29 太平記 巻第二十九 (その一)


○宮方京攻事
暫時の智謀事成しかば、三条左兵衛督入道慧源と吉野殿と御合体有て、慧源は大和の越智が許に坐ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊国の宮方共、我も我もと三条殿に馳参る。是のみならず、洛中辺土の武士共も、面々に参ると聞へしかば、無弐の将軍方にて、楠退治の為に、石河々原に向城を取て被居たりける畠山阿波将監国清も、其勢千余騎にて馳参る。謳歌の説巷に満て、南方の勢已に京へ寄すると聞へけれ。京都の警固にて坐ける宰相中将義詮朝臣より早馬を立て、備前の福岡に、将軍九州下向の為とて座しける所へ、急を被告事頻並也。依之将軍より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角の城退治せんとて居たりけるを、其国は兔も角もあれ、先京都一大事なれば、夜を日に継で可上洛由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数を経ければ、師泰が参否の左右を待までもなしとて、将軍急福岡を立て、に千余騎にて上洛し給ふ。入道左兵衛督此由を聞て、さらば京都に勢の著ぬ前に、先義詮を責落せとて、観応二年正月七日、七千余騎にて八幡山に陣を取る。桃井右馬権頭直常、其比越中の守護にて在国したりけるが、兼て相図を定たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催し、七千余騎にて夜を日に継で責上る。折節雪をびたゝしく降て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下し、橇を懸させ、二万余人を前に立て、道を蹈せて過たるに、山の雪氷て如鏡なれば、中々馬の蹄を不労して、七里半の山中をば馬人容易越はてゝ、比叡山の東坂本にぞ著にける。足利宰相中将義詮は其比京都に坐しけるが、八幡山、比叡坂本に大敵を請て、非可由断、著到を付て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎と註したりけるが、翌日は一万騎に減ず。翌日は三千騎になる。是は如何様御方の軍勢敵になると覚ゆるぞ。道々に関を居よとて、淀・赤井・今路・関山に関を居たれば、関守共に打連て、我も我もと敵に馳著ける程に、同十二日の暮程には、御内・外様の御勢五百騎に不足とぞ注したる。さる程に十三日の夜より、桃井山上に陣を取ぬと見へて、大篝を焼けば、八幡山にも相図の篝を焼つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗との人人評定有て、「合戦は始終の勝こそ肝要にて候へ。此小勢にて彼大敵にあわん事、千に一も勝事を難得覚候。其上将軍已に西国より御上候なれば、今は摂津国辺にも著せ給て候覧。只京都を無事故御開候て、将軍の御勢と一になり、則京都へ寄られ候はゞ、などか思ふ図に合戦一度せでは候べき。」と被申ければ、義詮卿、「義は宜に順ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落給へば、同日の午刻に、桃井都へ入り替る。治承の古へ平家都を落たりしか共、木曾は猶天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是全入洛を非不急、敵を欺かざる故なり。又は軍勢の狼藉を静めん為なりき。武略に長ぜる人は、慎む処加様にこそ堅かるべし。今直常敵の落ぬといへばとて、人に兵粮をもつかはせず、馬に糠をもかはせず、楚忽に都へ入替る事其要何事ぞや。敵若偽て引退き、却て又寄来事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井を引者は、敵御方勝負を決すべきならば、争か敵を欺ざるべき。未落ぬ先にも入洛すべし。まして敵落なば、何しにすこしも擬議すべき。如何にも入洛を急てこそ、日比の所存も達しぬべけれ。若敵偽て引退き、又帰寄る事あらば、京都にて尸を曝したらん事何か苦かるべき。又軍勢の狼藉は、入洛の遅速に依べからず。其上深き了簡もをはすらんと、申族も多かりけり。

☆ 宮方南朝軍が京都を攻撃したこと

当面の謀略が成功し、三条左兵衛督入道慧源は吉野殿率いる南朝軍の支配下に入り、慧源自身は大和の越智伊賀守のもとに留まっていますので、和田や楠木をはじめとして大和、河内、和泉また紀伊国の宮方らが、我も我もと三条殿のもとに駆け付けて来ました。

こればかりでなく、洛中やその周辺の武士らも、各自それぞれが三条直義軍に加わると言われているので、今まで並ぶ者なきと言われるほどの将軍方として、楠木征伐のため石川河原に向い城を構築して、駐留を続けていた畠山阿波将監国清も、千余騎の軍勢を率いて駆け付けて来ました。

町には直義軍を称賛する噂が満ち溢れ、吉野軍が今すぐにでも京に押し寄せて来るのではと言われていました。京都警固のため駐在している宰相中将義詮朝臣は早馬を仕立て、備前国の福岡に九州下向のため滞在している尊氏将軍に、立て続けに急を知らせました。

この知らせによって将軍は石見国で三角城を攻撃中の越後守師泰に飛脚を送り、三角の攻撃はとりあえず中断し、まず京都の緊急事態発生に対処するべく、夜を日に継いで上洛するよう伝えました。飛脚の往復に要する日にちも過ぎようとした時、師泰の返事を待つまでもないだろうと、

将軍は急遽福岡を出発し、二千余騎にて上洛を始めました。入道左兵衛督はこの情報を得ると、それでは軍勢が京都に到着する前に、先に義詮を攻め落としてしまえと、観応二年(正平六年::1351年)正月七日、七千余騎にて八幡山に陣を構えました。

また桃井右馬権頭直常は当時越中の守護として在国していましたが、以前よりの取り決め通り、観応二年(正平六年::1351年)正月八日に越中を進発し、途中にて能登、加賀、越前の軍勢を招集して、七千余騎を率いて、夜を日に継いで攻め上りました。

時節柄雪が激しく降って、馬も歩行に困難を極め、やむなく兵士らを馬から降ろして、かんじきを履かせて二万余人を前方に配置し、道を踏み固めながら進ませたので、山の雪は凍って鏡のようになり、馬のひずめを全く傷めることもなく、七里半の山中を馬も人も難なく越えることが出来、

比叡山の東坂本に到着しました。その時足利宰相中将義詮は京都にいましたが、八幡山と比叡坂本に大敵を迎えて、油断することなく我が軍勢の到着を記録し、総勢の把握に努めよと、正月八日より毎日着到を記述しました。初日は三万騎と記しましたが、翌日には一万騎に減ってしまい、

その翌日は三千騎になりました。この事態から味方の軍勢が敵方に寝返ったに違いないと思われる。道路各所に関を設けて取り締まれと、淀、赤井、今路、関山に関所を設置しましたが、その関の番人までが連れだって我も我もと敵のもとに駆け付けるありさまで、

正月十二日の暮れごろには、足利一族や外様の軍勢合せて五百騎に不足すると記されました。やがて十三日の夜ごろから桃井直常が比叡山上に陣を構えたと思われ、大篝に火が点けられると、八幡山にも合図のため篝が燃やし続けられました。この状況を見て、

仁木や細川以下主だった人たちが協議し、「合戦と言うものは最終的に勝利を収めることが重要です。我々の小勢で敵の大敵に挑んだところで、千に一つも勝利を得ることは出来ないでしょう。しかも将軍はすでに西国より上られている途中であれば、今頃は摂津国あたりにお着きになっておられるでしょう。

