26 太平記 巻第二十六 (その二)


○賀名生皇居事
貞和五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族皆亡びて、今は正行が舎弟次郎左衛門正儀許生残たりと聞へしかば、此次に残る所なく、皆退治せらるべしとて、高越後守師泰三千余騎にて、石河々原に向城を取て、互に寄つ被寄つ、合戦の止隙もなし。吉野の主上は、天の河の奥賀名生と云所に僅なる黒木の御所を造りて御座あれば、彼唐尭虞舜の古へ、茅茨不剪柴椽不削、淳素の風も角やと思知れて、誠なる方も有ながら、女院皇后は、柴葺庵のあやしきに、軒漏雨を禦ぎかね、御袖の涙ほす隙なく、月卿雲客は、木の下岩の陰に松葉を葺かけ、苔の筵を片敷て、身を惜く宿とし給へば、高峯の嵐吹落て、夜の衣を返せども、露の手枕寒ければ、昔を見する夢もなし。況乎其郎従眷属たる者は、暮山の薪を拾ては、雪を戴くに膚寒く、幽谷の水を掬では、月を担ふに肩やせたり。角ては一日片時も有ながらへん心地もなけれ共、さすがに消ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑を懸てや残るらん。

☆ 賀名生の皇居のこと

さて貞和五年(正平四年::1349年)正月五日に行われた四条畷の合戦において、和田、楠木の一族全てが滅亡し、今は楠木正行の弟、次郎(三郎では?)左衛門正儀だけが生き残っていると言われ、次の合戦では一人残さず全員討ち滅ぼそうと、高越後守師泰が三千余騎を率いて、

石川河原に向い城を構築し、互いに攻撃を仕掛けたり、仕掛けられたりして、合戦の休む間もありません。吉野の後村上天皇は天の川の奥地、賀名生と言う所に生木のままで造った、小さな御所におられます。中国古代の五帝と言われた聖君の唐尭、虞舜が、宮殿の屋根を葺く茅や茨を切りそろえず、

屋根を支える垂木も削らなかったと言う質素なたたずまいも、このようなものだったかと思わされ、誠なる方(?)も有りながら、女院や皇后は柴で葺いた庵の頼りなさと、軒から漏れる雨も防ぎようがなく、お袖の涙も乾く間もありません。公卿や殿上人たちは、木の下や岩陰に松葉で屋根を葺き、

苔の筵を敷いて我が身を休ませる宿としても、高い山々から嵐が吹き降ろしてくれば、夜具は風にあおられ、枕も露が降りたように冷たくては、昔を思い出しすような夢さえ見ることはありません。そのような状況であれば、召し使われている人や、その従者とか身内の者たちはもっと厳しく、

夕暮れの山から薪を拾っても、雪が舞えば肌寒く、谷川の水をすくっても、水面にうつる月を背にした肩はやせ細っています。このような環境にあっては、一日とても生き永らえる心地もしませんが、たとえはかなく消える露の命であっても、この世に命さえあればと思えばこそ、何かに頼りながら生き残っているのです。


○執事兄弟奢侈事
夫富貴に驕り功に侈て、終を不慎は、人の尋常皆ある事なれば、武蔵守師直今度南方の軍に打勝て後、弥心奢り、挙動思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄をも知ぬ事共多かりけり。常の法には、四品以下の平侍武士なんどは、関板打ぬ舒葺の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此師直は一条今出川に、故兵部卿親王の御母堂、宣旨の三位殿の住荒し給ひし古御所を点じて、棟門唐門四方にあけ、釣殿・渡殿・泉殿、棟梁高造り双て、奇麗の壮観を逞くせり。泉水には伊勢・島・雑賀の大石共を集たれば、車輾て軸を摧き、呉牛喘て舌を垂る。樹には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上の松・露霜染し紅の八しほの岡の下紅葉・西行法師が古枯葉の風を詠たりし難波の葦の一村・在原中将の東に旅に露分し宇津の山辺のつた楓、名所々々の風景を、さながら庭に集たり。又月卿雲客の御女などは、世を浮草の寄方無て、誘引水あらばと打佗ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申も無止事宮腹など、其数を不知、此彼に隠置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻に、手向を受ぬ神もなし。」と、京童部なんどが咲種なり。加様の事多かる中にも、殊更冥加の程も如何がと覚てうたてかりしは、二条前関白殿の御妹、深宮の中に被冊、三千の数にもと思召たりしを、師直盜出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕れたる振舞にて、憚る方も無りけり。角て年月を経しかば、此御腹に男子一人出来て、武蔵五郎とぞ申ける。さこそ世の末ならめ。忝も大織冠の御末太政大臣の御妹と嫁して、東夷の礼なきに下らせ給ふ。浅猿かりし御事なり。

☆ 執事、高師直と師泰兄弟の度が過ぎた贅沢のこと

一般に富貴であることや功績のあったことを良いことに、身分不相応な贅沢や言動を振る舞い、最後まで慎もうとしないのは人の常です。しかし、武蔵守高師直は今回の南朝との合戦に勝利してから、ますます自尊心が強まり、その挙動も勝手気ままに行い、その上、仁義さえ顧みることもせず、

世間から受けている嘲弄さえ気づかないことも多々ありました。当然の法として、四品(四位)以下の武士らは、板や檜皮で葺いた屋根のある家にさえ住むことが許されないのに、この師直は一条今出川に故兵部卿護良親王の御母堂、宣旨の三位殿(宮中の上臈女官の称)がお住みになって、

今は荒れている古御所を没収し、棟門(棟を高く上げ、屋根が切妻の門)、唐門(屋根が唐破風造りの門)を四方に開き、釣殿(池に面した建物)、渡殿(二つの建物をつなぐ屋根つきの廊下)、また泉殿(泉水に突き出した建物)などを高い棟や梁で建て並べて、絢爛豪華の極みです。泉水には伊勢、島や雑賀から大石などを集めたので、

運ぶ車はきしみ続けて車軸も折れてしまい、呉牛(水牛?)はあえいで舌を垂らす有様です。樹木には月中にあると言う桂や、仙家の菊(不老不死の妙薬のもととなると言われる)、吉野の桜、尾上の松(高砂にある長寿で知られる松)、露霜染し紅の八しおの岡の下紅葉(八塩岡は紅葉の名所。八しおとは布を幾度も染めて濃くすること)

西行法師が、”津の国の難波の春は夢なれや 葦の枯葉に風渡るなり”と詠んだ難波の葦の一叢、また在原業平中将が東国を旅して駿河国に到り、宇津の山にやってきた時、蔦楓が生い茂っているのを見て、”駿河なる宇津の山辺の現にも夢にも人に逢はぬなりけり”と詠んだ蔦楓などなど、

名所名所の風景をそっくりそのまま庭に集めました。また武家全盛の時代となっては、公卿、殿上人の姫君らも、今の世では頼るべき人もなく、声を掛けていただければという時節なので、その時はやむを得ないでしょう。申し上げるのも憚りながら、

宮家に縁のある姫君などその数も分らないくらい、ここかしこに隠して住まわせ、毎夜のように通う有様なので、「執事(高師直)の姫めぐりに、お供えをしてもらってない神などいない」と京童などが、笑いの種にしていました。このような行いが数ある中でも、特に身の程知らずと思われて顰蹙を買っていたのは、

二条道平前関白殿が御妹を宮中奥深く育て、やがては後宮三千人の一人にと思っていたのを、師直が盗み出したことです。はじめのうちこそ、少しは気付かれないようにしていましたが、やがて露見も良いだろうとばかりに振る舞い、人目を気にすることもなくなりました。

このようにして年月が過ぎていくうち、やがてこの姫君に男子が一人生まれ、武蔵五郎と名付けられました。世の末とも言えるでしょう。もったいなくも大織冠藤原鎌足の末裔である太政大臣の御妹を嫁にして、無骨な東国武士にお子が授かったのです。嘆かわしくあきれたことです。


是等は尚も疎か也。越後守師泰が悪行を伝聞こそ不思議なれ。東山の枝橋と云所に、山庄を造らんとて、此地の主を誰ぞと問に、北野の長者菅宰相在登卿の領地也と申ければ、軈て使者を立て、此所を可給由を所望しけるに、菅三位、使に対面して、「枝橋の事御山庄の為に承候上は、子細あるまじきにて候。但当家の父祖代々此地に墳墓を卜て、五輪を立、御経を奉納したる地にて候へば、彼墓じるしを他所へ移し候はむ程は、御待候べし。」とぞ返事をしたりける。師泰是を聞て、「何条其人惜まんずる為にぞ、左様の返事をば申らん。只其墓共皆掘崩して捨よ。」とて、軈て人夫を五六百人遣て、山を崩し木を伐捨て地を曳に、塁々たる五輪の下に、苔に朽たる尸あり。或は■々たる断碑の上、雨に消たる名もあり。青塚忽に破て白楊已に枯ぬれば、旅魂幽霊何くにか吟ふらんと哀也。是を見て如何なるしれ者か仕たりけん、一首の歌を書て引土の上にこそ立たりける。無人のしるしの率都婆堀棄て墓なかりける家作哉越後守此落書を見て、「是は何様菅三位が所行と覚るぞ。当座の口論に事を寄て差殺せ。」とて、大覚寺殿の御寵童に吾護殿と云ける大力の児を語て、無是非菅三位を殺させけるこそ不便なれ。

