30 太平記 巻第三十 (その一)


○将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
志合則胡越も不隔地。況や同く父母の出懐抱浮沈を共にし、一日も不離咫尺、連枝兄弟の御中也。一旦師直・師泰等が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿と御合体有ければ、将軍は播磨より上洛し、宰相中将義詮は丹波石龕より上洛し、錦小路殿は八幡より入洛し給ふ。三人軈会合し給て、一献の礼有けれ共、此間の確執流石片腹いたき心地して、互の言ば少く無興気にてぞ被帰ける。高倉殿は元来仁者の行を借て、世の譏を憚る人也ければ、いつしか軈天下の政を執て、威を可振其機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来に勝れて、其被官の族、触事に気色は不増云事なし。車馬門前に立列て出入側身を、賓客堂上に群集して、揖譲の礼を慎めり。如此目出度事のみある中に、高倉殿最愛の一子今年四に成給ひてけるが、今月二十六日俄に失給ひければ、母儀を始奉上下万人泣悲む事限なし。さても西国東国の合戦、符を合せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上ければ、等持寺の長老旨別源、葬礼を取営て下火の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云句の有けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。此二十余年執事の被官に身を寄て、恩顧に誇る人幾千万ぞ。昨日まで烏帽子の折様、衣紋のため様をまねて、「此こそ執事の内人よ。」とて、世に重んぜられん事を求しに、今日はいつしか引替て貌を窶し面を側めて、「すはや御敵方の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼す。用則鼠も為虎、不用則虎も為鼠と云置し、東方朔が虎鼠の論、誠に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠に繊芥の隔もなく、和睦にて所存もなく坐けれ。其門葉に有て、附鳳の勢ひを貪て、攀竜の望を期する族は、人の時を得たるを見ては猜み、己が威を失へるを顧ては、憤を不含云事なし。されば石塔・上杉・桃井は、様々の讒を構て、将軍に付順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木・細川・土岐・佐々木は、種々の謀を廻して、錦小路殿に、又人もなげに振舞ふ者共を滅さばやとぞ巧ける。天魔波旬は斯る所を伺ふ者なれば、如何なる天狗共の態にてか有けん、夜にだに入ければ、何くより馳寄共知ぬ兵共、五百騎三百騎、鹿の谷・北白河・阿弥陀け峯・紫野辺に集て、勢ぞろへをする事度々に及ぶ。是を聞て将軍方の人は、「あはや高倉殿より寄らるゝは。」とて肝を冷し、高倉殿方の人は、「いかさま将軍より討手を向らるゝは。」とて用心を致す。禍利欲より起て、息ことを得ざれば、終に己が分国へ下て、本意を達せんとや思けん、仁木左京大夫頼章は病と称して有馬の湯へ下る。舎弟の右馬権助義長は伊勢へ下る。細川刑部大輔頼春は讃岐へ下る。佐々木佐渡判官入道々誉は近江へ下る。赤松筑前守貞範・甥の弥次郎師範・舎弟信濃五郎範直は、播磨へ逃下る。土岐刑部少輔頼康は、憚る気色もなく白書に都を立て、三百余騎混ら合戦用意して、美濃国へぞ下りける。赤松律師則祐は、初より上洛せで赤松に居たりけるが、吉野殿より、故兵部卿親王の若宮を大将に申下し進せて、西国の成敗を司て、近国の勢を集て、吉野・戸津河・和田・楠と牒し合せ、已に都へ攻上ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息時非じと、世の人安き心も無りけり。

☆ 将軍兄弟が和解したことと、天狗が勢揃いしたこと

志が一致さえすれば、遠く離れた胡国と越国と言えども、遠隔地と言うものでもありません。まして同じ父母から産まれ、ふところ深く抱かれ人生の浮沈を共有して、一日とて少しでも離れることもなかった御兄弟です。一度は師直、師泰らの不忠義を罰することになっても、

骨肉の関係を捨てる気持ちなど起こるはずもなく、将軍尊氏と高倉殿直義とが和解されたので、将軍は播磨より上洛し、宰相中将足利義詮は丹波の岩屋石龕寺から上洛し、錦小路直義殿は八幡から入洛されました。三人はすぐに会合を持ち、酒席にて杯は交わされたのですが、

やはり今までの経緯が経緯だけに、打ち解ける気分にはならず、お互い言葉少なく興ざめしたまま帰られました。高倉殿直義は元来情深く、人から非難を受けることを嫌う人なので、いつかは天下の政権を握って、世の中や人を支配する機会を伺うようなまねはしませんが、

世間の人々が尊重し尊敬する度合いは日ごとに増して行き、彼に仕える人達の一族は、何か事あるごとに世間での評価が高くなっていきました。また彼の屋敷の門前には車馬が列をなし、屋敷への出入りも畏れ多く、賓客は室内にあふれ、最高の礼式にてもてなしました。

このように目出度いことづくめの中、高倉殿最愛の一子如意丸、今年四歳になられたのですが、観応二年(正平六年::1351年)二月二十六日に八幡の陣中にて急死され、母上をはじめに世間の人達は身分に関係なく、万人が涙を流して悲しみました。ところで、西国と東国で起こった合戦は、

まるで符節を合わせたように同時に発生し、師直、師泰兄弟と子息の師冬の首が京都に届いたので、等持寺の長老旨別源(しべつげん)が葬儀を営み、下火(あこ::火葬の時導師が遺体を焼く燃料に火をつけること)の儀式を行われましたが、
      昨夜春園風雨暴、和枝吹落棣棠花(ていとうか::山吹)

と言う句があるのを聞き、皆は感に堪えず涙を流されました。この二十余年にわたって執事に仕えたり、その恩恵を蒙った人は幾千万になるのでしょうか。昨日までは烏帽子の折り形や衣服の仕立て方を真似して、「この人こそ執事の身内だと」と言われて、世の中で重きをなすことを要求してきたのに、

それどころか、今日は顔を目立たないように隠し、視線もそらして、「あの人は敵の身内だ」と、人に見つからないように恐れる有様です。この状況には、好機に恵まれると鼠も虎になり、不運が続けば虎でさえ鼠になると、言い残した東方朔(とうほうさく::前漢時代の政治家)の虎鼠の論がきっちりと当てはまる言葉です。

