28 太平記 巻第二十八


○義詮朝臣御政務事
貞和六年月二十七日に改元有て、観応に移る。去年八月十四日に、武蔵守師直・越後守師泰等、将軍の御屋形を打囲て、上杉伊豆守・畠山大蔵少輔を責出し、配所にて死罪に行ひたりし後、左兵衛督直義卿出家して、隠遁の体に成給ひしかば、将軍の嫡男宰相中将義詮、同十月二十三日鎌倉より上洛有て、天下の政道を執行ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰魯の哀公に季桓子威を振ひ、唐の玄宗に楊国忠が驕を究めしに不異。

☆ 義詮朝臣の政務を執ったこと

さて貞和六年(正平五年::1350年)二月二十七日に、崇光天皇の即位によって改元が行われ観応となりました。去年(貞和五年、正平四年::1349年)八月十四日に、武蔵守高師直と越後守高師泰らが、尊氏将軍のお屋敷を取り囲み、上杉伊豆守と畠山大蔵少輔の二人の身柄を強引に引き渡してもらい、

配所にて死罪を執行してから、左兵衛督足利直義卿は出家して隠遁する格好になったので、将軍の嫡男宰相中将義詮が、貞和五年(正平四年::1349年)十月二十三日に鎌倉より上洛され、天下の政治を行うこととなりました。とは言え万事は師直、師泰の二人が握っているので、

高家の人々の権勢は、あたかも魯国の哀公(あいこう::魯の第二十七代君主)の時代に李桓子が権威を振るったり、また唐の玄宗の時、楊国忠が地位、権力、財産などをほしいままにしたことと変わりません。


○太宰少弐奉聟直冬事
右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を落て、河尻肥後守幸俊が許に坐しけるを、可奉討由自将軍御教書を被成たりけれ共、是は只武蔵守師直が申沙汰する処也。誠に将軍の御意より事興て被成御教書に非ずと、人皆推量を廻しければ、後の禍を顧て、奉討する人も無りけり。斯処に太宰少弐頼尚如何思けん、此兵衛佐殿を聟に取て、己が館に奉置ければ、筑紫九国の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方、将軍方、兵衛佐殿方とて国々三に分れしかば、世中の総劇弥無休時。只漢の代傾て後、呉魏蜀の三国鼎の如くに峙て、互に二を亡さんとせし戦国の始に相似たり。

☆ 太宰少弐が足利直冬を婿として迎えたこと

さて右兵衛佐直冬は昨年(貞和五年、正平四年::1349年)九月に備後を落ちて、川尻肥後守幸俊の援護を受けていたところ、尊氏将軍から討ち取るよう指示書が下されましたが、これはただ武蔵守師直の独断で行ったことです。将軍の御意に基づく確かな御教書ではないと、

人々が皆そのように推察していたので、後々の災禍を考えて討ち取ろうとする人はいませんでした。このような状況の中、太宰少弐頼尚はどう思ったのか、この兵衛佐殿を婿として迎え、自分の舘に飾っておいたので、筑紫九国以外でも、彼の催促に従い、彼の命令を重視する人が多くなりました。

このため宮方、将軍方、兵衛佐殿方となり、国々は三つに分かれたので、世の中は非常にあわただしくなり、落ち着く時もありませんでした。これは漢国の世が傾きだしてから、呉、蜀、魏の三国が鼎立し、互いに他の二国を滅ぼそうと考えた、戦国の始まりと良く似ています。


○三角入道謀叛事
爰石見国の住人、三角入道、兵衛佐直冬の随下知、国中を打順へ、庄園を掠領し、逆威を恣にすと聞へければ、事の大に成ぬ前に退治すべしとて、越前守師泰六月二十日都を立て、路次の軍勢を卒し石見国へ発向す。七月二十七日の暮程に江河へ打臨み、遥敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和善四郎が楯篭たる城よと覚て、青杉・丸屋・鼓崎とて、間四五町を隔たる城三つ、三壷の如峙て麓に大河流たり。城より下向ふたる敵三百余騎、河より向に扣てこゝを渡せやとぞ招たる。寄手二万余騎、皆河端に打臨で、何くか渡さましと見るに、深山の雲を分て流出たる河なれば、松栢影を浸して、青山も如動、石岩流を徹て、白雪の翻へるに相似たり。「案内も知ぬ立河を、早りの侭に渡し懸て、水に溺て亡びなば、猛く共何の益かあらん。日已に晩に及ぬ。夜に入らば水練の者共を数た入て、瀬踏を能々せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣へたる処に、森小太郎・高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進だりけるが申けるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、何れか瀬踏をせさせて候し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防んとて敵は向に扣へたるらめ。此河の案内者我に勝たる人不可有。つゞけや殿原。」とて、只二騎真先に進で渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打入て、弓の本弭末弭取違疋馬に流をせき上て、向の岸へぞ懸襄たる。善四郎が兵暫支て戦けるが、散々に懸立られて後なる城へ引退く。寄手弥勝に乗て続て城へ蒐入んとす。三の城より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百余人、痛手を負、石弓に被打、進兼たるを見て、越後守、「三吉討すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口七郎左衛門、赤旗・小旗・大旗の一揆、千余騎抜連て懸る。荒手の大勢に攻立られて、敵皆城中へ引入れば、寄手皆逆木の際まで攻寄て、掻楯かひてぞ居たりける。手合の合戦に打勝て、敵を城へは追篭たれ共、城の構密しく岸高く切立たれば、可打入便もなく、可攻落様もなし。只徒に屏を隔て掻楯をさかうて、矢軍に日をぞ送ける。

☆ 三角入道が謀反を起こしたこと

さてこの頃石見国の豪族、三角入道は兵衛佐直冬の命令に従って国中を支配下に置き、庄園をも略奪するなど、傍若無人な行動を好きなようにしていると情報が入り、事態が拡大する前に征伐しなければと、越後守師泰が観応元年(正平五年::1350年)六月二十日都を出発し、途上で軍勢を加えながら石見国に向かいました。

七月二十七日の暮頃に江の川に到着し遥かに敵陣を見渡すと、これが噂の佐和善四郎が立て篭もっている城かと思われ、青杉、丸屋、鼓が崎と言う三つの城がその間四、五町を隔てて三壷(中国の渤海に有ったという伝説の山、壷の形をしている)のようにそびえて、麓には大河が流れています。

城から降りてきた敵兵三百余騎が川向こうまで出てきて、ここを渡ってくれば如何と招きます。寄せ手の二万余騎は全員川辺まできて、どこか渡河可能な場所はないものかと見ましたが、奥深い山の雲を分けるように流れ出てきた川であり、松などの常緑樹の姿を映し、青々とした山をも動かすかのように、

流れが岩石の間を貫き、その水しぶきは白雪が舞い上がるように見えます。「様子の分からない川をあせる気持ちだけで渡ろうとし、水に溺れて亡くなるようなことは、勇気ある行動とは言えども、一体何の役に立つと言うのだ。今日はすでに日が暮れてきた。夜になれば水泳の達者な者を多数川に入れ、

浅瀬をよく探させてから、明日渡河することにしよう」と作戦会議で決まり、馬を近くに待機させていたところ、森小太郎、高橋九郎左衛門の二人が、三百余騎を率いて一番先頭の陣に進み、「足利又太郎忠綱が治承四年(1180年)の戦いに宇治川を渡り、柴田橘六(柴田兼義か?)が承久三年(1221年)に起こった承久の乱において、

供御の瀬(瀬田川黒津浜?)を渡った時、両人とも瀬踏み(水深を調査すること)をさせたでしょうか。考えてみればこの場所が渡河可能なので、敵は防ごうとして向かい岸に控えているのでしょう。この川の様子について、私より良く知っている者などいないはずだ。私について来い、皆の者」と言って、

ただの二騎だけで先にたって渡り始めたので、二人の家来ら三百余騎と、三吉の一族二百余騎がサッと同時に馬を流れに入れ、弓の本弭と末弭を上下逆さまに持ち、馬で流れをせき止めるようにして、向かいの岸に駆け上がりました。佐和善四郎の兵士らもしばらく支え戦いましたが、

散々に蹴散らかされ後ろの城に引き上げました。寄せ手は勝に乗じて続いて城に駆け込もうとしました。その時、三つの城(青杉、丸屋、鼓が崎)の木戸を開けると同時に飛び出し、前後左右に取り囲んで激しく射込みました。森小太郎、高橋九郎左衛門と三吉一族の兵士ら百余人は傷を受け、

また城壁にくくりつけた石を落とされたりして、進攻しかねているのを見て越後守師泰は、「三吉を討たすな、続いて攻め込め」と命令したので、山口七郎左衛門や師直が組織した赤旗、青旗、大旗一揆ら領主連合の千余騎が太刀を抜いて駆け込みました。新手の大軍に攻め追い込まれ、

篭城軍が皆城中に逃げ込むんだので、寄せ手軍は皆逆茂木近くまで攻め寄せ、垣根のように楯を立て並べて待機しました。最初の合戦には勝利を収め、敵を城に追い込んだものの、城の構えは厳しく造られており、川岸も高く切り立っているので、討ち入る方法も見つからず、攻め落とすことも出来そうにありません。

ただ空しく塀を隔て、垣根のような楯を境にして、矢戦に日を費やしました。


或時寄手の三吉一揆の中に、日来より手柄を顕したる兵共三四人寄合て評定しけるは、「城の体を見るに如今責ば、御方は兵粮につまりて不怺共、敵の軍に負て落る事は不可有。其上備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛佐殿に心を通する者多しと聞ゆれば、後に敵の出来らんずる事無疑。前には数十箇所の城を一も落さで、後ろには又敵道を塞ぬと聞なば、何なる樊■・張良ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成ぬ前に、此城を夜討に落して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付進せん。」と申ければ、「此義尤可然。されば手柄の者共を集よ。」とて、六千余騎の兵の中より、世に勝たる剛の者をえり出すに、足立五郎左衛門・子息又五郎・杉田弾正左衛門尉・後藤左衛門蔵人種則・同兵庫允泰則・熊井五郎左衛門尉政成・山口新左衛門尉・城所藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田八郎・奴可源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生源左衛門・富田孫四郎・大庭孫三郎・山田又次郎・甕次郎左衛門・那珂彦五郎、二十七人をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千の兵にて、心きゝ夜討に馴たる者共也とは云ながら、敵千余人篭て用心密しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵の間に、えい声を出して、先立人を待調へさせ筒の火を見せて、さがる勢を進ませて、城の後なる自深山匐々忍寄て、薄・苅萱・篠竹なんどを切て、鎧のさね頭・胄の鉢付の板にひしと差て、探竿影草に身を隠し、鼓が崎の切岸の下、岩尾の陰にぞ臥たりける。かるも掻たる臥猪、朽木のうつぼなる荒熊共、人影に驚て、城の前なる篠原を、二三十つれてぞ落たりける。城中の兵共始は夜討の入よと心得て、櫓々に兵共弦音して、抛続松屏より外へ投出々々、静返て見けるが、「夜討にては無て後ろの山より熊の落て通りけるぞ、止よ殿原。」と呼はりければ、我先に射て取らんと、弓押張靭掻著々々、三百余騎の兵共、落行熊の迹を追て、遥なる麓へ下ければ、城に残る兵纔に五十余人に成にけり。夜は既に明ぬ。木戸は皆開たり。なじかは少しも可議擬、二十七人の者共、打物の鞘を迦して打入。城の本人佐和善四郎並郎等三人、腹巻取て肩に投懸、城戸口に下合て、一足も不引戦けるが、善四郎膝口切れて犬居に伏せば、郎等三人前に立塞ぎ暫し支て討死す。其間に善四郎は己が役所に走入、火を懸て腹掻切て死にけり。其外四十余人有ける者共は、一防も不防青杉の城へ落て行。熊狩しつる兵共は熊をも不追迹へも不帰、散々に成てぞ落行ける。憑切たる鼓崎の城を被落のみならず、善四郎忽討れにければ、残二の城も皆一日有て落にけり。兵、伏野飛雁乱行と云、兵書の詞を知ましかば、熊故に城をば落されじと、世の嘲に成にけり。其後越後守、石見勢を相順て国中へ打出たるに、責られては落得じとや思けん、石見国中に、三十二箇所有ける城共、皆聞落して、今は只三角入道が篭たる三隅城一ぞ残ける。此城山嶮く用心深ければ、縦力責に攻る事こそ不叶共、扶の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何までか怺て城にもたまるべき。只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、寄手の構密しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚ける。