これらのことはまだましなほうです。越後守高師泰に関して伝え聞く悪行ほど、非常識なものはありません。それは東山の枝橋と言う所に山荘を建築しようと思い、この土地の所有者を尋ねたところ、北野の長者である、菅宰相在登卿の領地だと返事があり、それならとすぐに使者を立てて、

この土地を譲っていただきたい旨申し入れました。菅三位は使者に対して、「枝橋の土地に山荘を建造されること、特に問題はありません。ただし当家の父祖代々にわたって、この土地に墳墓を構えて五輪の塔を立て、御経を奉納している土地ですので、それらの墓の印なるものを他所に移したいので、

その間お持ち下さい」と、返事されました。師泰はこの返事を聞き、「何を言うか、その者は惜しいがためそのような返事をしたのだ。どうでも良いからその墓石など皆掘り返して捨ててしまえ」と言って、すぐ人夫ら五、六百人を手配し、山を崩し木を伐採して土地をならしてみると、

重なり合った五輪の下に、苔に朽ち果てた遺体がありました。また割れてはいるものの、青々とした石碑には、雨にさらされ消えた名前もありました。青々とした墓は瞬く間に破壊され、植えられた白楊(墓に植えられることが多い木)も早や枯れてしまったので、さまよう魂魄や死者の霊がどこかで力なくうめいているように、

哀れで悲しい有様です。この状況を見て、一体どんな人間がした仕業なのか一首の歌を書いて、ならした土に立ててありました。
     無人の しるしの卒塔婆 堀棄て 墓なかりける 家作哉(亡き人のために立てた卒塔婆を棄てしまい、取るに足らない家を建てるのですか)

越後守師泰はこの落書を見て、「これは間違いなく菅三位の仕業と思える。適当に口論などして、それを理由に刺し殺してしまえ」と言って、大覚寺殿が可愛がっている童、吾護殿と言う大力の持ち主に語りかけて、有無を言わせず菅三位を殺させたのは可哀そうなことでした。


此人聖廟の祠官として文道の大祖たり。何事の神慮に違ひて、無実の死刑に逢ぬらん。只是魏の弥子瑕が鸚鵡州の土に埋まれし昔の悲に相似たり。又此山庄を造りける時、四条大納言隆陰卿の青侍大蔵少輔重藤・古見源左衛門と云ける者二人此地を通りけるが、立寄て見るに、地を引人夫共の汗を流し肩を苦しめて、休む隙なく仕はれけるを見て、「穴かはゆや、さこそ卑しき夫也とも、是程までは打はらず共あれかし。」と慙愧してぞ過行ける。作事奉行しける者の中間是を聞て、「何者にて候哉覧、爰を通る本所の侍が、浩ける事を申て過候つる。」と語りければ、越後守大に忿て、「安き程の事哉。夫を労らば、しやつ原を仕ふべし。」とて、遥に行過たりけるを呼返して、夫の著たるつゞりを着替させ、立烏帽子を引こませて、さしも熱き夏の日に、鋤を取ては土を掻寄させ石を掘ては■にて運ばせ、終日に責仕ひければ、是を見る人々皆爪弾をし、「命は能惜き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。是等は尚し少事也。今年石河川原に陣を取て、近辺を管領せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺の常燈料所の庄を押へて知行せしかば、七百年より以来一時も更に不絶仏法常住の灯も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪の者か云出しけん。「此辺の塔の九輪は太略赤銅にてあると覚る。哀是を以て鑵子に鋳たらんに何によからんずらん。」と申けるを、越後守聞てげにもと思ければ、九輪の宝形一下て、鑵子にぞ鋳させたりける。げにも人の云しに不差。膚■無くして磨くに光冷々たり。芳甘を酌てたつる時、建渓の風味濃也。東坡先生が人間第一の水と美たりしも、此中よりや出たりけん。上の好む所に下必随ふ習なれば、相集る諸国の武士共、是を聞傅て、我劣らじと塔の九輪を下て、鑵子を鋳させける間、和泉・河内の間、数百箇所の塔婆共一基も更に直なるはなく、或は九輪を被下、ます形許あるもあり。或は真柱を切れて、九層許残るもあり。二仏の並座瓔珞を暁の風に漂はせ、五智の如来は烏瑟を夜の雨に潤せり。只守屋の逆臣二度此世に生れて、仏法を亡さんとするにやと、奇き程にぞ見へたりける。

この人は菅原道真をまつった廟の神官として、文学、学芸に関して権威ある人です。一体どこが神の思し召しにかなわず、無実の死刑にされたのでしょうか。これは昔、衛国の弥子瑕(びしか::余桃の罪の話)が鸚鵡州の地に埋められた悲劇とよく似ています。またこの山荘の建造中に、

四条大納言隆陰卿に仕える若侍、大蔵少輔重藤と古見源左衛門と言う二人がこの場所を通りかかった時、立ち寄って工事の様子を見たところ、地ならしをしている人夫らが汗を流し、肩を苦しげにして、休む間もなく働かされているのを見て、「またかわいそうに、いくら卑しい人夫だからと言っても、

あんなに鞭打って働かさなくても良いのに」と、我がことのように恥じ入って、通り過ぎようとしました。その時、ここの現場監督の部下がこの会話を聞き、「何処の誰だか、ここを通りかかった院の侍が、このようなことを言いながら通り過ぎた」と話したので、

越後守師泰は激怒し、「簡単なことだ。人夫をいたわりたいなら彼奴に仕事をさせろ」と言って、遥か遠くに過ぎていったのを呼び返し、人夫らが着ていた粗末な服に着替えさせ、立烏帽子も脱がせて、この暑い夏の日中に鋤を手にして土を掻き寄せ、

石を掘り出してはあおだ(長方形の台に竹や木で編んだものを取り付け、棒につるして運搬するもの)に載せて運ばせ、終日強制労働につかせました。この様子を見た人は皆、爪弾きをして、「命が余程惜しいと見える。恥をかく位なら死ねば良いのに」と、言わない人はいませんでした。

まだこれらは序の口です。今年になって石川河原に陣を構えて、近辺を領有、支配をしてからは、諸寺、諸社の所領を本来の所有者のものとせず、特に天王寺の常夜灯の費用に充てる庄まで取り上げてしまったので、七百年の間一度も絶えることもなく、仏教を照らし続けてきた灯りも、

その威光と共に消えてしまいました。またどれほど罰知らずの人間が言い出したのか、「この辺の塔にある九輪は大体赤銅で作られている。これで鑵子(湯沸し器)を作ったら、きっと良いものが出来るのでは」と話すのを越後守が聞き、そうかも知れぬと思ったのか、

九輪の宝形(ほうぎょう::寺院の堂塔の頂を飾る宝珠など)一つを下に下ろして、鑵子に鋳なおしました。なるほど人の言うのに違わず、表面はつるりとして磨けば清らかな光で輝きました。甘く芳しい茶をたててみると、建渓(中国福建省、茶の名産地)の風味が細やかに感じられます。

東坡先生(蘇東坡)が人間にとって最高の水だと褒めたのも、この鑵子から出たのでしょうか。上層部の好みを下層の者が真似をするのはよくある話で、この陣営に集まっている諸国の武士らはこの話を伝え聞くと、自分らも負けずに塔の九輪を下ろしては、鑵子に鋳なおしたので、

和泉、河内周辺数百ヶ所の寺院の頂きには、まともなものは一基もなく、あるものは九輪を下ろされて、ます形(屋根の構造部分)だけのもの。或は心柱が切られて、九層だけが残っているものもあります。ニ仏(釈迦如来と多宝如来)の並座される多宝塔を荘厳する飾りは暁の風にゆれ、

密教の五つの知恵をそれぞれそなえた如来は、頭頂部の一段高く隆起した肉塊を夜の雨に濡らしています。(このあたり訳不適)ただ逆臣物部守屋(物部氏は強硬な排仏派)がこの世に再び生まれて、仏法を滅ぼそうとしているのではないかと、怪しまれるように見えます。


