29 太平記 巻第二十九 (その二)


○小清水合戦事付瑞夢事
去程に其日の暮程に、摂津国の守護赤松信濃守範資、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔・畠山阿波守国清・上杉蔵人大夫を大将にて、七千余騎を光明寺の後攻の為にとて、被差下也。前には光明寺の城堅く守て、後に荒手の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事にて候べし。只先其城をば閣れ候て、討手の下向を相支へ、神尾・十林寺・小清水の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦に利を得ば、敵所々に軍すと云ふ共、いつまでか怺へ候べき。是只一挙に戦を決して、万方に勝事を計る処にて候べし。」と、追々早馬を打せて、一日に三度までこそ申されけれ。将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如ならば、敵は小勢也。御方は是に十倍せり。岨しき山の城を責ればこそ叶はね、平場に懸合て勝負を決せんに、御方不勝と云事不可有。さらば此城を閣て、先向なる敵に懸れとて、二月十三日、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立有て兵庫湊川へ馳向はる。畠山阿波守国清は、三千余騎にて播磨の東条に有けるが、此事を聞て、さては何くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向めとて、湯山を南へ打越て、打出の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭つる石堂右馬頭・上杉左馬助も光明寺をば打捨て皆畠山が陣へ馳加る。同十七日夜、将軍執事の勢二万余騎御影浜に押寄、追手搦手二手に分らる。「軍は追手より始て戦半ならん時、搦手の浜の南より押寄て、敵を中に取篭よ。」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如何様大勢を憑て御方為損じぬと思ひければ、弥吾大事と気を励しけるにや、自余の勢に紛れじと、絹三幅を長さ五尺に縫合せて、両方に赤き手を著たる旌をぞ差たりける。一族の手勢二百余騎雀松原の木陰に控て、追手の軍今や始まると待処に、兼ての相図なれば、河津左衛門氏明・高橋中務英光、大旌一揆の六千余騎、畠山が陣へ押寄て時を作る。畠山が兵静り返て、態と時の声をも不合、此の薮陰、彼この木陰に立隠て、差攻引攻散々に射けるに、面に立つ寄手数百人、馬より真倒に射落されければ、後陣はひき足に成て不進得。河津左衛門是を見て、「矢軍許にては叶まじきぞ、抜て蒐れ。」と下知して、弓をば薮へからりと投棄て、三尺七寸の太刀を抜て、敵の群りたる中へ会尺もなく懸入んと、一段高き岸の上へ懸上ける処に、十方より鏃を汰て射ける矢に、馬の平頚草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。乗手は朱に成て下立たり。是を見て畠山が二百余騎喚て蒐りければ、跡に控たる寄手の大勢共荒手を入替て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭に鐙を合て一度にはつとぞ引たりける。石堂右馬頭が陣は、是より十余町を隔てたれば、未御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌の三流見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云れければ、原三郎左衛門義実只一騎、馳向て是を見に、三幅の小旗に赤き手を両方に著たり。さては敵也と見課て馳帰けるが、徒に馬の足を疲かさじとや思けん、扇を挙て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬へたる勢は敵にて候ぞ。而も追手の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼りける。元より気早なる石堂・上杉の兵共是を聞て何かは少しも可思惟。七百余騎の兵共、馬の轡を並べて喚て懸けるに、薬師寺が迹に扣たる執事兄弟の大勢共、未矢の一をも不被射懸、捨鞭を打てぞ逃たりける。

☆ 小清水合戦のことと、縁起の良い夢のこと

ところでその日(観応二年二月四日)の暮れ頃、将軍の陣営に摂津国の守護、赤松信濃守範資から使者を通じて、「八幡より石堂中務大輔、畠山阿波守国清、上杉蔵人大夫らを大将にして七千余騎の軍勢が光明寺の後詰軍として派遣されました。前には光明寺の堅固な城があり、

後方に新手の大軍を迎えては、非常に困難な事態になるとと思われます。そこでまずそちらの城攻めは中断されて、討っ手の下向を防ぐため、神尾、十林寺、小清水のあたりで御合戦をされれば、敵の敗北は疑う余地がありません。味方がこの合戦に勝利すれば、敵は諸所で抵抗したとしても、

いつまでも耐えられないでしょう。ここは一挙に勝負を決して、以後の諸問題を有利に進めることを図るが良いでしょう」と次々早馬を仕立てて、一日に三度まで連絡して来ました。将軍をはじめに、師直、師泰に至るまで、確かに聞いている範囲では敵は小勢である。

それに比べて我が味方の軍勢は十倍はいるだろう。険しい山城の攻撃には苦しんでも、平場で駆け合っての勝負をすれば、味方の勝利は間違いないだろう。そこでこの城の攻撃はさて置き、まず先に下向してくる敵に向かえと、二月十三日、将軍も執事兄弟(師直、師泰)も光明寺の麓を出発し、

兵庫の湊川に向け駆け出しました。畠山阿波守国清は三千余騎を従えて播磨の東条(加東市)に駐留していましたが、このことを聞くと何はともあれ執事兄弟のいる所に向かおうと、湯山を南に向かって越えると、打出(芦屋市)の北側にある小山に陣を構えました。

光明寺に立て篭もっている石堂右馬頭、上杉左馬助も光明寺を放棄し、全員畠山の陣営に駆けつけました。同月十七日の夜、将軍と執事の軍勢二万余騎が御影浜に押し寄せると、大手と搦手の二手に分けて、「戦闘は大手より始め、戦闘半ばになった時、搦手の軍勢は浜の南側から押し寄せ、

敵を中に取り込めてしまえ」と、命令されました。薬師寺次郎左衛門公義は今回の合戦について、味方はどうしても自軍の勢力の多さを頼り、そのため味方が負けるのではと考え、ここは一つ我らが頑張らねばと思ったのか、他の軍勢と間違えられないように、

絹布を三枚並べ長さ五尺に縫い合わせて、その両側に赤い手を付けた旗を差しました。一族の軍兵二百余騎は雀松原の木陰で待機して、大手軍による戦闘の開始が今や遅しと待っていたところ、前もっての計画通り河津左衛門氏明、高橋中務英光そして大旗一揆の六千余騎が畠山の陣営に押し寄せ、

閧の声を上げました。畠山の兵士らは静まり返って、わざと閧の声も合わさず、こちらの薮の陰やあちらの木の陰などに隠れて、立て続けに矢を番っては激しく射込んだので、正面から攻め寄せていた数百人が、馬から真っ逆さまに射落とされると、後に続く軍勢は退きがちになって、

前に進むことが出来ません。河津左衛門はこの状況に、「矢による戦闘ばかり続けていては勝機はないぞ。刀を抜き放って突撃せよ」と命令して、自ら弓を薮に投げ捨てると、三尺七寸の太刀を抜き、群がる敵の中に名乗りも上げずに駆け込もうと、一段と高くなった所に駆け上がったところ、

四方八方より次々と射込んで来る矢に馬の平首や胸の前部、左脚の上部また右足の膝頭など四ヶ所を矢に深くまで射られて、馬は膝を折ってドウっと倒れ込みました。乗っていた河津は朱に染まって立っていました。これを見て畠山の二百余騎がわめきながら突撃しましたが、

後に控えていた寄せ手の大軍は新手として戦いに参加しようとせず、また負傷者を救出することもしませんでした。そればかりでなく、馬に一鞭入れると、鐙を揃えて全員が退却したのです。石堂右馬頭の陣営はここから十余町離れた所ですから、まだ味方が勝ったことも知らずに、

「打出の浜に旗が三旒見えているが、敵か味方か確認して来い」と命じたので、原三郎左衛門義実がただ一騎で駆けつけ見てみれば、三幅の小旗に赤い手を両端につけています。さては敵に違いないと思い、駆けて帰ろうとしましたが、無駄に馬を疲れさすこともないだろうと思ったのか、