そんな時寄せ手軍の三吉一揆の中でも、日頃から常に手柄をあげている兵ら三、四人が集まって攻城法を相談し、「城の構えを良く見ると、今やっているような攻め方では味方は兵糧に窮して持ちこたえられないだろうが、敵が軍に負けて落城するなどありえない。その上、備中、備後、安芸、

周防周辺に兵衛佐殿に心をよせている者が多いと聞いているので、後方に敵が現れること間違いないだろう。前には数十ヶ所もある城の一つも落とすことが出来なくて、又後方には敵が街道を閉鎖すると聞けば、如何にあの勇猛な樊(はん)かい(口偏に會)や張良であっても片時といえ持ちこたえられないでしょう。

そこで事態が面倒なことになる前に、この城を夜討によって落とし、敵に戦闘意欲を失わせ、宰相殿(尊氏?)を元気付けてあげよう」と、話されたので、「この作戦至極当然と思える。早速腕に自信のある者を集めるよう」と言って、六千余騎の兵士の中から、世間で認められているほどの勇猛な武者を選び出すと、

足立五郎左衛門、その子息又五郎、杉田弾正左衛門尉、後藤左衛門蔵人種則、同じく兵庫允泰則、熊井五郎左衛門尉政成、山口新左衛門尉、城所(きどころ)藤五、村上新三郎、同じく弥二郎、神田八郎、奴可(ぬか)源五、小原平四郎、織田小次郎、井上源四郎、瓜生源左衛門、富田孫四郎、

大庭孫三郎、山田又次郎、甕(もたい)次郎左衛門、那珂彦五郎らの二十七人を選び出しました。この人達は全員一騎当千(一人で千人を相手に出来るほどの猛者)の武者であり、機転が働き夜討に慣れた武者とは言えども、敵が一千余人も篭城し、厳しい警戒をしている城を落とすことなど出来るとも思えません。

観応元年(正平五年::1350年)八月二十五日の夕方にエイ!と掛け声を発し、先遣部隊を編成すると士気を鼓舞して、城の後方に迫っている深い山から、見つからないように腹ばいになって城に近づきました。そこらに生えているススキや茅、篠竹などを切って、鎧のさね(鎧を構成する細長い小板)や兜の鉢に付いている板にしっかりと差し込んで、

探竿影草(漁夫が草の下に魚がいるかいないか棒で探ること)から逃れるように身を隠し、鼓が崎城の切り立った崖下にある大きな岩の陰に体を伏せました。枯れ草などを寄せ集めて寝ていた猪や、朽木の空洞に潜んでいた獰猛な熊などが人影に驚いて、城の前にある笹の原っぱから二、三十匹が連なって落ちて行きました。

城内の兵士らは当初夜討ちをかけられたと思い、各櫓々に兵士らが弓の弦を鳴らし、松明を塀の外へ投げ出し続け、静まり返って様子を見ていましたが、「夜討ちではなくて、後ろの山より熊が落ちて通り過ぎたようだ、しとめてしまえ皆の者」と呼びかけたので、我先に射止めようと弓に弦を張ったり、

弓入れを小脇に抱えながら三百余騎の兵士らが、熊の落ちて行った後を追って、遥か下の麓まで降りて行ったので、城に残った兵士らは僅か五十余人になりました。夜はすでに明けており、木戸は全て開いています。一体何を疑うことあろうかと、二十七人の攻城隊は太刀を抜き払って討ち入りました。

この城の主、佐和善四郎並びに家来ら三人は、鎧の腹巻を脱いで肩に投げかけ、木戸口まで降りてきて、一歩たりと退くことなく戦いましたが、善四郎が膝頭を切られて両手を地面について伏せてしまったので、家来ら三人はその前に立ちふさがり、しばらくは支えたものの討ち死にしました。

その間に善四郎は自分の本拠とする詰所に走りこみ、火を放ってから腹を掻き切り自害しました。その外にも四十余人ほどいたのですが、ただ一度の防戦すらできず青杉城に落ちて行きました。熊を追いかけていった兵士らは熊にも追いつけず、かといって後ろに引き返すこともできず、全員ばらばらになって落ちて行きました。

一番頼りにしていた鼓が埼の城が落とされただけでなく、善四郎が早くも討たれてしまったので、残る二つの城も皆一日で落とされてしまいました。兵士らが伏野飛雁乱行(兵士が野に伏せていると上空を飛ぶ雁が乱れ飛ぶと、八幡太郎義家が敵の伏兵を見破った)という兵書の言葉を知らなかったので、

熊のために城を落とされたと世間の笑いものになりました。その後、越後守師泰は石見勢を従えて石見の国内に進攻したところ、攻撃を受ければとても支えきれないと思ったのか、石見国中に三十二ヶ所ある城は皆、話を聞いただけで恐れをなして逃げてしまい、今はただ三角入道が篭城を続けている三隅城一つが残るだけになりました。

この城は山が険しい上、厳しく防御策をとっているので、たとえ力攻めに攻めても落とすことは出来ないけれど、救援を期待する軍勢も近くには無く、兵糧を手配する所領も無いので、何時までこの城を保つことが出来るのでしょうか。ここはただ四方の峰々に向い城を構築し、二年や三年かかっても攻め落とせばよいと、

寄せ手の戦略も緻密で厳しいので、城内の兵士らは戦意も喪失気味で、頼りなく思われました。


○直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事
中国は大略静謐の体なれ共、九州又蜂起しければ、九月二十九日、肥後国より都へ早馬を立て注進しければ、「兵衛佐直冬、去月十三日当国に下著有て、川尻肥後守幸俊が館に居し給ふ処に、宅磨別当太郎守直与力同心して国中を駆催間、御方に志を通ずる族有といへ共、其責に不堪して悉付順はずと云者なし。然間川尻が勢如雲霞成て宇都宮三河守が城を囲むに、一日一夜合戦して討るゝ者百余人、疵を被る兵不知数。遂に三河守城を被責落、未死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥大勢に成て鹿子木大炊助を取巻間、後攻の為少弐が代官宗利近国を相催すといへ共、九国二島の兵共、太半兵衛佐殿に心を通ずる間、催促に順ふ輩多からず。事已に及難儀候、急御勢を被下べし。」とぞ申ける。将軍此注進に驚て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守に間給ひければ、師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々の御一族、乃至師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自御下候て、御退治なくては叶まじきにて候。其故は九国の者共が兵衛佐殿に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志を被通事は候はんと存ずる者にて候也。天下の人案に相違して、直に御退治の御合戦候はゞ、誰か父子の確執に天の罰を顧ぬ者候べき。将軍の御旗下にて、師直命を軽ずる程ならば、九国・中国悉御敵に与すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強に勧め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将義詮を残置奉て、十月十三日征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿、執事武蔵守師直を召具し、八千余騎の勢を卒し、兵衛佐直冬為誅罰とて、先中国へとぞ急給ける。

☆ 直冬朝臣が蜂起したことと、将軍尊氏が進発したこと

さて中国地方はおおむね安定した状況ですが、九州では再び反乱が起こり、観応元年(正平五年::1350年)九月二十九日、肥後国から早馬が到着し、「兵衛佐直冬は先月、八月十三日、肥後国にお着きになって、川尻肥後守幸俊の舘にて起居されていましたが、宅磨別当太郎守直と軍事同盟を結んで、

国中から軍勢を呼び寄せたところ、尊氏将軍に心を寄せている武将らも、その圧力に耐え切れず、ほとんど皆が直冬側に従いました。そうこうしている内に川尻の軍勢は雲霞を思わせるほどの勢力になり、宇都宮三河守の城を包囲して、一昼夜にわたって合戦を行った結果、討たれた者百余人、

傷を負った兵士はその数も分らないくらいです。そしてとうとう三河守は城を攻め落とされ、未だその生死については分っていません。その後、宅磨、川尻の軍勢はますます巨大になり、鹿子木大炊助の城を取り囲み、背後から攻撃しようと少弐の代官宗利が、近国に軍勢の召集をかけたのですが、

九国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)二島(壱岐、対馬)の兵士らは、ほとんどが兵衛佐直冬殿に心を寄せているため、当方の催促に応じる者はあまりおりません。すでに事態は最悪の状況になりつつあり、大至急軍勢を派遣してください」と、急報してきました。

尊氏将軍はこの連絡に驚き、「さて一体誰を討手に向かわせようか」と、執事の武蔵守師直に尋ねたところ、師直は、「遠国の乱を鎮圧するには、遠縁にあたる御一族の人や、また師直ごときを派遣するのが妥当ではありますが、今の状況ではどうあっても上様おん自ら下向され、征伐に向かわれなければならないでしょう。

何故かと申せば、九州の者どもが兵衛佐殿に加勢するのは、ただ将軍のご子息であられるから、内々に二人は意思が通じているのではと思うからです。世間の人たちは意外にも、すぐ討伐の合戦を始めると、誰が父と子の不和に対して天からの罰を気にかけるでしょうか。

将軍の指揮のもと師直が命をかけて戦う気ならば、九州や中国の全てが敵に加わろうが何を恐れるものでしょうか。ここはただ夜を日に継いで九州に向かってください」と強くお勧めしましたので、将軍は何ら反論もされず、都の警固については宰相中将義詮を残すことにして、

観応元年(正平五年::1350年)十月十三日、征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿は執事武蔵守高師直を連れて、八千余騎の軍勢を従えて、兵衛佐足利直冬誅伐のため、まず中国へ急がれました。(この時少弐は直冬側のはずだが、少し話がくいちがっているように思う)


○錦小路殿落南方事
将軍、已明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛督入道慧源は、石堂右馬助頼房許を召具して、いづち共不知落給にけり。是を聞て世の危を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類今に滅ん。」とぞ囁ける。事の様を知らぬ其方様の人々女姓なんどは、「穴浅猿や、こはいかに成ぬる世中ぞや。御共に参たる人もなし。御馬も皆厩に繋れたり。徒洗にては何くへか一足も落させ給ふべき。是は只武蔵守の計として、今夜忍やかに奉殺者也。」と、声も不惜泣悲む。仁木・細川の人々も執事の尾形に馳集て、「錦小路殿落させ給ひて候事、後の禍不遠と覚候へば、暫都に御逗留有て在所をも能々可被尋や候らん。」と被申ければ、師直、「穴こと/゛\し、縦何なる吉野十津河の奥、鬼海高麗の方へ落給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与し奉べき。首を獄門の木に曝し、尸を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を不可出。其上将軍御進発の事、已に諸国へ日を定て触遣しぬ。相図相違せば事の煩多かるべし。暫も非可逗留処。」とて、十月十三日の早旦に師直遂に都を立て、将軍を先立奉り、路次の軍勢駆具して、十一月十九日に備前の福岡に著給ふ。爰にて四国中国の勢を待けれ共、海上は波風荒て船も不通山陰道は雪降積て馬の蹄も立ざれば、馳参る勢不多。さては年明てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒に日をぞ送られける。

☆ 錦小路直義殿が南朝に落ちられたこと

ところが将軍の軍勢はすでに翌日には西国に向かって出発だと言うその夜、左兵衛督入道慧源(直義)は石堂右馬助頼房だけを供として、どことも知れずに落ちて行かれました。この事件を耳にして世の中を危ぶむ人は、「えらいことだ、天下に騒乱が起こるぞ、高家の一族はいずれ必ず滅びるだろう」と、囁きあいました。

天下の事情に疎い一般の人々や、女性などは、「なんとまあ情け無い、これでは世の中この先どうなるのでしょうか。お供をする方もないなんて。お馬も皆厩につながれたままだし、徒歩裸足ではそう遠くまで落ちて行くことなど出来ないでしょうに。これはきっと武蔵守の計略で、今夜密かに殺害するに違いないでしょう」と、

大きな声を出して泣き悲しみました。仁木、細川の人々も執事の屋敷に駆けつけて、「錦小路殿が姿を隠されたと言うことなので、この先何らかの災いが起こるのもそう遠くないと思われます。ここはしばらく出発を見合せて都に残り、市中を綿密に捜索されればいかがでしょうか」と話されたので、

師直は、「何を大騒ぎしているのだ、たとえ吉野、十津川の奥であろうと、また荒海のはて、高麗に落ちられたと言っても、この師直が生きているからには、誰が彼に味方をすると言うのだ。首を獄門の樗(おうち)の木にさらし、屍に下賎な男の鏃を突き刺すのに、三日とかからないだろう。その上、将軍御進発については、