○上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事
此時上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗と云人あり。才短にして、官位人よりも高からん事を望み、功少して忠賞世に超ん事を思しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟の執事として、万づ心に任せたる事を猜み、境節に著ては吹毛の咎を争て、讒を構る事無休時。されども将軍も左兵衛督も、執事兄弟無ては、誰か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎をば耳にも不聞入給、只佞人讒者の世を乱らん事を悲まる。夫天下を取て、世を治る人には、必賢才輔弼の臣下有て、国の乱を鎮め君の誤を正す者也。所謂■尭の八元・舜の八凱・周の十乱・漢の三傑・世祖の二十八将・太宗の十八学士皆禄厚く官高しといへ共、諸に有て争ふ心ろ無りしかば、互に非を諌め国をしづめて、只天下の無為ならん事をのみ思へり。是をこそ呼で忠臣とは申に、今高・上杉の両家中悪くして、動もすれば得失を差て其権を奪はんと、心に挿て思へる事、豈忠烈を存ずる人とせんや。言長して聞に懈ぬべしといへ共、暫譬を取て愚なる事を述るに、昔異朝に卞和と申ける賎き者、楚山に畑を打けるが、廻り一尺に余れる石の磨かば玉に可成を求得たり。是私に可用物に非ず、誰にか可奉と人を待ける処に、楚の武王楚山に御狩をし給ひけるに、卞和此石を奉て、「是は世に無類程の玉にて候べし。琢かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則玉磨を召て是を被磨に、光更無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常の石にて候也。」とぞ奏しける。武王大に忿て、「さては朕を欺ける者也。」とて、卞和を召出して其左の足を切て、彼石を背に負せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此刑に合へる事を歎て、楚山の中に草庵を結て、此石を乍負、世に玉を知人のなき事をのみ悲で、年月久く泣居たり。其後三年有て武王隠れ給しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣声あり。文王怪て泣故を問給へば、卞和答て申さく、「臣昔此山に入て畑を打し時一の石を求得たり。是世に無類程の玉なる間、先朝武王に奉りたりしを、玉磨き見知らずして、只石にて候と申たりし間、我左の足を被斬進せて不慮の刑に逢候き、願は此玉を君に献じて、臣が無罪所を顕し候はん。」と申ければ、文王大に悦て、此石を又或玉琢にぞ磨かせられける。是も又不見知けるにや、「是全く玉にては候はず。」と奏しければ、文王又大に忿て、卞和が右の足を切せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両足を切られて、五体苦を逼しか共、只二代の君の眼拙き事をのみ悲で、終に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成にける。

☆ 上杉と畠山が高家のことを讒言したことと、廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)のこと

この頃上杉伊豆守重能と畠山大蔵少輔直宗と言う人がいました。特に才能がある訳でもないのに、官位だけは人より高いことを望み、たいした功績をあげることなく、褒賞は世間以上にもらおうと思い、師直、師泰の二人が将軍御兄弟の執事として、全てに信頼されていることを妬み、

何かにつけて無理やりあらを探しては、讒言を繰り返していました。しかし将軍尊氏も左兵衛督直義も執事兄弟がいなければ、一体誰が天下の騒乱を鎮静させることが出来るのかと思われていたので、多少の不都合に耳を貸すことはしませんでした。ただ口先巧みに讒言を行う者が、

世を乱すことにならないかと心をいためていました。確かに天下を支配し世を治める人には、必ずと言ってよいほど、補佐のできる優秀な臣下が居り、国の乱を鎮め主君の過誤を正すものです。いわゆる中国古代の伝説上の帝王、尭には八元、同じく舜には八トが居り、周の十乱、

漢には三傑(前漢の高祖劉邦に仕え、特に功績の大きかった三人)、世祖の二十八将(光武帝の事業を助けた功臣二十八人)がいます。また太宗の十八学士(唐の太祖に仕えた十八人の文学館学士)など、皆十分な俸給を得て官位も高いのですが、多人数の中で争う気持ちがないので、お互いの非を諌めて国の安定を図り、

天下が無事であることだけを考えていました。このような人々こそ忠臣と呼ばれるのですが、今回のように高、上杉両家の仲を裂いてうまく立ち回り、その権力を奪おうと密かに考えているのに、忠義心旺盛な人とは言えません。話が長くては聞くのが億劫だと言いますが、

しばらくたとえ話としてつまらないことをお話すれば、昔、異朝中国で卞和(べんか)と言う身分卑しき者が、楚山で畑を耕していましたが、回り一尺もあり磨くと玉になる原石を見つけました。これは自分の物にしてはいけない、誰かに献上すべきだと人を待っていた時、楚国の武王が楚山で狩を行いました。

卞和はこの石を献上して、「これは滅多にない素晴らしい玉でございます。磨いてみてください」と、申し上げました。武王は大変喜び、すぐ玉磨きの職人を呼び磨かせましたが、全く光ることなく輝きもしないので、磨き職人は、「これは玉ではございません。ただの普通の石でございます」と、申し上げました。

武王は激怒し、「すると彼奴は朕を騙そうとした者だ」と言って、卞和を呼び出し彼の左足を切り、その石を背負わせて楚山に追放しました。卞和は無罪なのにこの刑罰を受けたことを嘆き、楚山の中に粗末な家を造ってこの石を背負ったまま、世の中に玉を知る人のいないことを悲しんで、

長年にわたり泣き続けていました。その後三年経って、武王が崩御され、子息の文王の時代となりました。ある時文王は楚山へ狩に出かけましたが、草庵の中で人の泣き声が聞こえました。文王が不審に思い泣く理由を尋ねると、卞和は、「昔、私がこの山に入って畑を耕していた時、一つの石を手に入れました。

この石は素晴らしい玉となるはずなので、先帝の武王に献上しましたが、玉磨きの職人が見分けられず、ただの石だと武王に申し上げたため、私は左の足を切られ、思いがけない刑を受けたのでございます。願わくばこの玉を帝に献上致しますから、私が無実であることを証明していただきたいのです」と、

申し上げました。文王は大変喜ばれ、この石をまた或る磨師に磨かせました。しかしこの磨師も識別出来ず、「これは全く玉ではございません」と申し上げたので、文王もまた大いに怒って、卞和の右足を切って楚山の中に放置しました。卞和は両足を切断され、五体不満足の苦しみに身動きも出来ず、

ただ二代にわたる帝の眼力のなさだけが悲しく、とうとう我が身の死を早めることを願うようになり、落ちる涙の玉も血の色になりました。


角て二十余年を過けるに、卞和尚命強面して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去程に文王崩じ給て太子成王の御代に成にけり。成王又或時楚山に狩し給けるに、卞和尚先にもこりず、草庵の内より這出て、二代の君に二の足を切れし故を語て、泣々此石を成王に奉りける。成王則玉磨きを召て、是を琢かせらるゝに、其光天地に映徹して、無双玉に成にけり。是を行路に懸たるに、車十七両を照しければ、照車の玉共名付け、是を宮殿にかくるに、夜十二街を耀かせば、夜光の玉とも名付たり。誠に天上の摩尼珠・海底の珊瑚樹も、是には過じとぞ見へし。此玉代代天子の御宝と成て、趙王の代に伝る。趙王是を重じて、趙璧と名を替て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚ね共書を照す光不暗、輦路に月を不得共路を分つ影明也。此比天下大に乱て、諸侯皆威あるは弱きを奪ひ、大なるは小を亡す世に成にけり。彼趙国の傍に、秦王とて威勢の王坐けり。秦王此趙璧の事を伝聞て、如何にもして奪取ばやとぞ被巧ける。異国には会盟とて隣国の王互に国の堺に出合て、羊を殺して其血をすゝり、天神地祇に誓て、法を定め約を堅して交りを結ぶ事あり。此時に隣国に見落されぬれば、当座にも後日にも国を傾けられ、位を奪るゝ事ある間、互に賢才の臣、勇猛の士を召具して才を■べ武を争習也。或時秦王会盟可有とて、趙王に触送る。趙王則日を定て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定血未啜先に、秦王宴を儲て楽を奏し酒宴終日に及べり。酒酣にして秦王盃を挙給ふ時、秦の兵共酔狂せる真似をして、座席に進出て、目を瞋し臂を張て、「我君今興に和して盃を傾むとし給ふ。趙王早く瑟を調て寿をなし給へ。」とぞいらで申ける。趙王若辞せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟を調べ給ふ。君の傍には必左史右史とて、王の御振舞と言とを註し留る人あり。時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先有酒宴、秦王盃を挙給ふ時、趙王自為寿、調瑟とぞ書付ける。趙王後記に留りぬる事心憂しと被思けれ共、すべき態なければ力なし。盃回て趙王又飲給ひける時に、趙王の臣下に、始て召仕はれける藺相如と云ける者秦王の前に進出て、剣を拉き臂をいらゝげて、「我王已に秦王の為に瑟を調ぬ。秦王何ぞ我王の為に寿を不為べき。秦王若此事辞し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申て、誠に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞するに言無ければ自ら立て寿をなし、缶を打舞給ふ。則趙の左大史進出て、其年月の何日の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙給ふ時、秦王自ら酌を取て缶を打畢ぬと、委細の記録を書留て、趙王の恥をぞ洗ける。右て趙王帰らんとし給ける時、秦王傍に隠せる兵二十万騎、甲胄を帯して馳来れり。秦王此兵を差招て、趙王に向て宣けるは、「卞和が夜光の玉、世に無類光ありと伝承る。願は此玉を給て、秦の十五城を其代に献ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽に破て永く胡越を隔る思をなすべし。」とぞをどされける。

やがて二十余年が過ぎたのに、卞和はなお逞しく命を永らえ、石を背負いながら相変わらず泣いていました。やがて文王は崩御され、皇太子の成王の御代になりました。ある時また成王が楚山で狩を行った時、卞和はなお懲りずに草庵の中から這い出て、二代の王に両方の足を切られた事情を話し、

泣く泣くこの石を成王に献上しました。成王はすぐに玉磨師を呼び寄せ、この石を磨かせたところ、その光は天地にくまなく行き渡り、今まで見たことのない素晴らしい玉となりました。この玉を道路に架けてみると、車十七両を照らしたので、照車の玉と名付け、

これを宮殿に架けると夜の十二の街区を光り輝かせたので、夜光の玉とも名付けられました。確かに天上にある摩尼珠という宝玉や、海底の珊瑚樹でもこの玉にはかなわないと思えます。この玉は代々天子の御宝となって、趙王の代に伝わりました。趙王はこの玉を大切にし、

