27 太平記 巻第二十七 (その一)


○天下妖怪事付清水寺炎上事
貞和五年正月の比より、犯星客星無隙現じければ旁其慎不軽。王位の愁天下の変、兵乱疫癘有べしと、陰陽寮頻に密奏す。是をこそ如何と驚処に、同二月二十六日夜半許に将軍塚夥しく鳴動して、虚空に兵馬の馳過る音半時許しければ、京中の貴賎不思議の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷す処に、明る二十七日午刻に、清水坂より俄に失火出来て、清水寺の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台・鎮守まで一宇も不残炎滅す。火災は尋常の事なれ共、風不吹大なる炎遥に飛去て、厳重の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄定れる表事也。又同六月三日八幡の御殿、辰刻より酉時まで鳴動す。神鏑声を添て、王城を差て鳴て行。又同六月十日より太白・辰星・歳星の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘兵革相続、餓■満巷べしと天文博士注説す。又潤六月五日戌刻に、巽方と乾方より、電光耀き出て、両方の光寄合て如戦して、砕け散ては寄合て、風の猛火を吹上るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形の者見へて、乾の光退き行、巽の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪、如何様天下穏ならじと申合にけり。

☆ 天下に不思議なことが起こったことと、清水寺が炎上したこと

貞和五年(正平四年::1349年)正月の頃から不吉な星や彗星などが次々と現れるので、何かにつけ注意を払い、慎み深くしていました。皇室安定に対する不安や、天下の変事、その他兵乱や悪性の流行病が起こるかもしれないと、陰陽寮が内密に奏上を繰り返しました。これだけでもどうすれば良いのかと驚いていたら、

同年二月二十六日の夜半に、将軍塚が激しく鳴動し、天空で兵馬の駆け過ぎる音が一時間ほど続いたので、京都中の人たちは皆、不思議に思い、一体何事が起こるのかと肝を冷やしていたところ、翌二十七日の午刻(正午頃)に、清水坂から突然火災が発生し、清水寺の本堂、阿弥陀堂、

楼門、舞台、鎮守まで残らず全焼してしまったのでした。火災は特に珍しいことではありませんが、風はそれほど激しく吹いてないのに、大きな炎が遠くまで飛び去り、霊験あらたかな祈祷所まで、一時に焼失するとは普通ではありません。天下に何か大きな変革が起こりそうな時に、

霊験あらたかな寺院、神社において火災が発生し、注意を喚起させようとするのは良くあることです。また同年の六月三日、八幡の御殿が辰刻(午前八時頃)より酉刻(午後六時頃)まで鳴動しました。神社より発せられた鏑矢が、音を立てながら皇居に向かって飛んで行きました。

また同じく六月十日より太白(たいはく::金星)、辰星(しんせい::水星)、歳星(さいせい::木星)の三つの星が、天空に現れ続けたので、そう時を経ずに大乱が発生して、天子はその地位を失い、大臣らは災難を蒙り、子は父親を殺し、朝臣は帝を殺害したり、飢饉と疫病の発生と共に兵乱が続くため、

巷には飢えた人民が満ち溢れるでしょうと、天文博士は説明しました。またその外にも閏六月五日、戌刻(午後八時頃)に巽(たつみ::東南)の方角と乾(いぬい::北西)の方角から稲光が発生すると、その両方の光がぶつかり、まるで戦うように砕け散ったと思えば再び集まり、その様子は風が猛火を吹き上げるようであり、

消え残った光は天地に満ち溢れ、その中にこの世の物とは思えない怪しげなものが見え、乾方向の光が戻りだすと、巽方向の光は進み出し、お互い光は消え去ったのでした。このように次々と不可解な出来事が続くとは、天下に異変が起こる前兆に間違いなかろうと話し合ったのです。


○田楽事付長講見物事
今年多の不思議打続中に、洛中に田楽を翫ぶ事法に過たり。大樹是を被興事又無類。されば万人手足を空にして朝夕是が為に婬費す。関東亡びんとて、高時禅門好み翫しが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮の沙門有りけるが、四条橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合せ老若に分て能くらべをぞせさせける。四条川原に桟敷を打つ。希代の見物なるべしとて貴賎の男女挙る事不斜、公家には摂禄大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹是を被興しかば、其以下の人々は不及申、卿相雲客諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷を打。五六八九寸の安の郡などら鐫貫て、囲八十三間に三重四重に組上、物も夥しく要へたり。已時刻に成しかば、軽軒香車地を争ひ、軽裘肥馬繋に所なし。幔幕風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若、東西に幄を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋の幕には纐纈を張、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚るに不異。舞台に曲■縄床を立双べ、紅緑の氈を展布て、豹虎の皮を懸たれば、見に眼を照れて、心も空に成ぬるに、律雅調冷く、颯声耳を清処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴し音取笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭を凝し、粧ひ紅粉を尽したる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練出たれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の金黒にて、色々の花鳥を織尽し、染狂たる水干に、銀の乱紋打たる下濃の袴に下結して拍子を打、あやい笠を傾け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠に由々敷ぞ見へたりける。一の簓は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚す。角て立合終りしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染てぞし出したる。斯る処に新座の楽屋八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎皮の連貫を蹴開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛上り、左へ回右へ曲り、抛返ては上りたる在様、誠に此世の者とは不見、忽に山王神託して、此奇瑞を被示かと、感興身にぞ余りける。されば百余間の桟敷共怺兼て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚叫びける間、感声席に余りつゝ、且は閑りもやらず。

☆ 田楽のことと、長講が田楽を見物したこと

さて今年(貞和五年)になって不思議なことが続く中、洛中において田楽をもてはやすことも、その程度を逸していました。執権北条高時がこの田楽に非常な興味を持たれていました。そのため多くの人々が夢中になり、田楽には日々無駄な費用を支出しました。関東の鎌倉幕府が滅亡したので、

高時禅門(ぜんもん::俗人のままで剃髪し、仏門に入った男)が好み愛した田楽も、先代において一つの流派が途絶えました。良くないことだと言われています。貞和五年六月十一日、抖薮(とそう::欲望を払いのけ、心身を清浄にする修行すること)の僧侶がいましたが、四条橋を架けようと思い、新座(新しく結成した座)と本座の田楽を演じさせ、

老若に分かれて優劣を競わせました。そのため四条河原に桟敷席を設けました。前代未聞の見ものになるだろうと、身分の貴賎に関係なく男女がこぞって集まり、公家としては摂政関白家や大臣家、門跡としては現在の天台座主、梶井二品法親王(承胤法親王か?)、武家では高時が田楽を楽しんでいたので、

一族の人達は当然として諸殿上人に仕える武士たちや、神社、寺院の神官、僧侶に至るまで他の人に負けじとばかり、桟敷席を設けました。五、六寸や八、九寸の安の郡(?)などの材木をくりぬいて、八十三間に渡って三重四重に組み上げ、各種備品なども数多く用意しました。やがて開演時間も近づいてきたので、

綺麗に飾った車などが道路を争うように走り、美しく肥えた馬も、それをつなぎとめる場所もありません。幔幕は風に翻り、芳香は天を覆い尽くしました。新座、本座の老若らは東西に帷を設置し、それをつなぐため橋のような通路が設けられています。楽屋の幕には纐纈(こうけつ::布を糸でくくって染め、模様を出したもの)の布を張り、