すでに諸国に日程を連絡済みである。急に予定を変更すれば、何かと煩わしいことがよく起こるものだ。ここは一時も留まることは出来ない」と言って、十月十三日の早朝、師直はついに都を立って、将軍を先頭に途中軍勢を呼び集めながら進軍し、十一月十九日に備前の福岡に到着されました。

ここで四国、中国の軍勢集結を待たれましたが、海上は大荒れで船の航行は不可能であり、また山陰道も積雪が激しく馬の通行も出来ない状況なので、軍勢はあまり駆けつけて来ませんでした。これではやむなく年が明けてから筑紫に向かおうと、備前の福岡にて、将軍は何することなく日を送ることになりました。


○自持明院殿被成院宣事
左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下らんとしける比をひ、潜に殺し可奉企有と聞へしかば、為遁其死忍で先大和国へ落て、越智伊賀守を憑まれたりければ、近辺の郷民共同心に合力して、路々を切塞ぎ四方に関を居て、誠に弐なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂右馬助頼房以下、少々志を存る旧好の人々馳参りければ、早隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙の間に区也。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先京都へ人を上せ、院宣を伺申されければ、無子細軈て被宣下、剰不望鎮守府将軍に被補。其詞云、被院宣云、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉。爰退治凶徒、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道之軍勢企上洛、可令守護天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛督殿

☆ 持明院殿から院宣が下されたこと

左兵衛督入道慧源(直義)は、師直が西国に下ろうとしている時を選んで、密かに殺害を企てていると聞き、その陰謀から逃れんため、気づかれないようにまず大和国に落ちて、越智伊賀守を頼られると、近隣の住人ら全員が、伊賀守、慧源入道に味方し、皆で協力して道路を閉鎖し、四方に関所を構え、

全く心からの協力に見えました。その後一日経つと、石堂右馬助頼房以下、いくらか心を寄せている昔からのよしみらたちが、駆けつけてきたので、もはや身を隠すような雰囲気ではありません。その噂は都や周辺の地域で色々と言われていました。何が何でも天子の意向をはっきりとさせなければ、

自分本来の目的は達成出来ないだろうと、まず京都に使者を上らせ、院宣を要求したところ、特に問題なくすぐに宣下があっただけでなく、特に望んだわけでもないのに鎮守府将軍を命じられました。その文言は、院宣として言う。斑鳩宮(聖徳太子)が物部守屋を誅滅し、朱雀天皇が平将門を殺害した。

これは何も悪行を排しただけでなく、天皇のありがたい取り計らいである。今ここに兇徒を征伐し父、叔父両将の鬱憤を晴らそうと欲すること、天皇の喜びは少ないものでない。よって鎮守府将軍の任命と同時に左兵衛督を任じる。早急に九国二島(壱岐、対馬)並びに五畿七道(山城、大和、河内、和泉、

摂津及び東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の軍勢を上洛するように取り計らうことを、天下の守護に命じるように。院宣による通達は以上の通りである。観応元年(正平五年::1350年)十月二十五日、権中納言国俊が足利左兵衛督殿にお伝えする。


○慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事
左兵衛督入道、都を仁木・細川・高家の一族共に背かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊国は、皆吉野の王命に順て、今更武家に可付順共不見ければ、澳にも不著礒にも離たる心地して、進退歩を失へり。越智伊賀守、「角ては何様難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿の御方へ御参候て、先非を改め、後栄を期する御謀を可被廻とこそ存候へ。」と申ければ、「尤此儀可然。」とて、軈て専使を以て、吉野殿へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏卿企上洛、応勅決戦、帰天下於一統皇化候事、乾臨定被残叡感候歟。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類悉残朝敵之名条歎有余処也。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海之逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日沙弥慧源進上四条大納言殿と委細の書状を捧て、降参の由をぞ被申たる。

☆ 慧源禅巷が南朝と連合することと、漢楚両国で行われた合戦のこと

さて左兵衛督入道直義は、仁木、細川や高家の一族らに背かれて都を当ても無く飛び出しました。大和、河内、和泉、紀伊などの国は皆、吉野朝廷の命令に従い、今更武家の命に従うとはとても思われないので、どのような手を打てばよいのか分からず、全く進退に窮しました。

越智伊賀守は、「これでは全く動きが取れないと思います。こうなれば吉野朝廷に参内し、今までの過ちを悔い改め、今後の巻き返しを狙うような謀略を図ることをお考えください」と話されると、「この提案、全くその通りだ」と言って、すぐに特使を立てて吉野朝廷に申し入れをしました。その書状にはこのように書かれていました。

元弘(1331-1334年)の初め、先帝後醍醐殿が逆臣によって、皇居を西海に遷され、帝が胸を痛められていた時、勅命に応じて義兵らが蜂起したと言えども、ある者は敵に包囲され、またある者は合戦に負けて意気消沈し、志も失いかけていたところ、この慧源(直義)は恐れながら尊氏卿が上洛されるよう計らい、

勅命に応じて決戦を敢行し、天下を一つにまとめ天皇親政を実現したことは、天皇もきっと感激されたことと思います。しかしその後、新田義貞らによる讒言があり、無実に関わらず罪を負わされ勅勘の身となったため、空しく帝と我ら臣下は胡の国と越の国ほど遠く離れ、疎遠となりました。

我ら一族は残らず朝敵の名を着せられ、その嘆きは大きなものであります。臣その罪科は誠に重いとは言えども、帝から受けた恩はあまりにも大きく(訳おかしい)、深く謝罪することによってその罪を許され、勅勘を許すとの綸言を頂けたなら、四海における逆賊の乱を鎮圧し、朝廷の安泰を確実なものに致します。

内々にこの申し出を帝から許していただきたく、宜しく奏聞のほど御願いします。以上謹んで申し上げます。十二月九日修行未熟な僧、慧源が四条大納言殿に申し上げます。以上のように詳しく事情を書いた書状を携えて、降伏を申し出たのです。


則諸卿参内して、此事如何が可有と僉議ありけるに、先洞院左大将実世公被申けるは、「直義入道が申処、甚以偽れり。相伝譜代の家人、師直・師泰が為に都を被追出身の措処なき間、聊借天威己為達宿意、奉掠天聴者也。二十余年の間一人を始進せて百司千官悉望鳳闕之雲、■飛鳥之翅事、然直義入道が不依悪逆乎。而今幸軍門に降らん事を請ふ、此天の与る処也。乗時是を不誅後の禍噛臍無益。只速に討手を差遣て首を禁門の前に可被曝とこそ存候へ。」と被申ける。次に二条関白左大臣殿暫思案して被仰けるは、「張良が三略の詞に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却て無弐故也。されば章邯楚に降て秦忽に破れ、管仲許罪斉則治事、尤今の世に可為指南。直義入道御方に参る程ならば、君天下を保せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備ふ。是非難分。

申し入れに対して早速諸卿らが参内し、この申し出に如何に対処すべきかと会議を行いました。まず最初に洞院左大将実世公が、「直義入道の話すことあまりにも虚偽が多すぎる。足利家代々の家来である師直と師泰のために都を追放され、身の置き所が無い中、自分の宿願を果たすため、

少しばかり天皇のお力を借りんがため、天皇のお耳を汚そうとするものである。二十余年の間、天皇をはじめとして、多くの役所に勤める多数の役人らが、皆一様に北の宮城にかかる雲を望むだけで、飛ぶ鳥が羽を奪われた状態(?)になったのも、全て直義入道が行った悪行が原因である。

しかし、今幸いにも我が陣営に降伏を申し出てきたことは、まさしく天の計らいと思えます。この機会に彼を誅伐しなければ、後々起こる災いに臍を噛むことがあっても、何ら利益は無いでしょう。速やかに討手を差し向け、首を獄門の前にさらすことが肝要だと考えます」と、申されました。

次に二条関白左大臣殿がしばらく思案してから、「張良(前漢創業の功臣)が授かったという三略(秦末の隠者黄石公から授かった古代中国の兵法書)の言葉に、大切に扱い十分な恩恵を施すなら、兵士の戦意は日々新たに奮い立ち、戦闘になれば疾風の如く行動する、と記述されています。

このことは、自分から罪を認め謝罪する者は、良く仕え節操をわきまえ、怠ることなく誠意をもって事にあたり、以後二心を持つことのない理由になっています。つまり章邯(しょうかん::秦国の将軍)が楚国に降伏を申し出ると、秦国はたちまちに破れ、また管仲(かんちゅう::斉国の政治家)の罪を許し斉国を治めさせ国を発展させたことなど、

今の世にとって最も参考にすべきことでしょう。直義入道が我々の味方に加わるならば、帝による天下の統治が行われ、その喜びはこの時点から始まる事になります。ただし元弘の乱(1331-1333年)における功績については、これを無視することなく、官職を元に戻して召し使う以外に、他の方法は無いとお考えください」と、

異論を展開されました。主君に憚りなく諫言を申し上げる二人の廷臣による論理は、優劣損得など互いに拮抗しています。どちらを取れば良いのか難しい問題です。


君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良久ある処に、北畠准后禅閤喩を引て被申けるは、「昔秦の世已に傾かんとせし時、沛公は沛郡より起り項羽は楚より起る。六国の諸候の秦を背く者彼両将に付順しかば、共に其威漸振て、沛公が兵十万余騎、漢の濮陽の東に軍だちし、項羽が勢は四十万騎、定陶を攻て雍丘の西に至る。沛公、項羽相共に古の楚王の末孫心と云し人、民間に下て羊を飼しを、取立義帝と号し、其御前にて、先咸陽に入て秦を亡したるらん者、必天下に王たるべしと約諾して、東西に分れて責上る。角て項羽已に鉅鹿に至時、秦の左将軍章邯、百万騎にて相待ける間、項羽自二十万騎にて河を渡て後、船を沈め釜甑を破て盧舎を焼。是は敵大勢にて御方小勢也。一人も生ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝事非じと思ふ故に、思切たる心中を士卒に為令知也。於是秦の将軍と九たび遇て百たび戦。忽に秦の副将軍蘇角を討て王離を生虜しかば、討るゝ秦の兵四十余万人、章邯重て戦ふ事を不得、終に項羽に降て還て秦をぞ責たりける。項羽又新安城の戦に打勝て首を切事二十万、凡て項羽が向ふ処不破云事なく、攻る城は不落云事無りしか共、至所ごとに美女を愛し酒に淫し、財を貪り地を屠しかば、路次に数月の滞有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関にぞ著にける。沛公は無勢にして而も道難処を経しか共、民を憐み人を撫する心深して、財をも不貪人をも不殺しかば、支て防ぐ城もなく、不降云敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽に三月先立て咸陽宮へ入にけり。而共沛公志天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山の宝玉をも不散、剰降れる秦の子嬰を守護し奉て、天下の約を定めん為に、還て函谷へ兵を差遣し、項羽を咸陽へ入立じと関の戸を堅閉たりける。

天皇も思案され、末座に控える諸卿らも言葉を発せずに、しばらくすぎた頃、北畠准后禅閤親房がたとえ話として、「昔秦国の世がすでに傾き始めた時、沛公(はいこう::劉邦)は沛郡(中国江蘇省徐州市付近)より兵を挙げ、項羽は楚国を本拠に兵を挙げました。六国(斉、楚、燕、韓、魏、趙)の諸侯らで、

秦国からの離反を図ろうとする者らは、彼ら両将に帰順したので、二人の勢力は大きなものとなり、劉邦は十万余騎の兵士を率いて、漢の濮陽(ぼくよう::中国河南省)の東部から出陣し、項羽は軍勢四十万騎を率いて定陶(ていとう::中国山東省)を攻略して、雍丘の西に進攻しました。

劉邦、項羽の二人は昔の楚国王の末裔で孫心と言う人が、民間に下って羊を飼っていたのですが、抜擢されて義帝(ぎてい::秦末の反秦勢力の名目上の盟主)と名乗り、その帝の御前において、まず先に咸陽に入って秦国を滅ぼした者が、間違いなく天下の王になると約束し、東西に別れて攻め上ることになりました。

そして項羽がすでに鉅鹿(きょろく::中国河北省)に近づいた時、秦の左将軍章邯が百万騎にて待ち受ける中、項羽自ら二十万騎を率いて河を渡ってから、船を沈め炊飯用の釜や甑など調理用の器具を破却し、宿営用の小屋も燃やしました。これは敵は大軍なのに味方は小勢なので、一人も生きては帰らないと、