趙璧とその名を変え、決して肌から放すことはしませんでした。学び舎の窓に蛍を集めて、この玉と共に書物を照らす光は十分に明るく、月の無い夜でも天子が通行する道路を照らします。この頃、天下は大変乱れ切っており、諸侯の中でも力の強い者は弱いところを簒奪し、

大きい者は小さい者を滅ぼすと言う世の中になっていました。先ほどの趙国の傍にも、秦王(昭襄王)と言う強国の王がいました。秦王はこの趙璧の噂を聞き、何としても手に入れたくて策を練りました。当時異国には会盟と言って、隣国同士の王がお互い国境まで出掛け、羊を殺してその血をすすり、

天地の神々に誓って法律を整備し、互いに約束の履行を前提に国交を結ぶことがありました。この時、隣国に無視されるようなことがあれば、すぐにでも、また後日になってから国家を脅かされたり、王位を剥奪されることがあるので、各国は優秀な臣下、また勇猛な武将を選出して同行するため、

その才能を比較検討したり、武術の技量を争わせたりするのが常でした。ある時秦王は会盟を実施すると趙王(恵文王)に連絡しました。趙王はすぐに日を決めて国境まで出向きました。ところが会盟はまだ羊の血をすすることもしていないのに、秦王は宴席を設けて音楽を演奏し、酒宴は終日に及びました。

酒宴もたけなわになり、秦王が盃をあげられた時、秦の兵士らが酒に酔ったふりをして酒宴の席に現れ、目に怒りをあらわし、肩肘張って、「今、我々の主君が興を感じて、盃を傾けようとされています。趙王、早く瑟(しつ::中国古代の弦楽器の一つ)を演奏して、祝いの言葉を述べられよ」と、激しい口調で話しました。

趙王はもし断ったら秦の兵士に殺されるのではと思い、趙王はやむを得ず瑟を演奏しました。当時、王の傍には必ず左史、右史(中国古代の官名)と言って、王の行動と発言を記録する役人がいました。そしてこの時に、秦王の左太史が筆を取り、”秦、趙両国の会盟において、まず最初に酒宴が行われ、

秦王が盃をあげられた時、趙王は自ら祝賀を述べ瑟を演奏される”と、書き付けました。趙王は後々まで記録に残ることが心配でしたが、手のうちようが無ければ仕方ありません。盃が回ってきて趙王が再び飲もうとされた時、趙王の臣下でこの日初めて出仕した藺相如(りんしょうじょ)と言う者が、

秦王の前に進み出ると剣を抜き肱を張って、「我々の主君はすでに秦王のために瑟を演奏しました。秦王は何故我ら主君のために祝辞を述べないのですか。もし秦王がこの件お断りになれば、私は必ず貴殿と刺し違えて、その座に死ぬことになるでしょう」と申し上げ、覚悟のほどを見せました。

秦王は断ることが出来ず、自ら立ち上がって祝辞を述べ、缶(ほとぎ::水などを入れる素焼きの器)を打ちながら舞いました。すぐに趙国の左太史が進み出て、”何年何月何日に秦、趙両国の会盟が行われました。趙王が盃をあげられた時、秦王は自ら酒を注ぎ缶を打ち鳴らされました”と、詳しく記録に書きとめ、

趙王の恥を雪ぎました。やがて趙王が帰国しようとした時、秦王の傍に隠れていた兵士二十万騎が、甲冑に身を固めて駆けつけてきました。秦王はこの兵士らを呼び寄せ、趙王に向かって、「卞和が献上した夜光の玉、世に二つとない光を発すると聞いています。出来ればこの玉を賜って頂き、

その代わりに秦国の十五の城を献上しましょう。もし貴殿が玉をお渡しにならないなら、両国の会盟はたちどころに破綻をきたし、今後永遠に疎遠な関係が続くとお考えになってください」と、脅されたのでした。


異国の一城と云は方三百六十里也。其を十五合せたらん地は宛二三箇国にも及べし。縦又玉を惜て十五城に不替共、今の勢にては無代に奪れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是を得て後十五城に替たりし玉なればとて、連城の玉とぞ名付ける。其後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽約を変て、一城をも不出、玉をも不被返、只使を欺き礼を軽して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲り甚し。爰に彼藺相如、趙王の御前に参て、「願は君臣に被許ば、我秦王の都に行向て、彼玉を取返して君の御憤を休め奉るべし。」と申ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已国大に兵多して、我が国の力及がたし。縦兵を引て戦を致す共、争か此玉を取返事を得んや。」と宣ひければ、藺相如、「兵を引力を以て玉を奪はんとには非ず。我秦王を欺て可取返謀候へば、只御許容を蒙て、一人罷向べし。」と申ければ、趙王猶も誠しからず思給ながら、「さらば汝が意に任すべし。」とぞ被許ける。藺相如悦て、軈て秦国へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟をも不帯、衣冠正しくして車に乗専使の威儀を調て、秦王の都へぞ参ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直に可奏事有て参たる由を申入ければ、秦王南殿に出御成て、則謁を成し給ふ。藺相如畏て申けるは、「先年君王に献ぜし夜光の玉に、隠れたる瑕の少し候を、角共知せ進せで進置候し事、第一の越度にて候。凡玉の瑕をしらで置ぬれば、遂に主の宝に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此玉の瑕を君に知せ進らせん為に参て候也。」と申ければ、秦王悦て彼玉を取出し、玉盤の上にすへて、藺相如が前に被置たり。藺相如、此玉を取て楼閣の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫君子は食言せず、約の堅き事如金石。抑趙王心あきたらずといへ共、秦王強て十五城を以て此玉に替給ひき。而に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是盜跖が悪にも過、文成が偽にも越たり。此玉全く瑕あるに非ず。只臣が命を玉と共に砕て、君王の座に血を淋がんと思ふ故に参て候也。」と忿て、玉と秦王とをはたと睨み、近づく人あらば、忽玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠に思切たる眼ざし事がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言なく、群臣恐れて不近付。藺相如遂に連城の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。趙王玉を得て悦び給ふ事不斜。是より藺相如を賞翫せられて、大禄を与へ、高官を授給しかば、位外戚を越、禄万戸に過たり。軈て牛車の宣旨を蒙り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側て皆道を去る。

当時異国の一城と言うのは、一辺三百六十里の大きさです。それを十五も合わせたらその土地の大きさは、例えれば二、三ヶ国ほどにもなります。たとえ、玉を惜しんで十五城との交換を断っても、今の状況では無理やり奪われることになると思われ、趙王は不本意ながら十五の城との交換をのんで、

秦王に玉を提出しました。秦王はこの玉を手にしてから十五城と交換した玉と言うことで、連城の玉と名付けました。その後趙王は度々使者を遣わし、十五城を要求しましたが、秦王は約束など全く無視し、一つの城さえ提供しなければ、玉も返却せず、ただ使者をばか者扱いにし、

礼儀に反して返答さえしませんでしたので、趙王は玉を失っただけでなく、天下からひどい嘲笑を受けることになったのです。この事態に例の藺相如が趙王の御前に参り、「もし私に帝のお許しがいただけるなら、私は秦王の都に向かい、玉を取り返して帝の憤りをなだめましょう」と、

申し上げたところ趙王は、「そのようなこと出来る訳が無い、秦国は強大であり兵士の数も多ければ、我が国の力ではいかんともしがたい。たとえ兵士を召集して合戦を行っても、どうしてもこの玉を取り返せることは出来ない」と仰せられたので、藺相如は、「兵士を召集して力で玉を奪おうとするのではございません。

私が秦王を言葉巧みに欺いて、玉を取り返す策を持っていますので、ただお許しを頂ければ一人で向かおうと考えています」と申し上げました。趙王はなお不審には思いしましたが、「では、貴殿の考えに任せよう」と、お許しになったのです。藺相如は喜んで、すぐ秦国に向かいましたが、一人の兵士さえ連れず、

また自身武器は一切身に着けずに、衣冠を正しくして車に乗ると、特使としての威厳を保って秦王の都に行きました。宮殿の門に入ると礼を正して、趙王の使者として藺相如が直接申し上げるため参りましたと、参内の理由を申し入れたので、秦王は南殿にお出ましになり、すぐ謁見が許されました。

藺相如は畏まって、「先日陛下に献上した夜光の玉に、気付きにくい瑕が少しあるのを、お知らせすることなく黙ったままでいるのは、やはり重大な落ち度でございます。玉の瑕を知らずにおいておけば、最後まで所有者の宝とはならないとよく言いますので、趙王はこの玉が持つ瑕を陛下にお知らせするために、

私を使者として派遣されたのです」と、申し上げたところ秦王は喜ばれ、その玉を取り出し玉盤(玉で作った皿の類)の上に据え、藺相如の前に置かれました。藺相如はこの玉を取り上げ、楼閣の柱に押し当て剣を抜くと、「そもそも、一度口から出た君子の言葉は変えることが出来ませんし、

約束は金石のように固く守られるものです。もともと趙王は心外な要求に不満を感じながら、秦王の強大な威圧に押され、十五城との交換に応じこの玉をお渡ししたものです。しかしながら、十五城の提供もなされず、また玉の返却もされていません。