将軍兄弟は一寸たりと気持ちに隔たりはなく、和解に何らこだわりも感じておられません。将軍兄弟の一門につながっている人たちは、その力を利用して自分の出世を願い、他人が好機を得れば妬み、自分が不運に落ちれば腹を立て不満を口にします。そう言う訳で、石堂、上杉や桃井らは、様々な口実を設けて、

将軍尊氏につき従う人々の征伐を考え、また仁木、細川そして土岐や佐々木らは、種々の謀略を使って、錦小路直義殿に属する人や、傍若無人な行いをする者どもを滅ぼそうと、策を講じることに余念がありません。天魔波旬(てんまはじゅん::天上にいる悪魔)はこのような状況において、その隙をねらっているので、

一体どのような天狗どもの仕業なのか分かりませんが、夜になると何処からともなく駆け寄せてくる兵士ら、五百騎、三百騎らが鹿の谷、北白川、阿弥陀ヶ峯また紫野の周辺に集まり、軍としての編成を行うことなど度々ありました。この話を聞いて、将軍側の人は、「えらいことだ、

高倉殿が攻め寄せて来るのでは」と言って、肝を冷やしたり、また高倉殿側では、「もしかしたら、将軍が討手を向けるのでは」と言って、用心に努めます。災難と言うものは、利欲から起こり止むこともないので、最後には皆自分の領国に下って、本来の考えを実行しようと思ったのか、

仁木左京大夫頼章は病気を理由に有馬温泉に下りました。舎弟の右馬権助義長は伊勢に下りました。細川刑部大輔頼春は讃岐に下り、佐々木佐渡判官入道道誉は近江に下りました。また赤松筑前守貞範、甥の弥次郎師範、舎弟の信濃五郎範直らは播磨に逃げ帰りました。

土岐刑部少輔頼康は白昼堂々と都を出発し、三百余騎に合戦の準備を整えさせて、美濃国に下って行きました。また赤松律師則祐は初めから上洛しないで赤松に居たのですが、吉野殿(後村上天皇)から故兵部卿護良親王の若宮を大将に迎えて、西国の支配を受け持って近国の軍勢を招集し、

また吉野、戸津川、和田、楠木らの軍勢とも連絡を密にして、今や都に攻め上ろうとしているらしいと噂されているので、再び天下は三つに分かれて、騒乱は一体何時止むのかと、世の中の人々は心の休む間もありません。


○高倉殿京都退去事付殷紂王事
同七月晦日、石塔入道・桃井右馬権頭直常二人、高倉殿へ参て申けるは、「仁木・細河・土岐・佐々木、皆己が国々へ逃下て、謀叛を起し候なる。是も何様将軍の御意を請候歟、宰相中将殿の御教書を以て、勢を催すかにてぞ候らん。又赤松律師が大塔若宮を申下て、宮方を仕ると聞へ候も、実は寄事於宮方に、勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存候らん。勢も少く御用心も無沙汰にて都に御坐候はん事如何とこそ存候へ。只今夜々紛れに、篠峯越に北国の方へ御下候て、木目・荒血の中山を差塞がれ候はゞ、越前に修理大夫高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏方下宮祝部、皆無弐の御方にて候へば、此国々へは何なる敵か足をも蹈入候べき。甲斐国と越中とは我等が已に分国として、相交る敵候はねば、旁以安かるべきにて候。先北国へ御下候て、東国・西国へ御教書を成下され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀もなく申ければ、禅門少しの思安もなく、「さらば軈て下るべし。」とて、取物も不取敢、御前に有逢たる人々許を召具して、七月晦日の夜半許に、篠の峯越に落給。騒がしかりし有様也。是を聞て、御内の者は不及申、外様の大名、国々の守護、四十八箇所の篝三百余人、在京人、畿内・近国・四国・九州より、此間上り集りたる軍勢共、我も我もと跡を追て落行ける程に、今は公家被官の者より外、京中に人あり共更に不見けり。夜明ければ、宰相中将殿将軍の御屋形へ被参て、「今夜京中のひしめき、非直事覚て候。落行ける兵共大勢にて候なれば、若立帰て寄る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些も不騒給、「運は天にあり、何の用心かすべき。」とて、褒貶の探冊取出し、心閑に詠吟、打嘯てぞ坐ける。高倉殿已に越前の敦賀津に坐して、著到を著られけるに、初は一万三千余騎有けるが、勢日々に加て六万余騎と注せり。此時若此大勢を率して京都へ寄たらましかば、将軍も宰相中将殿も、戦ふまでも御坐まさじを、そゞろなる長僉議、道も立ぬなま才学に時移て、数日を徒に過にけり。抑是は誰が依意見、高倉殿は加様に兄弟叔父甥の間、合戦をしながらさすが無道を誅して、世を鎮めんとする所を計ひ給ふと尋れば、禅律の奉行にて被召仕ける南家の儒者、藤原少納言有範が、より/\申ける儀を用ひ給ひける故とぞ承る。「さる程に昔殷の帝武乙と申しゝ王の位に即て、悪を好む事頻也。我天子として一天四海を掌に握るといへ共、猶日月の明暗を心に不任、雨風の暴く劇しき事を止得ぬこそ安からねとて、何にもして天を亡さばやとぞ被巧ける。先木を以て人を作て、是を天神と名けて帝自是と博奕をなす。神真の神ならず、人代はて賽を打ち石を仕ふ博奕なれば、帝などか勝給はざらん。勝給へば、天負たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪して獄門に是を曝しけり。又革を以人を作て血を入て、是を高き木の梢に懸け、天を射ると号して射るに、血出て地に洒く事をびたゝし。加様の悪行身に余りければ、帝武乙河渭に猟せし時、俄に雷落懸りて御身を分々に引裂てぞ捨たりける。其後御孫の小子帝位に即給ふ。是を殷の紂王とぞ申ける。紂王長り給て後、智は諌を拒、是非の端を餝るに足れり。勇は人に過て、手づから猛獣を挌に難しとせず。人臣に矜るに能を以てし、天下にたかぶるに声を以てせしかば、人皆己が下より出たりとて、諌諍の臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己と云美人を愛して、万事只是が申侭に付給ひしかば、罪無して死を賜ふ者多く只積悪のみあり。