上部を覆う幕には金糸を使用した布が用いられているので、ひらひらと風にあおられている様子は、炎が舞っているように見えます。舞台には曲ろく(ろく::碌のつくり部分)と言う高級な椅子や、縄床(じょうしょう)と言う縄張りの粗末な椅子などを並べ、紅緑色の織物を敷きつめ、虎や豹の毛皮をかけています。

それを見る目はくらみそうになり、心もうつろになりかけた時、音調も奥ゆかしくも、また激しく響き、サッと吹く風に耳をすましていると、東西の楽屋より中門の入口にある鼓を打ち鳴らし、音取(ねとり::音楽を奏する前に、音程の調整用に行う一種の短い序奏)の笛が吹かれました。やがて花の香りにつつまれ、

美しく化粧を施した眉目麗しい童、八人が皆、金襴(綾また繻子地に金糸で模様を織り出した織物)の水干(略礼装の一種)を着て、東の楽屋から舞台に登場してくると、今度は白く清らかな衣装をまとった法師の八人が、薄化粧した上にお歯黒を染め、種々な花や鳥を織り出し、染色にも凝った水干を着て、

銀糸で紋を描いた裾濃の袴を帯で結び、拍子を打ちながらイ草で編んだ笠を傾けて、西の楽屋から颯爽と現れてきたのは、本当に素晴らしく立派に見えました。まず初めに簓(ささら::民族楽器の一種)を鳴らしながら本座の阿古が登場すると、乱拍子を新座の彦夜叉が打ち鳴らし、

刀玉(かたなだま::数本の短刀を空中に投げては手で受け取る曲芸)を道一が演じ、想像を絶する素晴らしい演技に、見物人らは驚くばかりです。このようにして競演が終了すると、日吉神社の山王が姿を変えて現れて、衆生を救済するために行う猿楽(一種のこっけいな物まねや言葉芸)が静かに始まりました。

その時、新座の楽屋から八、九歳の子供が猿の面をつけられて、御幣を差し上げながら赤地の金襴の打ち掛けに、虎の皮で作った沓で蹴りまわしながら、小刻みの拍子に乗って、紅緑のそり橋を斜めに走り出てくるや、欄干の上に飛び上がり、左に回ったかと思えば右に曲がり、宙返りをする様子は本当にこの世のものとは思えません。

これは日吉神社の山王が乗り移って、この目出度い前兆をお示しになったのかと、喜びもひとしおでした。このような興奮状態の中、百間余りもある桟敷席では座っていることもできず、「これはまた面白い、我慢ができない」と大騒ぎになり、その叫び声は観客席を覆い、静まりそうにもありません。


浩処に、将軍の御桟敷の辺より、厳しき女房の練貫の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚るとぞ見へし。大物の五六にて打付たる桟敷傾立て、あれや/\と云程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒をするが如く、一度に同とぞ倒ける。若干の大物共落重りける間、被打殺者其数不知。斯る紛れに物取共、人の太刀々を奪て逃るもあり、見付て切て留るもあり。或は腰膝を被打折、手足を打切られ、或は己と抜たる太刀長刀に、此彼を突貫れて血にまみれ、或は涌せる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。只衆合叫喚の罪人も角やとぞ見へたりける。田楽は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党は、主の女房を舁負て逃る者を、打物の鞘をはづして追懸る。返し合て切合処もあり。被切朱に成者もあり。脩羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前に有が如し。梶井宮も御腰を打損ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首の狂歌を四条川原に立たり。釘付にしたる桟敷の倒るは梶井宮の不覚なりけり又二条関白殿も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽の将碁倒の桟敷には王許こそ登らざりけれ是非直事。

そのような状況の中、将軍が居られる御桟敷の付近から、美しく気品ある女性役者が練貫(ねりぬき::縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物)の着物の裾を手にして、扇で幕を上げようとしているのが見えました。その時、大きな材木、五、六本で打ち付けられていた桟敷が傾きだし、

あれよあれと言う間もなく、上下二百四十九に仕切られた桟敷が互いに将棋倒しのように、一度にドドドッと倒壊したのでした。大量の材木などと一緒に重なり落ちたので、死者の数も分らないほどです。この惨状の中、混乱に紛れて盗っ人らが他人の太刀や刀を奪い取って逃げたり、

また盗っ人を見つけて斬り捨てる者もいました。またある人は、腰や膝を骨折したり、手足を切断されたりし、また勝手に抜けた太刀や長刀に体のあちこちをつきぬかれ、血まみれになっています。その他にも茶の用意に沸かした熱湯をかぶって火傷を負い、喚き散らしています。

まさしく衆合地獄(八大地獄の一つ、殺生、盗み、邪淫)や叫喚地獄(八大地獄の一つ、殺生、盗み、邪淫、飲酒)に落とされた罪人もこのような状況にあるのかと思えます。そんな中、演じ続けられている田楽では、鬼ノ面を付けて装束を盗んで逃げる盗賊を、赤い鞭を振りながら追いかけ走っています。

また中間の若者は主人の女房を背負って逃げる者を、刀の鞘を抜いて追いかけていたり、立ち止まって切り合いをしている者もいたり、切られて血に染まっている者もいます。その様子は修羅道のように果てしない戦いであり、また地獄の鬼に責めたてられる有様は、今、目の前に起こっている状況と変わりません。

梶井宮も御腰に打撲を受けたと言われたので、一首の狂歌が詠まれ四条河原に立てられました。
      釘付けに したる桟敷の 倒るるは 梶井宮の 不覚なりけり (釘で固定していた桟敷が倒れたのは、釘を作った鍛冶屋の不覚である。鍛冶と梶井)

また二条関白殿も観覧されていたと言うので、
      田楽の 将棋倒の 桟敷には 王許こそ 登らざりけれ (将棋の言葉は入っているが、王はなかった)

これはただ事ではありません。


如何様天狗の所行にこそ有らんと思合せて、後能々聞けば山門西塔院釈迦堂の長講、所用有て下りける道に、山伏一人行合て、「只今四条河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已に日中に成候。又用意の桟敷なんど候はで、只今より其座に臨候共、中へ如何が入候べき。」と申せば、山伏、「中へ安く入奉べき様候。只我迹に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏の迹に付て三足許歩むと思たれば、不覚四条河原に行至りぬ。早中門口打程に成ぬれば、鼠戸の口も塞りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏、「我手に付せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申間、実からずと乍思、手に取付たれば、山伏、長講を小脇に挟で三重に構たる桟敷を軽々と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席座中の人々を見るに、皆仁木・細河・高・上杉の人々ならでは交りたる人も無ければ、「如何か此座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、彼山伏忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申間、長講は様ぞあるらんと思て、山伏と双で将軍の対座に居たれば、種々の献盃、様々の美物、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏と長講とに色代有て、替る替る始給ふ処に、新座の閑屋、猿の面を著て御幣を差挙、橋の高欄を一飛々ては拍子を蹈み、蹈ては五幣を打振て、誠に軽げに跳出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是助けよ。」と、喚き叫て感ずる声、半時許ぞのゝめきける。此時彼山伏、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推と見へけるが、二百余間の桟敷、皆天狗倒に逢てげり。よそよりは辻風の吹とぞ見へける。誠に今度桟敷の儀、神明御眸を被廻けるにや、彼桟敷崩て人多く死ける事は六月十一日也。其次の日、終日終夜大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原の死人汚穢不浄を洗流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部悉霊神の威を助て、清浄の法雨を潅きける。難有かりし様也。