これでは盗跖(とうせき::中国古代の盗賊団の親分。盗賊の代名詞)以上の悪行であり、文成(唐の皇女、文成公主?作られた神通力伝説)に関する虚偽に満ちた伝説どころではないでしょう。この玉には全く瑕などありません。ただ私は我が命をこの玉と共に砕き、陛下の座に我が血を注ごうと思うが故、

参上したのです」と怒りをあらわにして、玉と秦王をキッと睨みつけ、近づく者あらば、即刻玉を破砕し返す刀で腹を切ろうと、厳しい覚悟を目つきや態度に表わしているので、無理やり押しとどめることも出来ません。秦王は唖然として言葉もなく、群臣らも恐れて近づくこともできません。

このように藺相如はついに連城の玉を奪い返し、趙の国に帰りました。趙王は玉を取り返してもらい、喜ぶことこの上ありません。このことがあってから、趙王は藺相如を寵愛して、多大な俸禄を支給し、また高い官位を授けたので、官位は外戚(母方の親族)の人達以上に昇り、

その禄は広大な領地を持つ領主以上になりました。また参内における牛車使用許可の宣旨をもらい、宮殿の門を出入りする時には、当時の諸侯や貴人らも笑みを漏らして道を譲りました。


爰に廉頗将軍と申ける趙王の旧臣、代々功を積み忠を重て、我に肩を双ぶべき者なしと思けるが、忽に藺相如に権を被取、安からぬ事に思ければ、藺相如が参内しける道に三千余騎を構へて是を討んとす。藺相如も勝たる兵千余騎を召具して、出仕しけるが、遥に廉頗が道にて相待体を見て戦むともせず、車を飛せ兵を引て己が館へぞ逃去ける。廉頗が兵是を見て、「さればこそ藺相如、勢ひ只他の力をかる者也。直に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指にだにも及ばじ。」と、笑欺ける間、藺相如が兵心憂事に思て、「さらば我等廉頗が館へ押寄せ、合戦の雌雄を決して、彼輩が欺を防がん。」とぞ望ける。藺相如是を聞て、其兵に向て涙を流て申けるは、「汝等未知乎、両虎相闘て共に死する時、一狐其弊に乗て是を咀と云譬あり。今廉頗と我とは両虎也。戦ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐也。弊に乗て趙をくらはんに、誰か是をふせがん。此理を思う故に、我廉頗に戦ん事を不思一朝の欺を恥て、両国の傾ん事を忘れば、豈忠臣にあらん哉。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企を休てけり。廉頗又此由を聞て黙然として大に恥けるが、尚我が咎を直に謝せん為に、杖を背に負て、藺相如が許に行、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執の心を恥づ、願は公我を此杖にて三百打給へ、是を以て罪を謝せん。」と請て、庭に立てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是を可打。廉頗を引て堂上に居へ、酒を勧め交を深して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟て、地せばく兵少しといへども、此二人文を以て行ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也。誠に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮は如虎窺ひ、西戎北狄は如竜見る折節、高・上杉の両家、差たる恨もなく、又とがむべき所もなきに、権を争ひ威を猜て、動れば確執に及ばんと互に伺隙事豈忠臣と云べしや。

その頃、廉頗将軍と言う超王に古くから仕える家臣は、代々にわたって功績を挙げ忠孝を積んできたので、自分より勝る者などいない筈だと思っていましたが、突然藺相如に権力を奪われ、心穏やかにはいられず、藺相如の参内途上に三千余騎の兵士を用意して、討ち取ろうとしました。

藺相如も優秀な兵千余騎を率いて出仕しますが、遥か前方で廉頗が路上で、待ち構えているのを見つけ、戦おうともせず車を飛ばし、兵も引き上げさせ我が舘に逃げ帰りました。廉頗の兵士らはこれを見て、「と言うことは、藺相如の持つ軍勢なんてものは、ただ他人の力を当てにしただけのものに違いない。

自軍だけで勝負を決しようとすれば、廉頗将軍の小指にも及ばないだろう」とあざ笑ったので、藺相如の兵士らは悔しく思い、「だったら、我ら廉頗の舘に押し寄せ合戦で雌雄を決し、彼らが好き勝手なことを言うのを止めさせよう」と、望みました。これを聞いた藺相如はその兵に向かって、

涙を流しながら、「汝らはまだ分ってないと思うが、両虎が戦いその結果共倒れになり、死ぬようなことになれば、一匹の狐が両虎の疲れに乗じて、噛み付いてくると言う例えがある。今の状況では、廉頗と私は両虎にあたり、戦うことがあれば共倒れになり死ぬこと必定である。そして秦の国は一匹の狐である。

疲れに乗じて趙を食いにくるだろうが、誰がこれを防ぐのか。この道理を考えるからこそ、私は廉頗と戦うことを思いとどまったのだ。一時の非難を恥じるばかりに戦い、両国が国を傾ける事態を避けたことは、まさしく忠臣と言えるだろう」と、道理を説いて制止に努めたので、兵士ら全員がこの道理に従い、

合戦の企てを中止しました。廉頗もまたこの事情を聞き、口には出さずとも、大いに恥じ入っていましたが、もっとはっきり自分の過ちを謝罪したくて、杖を背に負って藺相如のもとへ尋ねて行き、「貴殿の忠義と節度ある行動を聞き、固定観念にとらわれた自分の心を恥じ入っています。

どうか貴殿は私をこの杖にて、三百回打ち据えてください。それによって私は罪の謝罪をします」と頼み込み、泣きながら庭に立ちました。藺相如はもともと義理堅く、恨みを持ち続ける人ではありませんから、どうして廉頗を打つことなど出来ましょうか。廉頗の手を引いて堂上に座らせ、

酒を勧め親交を深めて帰されたのは、本当に優しい気持ちのあらわれでした。このようにして、趙国は秦国、楚国に挟まれ国土は狭い上、兵士も少なかったのですが、この二人が文事をもって通好を行い、武事を重視して統治したので、秦国や楚国に国家を脅かされることもなく、

長期にわたって国の安泰が保たれました。確かに私事を犠牲にしてでも忠義を重視する人は、このような行動をとるべきであるのに、最近のように東夷(東方諸国の未開人)南蛮(東南アジア諸国の未開人)が虎の如く相手の隙を窺い、西戎(西域諸国の未開人)北狄(北方諸国の未開人)は竜のように相手を偵察する時代、

高、上杉の両家は大した恨みも無く、また非難すべき点もないのに、権力を奪い合い相手の勢威を妬んで、どうかすると摩擦を起こそうと、互いに相手の隙を窺うようでは、どうして忠臣と呼ぶことが出来ましょうか。


○妙吉侍者事付秦始皇帝事
近来左兵衛督直義朝臣、将軍に代て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨に傾て夢窓国師の御弟子と成り、天竜寺を建立して陞座拈香の招請無隙、供仏施僧の財産不驚目云事無りけり。爰に夢窓国師の法眷に、妙吉侍者と云ける僧是を見て浦山敷事に思ひければ、仁和寺に志一房とて外法成就の人の有けるに、荼祇尼天の法を習て三七日行ひけるに、頓法立に成就して、心に願ふ事の聊も不叶云事なし。是より夢窓和尚も此僧を以て一大事に思ふ心著給ひにければ、左兵衛督の被参たりける時、和尚宣けるは、「日夜の参禅、学道の御為に候へば、如何にも懈る処をこそ勧め申べく候へ共、行路程遠して、往還の御煩其恐候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申法眷の僧の候を参らせ候べし。語録なんどをも甲斐々々敷沙汰し、祖師の心印をも直に承当し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看候て御法談候べし。」とて、則妙吉侍者を左兵衛督の方へぞ被遣ける。直義朝臣一度此僧を見奉りしより、信心胆に銘じ、渇仰無類ければ、只西天祖達磨大師、二度我国に西来して、直指人心の正宗を被示かとぞ思はれける。軈一条堀川村雲の反橋と云所に、寺を立て宗風を開基するに、左兵衛督日夜の参学朝夕の法談無隙ければ、其趣に随はん為に山門寺門の貫主、宗を改めて衣鉢を持ち、五山十刹の長老も風を顧て吹挙を臨む。況乎卿相雲客の交り近づき給ふ有様、奉行頭人の諛たる体、語るに言も不可及。車馬門前に立列僧俗堂上に群集す。其一日の布施物一座の引手物なんど集めば、如山可積。只釈尊出世の其古、王舎城より毎日五百の車に色々の宝を積で、仏に奉り給ひけるも、是には過じとぞ見へたりける。加様に万人崇敬類ひ無りけれ共、師直・師泰兄弟は、何条其僧の知慧才学さぞあるらんと欺て一度も更不相看、剰へ門前を乗打にして、路次に行逢時も、大衣を沓の鼻に蹴さする体にぞ振舞ける。吉侍者是を見て安からぬ事に思ければ、物語の端、事の次には、只執事兄弟の挙動、穏便ならぬ者哉と云沙汰せられけるを聞て、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔、すはや究竟の事こそ有けれ。師直・師泰を讒し失はんずる事は、此僧にまさる人非じと被思ければ、軈て交を深し媚を厚して様々讒をぞ構へける。

