒言にも不似、まさなうも見へ候者哉。」と言を懸られて、「何か見苦候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中へ蒐入て、終に討死してけり。是を見て雑賀次郎も蒐入り打死す。已楠と武蔵守と、あはひ僅に半町計を隔たれば、すはや楠が多年の本望爰に遂ぬと見たる処に、上山六郎左衛門、師直の前に馳塞り、大音声を挙て申けるは、「八幡殿より以来、源家累代の執権として、武功天下に顕れたる高武蔵守師直是に有。」と名乗て、討死しける其間に、師直遥に隔て、楠本意を遂ざりけり。抑多勢の中に、上山一人師直が命に代て、討死しける所存何事ぞと尋れば、只一言の情を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此陣へ可寄とは不思寄、上山閑に物語せんとて、執事の陣へ行ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄たりと打立ける間、上山我屋に帰り物具せん逗留無りければ、師直がきせながの料に、同毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走寄て、唐櫃の緒を引切て鎧を取て肩に打懸けるを、武蔵守が若党、鎧の袖を控て、「是は何なる御事候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止んと引合ける時、師直是を聞て馬より飛で下り、若党をはたと睨で、「無云甲斐者の振舞哉。只今師直が命に代らん人々に、縦千両万両の鎧也共何か惜かるべきぞ。こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉。」と還て上山を被感ければ、上山誠にうれしき気色にて、此詞の情を思入たる其心地、いはねども色に現れたり。されば事の儀を不知して鎧を惜みつる若党は、軍の難義なるを見て先一番に落けれ共、情を感ずる上山は、師直が其命に代て討死しけるぞ哀なる。

これに対して楠木は全くひるむことなく、しばらく息を継ごうと思えば、サッと皆が一度に並んで鎧の袖を揺り合わせ(防御力を高めるため鎧の隙間をなくす動作)、敵に思うように射させ、敵が近づいてくれば、皆一斉にパッと立ち上がり、切っ先を揃えて飛びかかりました。

一番に駆け寄せてきた南次郎左衛門尉は、馬の両膝を横に切られて落馬し、立ち上がることも出来ずに討たれたのです。負けじと二番手に駆け込んできた、松田次郎左衛門は和田新発意に近づき、敵を切ろうとうつむいた瞬間、和田新発意は長刀の柄を伸ばして、

松田の兜の鉢を思い切り打ちつけました。打たれた松田が錣を傾けたところを、今度は内兜を突かれ、馬から真っ逆さまに落ちて討たれました。このほか目の前で切り落とされた者は五十余人にのぼり、肘より先を切り落とされ、血まみれになった者は二百余騎を数え、追ったて追ったてられては攻められ、

とてもかなわないと思ったのか、七千余騎の兵士らは互いに引きずられるように退却し、淀や八幡も駆け抜け、京まで逃げた者も多数いました。この時、もし武蔵守が一歩でも退却したなら、逃げ惑う大軍に引きずられ、洛中までも追われることになったと思われますが、

この時彼は少しも動揺することなく大音声を揚げ、「卑怯だぞ、返せや返せ。敵は小勢ぞ、師直はここにいるぞ。見捨てて京に逃げようとする者は、どんな顔をして将軍にお目にかかるつもりだ。運命は天にある。名を惜しもうとは思わないのか」と目を怒らせ、歯軋りをして四方に向かって命じたので、

恥を思う兵士らは踏み留まり、師直の前後に控えました。そんな時、土岐周斉房の家来らは全員追い散らされ、我が身も膝頭を切られ血まみれになって、武蔵守の前をそ知らぬ振りして通り過ぎるのを、師直はキッと睨みつけ、「日頃の広言に似合わず見苦しいじゃないか」と声を掛けられ、

「どこが見苦しいと言うのか。だったら討ち死にして見せようか」と言って再び馬を返し、敵の真っ只中に駆け込んで、とうとう討ち死にしたのです。これを見ていた雑賀次郎も同じく駆け入って討ち死にしました。今やすでに楠木と武蔵守師直の距離は僅か半町(約55メートル)ばかりになっており、

これはもしかすると楠木の長年の本望が、ここに果たせるのではと見えたのですが、そこに上山六郎左衛門が、師直の前に駆けつけ遮ると大音声を揚げ、「八幡殿以来、源家累代の執権として、武功天下に知れ渡った高武蔵守師直はここにいるぞ」と名乗って、

討ち死にを遂げるその間に師直は遥か遠くまで逃げ延び、楠木は本望を遂げることが出来ませんでした。ところで師直には大勢の家来がいるはずなのに、上山一人だけが師直の身代わりとなって、討ち死にしたのは何故か調べてみると、師直のただ一言に意気を感じて、

