30 太平記 巻第三十 (その二)


○慧源禅門逝去事
斯し後は、高倉殿に付順ひ奉る侍の一人もなし。篭の如くなる屋形の荒て久きに、警固の武士を被居、事に触たる悲み耳に満て心を傷しめければ、今は憂世の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎給ひけるが、無幾程其年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽に死去し給ひけり。俄に黄疽と云病に被犯、無墓成せ給けりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失給けるこそ哀なれ。三過門間老病死、一弾指頃去来今とも、加様の事をや申べき。因果歴然の理は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬ひけるこそ不思議なれ。さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存給しが、加様に自滅し給ふ事、何なる罪の報ぞと案ずれば、此禅門依被申、将軍鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其御罰にて、御兄弟の中も悪く成給て、終に失給歟。又大塔宮を奉殺、将軍宮を毒害し給事、此人の御態なれば、其御憤深して、如此亡給ふ歟。災患本無種、悪事を以て種とすといへり。実なる哉、武勇の家に生れ弓箭を専にすとも、慈悲を先とし業報を可恐。我が威勢のある時は、冥の昭覧をも不憚、人の辛苦をも不痛、思様に振舞ぬれば、楽尽て悲来り、我と身を責る事、哀に愚かなる事共也。

☆ 慧源禅門が逝去されたこと

さてこのような事態に陥ってからは、高倉殿にお仕えする侍など一人もいませんでした。牢屋のような荒れ果てた建物に、警備の武士をつけられ、何かにつけ悲しい話ばかりが聞こえてくる状況に心は打ちひしがれ、今はこの世に生き永らえても仕方がないと思い、我が身さえ無用の長物になってしまったのかと嘆かれていましたが、

やがてその年、文和元年(正平七年::1352年)壬辰(みずのえたつ)二月二十六日に突然お亡くなりになりました。急に黄疸と言う病気におかされて死亡されたと、表向きの発表がありましたが、実際は鴆毒(ちんどく::鴆という鳥の羽にある猛毒)を盛られて逝去されたとささやかれていました。

貞和五年(正平四年::1349年)の秋には高師直が上杉重能を滅ぼし、昨年観応二年(正平六年::1351年)の春には禅門直義が師直を誅殺し、そして今年文和元年(正平七年::1352年)の春には、再び禅門が怨敵のために毒を飲まされて死亡するとはまことに哀れなことです。三過門間老病死、一弾指頃去来今(蘇軾”そしょく”の詩。三度門を過ぎる間に老て病みそして死ぬ。指一度はじく間に過去現在未来)とは、

このことを言うのでしょう。悪事の報いはすぐに現れると言う理屈は、何も今に始まったことではありませんが、三年の内に日も変わらず(師直も直義も二月二十六日没)報いを受けたことも不思議な話です。ところでこの禅門直義は政治についてはとても熱心であり、仁義に関しても心にかけていましたが、

このように自滅することになったのは、一体どのような罪科の報いなのでしょうか。少し考えてみると、この禅門が話されたことによって、将軍が鎌倉において偽の起請文を残すことになったその罰によるために、ご兄弟の仲が悪くなり、挙句に殺されたのでしょうか。(意味不明)また大塔宮護良親王を殺害したのは、

この直義の指図ですから宮の怨恨も並みでなく、そのため命を失うことになったのでしょうか。災禍にはもともと原因などなく、悪い行いがその原因になると言われています。確かにそう思われます。武勇の家系に生まれて、弓箭の道をひたすら歩むことになっても、慈悲ある行動を一番に考え、

悪行による報復を恐れなければなりません。しかし、自分に権力が集中している時は、地獄から自分の行動を見られていることも考えず、人の苦しみに何ら痛みを感じることなく、自分勝手に思うように振る舞っていれば、やがて楽しみは尽き果て、その後悲しみがやって来て、我が身を責めさいなますことになります。まことに哀れで愚かな話です。


○吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事
足利宰相中将義詮朝臣は、将軍鎌倉へ下り給し時京都守護の為に被残坐しけるが、関東の合戦の左右は未聞へず、京都は以外に無勢也。角ては如何様、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦事を謀て、暫洛中を無為ならしめん為に、吉野殿へ使者を立て、「自今以後は、御治世の御事と、国衙の郷保、並に本家領家、年来進止の地に於ては、武家一向其綺を可止にて候。只承久以後新補の率法並国々の守護職、地頭御家人所帯を武家の成敗に被許て、君臣和睦の恩慧を被施候は、武臣七徳の干戈を収て、聖主万歳の宝祚を可奉仰。」頻に奏聞をぞ被経ける。依之諸卿僉議有て、先に直義入道和睦の由を申て、言下に変じぬ。是も亦偽て申条無子細覚れ共、謀の一途たれば、先義詮が被任申旨、帝都還幸の儀を催し、而後に、義詮をば畿内・近国の勢を以て退治し、尊氏をば義貞が子共に仰付て、則被御追罰何の子細か可有とて、御問答再往にも不及、御合体の事子細非じとぞ被仰出ける。両方互に偽給へる趣、誰かは可知なれば、此間持明院殿方に被拝趨ける諸卿、皆賀名生殿へ被参。先当職の公卿には二条関白太政大臣良基公・近衛右大臣道嗣公・久我内大臣右大将通相公・葉室大納言長光・鷹司大納言左大将冬通・洞院大納言実夏・三条大納言公忠・三条大納言実継・松殿大納言忠嗣・今小路大納言良冬・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠季・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・二条中納言師良・華山院中納言兼定・葉室中納言長顕・万里小路中納言仲房・徳大寺中納言実時・二条宰相為明・勘解由小路左大弁宰相兼綱・堀河宰相中将家賢・三条宰相公豊・坊城右大弁宰相経方・日野宰相教光・中御門宰相宣明、殿上人には日野左中弁時光・四条左中将隆家・日野右中弁保光・権右中弁親顕・日野左少弁忠光・右少弁平信兼・勘解由次官行知・右兵衛佐嗣房等也。此外先官の公卿、非参議、七弁八座、五位六位、乃至山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、並に禅律の長老、寺社の別当神主に至まで我先にと馳参りける間、さしも浅猿く賎しげなりし賀名生の山中、如花隠映して、如何なる辻堂、温室、風呂までも、幔幕引かぬ所も無りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任は、悉持明院殿より被成たる官途なればとて各一汲一階を被貶けるに、三条坊門大納言通冬卿と、御子左大納言為定卿と許は、本の官位に被復せけり。是は内々吉野殿へ被申通ける故。京都より被参仕たる月卿雲客をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候の公卿殿上人をば、多年の労功ありとて、超涯不次の賞を被行ける間、窮達忽に地を易たり。故三位殿御局と申しは、今天子の母后にて御坐せば、院号蒙せ給て、新待賢門院とぞ申ける。北畠入道源大納言は、准后の宣旨を蒙て華著たる大童子を召具し、輦に駕して宮中を出入すべき粧、天下耳目を驚かせり。此人は故奥州の国司顕家卿の父、今皇后厳君にてをはすれば、武功と云華族と云、申に及ぬ所なれ共、竹園摂家の外に未准后の宣旨を被下たる例なし。平相国清盛入道出家の後、准后の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非ず、安徳天皇の外祖たり。又忠盛が子とは名付ながら、正く白河院の御子なりしかば、華族も栄達も今の例には引がたし。日野護持院僧正頼意は、東寺の長者醍醐の座主に被補て、仁和寺諸院家を兼たり。大塔僧正忠雲は、梨本大塔の両門跡を兼て、鎌倉の大御堂、天王寺の別当職に被補。此外山中伺候の人々、名家は清華を超、庶子は嫡家を越て、官職雅意に任たり。若如今にて天下定らば、歎人は多して悦者は可少。元弘一統の政道如此にて乱しを、取て誡とせざりける心の程こそ愚かなれ。

☆ 吉野殿と相公羽林が和睦されたことと住吉の松が折れたこと

ところで足利宰相中将義詮朝臣は尊氏将軍が鎌倉に下られた時、京都防衛のため残られていましたが、関東の合戦の状況は未だに聞こえてこないし、京都そのものは意外に無勢です。このような状況にあって、もし和田や楠木正儀に押し寄せられ、不甲斐なく京都を落とされるのではないかと思い、

ここは一旦謀略を使ってでも、しばらく洛中の平穏を保とうと、吉野殿後村上天皇に使者を立てられ、「今後においては天下の政治向き一般と、国家が支配してきた領地、また院や摂関家、寺社など名目上の所有権者の支配する領地並びに今迄幕府が権限を有していた領地などに対して、

今後一切幕府は干渉致しません。ただし、承久の乱(承久三年::1221年)以降新しく定められた税率、並びに国々の守護職や地頭御家人に関する諸案件は、幕府にその裁判権を許して頂き、朝廷と朝臣が和睦することによって、その恩恵にあずかることが出来れば、武によって朝廷にお仕えする家臣らは、

軍事に関する七つの徳(春秋左氏伝::武力行使の禁止、大国の保全、人民の生活の安定など)によって武器を格納し、帝のいついつまでも皇位の安定を図りましょう」と、幾度も申し上げたのです。この申し出によって、南朝の諸卿らは会議を開きましたが、以前直義入道が申し出た和睦を例にとって、

すぐ方針変更にはなりませんでした。この偽って申し出た内容について問題はないのですが、陰謀とも思える面がある以上、先に義詮が申し出たように、都へ還幸の儀式を執り行い、その後義詮を畿内、近国の軍勢で征伐し、尊氏は新田義貞の子息に命じて、即刻追討させること特に問題もないでしょうと、

再度の議論をすることもなく、和睦に問題はないと仰せられました。双方お互いに偽っての話し合いですが、誰も気づかず、最近は持明院殿方に参上されていた諸卿らは皆、賀名生殿(後村上天皇)のもとに参内されました。まず現職の公卿としては、二条関白太政大臣良基公、

近衛右大臣道嗣公、久我内大臣右大将通相公、葉室大納言長光、鷹司大納言左大将冬通、洞院大納言実夏、三条大納言公忠、三条大納言実継、松殿大納言忠嗣、今小路大納言良冬、西園寺大納言実俊、裏築地大納言忠季、大炊御門中納言家信、四条中納言隆持、

菊亭中納言公直、二条中納言師良、華山院中納言兼定、葉室中納言長顕、万里小路中納言仲房、徳大寺中納言実時、二条宰相為明、勘解由小路左大弁宰相兼綱、堀河宰相中将家賢、三条宰相公豊、坊城右大弁宰相経方、日野宰相教光、中御門宰相宜明らであり、

また殿上人としては日野左中弁時光、四条左中将隆家、日野右中弁保光、権右中弁親顕、日野左少弁忠光、右少弁平信兼、勘解由次官行知、右兵衛佐嗣房らです。このほか、前職の公卿、非参議(参議の資格を有する者)、七弁八座(政権最高府の太政官に仕える七人の弁官)、五位六位の者をはじめとして山門延暦寺や園城寺の高僧、