☆ 高倉殿直義が京都を去ったことと、殷王朝の紂王のこと

同年(感応二年::1351年)七月晦日に、石堂入道と桃井右馬権頭直常の二人が高倉殿のもとに来て、「仁木、細川、土岐や佐々木らは、皆自分の国に逃げ帰り、謀反を起こそうとしています。これらのことは皆、尊氏将軍の意向を受けてのことか、宰相中将義詮殿の指令に基づいて、

軍勢の招集を行おうとしているのでしょう。また赤松律師則祐は大塔宮護良殿の若宮を大将に立て、宮方にお仕えするのではと噂されているのも、実のところこれを理由に宮方の軍勢を招集してから、宰相中将殿のもとに馳せ参じようと考えているのでしょう。それに対して我が陣営は軍勢も少なく、

防御も不十分なまま、都に留まることは如何なものでしょうか。この際、今夜、闇に紛れて篠峯越(大原と仰木を結ぶ街道越え)を通って北国に下られ、木の芽、愛発の山越えの道を閉鎖すれば、越前には修理大夫斯波高経が、加賀には富樫介、能登には吉見、また信濃には諏訪下宮祝部(はふり)など皆、

疑いのない味方でございますから、これらの国々には如何なる敵であろうと、足を踏み入れることなど出来ません。また甲斐国と越中の国はすでに我々が領国としており、敵対するはずもありませんから、何も心配することなどございません。まず北国に下って、東国や西国に御教書(身分の高い人が発する古文書の形式)を下し檄を飛ばされたなら、

誰もそれに従わないはずはありません」と、

断定的な言い方をされましたので、禅門直義は何も思案することなく、「それでは早速下ることにしよう」と言って、取るものもとりあえず、その場に居合わせた人々だけを率いて、七月晦日の夜半頃に、篠の峯越えを経由して落ちて行かれました。なんとも騒がしい状況です。この事態を知ると、

一族の人達は勿論のこと、外様の大名や国々の守護、四十八ヶ所の篝に携わる三百余人、在京の武将ら、また畿内、近国、四国、九州などから上洛していた軍勢らは、我も我もと直義の後を追って落ちて行ったので、今や公家、また公家にお仕えしている人達以外、洛内に人がいるとはとても思えません。

その夜が明けると、宰相中将義詮殿は尊氏将軍の屋敷に参り、「昨夜からの京中での大騒ぎ、ただ事でないと思われます。落ちて行った兵士ら大勢ですから、もしかして引き返して、攻め寄せて来ることがあるかも知れません」と申し上げたのですが、将軍は少しも騒ぐことなく、「運はすべて天にある。

何を用心せよと言うのか」と言って、褒貶の短冊(?)を取り出し、心静かに詩を吟じられていました。その頃、高倉殿はすでに越前の敦賀の港に到着され、軍勢の到着を記帳してみると、はじめは一万三千余騎でしたが、日々に軍勢は膨らみ、六万余騎と記するまでになりました。

もしこの時、この大軍を率いて京都に攻め寄せたなら、将軍も宰相中将殿も、とても戦う気など起こさなかったでしょうに、 意味の無い長会議や、道理もわきまえない中途半端な学識を展開して時間を費やし、数日を無駄に過ごしました。そもそもこのような事態は誰の意見によったのでしょうか。

高倉殿は何故兄弟や叔父甥の中で、合戦をしてまでも悪行を行う者を征伐し、世間を安定したものにしようとしたのか尋ねたところ、禅宗と律宗寺院関係の訴訟等を取り扱った機関に仕え、南家(藤原氏の一流)の儒者(儒学の研究者)である、藤原少納言有範が何かにつけ話されていた持論に従ったからだと聞いています。

藤原有範は直義に向かって、「ところで、昔殷の国の帝王武乙(ぶいつ::殷朝第二十七代王)は王に即位してから、悪事を重ねることが非常に多くなりました。自分は天子として、全世界を手の内に握っているけれども、なお太陽と月の明暗は思うに任せないことや、荒れ狂った風雨を静めることが出来ないことを不満に思い、

どんな手段を取ってでも、天を滅ぼそうと企みました。そこでまず木で人形を作り、これに天神と名をつけ、帝みずからこの天神と賭け事をしました。天神と言っても本当の神ではなく、人が代わりに賽を投げ石を扱う勝負(?)ですから、帝が負けるはずなどありません。勝てば天が負けたと言って、

木で作った神の人形の手足を切り頭も刎ねて、叩きのめし踏みにじって獄門に首をさらしました。また革で人形を作り、血を中に入れて高い木の梢にこれを掛け、天を射るのだと声を出して射ると、血が流れ出て地上に激しく降り注ぎました。このような悪行を懲りもせず繰り返していたので、

帝武乙は黄河とその支流、渭水のあたりに狩りに出た時、突然雷が落ち、体をずたずたに引き裂かれて命を落としたのです。その後、孫の小子が帝位に就かれました。この人を殷王朝の紂王と言います。紂王が長じてからと言うものは、その知的能力は臣の諫言を拒絶し、その言語力は事の良し悪しを都合よく言いくるめます。

また勇猛な気質は他人を凌駕し、自ら猛獣につかみかかったりすることも平気でした。臣下に対しては自分の能力を自負し、天下に対しては渦巻く名声に驕って、人は皆、自分より劣っているのだから、自分を諫めるような臣下を置こうともしないばかりでなく、先代の王が作った法令に従おうともしませんでした。