師直のためなら一命は惜しまないことにした、と聞いています。今この状況の中、楠木の軍勢が武蔵守の陣営に寄せてくるとは思いもよらず、上山はしずかに武蔵守と話などしようと、執事の陣営に来ていたところ、周辺一帯が大騒ぎになり、敵が寄せてきたと迎撃に向かいました。

上山は我が陣に帰って甲冑を着ける時間もないので、師直の着背長(甲冑の美称。特に大将の着る物をいう)の保管庫に、同じ毛で威した鎧が二両置いてあるのを見つけ、上山は走り寄ると唐櫃の紐を引きちぎって鎧を取り出し、肩にかけたのを、武蔵守の若い家来が鎧の袖を押さえて、

「何をされるのですか。これは執事の御着背長です、何らのご説明もしないで」と言って、奪い取ろうと引っ張り合いになった時、師直がこの騒ぎを聞き、馬から飛び降り若武者をキッと睨みつけ、「訳の分らないことをするのではない。この危機に師直の身代わりになろうと言う人達に、

たとえ千両万両の鎧であっても、惜しむことなどするはずがない。下がっておれ」と、制止して、「素晴らしい着こなしであるぞ」と、却って上山に感心したので、上山は非常に嬉しく思い、武蔵守の言葉に感激したことは、口には出さずともその表情に表れていました。このような事情を十分に理解できず、

鎧を惜しんだ若武者は、この戦闘が不利な展開になったのを見て、一番に落ちて行ったのに、武蔵守の心情に感じ入った上山が、師直の身代わりとなって討ち死にしたことは、感心はすれども可哀そうな話です。


加様の事異国にも其例あり。秦穆公と申す人、六国の諸侯と戦けるに、穆公軍破て他国へ落給ふ。敵の追事甚急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹にさがりたる乗替の馬を待給ふ処に、穆公の舎人共馬をば引て不来して、疲たる兵共二十余人、皆高手小手に縛りて、軍門の前に引居たり。穆公自ら事の由を問ふに、舎人答て申様、「召し替への御馬を引進り候処に、戦に疲れ飢たる兵共二十余人、此御馬を殺して皆食て候間、死罪に行ひ候はんが為に生虜て参て候。」とぞ申ける。穆公さしも忿れる気色なく、「死せる者は二度生べからず。縦二度生る共、獣の卑きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢て馬を食せる人は必病む事有。」とて其兵共に酒を飲せ薬を与へて医療を加られける上は、敢て罪科に不及。其後穆公軍に打負て、大敵に囚はれ已討れんとし給し時、馬を殺して食たりし兵共二十余人、穆公の命に代り戦ける程に、大敵皆散じて穆公死を逃れ給ひにけり。されば古も今も大将たらん人は、皆罰をば軽く行ひ宥め賞をば厚く与へしむ。若昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申べき。

このような話は異国の中国でもあります。秦国の穆公と言う人が、六国(春秋戦国時代の六つの国。斉、楚、燕、韓、魏、趙)の諸侯と戦争をした時、穆公の軍隊は負けを喫し他国に落ちて行きました。敵国の追撃は非常に厳しくて、乗っていた馬も疲労が激しく、後からついてくる乗換えの馬を待っていると、

穆公の家来たちは馬を牽いて来ずに、疲労困憊の兵士ら二十余人を、全員厳重に縛り上げて陣営の前に並ばせました。穆公が自ら事情を問いただすと、家来は、「乗り換えの御馬を牽いていたところ、戦闘に疲れ飢えた兵士ら二十余人が、私の牽いていた御馬を殺して全て食べてしまいました。

そこで死罪に問うため、生け捕りにして連れてきました」と、答えました。穆公は特に怒る様子もなく、「死んだ者は二度と生きられない。たとえ二度生きたとしても、卑しい獣を食したからといって、人間の貴さを失うことはない。飢えに負けて馬を食べた者は、必ず病気になると聞いている」と言って、

その兵士らに酒を飲ませ、また薬を与えて治療を加え、特に罪には問いませんでした。その後、穆公は戦争に負け大敵に捕らわれて、もはや討たれようとした時、馬を殺して食べた例の兵士ら二十余人が、穆公の身代わりとなって戦ったところ、大敵は全員散りじりになり、

穆公は死を逃れられたのです。と言うことで、昔も今も、大将たるべき人は皆、罰は軽く行って許し、褒賞は厚く与えるものです。もし昔、穆公が馬を惜しんでいたら、大敵の包囲を逃れられたでしょうか。そして今、師直が鎧を与えていなければ、