これはきっと天狗の仕業に違いないと思われ、その後よくよく聞いてみれば、山門延暦寺の西塔院釈迦堂の長講が、所用があって山を下っていたところ、一人の山伏に出会い、「今まさに、四条河原で滅多に見られない興行が行われている。ご覧になればどうですか」と話しかけられ、

長講は、「日もすでに高くなっており、また桟敷なども用意が出来ていないので、今からその場に行っても、中に入るにはどうすれば良いのでしょうか」と話すと、山伏は、「中に入ることなど簡単です。ただ私の後についてきてください」と、話されたのです。長講は確かに聞いているようなものなら、

滅多に見られないものに違いないだろう。だったら見てみようと思い、山伏の後について三歩ばかり歩いたかと思うと、何か分らないまま四条河原に着いていたのです。しかし早くも中門は閉ざされており、見世物などで無料入場防止用の狭い戸である鼠木戸も閉ざされており、中に入ることができません。

「どうして中に入るのでしょうか」と困った様子に、山伏は、「私の手をつかみなさい。飛び越えて中に入りましょう」と、答えたのです。そんなこと出来るのかと思いながら、手をつかむと山伏は長講を小脇に抱え、三重に構築された桟敷を軽々と飛び越え、将軍の御桟敷の中に入ったのです。

長講はその座に座っておられる人々を見ると、皆仁木、細川、高、上杉の人達ばかりで、交際のある人もいないので、「この席に私がいるのは如何なものか」と顔も上げられずにいる様子に、例の山伏は気づかれないように、「何も気にすることはありません。ただそこで見物しておればよいでしょう」と話すので、

長講は何か事情があるのだろうと思い、山伏と並んで将軍の向かいの席に座っていました。やがて色々な人による乾杯の儀があり、様々な料理が運ばれ、飲酒が始まると将軍や、またこの山伏と長講にも挨拶に来られたりしている内に、新座の閑屋が猿の面をつけて御幣を差し上げながら、

橋の欄干へ一気に飛び上がって、飛んでは拍子を取り、取っては御幣を振り回し、まことに軽快な足取りで踊り出てきました。各桟敷で見物している全員はこの演技を見て、席にじっとしておられず、「これは面白い、たまらない、面白くて死にそうだ、助けてくれ」と、喚き散らし一時間ばかり騒ぎ立てました。

この時、例の山伏が長講の耳に、「余りにも人々が狂ったようにしているのも、見苦しい限りだ。一つ肝をつぶすようなことをして、興奮を収めてやるとするか。騒ぐではないぞ」と、ささやきかけました。そして座を立って、ある桟敷の柱をヨイしょヨイしょと押しているように見えましたが、

その内二百余間ある桟敷が全て、将棋倒しになって倒壊しました。よそ目には突風による倒壊のように見えました。確かに今回の桟敷崩落事件は、天照大神も目を回されたに違いありません。この桟敷崩落によって多数の死者が出たのは、六月十一日のことでした。その翌日、日中は勿論、

終夜にわたって激しい大雨となり、激流が巨岩巨石をも流すことにより、昨日の河原における死者による穢れを一掃し、十四日に行われる祇園の神が臨幸される道を清めることとなりました。天、竜をはじめとする仏法守護の天竜八部衆全ての神威を得て、清く穢れの無い雨を注いで、衆生を救ってくださったのです。まことにありがたいことでした。


○雲景未来記事
又此比天下第一の不思議あり。出羽国羽黒と云所に一人の山伏あり。名をば雲景とぞ申ける。希代の目に逢たりとて、熊野の牛王の裏に告文を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉有て、過にし春の比より思立て都に上り、今熊野に居住して、華洛の名迹を巡礼する程に、貞和五年二十日の事なる天竜寺一見の為に西郊にぞ赴ける。官の庁の辺より年六十許なる山伏一人行連たり。彼雲景に、「御身は何くへ御座ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬あつて建立ある大伽藍にて候なれば、一見仕候ばやと存じて、天竜寺へ参候也。」とぞ語ける。「天竜寺もさる事なれ共、我等が住む山こそ日本無双の霊地にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程に、愛宕山とかや聞ゆる高峯に至ぬ。誠に仏閣奇麗にして、玉を敷き金を鏤めたり。信心肝に銘じ身の毛竪ち貴く思ければ、角てもあらまほしく思処に、此山伏雲景が袖を磬て、是まで参り給たる思出に秘所共を見せ奉らんとて、本堂の後、座主の坊と覚しき所へ行たれば、是又殊勝の霊地なり。爰に至て見れば人多く坐し給へり。或は衣冠正しく金笏を持給へる人もあり。或は貴僧高僧の形にて香染の衣著たる人もあり。雲景恐しながら広庇にくゞまり居たるに、御坐を二帖布たるに、大なる金の鵄翅を刷ひて著座したり。右の傍には長八尺許なる男の、大弓大矢を横へたるが畏てぞ候ける。左の一座には袞竜の御衣に日月星辰を鮮かに織たるを著給へる人、金の笏を持て並居玉ふ。座敷の体余に怖しく不思議にて、引導の山伏に、「如何なる御座敷候ぞ。」と問へば、山伏答へけるは、「上座なる金の鵄こそ崇徳院にて渡せ給へ。其傍なる大男こそ為義入道の八男八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝・井上皇后・後鳥羽院・後醍醐院、次第の登位を逐て悪魔王の棟梁と成給ふ、止事なき賢帝達よ。其坐の次なる僧綱達こそ、玄肪・真済・寛朝・慈慧・頼豪・仁海・尊雲等の高僧達、同大魔王と成て爰に集り、天下を乱候べき評定にて有。」とぞ語りける。雲景恐怖しながら不思議の事哉と思つゝ畏居たれば、一座の宿老山伏、「是は何くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導の山伏しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺して、「さらば此間京中の事共をば皆見聞給ふらん。何事か侍る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。此比は只四条河原の桟敷の崩て人多く被打殺候事、昔も今も浩る事候はず、只天狗の態とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟、此比執事の故に御中不快と候。是若天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎申候。」とぞ答ける。

☆ 雲景が奏上した未来記のこと

さて、その頃またもや天下第一等と思われる不思議な出来事があったのです。出羽国の羽黒と言う所に一人の山伏がいました。名は雲景と言います。世にもまれなことに出会ったと言って、熊野三山で配布される特殊なお札の裏に、祈願の文書を書いて納めた未来の予言書があります。

雲景は諸国を残すところなく遍歴しましたが、この春の頃より思い立って都に上り、新熊野に居住し京都の名高い古跡を巡礼している内に、貞和五年(正平四年::1349年)二十日になった時、天竜寺に参拝したくて都の西郊に向かいました。太政官庁舎の付近から、年のころ六十ほどの山伏一人と連れ立つことになりました。