心を一つにして戦わなければ、千に一つも勝つことが出来ないと考え、必死の覚悟を将官や兵士に知らしめるためです。この戦略によって秦の将軍と九度出遭い、百回の遭遇戦を行いました。その結果、すぐ秦の副将軍、蘇角が討ち取られ、王離も生け捕りにされた上、秦の兵士四十余万人が討たれたので、

章邯はこれ以上戦うことが出来ずついに項羽に降伏し、それ以後章邯は秦を攻撃することになりました。また項羽は新安城の合戦にも勝利し、二十万人の首を切るなど、およそ項羽が向かうところ合戦に負けることなく、攻めた城を落とせないことなどなかったのですが、

戦場いたるところで美女を愛し、酒に溺れ財物を略奪し、その土地でほしいままに振る舞うなど、進軍途中数ヶ月の滞留を重ねて、未だ秦の都には攻め込んでいません。そして漢の元年(BC206年?)十一月、函谷関に到着しました。また沛公(劉邦)は少ない軍勢を率いている上、難所の多い進軍路を取っていましたが、

人民をいたわり人を大切にする気持ちが強く、また財物を奪ったり人を殺害することもなかったので、進軍を妨害する城もなく、彼に従わない敵もいませんでした。進軍路も開放され安全も確保されていましたから、項羽より三ヶ月早く咸陽宮に入城しました。しかしながら沛公は目標を天下の支配においていたので、

秦国の宮殿に火をかけることもなく、驪山にあった財宝なども厳しく保管し、そればかりでなく降伏を申し出た秦国の子嬰に対し、身の安全を保証しました。そして天下の支配権の約束を確定するため、函谷関に軍勢を派遣して、項羽が咸陽に入らないよう関所の戸を堅く閉ざしました」


数月有て項羽咸陽へ入らんとするに、沛公の兵函谷関を閉て項羽を入ず。項羽大に怒て当陽君に十二万騎の兵を差副、函谷関を打破て咸陽宮へ入にけり。則降れる子嬰皇帝を殺奉て咸陽宮に火を懸たれば、方三百七十里に作双たる宮殿楼閣一も不残焼て、三月まで火不消、驪山の神陵忽に灰塵と成こそ悲しけれ。此神陵と申は、秦始皇帝崩御成し時、はかなくも人間の富貴を冥途まで御身に順へんと思して、楼殿を作瑩き山川をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取て銀水を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御錠に入て長時に灯を挑たれば、石壁暗しといへ共青天白日の如く也。此中に三公已下の千官六千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽府の妓女三百人、皆生ながら神陵の土に埋て、苔の下にぞ朽にける。始作俑人無後乎と文宣王の誡しも、今こそ思知れたれ。始皇帝如此執覚様々の詔を被残神陵なれば、さこそは其妄執も留給らんに、項羽無情是を堀崩して殿閣悉焼払しかば、九泉の宝玉二度人間に返るこそ愍なれ。此時項羽が兵は四十万騎新豊の鴻門にあり。沛公が兵は十万騎咸陽の覇上にあり。其間相去事三十里、沛公項羽に未相見。於是范増といへる項羽が老臣、項羽に口説て云けるは、「沛公沛郡に有し時、其振舞を見しかば、財を貪美女を愛する心尋常に越たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是其志天下にある者也。我人を遣して窃に彼陣中の体を見するに、旗文竜虎を書けり。是天子の気に非や。速に沛公を不討ば、必天下為沛公可被傾。」と申ければ、項羽げにもと聞ながら、我勢の強大なるを憑て、何程の事か可有と思侮てぞ居たりける。

北畠准后の話しは続きます。「数ヶ月して項羽が咸陽に入ろうとすると、沛公(劉邦)の兵士らが函谷関を閉鎖して、項羽を入れようとしませんでした。項羽は激怒し当陽君(英布::秦末から前漢初期にかけての武将、政治家)に十二万騎の兵士を与えて函谷関を攻略させ、咸陽宮に入りました。

すぐに降伏を申し出た子嬰皇帝を殺害し、咸陽宮に火をかけたので、一辺三百七十里に渡って並んで建造された宮殿や楼閣など、一棟も残さず全焼し、その火は三ヶ月間燃え続け、驪山の北麓にある始皇帝の陵墓である神陵も、灰燼に帰したことは悲しいことです。この神陵と言う陵墓は、

秦の始皇帝が崩御された時、無駄なことですが人間の富や名声を、冥土まで自分のものとして持って行きたく思い、高く立派な建物を建造して飾り立て、山や川も配置して造られています。天には金銀で十丈ある大きさの日月を鋳造して架け、また地上には海や大河を似せて造ったものに、

銀の水を百里にわたって流しています。人魚から採った油、十万石を銀の油皿に入れて常時灯をともしたので、石の壁は暗いと言っても晴れ渡った日のようです。この中に天子を補佐する三人をはじめに役人ら六千人、宮城の門を護衛する兵士一万人、後宮に仕える美女三千人、

音曲担当役所の女性芸人三百人などが、全員神陵の土中に生き埋めにされ、苔の下に朽ち果てています。始作俑人無後乎(人形を死人と共に埋めることが殉死の悪習を生んだ)と孔子(文宣王::玄宗皇帝から贈られた諡号)が戒めたことも、今思い知らされます。始皇帝がこのようにこの世への執着あらわにして、

皇帝としての色々な言葉を残された陵ですから、それこそそれらの妄執で溢れかえっているのに、項羽は無残にもこの陵を掘り返し、建造物なども全て燃やし尽くしたので、黄泉の国にあった宝物などが、再び人間世界に戻ることとなったのも悲しい話です。この時、項羽が率いる兵士四十万騎は、

新豊の鴻門に駐留していました。また沛公の軍勢十万騎は咸陽の覇上に展開しています。その間三十里を隔てて、沛公は項羽に未だ顔は合わせていません。この時、范増と言う項羽の老臣が、項羽に対し言葉を尽くして、「沛公が沛郡に居た時の行動を見ると、財物に対する貪欲さや、

美女を求め愛する気持ちは尋常なものではありません。しかしながら今、咸陽に入ってからは財宝を求めることなく、美女を愛することもありません。これは彼の求めるものが天下の支配にあると言うことです。私が人を送り込み、陣中における彼の様子をひそかに偵察してみたところ、旗に竜虎の文字が書かれていました。

これはまさしく天子の気分としか考えられません。速やかに沛公を討取らなければ、必ず天下は彼、沛公のものになるでしょう」と申し上げたので、項羽も確かにそうだろうと聞きながらも、我が軍の強大なることを頼りに、たいしたことはないだろうと重視しませんでした」


斯る処に沛公が臣下曹無傷と云ける者、潜に項羽の方へ人を遣して、沛公天下に王たらんとする由をぞ告たりける。項羽是を聞て、此上は無疑とて四十万騎の兵共に命じて、夜明ば則沛公の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰に項羽が季父に項伯と云ける人、昔より張良と知音也ければ、此事を告知せて落さばやと思ける間、急沛公の陣へ行向ひ張良を呼出して、「事の体已に急也。今夜急ぎ逃去て命許を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来義を重じて、節に臨む時命を思ふ事塵芥よりも軽せし者也ければ、何故か事の急なるに当て、高祖を捨て可逃去とて、項伯が云処を沛公に告ぐ。沛公大に驚て、「抑我兵を以て項羽と戦ん事、勝負可依運や。」と問給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎、楚は是四十万騎也。平野にて戦んに、漢勝事を難得。」とぞ答へける。沛公、「さらば我項伯を呼て、兄弟の交をなし婚姻の義を約して、先事の無為ならんずる様を謀らん。」とて項伯を帷幕の内へ呼給て、先旨酒を奉じ自寿をなして宣ひけるは、「初我と項王と約を成て先咸陽に入らん者を王とせんと云き。我項王に先立て咸陽に入事七十余日、而れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関に入て秋毫も敢て近付処に非ず。吏民を籍し府庫を封じて項王の来給はん日を待。是世の知る処也。兵を遣して函谷関を守らせし事は、全く項王を防に非ず。他盜人の出入と非常とを備へん為也き。願は公速に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則旦日項王の陣に行て自無罪故を可謝。」と宣ば、項伯則許諾して馬に策てぞ帰にける。

話しは続きます。「そんな時沛公(劉邦)の臣下である曹無傷と言う者が、秘密裏に項羽のもとに人を遣わし、沛公は天下の王になろうとしていることを告げさせました。項羽はこの話を聞き、もはや疑う余地はないと四十万騎の兵士らに、夜が明ければすぐ沛公の陣営に攻め寄せて、一人残さず討取ることを命じました。

ところがこの時、項羽の若い叔父である項伯と言う人が、昔から張良と知り合いなので、このことを知らせて落ち延びさせようと考え、急ぎ沛公の陣営に向かうと張良を呼び出して、「事態は急を要します。今夜大急ぎで逃亡をはかり、命だけでも助かるようにすれば」と、告げると共に忠告しました。

しかし元来張良は義理堅く、忠節に関わる時、我が生命のことなど塵芥ほどにも考えない男なので、この危急の事態にあたって、高祖(劉邦)を見捨てて逃げることが出来ようかと、項伯の告げてきたことを沛公に話しました。沛公は大変驚き、「ところで我が軍の兵士が項羽と戦うとして、

その勝敗は運に左右されるものだろうか」と質問されると、張良はしばらく思案して、「漢国の兵は十万騎であり、対して楚の軍は四十万騎です。平地での戦闘ではとても勝ち目はありません」と、答えました。沛公は、「それなら項伯を呼び、兄弟としての交友関係と婚姻の約束を交わして、

まず事態の収拾を図ることにしよう」と言って、項伯を陣営に招き寄せ、まず酒を勧めてから、自ら歓迎の意思を明らかにして、「当初私と項王(項羽)とは約束を交わし、先に咸陽に入った者を王とすると決めていました。そして私は項王に先立つこと七十余日で咸陽に入りましたが、

私は約束したことを根拠に天下の王になろうとは思っていないので、咸陽に入ってから少しもそのような行動は取っていません。官吏や人民の掌握をし、国庫を封鎖して項王がお見えになるのを待っています。これは世間の人が認めるところです。兵士を派遣して函谷関を護っているのは、

何も項王からの攻撃を防ぐためでありません。ただ単に盗賊の侵入や逃亡と、非常の事態に備えるためです。願わくば貴殿は速やかにお帰りになり、私が行なってきた善政が無駄になることを項王に話されて、明日行おうとしている合戦を中止させてください。私は明朝すぐ項王の陣営に参り、自ら無罪である旨を弁明しよう」と仰せられたので、

項伯はすぐ了解すると馬に鞭を当て帰りました」


項伯則項王の陣に行て具に沛公の謝する処を申けるは、「抑沛公先関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高し食を安ずる事を得ましや。今天下の大功は然沛公にあり。而るを小人の讒を信じて有功人を討ん事大なる不義也。不如沛公と交を深し功を重じて天下を鎮めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽げにもと心服して顔色快く成にけり。暫あれば沛公百余騎を随へて来て項王に見ゆ。仍礼謝して曰、「臣項王と力を勠て秦を攻し時、項王は河北に戦ひ臣は河南に戦ふ。不憶き、万死を秦の虎口に逋れて、再会を楚の鴻門に遂んとは。而るに今佞人の讒に依て臣項王と胡越の隔有らん事豈可不悲乎。」と首を著地宣へば、項羽誠に心解たる気色にて、「是沛公の左司馬曹無傷が告知せしに依て頻に沛公を疑き。不然何以てか知事あらん。」と、忽に証人を顕して誠に所存なげなる体、心浅くぞ見へたりける。項羽頻に沛公を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮て坐し、范増は南に嚮たり。沛公は北に嚮て坐し、張良は西嚮て侍り。范増は兼てより、沛公を討ん事非今日ば何をか可期と思ければ、項羽を内へ入て、沛公と刺違へん為に、帯たる所の太刀を拳て、三度まで目加しけれ共、項羽其心を不悟只黙然としてぞ居たりける。范増則座を立て、項荘を呼て申けるは、「我為項王沛公を討んとすれ共項王愚にして是を不悟。汝早席に帰て沛公を寿せよ。沛公盃を傾ん時、我与汝剣を抜て舞ふ真似をして、沛公を坐中にして殺ん。而らずは汝が輩遂に沛公が為に亡されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流て申ければ、項荘一義に不及。則席に帰て、自酌を取て沛公を寿す。沛公盃を傾る時、項荘、「君王今沛公と飲酒す。軍中楽を不為事久し。請臣等剣を抜て太平の曲を舞ん。」とて、項荘剣を抜て立。范増も諸共に剣を指かざして沛公の前に立合たり。項伯彼等が気色を見、沛公を討せじと思ければ、「我も共に可舞。」とて同又剣を抜て立。項荘南に向へば項伯北に向て立。范増沛公に近付ば項伯身を以て立隠す。依之楽已に徹んとするまで沛公を討事不能。