☆ 妙吉侍者と秦の始皇帝のこと

この頃、左兵衛督直義朝臣が将軍尊氏に代り天下の権力を握り、もっぱら禅の宗旨に傾倒して、夢窓国師の弟子となって天竜寺を建立したので、説法や参詣焼香の招請しきりで、仏の供養や僧侶をもてなすための金品は、驚くべき量に上りました。

さて、夢窓国師と同門の妙吉侍者と言う僧侶がこの状況を見てうらやましく思い、仁和寺にいる志一房と言う密教のようなものに卓越した人がいるので、その人から荼枳尼天(だきにてん::自在の神通力を持ち、人間の生死を半年前に見抜いて、その心臓を食らう鬼女)の法を教わって二十一日間修行を積んだ結果、

早くも修法の奥義を取得し、心に願ったことは全て成就できるようになりました。このことによって夢窓和尚も妙吉に一目置くようになり、左兵衛督が参られた時、和尚は、「日夜の参禅は仏道の修行のためですので、さも怠ることをお勧めするようではございますが、道中それなりの距離もあり、

往復の煩わしさも申し訳なく思いますので、今後は妙吉侍者と言う同門の僧を伺わせるようにします。彼は禅僧らの学説、教理などもこと詳しく研究し、開祖である達磨大師の心を、そのまま我が悟りの基礎になし得たことは、恐らく他の誰よりも優れていると思われるので、私に代わってお伺いさせますから、

お会いになっていただき、仏法についての議論されることを、お願いします」と言って、早速妙吉侍者を左兵衛督のもとへ行かせました。直義朝臣は一度この僧侶にお会いになると、その信仰の気持ちは身体に行き渡り、仏への深い信心は揺るぎなく、

それは天竺(インド)で禅宗を開かれた達磨大師が二度我が国に来られ、禅宗において悟りを得るための手段について、正しい方法を伝授されたかと思うほどです。やがて一条堀川村雲の反橋と言う所に、寺を建立して仏教の一派を立てられましたので、左兵衛督は日夜仏教の勉学に励み、

朝夕は説法にと休む間もない状況で、その宗旨に転向するために、山門(延暦寺)寺門(園城寺)の住職らが、宗派を変更して袈裟や鉢を手にし、五山十刹(寺格のことで、五山の下に十刹をおく)の長老なども、世間の風評を考慮して、新しい宗派に推薦されることを望みました。

況や公卿殿上人らが交友を求めて訪問する有様や、各省庁の長官らが媚びへつらう態度は、話や言葉で表すことも出来ない位です。訪問してきた車馬は門前に並び立ち、僧侶や俗人は建物内に溢れ返りました。その日一日の布施や引き出物など集めると、まるで山のように積みあがるでしょう。

これは釈尊がお生まれになったその昔、王舎城(古代インドの首都)より毎日五百台の車に色々と宝物を積んで、仏に献上を続けたことでも、今日一日の引き出物などには及ばないでしょう。このように万人から類無き尊崇を受けたのですが、師直、師泰兄弟はその僧侶にどれほどの知恵や学才があるのかと本気にせず、

一度も会おうとしないだけでなく、門前を車に乗ったまま通り過ぎ、道路で行き会った時も、法衣を履物の先で蹴るようなしぐさをしました。妙吉侍者はこの状況に不安を感じ、会話の端々や機会あるごとに、執事兄弟の挙動に不穏な気配が見られると、話しているのを聞きつけ、

上杉伊豆守と畠山大蔵少輔は、これ以上の機会はないだろう。師直、師泰のこの振る舞いについて讒言し、亡き者とするには、この僧侶以外に勝る者はいないだろうと思って、親交を深め機会を見つけては機嫌を取って、色々と陥れる策を練りました。


吉侍者も元来悪しと思ふ高家の者共の挙動なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政を破る最たりと被讒申事多かりけり。中にも言ば巧に譬のげにもと覚る事ありけるは、或時首楞厳経の談義已に畢て異国本朝の物語に及ける時、吉侍者、左兵衛督に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝と申ける王に、二人の王子坐けり。兄をば扶蘇、弟をば胡亥とぞ申ける。扶蘇は第一の御子にて御座か共、常に始皇帝の御政の治らで、民をも愍まず仁義を専にし給はぬ事を諌申されける程に、始皇帝の叡慮に逆てさしもの御覚へも無りけり。第二の御子胡亥は、寵愛の后の腹にて御座する上、好驕悪賢、悪愛異于他して常に君の傍を離れず、趙高と申ける大臣を執政に被付、万事只此計ひにぞ任せられける。彼秦の始皇と申は、荘襄王の御子也しが、年十六の始め魏の畢万、趙の襄公・韓の白宣・斉の陳敬仲・楚王・燕王の六国を皆滅して天下を一にし給へり。諸侯を朝せしめ四海を保てる事、古今第一の帝にて御坐かば、是をぞ始て皇帝とは可申とて、始皇とぞ尊号を献りける。爰に昔洪才博学の儒者共が、五帝三王の迹を追ひ、周公・孔子の道を伝て、今の政古へに違ぬと毀申事、只書伝の世にある故也とて、三墳五典史書全経、総て三千七百六十余巻、一部も天下に不残、皆焼捨られけるこそ浅猿けれ。又四海の間に、宮門警固の武士より外は、兵具を不可持、一天下の兵共が持処の弓箭兵仗一も不残集て是を焼棄て、其鉄を以て長十二丈金人十二人を鋳させて、湧金門にぞ被立ける。加様の悪行、聖に違ひ天に背きけるにや、邯鄲と云所へ、天より災を告る悪星一落て、忽に方十二丈の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅て漢の代になるべき瑞相を示したりける。始皇是を聞給て、「是全く天のする所に非ず、人のなす禍也。さのみ遠き所の者はよも是をせじ四方十里が中を不可離。」とて、此石より四方十里が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便なれ。東南には函谷二■の嶮を峙て、西北には洪河■渭の深を遶らして、其中に回三百七十里高さ三里の山を九重に築上て、口六尺の銅柱を立、天に鉄の網を張て、前殿四十六殿・後宮三十六宮・千門万戸とをり開き、麒麟列鳳凰相対へり。虹の梁金の鐺、日月光を放て楼閣互に映徹し、玉の砂・銀の床、花柳影を浮て、階闥品々に分れたり。其居所を高し、其歓楽を究給ふに付ても、只有待の御命有限事を歎給ひしかば、如何して蓬莱にある不死の薬を求て、千秋万歳の宝祚を保たんと思給ひける処に、徐福・文成と申ける道士二人来て、我不死の薬を求る術を知たる由申ければ、帝無限悦給て、先彼に大官を授けて、大禄を与へ給ふ。

妙吉侍者も以前から良い感情を持っていない高家の者たちの挙動なので、機会あるたびに彼らの所業の状況について、国を乱し政治の混迷を招く最たるものだと、悪口を言うことが多かったのです。その中でも言葉巧みな批判だと思えることがありました。それは、

ある時首楞厳経(しゅりょうごんぎょう::悟りを得る方法を説く経)の講義が終わって、異国や我が国の諸事情の話になった時、妙吉侍者は左兵衛督に向かって、「昔、秦の始皇帝と言う王に、二人の王子がおられました。兄を扶蘇(ふそ)と言い、弟は胡亥(こがい)と言います。扶蘇は第一の御子(長男)ですが、

いつも始皇帝の政治について、慈愛の心をもって民と接することもなく、道徳を第一に考えようともしないことを、お諌めされるので始皇帝のお考えと相容れず、帝は特に可愛がろうとはしませんでした。第二番の御子、胡亥は始皇帝の寵愛する后がお産みになった子である上、

権力をもてあそび賢者は傍におかず、常に始皇帝の傍に近侍し、趙高と言う大臣を執政に登用して、万事を趙高の采配に任せました。さて、秦の始皇帝と言う人は、荘襄王の子供ですが、十六歳の初め頃、魏の畢万(ひつまん)、趙の襄公、韓の白宣、斉の陳敬仲、楚王、燕王の六国を全て滅ぼし、

天下の統一を成し遂げました。周辺の諸侯を朝廷に服属させ、四海周辺の安定を保ったことは、古今第一の帝であり、この帝を始めての皇帝と言うべきだと、始皇と言う尊号を贈られました。しかしこの時、昔からの知識階級や博学の儒学者たちが、

三皇五帝(古代中国の神話伝説時代の八人の帝王)の政治手法を手本と考え、周公(儒者が尊崇する聖人の一人)、孔子の説く教義を伝えている関係上、今の政治実態は昔と違っていると批判をするのは、ただ古人の書き記した書物が世の中にあるのが原因だとして、三墳(さんぷん::三皇の書)五典(ごてん::五帝の書)

歴史書、経典など、全て三千七百六十余巻、一部たりと世に残すことなく皆、焼却されたことは誠に情け無く嘆かわしいことでした。また世間において、宮城の門を警固する者以外、武器を持つことは許可しないと、全国の兵士らが持っている弓箭(弓矢)、兵杖(ひょうじょう::戦闘用の武器)も残すことなく集め、

これも焼却し、その鉄で背丈十二丈ある鉄製の人体十二体を鋳させ、湧金門の傍に立たせました。このような悪行は、聖人たる者の行いではなく、天意に背いているからなのか、邯鄲と言う場所に、天から災いを告げるかのように不吉な星が落ちて、すぐ一辺十二丈もある石になりました。