その上、妲己(だっき)と言う美女を愛し、何事も彼女の言うままにさせたので、無罪にかかわらず死刑に処された者も多く、ただただ悪行を積み重ねただけでした。


鉅鹿と云郷に、まはり三十里の倉を作りて、米穀を積余し、朝歌と云所に高さ二十丈の台を立て、銭貨を積満り。又沙丘に廻一千里の苑台を造て、酒を湛へ池とし、肉を懸て林とす。其中に若く清らかなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして、相逐て婚姻をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首の舟を浮て長時に酔をなし、肉の林には、北里の舞、新婬の楽を奏して不退の楽を尽す。天上の婬楽快楽も、是には及ばじとぞ見へたりける。或時后妲己、南庭の花の夕ばえを詠て寂寞として立給ふ。紂王見に不耐して、「何事か御意に叶ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀炮格の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣ければ、紂王、「安き程の事也。」とて、軈て南庭に炮格を建て、后の見物にぞ成れける。夫炮格の法と申は、五丈の銅の柱を二本東西に立て、上に鉄の縄を張て、下炭火ををき、鉄湯炉壇の如くにをこして、罪人の背に石を負せ、官人戈を取て罪人を柱の上に責上せ、鉄の縄を渡る時、罪人気力に疲て炉壇の中に落入、灰燼と成て焦れ死ぬ。焼熱大焼熱の苦患を移せる形なれば炮格の法とは名けたり。后是を見給て、無類事に興じ給ひければ、野人村老日毎に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此時周の文王未西伯にて坐けるが、密に是を見て人の悲み世の謗、天下の乱と成ぬと歎給ひけるを、崇侯虎と云ける者聞て殷紂王にぞ告たりける。紂王大に忿て、則西伯を囚へて■里の獄舎に押篭奉る。西伯が臣に■夭と云ける人、沙金三千両・大宛馬百疋・嬋妍幽艶なる女百人を汰へて、紂王に奉て、西伯の囚を乞受ければ、元来色に婬し宝を好む事、後の禍をも不顧、此一を以ても西伯を免すに足ぬべし、況哉其多をやと、心飽まで悦て、則西伯をぞ免しける。西伯故郷に帰て、我命の活たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如哀に悲く覚しければ、洛西の地三百里を、紂王の后に献じて、炮格の刑を被止事をぞ被請ける。后も同く欲に染む心深くをはしければ、則洛西の地に替て、炮格の刑を止らる。剰感悦猶是には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞を賜て、天下の権を執武を収ける官を授給ひければ、只龍の水を得て雲上に挙るに不異。其後西伯渭浜の陽に田せんとし給ひけるに、史編と云ける人占て申けるは、「今日の獲物は非熊非羆、天君に師を可与ふ。」とぞ占ける。西伯大に悦て潔斉し給ふ事七日、渭水の陽に出て見給ふに、太公望が半簔の烟雨水冷して、釣を垂るゝ事人に替れるあり。是則史編が占ふ所也とて、車の右に乗せて帰給ふ。則武成王と仰て、文王是を師とし仕ふる事不疎、逐に太公望が謀に依て西伯徳を行ひしかば、其子武王の世に当て、天下の人皆殷を背て周に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百余年を保ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公の淫乱、頗る殷紂王の無道に相似たり、君仁を行はせ給ひて、是を亡されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比し、我身をば太公望に准て、時節に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹、泰伯が有徳の甥、文王に譲し仁にも非ず。又周公の無道の兄、管叔を討せし義にも非ず。権道覇業、両ながら欠たる人とぞ見へたりける。

鉅鹿(きょろく::河北省)と言う村に周囲三十里の倉を建造し、米穀を積み上げ、朝歌(河南省)と言う所に高さ二十丈の建物を建て、銭貨で満たしました。また沙丘(殷王朝の離宮の一つか?)には周囲一千里の苑台(縁台か?)を造り、酒を満たして池にし、肉を掛けて林のようにしました。

その中に若く清らかな男性三百人と、見目麗しい女性三百人を裸にして、お互いに求め合わせました。酒を満たした池には、竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ::船首にそれぞれ竜と鷁’想像上の水鳥’の首を彫った二隻一対の船)の船を浮かべて、長時間にわたって酒宴を開き、肉の林においては、「北里の舞」とか

「新淫の楽」など淫らな楽曲を奏し、止むことのない快楽を追い求めました。天上においての色欲にまみれたり、本能のままの快楽も、これには及ばないだろうと思えました。ある時、妃の妲己が南庭に咲く花が夕日に輝くのを詠み、寂しくたたずんでいました。紂王は見るに耐えられず、

「何か気に入らないことがあるのか」と問われると、妲己は、「炮格(ほうかく)の法とか言うものを見たいと思っていますが、なかなか思うに任せないので悲しいのです」と話されたので、紂王は、「お安い御用だ」と言って、すぐに南庭に炮格の刑罰を行う施設を造り、妃に見物させました。

ところでこの炮格の法というものは、長さ五丈ある銅製の柱二本を東西に立て、上に鉄の縄を張ってその下には炭火を置いて、鉄の湯を沸かす炉のようにしています。そして罪人の背中に石を負わせて、処刑人が矛を持って罪人を柱の上に無理やり登らせ、鉄の縄を渡ろうとする時、

罪人は意識が薄れ燃え盛る炭火の中に落ちて、焼け死ぬことになります。八大地獄の焦熱大焦熱地獄の苦しみを現世に移した形になるので、炮格(火あぶり)の法と名づけられました。妃はこの様子をご覧になって、大変お喜びになったので、一般の村人や長老たちは毎日のように子供を殺されたり、

親を殺されたりして、泣き悲しむ声の休む間もありません。この時周国の文王はまだ西伯(国の西部を統括する諸侯)でしたが、ひそかにこの状況を見て、人々の悲しみや、世間の非難など天下の騒乱を呼ぶことになるのではと、嘆いていましたが、崇侯虎(しゅうこうこ::殷朝の諸侯)がこのことを聞き、

殷の紂王に密告しました。激怒した紂王は即刻西伯の身柄を拘束し、ゆう(羔の下が久)里にある獄舎に押し込みました。そのため西伯の臣下である、こう夭と言う人物が砂金三千両、大宛(たいえん::地名)で産する馬(駿馬で名高い)百頭、あでやかで妖艶な女性百人などを揃えて紂王に献上し、

西伯の解放を要求すると、元来色欲、物欲には目がないので、後々起こるかもしれない災禍など考えもせず、これらの内一つの献上でも西伯を許しても良い位なのに、これだけ多くの献上品に大いに気分を良くして、すぐに西伯を許しました。解放された西伯は故郷に帰り、我が命が無事だったことなどさして喜びもせず、

ただ炮格の罪を着せられ、無実の人々が毎日毎夜のように十人、二十人と焼き殺されることが、我が身に課せられる刑罰のように悲しく哀れに思い、洛西の土地、三百の村里を紂王の妃に献上し、炮格の刑を止めてもらえるよう頼みました。この妃も同じように欲深い人物ですから、

すぐに洛西の土地と引き換えに、炮格の刑を中止されました。そればかりか、喜びに耐えきれず西伯に弓矢斧鉞(ふえつ::斧とまさかり。大将軍の権威と刑罰の象徴)を下賜して、天下の政治と軍隊を掌握する官職を授けたので、まさしく龍が水を得て雲上に昇るのと変わりません。