三門跡(青蓮院、三千院、妙法院)の貫主(住職)、諸大寺院の高僧並びに禅宗律宗の長老、また各寺社の別当(長官)から神主に至るまで我先に駆けつけ参内するので、あれほど寂れ果てて貧しい賀名生の山中も、花が開いたように華やかになり、どのような辻堂や、人の入ることが出来る部屋から風呂まで幔幕が張られました。

今このように参内している諸卿らの官位や辞令は、全て持明院殿より授かった官職だからと言って、皆は一級もしくは一階級を落とされましたが、三条坊門大納言通冬卿と、その子左大納言為定卿の二人だけは、元の官位のままでした。これは内々に吉野殿と話し合いがついていたからです。

京都より参上してきた月卿雲客(公卿殿上人)らは、降伏してきた者として皆、官職を格下げし、賀名生の山中で仕えてきた公卿や殿上人は、長年の功績を評価され、超涯不次(ちょうがいふじ::身分不相応の異例の抜擢)の恩賞を受けられたので、たちまち今までの困窮から富貴な状態になったのです。

例えば三位殿御局と言われるお方は、現在の後村上天皇の母であり、院号を受けられて新待賢門院と申されます。北畠入道源大納言親房は准后(新待賢門院::阿野廉子)より宣旨を受けて、髪に花を飾り付けた上品な年長の童子を引き連れて、輦輿(れんよ::肩で担ぐ輿)に乗られて宮中を出入りする様子は、

世間の人々を驚かせました。この人は故奥州の国司、北畠顕家卿の父であり、また現在の皇后の厳父でもありますから、武功の面でも、華族(清華家::公家の家格の一、摂関家に次ぐ)としても申し分ないのですが、竹園(たけのその::皇族の異称)や摂家以外の人で、未だ准后の宣旨を受けられたという例はありません。

平相国清盛入道が出家されてから、准后の宣旨を受けられましたが、皇后(徳子、後の建礼門院)の父であるばかりでなく、安徳天皇の外祖父でもありました。また清盛は平忠盛の子供とは言われていましたが、正しくは白河院の御子ですから、華族としても栄達にしても今の親房の例に引くことはできません。

また寺社に対しては、日野護持院僧正頼意を東寺の長者、醍醐寺の座主に任じられ、また仁和寺諸院家も兼ねられました。大塔僧正忠雲は梨本、大塔の両門跡を兼ねられ、鎌倉の大御堂と天王寺の別当職に任じられました。このほか賀名生の山中で朝廷に仕えてきた人々は、

名家と言われる家は清華の家を凌ぎ、庶子であっても嫡流の人を越え、官職さえわがまま放題に与えられる有様でした。もし今のこのような状態で天下が落ち着けば、嘆く人ばかりが多くて、喜ぶ人は少ないでしょう。正平一統(元弘一統は間違いでは?)の政治状況はこのように乱れきっているのに、特に警戒しようとしない気分には問題があります。


憂かりし正平六年の歳晩て、あらたまの春立ぬれども、皇居は猶も山中なれば、白馬蹈歌の節会なんどは不被行。寅の時の四方拝、三日の月奏許有て、後七日御修法は文観僧正承て、帝都の真言院にて被行。十五日過ければ、武家より貢馬十疋・沙金三千両奏進之。其外別進貢馬三十疋・巻絹三百疋・沙金五百両、女院皇后三公九卿、無漏方引進。二月二十六日、主上已に山中を御出有て、腰輿を先東条へ被促。剣璽の役人計衣冠正くして被供奉。其外の月卿・雲客・衛府・諸司の尉は皆甲胄を帯して、前騎後乗に相順ふ。東条に一夜御逗留有て、翌日頓て住吉へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野の八庄司吉野十八郷の兵、七千余騎、路次を警固仕る。皇居は当社の神主津守国夏が宿所を俄に造替て臨幸なし奉りけり。国夏則上階して従三位に被成。先例未なき殿上の交り、時に取ての面目なり。住吉に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議あり。勅使神馬を献て奉幣を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬の前なる大松一本中より折て、南に向て倒れにけり。勅使驚て子細を奏聞しければ、伝奏吉田中納言宗房卿、「妖は不勝徳。」と宣てさまでも驚給はず。伊達三位有雅が武者所に在けるが、此事を聞て、「穴浅猿や、此度の臨幸成せ給はん事は難有。其故は昔殷帝大戊の時、世の傾んずる兆を呈して、庭に桑穀の木一夜に生て二十余丈に迸れり。帝大戊懼て伊陟に問給ふ。伊陟が申く、「臣聞妖は不勝徳に、君の政の闕る事あるに依て、天此兆を降す者也。君早徳を脩め給へ。」と申ければ、帝則諌に順て正政撫民、招賢退佞給しかば、此桑穀の木又一夜の中に枯て、霜露の如くに消失たりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに、今の御政道に於て其徳何事なれば、妖不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々も難心得才学哉。」と、眉を顰てぞ申ける。其夜何なる嗚呼の者かしたりけん。此松を押削て一首の古歌を翻案してぞ書たりける。君が代の短かるべきためしには兼てぞ折し住吉の松と落書にぞしたりける。住吉に十八日御逗留有て、潤二月十五日天王寺へ行幸なる。此時伊勢の国司中院衛門督顕能、伊賀・伊勢の勢三千余騎を率して被馳参けり。同十九日八幡へ行幸成て、田中法印が坊を皇居に被成、赤井・大渡に関を居へて、兵山上山下に充満たるは、混ら合戦の御用意也と、洛中の聞へ不穏。

もう一つすっきりしない正平六年(感応二年::1351年)の年は暮れて、あらたまの春とはなりましたが、皇居は今なお山中にあり、白馬(正月七日に行われる白馬を庭に引き出して宴を催す年中行事)、踏歌(正月十六日宮中で天皇が群舞形式の歌舞をご覧になる年中行事)の節会などは行われませんでした。