そこで京都は無条件に開放して将軍の軍勢と一緒になり、その後すぐ京都に攻め込めば、間違いなく一度は思い通りの合戦が出来るでしょう」と話されたので、義詮卿も、「正しい行動も時によっては無理をしないに限るだろう」と言い、正月十五日の早朝、西国に向かって落ちて行ったので、

同日の午刻(正午頃)には桃井直常が入れ替わりに京都に入りました。治承(1177-1185年)の昔、平家が都を落ちて行ったけれど(治承七年・寿永二年::1183年七月二十五日)、木曾義仲はそのまま比叡山に陣を構えて十一日(寿永二年七月二十八日では?)まで都には入りませんでした。

これは何も入洛を急がないという訳ではなく、敵の反撃を危険視したためであり、また軍勢が狼藉を働くことを恐れたからです。武略戦術に長じた者は、このように慎重になるべきところはきっちりと抑えているものです。今回のように直常は敵が落ちて行ったと聞けば、

軍勢に兵糧をつかわすことなく、また馬に飼い葉を与えもせず、軽率にも入れ替わるように都に入るとは、一体何を考えてのことでしょうか。もし敵が退却のふりをしていたため、反対に攻め寄せられたりすれば、直常は間違いなく敗れただろうと皆が話しました。

反対に桃井を援護する者は、敵味方が勝負をかけて戦う時は、少しでも怯むようなことがあってはならない。まだ敵が落ちぬ先にでも入洛すべきであって、まして敵が落ちて行ったからには、何を躊躇する要があるのか。何が何でも入洛を急いでこそ、

常日頃考えていることが実現出来るというものです。もしも敵が偽って退却をしたため反撃をくらって、京都に屍をさらしたとしても何を後悔することなどあるものか。また軍勢が狼藉を働くことは、何も入洛が遅いとか速いとかに関係などない。これ以上何を考えて行動を起こせば良いのかと言う人も多かったのです。


○将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
義詮心細く都を落て、桂河を打渡り、向明神を南へ打過させ給んとする処に、物集女の前西の岡に当て、馬煙夥しく立て、勢の多少は未見、旗二三十流翻て、小松原より懸出たり。義詮馬を控て、「是は若八幡より搦手に廻る敵にてや有らん。」とて、先人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守師直、山陽道の勢を駆具し、二万余騎を率して上洛し給ふにてぞ有ける。義詮を始奉て、諸軍勢に至るまで、只窮子の他国より帰て、父の長者に逢へるが如、悦び合事限なし。さらば軈取て返して洛中へ打寄せ、桃井を責落せと、将軍父子の御勢都合二万余騎を桂川より三手に分て、大手は武蔵守を大将として、仁木兵部大輔頼章・舎弟右馬権助義長・細河阿波将監清氏・今河駿河守、五千余騎四条を東へ押寄る。佐々木佐渡判官入道は、手勢七百余騎を引分て、東寺の前を東へ打通りて、今比叡の辺に控へ、大手の合戦半ならん時、思も寄ぬ方より、敵の後へ蒐出んと、旗竿を引側め笠符を巻隠し、東山へ打上る。将軍と宰相中将殿は、一万余騎を一手に合、大宮を上に打通り、二条を東へ法勝寺の前に打出んと、相図を定て寄せ給ふ。是は桃井東山に陣を取たりと聞ければ、四条より寄る勢に向て、合戦は定て川原にてぞ有んずらん。御方偽て京中へ引退かば、桃井定勝に乗て進まん歟、其時道誉桃井が陣の後へ蒐出て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮られて、進退度を失はん時、将軍の大勢北白河へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井武しと云共引かではやはか戦と、謀を廻す処也。如案中の手大宮にて旗を下して、直に四条川原へ懸出たれば、桃井は東山を後にあて賀茂河を前に堺て、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆・二千余騎を三所に控て、射手をば面に進ませ、帖楯二三百帖つき並べて、敵懸らば共に蒐り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静り返て待懸たり。両陣旗を上て、時の声をば揚たれ共、寄手は搦手の勢の相図を待て未懸ず。桃井は八幡の勢の攻寄んずる程を待て、態事を延さんとす。互に勇気を励す程に、或は五騎十騎馬を懸居懸廻、かけ引自在に当らんと、馬を乗浮もあり。或は母衣袋より母衣取出して、是を先途の戦と思へる気色顕れて、最後と出立人もあり。

☆ 尊氏将軍が上洛したことと、阿保と秋山が河原で戦ったこと

義詮は先行き不安を感じながら都を落ちて行き、桂川を渡って向日神社近くを南に過ぎようとした時、物集女の前方西の岡のあたりに馬の群れがいるらしく、砂埃がおびただしく上がり、軍勢の規模は分かりませんが、旗の二、三十ほどを翻えしながら、

小松原付近から駆け出て来た勢のようです。義詮は馬を止めて、「これはもしかして八幡より搦手に回って来た敵勢ではないだろうか」と言って、まず偵察に行かせましたが、八幡の敵ではなく、尊氏将軍と武蔵守師直が山陽道の軍勢をかき集め、二万余騎を率いて上洛の途中でした。

義詮をはじめとして従う軍勢ら全員がまるで窮子(窮子喩・ぐうじゆ::幼いころ家出をして流浪のうえ困窮した子を、父の長者が見つけ、後に実子であることを明かす話)が他国から帰って来て、父の長者に会ったかのように大喜びしました。ではすぐにでも都に引き返し洛中になだれ込んで、

桃井を攻め落とせとばかり、将軍父子の軍勢合わせて二万余騎を桂川から三手に分けて、大手は武蔵守を大将にして、仁木兵部大輔頼章、その弟右馬権助義長、細川阿波将監清氏、今川駿河守らが五千余騎にて、四条を東に向かって押し寄せました。

佐々木佐渡判官入道は自軍の七百余騎を引き当てて、東寺の前を東に向かい、今比叡の付近に待機して、大手軍の合戦が半ばに達した時、思いも寄らぬ方向から敵の後方に回り込もうと、旗竿を倒し笠印も隠して、東山に登りました。将軍と宰相中将義詮殿は、

一万余騎の軍勢を一つにまとめて大宮通りを北に向かい、その後二条を東に進んで、法勝寺の前に進出しょうと、合図を決めて寄せて行きました。この行動は桃井が東山に陣を構えたと聞いたので、四条方向から寄せて来る軍勢に対しての合戦は、きっと河原が戦場になると思われる。

その時味方が偽計を使って京都内に退却すれば、桃井は間違いなく勝ちに乗じて追撃にかかるだろう。その時、佐々木道誉が桃井の陣の後方に駆け込み、だしぬけに戦闘を始めれば、桃井は前後の大敵に進路を塞がれ、進退に窮した時、将軍率いる大軍が北白川に駆け出て、

敵の後方に回れば、如何に桃井が勇猛だとしても、とても戦闘など続けられないだろうと見込んだ作戦です。そして策は的中し、中軍の一手が大宮通りで旗を下し、そのまままっすぐ四条河原に駆け込んだので、桃井は東山を背にして鴨川を前面において、

赤旗一揆、扇一揆、鈴付一揆などの二千余騎を三か所に分散して、射手を前に進ませ大型の楯二、三百枚並べ立て、もし敵が攻めて来たら同時に攻め込み、広い場所で勝負をつけようと、静まり返って待ち受けました。両軍とも旗をなびかせて、閧の声こそあげていましたが、