その一面には一句の文字があり、秦の世が終わりを告げ、漢の時代の到来を暗示するようなことが書いてありました。始皇帝はこの話を聞くと、『これは決して天が行ったことではなく、人の手による嫌がらせだ。それも決して遠方の者がした仕業ではなく、十里以内に犯人がいるだろう』と言って、

この石から十里四方にいる男女を身分に関係なく、一人残さず首を刎ねたことは可哀そうなことでした。東南の方向には函谷と二こうの険しい山塊を置き、西北には洪河けい渭と言う深い大河を配置し、その中に周囲三百七十里、高さ三里の山を幾重にも築き上げ、一辺六尺の銅製の柱を立て、

天には鉄の網を張り、政務を行う表向きの殿舎は四十六棟、奥向きの宮殿として三十六宮と言う膨大な建物群を構え、聖人を象徴する麒麟の像を並べ、また鳳凰が向かい合っています。屋根を支える虹のように美しい横木、黄金で造った垂木、太陽と月が光り輝くと、楼閣は互いに照らしあい、

玉の砂、銀の床には季節の花々が咲き競い、宮殿内は各種の小門や階段で分けられています。この宮殿を今以上に整備し、歓楽を追い求めれば求めるほど、人間である以上生命に限りあることを嘆かれ、どんなことがあっても、蓬莱にあると言う不老不死の薬を手に入れて、

千年も万年も帝として命を保ちたいと思っているところに、徐福と文成二人の道士(神仙の術を納めた僧)が現れ、自分らは不死の薬を手に入れる術を知っていると申し上げたので、始皇帝は大喜びし、まずその人間に高位の官職を授け、高い俸禄を支給しました」


軈て彼が申旨に任て、年未十五に不過童男丱女、六千人を集め、竜頭鷁首の舟に載せて、蓬莱の島をぞ求めける。海漫々として辺なし。雲の浪・烟の波最深く、風浩々として不閑、月華星彩蒼茫たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々として求るに所なし。蓬莱を不見否や帰らじと云し童男丱女は、徒に舟の中にや老ぬらん。徐福文成其偽の顕れて、責の我身に来らんずる事を恐て、「是は何様竜神の成祟と覚候。皇帝自海上に幸成て、竜神を被退治候なば、蓬莱の島をなどか尋得ぬ事候べき。」と申ければ、始皇帝げにもとて、数万艘の大船を漕双べ、連弩とて四五百人して引て、同時に放つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。是は成祟竜神、若海上に現じて出たらば、為射殺用意也。始皇帝已に之罘の大江を渡給ふ道すがら、三百万人の兵共、舷を叩き大皷を打て、時を作る声止時なし。礒山嵐・奥津浪、互に響を参へて、天維坤軸諸共に、絶へ砕ぬとぞ聞へける。竜神是にや驚き給けん。臥長五百丈計なる鮫大魚と云魚に変じて、浪の上にぞ浮出たる。頭は如師子遥なる天に延揚り、背は如竜蛇万頃の浪に横れり。数万艘の大船四方に漕分れて同時に連弩を放つに、数百万の毒の矢にて鮫大魚の身に射立ければ、此魚忽に被射殺、蒼海万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝其夜龍神と自戦ふと夢を見給たりけるが、翌日より重き病を請て五体暫も無安事、七日の間苦痛逼迫して遂に沙丘の平台にして、則崩御成にけり。始皇帝自詔を遺して、御位をば第一の御子扶蘇に譲り給たりけるを、趙高、扶蘇御位に即給ひなば、賢人才人皆朝家に被召仕、天下を我心に任する事あるまじと思ければ、始皇帝の御譲を引破て捨、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥と申けるに、代をば譲給たりと披露して、剰討手を咸陽宮へ差遣し、扶蘇をば討奉りてげり。

妙吉の話は続きます。「そしてすぐ徐福の要求に応じて、年のころ十五歳に満たない男の子や女の子、六千人を集め、竜頭鷁首(りょうとうげきしゅ::船首に竜の頭と想像上の水鳥、鷁の首を彫刻した舟)の舟に乗せて、蓬莱の島を求めて船出しました。海は広々として何処までも続いているようです。

雲や海上を漂う霧も果てなく続き、向かう先も知れぬ風は激しく吹き、月の光や星の瞬きも遥かかなたに見えます。蓬莱山(伝説上の山で、不老不死の薬を持つ仙人が住むと言われていた)は今も昔も、ただ単に名前だけを聞いていることなので、この広々とした地球上で一体どうして探せば良いのでしょうか。

蓬莱を見つけなければ帰らないと言う男女の子供達は、いたずらに舟の中で老いていきました。徐福と文成は自分らの嘘が発覚し、責任を取らされることを恐れて、『これは間違いなく竜神の祟りだと考えられます。皇帝が自ら海上にお出ましになり、竜神を退治していただけたら、

蓬莱山のある島が見つけられないことはありません』と申し上げると、始皇帝も確かにそうだと思われ、数万艘の大船を並べ、一度に多くの矢を射ることの出来る大弓の射手として、四、五百人を集め、舟ごとに大弓と大きな矢を装備しました。これは祟りを与える竜神がもし海上に現れたなら、

射殺するための用意です。始皇帝が早くも之罘(しふ::山東省にある海中に突き出た半島の名)の大河を渡る間中、三百万人の兵士らは船べりを叩き、太鼓を打ち鳴らして上げる閧の声は、止むことがありませんでした。磯に吹きつける激しい風と、沖から寄せてくる荒々しい波の音は、互いに響き合い、

天を支えていると言う天維(てんい)と、大地を貫いて支えていると言う坤軸(こんじく)諸共、砕け散るかのように聞こえます。竜神もこの様子に驚いたのでしょうか。体長五百丈もある鮫大魚(こうだいぎょ::大海に住んでいたと言う巨大な魚)と言う魚に姿を変え、波の上に浮かび出たのです。

その頭は獅子のようで遥か天まで伸び上がり、背中は竜蛇(セグロウミヘビ?)のようで広々とした波の上で横になっています。数万艘もある大船が四方に漕ぎ分れて、同時に大弓を放ったところ、数百万本の毒矢が鮫大魚の体に突き刺さり、この魚はすぐに死んでしまい、

青々とした大海の波の色は皆、血に染まったのでした。始皇帝はその夜、竜神と自ら戦う夢をご覧になられましたが、翌日より重病を発症し重態に陥りました。七日間に渡って苦しまれたのですが、ついに沙丘の平台(河北省平郷)にて、崩御されたのでした。始皇帝は自らの遺書によって、

次の皇帝を長子の扶蘇に譲ると決められていたのを、趙高は扶蘇が帝位を継がれたなら、優秀な人材が全て朝廷に吸収され、天下を自分の思い通りに出来ないと考え、始皇帝の譲位を記した遺書を破り捨て、趙高が養い育てている胡亥と言う第二の王子に帝位をお譲りになられたと発表し、

それだけでなく討手を咸陽宮に向かわせ、扶蘇を討ち取ったのでした」


角て、幼稚に坐する胡亥を二世皇帝と称して、御位に即奉り、四海万機の政、只趙高が心の侭にぞ行ひける。此時天下初て乱て、高祖沛郡より起り、項羽楚より起て、六国の諸侯悉秦を背く。依之白起・蒙恬、秦の将軍として戦といへ共、秦の軍利無して、大将皆討れしかば、秦又章邯を上将軍として重て百万騎の勢を差下し、河北の間に戦しむ。百般戦千般遭といへ共雌雄未決、天下の乱止時なし。爰に趙高、秦の都咸陽宮に兵の少き時を伺見て二世皇帝を討奉り、我世を取んと思ければ、先我が威勢の程を為知、夏毛の鹿に鞍を置て、「此馬に召れて御覧候へ。」と、二世皇帝にぞ奉りける。二世皇帝是を見給て、「是非馬、鹿也。」と宣ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召れて、鹿・馬の間を御尋候べし。」とぞ申ける。二世則百司千官公卿大臣悉く召集て、鹿・馬の間を問給ふ。人皆盲者にあらざれば、馬に非ずとは見けれ共、趙高が威勢に恐て馬也と申さぬは無りけり。二世皇帝一度鹿・馬の分に迷しかば、趙高大臣は忽に虎狼の心を挿めり。是より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣し、二世皇帝を責奉るに、二世趙高が兵を見て、遁るまじき処を知給ければ、自剣の上に臥て、則御自害有てけり。是を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦ける章邯将軍も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽に降人に成て、楚の項羽の方へ出ければ、秦の世忽に傾て、高祖・項羽諸共に咸陽宮に入にけり。趙高世を奪て二十一日と申に、始皇帝の御孫子嬰と申しに被殺、子嬰は又楚項羽に被殺給しかば、神陵三月の火九重の雲を焦し、泉下多少の宝玉人間の塵と成にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡し事は、只趙高が侈の心より出来事にて候き。されば古も今も、人の代を保ち家を失ふ事は、其内の執事管領の善悪による事にて候。

なおも話は続きます。「このように幼い胡亥を二世皇帝と名乗って即位させ、天下のあらゆる政治を全て趙高が思いのまま行ったのでした。そしてこの時代になって初めて天下は乱れ出し、高祖劉邦が沛郡にて蜂起し、楚国の将軍項羽も蜂起すると、六国の諸侯は全て秦国に反旗を翻しました。