山伏は雲景に、「貴殿はどちらに行かれるのですか」と、問いかけてきたので、「私は諸国を見物するため行脚しているものですが、公家や武家から尊崇を受けて建立された大伽藍だということですので、一度は参拝したくて天竜寺に参るつもりです」と、話されました。

「天竜寺は言うまでもなく立派な寺院ですが、我らが住まいする山こそ、日本に二つとない霊地です。さあご案内いたしましょう」と誘い導くうちに、愛宕山と言われている高峰に到着しました。実に美しい仏閣で玉を敷き詰め、黄金をちりばめています。信仰心は心に深く刻まれ、身の毛もよだつほど高貴な雰囲気に、

いつまでもここに居たいと思っていると、例の山伏が雲景の袖をつかみ、ここまで参られた思い出として、滅多に公開しない特別なものをお見せしましょうと、本堂の裏にある、ここの住職が住まいする建物に行くと、ここもまた格別なる霊地と感じました。ここに来てよく見ると、多数の人たちが座っておられ、

ある人は衣冠も正しく黄金の笏を持っています。またある人は徳が高く尊敬を集めている僧侶の姿をして、香染め(丁子の煮汁で染めたもの。黄味を帯びた薄茶色)の法衣を身に着けています。雲景が恐怖を感じながら広縁で体を丸めていると、二畳ほどの敷物を敷き、大きなトンビの羽で飾り立て座っている者がいました。

右側には身長八尺ほどもあるほどの男が、大きな弓矢を横において畏まっています。左側の一座には天子が着用する中国風の礼服に、太陽、月、星、星座などを鮮やかに織り出して着用した人が、黄金の笏を手にして居並んでいます。この座敷の様子はあまりにも恐ろしく不思議な光景なので、

ここまで先に立って案内してきた山伏に、「ここは一体どうゆう御座敷なのですか」と聞いてみると、山伏は、「上座に居られる金のトンビで飾られた人こそ崇徳院でございます。その傍に居られる大男は、源為義入道の八男、八郎冠者源為朝です。そして、左側に居られる人たちこそ代々の帝王で、

淡路の廃帝(淳仁天皇。孝謙上皇との対立から、廃位される)、井上皇后(光仁天皇の皇后。呪詛の嫌疑で庶人に落とされる)、後鳥羽院、後醍醐院らで順当な経歴を経て天皇や皇后になられたのですが、その地位を追放され魔界の王となられました。しかし特別有能であり優秀な人たちでございます。

その次の席に居られる僧侶たちは、玄ム(藤原仲麻呂との軋轢から左遷になる)、真済(文徳天皇の死により隠居)、寛朝(真言声明の第一人者)、慈慧(良源::比叡山中興の祖とされる)、頼豪(怨霊となって鉄鼠になる)、仁海(雨乞いの修法で知られる)、尊雲(護良親王)らの高僧らで、同じように大魔王となってここに集結し、

天下を騒乱の巷にするべく相談しているのです」と、答えました。雲景は恐怖を感じはしても、不思議なこともあるものだと思いながら、そこに控えていると、一座の長老が山伏に向かって、「この方は何処から来られたのですか」と問われたので、山伏はかくかくしかじかと返答されました。

するとこの老僧は会釈して、「それならば、京都における最近の情勢など良く知っておられるでしょう。何か変わったことはありませんか」と質問され、雲景は、「特に変わったことはございません。最近では四条河原で桟敷が崩壊し、多数の死者が出ると言う事故がありましたが、

昔から今に至るまでこのようなことはありませんでした。これはきっと天狗の仕業に違いないと言われています。その外では、将軍のご兄弟が執事のことで近頃何かと不仲になっているそうです。このことがひょっとして天下に大事を引き起こすのではと、皆が話しています」と、答えました。


其時此山伏申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒は惣じて天狗の態許にも非ず。故をいかにと云に当関白殿は忝も天津児屋根尊の御末、天子輔佐の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井宮と申は、今上皇帝の御連枝にて、三塔の貫主、国家護持の棟梁、円宗顕密の主にて御坐す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護の人也。而るに此桟敷と申は、橋の勧進に桑門の捨人が興行する処也。見物の者と云は洛中の地下人、商買の輩共也。其に日本一州を治め給ふ貴人達交り雑居し給へば、正八幡大菩薩・春日大明神・山王権現の忿を含ませ給ふに依て、此地を頂き給ふ堅牢地神驚給ふ間、其勢に応じて皆崩たる也。此僧も其比京に罷出しか共、村雲の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷りて不見。」とぞ申ける。雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部は一向天狗にて御坐すと申候は、如何様の事にて候哉らん。」と問ければ、此僧の曰、「其はさる事候。彼僧は殊にさかしき人にて候間、天狗の中より撰び出して乱世の媒の為に遣したる也。世中乱れば本の住所へ可帰也。さてこそ所多きに村雲と云所に住するなれ。雲は天狗の乗物なるに依ての故也。加様の事努々人に不可知給。初て此所へ尋来給へば、委細の物語を申也。」とぞ語ける。雲景、不思議の事をも見聞者哉と思て天下の重事、未来の安否を聞ばやと思て、「さて将軍御兄弟執事の間の不和は、何れか道理にて始終通り候べき。」と問へば、「三条殿と執事の不快は一両月を不可過、大なる珍事なるべし。理非の事は是非を難弁。此人々身の難に逢ひ不肖なる時は、哀世を持たん時は政道をも能行はんずる者をと思しか共、富貴充満の後は古への有増一事も不通。上暗く下諛て諸事に親疎あれば、神明三宝の冥鑒にも背き、天下貴賎の人望にも違て、我非をば知ず、人を謗り合ふ心あり。只師子の虫の師子の肉を食が如し。適仁政と思事もさもあらず、只人の煩ひ歎のみ也。夫仁とは施慧四海、深く憐民云仁。夫政道と云は治国憐人、善悪親疎を不分撫育するを申也。而るに近日の儀、聊も善政を不聞欲心熾盛にして君臣父子の道をも不弁、只人の財を我有にせんと許の心なれば不矯飾無云事。仏神能知見御座さねば、我が企る処も不成、依果報浅深、聊取世持国者有といへ共、真実の儀に非ず。されば一人として治世運長久に不持也。君を軽んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾其外の政道何事か可有。然間悪逆の道こそ替れ。猜みもどき合ふ輩、何れも無差別亡びん事無疑。喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し。されば近年武家の世を執事頼朝卿より以来、高時に到るまで已に十一代、蛮夷の賎しき身を以て世の主たる事必本儀にはあらね共、世澆季に及ぶ験に無力。時与事只一世の道理に非ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故に下剋上の一端にあり。高貴清花も君主一人も共に力を不得、下輩下賎の士四海を呑む。依之天下武家と成也。是必誰為にも非ず、時代機根相萌て因果業報の時到る故也。君を遠島へ配し奉り悪を天下に行し義時を、浅猿と云しか共、宿因のある程は子孫無窮に光栄せり。是又涯分の政道を行ひ、己を責て徳を施しゝかば、国豊に民不苦。されども宿報漸く傾く時、天心に背き仏神捨給ふ時を得て、先朝高時を追伐せらる。是必しも後醍醐院の聖徳の到りに非ず、自滅の時到る也。世も上代、仁徳も今の君主に勝り給し後鳥羽院の御時は、上の威も強く下の勢も弱しかども下勝ち上負ぬ。今末世濁乱の時分なれ共、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃なるべし。是以可心得給。」と語りければ、