寄せ手は搦手からの合図を待つだけで、攻めかかろうとはしませんでした。桃井もまた八幡の軍勢が攻め寄せてくるのを待ち、攻撃を意識して引き伸ばしていました。お互い戦意を奮い立たせている中、ある武者たちは五騎十騎と馬を駆け回して、臨機応変に戦えるよう馬を乗り回していました。

またある者は母衣(ほろ::鎧の背につけて流れ矢を防ぐ幅の広い布)を袋から取り出して、今回の合戦が勝負を決めるだろうと、決死の覚悟を決めた表情で臨んでいる者もいました。


斯る処に、桃井が扇一揆の中より、長七尺許なる男の、ひげ黒に血眼なるが、火威の鎧に五枚甲の緒を縮、鍬形の間に、紅の扇の月日出したるを不残開て夕陽に耀かし、樫木の棒の一丈余りに見へたるを、八角に削て両方に石突入れ、右の小脇に引側めて、白瓦毛なる馬の太く逞しきに、白泡かませて、只一騎河原面に進出て、高声に申けるは、「戦場に臨む人毎に、討死を不志云者なし。然共今日の合戦には、某殊更死を軽じて、日来の広言をげにもと人に云れんと存也。其名人に知らるべき身にても候はぬ間、余にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申にて候也。是は清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申者候。出王氏雖不遠、已に武略の家に生れて、数代只弓箭を把て、名を高せん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至まで、兵法を哢び嗜む事隙なし。但黄石公が子房に授し所は、天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば、吾未学、鞍馬の奥僧正谷にて愛宕・高雄の天狗共が、九郎判官義経に授し所の兵法に於ては、光政是を不残伝へ得たる処なり。仁木・細河・高家の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出候へ。声花なる打物して見物の衆の睡醒さん。」と呼はて、勢ひ当りを撥て西頭に馬をぞ控へたる。

そのような時、桃井の扇一揆の中から身長七尺ほどもあろうかと言う男が、真黒な髭をたくわえ、目を真っ赤にして緋縅の鎧に五枚兜(兜から垂らした板が五枚ある兜)の緒を締めて、鍬形の間には太陽と月の描かれた紅色の扇をいっぱいに開き、それを夕日に輝かせながら、

一丈ばかりもあるような樫の棒を八角に削って、その両端には金具を取り付けたものを、右の小脇に抱え込み、褐色を帯びた毛色をして、たてがみは白みを帯びた大きく肥えた馬を口には泡をかませて、ただ一騎で河原に進み出て来ると大声を発して、「戦場に臨んで討ち死にを望まない武者などいない。

そこで私は今日の合戦において特に討ち死にを覚悟し、日頃の広言を皆に納得させてやろうと思っている。我が名など人に知られるほどの者ではなく、少し大げさだとは思うが、苗字を名乗らせてもらおう。私は清和源氏の末裔で、秋山新蔵人光政と言う者だ。

天皇家より臣籍降下して間がないとは言えども、今や武略の家系に生まれて数代を弓箭の道を歩み、名を上げることだけを考えて幼い時より長年現在に至るまで、武術を磨くことのみ精進してきた。但し黄石公(兵法の祖として仰がれている)が張良(子房)に兵書を与えたのは、

天下の為になりこそすれ、分別もない単なる勇気ではないので、私はまだ学んではいない。しかし鞍馬山の奥、僧正谷にて愛宕や高雄の天狗どもが九郎判官義経に授けた兵法は、この光政が残らず伝えてもらい会得したのである。仁木、細川や高家の人々の中で、我と思わん人々は名乗って、

ここまで出て来てくだされ。掛け声も華やかに立ち回りをして、見物の人々の眠気を覚まそうではないか」と呼びかけ、その雰囲気は人を寄せ付けようとしない勢いがあり、馬の頭を西に向けて待ち受けました。


仁木・細河・武蔵守が内に、手柄を顕し名を知れたる兵多といへ共、如何思けん、互に目を賦て吾是に懸合て勝負をせんと云者もなかりける処に、丹の党に阿保肥後守忠実と云ける兵、連銭葦毛なる馬に厚総懸て、唐綾威の鎧竜頭の甲の緒を縮め、四尺六寸の貝鏑の太刀を抜て、鞘をば河中へ投入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘かけたる金作の小太刀帯副て、只一騎大勢の中より懸出て、「事珍しく耳に立ても承る秋山殿の御詞哉。是は執事の御内に阿保肥前守忠実と申者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮は山野の獣を追ひ、江河の鱗を漁て業とせし間、張良が一巻の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾て名をだに不聞。され共変化時に応じて敵の為に気を発する処は、勇士の己れと心に得る道なれば、元弘建武以後三百余箇度の合戦に、敵を靡け御方を助け、強きを破り堅きを砕く事其数を不知。白引の精兵、畠水練の言にをづる人非じ。忠実が手柄の程試て後、左様の広言をば吐給へ。」と高かに呼はて、閑々と馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍を止て手を拳る。数万の見物衆は、戦場とも不云走寄て、かたづを呑て是を見る。誠に今日の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近になれば阿保と秋山とにつこと打笑て、弓手に懸違へ馬手に開合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流す。阿保持て開てしとゞ切れば、秋山棒にて打側く。三度逢三度別ると見へしかば、秋山は棒を五尺許切折れて、手本僅に残り、阿保は太刀を鐔本より打折れて、帯添の小太刀許憑たり。武蔵守是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共、力量なき者なれば、力勝りに逢て始終は叶はじと覚るぞ、あれ討すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟の精兵七八人河原面に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件の棒を以て、只中を指て当る矢二十三筋まで打落す。忠実も情ある者也ければ、今は秋山を討んともせず、剰御方より射矢を制して矢面にこそ塞りけれ。かゝる名人を無代に射殺さんずる事を惜て、制しけるこそやさしけれ。角て両方打除て、諸人の目をぞさましける。されば其比、霊仏霊社の御手向、扇団扇のばさら絵にも、阿保・秋山が河原軍とて書せぬ人はなし。其後合戦始て、桃井が七千余騎、仁木・細河が一万余騎と、白河を西へまくり東へ追靡け、七八度が程懸合たるに、討るゝ者三百人、疵を被る者数を不知。両陣互に戦屈して控息を継処に、兼の相図を守て、佐々木判官入道々誉七百余騎にて、思も寄らぬ中霊山の南より、時をどつと作て桃井が陣の後へ懸出たり。桃井が兵是に驚きあらけて、二手に分て相戦ふ。桃井は西南の敵に破立られて、兵引色にみへける間、兄弟二人態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足も引事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去程に日已に夕陽に及て、戦数剋に成ぬれども、八幡の大勢は曾不攻合せ、北国の兵気疲れて暫東山に引上んとしける処に、将軍並羽林の両勢五千余騎、二条を東へ懸出て、桃井を山上へ又引返させじと、跡を隔てぞ取巻ける。桃井終日の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方の大敵に囲れて、叶じとや思けん、粟田口を東へ山科越に引て行。され共尚東坂本までは引返さで、其夜は関山に陣を取て、大篝を焼てぞ居たりける。

仁木、細川や武蔵守の家中には手柄を立て、その名を知られた兵士らは多数いますが、何を考えてかお互い目を合せるだけで、勝負を挑もうとする者は現れなかったのです。そこに丹の党に属する阿保肥後守忠実と言う武者が、