寅の刻(午前四時頃)の四方拝と三日の月奏(前月における役人の勤務報告を天皇にする)だけが行われ、後七日御修法(ごしちにちみしほ::宮中の正月行事)は文観僧正が引き受けられ、賀名生の都にある真言院にて執り行われました。やがて十五日が過ぎると幕府から貢物として馬が十匹、砂金三千両が献上されました。

これ以外に同じく馬が三十匹、巻絹(軸に巻いた絹の反物)三百疋そして砂金五百両が女院、皇后、三公九卿(太政大臣以下朝廷の高位の人々)にもれなく献上されました。正平七年(文和元年::1352年)二月二十六日には、すでに天皇は賀名生の山を出られ、手輿(腰の辺で担ぐ輿)をまず河内東条(富田林市)に急がせました。

剣璽(けんじ::草薙の剣と八尺瓊勾玉)を護持する役人は衣冠も正しくお供しました。その外の月卿(公卿)、雲客(殿上人)、衛府(行幸、行啓のお供をする宮司)、諸司の尉(諸役所の高官)らは全員甲冑を身に着け、行列の先頭と最後尾を騎馬にて従い進みました。東条にて一夜宿泊され、すぐ翌日住吉神社への行幸にあたって、

和田、楠木正儀以下、真木野、三輪、湯浅入道、山本判官、紀伊熊野の八つの庄の庄司、吉野十八郷の兵士ら七千余騎が道中を警固しました。皇居は住吉神社の神主、津守国夏が屋敷を急遽改築して臨幸に備えました。その功により国夏はすぐ階位が上がり、従三位になられました。

未だ先例のない殿上人への上階であり、この時代でこその名誉なことです。住吉神社に臨幸されて三日目に、社殿の前で一つ不思議なことが起こりました。勅使が神馬を奉納して幣帛を捧げた時、風が吹いた訳でもないのに、垣根の前に生えている大きな松の一本が中央付近で折れ、南に向かって倒れたのです。

勅使は驚いてこの状況を詳しく天皇に伝えようとしたところ、伝奏の吉田中納言宗房卿が、「妖は不勝徳」(正しい徳が身についていれば、怪しい現象など起こるはずがない)と言われて、特に驚かれませんでした。伊達三位有雅は武者所(院を警備する武士の詰め所)におられましたが、このことを聞き、「なんともあきれた話だ。

この度の臨幸に際しての、不思議な現象は滅多にないありがたいことです。と言うのは昔殷朝の皇帝太戊(たいぼ::殷第九代の王)の時代、国の支配権の衰える兆候が現れ、庭に生えている桑穀(くわ?)の木が一夜にして二十余丈に成長しました。帝の太戊は恐れられ、伊陟(いちょく::殷の政治家)に尋ねられると伊陟は、

『私は妖は不勝徳と聞いていますが、帝の政治に関して何か良くないことがあるから、天がこのような兆候を示されたものでしょう。帝はすぐ徳ある政治を心掛けてください』と申し上げると、帝はこの諫言に従って政治を正し民衆を大事に扱い、賢人を朝廷に招いて、へつらうだけの廷臣は追放されたので、

この桑の木はまた一夜にして枯れ、霜や露のように消え失せました。このように帝が徳ある行いをされてこそ、怪しい兆候を防ぐことが出来るのに、今のご政道に一体どのような徳があって、妖不勝徳と伝奏の方が申されたのでしょうか。どう考えても理解に苦しむ学識です」と、眉をひそめて話されました。

その夜一体何処の馬鹿がしたのでしょうか、この松を削って一首の古歌の替え歌を書き込んだのです。
      君が代の 短かるべき ためしには 兼ねてぞ折し 住吉の松

と、落書きされていました。その後住吉神社に十八日間御逗留されて、閏二月十五日天王寺へ行幸されました。この時伊勢の国司中院衛門督顕能が伊賀、伊勢の軍勢三千余騎を率いて駆けつけて来ました。同月十九日には八幡男山に行幸され、田中法印が宿坊を皇居として設え、赤井、大渡に関所を構えて、