扇を上げて味方の軍勢に向かって、「浜の南に控えている軍勢は敵です。その上大手の合戦は見方が勝ったようです。早く駆けつけてください」と、大声で呼びかけました。もともとせっかちな者が多い石堂や上杉の兵士らはこれを聞くや、何も考えずに七百余騎の兵士らが馬を並べてわめきながら駆け込むと、

薬師寺の後ろに控えていた執事兄弟の軍勢らは、一本の矢さえ射掛けることもなく、馬の尻に鞭を当てて逃げだしたのです。


梶原孫六・同弾正忠二人は追手の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町落たりけるが、後代の名をや恥たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸入る。暫が程は二人一所にて戦けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦ける。孫六は敵三騎切て落して、裏へつと懸抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛れて助からんよと思て、笠符を取て袖の下に収め、西宮へ打通て、夜に入ければ、小船に乗て将軍の陣へぞ参りける。弾正忠は偏に敵に紛れもせず、懸入ては戦ひ戦ひ、七八度まで馬烟を立て戦けるが、藤田小次郎と猪股弾正左衛門と、二騎に被取篭討れにけり。後に、「あはれ剛の者や、誰と云者やらん。名字を知ばや。」とて是を見るに、梅花を一枝折て箙の上に著たり。さては元暦の古、一谷の合戦に、二度の懸して名を揚し梶原平三景時が、其末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門公義は御方の追手搦手二万余騎、崩れ懸て引共少も不騒、二百五十騎の勢にて、石堂・上杉が七百余騎の勢を山際までまくり付て、続く御方を待処に、一騎も扣たる兵なければ、又浪打際に扣て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著たる旌は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸たり。公義が二百五十騎、敵後に近付ば、一度に馬を屹と引返して戦ひ、敵先を遮れば、一同にわつと喚て懸破り、打出浜の東より御景浜の松原まで、十六度迄返して戦けるに、或は討れ或は敵に被懸散、一所に控たる勢とては、弾正左衛門義冬・勘解由左衛門義治、已上六騎に成にけり。兵共暫馬の息を継せて傍を屹と見たるに、輪違の笠符著たる武者一騎、馬を白砂に馳通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門義冬是を見て、「是は松田左近将監と覚る。目前にて討るゝ御方を不助云事やあるべき。」とて、六騎抜連て懸れば、七騎の敵引退て松田は命を助てげり。松田・薬師寺七騎に成て暫し扣たる処、彼等手の者共彼方より馳付て、又百騎許に成ければ、石堂・畠山先懸して兵を三町許追返したるに、敵も勇気や疲れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立処の矢少し折懸て湊川へ馳帰たれば、敵の旌をだにも不見して引返しつる二万余騎の兵共、勇気を失、落方を求て、只泥に酔たる魚の小水にいきづくに異らず。

梶原孫六、同じく弾正忠の二人は大手の軍勢の中にいましたが、不本意ながら味方の勢に引きずられ六、七町ばかり落ちたのですが、後世に不名誉な名を残すことを恥じて、ただ二騎で引き返し敵の大軍の中に駆け込みました。しばらくの間、二人は同じ場所で戦っていましたが、

その内別々になって、ここを死処と戦いました。孫六は敵三騎を斬り落とし、そのまま後ろに駆け抜けたのですが後に続く味方もなく、またとがめようとする敵もいないので、では敵に紛れ込んで助かろうと思い、笠印を取って袖の下に隠すと、西宮を経由し夜になってから小舟に乗り込んで将軍の陣営に行きました。

しかし弾正忠は敵に紛れ込もうとせず、ひたすらに駈け入っては戦い、七、八度まで馬が立てる土ぼこりの中、戦っていましたが、藤田小次郎と猪俣弾正左衛門の二騎に取り囲まれ討たれたのです。その後、「なかなか勇猛な武者ではないか、名は何と言うのだろうか、知りたいものだ」と言って遺骸を見ると、

梅の花が一枝折って箙の上に付けてありました。そうか、これは元暦(1184-1185年)の昔、一の谷の合戦において、二度の駆け込みを敢行して、その名を上げた梶原平三景時(箙に梅を挿したのは景時の長男景季)の末裔に違いないと、名乗ることなく名を知られたのでした。

薬師寺二郎左衛門公義は味方の大手、搦手二万余騎の陣形が崩れかかり、退却に移りかけているのにかかわらず、二百五十騎の勢で石堂、上杉の七百余騎を山際まで追い詰め、味方の援軍を待っていましたが、一騎さえも続く兵士がいないので、再び波打ち際で控えていたところ、

石堂、畠山の大軍らが、「手の付いた旗は薬師寺に違いない、一人残らず討ち取ってしまえ」とばかり、追いかけて来ました。薬師寺公義の二百五十騎は敵が後ろに近づいて来たら、馬を一度にサッと返して戦い、敵が前方を遮れば全員がワッと叫び声をあげて駆け散らし、

打出浜の東から御影浜の松原まで、十六度にわたって返しては戦いましたが、ある者は討たれ、またある者は敵に追い散らされて、一緒になって戦っているのは、弾正左衛門義冬、勘解由左衛門義治ら六騎になりました。兵士らはしばらく馬の息を整えながらもキッと傍らに目をやると、

輪違の笠印を付けた武者が一騎、白砂に馬を駆け通したものの、敵の七騎に取り囲まれています。弾正左衛門義冬はこれを見て、「あの者は松田左近将監と思う。目の前で討たれそうな味方を助けないと言う法などあるはずがない」と言って、六騎を率いて駆けつけたので、

敵の七騎は退却し松田は命拾いをしたのです。こうして松田と薬師寺は七騎になって、しばらく待機していたところ、彼らの家来たちがあちこちから駆けつけて来て、また百騎ほどになったので、石堂、畠山の勢に襲いかかり、敵兵を三町ほど追い返しましたが、敵も気力体力とも衰えたのか、

その後は追って来ることもなく合戦はここで中断となりました。薬師寺は鎧に立っている折れた矢もそのままに、湊川へ駆け戻ってみれば、敵の旗さえ見ることもなく退却した、二万余騎の兵士らは戦意も喪失して、ただ落ち延びる機会をうかがっているだけで、

泥にあえぐ魚がわずかな水で生き延びているのと変わりありません。


さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣、天地各別なり。何事にか是程に無念可打負。是非直事と思ふに合て、其前の夜、武蔵五郎・河津左衛門と、少も不替二人見たりける夢こそ不思議なれ。所は何く共不知渺々たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族其郎従数万騎打集て、轡を双て控たる。東には錦小路禅門・石堂・畠山・上杉民部大輔、千余騎にて相向ふ。両陣鬨を合せて、其戦未半時、石堂・畠山が勢旌を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐る処に、雲の上より錦の旌一流差挙て、勢の程百騎許懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王権現、頭に角生て八の足ある馬に被召たり。小守勝手の明神、金の鎧に鉄の楯を引側めて、馬の前後に順ひ給ふ。右は天王寺の聖徳太子、甲斐の黒駒に白鞍置て被召たり。蘇我馬子大臣甲胄を帯し、妹子大臣・跡見の赤梼・秦河勝、弓箭を取て真前に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢を小勢と見て、中に篭て討んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知し給へば、小守・勝手・赤梼・河勝、四方に颯と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵五郎・越後将監が眉間の真中を徹て、馬より倒に地を響して落ると見て、夢は則醒にけり。朝に此夢を語て、今日の軍如何あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此後とても、角ては憑しくも不思と、聞人心に思ぬはなし。此夢の記録吉野の寺僧所持して、其隠なき事也。