北畠准后の話しは続きます。「項伯は帰るとすぐに項王(項羽)の陣営に行き、沛公(劉邦)の謝罪の内容について詳しく、『このたび沛公がまず最初に関中(函谷関などがある軍事的中心地)を攻略し支配したので、項王は今更咸陽に入り、枕を高くして眠ったり、安心して食事を楽しむことはできません。

現在天下にとって一番の功績は沛公にあります。にもかかわらず、世間知らずな人間が話す讒言を信じて、これほど功のある人間を討とうとするのは、重大な過ちと言えます。ここは沛公との友好関係を深め、功績を重視することによって、天下の安定を図るべきでしょう』と、理を尽くして申し上げたので、

項羽はこの説明に納得し、顔色も明るくなりました。しばらくして沛公が百余騎を従えてやって来ると項王に面会しました。沛公はすぐに謝意を述べて、『臣、私が項王と力を合わせて秦国を攻撃している時、項王は河北で戦い、私は河南で戦っていました。忘れることは出来ません、死を覚悟した秦の危地から逃れて、

今このように再会を楚国の鴻門で実現出来るとは。それなのに、今回よこしまな考えを持った人の讒言によって、私と項王の間を胡国と越国のごとく引き離されたことは、誠に悲しい限りであります』と、首を地に付けるばかりに話されたので、項羽は心から疑惑が解けた様子で、

『これに関しては沛公の臣下である左司馬曹無傷が知らせてきたので、完全に沛公を疑ったのです。でなければ何故知ることが出来たのでしょうか』と、すぐに讒言を行った人間を明らかにするなど、何も考えていない様子は誠に思慮の乏しさを感じます。項羽は盛んに沛公を引き留め、酒宴に及びました。

項王と項伯は東に向かって座り、范増は南に向いています。また沛公は北を向いて座り、張良は西向きで控えています。范増は以前から沛公を討つには今日をおいてはほかにないと考えていたので、項羽に座をはずさせて沛公と刺し違えようと、所持した太刀を握りしめ、三度まで目くばせしましたが、

項羽はその気配を全く感じることなく、そのまま座っていました。范増はすぐに席を立ち項荘(項羽の従弟)を呼んで、『私が項王のためを思って沛公を討とうとしているが、項王は愚かにもこの考えがわかっていない。貴殿はすぐ席に戻り、沛公に祝賀の辞を述べ酒を勧めるように。沛公が盃を傾けようとした時、

私と貴殿は剣を抜き舞う振りをして、沛公を有無を言わさず殺そう。そうでもしなければ、貴殿の一族らは、最後には沛公のため滅ぼされ、項王の天下が奪われるのに一年とかからないだろう』と、涙ながらに話されると、項荘は何も反論できませんでした。すぐ席に戻ると自ら酌をしながら沛公に祝辞を述べました。

沛公が盃を傾けようとした時、項荘が、『我が君、項羽が今沛公と飲酒を楽しんでいます。戦時中のため長らく遊芸から遠ざかっていましたが、今ここで私ら臣下が引き受け、剣を抜いて太平の曲を舞いましょう』と言って、項荘は剣を抜いて立ち上がりました。范増も同時に剣を振り上げて、

沛公の前で立ち止まりました。項伯は彼らの様子を見て、沛公を討たせてはならないと考え、『私も一緒に舞おう』と言って、同じく剣を抜いて立ち上がりました。項荘が南に向かうと項伯は北に向いて立ちました。范増が沛公に近づきそうになると、項伯は我が身で沛公を隠すようにかばいました。このため剣舞がもはや終わろうとするまで、沛公を討つことが出来ませんでした」


少し隙ある時に張良門前に走出て誰かあると見るに、樊■つと走寄て、坐中の体如何と問ければ、張良、「事甚急也。今項荘剣を抜て舞ふ。其意常に沛公に在。」と答ければ、樊■、「此已に喉迫る也。速に入て沛公と同命を失んにはしかじ。」とて、胄の緒を縮め、鉄の楯を挟て、軍門の内へ入んとす。門の左右に交戟の衛士五百余人、戈を支へ太刀を抜て是を入じとす。樊■大に忿て、其楯を身に横へ門の関の木七八本押折て、内へつと走入れば、倒るゝ扉に打倒され、鉄の楯につき倒されて、交戟の衛士五百人地に臥して皆起あがらず。樊■遂に軍門に入て、其帷幕を掲て目を嗔し、項王をはたと睨で立けるに、頭の髪上にあがりて胄の鉢をゝひ貫き、師子のいかり毛の如く巻て百千万の星となる。眦逆に裂て、光百練の鏡に血をそゝぎたるが如、其長九尺七寸有て忿れる鬼鬚左右に分れたるが、鎧突して立たる体、何なる悪鬼羅刹も是には過じとぞ見へたりける。項王是を見給て、自剣を抜懸て跪て、「汝何者ぞ。」と問給へば、張良、「沛公の兵に樊■と申者にて候也。」とぞ答ける。項羽其時に居直て、「是天下の勇士也。彼に酒を賜はん。」とて、一斗を盛る巵を召出して樊■が前にをき、七尾許なる■の肩を肴にとつて出されたり。樊■楯を地に覆剣を抜て■の肩を切て、少も不残噛食て巵に酒をたぶ/\と受て三度傾け、巵を閣て申けるは、「夫秦王虎狼の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之秦を不背云者なし。爰に沛公と項王と同く義兵を揚、無道の秦を亡して天下を救はん為に、義帝の御前にして血をすゝりて約せし時、先秦を破て咸陽に入らん者を王とせんと云き。然るに今沛公項王に先立て咸陽に入事数月、然共秋毫も敢て近付る所非ず。宮室を封閉して以て項王の来給はん事を待、是豈沛公の非仁義乎。兵を遣して函谷関を守しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也き。其功の高事如此。未封侯の賞非ずして剰有功の人を誅せんとす。是亡秦の悪を続で自天の罰を招く者也。」と、少も不憚項王を睨て申せば、項王答るに言ば無して只首を低て赤面す。樊■は加様に思程云散して、張良が末座に著。暫有て沛公厠に行真似して、樊■を招て出給ふ。潜に樊■に向て、「先に項荘が剣を抜て舞つる志偏に吾を討んと謀る者也。座久して不帰事危に近し。是より急我陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊■、「大行は不顧細謹、大礼は不必辞譲、如今人は方に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞することをせんや。」とて、白璧一双と玉の巵一双とを張良に与て留置き、驪山の下より間道を経て、竜蹄に策を進め給へば、■強・紀信・樊■・夏侯嬰四人、自楯を挟み戈を採て、馬の前後に相順ふ。

話しは続きます。「少しの隙をねらって、張良は門前に走り出て、誰かいないかと見回すと、樊カイ(カイ::口偏に會)がサッと走り寄り、宴会の様子はどのようなものですかと質問され、張良は、『ことは甚だ急を要します。今、項荘が剣を抜いて舞っています。しかしその狙いは常に沛公に向かっています』と答えられたので、

樊カイは、『すでに剣は喉に迫っているかもしれない。すぐ宴会場に入って沛公と一緒に死ぬのが良かろう』と言って、兜の緒を締めなおし鉄の楯を脇に挟んで、陣営の門の中に入ろうとしました。門の左右に戈(ほこ)を十文字に交えて守っている護衛の兵士、五百余人が戈を構え、太刀を抜いて入らせないようにしました。

樊カイは怒り狂って楯を横向きに構えて、門のカンヌキを七、八本へし折って中にサッと入ったため、倒れた扉に押し倒されたり、鉄の楯に突き倒されたりしたので、守備兵ら五百人は地に伏したまま、皆起き上がることができません。樊カイはこうして軍門を突破して中に入り、

帷幕(陣に張りめぐらしてある幕)を巻き上げ怒りに燃えた目で項王をハッたと睨みつけ仁王立ちになると、頭髪は逆立って兜の鉢を貫き、獅子が怒った時に逆立てる毛のように巻き、百千万の星(兜の鉢に打ち付けてある鋲)のようになりました。目は裂けるかと思われるほど見開き、まなじりはつりあがって、

その眼光は磨き抜かれた鏡に血を注いだようです。その長さ九尺七寸もあって怒りに燃えた鬼のような髭を左右に分け、鎧をゆすりあげて仁王立ちになった姿は、どのような悪鬼羅刹(恐ろしい魔物のたとえ。悪鬼は人に悪いことをする化け物。羅刹は足が速く、力が強く、人をだまし食うという魔物)もこれほどではないように見えます。

項王はこの様子を見て、自ら抜きはなった剣を手にしてひざまずき、『汝は一体何者だ』と問えば、張良は、『沛公の兵士にて樊カイと申す者です』と、答えました。その返答を聞くと項羽は姿勢を正して、『この者は天下第一の勇士である。彼に酒を与えてくれよう』と言って、

一斗も入るかと思われる両側に取っ手のついた大杯を持って来させると樊カイの前に置き、七頭ほど豚(いのこ::体長の短い豚)の肩肉を酒の肴として出されました。樊カイは楯を地に伏せ置いて、剣を抜くとその上で豚の肩肉を切って少しも残さずに食べ、大杯になみなみと注いで三度まで受けると杯を置き、

『そもそも秦国の王は欲深く残忍な性格のため、人を殺したり民衆を痛めつけることを止めようとはしませんでした。このため天下の人々で秦国に背かない者などいませんでした。そのような時、沛公と項王は共に義兵を募って蜂起し、あくどい秦国を滅ぼし、天下の規律や人民など全てを救うため、

義帝の御前において血をすすって約束を交わした時、先に秦国を破って咸陽に入った者を王とすると決めました。ところが現在、沛公が項王に先立って咸陽に入って数か月経っていますが、少しも王になろうとする気配はありません。宮廷を閉鎖して項王の来られるのを待っていますが、

これが沛公の仁義と言うものです。兵士を派遣し函谷関を警固しているのも、他国の盗賊の侵入や逃亡を阻止したり、非常の事態に備えるのが目的です。彼の功績はこのように素晴らしいものです。しかし諸侯として未だに実施されていない領土付与などの恩賞どころか、この功績ある人間を誅伐しようとしています。

これでは滅亡した秦国の悪例を引き継ぐことになり、おのずから天罰を招き寄せることになるでしょう』と少しも遠慮することなく、項王を睨みつけて話されると、項王は何も反論できず、ただ首を低くして赤面するばかりです。樊カイはこのように自説を思い切り披露して、張良側の末座に着きました。

しばらくして沛公は手洗いに行く振りをして、樊カイを招いて席をはずされました。樊カイに向かいソッと、『最初項荘が剣を抜いて舞ったのは、私を討とうと考えていたからだ。帰らずに長居すれば危険が増すことになるだろう。今から私は急いで我が陣に帰ろうと思うが、暇を申し出ずに帰るのは非礼にあたる。

どうすれば良いだろうか』と仰せられたので、樊カイは、『大きなことを成し遂げるには、小さなことにはこだわらず、儀礼などここでは不要でしょう。今まさに彼らは包丁とまな板であり、我らは魚肉になろうとしています。何故帰ろうとしないのですか』と言って、項王に差し上げるための白色の美しい玉一対と、

范増用の玉の杯一対を張良に手渡すとその場に残し、驪山の麓から間道を抜け、駿馬に鞭を当てて進めば、シン(革偏に斤)彊、紀信、樊カイ、夏候嬰ら四人が、自ら楯を脇に挟み戈を手にして、馬の前後に従いました」