その時、例の山伏が、「そうではないでしょう。桟敷が倒壊したのは何も天狗の仕業ばかりではありません。何故かと言うと、今の関白殿(二条良基)は畏れ多くも天津児屋根尊(天児屋尊::藤原氏の遠祖)の末裔であり、天皇の補佐を務める朝臣として、この上ない尊いお方です。

また梶井宮と申されるのは今上皇帝(後村上天皇か?)の縁戚で、比叡山三塔(西塔、東塔、横川)の座主であり、国家護持の責任者として、天台宗顕教及び密教の重鎮であります。そして将軍と申されるのは、武家全体における最高権力者であり、国家防衛の責任者です。しかしこの桟敷と言うのは、

橋の建設を目的として、費用捻出のため僧籍離脱の者が行った興行を、観賞するための席です。またその見物人は京都の一般庶民や、商売を目的の人達です。そのような場所に日本国を統治する身分の高い人たちが、混在するようなことになったので、正八幡大菩薩、春日大明神、

山王権現らの怒りを買うこととなり、この地を支配する堅牢地神(けんろうぢしん::大地を司る神)が驚かれ、そのはずみで全て崩壊したものです。この私もその頃京都に居ましたが、村雲の僧(雲に住むという僧)と話し合うことがあり立ち寄ったため、時間が過ぎてしまい見ることが出来ませんでした」と、話されました。

雲景は、「さて今おっしゃられた村雲の僧と言う徳や権勢で有名な人は、どのようなお方ですか。京都の子供や一般の人達は何も疑問に感じず、天狗だと思っていますが、本当のところはどうなんでしょうか」と質問すると、この僧は、「それはもっともな質問です。あの僧は特別才能に恵まれており、

天狗の中から選出されて、天下を乱世に導くためこの世界に遣わされました。世の中が乱れたなら、元の住処に帰ることになっています。そこで住むところは沢山ありますが、村雲と言う所に住んでいます。その訳は雲が天狗の乗り物だからです。このような話は決して人に知られないようにしてください。

初めてこの場所に尋ねて来られたので、詳しく事情を話すのです」と、話されました。雲景は不思議なことを見たり聞いたりするものだと感じながら、天下の重大問題や未来の予測について聞きたく思い、「それでは将軍御兄弟や執事の不和は、結局どなたの言い分が通って落ち着くのでしょうか」と、尋ねると、

「三条殿(足利直義)と執事の不和は、二ヶ月を過ぎることありませんが、大変珍しいことです。どちらが道理にかなっているかについては分るものではありません。この人達は我が身が困難に直面して不運な時、もしも世の支配権を持っていれば、世の中の統治に対して能力を発揮できる人だと思いますが、

富貴の極みを体験してからは、今までの経緯を考えたり今後のことなど無頓着になりました。上層部が無能で下層の者が追従ばかりして、何事にも不公平な扱いがあれば、神や仏が常に衆生を見守っていることに背くこととなり、天下のあらゆる人達の信頼をも裏切り、自分の非を顧みずに、

他人を非難することばかり考えています。これは獅子の虫が獅子の肉を食うと言うように、外部の力によって死に至るのではなく、自分の行為が死を招くようなものです。思いやりを感じさせる政治など全く行われず、ただ民衆の苦しみと嘆きばかりが溢れているのです。まさしく仁とはこの世界あまねく愛と情けを施し、

深く民を慈しむことを言うのです。そして政治とは国を治め、民に対して情けをもって対処し、事の善悪や好き嫌いなどで分け隔てなく、大切にすることを言うのです。ところが最近の情勢を見れば、善政だとは全く聞くこともなく、私利私欲ばかりを求め、帝と臣下の忠義心や、父子の道徳など考慮することなく、

ただ他人の財物を我が物にしようとする考えだけなので、何事もうわべばかり取り繕って話しをします。神や仏が注意深く見て下されなければ、我々の計画も成就できず、前世での行いの程度によって少しばかり天下を取り、領地を得た者がいたとしても、それは絶対的な事実ではありません。

そこで未だに一人として、世を支配しその家運や武運を保ち続けた者などおりません。天皇を尊崇することもせず、仏や神を恐れないような末世なのに、何か良い政治手法などあるのでしょうか。そのため人の道に外れた悪行がこの世を支配することになるでしょう。他人を妬み、非難ばかりする連中は、

皆間違いなく滅び去ること疑いの余地はありません。例えて言うなら、山賊と海賊が集まって、互いに相手の犯罪の損得を計算しあうようなものです。ところで最近のように武家が世の中を支配するのは、源頼朝卿以来、北条高時に至るまですでに十一代が経過して、野蛮で卑しい身分でありながら世の中の支配者であることは、

本来の姿ではないけれど世の中が乱れ末世であれば仕方がないでしょう。ある時代に起こった種々な出来事は、その時代だけのものではありません。家臣が主君を殺害し子供が父親を殺すことは、世の中がただ単に力だけで争う時代になったことであり、下克上の現れです。公卿や上臈また帝でさえも実力を持ち得ず、

下臈や卑しい身分の武士らが国家を支配しています。このため天下は全て武家の世となりました。こうなったのは誰に責任がある訳でなく、その時代に生きた民衆に芽生えてきた考えが、今のこの結果を生み出したからです。天皇を遠島へ配流すると言う悪行を、権力を笠に着て行った北条義時を、

余りにも情け無いと言っても、前世の行ったこの悪行のおかげで、子孫はこの上なく繁栄したのです。また以後の支配者が身の程をわきまえて政治を行い、自分に厳しい責務を負わせ、民衆に対しては情ある政治を行っていれば、国家は豊かに繁栄し、民衆が苦しむことなどありません。

しかしながら前世の悪行よって得られた状況も、漸くその継続が困難になりかけてきた時、天皇のお心に背き、神や仏を無視するような事態に対して、先帝後醍醐は北条高時を誅伐されました。このことは何も後醍醐院の持つ人徳の表れでもなく、ただ北条家の自滅の時がやってきたからです。

過去のことになりますが今の天皇以上に、朝臣や民に対して深く思いをかけておられた後鳥羽院の御代は、朝廷の勢力が強く、武家の力は弱かったのに、結果は武家が勝利し朝廷は敗北を喫したのです。現在は末世であり、悪がはびこり乱れきった時代であっても、武家が勝利を得られず、朝廷が勝利を得たことは、何も上下人民の持つ運のあるなしによったものではありません。このことを良く心得ておくように」と、話されました。