さてこの合戦についてよくよく考えてみれば、軍勢の多少や兵士の優劣などその差ははっきりしています。それなのに何故これほど情けない負け方をしたのでしょうか。これはただ事ではないと色々考えてみると、前夜に武蔵五郎と河津左衛門の二人が見た同じ夢こそ不可解です。

場所は何処だか分かりませんが、広々とした平野で、西には高師直、師泰以下の高家の一族やその家来など数万騎が集まり、馬の轡を並べて控えていました。また東には錦小路禅門直義、石堂、畠山、上杉民部大輔らが千余騎で向かいあっています。両軍は閧の声を互いに上げて、

戦いが一時間も過ぎないうちに、石堂、畠山の軍勢が旗を巻いて退却しました。師直と師直が勝ちに乗じて追撃していると、雲の上より錦の旗一旒を差し上げて、百騎ばかりの軍勢が駆け出てきました。左右に分かれた大将は誰なのかと見れば、

左側には吉野の金剛蔵王権現が頭に角の生えた八本の足を持った馬に乗っておられます。子守と勝手の明神が金の鎧を着け、鉄の楯を小脇に持って、馬の前後の従っておられます。右側には天王寺の聖徳太子が、甲斐産の黒馬に白い鞍を置いて乗っておられます。

蘇我馬子大臣が甲冑に身を固め、妹子大臣、跡見の赤梼(迹見赤檮・とみのいちい::聖徳太子の従者)、秦河勝らが弓矢を手にして真ん前を進んでいます。師直、師泰以下の兵士らは太子の軍勢を小勢と考え、中に取りこめて討ち取ろうとしたところ、金剛蔵王が目を怒らせ、「奴らを射落とせ」と命じられたので、

子守、勝手、赤檮、河勝らが四方にサッと走り出しました。と同時に放った矢は、師直、師泰、武蔵五郎、越後将監らの眉間の真ん中を貫くと、馬から地響きをたてて倒れ落ちるのを見た途端に夢から覚めたのです。朝になってこの夢の話を語り、今日の合戦はどうなるのだろうかと不安を持っていましたが、

案の定こっぴどい負け方をしたのです。この話を聞いた人は皆が皆、今後とも安心は出来ないと不安を感じたのでした。この夢の記録は吉野の寺の僧が所持しており、隠れなき事実です。


○松岡城周章事
小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。角ては叶まじ、宗との人々より外は内へ不可入とて、人の郎従若党たる者は、皆そとへ追出して、四方の関下したれば、元来落心地の付たる者共、是に事名付て、「無憑甲斐執事の有様哉。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連/\落行。今は定て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或は釣する海人に紛れて、破れたる簔を身に纏ひ、福良の渡・淡路の迫門を、船にて落る人もあり。或は草苅をのこに窶つゝ、竹の簣を肩に懸、須磨の上野・生田の奥へ、跣にて逃る人もあり。運の傾く僻なれ共、臆病神の著たる人程見苦き者はなし。夜已に深ければ、さしもせき合つる城中さび返て、更に人ありとも見へざりけり。将軍執事兄弟を召近付て宣けるは、「無云甲斐者共が、只一軍に負たればとて、落行事こそ不思議なれ。さりとも饗庭命鶴・高橋・海老名六郎は、よも落去じな。」と問給へば、「それも早落て候。」「長井治部少輔・佐竹加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内の御勢、師直が郎従・赤松信濃守勢、彼是五百騎に過候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中今夜を限りござんなれ、面々に其用意有べし。」とて、鎧をば脱て推除小具足許になり給ふ。是を見て高武蔵守師直・越後守師泰・武蔵五郎師夏・越後将監師世・高豊前五郎・高備前守・遠江次郎・彦部・鹿目・河津以下、高家の一族七人、宗との侍二十三人、十二間の客殿に二行に坐を列て、各諸天に焼香し、鎧直垂の上をば取て抛除、袴許に掛羅懸て、将軍御自害あらば御供申さんと、腰の刀に手を懸て、静り返てぞ居たりける。厩侍には、赤松信乃守範資上坐して、一族若党三十二人、膝を屈して並居たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。」とて、大なる酒樽に酒を湛へ、銚子に盃取副て、家城源十郎師政酌をとる。信濃守次男信濃五郎直頼が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也。哀。人之将死其言也。善と云り。吾一言汝が耳に留らば、庭訓を不忘、身を慎て先祖を恥しむる事なかるべし。将軍已に御自害あらんずる間、範資も御供申さんずるなり。日来の好を思はゞ家の子若党共も、皆吾と共に無力死に赴かんとぞ思定たるらん。但汝は未幼少なり。今共に腹を不切共、人強に指をさす事有まじ。則祐已に汝を猶子にすべき由、兼て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真の父と憑て、生涯を其安否に任するか、不然は又僧法師にもなりて、吾後生をも訪らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々庭訓を残して涙を押拭へば、坐中の人々げにもと、同く涙を流しけれ。直頼熟と父の遺訓を聞て、扇取直して申けるは、「人の幼少程と申は、五や六や乃至十歳に足ぬ時にてこそ候へ。吾已善悪をさとる程に成て、適此坐に在合ながら、御自害を見捨て一人故郷へ帰ては、誰をか父と憑み、誰にか面を向べき。又禅僧に成たらば、沙弥喝食に指をさゝれ、聖道に成たらば、児共に被笑ずと云事不可有。縦又何なる果報有て、後の栄花を開候とも、をくれ進せては、ながらふべき心地もせず。色代は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先飲て思ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾る体にて、糟谷新左衛門尉保連にさし給へば、三度飲て、糟谷新左衛門尉伊朝・奥次郎左衛門尉・岡本次郎左衛門・中山助五郎、次第に飲下、無明の酒の酔の中に、近付命ぞ哀なる。

☆ 松岡城が大混乱したこと

さて小清水での合戦に負けてしまい、退却兵二万余騎が各辺四町に足らない松岡の小城(神戸市須磨区)に、我も我もと逃げ込んでいくと、隙間なく人が立っているようで身動きさえ取れません。これではいけないと、主だった人以外は城内に入ることのないように、武将の家来や若武者などは皆城外に追い出して、

四方の木戸を閉鎖したので、もともと落ち延びることしか考えていなかった兵士らは、この仕打ちを口実に、「執事殿のやり方はとても信頼できない。これでは一体誰のために討ち死にするのか」と皆はぶつぶつと愚痴を言いながら、連れだって落ちて行きました。

今頃はきっと落ち行く途中の道には敵があふれて、とても落ち延びることなど出来ないだろうと考える人は、ある者は釣りをする漁師に紛れようと、破れた蓑を身にまとい、福良(淡路島南部)の渡しや淡路の狭い海峡を舟に乗って落ちる人もありました。またある人は草刈りに励む男に変装したりして、

竹の簀の子を肩にかけ、須磨の上野、生田の奥へと裸足になって逃げる人もいました。運の尽きる時には止むを得ないのかも知れませんが、臆病神に取りつかれた人ほど見苦しいものはありません。夜もすでに更けてしまい、あれほどごった返していた城中もさびれてしまい、

今は人がいるとも思えません。尊氏将軍は執事兄弟(師直、師泰)を近くに呼び寄せて、「不甲斐ない連中どもめ、ただ一度の合戦に敗れたからと言って、落ちて行くとは理解に苦しむことだ。とは言っても、饗庭命鶴、高橋、海老名六郎らは、まさか落ちてはいないだろうな」と、尋ねられたのですが、

「彼らも早くに落ちて行ったようです」と、返事があり、「では長井治部少輔や佐竹加賀も落ちたのか」「彼らも皆、落ちて行きました」「それでは残った軍勢はいかほどなのか」と、問われ、「今は身内一族の軍勢と師直の家来、赤松信濃守の軍勢ら合わせて、かれこれ五百騎に足らないでしょう」と返事されると、