果たして上山は身代わりになったでしょうか。情は人の為ならず、とはこのようなことを言うのでしょう。


楠、上山を討て其頭を見るに、太清げなる男也。鎧を見るに輪違を金物に掘透したり。「さては無子細武蔵守を討てげり。多年の本意今日已達しぬ。是を見よや人々。」とて、此頚を中に投上ては請取、請取ては手玉についてぞ悦ける。楠が弟次郎走寄て、「何にやあたら首の損じ候に、先旗の蝉本に著て敵御方の者共に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒に指貫差上て是を見るに、「師直には非ず、上山六郎左衛門が首也。」と申ければ、大に腹立して、此頭を投て、「上山六郎左衛門とみるはひが目か、汝は日本一の剛の者哉。我君の御為に無双の朝敵也。乍去余に剛にみへつるがやさしさに、自余の頭共には混ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹で岸の上にぞ指置たる。鼻田弥次郎膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未討れざりけり。安からぬ者哉。師直何くにか有らん。」と云声を力にして、内甲にからみたる鬢の髪を押のけ、血眼に成て遥に北の方を見るに、輪違の旗一流打立て、清げなる老武者を大将として七八十騎が程控へたり。「何様師直と覚る。いざ蒐らん。」と云処に、和田新兵衛鎧の袖を引へて、「暫思様あり。余に勇み懸て大事の敵を打漏すな。敵は馬武者也。我等は徒立也。追ば敵定て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等怺へで引退く真似をせば、此敵、気に乗て追蒐つと覚るぞ。敵を近々と引寄て、其中に是ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝薙で切居へ、落る処にて細頚打落し、討死せんと思ふは如何に。」と云ければ、被打残たる五十余人の兵共、「此義可然。」と一同して、楯を後に引かづき、引退く体をぞみせたりける。師直思慮深き大将にて、敵の忻て引処を推して、些も馬を動かさず。高播磨守西なる田中に三百余騎にて控たるが、是を見て引敵ぞと心得て、一人も余さじと追蒐たり。元来剛なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒の鎧の総角、甲の錣二つ三つ打あたる程近付て、一同に咄と喚て、礒打波の岩に当て返るが如取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高播磨守が兵共、可引帰程の隙もなければ、矢庭に討るゝ者五十余人、散々に切立られて、馬をかけ開て逃けるが、本陣をも馳過て、二十余町ぞ引たりける。

さて楠木は上山を討ち取ってその首を見ると、肥った立派な男のようです。鎧を見ると輪違の紋が、鎧の金物に透かし彫りになっています。「と言うことは、間違いなく武蔵守を討ち取ったのだ。長年の宿願が今日果たせたようだ。皆の者、これを見よや」と言って、

その首を空中に投げ上げては受け取り、受け取っては手玉について喜びました。楠木の弟、次郎正時が走り寄って来て、「ちょっとお待ち下さい。そんなことをしたら大事な首に傷がつきます。まず旗の蝉本(せみもと::旗竿の上部)に取り付け、敵や味方の者どもに見せてやろう」と言って、

太刀の切っ先に首を刺し貫いて差し上げこれを見て、「師直の首ではない、上山六郎左衛門の首だ」と言ったので、正行は大いに腹が立ち、この首を投げつけ、「上山六郎左衛門と言うことは見間違えたのか。汝は日本一の勇者に違いないが、

我が君、後村上天皇にとって二人といない朝敵である。しかし、あまりにも勇猛にしてけな気な振る舞いに、他の首とは一緒には扱わないぞ」と言って、着ていた小袖の片袖を引きちぎり、この首を包むと岸の上に置きました。鼻田弥次郎は膝頭を射られて、

身動きできずに立っていましたが、「すると師直は未だ討たれてはいないのだ。油断できない男だ、師直は何処にいるのか」と言う声に力を得て、内兜に絡んだ髪の毛を押しのけ、血眼で遥か北の方角を見ると、輪違の紋が付いた旗一旒を立てて、卑しからぬ老武者を大将として、

まわりに七、八十騎ばかりが控えています。「間違いなく師直と思う。さぁ、懸かっていくぞ」と言うと、和田新兵衛が鎧の袖を引っ張り、「お待ち下さい、少し考えがあります。あまりに勇んで攻撃し、大事な敵を討ち漏らしてはなりません。敵は馬に乗った武者であり、我らは徒歩立ちです。

追えば敵は必ず退却するであろうし、そうなれば一体どうして敵を討ち取るのですか。今の状況をよくよく検討すれば、我らが謀りを用いて退却する振りを見せると、この敵どもは調子に乗って追いかけてくると思います。敵が間近になるまで引き寄せ、その中に師直に間違いないと言う敵を見つけ、

馬の両膝を切り払い、落ちたところで細首を切り落とし、討ち死にしようと思いますがどうでしょうか」と言うと、討たれずに残っていた五十余人の兵士らは、「それは良い考えだ」と一同賛成し、楯を背にして退却するそぶりを見せました。しかし師直は思慮深い大将ですから、