兵士らが山上や麓に充満した様子は、全く合戦の用意としか考えられないと、洛中で噂され不穏な空気となりました。


依之義詮朝臣、法勝寺の慧鎮上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免を可蒙由申入るゝ処に、照臨已に下情を被恤、上下和睦の義、事定り候ぬる上は、何事の用心か候べきに、和田・楠以下の官軍等、混合戦の企ある由承及候。如何様の子細にて候やらん。」と被申たり。主上直に上人に御対面有て、「天下未恐懼を懐く間、只非常を誡めん為に、官軍を被召具いへ共、君臣已に和睦の上は更に異変の義不可有。縦讒者の説あり共、胡越の心を不存ば太平の基たるべし。」と、勅答有てぞ被返ける。綸言已に如此。士女の説何ぞ用る処ならんとて、義詮朝臣を始として、京都の軍勢、曾て今被出抜とは夢にも不知、由断して居たる処に、同二十七日の辰刻に、中院右衛門督顕能、三千余騎にて鳥羽より推寄て、東寺の南、羅城門の東西にして、旗の手を解、千種少将顕経五百余騎にて、丹波路唐櫃越より押寄て、西の七条に火を上る。和田・楠・三輪・越知・真木・神宮寺、其勢都合五千余騎、宵より桂川を打渡て、まだ篠目の明ぬ間に、七条大宮の南北七八町に村立て、時の声をぞ揚たりける。東寺・大宮の時声、七条口の烟を見て、「すはや楠寄たり。」と、京中の貴賎上下遽騒事不斜。細川陸奥守顕氏は、千本に宿して居たりけるが、遥に西七条の烟を見て、先東寺へ馳寄らんと、僅に百四五十騎にて、西の朱雀を下りに打けるが、七条大宮に控たる楠が勢に被取篭、陸奥守の甥、細河八郎矢庭に被討ければ、顕氏主従八騎に成て、若狭を指てぞ落ける。細河讃岐守頼春は、時の侍所也ければ、東寺辺へ打出て勢を集んとて、手勢三百騎許にて、是も大宮を下りに打けるが、六条辺にて敵の旗を見て、「著到も勢汰も今はいらぬ所也。何様まづ此なる敵を一散し々さでは、何くへか可行。」とて、三千余騎控たる和田・楠が勢に相向ふ。楠が兵兼ての巧有て、一枚楯の裏の算を繁く打て、如階認らへたりければ、在家の垣に打懸々々て、究竟の射手三百余人、家の上に登て目の下なる敵を直下して射ける間、面を向べき様も無て進兼たる処を見て、和田・楠五百余騎轡を双てぞ懸たりける。讃岐守が五百余騎、左右へ颯と被懸阻又取て返さんとする処に、讃岐守が乗たる馬、敵の打太刀に驚て、弓杖三杖計ぞ飛たりける。飛時鞍に被余真倒にどうど落つ。落ると均く敵三騎落合て、起しも不立切けるを、讃岐守乍寐二人の敵の諸膝薙で切居へ、起揚らんとする処を、和田が中間走懸て、鑓の柄を取延て、喉吭を突て突倒す。倒るゝ処に落合て頚をば和田に被取にけり。

この状況に義詮朝臣は法勝寺の慧鎮上人を使者として、「私は朝臣としての罪を謝罪し、お許しを頂きたく申し入れており、帝もすでに庶民の実情を憂えられ、また朝廷と幕府の和睦が決定を見たのにかかわらず、何の必要があってか和田や楠木正儀以下の官軍らが、ひたすら合戦の計画をしていると聞いています。

一体どのような訳があってのことでしょうか」と、申し入れました。天皇は直接上人と対面され、「天下は未だ不安定な状態であり、思いがけない事態に対処するため、官軍を率いているが、朝廷と幕府がすでに和睦している以上、なんら不穏な事態が発生することなどあり得ません。

たとえ事実を歪曲して言いふらす者がいたとしても、胡国と越国ほどもお互いの心が離れなければ、泰平の基礎は揺るがないでしょう」と、天皇の返事を頂いて帰られました。すでに綸言がこのように下されている以上、世間の者が話していることなど、無視すべきだと、義詮朝臣をはじめとして京都の軍勢らは、

だまされていることなど全く思わず油断しているところを、閏二月二十七日、辰の刻(午前八時頃)に、中院右衛門督顕能が三千余騎を率いて鳥羽より押し寄せてきて、東寺の南、羅城門の東西に旗を広げると、千種少将顕経は五百余騎にて丹波路唐櫃越(からとごえ::京都に西京区と亀岡市篠町を結ぶ)より押し寄せ、

西の七条周辺に火の手を上げました。また和田、楠木、三輪、越知、真木、神宮寺らの総勢五千余騎が、夕方より桂川を渡ってまだ夜の明けぬ前に、七条大宮の南北七、八町に群がり寄せて、鬨の声をあげました。東寺と大宮からあがった鬨の声と、七条口の煙を見て、「あっ、楠木が押し寄せたぞ」と、

京都中の人間は身分にかかわらず、騒ぎうろたえました。その時、細川陸奥守顕氏は千本にある屋敷にいましたが、西七条に上がった煙をはるかに見て、まず東寺に駆けつけようと僅か百四、五十騎で西の朱雀を南に向かって駆けましたが、七条大宮に控えていた楠木の軍勢に取り囲まれ、

陸奥守の甥、細川八郎がいきなり討ち取られ、顕氏は主従八騎になってしまったので、若狭を目指して落ちて行きました。細川讃岐守頼春は当時、侍所(御家人の統制や、京都の市政一般を司る役所)の人間でしたので、東寺周辺に行って軍勢を招集しようと、手勢の三百騎ばかりで同じように大宮を南に向かっていましたが、

六条のあたりで敵の旗を見つけ、「催促に応じて集まる軍勢や、一門の参集を待っても、今のこの状況ではどうしようもない。とりあえずここにいる敵を蹴散らさなければ、何も始まらない」と言って、三千余騎で控えている和田、楠木の軍勢に対峙しました。楠木の兵士らは前もって細工をし、

一枚盾の裏に横木をたくさん付け、梯子のようにしているので、民家の垣根に取り付け、屈強の射手三百余人が家の上に登って、目の下にいる敵を真下に見て射込んだので、顔も上げることが出来ず進みかねているところに向かって、和田、楠木の五百余騎が轡を並べて一気に駆け込みました。

讃岐守の五百余騎は左右にサッと押し込められたものの、再び反撃に移ろうとした時、讃岐守の乗っている馬が敵の切り付けてきた太刀に驚き、弓の長さ(普通七尺五寸::2.27m)にして三本分ばかり飛び上がりました。その時鞍から体が離れ真っ逆さまにドっと落ちました。落ちるや敵が同時に三騎駆けつけ、

起きる間もなく切りつけるのを、讃岐守は寝ころんだままの姿勢で、敵の両膝を撫で切って起き上がろうとした時、和田の中間が走り来て、槍の柄を伸ばして喉笛を突きそのまま倒しました。倒れたところを走り寄って来た和田に首を取られました。