将軍は、「と言うことは、世の中の事全て今夜限りだろう、皆各自その用意をするように」と言って、鎧を脱ぐと押しのけ、小具足(籠手や脛当てなど)だけの姿になられました。これを見て、高武蔵守師直、越後守師泰、武蔵五郎師夏、越後将監師世、高豊前五郎、高備前守、遠江次郎、彦部、鹿目、

河津ら以下、高家の一族七人と主だった武将二十三人が、十二間の客殿に二列になって座り、天上界の諸神に対し焼香をして、鎧直垂の上を脱ぎ捨て、袴と袈裟の姿になり、将軍がご自害されたらお供をしようと、腰の刀に手を掛けて静まり返っていました。厩に詰めている武士らは、

赤松信濃守範資を上座に、一族若武者ら三十二人が膝を折って居並んでいましたが、「さあそれでは最後の酒盛りをして、 思う人と盃を交わし自害のはなむけとしよう」と言って、大きな酒樽に酒を湛え、銚子に杯を添えて家城源十郎師政が酌をしました。

信濃守の次男、信濃五郎直頼は今年十三歳でまだ出仕していませんが、父が呼び出して、「鳥之将死其鳴也。哀。人之将死其言也。善と言う。(鳥がまさしく死なんとする時の鳴き声は悲しいものである。人がまさしく死なんとする時の言葉は真実にあふれている)私の一言が汝の耳に残れば、

この教訓を忘れることなく節度ある行動をして、先祖を辱めることのないようにすることだ。将軍がすでにご自害されているので、範資もお供いたすところである。年来の好誼を考えると一族とその従者、若武者らも皆、仕方なく私と一緒に死ぬことを覚悟しているだろう。しかしながら、汝はまだ幼少である。

今一緒に腹を切らなくても、他人がとやかく非難することはないであろう。赤松則祐とはすでに汝を養子にすることを前より約束しているので、赤松に帰り則祐を本当の父親と慕い頼って、生涯を新しい父の方針に従うか、それとも僧侶にでもなって、私の後生を弔うと共に、汝の身の安全をはかるが良い」と泣きながら、

父として教訓を述べ涙を拭われたので、その場にいる人々も同感し、同じく涙を流されたのです。直頼は父の遺訓をしっかりと聞いた上、扇を持ち直して、「人の幼少と言うのは五歳や六歳から十歳にもならない時に言うものです。私はすでに物の善悪が分かる年になっており、

ちょうどこの場所に同席しておりながら、父のご自害を見ておりながら一人故郷に帰っては、誰を父と頼ったり、誰に顔向けができると言うのでしょうか。また禅僧になればなったで、沙弥喝食(しゃみかっしき::寺院で食事の世話などをする未熟な僧)に後ろ指を指され、

聖道(しょうどう::現世で悟りを得ようと修行する僧)になれば、稚児らの笑いものになること間違いないでしょう。たとえ何か幸運に恵まれ、後に栄華に浴することがあっても、一人生き残っていたのでは、とても生き永らえる気分にはなりません。儀礼などは時と場合によります。

切腹に際しての最後の盃であれば、一体誰に何を申し上げれば良いのでしょうか。まず私が先に飲み干し、覚悟のほどをお示ししましょう」と言って、前の盃を取り、傾けるしぐさをして、糟谷新左衛門尉保連に杯を進めると三度飲み干し、糟谷新左衛門尉伊朝、奥次郎左衛門尉、

岡本次郎左衛門、中山助五郎らが順に飲み、逃れることの出来ない煩悩の中で、終わりに近づく命こそ悲しく哀れなものです。


○師直師泰出家事付薬師寺遁世事
斯る処に、東の木戸を荒らかに敲く人あり。諸人驚て、「誰そ。」と問へば、夜部落たりと沙汰せし饗庭命鶴丸が声にて、「御合体に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽に御自害候な。」とぞ呼はりける。こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴将軍の御前に参て、「夜部事の由をも申さで、罷出候しが、早落たりとぞ思召候つらん。御方の軍勢の気を失、色を損じたる体を見候しに、角ては戦ふ共難勝、落共延させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波将監が陣へ罷向候て、御合体の由を申て候へば、錦小路殿も、只暮々其事をのみこそ仰候へ。執事兄弟の不義も、只一往思知するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気兄弟の愛也。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好也。禽獣も皆其心あり。況人倫に於てをや。縦合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。」と、命鶴委細に申ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其夜の自害は留りてげり。さても三条殿は御兄弟の御事なれば、将軍をこそ悪と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚もにくしと思召ぬ事不可有。げにも頭を延て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城へ遣進せて、師直は四国へや落ると評定有けるを、薬師寺次郎左衛門公義、「など加様に無力事をば仰候ぞ。六条判官為義が、己が咎を謝せん為に、入道に成て出候しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎候しぞかし。縦御出家候て、何なる持戒持律の僧と成せ給て候共、三条殿の御意も安まり、上杉・畠山の一族達、憤を散候べしとは覚候はず。剃髪の尸墨染の衣の袖に血を淋て、憂名を後代に残れ候はん事、只口惜かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城へ入進せて、師直を四国へ落さばやと承候事も、都て可然共覚候はず。細川陸奥守も、三条殿の召に依て、大勢早三石に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州の軍に負て、赤松へ引せ給と聞て、打止奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落させ給はん事も不可叶。用意の舟も候はで、此彼の浦々にて、渡海の順風を待て御渡り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一をも、墓々敷射出す人候べき。御方の兵共の有様は、昨日の軍に曇りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申事候間、人の心の習ひ、敵に打懸らんとする時は、心武くなり、一足も引となれば、心臆病に成者にて候。只御方の勢の未すかぬ前に、混討死と思召定て、一度敵に懸りて御覧候より外は、余義あるべし共覚候はず。」と、言を残さで申けれ共、執事兄弟只曚々としたる許にて、降参出家の儀に落伏しければ、公義泪をはら/\と流して、「嗚呼豎子不堪倶計と、范増が云けるも理り哉。運尽ぬる人の有様程、浅猿き者は無りけり。我此人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世を捨て、此人々の後生を訪んには。」と、俄に思定て、取ばうし取ねば人の数ならず捨べき物は弓矢也けりと、加様に詠じつゝ、自髻押きりて、墨染に身を替て、高野山へぞ上りける。三間茅屋千株松風、ことに人間の外の天地也けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山憂世の夢も覚ぬべしその暁を松の嵐にと読て、暫しは閑居幽隠の人とぞ成たりける。仏種は縁より起事なれば、かやうに次を以て、浮世を思捨たるは、やさしく優なる様なれ共、越後中太が義仲を諌かねて、自害をしたりしには、無下に劣りてぞ覚たる。

☆ 師直、師泰が出家したことと、薬師寺が遁世したこと

ちょうどその時、東の木戸を激しくたたく人が現れました。皆が驚いて、「誰だ」と、問いかければ、夕べ落ちて行ったと思われていた饗庭命鶴丸の声があり、「和議が成立したので、もう合戦はありません。早まってご自害などされませんように」と、呼びかけてきたのです。

これは一体どう言うことなのかと、急いで木戸を開くと、命鶴丸は将軍の御前に参り、「夕べは詳しく事情を説明することなく出掛けましたので、もしかして早くも落ちて行ったのかと思われたかも知れません。味方の軍勢の士気が落ち、意外な展開に狼狽している様子を見るにつけ、

これでは如何に戦おうとも勝つことは難しく、たとえ落ちたとしても生き延びることは出来そうにないと思いましたので、畠山阿波将監の陣に参り、和議の提案をしましたところ、錦小路殿もただただそれが一番だと仰せられました。執事兄弟の不穏な背信行為について、