雲景重て申さく、「先代尽て亡しかば、など先朝久御代をば治御座候はぬ。」と問ければ、「其又有子細事に候。先朝随分賢王の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育の叡慮は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依有様に見へしか共、■慢のみ有て実儀不御座。され共其程の賢王も末代には有まじければ何事にもよき真似をばすべし。是を以て暫なれ共加様の所を以て其御器用に当り、運の傾く高時、消方の灯前の扇と成せ給ひて亡し給ひぬ。其理に答て累代繁栄四海に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠尭舜の功、聖明の徳御坐ねば、高時に劣る足利に世をば奪れさせ給ぬ。今持明院殿は中々執権開運武家に順せ給て、偏に幼児の乳母を憑が如く、奴と等しく成て御座程に、依仁道善悪還て如形安全に御坐者也。是も御本意には有ね共、理をも欲心をも打捨て御座さば、末代邪悪の時中々御運を開せ給ふべき者也とても王法は平家の末より本朝には尽はてゝ、武運ならでは立まじかりしを御了知も無て、仁徳聖化は昔に不及して国を執らん御欲心許を先とし、本に代を復すべしとて、末世の機分戎夷の掌に可堕御悟無りしかば、御鳥羽院の御謀叛徒に成て、公家の威勢其時より塗炭に落し也。されば其宸襟を為休先朝高時を失給しか共、尚公家代をば執せ給はぬ者也。さても三種の神器を本朝の宝として神代より伝る璽、国を理守も此神器也。是は以伝為詮。然に今の王者此明器を伝る事無て位を践御座事、誠に王位共難申。然共さすが三箇の重事を執行はせ給へば、天照太神も守らせ給覧と憑敷処もある也。此明器我朝の宝として、神代の始より人皇の今に到るまで取伝御座事、誠に小国也といへ共、三国に超過せる吾朝神国の不思議は是也。されば此神器無らん代は月入て後の残夜の如し。末代のしるし王法を神道棄給ふ事と知べし。此重器は平家滅亡の時、安徳天皇西海に渡奉て海底に沈られし時、神璽内侍所をば取返し奉しか共宝剣は遂に沈失ぬ。されば王法悪王ながら安徳天王の御時までにて失はてぬる証は是也。其故は後鳥羽院の始て三種の重器無して元暦に践祚有しに、其末流皇統継体として、今に御相承佳模とは申せ共、今思へば彼元暦よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道に勝し表示には、宝剣は其時までにて失にき。仍武威昌に立て国家を奪也。然共其尽し後百余年は武家雅意に任て天下を司ると云共、王位も文道も相残る故に、関東如形政道をも理め君王をも崇め奉る体にて、諸国に総追捕使をば置たれども、諸司要脚の公事正税、仏神の本主、相伝の領には手を不懸目出かりしに、時代純機宿報の感果ある事なれば、後醍醐院武家を亡し給ふに依て、弥王道衰て公家、悉廃れたり。此時を得て三種の神器徒に微運の君に随て空く辺鄙外土に交り給ふ。是神明吾朝を棄給ひ、王威無残所尽し証拠也。是元暦の安徳天皇の御時に相同じ。国を受給ふ主に随給はぬは、国を不守験也。されば神道王法共になき代なれば、上廃れ下驕て是非を弁る事なし。然れば師直・師泰が安否、将軍兄弟の通塞も難弁。」とぞ語ける。

雲景は重ねて、「先代の北条家は滅亡してしまったのに、何故先の帝、後醍醐は永く世を治められなかったのですか」と、質問すると、「それにも当然理由があります。先帝後醍醐殿も随分と賢明な君主たろうと努力はされましたが、実際には情けと徳をもって民に接触しようとのお考えは、

基本的に持ち合わせてはおられませんでした。廃れてしまったものや、絶えてしまったことを復活させ、神や仏陀に深く信仰のお気持ちはあるかのように見えましたが、驕る気持ちばかりが強くて実が伴いませんでした。とは言っても、その程度であっても末世においては得がたい賢明さでしたので、

何事にも古き良きことを踏襲されようとしました。この政策に基づきしばらくは要領よく対処して、やがて武運の傾きだした北条高時を、消えかかった灯火にあたる扇となって滅ぼしました。このように過去何代にもわたって天下を支配し、繁栄を続けてきた北条家を滅ぼしましたが、

実際には中国古代の伝説上の帝王、尭や舜のもつ徳や功績などありませんので、高時に劣ると思われる足利尊氏に天下を奪われました。現在、持明院殿(光明天皇?)は政治的権力を持った上に、上昇機運の幕府に止む無く従っておられ、幼児が乳母を頼らなければならないように、

下僕のような環境におかれてはいますが、人道的な配慮によって形の上では安全な立場におられます。このような状態は勿論本意ではありませんが、今更物の道理でもあるまいし、欲望も捨て去っていますので、道徳も失ったこの末世において、世に悪がはびこった現在、とても運を開くことなど出来ません。

王法(朝廷による国家支配)は我が朝において、平家支配の末期よりその実態は失われてしまい、武力によらなければ支配はできないことをご存じなく、天皇としての民に対して仁や徳を施したり、天皇としての徳など過去の実態にはとても及ばないのに、ただ国家を支配することだけを望む気持ちが強かったのです。

そこで以前の如く地位を取り戻そうとして、末世における時の勢いに乗って、東国の粗野な軍勢に負けることなど覚悟もしないで起こした、後鳥羽院による無謀な御謀反は失敗し、公家の権勢はその時点から、極めて苦しい立場に落とされました。そこでその苦しみから逃れんとして先帝後醍醐は高時を亡き者にはしましたが、

なおも公家に政治を任せようとはしませんでした。ところで、三種の神器は我が国朝廷の宝物として神代の昔から伝わってきた物であり、国家を統治し守護出来るのもこの神器の力です。つまり絶えることなく伝承することによって、その力が発揮されるのです。ところが現在の天皇は、

この有り難い神器を伝えられることなく、天皇の位にお着きになられたので、正当なる皇位とは言い難いのです。とは言えども、三箇の重事(さんがのちょうじ::朝廷で行われる三大儀式。即位、御禊、大嘗祭)を執り行えば、天照大神もお守り下さるのではと、頼みにしているところもあります。

この神器が我が朝廷の宝物として、神代における神々の時代から、神武天皇以後の現在まで伝えられてきたことは、たとえ小国なりとは言っても、この世界の中で我が国は抜きん出た神の国としての不思議さを感じます。と言うことで、この神器を正当なる伝承をされなかった時代は、

月が沈んでから夜の明けるまでのようです。末法の世界に入る前兆なのか、朝廷による統治を、神々が見捨てられたと理解すべきでしょう。この貴重な宝物は平家滅亡の時、西海に臨幸された安徳天皇と共に海底に沈み、神璽(八尺瓊勾玉::やさかにのまがたま)と内侍所(八咫鏡::やたのかがみ)は探し出したのですが、

宝剣(草薙の剣::くさなぎのつるぎ)については発見出来なかったのです。このことは天皇が統治する国家は、いずれにしろ安徳天皇の御代までで終わったことの証明であります。その訳は、後鳥羽院が初めて三種の神器を伝承されることなく、元暦(1184年)において践祚の儀が行われ、

安徳天皇の子孫において皇位の継承をする方法として、今もなお受け継がれているとは言っても、我が国に武家政権が初めて誕生したため、結局はこの国に名前ばかりの天皇が続くことになりました。そのため武家の権力が天皇の権威を上回り、天皇の持つ武力の象徴である宝剣(草薙の剣)は、

その時を以ってその力を失うことになりました。そこで武家の勢力はますます増強され、国家を完全に支配することになりました。しかし、支配を確実なものとしてから百余年は、武家により好き勝手に天下を支配してきたと言えども、天皇の地位も継承され、文化の継続も絶えなかったので、