敵が偽計を用いて退却するのではと推察し、少しも馬を動かしませんでした。高播磨守は西方にある田の中で、三百余騎を率いて控えていましたが、この動きを見て敵が退却を始めたと思い、一人も残すなと追い掛けました。もともとが勇猛な和田や楠木の兵士なので、

敵の太刀の切っ先が鎧の総角(あげまき::鎧の背にある飾り紐)や、兜の錣に二つ三つ当るくらいに近づけると、全員がドッと喚き声を挙げ、磯に打ち付ける波が引き返すように反転し、火が出るほど激しく戦いました。高播磨守の兵士らは引き返す暇もなく、たちまち五十余人が討たれて、

散々に斬り込まれ、馬を駆けに駆けさせて逃げたので、本陣をも通り過ぎて二十余町も退却したのでした。


○楠正行最期事
去程に師直と楠とが間、一町許に成にけり。是ぞ願ふ処の敵よと見澄して、魯陽二度白骨を連て韓構に戦ける心も、是には過じと勇悦て、千里を一足に飛て懸らんと、心許は早りけれども、今朝の巳刻より申時の終まで、三十余度の戦に、息絶気疲るゝのみならず、深手浅手負ぬ者も無りければ、馬武者を追攻て可討様ぞ無りける。され共多の敵共四角八方へ追散て、師直七八十騎にて控たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円・河辺石掬丸、我先我先とぞ進たる。余に辞理なく懸られて、師直已引色に見へける処に、九国の住人須々木四郎とて、強弓の矢つぎ早、三人張に十三束二伏、百歩に柳の葉を立て、百矢をはづさぬ程の射手の有けるが、人の解捨たる箙、竹尻篭・■を掻抱く許取集て、雨の降が如く矢坪を指てぞ射たりける。一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。

☆ 楠木正行の最期のこと

そうこうする内に、師直と楠木の距離は一町(約109メートル)ばかりになりました。やっと念願の敵に会えたと注意深く見据え、楚国の盧陽が韓との戦いの最中、太陽を招き返して戦った気持ちも、今の自分ほど喜んではいないだろうと勇み立ち、たとえ千里でも一足で飛びかかってやろうと、

気ばかりあせりますが、今朝の巳の刻(午前十時頃)から申の刻(午後四時頃)の終わる頃まで、三十余度にわたる戦闘に、息は上がって戦意も失いかけているだけでなく、程度は別として負傷していない兵士もいない状況では、騎馬武者に攻めかかって討ち取ることなど出来そうにありません。

しかし、多数の敵兵を四方八方に追い散らし、師直は七、八十騎に護れているだけなので、大した抵抗も出来ないだろうという思い込みを力にして、和田、楠木、野田、関地良円、河辺石掬丸らが、先を争って我先に進んで行きました。余りにも無茶な攻撃を受けて、

師直がすでに退却に移るかと見えた時、九州の豪族である須々木四郎と言う、三人張りの強弓に十三束二伏の矢を休む間もなく射る上、百歩離れた場所に柳の葉を立てて射ても、一本も外すことのないほどの射手ですが、人が投げ捨てていった箙や竹尻篭(共に矢を入れて携帯する道具)

やなぐい(胡と竹かんむりに祿::矢を入れて携帯する道具)などを両手一杯にかき集め、雨が降り注ぐように狙い定めて射続けました。一日中着続け緩みの生じた甲冑ですから、当たる矢当たる矢全て矢竹まで深く刺さらないものはありません。楠木次郎正時は眉間と喉笛の端を射られて、

抜くほどの気力もありません。また正行は左右の膝頭を三ヶ所、右の頬先、左の目尻などを深く射られ、その矢も冬の野原で霜が降りて折れ曲がった草みたいになっており、体中矢が突き刺さっては動きも取れません。そのほか、

三十余人の兵士らも、矢の三筋や四筋射られていない者もいなければ、「もはやこれまでだ。敵の手には懸かるな」と言って、楠木兄弟は刺し違えて北枕に倒れ込んだので、残る兵士ら三十二人は各自思い思いに腹を掻き切り、折重なるように伏せたのです。

ところで、和田新発意は一体どうして紛れ込んだのか、師直の兵士の中に混じり、武蔵守と刺し違えて死のうと近づいて行くのを、先日河内の軍勢より降伏してきた、湯浅本宮太郎左衛門と言う男は、和田を知っているので彼の後方に回り、両方の膝を斬りつけ、