彼らに一度思い知らすことが目的なので、執事を何が何でも誅伐する気はありません。親との情愛より睦まじいのは、一緒に育った兄弟の愛情だと思います。子供にも劣らず離れがたいのは、長年にわたって続けてきた主従の関係です。鳥や獣でも皆その心は持っています。

まして人間であれば当然のことです。たとえ合戦に及ぶことがあっても、情け容赦のない行動は慎むべしと書かれた八幡よりの指令書数通があると言って、取り出して見せられました」と命鶴丸は詳しく話されたので、将軍も執事兄弟もそれなら問題なかろうと考え、その夜の自害は思い止まりました。

そこで良く考えてみれば、三条殿(直義)は兄弟のことでもあるので、将軍がすべて悪いと思うわけではないけれど、師直の昨年の行動について、全く憎く思わないわけではないでしょう。そこで頭を差し出し処置を任せるほどなら、出家を済ませてから行かせるとか、

でなければ将軍尊氏を赤松の城に送り届けて、師直は四国に落とそうかと相談しましたが、その時、薬師寺次郎左衛門公義が、「何を無駄なことをおっしゃっているのですか。昔、六条判官為義(源為義)が自分の罪(保元の乱に参画)を謝罪するため、

出家入道したのに関わらず、源義朝は為義の子でありながら首を刎ねたではないですか。たとえ御出家されて、戒律を厳しくまもる僧侶になられたとしても、三条殿の怒りがおさまり、上杉や畠山一族のうっ憤がはれるとは到底考えられません。剃髪を済ませた屍が、墨染めの衣の袖を血に染めて、

不名誉な名だけが後世に語り継がれることは、まことに悔しいことではございませんか。将軍を赤松の城に送り、師直を四国に落としてはと聞きましたが、そのようなこと何の解決にもならないと思います。細川陸奥守顕氏も三条殿の招集の応じ、その大軍が早くも三石に到着したと聞いていますが、

将軍が摂津での合戦に負け、赤松城に退却したと聞いて攻撃を中止するとはとても考えられません。また師直殿を四国に落とそうとすることも、とても出来そうにありません。渡海に必要な舟も思うように用意できず、またあちこちの浦で順風を待っている内に、

敵が追い着いて来たら、誰か矢の一本でも堂々と射る人がいるのでしょうか。味方の兵士らの実体については、昨日の合戦ではっきりとしたように、人には本来豪勇とか臆病はないけれど、気持ちにおいて積極性とか消極性が出ると言われているので、人はいつも敵に向かっていく時の気持ちは猛々しくなり、

一歩でも退却するとなれば、気持ちは落ち込み臆病になるものです。今となっては味方の軍勢が少しでもいる内に、思い切って討ち死にを覚悟し、一度敵に立ち向かっていくより他に取るべき道は無いと考えます」と、思いのすべてを話されましたが、執事兄弟はただぼんやりとしているだけで、

結局降参し出家をすることに落着いたので、薬師寺公義は涙をはらはらと流し、「やはり、范増(はんぞう::楚国の軍師)が未熟な者(豎子::じゅし)と事を計画するのは耐えられないと言ったのも、道理です。運が尽きようとする人ほど、その態度は見苦しく情けないものです。

私がこのままこの人たちと死をともにしても、何も評価が得られるものではありません。いっそのこと、この浮世に別れを告げて、これらの人々の後生を弔うこととしますか」と急遽心に決め、

      取ばうし 取らねば人の 数ならず 捨べき物は 弓矢也けり(首を取れば気が滅入り、取らなければ人間扱いをされない。弓矢を捨ててこそ人間になれるだろう)
と一首詠みながら、自ら髻を切ると墨染めの衣をまとい、高野山にのぼられました。小さなあばら家と、多くの松を吹き抜ける風、

此処こそ確かに浮世を離れた天地だと、心は澄み渡り、体も安らぐ心地になって、
      高野山 憂世の夢も 覚ぬべし その暁を 松の嵐に(高野山に来て、浮世の夢も覚めた気がする。明け方に吹く松風のおかげで)

と詠み、しばらくして人里離れた地で世を捨てて住まわれました。仏の道に入る時は何かの縁があってのことですが、このような理由から浮世を捨てるのも、また上品で殊勝なこととは思いますが、源範頼、義経軍が都に攻め込んで来た時、越後中太(木曾義仲の家人)が出陣を渋っている木曾義仲を諫めようと、

自害をしたことに比べれば、はるかに劣っていると思われます。


○師冬自害事付諏方五郎事
高播磨守は師直が猶子也しを、将軍の三男左馬頭殿の執事になして、鎌倉へ下りしかば、上杉民部大輔と相共に東国の管領にて、勢八箇国に振へり。西国こそ加様に師直を背く者多く共、東国はよも子細非じ、事の真に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉へ下て師冬と一にならんと、執事兄弟潜に被評定ける処に、二十五日の夜半許に、甲斐国より時衆一人来て、忍やかに、「去年の十二月に、上杉民部大輔が養子に、左衛門蔵人、父が代官にて上野の守護にて候しが、謀叛を起て鎌倉殿方を仕る由聞へしかば、父民部大輔是を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則左衛門蔵人と同心して、武蔵国へ打越へ、坂東の八平氏武蔵の七党を付順ふ。播州師冬是を被聞候て、八箇国の勢を被催に、更に一騎も不馳寄。角ては叶まじ。さらば左馬頭殿を先立進せて上杉を退治せんとて、僅に五百騎を卒して、上野へ発向候し路次にて、さりとも弐ろ非じと憑切たる兵共心変りして、左馬頭殿を奪奉る間、左馬頭殿御後見三戸七郎は、其夜同士打せられて半死半生に候しが、行方を不知成候ぬ。是より上杉には弥勢加り、播州師冬には付順ふ者候はざりし間、一歩も落て此方の様をも聞ばやとて、甲斐国へ落て、州沢城被篭候処に、諏方下宮祝部六千余騎にて打寄、三日三夜の手負討死其数を不知。敵皆大手へ向ふにより、城中勢大略大手にをり下て、防戦ふ隙を得て、山の案内者後へ廻て、かさより落し懸る間、八代の某一足も不引討死仕る。城已に落んとし候時、御烏帽子々に候し諏方五郎、初は祝部に属して城を責候しが、城の弱りたるをみて、「抑吾執事の烏帽子々にて、父子の契約を致しながら、世挙て背けばとて、不義の振舞をば如何が可致。曾参は復車於勝母之郷、孔子は忍渇於盜泉之水といへり。君子は其於不為処名をだにも恐る。況乎義の違ふ処に於乎。」とて、祝部に最後の暇乞て城中へ入り、却て寄手を防ぐ事、身命を不惜。去程に城の後ろより破れて、敵四方より追しかば、諏方五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切て臥給ふ。此外義を重じ名を惜む侍共六十四人、同時に皆自害して、名を九原上の苔に残し、尸を一戦場の土に曝さる。其後は東国・北国残りなく、高倉殿の御方へ成て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛佐殿に順付ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥守に属して既に須磨大蔵谷の辺まで寄たりと告たり。今は東国をこそ、さり共と憑たれば、師冬さへ討れにけり。さては何くへか落誰をか可憑とて、さしも勇し人々の気色、皆心細見へたりける。命は能難棄物也けり。執事兄弟、かくても若命や助かると、心も発らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳なし衣に提鞘さげて、降人に成て出ければ、見人毎に爪弾して、出家の功徳莫太なれば、後生の罪は免る共、今生の命は難助と、欺ぬ人は無りけり。

☆ 師冬が自害したことと、諏訪五郎のこと

高播磨守師冬は師直と親子の関係を結んでいますが、将軍の三男、左馬頭基氏の執事に任命されて鎌倉に下り、上杉民部大輔と共に東国の管領として、その勢力は東国八ヵ国に広がっていました。西国ではこのように師直に反感を持つ者が多いのですが、