○相公江州落事
細河讃岐守は被討ぬ。陸奥守は何地共不知落行ぬ。今は重て可戦兵無りければ、宰相中将義詮朝臣、僅に百四五十騎にて、近江を差て落給。下賀・高山の源氏共、兼て相図を定めて、勢多の橋をば焼落しぬ。舟はこなたに一艘もなし。山門へも、大慈院法印を天王寺より被遣て、山徒皆君の御方に成ぬと聞へつれば、落行処を幸いと、勢多へも定て懸るらん。只都にて討死すべかりつる者を、蓬なく是まで落て、尸を湖水の底に沈め、名を外都の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱哉と後悔せぬ人も無りけり。敵の旗の見へば腹を切んとて、義詮朝臣を始として、鎧をば皆脱置て、腰刀許にて、白沙の上に並居給ふ。爰に相模国住人に曾我左衛門と云ける者、水練の達者也ければ、向の岸に游ぎ著て、子舟の有けるを一艘領して、自櫓を推して漕寄する。則大将を始として、宗との人々二十余人一艘に込乗て、先向の岸に著給ふ。其後又小舟三艘求出して、百五十騎の兵共皆渡してけり。是までも猶敵の追て懸る事無ければ、棄たる馬も物具も次第/\に渡し終て、舟蹈返し突流して、「今こそ活たる命なれ。」と、手を拍て咄とぞ被笑ける。大将軍無事故、近江の四十九院に坐する由聞へければ、土岐・大高伊予守、東坂本へ落たりけるが、舟に乗て馳参る。佐々木の一党は不及申、美濃・尾張・伊勢・遠江の勢共、我も我もと馳参る程に、宰相中将又大勢を著て、山陽・山陰に牒し合せ、都を攻んと議し給ふ。

☆ 義詮殿が近江へ落ちられたこと

さて細川讃岐守は討ち死にし、また陸奥守は何処とも知れず落ちて行かれました。今や再度の合戦が出来そうな兵士もいなくなり、宰相中将義詮朝臣はわずか百四、五十騎で近江を目指して落ちて行きました。下賀、高山の源氏らは前もっての作戦通り、瀬田の橋を焼き落としました。

渡河するにも岸に舟など一艘もありません。また山門延暦寺に対して大慈院法印を天王寺より遣わし、山門は全員天皇の味方についたと聞いたので、落ちて行くのを幸いに瀬田へも、間違いなく攻めかかってくるでしょう。本来なら都で一戦の上、討ち死にすべき人間が、みっともなくここまで落ちてきて、

屍を琵琶湖の湖底に沈め、その名を辺鄙な地に埋もれさせることなど、耐えられない屈辱だと後悔しない人などいませんでした。敵の旗が見えれば腹を切ろうと、義詮朝臣を先頭に鎧を脱いで脇に置き、腰の刀だけになって、白砂の上に居並びました。その場にいた相模国の豪族、曾我左衛門と言う男は、

水泳が達者なので向こう岸まで泳ぎ着いて、小舟を一艘手に入れ自ら櫂を漕いで帰ってきました。すぐに大将をはじめに主だった人々二十余人が、一艘の舟に乗り込み、先に向こう岸に到着しました。その後さらに小舟を三艘探し求め、百五十騎の兵士ら全員が渡河しました。

ここまで敵がしつこく追いかけて来ることもないだろうと、一度は捨てた馬や甲冑なども順次渡し終わり、舟はひっくり返して川に押し流しました。「やっとこれで命は助かった」と、手を叩きドッと笑いました。大将軍が無事で近江の四十九院(滋賀県犬上郡の地名)におられると聞き、

東坂本に落ちていた土岐、大高伊予守らが舟に乗って駆けつけてきました。佐々木の一党は言うまでもなく、美濃、尾張、伊勢、遠江などの軍勢らが、我も我もと駆けつけてきたので、宰相中将は再び大軍を擁することになり、山陽や山陰に回状をまわして、都を攻撃しようと相談しました。


○持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事
去程に敵は都を落たれ共、吉野の帝は洛中へ臨幸も不成、只北畠入道准后・顕能卿父子計京都に坐して、諸事の成敗を司り給て、其外の月卿雲客は、皆主上の御坐に付て、八幡にぞ祠候し給ける。同二十三日、中院中将具忠を勅使にて、都の内裡に御坐す三種の神器を吉野の主上へ渡し奉る。是は先帝山門より武家へ御出し有し時、ありもあらぬ物を取替て、持明院殿へ被渡たりし物なればとて、璽の御箱をば被棄、宝剣と内侍所とをば、近習の雲客に被下て、衛府の太刀・装束の鏡にぞ被成ける。げにも誠の三種神器にてはなけれ共、已に三度大嘗会に逢て、毎日の御神拝・清署堂の御神楽、二十余年に成ぬれば、神霊もなどか無かるべきに、余に無恐凡俗の器物に被成ぬる事、如何あるべからんと、申す族も多かりけり。同二十七日北畠右衛門督顕能、兵五百余騎を率して持明院殿へ参り、先其辺の辻々門々を堅めさせければ、「すはや武士共が参りて、院・内を失ひ進らせんとするは。」とて女院・皇后御心を迷はして臥沈ませ給ひ、内侍・上童・上臈・女房などは、向後も不知逃ふためいて此彼に立吟ふ。され共顕能卿、穏に西の小門より参て、四条大納言隆蔭卿を以て、「世の静り候はん程は、皇居を南山に移し進らすべしとの勅定にて候。」と被奏ければ、両院・主上・東宮あきれさせ給へる許にて、兔角の御言にも不及、只御泪にのみほれさせ給て、羅穀の御袂絞る計に成にけり。良暫有て、新院泪を抑て被仰けるは、「天下乱に向ふ後、僅に帝位を雖践、叡慮より起りたる事に非れば一事も世の政を御心に不任。北辰光消て、中夏道闇時なれば、共に椿嶺の陰にも寄り、遠く花山の跡をも追ばやとこそ思召つれ共、其も叶はぬ折節の憂さ豈叡察なからんや。今天運膺図に万人望を達する時至れり。乾臨曲て恩免を蒙らば、速に釈門の徒と成て、辺鄙に幽居を占んと思ふ。此一事具に可有奏達。」と被仰出けれ共、顕能再往の勅答に不及、「已に綸命を蒙る上は、押へては如何が奏聞を経候べき。」とて、御車を二両差寄せ、「余りに時刻移候。」と急げば、本院・新院・主上・東宮、御同車有て、南の門より出御なる。