倒れた所に走り寄って首を切ろうとしました。和田新発意は朱を注いだような大きな目を見開き、湯浅本宮をギロっと睨みつけました。その目はとうとう塞ぐことなく、湯浅に首を取られたのでした。しかし勇猛な武士に睨まれたので、湯浅は怖気づいたのか知れません。

その日から病気がちになり、心身共に悩み苦しみ出したのです。上を見上げると和田の怒り狂った顔が中空に見え、うつむくと新発意の睨みつける目が地面に見える有様で、怨霊が五体を責め悩ますので、合戦が終わって七日しか経ってないと言うのに、湯浅はもがき苦しんで死んだのです。


大塚掃部助手負たりけるが、楠猶跡に有共しらで、放馬の有けるに打乗て、遥に落延たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰、大勢の中へ蒐入て、切死にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝は、吉野殿に参て事の由を申さんとや思けん、只一人鎧一縮して、歩立に成て、太刀を右の脇に引側め、敵の頚一つ取て左の手に提て、東条の方へぞ落行ける。安保肥前守忠実只一騎馳合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨て落られ候こそ無情覚候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞を懸ければ、和田新兵衛打笑て、「返に難き事か。」とて、四尺六寸の太刀の貝しのぎに、血の著たるを打振て走懸る。忠実一騎相の勝負叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留れば正朝又落、落行ば忠実又追懸、々々れば止り、一里許を過る迄、互不討不被討して日已に夕陽に及ばんとす。斯る処に青木次郎・長崎彦九郎二騎、箙に矢少し射残して馳来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺の余引合の下、七筋まで射立られて、新兵衛遂に忠実に首をば取れにけり。総て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族二十三人、相順ふ兵百四十三人、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。先年奥州の国司顕家卿、安部野にて討れ、武将新田左中将義貞朝臣、越前にて亡し後は、遠国に宮方の城郭少々有といへ共、勢未振はざれば今更驚に不足。唯此楠許こそ、都近き殺所に威を逞くして、両度まで大敵を靡かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮を令悦、京都の敵も虎の山に靠恐懼を成れつるに、和田・楠が一類皆片時に亡びはてぬれば、聖運已に傾ぬ。武徳誠に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。

大塚掃部助は負傷はしたものの、楠木は未だ健在だと思い、誰も乗っていない馬がいたのでそれに乗り、遥か遠くまで落ち延びたのです。しかし和田も楠木も討たれたと聞き、ただ一騎で駆け戻り、大勢の敵に飛び掛って斬り死にしたのです。また和田新兵衛正朝は吉野の皇居に参内し、

合戦の状況を申し述べようと思ったのか、ただ一人鎧で身を固め、徒歩立ちになって、太刀を右の脇に隠すように持ち、敵の首一つを取ると左手に提げ、東条の方に向かって落ちて行きました。そこへ安保肥前守忠実がただ一騎で駆けつけて来ると、「和田や楠木の方々は皆自害されたと言うのに、

見捨てて落ちて行かれるとは情けなく思います。引き返されよ。お相手いたしましょう」と声をかけてきたので、和田新兵衛は笑いながら、「引き返すことなど雑作のないことだ」と言って、四尺六寸ある太刀の貝しのぎ(角張らずに丸みのある刀剣のしのぎ)に血が付いたのを振り回しながら走りかかって行きました。

忠実は一騎打ちの勝負は勝ち目がないと思ったのか、馬を回して引き返しました。忠実が留まれば正朝は落ちようとし、落ちて行くと見れば、忠実は再び追い掛け、追い掛ければまた止まると言うことを繰り返しながら、一里ばかりを過ぎたものの、お互い討ちもしなければ討たれもせず、

日はすでに夕暮れを迎えようとしています。その時、青木次郎と長崎彦九郎の二騎が、箙に少し矢を残して駆けて来ました。新兵衛を追い掛け回して矢を射続けたので、草摺りの隙間や鎧の合わせ目の下など、七本の矢を受けて、とうとう新兵衛は忠実に首を取られたのです。

結局終わってみれば今日一日の合戦で、和田と楠木の兄弟四人、一族の二十三人、そして彼らに従ってきた兵士ら百四十三人が、帝と主君への忠義を果たし、未だかつて並びないほどの功績として、その名を後世に残したのでした。

何年か前に奥州の国司である北畠顕家卿が阿倍野の合戦で討たれ、また武将の新田左中将義貞朝臣が、越前にて討ち死にしてからは、遠国において宮方の城郭が多少残っていると言っても、その勢力はかつての勢いもない状況では、今更驚くほどのことでもありません。

ただこの楠木だけは、都近辺の難所を地盤に勢力を蓄え、再々にわたって幕府の大軍を撃破しましたので、吉野朝廷の帝も水を得た魚のように喜びもひとしおでした。京都にいる敵幕府軍も、虎の生息する山を背にしているような恐れを感じていたので、