このため白起(はくき)や蒙恬(もうてん)が秦国の将軍として戦いましたが、秦軍は有利に戦闘を進めることが出来ず、大将らが全員討ち死にしてしまったので、秦軍は章邯(しょうかん)を総大将にして、再度百万騎の軍勢を派遣し、河北周辺にて戦わせました。百度にわたり戦闘を行い、

千回の会戦を実施しましたが未だ雌雄を決することなく、天下の騒乱は続きました。この時、趙高は秦の首都咸陽宮に守備兵が手薄なのを見て、二世皇帝を亡きものにして天下を我が物にしようと思ったのです。そしてまず自分の権勢の程度をはかるため、

夏毛になった鹿に鞍を置き、『この馬にお乗りください』と、二世皇帝に献上しました。これを見た二世皇帝は、『これは馬ではない、鹿であろうが』と仰せられたので、趙高は、『それなら、宮中の大臣たちをお呼びになり、鹿か馬なのか尋ねられたら良いでしょう』と、申し上げたのです。

二世皇帝はすぐ各省庁の役員、公卿、大臣ら全員を呼び集め、鹿なのか、それとも馬なのかとお尋ねになりました。集まった人たちは皆盲目ではないので、馬ではないと思いましたが、趙高の威勢に恐れをなして馬ではないと言う者はいませんでした。二世皇帝も一度は鹿と馬との分別に迷われたので、

趙高大臣はすぐ残忍な考えを起こしました。そこで趙高は今の状況では自分の勢威に対抗できる者はいないと思い、兵士を宮中に向かわせ二世皇帝を問い詰めたところ、二世皇帝は趙高の軍勢を見て、とても逃れられないと考えられ、すぐ自分の剣に覆いかぶさって、御自害されました。

この事態を聞いた秦の将軍で、今は漢国と楚国と戦っている章邯将軍も、『今は誰を主君にして、秦の国を守れば良いのか』と言って、即刻降伏を申し出て、楚国の項羽軍に出頭したので、秦の治世は瞬く間に揺らぎ、高祖劉邦と項羽は二人して秦の都、咸陽宮に入られたのでした。

趙高は国を奪い取ってから二十一日だと言うのに、始皇帝の孫である子嬰(しえい)に殺され、その子嬰もまた楚の項羽に殺され、咸陽宮を含む宮殿の火災は三月に及び、宮中の雲を焦がし続け、墓地に埋葬されていた数多くの宝玉も、現世の塵芥となってしまいました。あれほど素晴らしかった秦の治世が、

二世皇帝になって滅亡に至ったことは、取りも直さず趙高の勝手気ままな、思い上がった心がけによるものです。そこで今も昔も世の中を治めることも、また家系を断つのも、その組織内にいる執事管領の善し悪しにかかっているのです」


今武蔵守・越後守が振舞にては、世中静り得じとこそ覚て候へ。我被官の者の恩賞をも給り御恩をも拝領して、少所なる由を歎申せば、何を少所と歎給ふ。其近辺に寺社本所の所領あらば、堺を越て知行せよかしと下知す。又罪科有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属し、「如何可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦如何なる御教書也とも、只押へて知行せよ。」と成敗す。又正く承し事の浅猿しかりしは、都に王と云人のまし/\て、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも皆流し捨奉らばやと云し言の浅猿さよ。一人天下に横行するをば、武王是を恥しめりとこそ申候。況乎己が身申沙汰する事をも諛人あれば改て非を理になし、下として上を犯す科、事既に重畳せり。其罪を刑罰せられずは、天下の静謐何れの時をか期し候べき。早く彼等を討せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ進せんと思召す御心の候はぬや。」と、言を尽し譬を引て様々に被申ければ、左兵衛督倩事の由を聞給て、げにもと覚る心著給にけり。是ぞ早仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる。

話は続きます。「現在の武蔵守、越後守の行動を見れば、とても世の中を安定できるとは考えられません。私の使用人も恩賞を頂き、恵みも受けておりますが、その過小なことを嘆きますと、何が少ないと言うのだ。貴殿の近辺に寺社や本所(名目上の権利所有者)の所領があれば、越境して支配せよと命じます。

また罪を犯して財産や官職を没収された人が、縁故を頼って書類を提出して、執事兄弟の支配下に入ったものの、『一体どうすれば良いのでしょうか』と嘆けば、『よし分った。師直はそ知らぬ顔をしているから、たとえどんな書類があろうと、無視して支配すればよい』と、言い渡します。

また話に聞いたことですが、本当に情け無いのは、都に王と言う人がおられて、多くの所領を占めて、内裏や院の御所などを所有し、馬から降りなければならないのも不愉快でうっとうしい。もし王は必要だという理由があるなら、木で造るか、金属で鋳造するなどして、生身の院や国王などは、

恐れながらどこかに皆流し捨てれば良いのだなどの発言は、誠に情け無い限りです。天下で一人でも無法者がほしいままな行動をすると、周国の武王はこれを恥とした、と言います。自分の言動について追従する人がいれば、間違ったことを改めて正しいと理由付けし、朝臣として朝廷の権威を犯す罪は、

すでに数知れず行っています。もしそれらの罪を罰することをしなければ、天下の安定など何時になったら実現できるのでしょうか。一刻も早く彼らを征伐し、上杉、畠山両人を執権に抜擢して、幼い若君に天下を治めて頂こうと言うお気持ちは、持っておられないのでしょうか」と言葉を尽くし、

色々なたとえ話を加えて申し上げたので、左兵衛督直義も熱心に説明をお聞きになり、なるほどと思う気持ちになられました。これもまた、仁和寺の六本杉の梢であちらこちらの天狗どもが、またもや天下を騒乱の渦に巻き込もうと、色々策を練っている関係かと思えます。


○直冬西国下向事
先西国静謐の為とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。抑此直冬と申は、古へ将軍の忍て一夜通ひ給たりし越前の局と申女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵国東勝寺の喝食なりしを、男に成て京へ上せ奉し人也。此由内々申入るゝ人有しか共、将軍曾許容し給はざりしかば、独清軒玄慧法印が許に所学して、幽なる体にてぞ住佗給ひける。器用事がら、さる体に見へ給ければ、玄慧法印事の次を得て左兵衛督に角と語り申たりけるに、「さらば、其人是へ具足して御渡候へ。事の様能々試て、げにもと思処あらば、将軍へも可申達。」と、始て直冬を左兵衛督の方へぞ被招引ける。是にて一二年過けるまでもなを将軍許容の儀無りけるを、紀伊国の宮方共蜂起の事及難義ける時、将軍始て父子の号を被許、右兵衛佐に補任して、此直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫静謐の体にて、直冬被帰参しより後、早、人々是を重じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給しか共、猶座席なんどは仁木・細川の人々と等列にて、さまで賞翫は未無りき。而るを今左兵衛督の計ひとして、西国の探題になし給ひければ、早晩しか人皆帰服し奉りて、付順ふ者多かりけり。備後の鞆に座し給て、中国の成敗を司どるに、忠ある者は不望恩賞を賜り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非をかざりて、上を犯しつる師直・師泰が悪行、弥隠れも無りけり。

☆ 直冬が西国に下向したこと

とりあえず西国を安定させなければと、将軍尊氏の嫡男、宮内大輔直冬を備前国に下向させました。そもそもこの直冬と言う人は、その昔、若かりし尊氏が隠密に一夜通った越前の局と言う女に産ませた子であり、当初は武蔵国東勝寺の喝食(かっしき::禅寺で食事の世話などをする有髪の少年)をしていましたが、

元服してから京に上られた人です。これらの事情を内々に将軍にお知らせする人はいましたが、将軍はお許しにならず、一人清軒玄慧法印のもとで学びながら、ひっそりとわび住まいされていました。彼の持つ才能や人柄などに見るべきものがあり、玄慧法印は折を見て左兵衛督に彼のことを話すと、

左兵衛督は、「では一度彼をここに連れて来てください。色々と質問などして、もし見込みがあれば将軍に取次ぎましょう」となり、はじめて直冬を左兵衛督に引き合わせました。しかし一、二年が過ぎてもなお将軍の許しは得られなかったのですが、その頃、紀伊国の宮方どもの蜂起にてこずっていたので、

将軍ははじめて親子の名乗りを許され、右兵衛佐に任命し討手の大将として直冬を派遣しました。その結果、当面は紀州の安定も得られたので、直冬は都に帰還しましたが、それ以後人々は早くも直冬を重要視するようになり、また時には将軍の間近に出仕などするようになりましたが、

それでもまだ座席に関しては、仁木や細川の人々らと同列の扱いで、特別な扱いなどは未だに全くありませんでした。そんな中、今回左兵衛督の推薦によって西国の探題(地方の政治、軍事、裁判などを司る地方官)に任命されると、いつの間にか人々は彼に心を寄せ、支配下に入る者も多かったのです。

やがて備後の鞆に着任し、中国の行政や司法などに携わりましたが、忠孝ある人は思いがけない恩賞を賜り、何か不都合のあった者でも、必要以上の罰則を科しませんでした。そのため長年にわたって、過失などをごまかしたり、上層部への不遜な行動をとってきた師直や師泰の悪行は、ますます目立ってきました。      (終り)

←前へ   太平記総目次に戻る