後になって西伯が渭水と言う河の北方で狩りを実施した時、史編と言う人が占いをした結果、「今日の獲物は熊でなければ、ヒグマでもありません。天が君に師となるべき人を与えるでしょう」と、告げました。西伯は大いに喜び、心身を清め慎むこと七日の後、渭水の北部に出かけてみると、

太公望が蓑を身に着けて冷たい霧雨の中、釣り糸を垂れている姿が人を寄せ付けない風情に見えました。もしかしてこれが史編が占ったことかと思い、車の右に乗せて帰られました。やがてこの人物は武成王とあがめられ、文王は師として心から彼に仕えました。そして太公望の策に従って西伯は徳のある政治を行ったので、

その子、武王(周朝の創始者。文王の次子)の時代になって天下の人々は皆、殷王朝に反旗を翻して周に帰順したので、武王はついに天下を取り、八百余年の長きにわたって王朝を保つことになりました。中国古代にあった事情を考慮に入れて現在の世を見てみると、まさしく師直殿の淫乱行為は、

殷王朝の紂王が行った悪政と違うところはありません。殿が仁義にのっとった行動を起こし、師直を滅亡に導くこと何ら問題などありません」と禅門直義の行動を文王の行った徳政になぞらえ、自分自身は太公望に置き換え、現在の情勢を分析して話されたことを、信じられたのも馬鹿な話でした。

結果として直義禅門が取った行動は、泰伯(たいはく::古代中国の候国呉の始祖)が徳と智あわせ持つ甥の文王に、その位を譲ったというほどの器量もありませんし、また文王の子供、周公旦が悪逆非道な兄、管叔(かんしゅく)を誅罰させたという道義とも違います。つまり直義は目的を達成するための、手段の選択眼、また力ずくで天下を支配するだけの力、この二つとも持ち合わせていなかった人と思われます。


○直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事
同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏卿、高倉入道左兵衛督追討の宣旨を給て、近江国に下著して鏡宿に陣を取る。都を被立時までは其勢纔に三百騎にも不足けるが、佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱は、当国勢三千余騎を卒して馳参る。仁木右馬権頭義長は伊賀・伊勢の兵四千余騎を率して馳参る。土岐刑部少輔頼康は、美濃国の勢二千余騎を率して馳参りける間、其勢無程一万余騎に及ぶ。今は何なる大敵に戦ふ共、勢の不足とは不見けり。去程に高倉入道左兵衛督、石塔・畠山・桃井三人を大将として、各二万余騎の勢を差副、同九月七日近江国へ打出、八相山に陣を取る。両陣堅く守て其戦を不決。其日の未の剋に、都には鴨の糾の神殿鳴動する事良久して、流鏑矢二筋天を鳴響し、艮の方を差て去ぬとぞ奏聞しける。是は何様将軍兄弟の合戦に、吉凶を被示怪異にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日の午剋に、佐々木佐渡判官入道が手の者共に、多賀将監と秋山新蔵人と、楚忽の合戦し出して、秋山討れにければ、桃井大に忿て、重て可戦由を申けれ共、自余の大将に異儀有て、結句越前国へ引返す。其後畠山阿波将監国清、頻に、「御兄弟只御中なをり候て、天下の政務を宰相殿に持せ進せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容し不給ければ、国清大に忿て、己が勢七百余騎を引分て、将軍へぞ参ける。此外縁を尋て降下になり、五騎十騎打連々々、将軍方へと参ける間、角ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井頻に勧申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道を打通り、鎌倉へぞ下り給ひける。

☆ 直義追討の宣旨と、鴨の糺の社が鳴動したこと

同年(観応二年、正平六年::1351年)八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏卿は高倉入道左兵衛督直義追討の宣旨を賜り、近江国に到着すると鏡宿に陣営を設けました。都を出発される時までは、総勢わずか三百騎にもなりませんでしたが、佐々木佐渡判官入道道誉及びその子息近江守秀綱が、

近江国の軍勢三千余騎を率いて駆けつけて来ました。また仁木右馬権頭義長は伊賀、伊勢の兵士ら四千余騎を率いて駆けつけてきました。そして土岐刑部少輔頼康が、美濃国の軍勢二千余騎を従えて駆けつけて来たので、やがて総勢は一万余騎に膨れました。ここまで大きくなった今となれば、

如何なる大敵に向かおうとも数においては引けを取りません。やがて高倉入道左兵衛督は石塔、畠山、桃井の三人を大将に命じると、それぞれ二万余騎の軍勢を与え、同年九月七日近江国に進出し八相山(滋賀県虎姫町の虎御前山)に陣を構えました。しかし両陣営とも鉄壁の守りで勝負はつきませんでした。

その日の未の刻(午後二時頃)に、都において賀茂の糺の森にある神殿が鳴動を続け、鏑矢が二本、天を鳴り響かせながら、艮(うしとら::北東)の方に向かって飛び去ったと、帝に申し上げたのです。これはまさしく将軍兄弟の合戦に関して、その吉凶を暗示する不可解な出来事に違いないと、

皆はそれを解き明かそうとしましたが、結果は翌日の午刻(午後零時頃)に、佐々木佐渡判官入道の家来、多賀将監と秋山新蔵人が軽率な合戦をしでかし、秋山が討たれたので桃井直常は怒って再度の合戦を命じましたが、他の大将らの賛同が得られず、結局越前国に引き返すこととなりました。

その後畠山阿波将監国清がしきりに、「ご兄弟はすぐにでも仲直りをされて、天下の政治向きは宰相義詮殿にお任せするが良いでしょう」と話されたのですが、禅門直義は受け入れようとしなかったので国清は大変怒り、我が軍勢七百余騎を引き抜いて、尊氏将軍の陣営に加わりました。

これ以外にも、何らかの縁を頼って降伏を申し出て、五騎十騎と連れだって将軍方に加わる状況に、これでは越前に留まることは不可能だと、桃井が再三忠告を続けられたので、観応二年十月八日高倉禅門直義は再び越前を出発され、北陸道経由で鎌倉に下られたのでした。