連銭葦毛(れんせんあしげ::毛色の一つ、栗毛に灰色の丸い斑点が混ざったもの)という毛色の馬を厚総(あつふさ::馬の各部につけた糸の飾りを特に厚く垂らしたもの)で飾り、唐綾縅(唐綾を細く裁ち重ね合わせたもので縅したもの)の鎧に、竜頭の付いた兜の緒を締めて、四尺六寸の貝鎬(かいしのぎ::刀のしのぎが丸みを帯びたもの)の太刀を抜くと、

鞘は川に投げ入れ、豹の皮で作った袋で覆われた黄金作りで、三尺二寸の小太刀を腰に帯びて、ただ一騎で大勢の中から駆け出て来ると、「珍しく耳に残るような秋山殿のお言葉ではある。私は執事高師直に属する阿保肥前守忠実と申す者だ。幼かった昔より東国に住まいして、

明け暮れ山野を駆けるけだものを追いかけ、大小の河川で漁を業としているが、張良の一巻の書物も、呉氏や孫子が伝えたと言う話などいまだかつて聞いたことがない。(この段?)しかし、時と場合によっては、敵に向かって勇を発するこが、真の勇士だとこの私だと思うので、

元弘(1331-1333年)建武(南朝では1334-1336年、北朝では1334-1338年)以来、三百余回の合戦に敵を攻略し味方を救い、強きを破り固き敵を打ち砕いたことも、数知れずある。素引き(すびき)の精兵(口先だけの強弓引き自慢の兵)とか、畑水練などと言う理論だけで、実戦に役立たない者などの言葉に怖気づく人間ではない。

この忠実の腕前のほどを確認された上で、そのような広言を吐かれたら如何か」と声も高らかに呼びかけ、静々と馬を進ませました。両軍の兵士らはあれを見よとばかりに、戦闘を忘れ手を上げ指さしました。見物する数万の兵士らは戦場にかかわらず走り寄り、

固唾をのんでこれを見守りました。今日の合戦における花とも言えるのは、確かにこの結末に掛かっているように思えました。双方が近づいて来た時、阿保、秋山両者はニコッと笑い、左方向に駆け違うと右側に間合いを取って、秋山がサッと打ち込めば阿保は太刀にて受け流しました。

阿保が太刀を持ち直して激しく切りつけると、秋山は手にした棒でうち払いました。三度にわたって打ち合い、その度に離れたように見えたのですが、秋山は手にした棒が五尺ほど切り折れ、わずかばかり手元に残るだけで、また阿保は太刀が鍔付近から折れてしまい、

差し添えていた小太刀だけが頼りです。武蔵守師直はこの状況に、「忠実は刀剣を持たせば間違いないが、膂力や腕力自体はそう強くはない。力勝負になれば結局勝負にならないと思う。彼を討たせるな、秋山を射落とせ」と、命じました。弓自慢の精兵七、八人が河原に進み出て、

雨が降るように激しく射込みました。秋山は例の棒で向かってくる矢二、三十本ほどは打ち落としました。忠実も情けを持つ人間なので、今となっては秋山を討とうとせず、そればかりでなく味方から射込んで来る矢面に立ちふさがりました。これほどの勇者をむやみに殺害することを惜しんで、

制止に努めたことも彼の優しさでしょう。このようにして両者は戦場を離れて行き、皆も現実に戻りました。このようなことがあって、当時霊験あらたかな神社仏閣において、供物や扇、団扇の類に描かれる自由奔放な風流画にも、阿保、秋山の河原戦を描かない人はいませんでした。

その後合戦が再開し桃井の七千余騎が、仁木、細川の一万余騎と白河を西に追い立て、東に追い回して七、八度を渡り合った結果、討たれた者は三百人を数え、傷を受けた兵士はその数もわからないほどです。両軍お互いに戦い疲れ、息を継いでいたところ、

かねての打ち合わせ通り、佐々木判官入道道誉の七百余騎が、予想外の中霊山の南から、閧の声をドッと挙げながら、桃井の陣営後方に駆け出て来ました。桃井の兵士らはこの事態に驚きうろたえたものの、二手に分かれて応戦しました。桃井は西南方向からの攻撃を防ぐことが出来ず、

兵士らが退却しそうに見えた時、桃井兄弟二人は馬から飛び降りると敷革の上に着座し、「勝敗の運は天にある、ここは一歩も退却してはならぬ。ただ討ち死にすることだけを考えろ」と、命令しました。やがてその日も夕方になり、戦闘は数時間に及びましたが、

八幡の軍勢(直義軍)は全く攻撃に参加しませんし、反対に北国の兵士らは疲労が激しく、しばらく東山に退却をしようとした時、将軍と羽林の軍勢五千余騎が二条を東に向かって駆け出し、桃井を山上に引き返すことを阻止しようと、後方に距離を置いて取り囲みました。

桃井は終日続いた合戦にも関わらず、交代の軍勢も得られず疲労困憊し、その上三方を敵の大軍に取り囲まれては、とてもまともに戦うことなど出来ないと思ったのか、粟田口を東に向かい山科越えにて退却しました。しかしそこから東坂本までは退かず、その夜は関山に陣を構え、大篝を焼いて駐屯しました。


○将軍親子御退失事付井原石窟事
将軍都へ立帰給て、桃井合戦に打負ぬれば、今は八幡の御敵共も、大略将軍へぞ馳参らんと、諸人推量を廻して、今はかうと思れけるに、案に相違して、十五日の夜半許に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加りける。「こはそも何事ぞ。戦に利あれば、御方の兵弥敵になる事は、よく早尊氏を背く者多かりける。角ては洛中にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退て、中国の勢を催し、東国の者共に牒し合て、却て敵を責ばや。」と、将軍頻に仰あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同じて、正月十六日の早旦に丹波路を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井戦に負しかば、洛中には是を悦び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井軈て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中には潜に悲む。吉凶は糾る縄の如く。哀楽時を易たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺の暁の霞と共に立隔り、今日は旅を山陰の夕の雲に引別て、西国へと赴き給ひけるが、名将一処に集らん事は計略なきに似たりとて、御子息宰相中将殿に、仁木左京大夫頼章・舎弟右京大夫義長を相副て二千余騎、丹波の井原石龕に止めらる。此寺の衆徒、元来無弐志を存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糟藁に至るまで、如山積上たり。此所は岸高く峯聳て、四方皆嶮岨なれば、城郭の便りも心安く覚へたる上、荻野・波波伯部・久下・長沢、一人も不残馳参て、日夜の用心隙無りければ、他日窮困の軍勢共、只翰鳥の■を出、轍魚の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公登山し給し日より、岩室寺の衆徒、坐醒さずに勝軍毘沙門の法をぞ行ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁僧都、巻数を捧げて参けり。相公則僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験顕し給ひし様など、様々問ける次に、「さても何れの薩■を帰敬し、何なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡す要術に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏て申けるは、「凡、諸仏薩■の利生方便区々にして、彼を是し此を非する覚へ、応用言ば辺々に候へば、何れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥の四方を領して、鬼門の方を守護し、摧伏の形を現じて、専ら勝軍の利を施し給ふ事は、昆沙門の徳にしくは候べからず。是我寺の本尊にて候へばとて、無謂申にて候はず。古玄宗皇帝の御宇、天宝十二年に安西と申所に軍起て、数万の官軍戦ふ度毎に打負ずと云事なし。「今は人力の及処に非ず如何がすべき。」と玄宗有司に問給ふに、皆同く答て申さく、「是誠に天の擁護に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵を召れて、大法を行せらるべき歟。」と申ける間、帝則不空三蔵を召て昆沙門の法を行せられけるに、一夜の中に鉄の牙ある金鼠数百万安西に出来て、謀叛人の太刀・々・甲・胄・矢の筈・弓の弦に至まで、一も不残食破り食切、剰人をさへ咀殺し候ける程に、凶徒是を防ぎかねて、首をのべて軍門に降しかば、官軍矢の一をも不射して若干の賊徒を平げ候き。又吾朝に朱雀院の御宇に、金銅の四天王を天台山に安置し奉て、将門を亡されぬ。聖徳太子昆沙門の像を刻て、甲の真甲に戴て、守屋の逆臣を誅せらる。此等の奇特世の知処、人の仰ぐ処にて候へば、御不審あるべきに非ず。然るに今武将幸に多門示現の霊地に御陣を召れ候事、古の佳例に違まじきにて候へば、天下を一時に静られて、敵軍を千里の外に掃はれ候ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑し気に被申たりければ、相公信心を発れて、丹波国小川庄を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。