東国においては滅多にそのようなことは考えられず、現在の状況が本当に打開出来そうにないなら、兵庫より舟に乗って鎌倉に下り、師冬と合流しようかと、執事兄弟がひそかに相談していたところ、観応二年(正平六年::1351年)二月二十五日の夜中頃に、甲斐国より時宗を信奉する者が一人来ると、

声をひそめて、「昨年(観応元年、正平五年::1350年)の十二月に、上杉民部大輔の養子である左衛門蔵人は、父が代官をしている上野国の守護ですが、謀反を起こして鎌倉殿(足利直義)に味方をすると聞き、父の民部大輔はこれを誅伐するため下向すると称して上野国に到着すると、

すぐに左衛門蔵人と協力し武蔵国に侵攻し、坂東の八平氏(平安時代中期に坂東に下向し、武家となった諸氏)と武蔵七党(平安、鎌倉、室町時代に勢力を持った武蔵国の同族的武士団)を従えました。播磨守師冬はこの情報を得ると、坂東八ヵ国に軍勢の招集をかけましたが、ただの一騎も駆けつけて来ませんでした。

これでは手の打ちようがないので、まず左馬頭基氏殿を先頭に立てて、上杉を征伐しようと考え、わずか五百騎を従えて上野国に発向しましたが、その途中でまさか二心など持つはずがないと信じ切っていた兵士らが裏切り、左馬頭殿を奪い取ったので、左馬頭殿の後見人である三戸七郎は、

その夜味方との同士打ちで半死半生となり、その後行方が分からなくなりました。これによって上杉はますます勢いを増し、反対に播州師冬には従う軍勢が無くなり、こうなれば一歩でも逃げ延び、将軍や京都の情報など集めようと甲斐国へと落ちて行き、須沢城に立て篭もりましたが、

諏訪下宮祝部(げぐうのはふり)が六千余騎にて攻め寄せてきて、三日三晩の戦いで討ち死にや負傷した兵士の数さえ分かりません。敵のほとんどが大手より攻めてきたので、城内の兵士らが皆大手の防戦のため山を下りて戦っている隙に、山の地形等に詳しい者どもが後方に回り込み、

山上から攻め込んで来たのです。その時、八代の某氏が一歩も引かず戦いましたが、結局討ち死にしました。城がもはや落ちようとした時、御烏帽子子(元服の時、烏帽子親から烏帽子をかぶせてもらい、烏帽子名をつけてもらった者)である諏訪五郎は、最初祝部に属して城を攻めていましたが、

城の守りが弱くなるにつれ、『そもそも私は執事師冬殿の烏帽子子であり、父子の約束をしながら一同皆で反旗をひるがえすという、不義不忠の行動をどうすれば良いのだ。曾参(そうしん、曾子::孔子の弟子)は複車於勝母之郷、

孔子は忍渇於盗泉之水(曾参は親孝行で知られていましたが、勝母の里と言う場所に来た時、母に勝つと言う名が許せなく、その地には立ち入らなかったし、孔子は喉が渇いても、決して盗泉と言う地名の水は飲まなかったと言う。つまり、自分の信念を貫くということ)と言うではないか。

君子たるものは罪のない地名さえ恐れるものだ。まして義に反することでは当然であろう』と言って、祝部に最後となる別れを告げて城内に入ると立場を変え、寄せ手の攻撃に命を惜しまず戦いました。やがて城の後方から防御線がほころび、敵が四方から攻め込んで来たので、

諏訪五郎と播州師冬は互いに手を交差させて腹を掻き切り、その場に倒れ臥したのです。この他にも忠義を重んじ名を惜しむ武士たち六十四人が同時に自害し、その名を墓地の苔に残して、その屍は戦場の土にさらすことになりました。

その後、東国や北国の武将らは全員、高倉殿(足利直義)の味方になりました。今や世の中はこのような状況にあるようです」と、涙を流して執事に話されたのでした。筑紫(九州)の九ヵ国は兵衛佐直冬殿に従属していると聞き、四国は細川陸奥守顕氏に属して、

すでに須磨大蔵谷近辺まで押し寄せていると言われています。今となっては東国だけを頼りにしていましたが、師冬までも討たれてしまいました。この状況の中、どこに落ちて行き、誰を頼っていけば良いのか、あれほど勇ましかった人々の様子は、皆不安げに見えました。

命はやはりなかなか捨てがたいものです。執事兄弟はこの状況にあっても、もしや命だけは助かるかと思い、心にもない出家をすると、師直入道道常、師泰入道道勝と名乗り、裳なし衣(腰につける衣を省略した短い衣)に僧侶の持つ小さな刀を提げ、降伏者の身分になって出て来たので、

見ていた人は皆が皆つまはじきをし、出家の功徳は大きいものなので、後生においては罪が許されるかもしれませんが、今生の命はとても助からないだろうと、非難をしない人はいませんでした。


○師直以下被誅事付仁義血気勇者事
同二十六日に、将軍已に御合体にて上洛し給へば、執事兄弟も、同遁世者に打紛て、無常の岐に策をうつ。折節春雨しめやかに降て、数万の敵此彼に控たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮の葉笠を打傾け、袖にて顔を引隠せ共、中々紛れぬ天が下、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何なる事かあらんずらんと危て少しもさがらず、馬を早めて打けるを、上杉・畠山の兵共、兼て儀したる事なれば、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控へて待ける者共、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔んと鷹角一揆七十余騎、会尺色代もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔られて、武庫川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔山を阻て、五十町許に成にけり。哀なる哉、盛衰刹那の間に替れる事、修羅帝釈の軍に負て、藕花の穴に身を隠し、天人の五衰の日に逢て、歓喜苑にさまよふ覧も角やと被思知たり。此人天下の執事にて有つる程は、何なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負て焼原を過ぎ、雷を戴て大江を渡が如恐れき。何況将軍と打双て、馬を進め給はんずる其中へ、誰か隔て先立人有べきに、名も知ぬ田舎武士、無云許人の若党共に押隔られ/\、馬ざくりの水を蹴懸られて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止時なく、泪や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川を打渡て、小堤の上を過ける時、三浦八郎左衛門が中間二人走寄て、「此なる遁世者の、顔を蔵すは何者ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著られたる蓮葉笠を引切て捨るに、ほうかぶりはづれて片顔の少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「哀敵や、所願の幸哉。」と悦て、長刀の柄を取延て、筒中を切て落さんと、右の肩崎より左の小脇まで、鋒さがりに切付られて、あつと云処を、重て二打うつ、打れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛で下り、頚を掻落して、長刀の鋒に貫て差上たり。越後入道は半町許隔たりて打けるが、是を見て馬を懸のけんとしけるを、迹に打ける吉江小四郎、鑓を以て胛骨より左の乳の下へ突徹す。突れて鑓に取付、懐に指たる打刀を抜んとしける処に、吉江が中間走寄、鐙の鼻を返して引落す。落れば首を掻切て、あぎとを喉へ貫、とつ付に著馳て行。高豊前五郎をば、小柴新左衛門是を討。高備前守をば、井野弥四郎組で落て首を取る。越後将監をば、長尾彦四郎先馬の諸膝切て、落る所を二太刀うつ。打れて少弱る時、押へて軈て首を切る。遠江次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組で差殺す。彦部七郎をば、小林掃部助後より太刀にて切けるに、太刀影に馬驚て深田の中へ落にけり。彦部引返て、「御方はなきか、一所に馳寄て、思々に討死せよ。」と呼りけるを、小林が中間三人走寄て、馬より倒に引落し踏へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇六郎左衛門是を打。山口新左衛門をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十余町前に打けるが、跡に軍有て執事の討れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀を抜て戦けるが、自害を半にしかけて、路の傍に伏たりけるを、阿佐美三郎左衛門、年来の知音なりけるが、人手に懸んよりはとて、泣々首を取てけり。