其道二十余里、嶮きを凌ぎ絶たるを渡て、半時を不過覇上の陣に行至りぬ。初め沛公に順ひし百余騎の兵共は、猶項王の陣の前に並居て、張良未鴻門にあれば人皆沛公の帰給へるを不知。暫有張良座に返て謝して曰、「沛公酔て坏を酌に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良をして、謹で足下に可献之と被申置。」とて、先白璧一双を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠に天下の重宝也。」と感悦して、坐上に置て自愛し給ふ事無類。其後張良又玉斗一双を捧て范増が前にぞ置たりける。范増大に忿て、玉斗を地に投剣を抜て突摧き、項王をはたと睨て、「嗟豎子不足与謀奪項王之天下者必沛公なるべし。奈何せん吾属今為之虜とならん事。白璧重宝也といへ共豈天下に替んや。」とて、怒る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶も范増が心を不悟、痛く酔て帳中に入給へば、張良百余騎を順て覇上に帰りぬ。沛公の軍門に至て、項王の方へ返忠しつる曹無傷を斬て、首を軍門に被懸。浩りし後は沛公項王互に相見ゆる事なし。天下は只項羽が成敗に随て、賞罰共に明ならざりしかば、諸侯万民皆共、沛公が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽と沛公と天下を争気已に顕れて、国々の兵両方に属せしかば、漢楚二に分れて四海の乱無止時。沛公をば漢の高祖と称す。其手に属する兵には、韓信・彭越・蕭何・曹参・陳平・張良・樊■・周勃・黥布・盧綰・張耳・王陵・劉賈・■商・潅嬰・夏侯嬰・傅寛・劉敬・■強・呉■・■食其・董公・紀信・轅生・周苛・侯公・随何・陸賈・魏無知・斉孫通・呂須・呂巨・呂青・呂安・呂禄以下の呂氏三百余人都合其勢三十万騎、高祖の方にぞ属しける。

北畠親房の話しは続きます。「行程二十余里の険しい道を何とか凌いで進み、やがて一時間も経たないうちに覇上の陣に到着しました。最初沛公に従っていた百余騎の兵士らは、今なお項王の陣に並び座っていますし、張良も未だ鴻門にいますから人々は皆、沛公がお帰りになったこと知りません。

しばらくして張良は座に戻り、『沛公は酔いが回り過ぎて、盃を受けるのに耐えられず席をはずしていますが、臣下の張良が謹んで閣下にこれを献上するようにと、預かっております』と言って、先ほどの白い玉一対を取り出すと、改めて拝礼し項王の御前に置きました。項王は白璧を受けて、

『これはまさしく天下の宝物である』と喜びを表し、上座に安置して愛でること並ではありませんでした。また、その後張良は玉斗(玉の杯)一対を捧げ持って范増の前に置かれました。しかし范増は激怒して玉斗を地に投げつけ、剣を抜いて突き砕くと、項王をハッタと睨んで、

『あぁ、こんな馬鹿者(豎子・じゅし::若者や未熟者をさげすんで言う語、ここでは項王のこと)と一緒になってはかりごとをすべきではなかった。項王の天下を奪うのは間違いなく沛公であろう。このため我らの同僚たちが、そのうちに捕虜の身となることをどうすれば良いのか。白璧がいかに宝物として素晴らしいものであっても、

どうして天下の支配と交換できようか』と言って、怒りを含んだ目に涙を流しながら、一時間ばかり立ちすくんでいました。それでも項王はなおも范増の心情に気付かず、酔いがひどくなり帳(とばり::垂れ幕)の中にお入りになられたので、張良は百余騎を率いて覇上に帰りました。

沛公の軍門に着くと、項王に寝返った曹無傷を斬首して、その首を軍門に架けたのでした。この後、沛公と項王はお互い顔を合わせることはありませんでした。そして天下は項羽の支配にゆだねられたのですが、その賞罰などに不明朗な部分が多く、諸侯や万民らは沛公の功績が陰に隠れて、

天下の支配者になっていないことを悲しんだのです。その後、早くも項羽と沛公は天下の支配権を争う気が起こり、国々の兵士らも双方どちらかに属することとなり、漢国、楚国の二つに分かれて、世の中の騒乱はいつまでも続きました。沛公は漢国の高祖と名乗りました。その支配下の兵士らには、

韓信、彭越(ほうえつ)、蕭何(しょうか)、曹参(そうさん)、陳平、張良、樊カイ、周勃(しゅうぼつ)、黥布(げいふ)、盧綰(ろくわん)、張耳、王陵、劉賈(りゅうか)、レキ(麗の横におおざと)商、潅嬰(かんえい)、夏候嬰、傅寛(ふかん)、劉敬(りゅうけい)、キン強、呉ゼイ、レキ(麗の横におおざと)食其(れきいき)、董公(とうこう)、紀信、

轅生(えんせい)、周苛(しゅうか)、候公(こうこう)、隋何(ずいか)、陸賈(りくか)、魏無知(ぎむち)、斉孫通(斉=叔・しゅくそんつう)、呂須(りょしゅ)、呂巨(りょこ)、呂青(りょせい)、呂安(りょあん)、呂禄(りょろく)以下の呂氏三百余人、総勢三十万騎が高祖の陣営に属しました」


楚の項羽は元来代々将軍の家也ければ、相順ふ兵八千人あり。其外今馳著ける兵には、櫟陽長史欣・都尉董翳・塞王司馬欣・魏王豹・瑕丘申陽・韓王・成・趙司馬■・趙王歇・常山王張耳・義帝柱国共敖・遼東韓広・燕将臧荼・田市・田都・田安・田栄・成安君陳余・番君将梅■・雍王章邯、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎の勢にて項羽に降て属せしかば、項氏十七人、諸侯五十三人、都合其勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加りける。漢の二年に項王城陽に至て、高祖の兵田栄と戦ふ。田栄が軍破れて降人に出ければ、其老弱婦女に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋て是を殺す。漢王又五十六万人を卒して彭城に入る。項羽自精兵三万人を将て胡陵にして戦ふ。高祖又打負ければ、楚則漢の兵十余万人を生虜て■水の淵にぞ沈めける。■水為之不流。高祖二度戦負て霊壁の東に至る時、其勢纔に三百余騎也。項王の兵三百万騎、漢王を囲ぬる事三匝、漢可遁方も無りける処に、俄に風吹雨荒して、白日忽に夜よりも尚暗かりければ、高祖数十騎と共に敵の囲を出て、豊沛へ落給ふ。是を追て沛郡へ押寄ければ、高祖兵共爰に支へ彼こに防で、打死する者二十余人、沛郡の戦にも又漢王打負給ひければ、高祖の父大公、楚の兵に虜れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯と蕭何が兵を合せて二十万余騎、■陽に至る。項王勝に乗て八十万騎彭城より押寄て相戦ふ。此時漢の戦纔に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢を振て未重て不戦、共に広武に張陣川を隔てぞ居たりける。

話しは続きます。「楚国の項羽は元来が代々続く将軍の家なので、彼に隷属する兵は八千人います。そのほかに今回駆けつけてきた兵士は、櫟陽(らくよう::地名)の長史欣(ちょうしきん)、都尉(とい::軍事の役職名)の董翳(とうえい)、塞王(さいおう)の司馬欣、魏王の豹(ひょう)、瑕丘(かきゅう)の申陽(しんよう)

韓王(かんおう)、成(せい)、趙の司馬ゴウ(功の力の部分が卩)、趙の王歇(おうけつ)、常山王張耳(ちょうじ)、義帝柱国(ちゅうこく::職名)共敖(きょうごう)、遼東の韓広(かんこう)、燕の将臧荼(ぞうと)、田市(でんし)、田都(でんと)、田安(でんあん)、田栄(でんえい)、成安君陳余(ちんよ)、番君将梅ミ(ばいけん)

そして雍王(ようおう)章邯(しょうかん)、彼は河北の合戦に敗れてから、三十万騎の軍勢を率いて項羽に降伏し、最終的には項一族十七人と諸侯五十三人の兵士ら、総勢三百八十六万騎が項王の陣営に加わりました。漢の二年に項王は城陽に到着し、高祖の田栄軍と戦いました。田栄軍は敗れて降伏したため、

老いも若きもまた婦女に至るまで、二十万を土中に生き埋めにして殺害しました。また漢王(劉邦)は五十六万人を率いて彭城(ほうじょう)に入りました。項羽は自らの精兵三万人を指揮して胡陵(こりょう)で迎え撃ちました。高祖劉邦は再び負けてしまい、楚軍はすぐに漢の兵士十余万人を生け捕りにし、

よどんだ淵に沈めたのです。このため川の流れが止まりました。このように高祖は二度の合戦に負けてしまい、霊壁(れいへき::安徽省北部)の東に到着した時、その軍勢はわずか三百余騎になっていました。対して項王軍の兵士は三百万騎であり、漢王軍を三重に包囲したので、

漢軍は包囲を破り逃げることもできなかった状況にあったのですが、突然暴風雨が襲来し、日中であるにも関わらず夜以上に暗くなったので、高祖は数十騎と一緒に敵の囲みを破って豊沛(ほうはい)に落ち延びました。項王軍は追撃して沛郡に押し寄せたので、高祖軍はここで支えたり、向こうで防御戦をするなどして、

討ち死にする者二十余人、このように沛郡の合戦においても再び漢王劉邦は負けてしまい、劉邦の父親、劉太公も楚国の兵士に捕えられ、項王の前に引き出されました。漢王は周呂候(しゅうりょこう)と蕭何(しょうか)の兵士らを合わせて二十万余騎でケイ(螢の虫が水)陽に逃げました。項王は勝ちに乗じて八十万騎の軍勢を率いて、

彭城(ほうじょう)より押し寄せて戦いました。この時漢国はわずかながら有利に合戦を進めましたが、項王は全く問題にしませんでした。漢、楚両国は互いに勢いに任せて戦おうとはせず、共に広武に陣を構え、川を挟んで対峙しました」


或時項王の陣に高き俎を作て、其上に漢王の父大公を置て高祖に告て云く、「是沛公が父に非や。沛公今首を延て楚に降らば太公と汝が命を助ん。沛公若楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲て云、「吾項羽と北面にして命を懐王に受し時、兄弟たらん事を誓き。然れば吾父は即汝が父也。今而に父を烹殺さば幸に我に一盃の羹を分て。」と、欺れければ、項王大に怒て即大公を殺さんとしけるを、項伯堅諌ければ、「よしさらば暫し。」とて、大公を殺事をば止めてけり。漢楚久相支て未勝負を決、丁壮は軍旅に苦み老弱は転漕に罷る。或時項羽自甲胄を著し戈を取、一日に千里を走る騅と云馬に打乗て、只一騎川の向の岸に控て宣けるは、「天下の士卒戦に苦む事已に八箇年、是我と沛公と只両人を以ての故也。そゞろに四海の人民を悩さんよりは、我と沛公と独身にして雌雄を決すべし。」と招て、敵陣を睨でぞ立たりける。爰に漢皇自帷幕の中より出て、項王をせめて宣けるは、「夫項王自義無して天罰を招く事其罪非一。始項羽と与に命を懐王に受し時、先入て関中を定めたらん者を王とせんと云き。然を項羽忽に約を背て、我を蜀漢に主たらしむ。其罪一。宋義、懐王の命を受て卿子冠軍となる処に、項羽乱に其帷幕に入て、自卿子冠軍の首を斬て、懐王我をして是を誅せしめたりと偽て令を軍中に出す。其罪二。項羽趙を救て戦利有し時、還て懐王に不報、境内の兵を掃て自関に入る。其罪三。懐王堅く令すらく、秦に入らば民を害し財を貪る事なかれと。項羽数月をくれて秦に入し後、秦の宮室を焼き、驪山の塚を堀て其宝玉を私にせり。其罪四。又降れる秦王子嬰を殺して、天下にはびこる。其罪五。詐て秦の子弟を新安城の坑に埋て殺せる事二十万。其罪六。項羽のみ善地に王として故主を逐誅たり。畔逆是より起る。其罪七。懐王を彭城に移して韓王の地を奪、合せて梁楚に王として自天下を与り聞く。其罪八。項羽人をして陰に懐王を江南に殺せり。其罪九。此罪は天下の指所、道路目を以てにくも者也。大逆無道の甚事、天豈公を誡刑せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽と独身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜といへ共我義の天に合るには如じ。而らば刑余の罪人をして甲兵金革をすて、挺楚を制して、項羽を可撃殺。」と欺て、百万の士卒、同音に箙を敲てどつと笑ふ。項羽大に怒て自強弩を引て漢王を射る。其矢河の面て四町余を射越して漢王の前に控たる兵の、鎧の草摺より引敷の板裏をかけず射徹し、高祖の鎧の胸板に、くつまき責てぞ立たりける。漢の兵に楼煩と云けるは、強弓の矢継早、馬の上の達者にて、三町四町が中の物をば、下針をも射る程の者也けるが、漢王の当の矢を射んとて矢比過て懸出たりけるを、項羽自戟を持て立向ひ、目を瞋かし大音声を揚て、「汝何者なれば、我に向て弓を引んとはするぞ。」と怒てちやうどにらむ。其勢に僻易して、さしもの楼煩目敢て物を不見、弓を不引得人馬共に振ひ戦て、漢王の陣へぞ逃入ける。漢王疵を蒙て愈を待程に、其兵皆気を失ひしかば、戦毎に楚勝に不乗云事なし。是只范増が謀より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何にもして此范増を討んとぞ計りける。