☆ 将軍親子が都を出たことと、井原庄石龕寺のこと

将軍が都に戻ってきた上、桃井が合戦に敗れたことを思えば、八幡にいる敵どもも、この状況にほとんどが将軍の陣営に駆け付けて来るだろうと、皆は考えていましたが、意外にも観応二年(正平六年::1351年)正月十五日の夜半に、京都の尊氏軍に属する武将らの大半が、

再び都を落ちて八幡の陣営に加わりました。「これは一体どういうことだ。合戦を有利に進めれば、味方の兵士らが敵に寝返るとは、尊氏に背く者が多いということだろう。これでは洛中で再び合戦などとても出来ない。しばらく西国の方に退却し、中国の軍勢らを招集したり、

東国の軍勢らにも連絡を取って、敵を反撃することにしよう」と将軍がしきりに話されるので、諸将らも、「それが良かろう」と賛成し、正月十六日の早朝、丹波路を西に向かって落ちて行かれました。昨日は将軍が都に戻ってきて桃井は合戦に敗れたので、洛中ではこれを喜び、

八幡ではこの事態を悲しみました。そして今日になって再び将軍が都を落ちられたので、桃井がすぐに洛内に入るだろうと聞き、八幡ではこれを喜び、洛内の人々は内心悲しみました。災いと幸運は撚り合わせた縄のように表裏一体で、交互にやってくるものです。

哀しみや楽しみは時間と共に変化するものです。何を喜び何を嘆くのか決まりなどないようです。将軍は昨日、東山にかかる暁の霞と共に都に入り、今日は西山にかかる夕方の雲に別れを告げて、西国へと落ちて行かれましたが、名将が一ヶ所に集まることは策略として良くないと言うことで、

子息の宰相中将義詮殿に、仁木左京大夫頼章とその弟右京大夫義長を従わせ二千余騎で、丹波の井原庄石龕寺(せきがんじ)に駐留させました。この寺の衆徒らは足利家に忠実な支援者なので、軍勢の兵糧をはじめとして、馬の飼葉に至るまで山のように運び込みました。

この寺は高い崖に守られて、周りの山々がそびえ立ち、四方は険阻な自然の要害なので、城郭の安全について不安な要素は感じられません。その上荻野、波々伯部(ほうかべ)、久下、長沢ら一人残らず駆け付けて来て、日夜の警戒も厳重に行われていますので、

今まで苦難の中にあった軍勢らも、鳥が鳥かごから脱出したように、また轍(わだち)のわずかな水に苦しんでいた魚が水を得たような、暫しの休息がもたらされたのです。宰相義詮殿がこの山に登られた日より、岩屋寺(石龕寺)の衆徒らは席を外すことなく、勝軍毘沙門の法を行いました。

修法の七日にあたる日、当寺の住職雲暁僧都が過去に願主の依頼で読誦したことなどを記録した文書を持参して来ました。すぐ義詮は僧都に面会し、当寺開山の事情や、本尊の霊験があらわれた様子など色々と質問されてから、「ではいずれの菩薩を帰依し、如何なる秘法を行えば、

天下の鎮静化が出来、大敵を滅亡に導く策に叶うのだろうか」と仰せられ、雲暁僧都は威儀を正して、「一般に、諸菩薩が衆生に対して行う救済方法などはまちまちであり、あの菩薩は正しくてこの菩薩は間違っているとかについても、諸菩薩は世の人を救済するために、

時と場所を選ばないで現れるので、何が優れ何が劣るなどは申し上げ難いことですが、この天下国家を支配し、鬼門にあたる所を守護して敵を屈服させる様子を見せつけ、勝利した戦争の利得を施したところで、毘沙門の行う徳とはなり得ません。毘沙門が我が寺の本尊だからと言って、

理由もなく申し上げているのではございません。昔、玄宗皇帝の時代、天宝十二年(753年)に安西と言う地域で戦争が始まり、数万の官軍は戦闘の度ごとに負け続けました。『今のこの状況は人力の及ぶ所ではないようだ、如何にすれば良いのだろうか』と、

玄宗皇帝が側近に質問したところ、全員が声を揃えて、『この状況では天の加護を求めなければ、とても鎮静化など出来ないでしょう。ここはただ不空近剛(唐の高僧。真言宗では不空三蔵)を呼び寄せ、大がかりな修法を行うべきかと思われます』と、返答されました。

そこで皇帝はすぐに不空金剛を招いて、毘沙門の修法を行わせたところ、一夜のうちに鉄の牙を持った金属製の鼠、数百万匹が安西に大発生し、謀反人らの太刀、刀、兜、鎧、矢の筈(はず::弦につがえる部分)から弓の弦まで一つ残らず食いちぎり、それだけでなく人をも噛み殺す始末で、

兇徒らは防御出来ず首を洗って官軍に降伏したので、官軍は矢の一本さえ射ることなしに多数の賊徒を平定しました。また我が国においては、朱雀院の御代に金銅の四天王像を天台山(比叡山)に安置し、平将門を滅ぼしました。その他にも聖徳太子は毘沙門の像を彫り、

兜の正面に取り付けられ逆臣、物部守屋を誅伐されました。神仏の力によるこのような奇跡は世間に知れ渡っており、人々が信じていることすから、疑問を持つ余地はございません。と言うことで今、武将義詮殿が幸いにも、この神の加護多き霊地に軍勢を率いて来られたのは、

過去の吉例に当てはまると考えられるので、天下はたちまちに鎮圧され、敵の軍勢を千里の向こうに追い払われること、何ら疑うものではありません」と、心より頼もしげに申し上げられたので、義詮公も信心の気を起こされ、丹波国小川庄を寄進され、永代の寺領にされました。