☆ 師直以下が誅殺されたことと、仁義と血気溢れる勇者のこと

観応二年(正平六年::1351年)二月二十六日、将軍尊氏が和解によって都に向かおうとし、執事兄弟も同様に世捨て人の姿に身を変え、この有為転変限りない世間に身を進めました。折から春の雨がしとしとと降り続き、数万の敵があちこちに控えている中を通り過ぎれば、

人に執事だと知られるかと思い、蓮の葉笠(?)を傾けて袖で顔を隠そうとしましたが、思うようにならないのがこの世の定めで、なんとも居心地が悪そうなのも可哀そうな話です。前を行く将軍から離れれば、道中何が起こるかも分からないので、馬に鞭を入れて歩みを早めようとしましたが、

上杉と畠山の兵士らは、前もって打ち合わせていたことなので、道路の両側で百騎、五十騎、三十騎などあちこちに控えていた武士らが、さてはこれが執事かと思い将軍と執事の距離を徐々にあけようと、鷹角一揆の七十余騎が何らの挨拶もなく馬の列に入り込んだりしている内に、思いがけなく距離が開き、

武庫川あたりを通る時には将軍と執事の距離は川を隔て山を挟んで、五十町(五キロ強)ほどになっていました。なんとも悲しい話ですが、人の栄枯盛衰などが一瞬のうちに入れ替わることなど、阿修羅王が帝釈天との戦いに敗れ、藕花の穴(ぐうげ::蓮の茎の穴)に身を隠した時、

天人の五衰の日(天人の臨終に現れるという五つの相)にめぐり合わせ、歓喜苑(帝釈天の宮殿にある庭園。その中に入る者は皆歓喜する)にさまよう姿もこのようだったと思い知ります。この人が天下の執事として幅を利かせていた時は、いかなる大名や由緒ある家系の者でも、彼の機嫌のよい顔を見れば、

高額(鍾::江戸以前の質量の単位)な俸禄や一万戸を治める土地を得たかのように喜び、少しでも不機嫌な様子を見ると、薪を背負って燃え盛る野原を通り過ぎるかのように、また雷鳴の中、大河を渡るように恐れたのでした。まして将軍と並んで馬を進めているその間には、

誰か先に立って列を守るべき人がいるはずなのに、名も知らぬ粗野乱暴な武士に仕える若武者らに、無理やり引き離されてしまい、その上馬の踏み後の水を蹴りかけられ、衣服は泥水にまみれてしまい、涙は止まることもなく袖を濡らすばかりです。(この段不明解)

執事兄弟が武庫川を渡り、狭い堤を通り過ぎている時、三浦八郎左衛門の中間二人が走り寄ってきて、「ここにいる出家姿で顔を隠しているのは何者だ、その笠を脱げ」と言って、執事がかぶっていた蓮葉笠を引きちぎって捨てたので頬かぶりが取れ、

顔が少し見えると三浦八郎左衛門は、「こりゃ敵ではないか、願ってもない幸運だ」と喜び、長刀の柄を伸ばして、胴体の中ほどを切り落とそうと、右の肩先から左の小脇まで切り下し、アッと言うところを続けて二度切りつけました。このため馬からドウっと落ちたので、

三浦は馬から飛び下り、首を掻き切って長刀の刃先に刺し貫き差し上げました。越後入道師泰は半町ばかり後方にいましたが、この様子を見て馬を後方に駆けさせようとしたところを、後ろを進んでいた吉江小四郎が、槍で肩甲骨から左の乳下に突き通しました。

突かれた槍に取りつき、懐に差した打刀(うちがたな::日本刀の一種。主に徒歩での戦闘に用いる)を抜こうとしたところを吉江の中間が走り寄り、鐙(あぶみ::乗馬の際足を置く所)の端をひっくり返すようにして引き落としました。落ちたところで首を掻き切り、顎から喉にかけて、

とつ付(刃物の場所だと思うが不明)に刺して駆けて行きました。また高豊前五郎は小柴新左衛門が討ち取りました。高備前守は井野弥四郎が組み付き、馬から落として首を取りました。また越後将監については、長尾彦四郎が先に馬の両膝を切り、落ちたところを二太刀切りつけ、

弱ったところを押さえ込みすぐに首を切りました。また遠江次郎は小田左衛門五郎が切落としました。そのほか山口入道は小林又次郎が組み付いて刺殺しました。彦部七郎は小林掃部助が後ろから太刀で切りつけたところ、太刀の影に馬が驚き、そのはずみで深田の中に落ちました。

彦部がすぐに引き返し、「味方は居らぬか、此処に駆け寄ってきて思い思いに命を懸けて戦え」と呼ばわったので、小林の中間が三人走り寄ってくると、馬から逆さに引き落とし、踏みつけて首を切ると主人の手に渡しました。梶原孫六は佐々宇六郎左衛門が討ち取りました。

山口新左衛門は高山又次郎が切り落としました。梶原孫七は十余町前方を進んでいましたが、後方で戦闘があり、執事が討たれたかも知れぬと人が話すのを聞き、引き返して打刀を抜き放ち戦いましたが、自害をする途中、路傍に伏せているのを、

長年の知己である阿佐美三郎左衛門が人手にかかるよりはと思って、泣く泣く首を切りました。


鹿目平次左衛門は、山口が討るゝを見て、身の上とや思けん、跡なる長尾三郎左衛門に抜て懸りけるを、長尾少も不騒、「御事の身の上にては候はぬ者を、僻事し出して、命失はせ給ふな。」と云れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行けるを、長尾中間にきつと目くはせしたれば、中間二人鹿目が馬につひ傍て、「御馬の沓切て捨候はん。」とて、抜たる刀を取直し、肘のかゝりを二刀刺て、馬より取て引落し、主に首をばかゝせけり。河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負たりける間、馬には乗得ずして、塵取にかゝれて、遥の迹に来けるが、執事こそ已に討れさせ給つれと、人の云を聞て、とある辻堂の有けるに、輿を舁居させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西左衛門四郎是を生虜て、高手小手に禁て、其日の暮をぞ相待ける。此人は二条前関白太臣の御妹、無止事御腹に生れたりしかば、貌容人に勝れ心様優にやさしかりき。されば将軍も御覚へ異于他、世人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其子を悲むは人の父たる習なり。況乎最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終たる果報ぞや。年未十五に不満、荒き武士に生虜て、暮を待間の露の命、消ん事こそ哀なれ。夜に入ければ、誡たる縄をときゆるして已に切んとしけるが、此人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速に髻を切て僧か念仏衆かに成せ給て、一期心安く暮らさせ給へ。」と申ければ、先其返事をばせで、「執事は何と成せ給て候とか聞へ候。」と問ければ、西左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也。」と答ふ。「さては誰が為にか暫の命をも惜み候べき。死手の山三途大河とかやをも、共に渡らばやと存候へば、只急ぎ首を被召候へ。」と、死を請て敷皮の上に居直れば、切手泪を流して、暫しは目をも不持上、後ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向念仏十遍許唱て、遂に首を打落す。

鹿目平次左衛門は山口が討たれるのを見て、これも運命なのかと思い、後ろにいる長尾三郎左衛門に向かって太刀を抜き放ち懸かっていくと、長尾は少しも騒がず、「貴殿には何ら関係もないことに、つまらぬ間違いを起こして命を落とされないように」と言われ、