和田と楠木の一族郎等らが、瞬時にして滅び果てたので、吉野朝廷の運命はもはや傾き、反対に幕府の勢威は今後とも間違いなく発展を続けるだろうと、思わない人はいませんでした。


○芳野炎上事
去程に楠が館をも焼払ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後守師泰六千余騎にて、正月八日和泉の堺の浦を立て、石川河原に先向城をとる。武蔵守師直は、三万余騎の勢を卒して、同十四日平田を立て、吉野の麓へ押寄する。其勢已に吉野郡に近付ぬと聞へければ、四条中納言隆資卿、急ぎ黒木の御所に参て、「昨日正行已に討れ候。又明日師直皇居へ襲来仕由聞へ候。当山要害の便稀にして、可防兵更に候はず。今夜急ぎ天河の奥加納の辺へ御忍候べし。」と申て、三種の神器を内侍典司に取出させ、寮の御馬を庭前に引立たれば、主上は万づ思食分たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木の御所を立出させ給へば、女院・皇后・准后・内親王・宮々を始進せて、内侍・上童・北政所・月卿雲客・郎吏・従官・諸寮の頭・八省の輔・僧正・僧都・児・房官に至るまで、取物も不取敢、周章騒ぎ倒れ迷て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分て、吉野の奥へ迷入る。思へば此山中とても、心を可留所ならねども、年久住狎ぬる上、行末は猶山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣に付ても、涙は袖にせき敢ず。主上勝手の宮の御前を過させ給ひける時、寮の御馬より下させ給て、御泪の中に一首かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑かひ無に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜けれ異国の昔は、唐の玄宗皇帝、楊貴妃故に安禄山に傾られて、蜀の剣閣山に幸なる。我朝の古は、清見原の天皇、大友の宮に襲はれて、此吉野山に隠給き。是皆逆臣暫世を乱るといへども、終には聖主大化を施されし先蹤なれば、角てはよも有はてじと思食准る方は有ながら、貴賎男女周章騒で、「こはそも何くにか暫の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟更に無休時。去ほどに武蔵守師直、三万余騎を卒して吉野山に押寄せ、三度時の声を揚たれ共、敵なければ音もせず。さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。

☆ 吉野朝廷が炎上したこと

やがて幕府軍は楠木の舘を焼き払い、吉野の帝についても身柄を確保するため、越後守高師泰が六千余騎で、貞和四年(正平三年::1348年)正月八日、和泉国の堺の浦を出発し、まず石川河原に向い城を構えました。武蔵守師直は三万余騎の軍勢を率いて、同じく正月十四日に平田を進発し、

吉野の麓に押し寄せました。吉野朝廷では敵の軍勢がすでに吉野郡に近づいてきたと聞き、四条中納言隆資卿が大急ぎで黒木の御所(加工していない生の木で造った御所)に参内し、「昨日すでに楠木正行は討たれてしまいました。また明日には師直が皇居に襲来すると聞いています。

ここ吉野山は要害の地とは言えず、防御にあたる兵士らも不足しています。今夜急いで天川の奥地、賀名生(あのう)のあたりにお忍びをお願いします」と申し上げ、三種の神器を天皇に近侍する女官に命じて取り出させ、また馬寮(めりょう::官馬の飼育、管理等を司る役所)から馬を庭に引き出しすと、

天皇は何が何だか考える余裕もなく、ただ夢路を辿っているような気持のまま、黒木の御所を出発されると、女院、皇后、准后、内親王、宮々をはじめとして、内侍、上童、北政所、月卿雲客、郎吏、従官、諸寮の頭、八省の輔、僧正、僧都、児、房官に至るまで、取るものも取りあえず、

ただただ騒ぎ慌て慣れない岩山の道を迷ったり転んだりしながら歩き続け、重なる山々の雲を掻き分けるようにして、吉野の奥に迷い込みました。考えてみると今までの吉野の山も、決して心安らかな土地でもなかったけれど、それなりに長年住み慣れた所でしたが、

今行こうとしている所はますます山深い場所で、どれほど住みにくい所なのかと案じ、止まらない涙は袖を濡らすばかりです。後村上天皇が勝手神社の前をお通りになる時、馬から降りられ、涙ながらに一首の歌を心にされました。

      憑かひ 無に付ても 誓ひてし 勝手の神の 名こそ惜しけれ(頼み甲斐はなくとも頼りにはしていたが、今こうなってみれば勝手の神とは名前ばかりであるなあ)

昔、異国において、唐の玄宗皇帝が楊貴妃への愛に溺れて、安禄山に国を追われ、蜀国の剣閣山に逃げました。そして我が国においては、昔、浄御原の天皇(天武天皇)が大友皇子の襲撃を受けて、この吉野の山に身を隠されました。これら全て逆臣が暫くは世の中を乱しましたけれど、