☆ 持明院殿が吉野に遷幸されたことと梶井宮のこと

やがて敵南朝軍は都を落としましたが、吉野の後村上天皇は洛中には臨幸されずに、ただ北畠入道准后親房と顕能卿父子のみが京都にあって、諸事一般の処理をしていましたが、その外の貴族や殿上人は全員天皇のお側にいて、八幡でのお仕えを続けていました。

閏二月二十三日、中院中将具忠が勅使として参内し、都の内裏にて保管されている三種の神器を、吉野の天皇にお渡しになりました。これらの神器は先帝後醍醐が山門より武家政権側に臨幸された時、全くの偽物と取り替えて持明院殿にお渡しになられた物だと言って、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の入った箱は捨てられ、

宝剣と内侍所だけはお側でお仕えする殿上人に下賜され、衛府(宮城の警備担当役所)の太刀と装束(朝廷で行われる儀式の設営に携わる臨時の役所)の鏡とされました。なるほど確かに本物の三種の神器ではないとしても、すでに三度の大嘗会を行い、毎日の御礼拝や清署堂(せいしょどう::大内裏内の殿舎)にて行われる御神楽など二十余年を経ていますので、

神の御霊も宿られていると思われますが、不謹慎にも普通の器物として扱うとは、如何なものかと口にする人も多くいました。閏二月二十七日に北畠右衛門督顕能が兵士五百余騎を率いて持明院殿に参られ、まず周辺の辻々、門々などを厳しく警固したので、「あぁ、これは武士らがやって来て、

院や天皇を亡き者にしようとするのでは」と言って、女院や皇后らは気持ちが動転しその場に伏せられ、内侍(天皇の日常生活に使える女官)、上童(公卿の子で元服以前に作法見習いのため、殿上の間に昇ることを許された少年)、上臈(年功を積んだ位階の高い人)、女房(宮中に仕え、部屋を与えられた女官の総称)らは、

先のことなど何もわからず逃げ回り、あちこちで立ちすくみ嘆き悲しむばかりです。そんな中、顕能卿が静かに西の小門より現れ、四条大納言隆蔭卿をして、「世の中が安定した以上、皇居を南山吉野にお遷しになるようとの勅諚(天皇の命令)です」と披露させたので、両院(光厳上皇、光明上皇)、天皇(崇光天皇)、東宮(直仁親王)はあきれ返り言葉も失い、

ただ涙ばかりの状況に、薄絹の御衣は絞れるほど濡れたのでした。しばらくして、新院(光明上皇)が涙をこらえながら、「天下の騒乱が始まって以来、わずかな期間でも皇位を継いだといえども、自分の意志で行ったこと以外は、何一つとして天下の政治は思うにまかせていません。

天皇としての権威は失墜し、国家は先の見えない暗黒の状態なので、仙人が住むという伝説上の山を頼って、昔の花山院のように出家隠遁したいと思いますが、それもかなわない現在のやるせない実情をお察しください。今や天の支配する運命も思うようになり、すべての人が自分の望み通りになる時が来たようです。

天皇としての過去の業績を何とか許して頂けるなら、一刻も早く釈尊の弟子になり、片田舎にでも幽庵を構えようと思います。このことだけを詳しく話していただきたい」と仰せられましたが、顕能は再度の返答はせず、「すでに後村上天皇から命令を受けている以上、改めて天皇に申し上げることなどありません」と言って、

用意のお車を二台回し、「あまりにも時間を取られたようです」と急がせたので、本院(光厳上皇)、新院(光明上皇)、主上(崇光天皇)、東宮(直仁親王)とも同じ車に乗られ、南の門からお出ましになられました。