関東鎌倉の政権は形ばかりの政治を行い、天皇も尊崇する体制を敷き、諸国に総追捕使を配置していました。しかし役人らは臨時に賦課される税や、正規の徴税に対して、神社、仏閣の正規所有者や、代々引き継がれてきた所領には課税せず放置すると言うありがたい処置を、

その時代の雰囲気として過去の善行のおかげだと感じていたのですが、後醍醐院が幕府を滅亡させたため、かえって天皇の政治力の貧弱さに、公家も全てがその力を失いました。この時より三種の神器は、時運に見放された天皇と共に、都から遠く離れた辺鄙な土地に、空しく置かれることとなりました。

このことは神が我が朝廷を見捨てられて、その権威も全て取り上げた証拠とも言えます。これもまた、元暦年間(1184-1185年)における安徳天皇の時と同じです。国家の支配を任された者と共に無いのは、国家を守護しないと言うことの証です。と言うことで、神も天皇による政治も無い時代は、

国家における上層部は衰微し、反対に下層部が我が物顔に振る舞い、ことの善悪を考えようともしません。そのため師直や師泰の今後の安否や、将軍兄弟の関係についても予測できません」と、話されました。(この段、老僧の話の訳文はおかしい)


雲景重て申けるは、「さては早乱悪の世にて下上に逆ひ、師直・師泰我侭にしすまして天下を持つべき歟。」と問へば、「いやさは不可有。如何末世濁乱の義にて、下先勝て上を可犯。され共又上を犯咎難遁ければ、下又其咎に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人君主を軽じ給へば、執事其外家人等も又武将を軽じ候。是因果の道理也。されば地口天心を呑と云変あれば、何にも下刻上の謂にて師直先可勝。自是天下大に乱て父子兄弟怨讎を結び、政道聊も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。雲景、「今加様に世間の事鑒を懸て宣ひつる人は誰。」と尋れば、「彼老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山の太郎坊にて御座。」と答へける。尚も天下の安危国の治乱を問んとする処に、俄に猛火燃来て、座中の客七顛八倒する程に、門外へ走出ると思たれば、夢の覚たる心地して、大内の旧迹大庭の椋の木の本に、朦々としてぞ立たりける。四方を見廻したれば、日已に西の山端に残て、京へ出る人多ければ、其に伴ひて我宿坊にたどり来て、心閑に彼不思議を案ずるに、無疑天狗道に行にけり。是は只非可打棄、且は末代の物語、且は当世の用心にもなれかしと思しかば、我身の刑を不顧、委細に書載、熊野の牛王の裏に告文を書添、貞和五年潤六月三日と書付て、伝奏に付て進奏す。誠に怪異の事共也。

雲景はなおも、「それでは早くも乱れきった邪悪な世の中になったので、低い身分の者が上部に反抗するように、師直や師泰は勝手気ままに振る舞って、うまく天下を支配することになるのでしょうか」と質問すると、「いやいや、そのようなことは起こり得ない。如何に末世になり上下もはっきりしない世の中で、

身分の低い者が先に勝利を収めて上層を支配したところで、上層部の権威に逆らった罪から逃れることができず、結局はその罪のため罰を受けることになる。なぜなら、将軍兄弟も尊崇すべき天皇を軽視するようなことがあれば、執事をはじめとしてその外の家来たちもまた、尊氏兄弟を軽視することになります。

これもまた因果応報の理屈通りです。そこで天地がひっくり返るような変事があれば、いずれにせよ下克上の習いとして、師直が先勝することになります。このため天下は大混乱におちいり、父子や兄弟の間で互いに恨みを抱き、政治も全く機能しなくなり、世の中はそう簡単に収まらないでしょう」と、話されました。

雲景が、「今世間の情勢について、このようにはっきりとおっしゃる方は一体どなたなのでしょうか」と、質問すると、「あの老僧こそ、世間の人の信仰を集めている愛宕山の太郎坊でございます」と、答えられました。雲景がなおも天下の状況や、国家の治安状態などについて質問をしようと思っていると、

突然激しい猛炎が吹き込んで来て、部屋にいた客人らが七転八倒しながら門外に走り出たと思った瞬間、夢から覚めた気分で旧御所跡の大庭に生えた椋の根元に、ぼんやりとして立っていたのです。四方を見渡してみると、日はすでに西の山にかかり、京に向かう人も数多いので、

その人たちの中に混じって自分の宿坊にたどり着きました。落ち着きを取り戻してから、今体験した不思議な出来事を考えれば、これは間違いなく天狗の住む世界に行ったのだろう。これは放置すべきことではなく、ある意味後世に残すべき物語であり、また現世の用心にもなるのではと考え、

自分に罪が降りかかることを考えずに詳しく書きとめ、熊野牛王(熊野三山で配布される札)の裏に虚偽の無いことの一文を書き添えて、貞和五年(正平四年::1349年)閏六月三日と書き付け、取次ぎの方を通して、天皇に奏上しました。本当に不思議な出来事でした。


○左兵衛督欲誅師直事
斯りし処に、師直・師泰等誅罰の事、上杉・畠山が讒尚深く、妙吉侍者荐に被申ければ、将軍に知せ奉らで、左兵衛督窃に上杉・畠山・大高伊予守・粟飯原下総守・斉藤五郎左衛門入道五六人に評定有て、内内師直兄弟を可被誅謀をぞ被議ける。大高伊予守は大力也。宍戸安芸守は物馴たる剛の者なればとて、彼等二人を組手に定め若し手に余る事あらば、討洩さぬ様に用心せよとて、器用の者共百余人に物具せさせて窃に是を隠置、師直をぞ被召ける。師直は夢にも可思寄事ならねば、若党中間は皆遠侍大庭に並居て、中門の唐垣をかけへだてられ、師直只一人六間の客殿に座したり。師直が今の命は風待程の露よりも危しと見へける処に、殊更此事勝て申沙汰したりける粟飯原下総守清胤、俄に心替りして告知せばやと思ひければ、些色代する様にして、吃と目くはせをしたりければ、師直心早者なりければ、軈て心得て、かりそめに罷出る体にて、門前より馬に打乗、己が宿所にぞ帰ける。其夜軈粟飯原・斉藤二人、執事の屋形に来て、「此間三条殿の御企、上杉・畠山の人々の隠謀、兔こそ候つれ角こそ候つれ。」と語りければ、執事様々の引出物して、「猶も殿中様の事は内々告承候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。師直是より用心密くして、一族若党数万人、近辺の在家に宿し置き、出仕を止め虚病してぞ居たりける。去年の春より越後守師泰は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを、師直使を遣て事の由を告たりければ、畠山左京大夫清国紀伊国の守護にて坐しけるを呼奉て、石川城をふまへさせて、越後守は急ぎ京都へぞ帰上ける。左兵衛督は師泰が大勢にて上洛する由聞給て、此者が心をとらでは叶まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾修理進入道を使にて、「武蔵守が行事、万短才庸愚の事ある間、暫く世務の綺を止る処也。自今後は越後守を以て、管領に居せしむる者也。政所以下の沙汰、毎事慇懃に沙汰せらるべし。」とぞ委補せられける。