最終的には天皇が大化の治世を行ったと言う先例もあるので、めったなことは起こらないであろうと、いくらか心の安らぎを覚える人も居ましたが、大多数の男女は身分に関係なく慌て騒ぐばかりで、「こうなれば何処にでも良いから暫く身を隠さなければ」と、泣き悲しむ様子をご覧になれば、

天皇のお気持ちはとても安らぐことなどありません。やがて武蔵守師直は三万余騎を率いて吉野山に押し寄せ、三度閧の声を挙げましたが、敵は逃げた後なので何の音も聞こえません。それなら焼き払ってしまえとばかり、皇居をはじめとして公卿や殿上人の屋敷に火をかけたので、

悪魔のなせる業か激しい風が吹きかけ、高さ二丈の笠鳥居一基、二丈五尺の黄金の鳥居、金剛力士像を安置している二階建の仁王門、北野天神示現の宮、七十二間の回廊、三十八ヶ所の神楽屋、宝蔵、竃殿(竈の神を祭っている建物)、三尊(釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩)の美しいお姿に万人が拝礼する、

金剛蔵王権現を安置している金峰山寺の社殿まで、全てが一度に灰燼に帰して、その煙は青く澄んだ空に立ち上りました。本当に情けなく悲しい出来事でした。


抑此北野天神の社壇と申は、承平四年八月朔日に、笙の岩屋の日蔵上人頓死し給たりしを、蔵王権現左の御手に乗せ奉て、炎魔王宮に至給ふに、第一の冥官、一人の倶生神を相副て、此上人に六道を見せ奉る。鉄窟苦所と云所に至て見給ふに、鉄湯中に玉冠を著て天子の形なる罪人あり。手を揚て上人を招給ふ。何なる罪人ならんと怪て立寄て見給へば、延喜の帝にてぞ御座しける。上人御前に跪て、「君御在位の間、外には五常を正して仁義を専にし、内には五戒を守て慈悲を先とし御坐しかば、何なる十地等覚の位にも到らせ給ぬらんとこそ存候つるに、何故に斯る地獄には堕させ給候やらん。」と尋申されければ、帝は御涙を拭はせ給て、「吾在位の間、万機不怠撫民治世しかば、一事も誤る事無りしに、時平が讒を信じて、無罪菅丞相を流したる故に、此地獄に堕たり。上人今冥途に趣給ふといへ共、非業なれば蘇生すべし。朕上人と師資の契不浅、早娑婆に帰給はゞ、菅丞相の廟を建て化導利生を専にし給べし。さてぞ朕が此苦患をば可免。」と、泣々勅宣有けるを、上人具に承て、堅領状申と思へば、中十二日と申に、上人生出給にけり。冥土にて正く勅を承りし事なればとて、則吉野山に廟を建、利生方便を施し給し天神の社壇是也。蔵王権現と申は、昔役優婆塞済度利生の為に金峯山に一千日篭て、生身の薩■を祈給しに、此金剛蔵王、先柔和忍辱の相を顕し、地蔵菩薩の形にて地より涌出し玉ひたりしを、優婆塞頭を掉て、未来悪世の衆生を済度せんとならば、加様の御形にては叶まじき由を被申ければ、則伯耆の大山へ飛去給ぬ。其後忿怒の形を顕し、右の御手には三鈷を握て臂をいらゝげ、左の御手には五指を以て御腰を押へ玉ふ。一睨大に忿て魔障降伏の相を示し、両脚高く低て天地経緯の徳を呈し玉へり。示現の貌尋常の神に替て、尊像を錦帳の中に鎖されて、其涌出の体を秘せん為に、役の優婆塞と天暦の帝と、各手自二尊を作副て三尊を安置し奉玉ふ。悪愛を六十余州に示して、彼を是し此を非し、賞罰を三千世界に顕して、人を悩し物を利す。総て神明権迹を垂て七千余坐、利生の新なるを論ずれば、無二亦無三の霊験也。斯る奇特の社壇仏閣を一時に焼払ぬる事誰か悲を含まざらん。されば主なき宿の花は、只露に泣ける粧をそへ、荒ぬる庭の松までも、風に吟ずる声を呑。天の忿り何れの処にか帰せん。此悪行身に留らば、師直忽に亡なんと、思はぬ人は無りけり。

そもそもこの北野天神の社殿と言うのは、承平四年(934年)八月朔日(ついたち::一日)に笙の岩屋(大峰山系国見山にある洞窟)で修行中の日蔵上人が突然亡くなられたのを、蔵王権現が左の御手に乗せられて、閻魔王の宮殿にお連れしましたが、