さらでだに霞める花の木の間の月、是や限の御泪に、常よりも尚朧也。女院・皇后は、御簾の内、几帳の陰に臥沈ませ給へば、此の馬道、彼この局には、声もつゝまず泣悲む。御車を暁の月に輾て、東洞院を下りに過ければ、故卿の梢漸幽にして、東嶺に響く鐘の声、明行雲に横はる。東寺までは、月卿雲客数た被供奉たりけれ共、叶ふまじき由を顕能被申ければ、三条中将実音・典薬頭篤直計を召具せられて、見馴ぬ兵に被打囲、鳥羽まで御幸成たれば、夜は早若々と明はてぬ。此に御車を駐て、怪しげなる網代輿に召替させ進らせ、日を経て吉野の奥賀名生と云所へ御幸成し奉る。此辺の民共が吾君とて仰奉る吉野の帝の皇居だにも、黒木の柱、竹椽、囲ふ垣ほのしばしだにも栖れぬべくもなき宿り也。況敵の為に被囚、配所の如くなる御栖居なれば、年経て頽ける庵室の、軒を受たる杉の板屋、目もあはぬ夜の寥しさを事問雨の音までも御袖を湿す便りなり。衆籟暁寒して月庭前の松に懸り、群猿暮に叫で風洞庭の雲を送る。外にて聞し住憂さは数にもあらぬ深山哉と、主上・上皇いつとなく被仰出度び毎に御泪の乾く隙もなし。梶井二品親王は此時天台座主にて坐しけるが、同く被召捕させ給て、金剛山の麓にぞ坐しける。此宮は本院の御弟、慈覚大師の嫡流にて、三度天台座主に成せ給ひしかば、門迹の富貴無双、御門徒の群集如雲。師子・田楽を被召、日夜に舞歌はせ、茶飲み、連歌士を集めて、朝夕遊び興ぜさせ給しかば、世の譏り山門の訟は止時無りしか共、御心の中の楽は類非じと見へたりしに、今引替たる配所の如くなる御棲居、山深く里遠くして鳥の声だにも幽かなるに、御力者一人より外は被召仕人もなし。隙あらはなる柴の庵に袖を片敷苔筵、露は枕に結べども、都に帰る夢はなしと、御心を傷しめ給ふに就けも、仏種は従縁起る事なれば、よしや世中角ても遂にはてなば三千の貫頂の名を捨て混桑門の客と成んと思食けるこそ哀なれ。天下若皇統に定て世も閑ならば、御遁世の御有増も末通りぬべし。若又武家強て南方の官軍打負けば、失ひ奉る事も何様有ぬべしと思召つゞくる時にこそ、さしも浮世を此侭にて、頓てもさらば静まれかしと、還て御祈念も深かりけり。

それでなくても霞のかかったような花の木からのぞく月を見るのも、今日限りだと思えば涙があふれ、いつも以上におぼろげに見えます。女院、皇后らは御簾の内や間仕切りの陰に伏せられ、その外の人たちはここの長廊下や、あちこちの部屋で声を抑えることもなく泣き悲しみました。

やがてお車は明け方の月の中、わだちの音をきしませながら東洞院を南に進まれれば、今や故郷にもなろうとする、都の木々の梢はようやくその姿を見せかけ、東山に響く寺々の鐘の音は、明け行く雲に沿うように鳴り響きます。東寺までは公卿や殿上人など多数がお供されましたが、

顕能卿がこれから先の供奉はならぬと話されたので、三条中将実音と典薬頭(天皇の薬を扱う役所の長官)篤直だけをお連れになって、見慣れない兵士に取り囲まれて鳥羽まで御幸される頃、夜は早くも明け、新しい朝を迎えたのでした。ここでお車を停められ、粗末な網代輿(あじろごし::竹や木で編んだものを屋根などに使用した輿)に乗り換えられ、

長い時間をかけて吉野の奥、賀名生と言う土地に御幸されたのでした。この土地に住まいする民たちが、自分たちが主君として尊敬している吉野の君がおられる皇居でさえ、加工を施してない生木の柱や、建材として竹が使われている建物、また周囲を取り囲んでいる垣根など、

しばらくでも住むのがつらいような建物です。いわんや敵に捕らわれて、配所に護送されてきたような人が住む宿舎なので、古臭くあばら家のような建物で、軒が支える屋根は杉で葺かれており、眠りにつくことも出来ない夜の寂しさに、言葉をかけてくるような雨の音も、袖を濡らす気持ちにさせるだけです。

木々にあたる風の音や、庭の松にかかる月は暁の寒さを思わせ、暮れには群れなす猿が叫び声をあげ、風は洞庭湖の雲を運んでくるようです。今まで聞いていた住み辛さなど、物の数ではないほどの山奥だと、天皇や上皇が何かにつけ仰せられるたびに涙があふれ、お袖の乾く間もありません。

ところでこの時、梶井二品親王(承胤法親王)は天台座主でしたが、同じように捕らえられ、金剛山の奥におられました。この宮様は本院(光厳上皇)の弟君であり、慈覚大師(第三代天台座主)の本流を受け継ぎ、三度天台座主に就任されていますから、寺院と僧侶としての資産は莫大なものであり、

門徒は雲のように群がり集まっていました。獅子舞や田楽の役者を呼び寄せて日夜歌舞を楽しんだり、茶人や連歌師を集めては朝夕遊び続けていましたから、世間の非難や山門の抗議など止むことが無かったのですが、本人は心底その楽しみに酔われていたのでした。ところが今や、

それとは打って変わり配所のようなお住まいで、山深く人里からも遠く離れて、鳥の声さえ滅多に聞こえない環境に置かれていますが、お側には剃髪した従者一人が仕えているだけで、その外には一人の召使さえもおりません。屋根と言っても柴を隙間だらけに編まれた粗末な建物の中で、

わびしい寝所では袖を片方だけ敷いて横になり、枕は露の涙で濡らすことはあっても、都に帰れる希望も持てない状況に、心もずたずたに傷ついていると、仏となるきっかけは、いろいろな要因によるものなので、たとえ現在はこのような状況であっても、最期を迎える時は延暦寺三千衆徒の長(天台座主)の名は捨てて、

ひたすら仏道の修行僧になりたいと思われるのも可哀そうになります。天下がもし天皇親政に決まり、世間も安定すれば、修行僧になるというのも、それなりの目的は達せられることになるでしょう。しかし、幕府の力が強くて吉野の官軍が負けたりすれば、殺害されることも全く無いとは言えないと思えば、

今おかれている無常な世間はこのままに、やがては静まってくれないかと、むしろ祈念する気持ちが強くなるのでした。      (終り)

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