☆ 左兵衛督が高師直の誅伐を望んだこと

さて師直や師泰らを処罰する計画については、上杉や畠山の讒言は相変わらず続き、また妙吉侍者もしきりに言ってくるので、尊氏将軍には知らせず、左兵衛督直義は内密に上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斉藤五郎左衛門入道など五、六人と相談し、密かに師直兄弟の殺害計画を決めました。

大高伊予守は大力の持ち主であり、宍戸安芸守は経験豊富な猛者なので、彼ら二人で攻撃を仕掛けることにしました。もし苦戦を強いられて討ち漏らすことのないよう、念のため武術に長けた者百余人を甲冑で身を固め、分らぬように身を潜ませて師直を呼び出しました。

師直にすれば夢にも思い寄らないことなので、若侍や中間などは母屋から遠く離れた大庭に並ばせ、中門そばの木や竹で組まれた垣根で隔てられた六間(?)もある客殿に、師直はただ一人で座られました。師直の命は風を待つしずくより危ういと思われましたが、この謀略に特に関わってきた粟飯原下総守清胤が突然気が変わり、

師直に計画を知らせようと思って、軽く挨拶を交わす振りをしながら、キッと目配せをしました。師直は勘の鋭い人なので、すぐに事態を理解し、少しばかり中座する格好で、門前から馬に飛び乗り、自分の屋敷に帰りました。その夜すぐ粟飯原と斉藤の二人が執事の屋敷に来て、

「最近決まった三条殿(直義)の計画や、上杉、畠山などの人たちが行おうとする陰謀について、このようなことがあり、またあのようなこともあります」と話されたので、執事は色々な引き出物を用意し、「今後とも殿中での出来事など内々に知らせていただきたい」と言って、斉藤と粟飯原の二人を帰されました。

この事があってから師直は何かと用心深くなり、一族や若侍など数万人を近くの民家に駐留させ、仮病を使って出仕も中断しました。昨年(貞和四年・正平三年::1348年)の春より越後守師泰は楠木正儀征伐のため河内国に下向して、石川河原に向い城を構築していたのを、師直は急使を派遣して事態を伝えたので、

越後守は紀伊国の守護、畠山左京大夫清国を呼び寄せ、石川城を攻撃の根拠地にさせて、越後守は急いで京都に上ることにしました。左兵衛督は師泰が大軍を率いて上洛すると聞き、彼らの機嫌を取らなくては局面の打開は不可能だろう。直ちに手を打たねばと思い、飯尾修理進入道を使者として、「武蔵守師直の行状には、

何かにつけ問題が多く、しばらくは世上の実務から手を引いていただくことになった。今後は越後守師泰を管領(将軍の補佐官)に命じる。政所以下の処置などについては、実情に即してしかるべく処理を行うこととする」と、就任命令を伝えさせました。


師泰此使に対して、「仰畏て候へ共、枝を切て後根を断んとの御意にてぞ候覧。何様罷上候て、御返事をば申入候べし。」と、事の外なる返事申て、軈て其日石河の陣をぞ打出ける。甲胄を鎧ひたる兵三千余騎にて打立て、持楯・一枚楯、人夫七千余人に持せて混合戦の体に出立て、態白昼に京へ入る。目を驚す有様也。師泰執事の宿所に著て、三条殿と合戦の企有と聞へければ、八月十一日の宵に、赤松入道円心と子息律師則祐、弾正少弼氏範、七百余騎にて武蔵守の屋形へ行向。師直急ぎ対面有て、「三条殿無謂師直が一家を亡さんとの御意、事已に喉に迫候間、将軍へ内々事の由を歎申て候へば、武衛左様の企に及条、事の体不隠便、速に其儀を留て讒者の罪を緩くすべからず。能々制止を可加。若猶不叙用して討手を遣す事あらば、尊氏必師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿の討手に向て矢一仕らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安候。尚も只難義に覚へ候は、左兵衛佐殿備後に被坐候へば、一定中国の勢を引て被責上ぬと覚る許にて候。今夜急ぎ播磨へ御下候て、山陰・山陽の両道を杉坂・舟坂の殺所にて支て給り候へ。」とて、一献を勧められけるが、「此太刀は保昌より伝て代々身を不放守と存候へ共、是を可進。」とて懐剣と云太刀を錦の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。円心軈領掌し、其夜都を立て播磨国に馳下、三千余騎を二手に分て、備前の舟坂・美作の杉坂、二の道を差塞、義旗雲竜を靡かして回天の機をぞ露しける。されば直冬大勢にて上らんと被議けるが、其支度相違したりけり。

師泰はこの使者に向かって、「仰せは畏まってお聞きいたしますが、枝を切ってから根を絶とうとのお考えと思われます。いずれ参上の上ご返事いたしましょう」と、意外な返事をされて、すぐその日石川の陣営を出発されました。甲冑で身を固めた兵士、三千余騎にて軍を編成し、

持盾(手に持つ小型の盾)や一枚盾(地上に置く大型の盾?)などを人夫七千余人に持たせ、もっぱら合戦を前提にした編成で出発し、目立つよう白昼京都に入りました。これには都の人々は驚くばかりです。師泰は執事師直の屋敷に着いてみると、三条殿直義と合戦の計画があると知ったので、

貞和五年(正平四年::1349年)八月十一日の夕方に、赤松入道円心と子息の律師則祐、弾正少弼氏範らが七百余騎を率いて、武蔵守師直の屋敷に向かいました。師直はすぐに面会し、「三条殿は何の理由も無く、師直一家を滅亡に導こうとのお考えであり、事態はすでに急を要する緊迫状態にあります。

尊氏将軍には内密にこの嘆かわしい状況について申し上げたところ、将軍としてはそのような企てには関知しないが、事態は穏やかではないので速やかに収拾をはかり、讒言を繰り返した者の処罰は厳しくせよ。これ以上事態が悪化しないよう自制することだ。もし免職させた上、直義が討手を差し向けるようであれば、

尊氏は必ずや師直と一緒になって生死を共にすると仰せられた。将軍がこのようなお考えなので、今は恐れながら三条殿の討手に向かい、矢を放ち応戦しようと思う。京都の実情については内々志を通じている人もたくさん居り、安心している。ただ一つ困ったことは、左兵衛佐直冬殿が備後におられるので、

間違いなく中国の軍勢を率いて攻め上ってくると思われることだ。そこで今夜急いで播磨に下られ、山陰、山陽の両道を杉坂、舟坂の難所で待ち受け、防御に努めてもらいたい」と言って、お酒をお勧めになりました。そして、「この太刀は保昌(ほうじょう?)より伝わり、代々手放すことなく守り神としてきたが、

この際これを進呈しよう」と言って、懐剣と言う太刀を錦の袋から取り出し、赤松に引き出物として渡しました。円心はすぐに受け取り、その夜都を発って播磨国に急行し、すぐに三千余騎を二手に分けて、備前の舟坂と美作の杉坂の二つの街道を閉鎖し、正義を唱える旗を雲になびかせて、一気に優位を確立せんとその機会を待ちました。

直冬は大軍を率いて上京することに決定していましたが、この赤松勢のためその軍備に手違いが発生しました。      (終り)

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