○薩多山合戦事
将軍は八相山の合戦に打勝て、軈上洛し給ひけるを、十月十三日、又直義入道可誅罰之由、重被成宣旨ければ、翌日軈都を立て鎌倉へ下給ふ。混に洛中に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙を窺はれつべしとて、宰相中将義詮朝臣をば、都の守護にぞ被留ける。将軍已に駿河国に著給ひけれ共、遠江より東し、東国・北国の勢共、早悉高倉殿へ馳属てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角て無左右鎌倉へ寄ん事難叶。先且く要害に陣を取てこそ勢をも催めとて、十一月晦日駿河薩■山に打上り、東北に陣を張給ふ。相順ふ兵には、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人・今河五郎入道心省・子息伊予守・武田陸奥守・千葉介・長井兄弟・二階堂信濃入道・同山城判官、其勢僅に三千余騎には不過けり。去程に将軍已薩■山に陣を取て、宇都宮が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿先宇都宮へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井播磨守直常に、長尾左衛門尉、並に北陸道七箇国の勢を付て、一万余騎上野国へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉を立て、薩■山へ向ひ給ふ。一方には上杉民部大輔憲顕を大手の大将として、二十万余騎由井・蒲原へ被向。一方には石堂入道・子息右馬頭頼房を搦手大将として、十万余騎宇都部佐へ廻て押寄する。高倉禅門は寄手の惣大将なれば、宗との勢十万余騎を順へて、未伊豆府にぞ控られける。彼薩■山と申は、三方は嶮岨にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙り。敵縦ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手は五十万騎、防ぐ兵三千余騎、而も馬疲れ粮乏しければ、何までか其山に怺へ給ふべきと、哀なる様に覚て、掌に入れたる心地しければ、強急に攻落さんともせず、只千重万重に取巻たる許にて、未矢軍をだにもせざりけり。宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可が勧に依て、兼てより将軍に志を存ければ、武蔵守師直が一族に、三戸七郎と云者、其辺に忍て居たりけるを大将に取立て、薩■山の後攻をせんと企ける処に、上野国住人、大胡・山上の一族共、人に先をせられじとや思けん。新田の大島を大将に取立て五百余騎薩■山の後攻の為とて、笠懸の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百余騎にて騎上野国警固の為に、兼てより世良田に居たりけるが、是を聞と均く笠懸の原へ打寄、敵に一矢をも射させず、抜連て懸立ける程に、大島が五百余騎十方に被懸散、行方も不知成にけり。宇都宮是を聞て、「此人々憖なる事為出して敵に気を著つる事よ。」と興醒て思けれ共、「其に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮を立て薩■山へぞ急ける。相伴ふ勢には、氏家大宰小弐周綱・同下総守・同三河守・同備中守・同遠江守・芳賀伊賀守貞経・同肥後守・紀党増子出雲守・薬師寺次郎左衛門入道元可・舎弟修理進義夏・同勘解由左衛門義春・同掃部助助義・武蔵国住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合其勢千五百騎、十六日午剋に、下野国天命宿に打出たり。此日佐野・佐貫の一族等五百余騎にて馳加ける間、兵皆勇進で、夜明れば桃井が勢には目も不懸、打連て薩■山へ懸らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸七郎、俄に狂気に成て自害をして死にけり。

☆ 薩多山合戦のこと

将軍は八相山の合戦に勝利を収めると、すぐ上洛されましたが、観応二年(正平六年::1351年)十月十三日に再び直義入道誅罰すべきとの宣旨が下り、早速翌日には都を出発し鎌倉に下られました。洛中に全く軍勢を残さないのも、南軍(吉野朝廷軍)の敵に隙を狙われるのではないかと考え、

宰相中将義詮朝臣を都の守りとして残留させました。すでに将軍は駿河国に到着されたのですが、遠江より東の東国、北国の軍勢らは早くも全てが高倉殿へ駆けつけ、その支配下に属していたので、将軍に味方する軍勢は、それほど駆けつけては来ませんでした。これではそう簡単に鎌倉へ攻め寄せることは出来ないだろうと、

とりあえず要害の地に陣を構えて、軍勢の編成を図ることにしようと、十一月晦日に駿河の薩た(土編に垂)山に上り、東北に陣を張りました。その時従っていた軍勢は、仁木左京大夫頼章、その舎弟越後守義長、畠山阿波守国清兄弟の四人、今川五郎入道心省、その子息伊予守、武田陸奥守、千葉介、

長井兄弟、二階堂信濃入道、同じく山城判官など、総勢わずか三千余騎にもなりませんでした。ところで、すでに将軍が薩た山に陣を構えて、宇都宮の軍勢が駆けつけて来るのを待っていると聞き、高倉殿は先に宇都宮に討手を送らねば厄介なことになると考え、桃井播磨守直常に長尾左衛門尉並びに北陸道七ヶ国の軍勢を合わせ、

総勢一万余騎を上野国に向かわせました。同日高倉禅門も鎌倉を発って薩た山に向かわれました。また他方では上杉民部大輔憲顕を大手軍の大将に命じ、二十万余騎を率いて由井、蒲原方面に向かわせました。また一方石塔入道、その子息右馬頭頼房を搦手の大将として、

十万余騎が宇都武佐(静岡県内房か?)に迂回して押し寄せました。高倉禅門直義は寄せ手軍の総大将なので、主だった軍勢、十万余騎を従えて未だ伊豆国の中心部で待機していました。この薩た山と言うのは、三方は険しい崖で谷は深く、片一方は海に面してその岸は高くそびえています。

敵がたとえ何万騎で攻めようと、とても近づきがたく思えますが、取り巻いている寄せ手は五十万騎、対して守る兵士は三千余騎であり、その上、馬の疲労は激しく、兵糧も乏しい状況では、一体いつまでこの山を守れるのか、かわいそうにさえ思える状況に、勝負は思い通りになると考え、

何も性急に攻め落とすことも無いだろうと、ただ十重二十重に取り巻くだけで、未だに矢戦さえ行っていません。宇都宮氏綱は薬師寺次郎左衛門入道元可(げんか)に勧められ、以前より将軍に心を寄せていたので、武蔵守師直の一族で当時どこかに隠れていた三戸七郎と言う者を大将に取り立て、

薩た山の後方から直義軍を攻撃させようとしていたところ、上野国の武将、大胡、山上の一族らは先駆けされたと思ったのです。そこで新田勢の中から大島を大将に抜擢し、五百余騎で薩た山の敵を後方から攻撃するため、笠懸の原に侵攻しました。以前から上野国警固のため、