○越後守自石見引返事
越後守師泰は、此時まで三角城を退治せんとて猶石見国に居たりけるを、師直が許より飛脚を立て、「摂津国播磨の間に合戦事已に急也。早く其国の合戦を閣て馳上らるべし。若中国の者共かゝる時の弊に乗て、道を塞んずる事もや有んずらんと存候間、武蔵五郎を兼て備前へ差遣す。中国の蜂起を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後守此使に驚て石見を立て上れば、武蔵五郎の相図を違へじと播磨を立て、備後の石崎にぞ付にける。将軍は八幡比叡山の敵に襲れて、播磨の書写坂本へ落下り、越後守は三角城を責兼て、引退と聞へしかば、上杉弾正少弼八幡より舟路を経て、備後の鞆へあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共、我劣じと馳付ける程に、其勢雲霞の如にて、靡ぬ草木もなかりけり。去程に武蔵五郎、越後守を待付て、中国には暫も逗留せず、やがて上洛すと聞へければ、上杉取物も取敢ず、跡を追て打止よとて、其勢二千余騎、正月十三日の早旦に、草井地より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後守は夢にも是を知ず、片時も行末を急ぐ道なれば、疋馬に鞭を進て勢山を打越ぬ。小旗一揆・川津・高橋・陶山兄弟は、遥の後陣に引殿て、未竜山の此方に支たり。先陣後陣相阻て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸の五百余騎、一の後陣に打ける陶山が百余騎の勢を目に懸て、楯のはを敲て時を作る。陶山元来軍の陣に臨む時、仮にも人に後を見せぬ者共なれば、鬨を合て、矢一筋射違るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責けれども、魚鱗鶴翼の陣、旌旗電戟の光、須臾に変化して、万方に相当れば、野草紅に染て汗馬の蹄血を蹴たて、河水派せかれて、士卒の尸忽流れをたつ。かゝりけれども、前陣は隔て知ず、後陣にはつゞく御方もなし。只今を限と戦ける程に、陶山又次郎高直、脇の下・内胄・吹返の迦、三所突れて打れにけり。弟の又五郎是を見て、哀れよからんずる敵に組で、指違ばやと思処に、火威の鎧紅の母衣懸たる武者一騎、合近に寄合ふたる。「誰そ。」と問ば、土屋平三と名乗。陶山莞爾と笑て、「敵をば嫌まじ、よれ組ん。」と云侭に、引組で二疋が中へどうど落る。落付処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押て頚をかゝんとするを見て、道口七郎落合て陶山が上に乗懸る。陶山下なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴で、捩頚にせんと振返て見ける処を、道口が郎等落重て陶山がひつしきの板を畳上、あげさまに三刀指たりければ、道口・土屋は助て陶山は命を留たり。陶山が一族郎等是を見て、「何の為に命を惜むべき。」とて、長谷与一・原八郎左衛門・小池新平衛以下の一族若党共、大勢の中へ破ては入、/\、一足も引ず皆切死にこそ死にけれ。上杉若干の手者を打せ乍ら、後陣の軍には勝にけり。宮下野守兼信は、始七十騎にて中の手に有けるが、後陣の軍に御方打負ぬと聞て、何の間にか落失けん、只六騎に成にけり。兼信四方を屹と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病の奴原は、足纏に成に、落失たるこそ逸物なれ。敵未人馬の息を休ぬ先に、倡懸らん。」と云侭に、六騎馬の鼻を双て懸入。是を見て、小旗一揆に、河津・高橋、五百余騎喚て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立て、一度も遂に返さず、混引に引ける間、上杉深手を負のみに非ず、打るゝ兵三百余騎、疵を蒙る者は数を知ず。其道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当・弓矢・太刀・々を捨たる事、足の踏所も無りけり。備中の合戦には、越後守師泰念なく打勝ぬ。是より播磨までは、道のほど異なる事あらじと思処に、美作国の住人、芳賀・角田の者共相集て七百余騎、杉坂の道を切塞で、越後守を打留んとす。只今備中の軍に打勝て、勢ひ天地を凌ぐ河津・高橋が両一揆、一矢をも射させず、抜つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落て、大略皆討れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後守師泰・武蔵五郎師夏、喜悦の眉を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写坂本へ馳参る。

☆ 越後守師泰が石見国から引き返されたこと

この頃越後守高師泰は三角城を攻略しようと、なおも石見国にいましたが、師直のもとより飛脚が到着し、「摂津国と播磨国の間に合戦が起こり、急を要する事態になっている。できるだけ早くそちらの戦闘を中断して駆けつけてもらいたい。

もしかして中国の軍勢らがこの退却戦に乗じて、街道を閉鎖することも考えられるので、武蔵五郎を前もって備前国に派遣しておきます。中国の騒動を鎮圧して、お待ちいたしております」と、告げてきました。越後守は飛脚の連絡に驚き、石見を出発されたので、

武蔵五郎は約束通り播磨を立ち、備後の石崎に着きました。将軍は八幡や比叡山の敵に襲われ、播磨国書写山近くの坂本城に落ちられ、また越後守師泰も三角城を攻め落とすことが出来ずに、退却するらしいと聞くと、上杉弾正少弼朝定は八幡より船路を経由して、備後の鞆の浦に上陸しました。

この話を聞いて、備後、備中、安芸、周防の軍勢らが、我先にと駆けつけて来たので、その勢力は膨大なものとなり、靡かない草もない状況です。やがて武蔵五郎は待ち受けていた越後守が到着すると、中国にはしばしも留まらずに、すぐ上洛をすると聞き、

上杉朝定は大急ぎで後を追いかけ討ち取ろうと、その軍勢二千余騎が観応二年(正平六年::1351年)正月十三日の早朝、草井地(福山市)を出発し追撃に移りました。越後守師泰は後方のそのような動きなど夢にも思わず、片時も休むことなく先を急ぐべき進軍なので、

馬に鞭を当て勢山を越えて行きました。小旗一揆、川津、高橋、陶山兄弟らは、はるか後方でしんがり軍を担当して、未だに竜山の近辺で防御戦を戦っていました。このように先頭軍と後方の軍勢が距離を隔てているため、軍の総勢もはっきり分からないので、

追撃する上杉の先駆け軍、五百余騎は最後尾のしんがりを勤める陶山の百余騎に狙いを定め、楯の端をたたいて閧の声を上げました。陶山軍は元来合戦に臨んで、仮にも敵に後ろを見せない兵士ばかりですから、同じように閧の声を上げ、矢の一本でも射合せることもなく、

大敵の中に駆け込み攻めたのですが、魚鱗鶴翼(兵士をうろこのように配置また鶴の羽のように広げた陣形)の陣形で、輝く旗や太刀などの上げる鋭い光は瞬時に変化して、四方八方を照らすと野の草は紅に染まり、動き回る馬の蹄は血を散らし、川の流れは幾筋にも分かれ、

将官や兵士らの屍はたちまち川の流れをせき止めました。後方でこのような事態に陥っているのに、はるか先頭を行く前陣では気づくこともなく、また後陣には新手の味方勢もいません。ただただ、ここを死処と覚悟して戦っていましたが、陶山又次郎高直は脇の下、

内兜(兜が接する額の部分)、吹返(顔面の両側を防御するもの)の端など三ヶ所に傷を受けて、討たれたのでした。それを見た弟の陶山又五郎は仕方ない、こうなれば良き敵と組合い刺し違えようと思っていたところ、緋縅の鎧に紅の母衣(ほろ::鎧の背につけて流れ矢を防いだり、存在を示す布)を懸けた武者が一騎、

間近に寄って来ました。「誰だ」との問いに、土屋平三だと名乗りました。陶山はニコッと笑い、「敵に不足はない、さぁ、組もう」と言うや否や、取っ組むと馬二頭の間にドッと落ちました。落ちたところで陶山が上になったので、土屋を取り押さえて首を掻き切ろうとするのを見た道口七郎が加勢に来て、