北畠親房の話しは続きます。「ある時項王の陣に生贄を載せる高い台を作り、その上に漢王劉邦の父、太公を据えると高祖に向かって、『この者は沛公の父ではないのか。沛公よ、今首を洗って楚国に降伏をするならば、太公と汝の命は助けてやろう。もし沛公が楚国に降伏しなければ、

直ちに太公を釜茹でにして殺してやろう』と、話しました。漢王はこれを聞くと大いに見下げた感じで、『私は項羽と共に臣下として懐王(義帝)によって生を受けた時、今後兄弟でいることを誓った。と言うことは私の父は、とりもなおさず汝の父でもある。それにもかかわらず父を煮殺す気なら、ちょうど都合が良い、

私に一杯の熱い吸い物を分けてくれ』と馬鹿にしたので、項王は怒り狂って今にも太公を殺そうとしたのを、項伯がきつく諫めたので、『そこまで言うなら、ちょっと待とう』と言って、太公を殺害することはやめました。漢国と楚国は互いに何とか防戦したので、未だに勝負がつかず、

元気な兵士らは終わりのない戦闘に苦しみ、老いた者は兵糧の輸送業務に疲れ果てたのでした。そんなある時、項羽は自ら甲冑を着け、戈を手にすると一日に千里を走るという愛馬の”騅”に乗って、ただ一騎で川の向こう岸に立ち止まって、『天下の将兵たちが長引く戦闘に苦しむことすでに八年になった。

これはただ私と沛公両人がその原因を作っている。むだに国家の人民を苦しめるより、私と沛公だけで雌雄を決しようではないか』と呼びかけ、敵陣を睨んで仁王立ちになりました。すると漢王は自ら陣幕の中より出てきて、項王を非難するように、『何を言うか、項王自身が正義を守らないため、

天罰をこうむったことが罪の最大でないのか。最初項羽とともに生を懐王から受けた時、先に関中(軍事的中心地)を統治した者を王と定めると決めた。ところが項羽はすぐにその約束を反故にし、自身が蜀漢の主となった。それが罪の第一。宋義(そうぎ)は懐王の命令によって、

卿子冠軍(けいしかんぐん::上級将軍)に任命されたが、項羽は無謀にもその本営に入り込み、自ら卿子冠軍の首を切り、これは懐王が私に卿子冠軍を誅伐させたものであると偽りの命令を軍内部に披露した。これが罪の第二。項羽が趙国を救援して戦況が有利であるのに、引き返すと懐王に報告もせず、

懐王の軍勢を集めて自ら関中に入った。これが罪のその三。懐王は秦国に入ったなら民衆に危害を加えたり、財物を略奪しないようにと固く戒めていた。項羽は数ヶ月遅れて秦国に入ってから、秦の皇居を焼き、廬山の塚を掘り返しその中にあった財宝などを私物化した。これが罪の四。

また降伏を申し出た秦の王子である子嬰を殺害し、天下に勢力を伸ばしたこと。これが罪の五。だまして秦国の兵士国民ら二十万人を、新安城の穴に生き埋めにして殺したこと。これが罪のその六。また項羽だけが豊かな土地の王になって、元の君主を追放し、そのため反乱が起こった。

これが罪のその七。懐王を彭城に移し韓王(韓王成?)の土地を奪って、梁楚を王として自分の支配下に置いたこと。これが罪その八。項羽は刺客を使って、ひそかに懐王を江南の地で殺害した。これが罪の九。この罪は天下の認めるところであり、公然とは非難しないが道で会えば、

互いに目でその憎む気持ちを通じ合っている。この大逆無道はなはだしい行為に、どうして天が彼を処罰せずにおくものか。なんで七面倒くさいのを我慢して、一人で項羽と戦わなねばならないのだ。汝が山を抜き取るほどの力が強いと言っても、私が正義の天に守られていることにはかなわないだろう。

それだったら宦官に武装や武具など支給せずに、楚国を制圧させ項羽を棒などでたたき殺してやろう』と、馬鹿にして話したので、百万の武将や兵士らは皆同時に箙(えびら::矢を入れて背負う道具)をたたいてドッと笑いました。項羽は怒りに燃えて自ら強弓を引き、漢王(劉邦)を射ました。

その矢は川の上を四町ほど飛び越し、漢王の前に控えていた兵の鎧にあたり、草摺りから後ろの草摺りまで訳もなく射通し、高祖が着けている鎧の胸板に、鏃をさしこんだ口元まで入って矢が立ちました。漢軍の中でも楼煩(ろうはん)と言う兵士は、強弓をあやつり矢継ぎ早に射込んだり、

また馬上での技術が優れ、三町四町の程度であれば、糸で吊り下げた針さえ射るほどの名手ですが、漢王にあたった矢を射ようとして、射程距離を出て駆けだしたのを、項羽は自ら戈を手にして向かって行き、目に怒りを込めて大音声をあげると、『私に向かって弓を引こうとするとは、

汝は一体何者なのだ』と怒鳴って、キッと睨みつけました。その勢いに圧倒され、さしもの楼煩も目を背け弓を引くことも出来ず、人馬共恐怖にふるえて漢王の陣内に逃げ込みました。漢王が受けた傷の治るのを待っている間に、兵士らは戦意が喪失して、戦闘の度に楚国が勝ち続けるばかりです。

これらのことすべては范増の謀略によって起こされ、漢王劉邦は常に敵に包囲されているの状態なので、陳平や張良らはどうあっても范増を討取ろうと計画しました」


或時項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先酒を勧めんとしけるに、大■の具へを為て山海の珍を尽し旨酒如泉湛て、沙金四万斤、珠玉・綾羅・錦綉以下の重宝、如山積上て、引出物にぞ置たりける。陳平が語る詞毎に、使者敢て不心得、黙然として答る事無りける時に、陳平詐驚て、「吾公を以て范増が使也と思て密事を語、今項王の使なる事を知て、悔るに益なし。是命を伝る者の誤也。」と云て、様々に積置ける引出物を皆取返し、大■の具へを取入て、却て飢口にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰て此由を項王に語る。項王是より范増が漢王と密儀を謀て、返忠をしけるよと疑て、是が権を奪て誅せん事を計る。范増是を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定ぬ。君王自是を治め給へ。我已に年八十余、命の中に君が亡んを見ん事も可悲。只願は我首を刎て市朝に被曝歟、不然鴆毒を賜て死を早せん。」と請ければ、項王弥瞋て鴆毒を呑せらる。范増鴆を呑て後未三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已に八箇年自相当る事七十余度に及ぶまで、天下楚を背といへ〔共〕、項羽度ごとに勝に乗し事は、只楚の兵の猛く勇めるのみに非ず。范増謀を出して民をはぐゝみ、士を勇め敵の気を察し、労せる兵を助け化を普く施して、人の心を和せし故也。されば范増死を賜し後、諸侯悉楚を負て漢に属せる者甚多し。漢楚共に■陽の東に至て久相支へたる時に、漢は兵盛に食多して楚は兵疲れ食絶ぬ。此時漢の陸賈を楚に使して曰、「今日より後は天下を中分して、鴻溝より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。仍先に生取て戦の弱き時には、是を烹殺さんとせし漢王の父太公を緩して、漢へぞ送られける。軍勢皆万歳を呼ふ。角て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有て諸侯皆付順ふ。楚は兵罷て食尽たり。是天の楚を亡す時也。此時不討只虎を養て自患を遺侯者なるべし。」漢王此諌に付て即諸候に約し、三百余万騎の勢にて項王を追懸給ふ。項羽僅十万騎の勢を以て固陵に返し合て漢と相戦ふ。漢の兵四十余万人討れて引退く。是を聞て韓信、斉国の兵三十万騎を卒して、寿春より廻て楚と戦ふ。彭越、彭城の兵二十万騎を卒して、城父を経て楚の陣へ寄せ、敵の行前を遮て張陣。大司馬周殷、九江の兵十万騎を卒して、楚の陣へ押寄せ水を阻て取篭る。東南西北悉百重千重に取巻たれば、項羽可落方無て、垓下の城にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重、四面皆楚歌するを聞て項羽今宵を限と思はれければ、美人虞氏に向て、泪を流し詩を作て悲歌慷慨し給ふ。虞氏悲に不堪、剣を給て自其刃に貫れて臥ければ、項羽今は浮世に無思事と悦て、夜明ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先四面を囲みぬる漢の兵百万余騎を懸破り、烏江と云川の辺に打出給ひ、自泪を押て其兵に語て曰、「吾兵を起してより以来、八箇年の戦に、自逢事七十余戦、当る所は必破る、撃つ所は皆服す。未嘗より一度も不敗北遂に覇として天下を有てり。然共今勢ひ尽力衰へて漢の為に被亡ぬる事、全非戦罪只天我を亡す者也。故に今日の戦に、我必快く三度打勝て、而も漢の大将の頚を取、其旗を靡かして、誠に我言処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分、漢の兵百万騎を四方に受て控へたる処に、先一番に漢の将軍淮陰侯、三十万騎にて押寄たり。

北畠の話は続きます。「ある時、項王の使者が漢王の所に来ました。陳平は使者に対面しまず酒を勧めようと、豪華な料理の準備をし、山海の珍味をこれでもかと集め、美酒も泉のごとくあふれるほど用意しました。また砂金の四万斤をはじめとして珠玉、綾羅(りょうら::あやぎぬとうすぎぬ)

錦綉(きんしゅう::錦と刺繍を施した布)以下の貴重な品々が山のように積み上げられ、引き出物として置いてありました。陳平が語りかける言葉に対して、使者は全く理解しようとはせず、ただ黙っているだけで返事もありません。その時陳平は驚いた振りをして、『私は今の今まで、あなたが范増からの使者だと思って、

機密に属する話をしてきました。ところが今、項王からの使いだと知りましたが、今更後悔しても始まりません。これは主君の命を伝える者として大きな失態です』と言って、色々積み上げられていた引き出物を皆取返し、用意していた料理なども皆引き上げ、反対に飢餓状況の者でも口にしないような料理を出しました。

使者は帰るとこの一部始終を項王に話しました。項王はこの報告により范増が漢王と密談を繰り返し、裏切ろうとしているのではないかと疑い、彼の権限を奪ったうえで誅伐することに決めました。これを聞いた范増は、最後まで一言も謝罪しようとせず、『天下の行方はここに決まったようだ。

君王(項王)自らこの国を治めてください。私はすでに八十余歳になりました、生きている間に君が滅びるのを見るのも悲しいことです。ただ願わくば私の首を刎ねて、まちなかに晒してくだされ。でなければ鴆毒(ちんどく::鴆と言う鳥の羽にある猛毒)を賜って死期を早めましょう』と頼みましたので、

項王はますます激昂し鴆毒を飲ませました。范増は鴆毒を飲んで三日も経たずに、血を吐いて死んだのでした。楚と漢は戦い続けてすでに八年、直接対決も七十余回に及び、天下は楚国に反感を持っていると言えども、楚国の項羽はその度ごとに勝利を収めたことは、

ただ単に楚国の兵士が強兵であるだけではありません。范増が色々と対策を講じて、民衆の生活の安定を重視して育成に努め、兵士の訓練を繰り返し、常に敵の気配を気遣いながら、体調の悪い兵士をいたわり、全ての人々に対して教化(人を教え導くこと)に努めて、人の心を和やかなものにしてきたからです。

そのため范増が死を賜ってからは、諸侯の多くが楚国に背いて、漢国に従属をはかる者が多数に及びました。漢楚両国がケイ(螢の虫が水)陽の東に着いて、お互い長期にわたって防戦に努めていた時、漢は意気盛んな兵士への食料は十分であり、楚は疲れた兵士に対して、まともな食料は支給されませんでした。