恥ずかしもなく太刀を差し直し、何か話しながら行くのを、長尾がキッと目くばせすると、中間の二人が鹿目の馬にサッと寄り添い、「お馬の馬沓(馬のひずめを護るための藁沓)を切り捨てましょう」と言って、抜いた刀を持ち直すと肘の下あたりを二度刺すと、馬から引き落とし、主人に首を切らせました。

河津左衛門は小清水の合戦で負傷したため、馬に乗ることが出来ず、高欄だけで屋形のついていない塵取り輿に乗って、はるか後方を進んでいましたが、執事殿はもはや討たれたらしいと、人が話すのを聞き、近くにあった辻堂に輿を据え置かせ、腹を掻き切って死なれました。

執事の子息武蔵五郎師夏は西左衛門四郎が生け捕りにし、二の腕から手首までがんじがらめに縛りあげられて、その日の暮れるのを待ちました。この人は師直の略奪に会った二条前関白大臣道平の妹御の腹に生まれたので、容貌は人並み以上に優れ、心情においても優しい人でした。

そこで将軍も他の人とは違って大変お気に入りだったので、世間の人々からも大変もてはやされました。才能のあるなしを問わず子供を慈しみ可愛がるのは、人間であれば父として当然なことです。いわんや最愛の子供であれば、塵さえ足で踏むことのないよう、

また激しい風に当てないようにと、世話に励み大切に養い育ててきたのに、知らぬ間にこの世と別れなければならない報いを受けるとは。年齢も未だ十五歳にもならないのに、荒くれた武士に生け捕られ、夕暮れまでのはかない露の命、消え去るかと思えば哀れなことです。

夜になって縛っていた縄を解き、まさに斬刑に処そうとした時、この人の心情を察して、「もし命が惜しいようだったら、今夜にでも早速髷を落とし、僧侶か念仏衆(浄土宗、浄土真宗、時宗の信徒)にでもなられて、一生を心やすらかに暮らして下さい」と話されたところ、

それに対する返事はせずに、「執事には何かあったと聞いておられませんか」と問われると、西左衛門四郎より、「執事は早くに討たれられました」と、返事がありました。師夏は、「それでは誰のために、この短い命を惜しめば良いのか。死出の山とか、三途の大河とか言われるものを、

一緒に渡ろうと考えているので、ただただ急いで首を刎ねてください」と、打ち首を要求して敷革の上に座り直されたので、処刑執行人は涙を流し、しばらくは目も上げることが出来ず後ろに立ったまま泣いていました。しかしいつまでもこのままと言うわけにもいかず、

西に向かって念仏を十遍ばかり唱えられてから、ついに首を打ち落としました。


小清水の合戦の後、執事方の兵共十方に分散して、残る人なしと云ながら、今朝松岡の城を打出るまでは、まさしく六七百騎もありと見しに、此人々の討るゝを見て何ちへか逃隠れけん、今討るゝ処十四人の外は、其中間下部に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来皆度々の合戦に、名を揚力を逞しくしたる者共なり。縦運命尽なば始終こそ不叶共、心を同して戦はゞ、などか分々の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代に皆討れつる事、天の責とは知ながら、うたてかりける不覚哉。夫兵は仁義の勇者、血気の勇者とて二つあり。血気の勇者と申は、合戦に臨毎に勇進んで臂を張り強きを破り堅きを砕く事、如鬼忿神の如く速かなり。然共此人若敵の為に以利含め、御方の勢を失ふ日は、逋るに便あれば、或は降下に成て恥を忘れ、或は心も発らぬ世を背く。如此なるは則是血気の勇者也。仁義の勇者と申は必も人と先を争い、敵を見て勇むに高声多言にして勢を振ひ臂を張ざれ共、一度約をなして憑れぬる後は、弐を不存ぜ心不変して臨大節志を奪れず、傾所に命を軽ず。如此なるは則仁義の勇者なり。今の世聖人去て久く、梟悪に染ること多ければ、仁義の勇者は少し。血気の勇者は是多し。されば異朝には漢楚七十度の戦、日本には源平三箇年の軍に、勝負互に易しか共、誰か二度と降下に出たる人あるべき。今元弘以後君と臣との争に、世の変ずる事僅に両度に不過、天下の人五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故に天下の争ひ止時無して、合戦雌雄未決。是を以て、今師直・師泰が兵共の有様を見るに、日来の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此時に、千騎二千騎も討死して、後代の名を挙ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王の聖言、げにもと被思知たり。

小清水の合戦の後、執事の率いる兵士らは四方八方に分散してしまい、残っている兵士らはいないと言われていましたが、今朝松岡の城を出る時には、確か六、七百騎もいるように見えたのですが、ここで人々が討たれて行くのを見て、どこかに逃げたり隠れたりしたのか、

今ここで討たれた十四人以外、その中間や召使に至るまで一人もいなくなりました。そしてこの十四人と言う人達は皆、今まで度々の合戦においてその名を挙げ、勇者ぶりを発揮して来た人々です。たとえば運命が尽きたなら最後までは無理としても、心を一つに合わせて戦えば、

どうしてこのように、ばらばらの敵に殺されることなどなかったはずなのに、一人として敵に太刀で打ち付けることなく、切られては馬から落とされ、押さえ付けられては首を切られ、なすことなく無残に全員が討たれるとは、天罰とは言いながら、あまりにも馬鹿げた不覚を取ったものです。

よく言われるように兵士には仁義を重んじる勇者と、血気にはやるだけの勇者の二通りがあります。血気の勇者と言うのは、合戦に臨むごとに勇をふるって突撃して強兵を打ち負かしたり、堅陣をも打ち抜くことなど、まるで鬼のようで、また怒れる神の仕業のように瞬時に行います。

しかしながらこの兵士らは、もし敵が利をもって丸め込んだり、味方の軍勢がその勢いを失った時、逃亡の機会が得られれば、ある者は恥を忘れて降伏を申し出たり、またある者は信仰心もないのに出家をしたりします。このような者を血気の勇者と言います。

また仁義の勇者と言うのは、必ずしも他の兵士らと功名を争ったり、敵を見て勇ましく声高に多くをしゃべったり、またカラ元気を出して虚勢を張ったりはしませんが、ひとたび約束をして信頼関係を結んだ後は、決して二心を持つこともなければ、心変わりなどすることもなく、

人として守るべき節操を守り通し、決して心が揺らぐことなく、不利な状況になっても命をかけて戦います。すなわち、このような兵士を仁義の勇者と言います。現在の世は聖人と言われる、徳の高い人がいなくなってから長い年月が過ぎ、人の道に背いても平気な人が多くなってきたので、

仁義の勇者と言われる兵士も少なくなりました。そして反対に血気の勇者が多くなっているのです。例えば異朝中国において、漢国と楚国の七十回にわたる合戦や、日本においては源平の三ヵ年の合戦で、勝負は簡単につかなかってのですが、一体誰が二度にわたって降伏したと言うのでしょうか。

今、元弘(1331-1333年)以来、天皇とその臣下との抗争において、世の中に変化が起こるたび二回どころか、五度や六度も敵に属したり、味方に戻ったりと、自分の考えをコロコロと変えない人は少ないのです。そのため天下の騒乱は何時終わるとも分からず、

合戦は行われてもその決着が未だにつきません。このような事情を考慮に入れて、今回の師直や師泰の兵士らの行動を考えると、長年にわたって培ってきた名誉や、高い評価を得た名前も、所詮血気を誇示しただけの者でした。それでなければ、どうしてこの時に臨んで、

千騎や二千騎ほどが討ち死にを遂げ、後世にその名を挙げなかったのでしょうか。仁者必有勇、勇者必不仁(人格者には勇があるが、勇ある人が人格者とは限らない)と孔子(文宣王::唐の玄宗皇帝が孔子におくった諡号)が言った言葉は、全くその通りだと思い知らされました。      (終り)

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