陶山の上に乗りかかりました。陶山は下にいる土屋を左の手で押さえつけ、上の道口を抱きかかえ首をねじり殺そうと、振り返った時、道口の家来が重なるように馬より落ちると、陶山の腰当の毛皮をまくり上げながら、三度にわたって太刀で刺したので、道口と土屋の二人は助かって、

陶山は命を落としたのです。陶山の一族や家来はこの様子を見て、「今更、何を望んで命を惜しむのか」と言って、長谷与一、原八郎左衛門、小池新平衛以下一族の者たちや、若侍など敵の大軍に幾度も突入し、一歩も退かずに戦って、全員が斬り死にしたのでした。

上杉朝定は多数の兵士が討たれたとは言え、しんがりを守る後陣との合戦には勝ちを収めました。宮下野守兼信は当初七十騎にて軍勢の中頃にいたのですが、後陣が合戦に負けたと聞くと、兵士らはいつの間にか落ちて行き、ただの六騎になってしまいました。

兼信は四方をキッと見回し、「よしよし、居ても居なくても関係のない大臆病者などは、足手まといになるだけなので、落ちて行ったのはもっけの幸いである。敵の人馬らがまだ息の整わない内に、いざ駆け込もう」と言うや、六騎は馬の鼻を揃えて駆け入りました。

これを見て小旗一揆、川津、高橋らの軍勢五百余騎もわめきながら突撃したので、上杉の大軍は浮足立って一度も反撃することなく退却潰走し、上杉が重傷を負っただけでなく、討たれた兵士は三百余騎、負傷した兵士は数知れずの状態です。

退却した道筋三里に渡って鎧、腹巻、小手、脛当、弓矢、太刀、刀などが捨て去られ、足の踏み場もないほどです。こうして備中の合戦には、越後守高師泰は問題なく勝利を収めました。ここから播磨国までの道中は大した抵抗もないだろうと思っていたところ、

美作国の武将、芳賀、角田らの軍勢七百余騎が集まり、杉坂の街道を閉鎖して、越後守を討ち取ろうとしました。しかし、つい先ほど備中の合戦に勝ち、勢いに乗りに乗った川津、高橋の両一揆は、敵に一本の矢さえ射させず、全員が一斉に刀を抜き放ち攻撃したので、

敵はひとたまりもなく谷底に転がり落ち、ほとんどの兵士が討たれたのです。こうして備中、美作の合戦に無事勝利した、越後守師泰、武蔵五郎師夏は、喜びに顔も晴れやかになり、観応二年(正平六年::1351年)二月に、尊氏将軍が陣営を構えている書写坂本城に駆けつけたのでした。


○光明寺合戦事付師直怪異事
去程に八幡より、石堂右馬権頭を大将にて、愛曾伊勢守、矢野遠江守以下五千余騎にて書写坂本へ寄んとて下向しけるが、書写坂本へは越後守が大勢にて著たる由を聞て、播磨の光明寺に陣を取て、尚八幡へ勢をぞ乞れける。将軍此由を聞給て、光明寺に勢を著ぬ前に、先是を打散さんとて、同二月三日将軍書写坂本を打立て、一万余騎の勢を卒、光明寺の四方を取巻給ふ。石堂城を堅て光明寺に篭しかば、将軍は引尾に陣を取り、師直は泣尾に陣をとる。名詮自性の理寄手の為に、何れも忌々しくこそ聞へけれ。同四日より矢合して、寄手高倉の尾より責上れば、愛曾は二王堂の前に支て相戦ふ。城中には死生不知のあぶれ者共、此を先途と命を捨て戦ふ。寄手は功高く禄重き大名共が、只御方の大勢を憑む許にて、誠に吾一大事と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝に不乗云事なし。赤松律師則祐は、七百余騎にて泣尾へ向ひたりけるが、遥に城の体を見て、「敵は無勢なりけるを、一責々て見よ。」と下知しければ、浦上七郎兵衛行景・同五郎左衛門景嗣・吉田弾正忠盛清・長田民部丞資真・菅野五郎左衛門景文、さしも岨しき泣尾の坂を責上て、掻楯の際まで著たりける。此時に自余の道々よりも寄手同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵か明日か心落に落んずる城を骨折に責ては何かすべきとて、数万の寄手徒に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入寄手一人も不残掻楯の下に射臥られて、元の陣へぞ引返しける。手合の合戦に敵を退て城中聊気を得たりといへ共、寄手は大勢也。城の構未拵、始終いかゞ有べからんと、石堂・上杉安き心も無りける処に、伊勢の愛曾が召仕ひける童一人、俄に物に狂て、十丈許飛上りて跳りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居させ給て、此城守護の為に、三本杉の上に御坐あり。寄手縦何なる大勢なりとも、吾角てあらん程は城を被落事有べからず。悪行身を責、師直・師泰等、今七日が中に滅さんずるをば不知や。あらあつや堪がたや。いで三熱の焔さまさん。」とて、閼伽井の中へ飛漬りたれば、げにも閼伽井の水湧返てわかせる湯の如し。城中の人々是を聞て渇仰の首を不傾云事なし。

☆ 光明寺合戦のことと、師直に起こった異変のこと

やがて八幡より石堂右馬権頭を大将として、愛曾(あそ)伊勢守、矢野遠江守以下が五千余騎にて書写坂本城を攻め寄せようと下向しましたが、書写坂本には越後守が大軍を率いて到着したと聞き、播磨の光明寺に陣を構えて、八幡の陣営に援軍の派遣を依頼しました。

尊氏将軍はこのことを聞くと、光明寺に援軍が到着する前に、まず今の敵を追い散らそうと、観応二年(正平六年::1351年)二月三日将軍は書写坂本を出発し、一万余騎を率いて光明寺の四方を取り囲みました。石堂右馬権頭は防御を厳しくして光明寺に立て篭もったので、

将軍は引尾山に陣を構え、師直は泣(鳴)尾山に陣取りました。物の名はその物自体の本性を表すと言う理屈から見れば、どちらも寄せ手に取っては忌々しく聞こえます。同月四日より矢合わせが行われ、寄せ手が高倉の尾から攻め上ってきたので、

愛曾(あそ)は仁王門の前で戦い防御に努めました。城中にいる命知らずのあぶれ者らが、此処を死処と命を顧みず戦いました。反対に寄せ手には過去の戦功によって、多くの俸禄を得ている大名たちが、ただ味方の大軍を頼りにして、真剣にこの合戦に取り組もうとする気も乏しく、

連日の合戦にはいつも籠城方が勝ちました。赤松律師則祐は七百余騎にて泣尾山に向かい、遥か遠くから城の様子を見て、「敵は無勢なのでここは一気に攻め込んでしまえ」と命じたので、浦上七郎兵衛行景、同じく五郎左衛門景嗣、吉田弾正忠盛清、

長田民部丞資真、菅野五郎左衛門景文らが、あれほど険しい泣尾の坂を攻め上り、掻楯(かいだて::垣根のように並べられた楯)のそばに着きました。もしこの時、他の道々からも同時に寄せ手が攻め上ったら、城は一気に攻略出来たと思われますが、