その時漢国は陸賈(りくか)を使者として楚国に派遣し、『今日より後は天下を二つに分け、鴻溝(こうこう)より西を漢国の支配地にし、東を楚国にしよう』と和睦を願うと、項王は喜んでその取り決めを受け入れました。この結果以前生け捕りにして、戦闘の思わしくない時には、

煮殺そうとした漢王の父、太公を釈放して漢に帰国させました。軍勢は喜んで皆万歳を叫んだのです。このようにして、楚国は東に帰り、漢国が西に帰ろうとした時、陳平と張良の二人が漢王に対し、『現在漢国は天下の大半を支配し、諸侯も皆漢国に従属しています。反対に楚国は兵士が疲れ戦意消沈し、

兵糧も底をついています。これは天が楚国を滅ぼす時でしょう。この機に討たなければ、ただ虎を育てることになり、おのずから将来に禍根を残すことになるでしょう』と、申し上げました。漢王はこの忠告に従いすぐ諸侯に動員令を出し、三百万余万騎の軍勢で項王を追撃しました。

項羽はわずか十万騎の軍勢で固陵(こりょう::河南省西北)に留まり、漢と戦闘をしました。この戦いで漢の兵士ら四十余万人が討たれて退却しました。この戦況を聞いて、韓信は斉国の兵士三十万騎を率いて寿春(じゅしゅん::安徽省)を迂回し、楚国と戦いました。彭越は彭城(ほうじょう::江蘇省北西)の兵士二十万騎を率いて、

城父経由で楚国の陣営に押し寄せ、敵の進行先を遮断し陣を構えました。また大司馬周殷は九江(きゅうこう::江西省北部)の兵士十万騎を率いて、楚国の陣営に押し寄せ、水路を遮断して取り囲みました。このように漢軍が東西南北全て幾重にも取り囲んだので、項羽は落ちるに落ちられず、

垓下(がいか::安徽省)の城に籠られたのです。漢の兵士らが城を数百重にも囲み、四方すべてから楚国の歌が聞こえてくるので、項羽はもはや今宵が最期になるのではと思い、虞美人氏に向かって涙を流しながら詩を作ると悲しげに歌い、また世を憤って嘆かれました。虞氏は悲しみに耐えきれず、

剣を受け取ると自らその刃に貫かれて倒れ込んだので、項羽は今やもう浮世に思い残すことはないと喜こんで、夜が明けるとまだ討たれずに残っている兵士ら二十八騎を伴って、まず四方を囲んでいる兵士ら百万余騎を駆け抜けて、烏江(うこう::貴州省から重慶市へと流れる大きな川)と言う川のほとりまで来ました。

そして涙をこらえて兵士らに向かうと、『私は挙兵を思い立ってから、八ヵ年に自ら戦闘に加わること七十余度、その間合戦に及べば必ず勝利し、勝利した地域はすべて支配してきた。未だかつてただの一度も負けることなく、ついに覇者として天下を我が物にした。しかしながら今はその勢いも力尽き、

漢国のために滅ぼされようとしていることは、合戦の勝敗などによる結果ではなく、天が私を滅ぼそうとしているからだ。そこで、今日の合戦において、私は三度にわたって必ず気分よく勝利を収め、その上漢国の大将の首を取り、大将の旗を振り回して私の言ったことに間違いのないことを皆に知らせてやろう』と言って、二十八騎の兵士を四手に分け、

漢の軍勢百万騎に四方を囲まれ待機しているところに、まず最初に、漢国の将軍、淮陰候(わいいんこう::韓信)の三十万騎が押し寄せて来ました」


項羽二十八騎を迹に立て、真前に懸入て、自敵三百余騎斬て落し、漢大将の首を取て鋒に貫て、本の陣へ馳返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎に成にけり。其勢を又三所に控へさせて、近く敵を待懸たるに、孔将軍二十万騎、費将軍五十万騎にて東西より押寄たり。項王又大に呼て山東より馳下、両陣の敵を四角八方へ懸散し、逃る敵五百余人を斬て落し、又大将都尉が頭を取、左の手に提て、本の陣へ馳返り、其兵を見給ふに纔七騎に成にけり。項羽自漢の大将軍三人の頭を鋒に貫て指揚、七騎の兵に向て、「何に汝等我言所に非ずや。」と問給へば、兵皆舌を翻て、「誠に大王の御言の如し。」と感じける。項羽已に五十余箇所疵を被てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江の辺に打臨給ふ。爰に烏江の亭の長と云者、舟を一艘漕寄せて、「此川の向は項王の御手に属して、所々の合戦に討死仕りし兵共の故郷にて候。地狭しといへ共其人数十万人あり。此舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願は大王急ぎ渡て命をつぎ、重て大軍を動かして、天下を今一度覆し給へ。」と申ければ、項王大に哈て、「天我を亡せり。我何んか渡る事をせん。我昔江東の子弟八千人と此川を渡て秦を傾け、遂に天下に覇として賞未士卒に不及処に、又高祖と戦ふ事八箇年、今其子弟一人も還る者無して、我独江東に帰らば、縦江東の父兄憐で我を王とすとも、我何の面目有てか是に見ゆる事を得ん。彼縦不言共、我独心に不愧哉。」とて、遂に河を不渡給。され共、亭の長が其志を感じて、騅と云ける馬の一日に千里を翔るを、只今まで乗給ひたるを下て、亭の長にぞたびたりける。其後歩立に成て、只三人猶忿て立給へる所へ、赤泉侯騎将として二万余騎が真前に進み、項王を生取んと馳近付。項王眼を瞋し声を発して、「汝何者なれば我を討んとは近付ぞ。」と忿て立向給ふに、さしもの赤泉侯其人こそあらめ、意なき馬さへ振ひ戦て、小膝を折てぞ臥たりける。爰に漢の司馬呂馬童が遥に控たりけるを、項王手を挙て招き、「汝は吾年来の知音也。我聞、漢我頭を以て千金の報万戸の邑に購と、我今汝が為に頭を与て、朋友の恩を謝すべし。」と云。呂馬童泪を流して敢て項羽を討んとせず。項羽、「よしやさらば我と我頚を掻切て、汝に与へん。」とて、自剣を抜て己が首を掻落し、左の手に差挙て立すくみにこそ死給ひけれ。項王遂に亡て、漢七百の祚を保し事は、陣平・張良が謀にて、偽て和睦せし故也。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申旨に任て先御合体あらば、定て君を御位に即進せて、万機の政を四海に施されん歟。聖徳普して、士卒悉帰服し奉らば、其威忽に振て逆臣等を亡されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学と覚へて、言ば巧に申されければ、諸卿げにもと同心して、即勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云、温故知新者、明哲之所好也。撥乱復正者、良将之所先也。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿とぞ被成ける。是ぞ誠に君臣永不快の基、兄弟忽向背の初と覚へて、浅猿かりし世間なり。

北畠准后禅閤親房の話は続きます。「項羽は二十八騎の兵を後ろにして、真っ先に駈け入ると自ら敵の三百余騎を斬って落とし、漢国の大将の首を取ると切っ先に突き刺し、元の陣に駆け戻り山東に着いてみると、二十八騎の兵士らの内八騎が討取られ二十騎になっていました。

その軍勢を再び三か所で待機させ、近づいてくる敵を待ち受けていると、孔将軍(孔煕)が二十万騎、費将軍(陳賀)が五十万騎を率いて東西から押し寄せてきました。項王はまた大声をあげて山東から駆け下り、両将軍の敵を四方八方に蹴散らし、逃げる敵五百余人を斬り落とし、また大将の都尉(とい)の首を取り、

左手に提げてもとの陣に駆け戻ってみると、わが軍の兵士はわずか七騎になっていました。項羽は自ら漢国の大将軍三人の首を切っ先に貫いて差し上げ、七騎の兵士に向かい、『どうだ、私の言ったことに間違いはないだろう』と問うと、兵士は全員驚きを隠せず、『まことに大王のおっしゃられた通りです』と、

感激しまた感心しました。しかし、項羽はすでに五十余ヶ所も傷を受けているので、『もはやこれまでだろう、よし自害をするか』と言って、烏江の岸辺に座を占めました。その時、烏江のほとりにある建物の主人だと言う者が、舟を一艘漕ぎ寄せて来ると、『この川の向こうは項王の指揮下にあって、

諸所の合戦に討ち死にした兵士らの故郷です。土地は狭いと言っても人口は数十万人がいます。この舟に頼る以外、渡河可能な浅瀬はなく、また橋もありません。だから漢国の兵士らがたとえここまで来たとしても、どうしてこの川を渡るというのでしょうか。お願いです大王、急いでこの川を渡って生き延び、

今一度大軍を催して、天下を再び我が物にされるよう』と申し上げると、項羽は大声を出して笑い、『天が私を滅ぼそうとしているのだ。それなのにどうして渡ることができようか。私は昔、江東の若者ら八千人とこの川を渡って秦国を滅亡に導き、ついに天下を統一し治めていながら、

未だ将官や兵士らに論功行賞も出来ずにいたところ、今度は高祖と戦うこと八ヵ年にして、今あの若者ら一人も帰ることなく、私がただ一人江東に帰るようなことをすれば、たとえ江東の父兄らが憐れんで私を王とするようなことがあっても、私としてはどんな顔をして皆と会うことが出来ようか。

たとえ彼らは何も言わないとしても、私一人心に恥じずにはおれない』と言って、とうとう川を渡ろうとしませんでした。しかし、その主人の忠言に感じ入り、”騅”と言う一日に千里を走ると言われている馬に、たった今まで乗っていたのですが下りると、その主人に与えたのでした。

その後は徒歩になって、三人がなおも怒りに燃えて立ち止まっているところに、赤泉候が騎乗の将官として率いる二万余騎が真ん前に進み、項王を生け捕りにしようと駆け寄ってきました。項王は目に怒りをあらわにし大声で、『貴様ら、私を討たんと近づくとは一体何者なのか』と、憤怒の形相で仁王立ちになると、

さすが赤泉候は人物であるので、人間の意思など理解できぬはずの馬さえ体を震わせ、膝を折って伏せたのでした。この時漢国の司馬呂馬童(りょばどう)がはるか離れて控えていたのを、項王が手を上げて招き寄せ、『汝は私の長年にわたる知己である。私は聞いているのだが、

漢国では私の首に千金の懸賞と、数万戸の領地が懸っているらしい。今私はこの首を汝に与えて、長年にわたる友情に感謝を表そう』と、言いました。呂馬童は涙を流すばかりで、項王を討とうとはしませんでした。そこで項羽は、『よしそれでは、私が自分で首を掻き切って汝に与えよう』と言って、

自ら剣を抜き自分の首を切り落とし、左手で差し上げると仁王立ちのまま亡くなったのでした。こうして項王は亡くなり、漢国七百年(400年?)にわたって王朝が続いたのは、陳平と張良の謀略によって、虚偽の和睦を行ったことが原因です。その知恵と謀略は今回の状況とよく似ています。

そこで今はただ、直義入道の言う通りにして、まず帰順を認めてやれば、きっとすぐにでも帝を皇位に就かせ参らせて、帝が天下の政務一般を執られるでしょう。帝の仁徳をあまねく施せば、将官、兵卒すべてが帝に帰順することになり、その威勢はますます上がって逆臣らを滅ぼすことになること、

何の疑いもありません」と、何かの時に学んだ知識らしく、言葉巧みに話されたので、諸卿らもなるほどと納得して、早速天皇よりお許しの宣旨が下されたのです。その宣旨には、過去の事例から新しい見解を開くことは、最も道理にかなったことである。世の中の動乱を鎮め世を治めることは、

優秀なる将軍が最も重視する所である。元弘の乱(1331-1333年)における功績を忘れず、天皇に帰順し指揮下に入らんとすること、これ以上の喜びはなく、褒賞に値する優れた行いである。速やかに義兵を招集し、天下の安定を図るべく策を立てるように。そこでこのように綸旨を伝達するものである。

正平五年(観応元年::1350年)十二月十三日、左京権大夫正雄が足利左兵衛督入道殿に伝達する、と書かれていました。このことは今後の長期間に及ぶ、朝廷や朝臣の南北間反目の原因となり、また足利兄弟が初めて仲たがいを起こしたと思われ、何かと情けなくやるせない世間ではあります。(おかしいところ多々あり)      (終り)

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