世良田に駐留していた長尾孫六と同じく平三が、この事態を聞くと三百余騎で同じように笠懸の原に攻め込み、敵に一矢さえ射させず、太刀を抜き放って駆け込んだので、大島の五百余騎は方々に駆け散らされ、その行方さえ分からなくなりました。宇都宮氏綱はこれを聞き、「この人たちが余計なことをしでかすから、

敵に勢いをつけさせてしまった」と、一度は落胆しましたが、「いつまでも引きずってはならない」と気を取り直し、十二月十五日に宇都宮を発って薩た山に急ぎました。その時従った軍勢は、氏家太宰少弐周綱、同じく下総守、同じく三河守、同じく備中守、同じく遠江守、芳賀伊賀守貞経、同じく肥後守、

紀党増子出雲守、薬師寺次郎左衛門入道元可、舎弟の修理進義夏、同じく勘解由左衛門義春、同じく掃部助助義、武蔵国在住の豪族猪俣兵庫入道、安保信濃守、岡部新左衛門入道、その子息出羽守など総勢千五百騎が十六日の午刻(午後零時頃)に下野国天命宿に進出しました。

またこの日に佐野、佐貫の一族らが五百余騎を率いて駆け付け加わったので、兵士らは皆が皆、戦意高揚し、夜が明けたら桃井の軍勢には目もくれずに、全軍一気に薩た山に攻め込もうと相談していたところ、大将に抜擢した三戸七郎が突然発狂し、自害し果てたのでした。


是を見て門出悪しとや思けん、道にて馳著つる勢共一騎も不残落失て、始宇都宮にて一味同心せし勢許に成ければ、僅に七百騎にも不足けり。角ては如何が有んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫思案して、「吉凶は如糾索いへり。是は何様宇都宮の大明神、大将を氏子に授給はん為に、斯る事は出来る也。暫も御逗留不可有。」と申ければ、諸人げにもと気を直して路に少しの滞もなく、引懸々々打程に、同十九日の午剋に、戸禰河を打渡て、那和庄に著にけり。此にて跡に立たる馬煙を、馳著く御方歟と見ればさにあらで、桃井播磨守・長尾左衛門、一万余騎にて迹に著て押寄たり。宇都宮、「さらば陣を張て戦へ。」とて、小溝の流れたるを前にあて、平々としたる野中に、紀清両党七百余騎は大手に向て北の端に控たり。氏家太宰小弐は、二百余騎中の手に引へ、薬師寺入道元可兄弟が勢五百余騎は、搦手に対して南の端に控、両陣互に相待て、半時計時を移す処に、桃井が勢七千余騎、時の声を揚て、宇都宮に打て懸る。長尾左衛門が勢三千余騎、魚鱗に連て、薬師寺に打て係る。長尾孫六・同平三、二人が勢五百余騎は皆馬より飛下り、徒立に成て射向の袖を差簪し、太刀長刀の鋒をそろへて、閑々と小跳して、氏家が陣へ打て係る。飽まで広き平野の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方一万二千余騎、東に開け西に靡けて、追つ返つ半時計戦たるに、長尾孫六が下立たる一揆の勢五百余人、縦横に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落行けり。軍畢て四五箇月の後までも、戦場二三里が間は草腥して血原野に淋き、地嵬くして尸路径に横れり。

この事態を見て門出に縁起の悪いことだと思ったのか、道中駆けつけて来た軍勢らは一騎残らず逃げ落ちてしまい、当初宇都宮で結束を誓った軍勢だけになってしまったので、わずか七百騎にもなりません。これではどうしようもないのではと皆が皆、不安に駆られているのを、

薬師寺入道はしばらく思案の末、「吉凶と言うものは、撚った縄のごとく入れ替わると言うではないか。これはきっと宇都宮の大明神が、氏子を大将にさせようとしたため起こった出来事であろう。しばらくとて逗留すべきではない」と話されると、皆は確かにそうだと気を取り直し、

何ら道中滞りなく引懸々々(?)進軍した結果、十二月十九日の午刻(午後零時頃)に利根川を渡って那和庄(群馬県伊勢崎市)に到着しました。ここで後方に立っている馬煙(駆ける馬の上げる砂ぼこり)は追い駆けてきた味方の軍勢だと思っていたがそうではなく、後を追ってきた桃井播磨守直常、

長尾左衛門の軍勢、一万余騎が押し寄せてきたのです。宇都宮は、「よし、戦闘配置につけ」と命じ、小さな流れを前にして、広々とした野原に紀清両党七百余騎が、敵の大手に向かって北の端に控えました。また氏家太宰少弐は二百余騎で中軍として控え、薬師寺入道元可兄弟の軍勢五百余騎は、

敵の搦手に向かって南の端に控えました。両軍が互いににらみ合うこと半時(約一時間)ばかり過ぎた頃、桃井の軍勢七千余騎が、鬨の声を挙げると宇都宮勢に攻撃を始めました。長尾左衛門の三千余騎は魚鱗の陣形(うろこのように中央部を突出させた形)に構えて、薬師寺勢に攻撃を始めました。

また長尾孫六、同じく平三二人の率いる軍勢、五百余騎は全員馬から飛び降り徒歩立ちになると、射向の袖(鎧に着いた左袖、矢を防ぐため)をかざし、太刀、長刀の刃先を並べて声も立てず、小躍りして氏家の軍勢に攻め込みました。どこまでも広々とした平野で、馬の足に触れる草木など一本さえ無いような場所において、

敵味方の軍勢一万二千余騎が東に展開すると、また西に流れ追いつ追われつの半時(約一時間)ばかりを戦った結果、長尾孫六の徒歩立ちの勢、五百余人は徹底的に打ちのめされ、一人残らず討ち取られたので、桃井と長尾左衛門二人とも、これではとても勝ち目はないと思ったのか、四方八方に分かれて落ちて行きました。