ほっておいても今宵か明日には落ちると思われる城に、わざわざ苦労して攻め込んでみてどうなるのかと、数万の寄せ手軍は、ただ単に見物するだけだったので、浦上七郎兵衛をはじめ攻め込んだ寄せ手軍は、一人残らず掻楯の下に射伏せられ、元の陣に引き返しました。

中途半端な合戦でも敵を退けたので、城内は幾分気を良くしたと言っても、寄せ手は大軍です。城の構えも未だ完全ではなく、いつも何か非常事態が起こるのではと、石堂や上杉は心の休まることもないところに、伊勢の愛曾が召し使っている童の一人が、急に物狂になり、

十丈ばかり飛び跳ね上がって、「私に伊勢大神宮が乗り移られて、この城を守護するため三本杉の上に鎮座されている。たとえ寄せ手が如何に大軍であろうとも、私がこうしている限り、城が落とされることなどありません。今までの悪行がわが身を苦しめ、

師直や師泰らは今日より七日の内に滅びることを知らないのか。ありゃ熱い熱いとてもたまらない。さあ三熱(さんねつ::畜生道で竜、蛇が受ける三つの苦しみ)の炎を冷まそう」と言って、閼伽井(あかい::仏に供える水を汲む井戸)の中に飛び込んだら、なんと閼伽井の水が湧きかえり、

湯のようになりました。城内にいる人々はこの話を聞くと、ますます信心の気持ちを起こされたのです。


寄手の赤松律師も此事を伝聞て、さては此軍墓々しからじと、気に障りて思ける処に、子息肥前権守朝範が、胄を枕にして少し目睡たる夢に、寄手一万余騎同時に掻楯の際に寄て火を懸しかば、八幡山・金峯山の方より、山鳩数千飛来て翅を水に浸して、櫓掻楯に燃著火を打消とぞ見へたりける。朝範軈て此夢を則祐に語る。則祐是を聞て、「さればこそ此城を責落さん事有難しなどやらんと思つるが、果して神明の擁護有けり。哀事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思ける処に、美作より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐光明寺の陣を捨て白旗城へ帰にけり。軍の習、一騎も勢の加る時には人の心勇み、一人もすく時は兵の気たゆむ習なれば、寄手の勢次第に減ずるを見て、武蔵守が兵共弥軍懈て、皆帷幕の中に休息して居たりける処に、巽の方より怪気なる雲一群立出て風に随て飛揚す。百千万の鳶烏其下に飛散て、雲居る山の風早み、散乱れたる木葉の空にのみして行が如し。近付に随て是を見れば、雲にも霞にも非ず、無文の白旗一流天より飛降にてぞ有ける。是は八幡大菩薩の擁護の手を加へ給ふ奇瑞也。此旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝んずらんとて、寄手も城中も手を叉へ礼を成して、祈念を不致云人なし。此旗城の上に飛上飛下て暫く翩翻しけるが、梢の風に吹れて又寄手の上に翻る。数万の軍勢頭を地に著て、吾陣に天降せら給ふと信心を凝す処に、飛鳥十方に飛散て、旗は忽に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同く見て、「目出し。」と感じける声、暫しは静りも得ざりけり。師直甲を脱で、左の袖に受留め、三度礼して委く是を見れば、旌にはあらで、何共なき反古を二三十枚続集て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢の花ぞ散行限あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯にけり師直傍への人に、「此歌の吉凶何ぞ。」と問ければ、聞人毎に、穴浅猿や、高き梢の花ぞ散行とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。然も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂を被焼たりし罪、一人にや帰すらん。武蔵野の草はみながら霜枯にけりとあるも、名字の国なれば、旁以不吉なる歌と、忌々しくは思ひけれ共、「目出き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺しける。

寄せ手の赤松律師もこの話を伝え聞き、それでこの合戦が思うようにならないのかと、気にしていたところ、子息の肥前権守朝範が、兜を枕にして少しばかり居眠った時の夢の中で、寄せ手の一万余騎が同時に掻楯の際まで行き火をかけたところ、八幡山、金峰山の方より山鳩が数千羽飛んで来て、

羽を水に浸して、櫓や掻楯に燃え着いた火を消したように見えたのです。朝範はすぐにこの夢を則祐に話しました。則祐はこれを聞き、「なるほど、この城を攻め落とすことが難しいとは思っていたが、まさかこの城に神明の加護があったとは。

こうなれば事が厄介にならない内に退却しようか」と思っていたところ、美作国方面に敵が起こり、赤松軍に攻め寄せて来るとの情報が入ったので、則祐は光明寺の陣営を引き払い、白旗城に帰りました。合戦の習いとして、一騎でも軍勢に加わる時は、人の心は勇み立ち、

反対に一人でも減れば、兵士の士気が緩み勝ちになるのが当然で、今、寄せ手の軍勢が次第に減少していくのを見て、武蔵守師直の兵士らはますます士気が緩み、皆陣営の中で休憩をしていたところ、巽(たつみ::東南)の方角に、怪しげな雲が一つ湧き出て、風に乗って飛んで来ました。

百千万羽とも思われる鳶や烏がその下を飛び回り、雲のかかった山には風が激しく吹き荒れ、散り乱れた木の葉が空一面に広がっています。その雲が近づくに従ってよく見れば、雲でなければ霞でもなく、紋のない白旗一旒が、天より飛び降りて来たようです。

これは八幡大菩薩が援護の手を差し伸べられるという吉兆であろう。この旗の落ち着いた先がこの合戦に勝つだろうと、寄せ手も城内の兵士らも叉手(しゃしゅ::合掌に次ぐ礼法。左手を親指を内にして握り、右手でおおって乳の高さに上げること)の礼を取り、祈りを捧げない人はいませんでした。

この旗は城の上を飛び上がったり、舞い落ちそうになったりしながら、しばらく揺れ動いていましたが、梢を吹く風にあおられて再び寄せ手の上でひらめきました。数万の軍勢らは頭を地につけて、我が陣に落ちてくださいと祈り続けていたところ、空飛ぶ鳥が四方八方に飛び散ったのち、

この旗はすぐ師直の陣営の中に落ちてきたのです。見ていた陣営内の全員の発する、「めでたいことだ」と感激する声が響き、しばらく止みませんでした。師直は兜を脱いで、左の袖で受け止め、三度の礼をしてから良く見れば、旗ではなく書きそこなった紙を二、三十枚つなぎ合わせて、

その裏に二首の歌が書かれていました。

      吉野山 峯の嵐の はげしさに 高き梢の 花ぞ散り行く(吉野の寺社を焼くような悪行があったので、高家も滅ぶだろう)
      限りあれば 秋も暮れぬと 武蔵野の 草はみながら 霜枯れにけり(繁栄にも限度があり、武蔵守の高家も霜枯れするだろう)

師直は傍らの人達に、「この歌の吉凶はどう考えれば良いだろうか」と問われましたが、聞かれた人は、高き梢の花ぞ散り行くとは、高家の人々が滅亡することだろうし、その上吉野山峯の嵐のはげしさにとあるのも、先年蔵王堂を燃やした罪を、一人だけに問うことだろう。

その上、武蔵野の草はみながら霜枯にけりとあるのも、師直が武蔵守と思えばこれほど不吉な歌はないだろうと情けなく思いましたが、あきれた話ですが皆は、「めでたい歌に違いません」と、いい加減なことを言いました。      (終り)

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