第一の冥官(閻魔庁の役人)が一人の倶生神(くしょうじん::人とともに生まれ、その人の一生にわたる善悪全てを記録し、死後閻魔大王に報告すると考えられた神)を伴ってきて、この上人に六道(生死を繰り返す迷いの世界)を見せました。やがて鉄窟苦所(地獄の一つ)と言う所に来て見ると、

溶けた鉄の中に玉冠を着けて天子の姿をした罪人がいました。その人が手を上げて上人を招きました。如何なる罪人だろうかと不審に思って立ち寄って見ると、延喜の帝(醍醐天皇::在位885-930年)でございました。上人は御前にひざまずき、「帝の御在位期間は、

儒教に基づいて人の守るべき道を重視するとともに、仏教の教えである五戒(在家の信者が守るべき五つの戒め)を守って、人々を苦しみから開放することを第一義にされておられたので、一体どのような十地等覚(菩薩の修行の段階)の位に上られるのかと思っていたのに、

何故このような地獄に堕ちられたのでしょうか」と、お尋ねすると、帝は御涙を拭いながら、「朕は在位の期間中、何事にも怠ることなく、また人民をいたわり世を治めてきたので、ただの一つも過ちを犯さなかったのに、藤原時平の讒言を信じて、何ら罪のない菅原道真丞相を流罪に処したため、

この地獄に堕ちたのだ。上人よ、今、冥土にやってきたからと言って、前世において特に善行悪行などの原因がはっきりしなければ、生き返ることだ。朕は上人を最高の師だと頼っている、早々に娑婆にお帰りになれば、菅丞相の霊を祭る建物を造り、化導利生(衆生を教え導き、りやくを与えること)に努めて欲しい。

そうすることによって、朕はこの地獄の苦しみから逃れられるのだ」と、泣きながら勅命を下されました。上人は事細かく聞き終わり、確かにこの件承知しましたと申し上げようと思った時、中陰の十二日と言うのに上人は娑婆に生まれ出たのです。冥土において間違いなく勅命を承った事なので、

大急ぎで吉野山に社殿を建造して、衆生の救済に努めた天神の社殿とはこの建物のことです。また蔵王権現と言うのは、昔、役小角優婆塞(うばそく::男性の在家仏教信者)が済度利生(衆生を救済し往生の実現を助ける)のために金峰山寺に一千日の参籠を行い、生まれながらの身体のまま、

薩た(土偏に垂::菩薩。悟りを求め衆生を救うために修行を重ねる者)になることを祈念したところ、この金剛蔵王権現が最初柔和忍辱(にゅうわにんにく::心やさしく、侮辱や迫害に耐え忍ぶこと)の表情をして、地蔵菩薩のお姿で地中より湧き出られたのを、役小角優婆塞は頭を振りながら、

今後仏法が衰えると思われる時代に臨んで、衆生を救済しようとするのでしたら、そのようなお姿ではとても出来そうに思えませんと申し上げたところ、すぐ伯耆の大山に飛び去りました。その後怒り狂った形相をして現れ、

右の御手には三鈷杵(密教などの法具である金剛杵の一つ。刃がフォークのように三本に分かれたもの)を握り締めて肱を高く上げ、左手は五本の指を御腰に当て押さえられています。睨みつけるその顔は怒りに燃え、仏道の修行を妨げる悪魔から守らんと、その表情に表わし、

両足に関しては右の足を高く上げて天地間の悪魔に抵抗し、左足は地下の悪魔を抑えようとしています。衆生を救うためにそのお姿を通常の神に変えて、その像を錦のとばりの中に安置し、地中から出現したことを秘するため、役の優婆塞と天暦(947-957年)の帝(村上天皇)の二人が手ずから像を作り、

その二体と共に三尊一緒に安置しています。これらの三尊は我が国六十余州における全ての事象に対して、正邪の判断を行い、その賞罰を我々の住むこの世界に下して、人を苦しめたりまた物事の道理を守ります。(悪愛以下、訳おかしいな)我が国全ての神々を人々の救済に為、

この世に姿を変えさせて七千余を現せ、常に衆生に利益を与えてさせていることを考えれば、二つとない霊験あらたかなものです。これほどの珍しく有り難い神社仏閣を、瞬時に焼き払うことなど、誰が悲しまないと言うのでしょうか。

このため主人を失った社殿の花は、ただ露を含んで悲しみの涙を流し、荒れ果てた庭の松も、風にそよぐ音さえ遠慮がちです。天の怒りを一体どうして収めようと言うのでしょうか。これほどの悪行がもし自分に降りかかるなら、師直はたちまちに死を迎えるだろうと思わない人などいませんでした。      (終り)

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