この合戦が終わってから四、五ヶ月経っても、戦場周辺二、三里は血なまぐさいにおいが立ち込め、原野は血に染まり、荒れ放題の地には戦死した遺骸が横たわっていました。


是のみならず、吉江中務が武蔵国の守護代にて勢を集て居たりけるも、那和の合戦と同日に、津山弾正左衛門並野与の一党に被寄、忽に討れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云者一人もなく成て、宇都宮に付勢三万余騎に成にけり。宇都宮已に所々の合戦に打勝て、後攻に廻る由、薩■山の寄手の方へ聞へければ、諸軍勢皆一同に、「あはれ後攻の近付ぬ前に薩■山を被責落候べし。」と云けれ共、傾く運にや引れけん、石堂・上杉、曾不許容ければ、余りに身を揉で、児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩■山へぞ寄たりける。此坂をば今河上総守・南部一族・羽切遠江守、三百余騎にて堅めたりけるが、坂中に一段高き所の有けるを切払て、石弓を多く張たりける間、一度にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手数百人、楯の板ながら打摯がれて、矢庭に死する者数を不知、後陣の兵是に色めいて、少し引色に見へける処へ、南部・羽切抜連て係りける間、大類弾正・富田以下を宗として、児玉党十七人一所にして被討けり。「此陣の合戦は加様也とも、五十万騎に余りたる陣々の寄手共、同時に皆責上らば、薩■山をば一時に責落すべかりしを、何となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲ける心の程こそ浅猿けれ。去程に同二十七日、後攻の勢三万余騎、足柄山の敵を追散して、竹下に陣を取る。小山判官も宇都宮に力を合て、七百余騎同日に古宇津に著ければ、焼続けたる篝火の数、震く見へける間、大手搦手五十万騎の寄手共、暫も不忍十方へ落て行。仁木越後守義長勝に乗て、三百余騎にて逃る勢を追立て、伊豆府へ押寄ける間、高倉禅門一支も不支して、北条へぞ落行給ひける。上杉民部太輔・長尾左衛門が勢二万余騎は、信濃を志て落けるを、千葉介が一族共五百騎許にて追蒐、早河尻にて打留めんとしけるが、落行大勢に被取篭、一人も不残被討けり。さてこそ其道開けて、心安く上杉・長尾左衛門は、無為に信濃の国へは落たりけれ。高倉禅門は余に気を失て、北条にも猶たまり不得、伊豆の御山へ引て、大息ついて坐しけるが、忍て何地へも一まど落てや見る、自害をやすると案じ煩給ひける処に、又和睦の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波守国清・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長を御迎に被進たりければ、今の命の捨難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門降人に成て、将軍に打連奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉へぞ帰給ひける。

これだけでなく、直義方の吉江中務は武蔵国の守護代として軍勢を招集していましたが、那和の合戦が行われた同じ日に、津山弾正左衛門並びに野与一党(のよ::武蔵七党の一つで野与庄中心に勢力があった)に攻め寄せられ、なすすべなく簡単に討たれてしまい、今は武蔵、上野両国の間には敵と言えるものは一人もいなくなり、

宇都宮に従う軍勢は三万余騎になりました。宇都宮はすでに所々で行われた合戦で勝利を収め、薩た山の寄せ手軍を後方から攻めに回るとらしいと、寄せ手軍に情報が入ったので、各軍勢は皆一様に、「では、後方からの攻撃軍が近づく前に、薩た山を攻め落とそう」と話しましたが、落ち目になってしまったからなのか、

石塔、上杉らには全く同意する気配がないのにとても我慢が出来ず、児玉党の三千余騎は、非常に険しい薩た山北側の桜野より、薩た山に押し寄せました。この坂道は今川上総守、南部一族、羽切遠江守らが三百余騎で警備していましたが、坂の途中にあった一段高い所を切り取って、

石弓(敵に向かって木に乗せた石を投げ落とす装置)を多く設置していたので、固定していた綱を一度にパッと切り落としました。転がり落ちてきた大石と一緒になって、先頭を行く寄せ手数百人が、楯もろ共打ち砕かれ即死する者、その数さえ分かりません。これを見ていた後方の軍勢らが、

少しばかり退却しようかと考えていたところに、南部、羽切らが太刀を抜き放って攻め込んできたため、大類弾正、富田以下を主にして、児玉党の十七人らが一ヶ所で討ち取られました。「ここの陣営での合戦はこう言う結果になったとしても、総勢で五十万騎を超える各陣営の寄せ手は同時に攻め上り、

薩た山など一気に攻め落とさねばならないのに、何をするでもなく簡単に落ちる城を、各陣営が手柄だけを求めて合戦をした挙句、討たれるとは、分別のない話で情けない」と皆が皆、馬鹿にして笑い飛ばす心の程度も見苦しいものです。さて十二月二十七日に直義軍攻撃中の軍勢、

三万余騎は足柄山に駐留していた敵を追い散らして、箱根竹ノ下に陣を構えました。小山判官も宇都宮に協力して七百余騎を率いて同日、国府津に到着したので、燃え続く篝火もおびただしい数が見えるので、直義軍の大手搦手の軍勢五十万騎らは、恐怖に耐え切れず、すぐ四方八方に逃げ落ちました。

仁木越後守義長は勝ちに乗じ、三百余騎で逃げる敵を追いかけ、伊豆の国府へ押し寄せたので、そこに控えていた高倉禅門直義は何ら抵抗も出来ず、北条の里へ落ち延びられました。上杉民部大輔と長尾左衛門の軍勢、二万余騎が信濃国を目指して落ちて行くのを、千葉介の一族らが五百騎ほどで追いかけ、

早河尻で討ち取ろうとしましたが、反対に逃げる大軍に取り囲まれ、一人残らず討ち取られました。おかげでこの先の道中は安泰で何事もなく、上杉民部大輔と長尾左衛門は、無事に信濃国へ落ちることができました。高倉禅門直義はこの戦況にすっかり気落ちし、北条に留まることも出来ず、

伊豆の御山まで引き上げ、晴れない気分を嘆いていましたが、何処にでも一旦落ちてみようかとか、あるいは自害をしようかとか思案していると、またもや和睦の提案があり、尊氏将軍よりいろいろと書状が届けられるうち、畠山阿波守国清、仁木左京大夫頼章、その舎弟越後守義長らがお迎えに来るという事態に、

直義は今、生きている命の捨てがさに、後々の恥は忘れたのか、禅門は降伏者として、将軍と連れだって観応三年(正平七年::1352年)正月六日の夜になってから、鎌倉にお帰りになりました。      (終り)

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