31 太平記 巻第三十一 (その一)


○新田起義兵事
吉野殿武家に御合体有つる程こそ、都鄙暫く静也つれ。御合体忽に破て、合戦に及し後、畿内・洛中は僅に王化に随といへ共、四夷八蛮は猶武威に属する者多かりけり。依之諸国七道の兵彼を討ち是を従へんと互に威を立る間、合戦の止時もなし。已闘諍堅固に成ぬれば、是ならずとも静なるまじき理也。元弘建武の後より、天下久く乱て、一日も未不治。心あるも心無も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家を求ぬ方もなけれど、何くも同じ憂世なれば、厳子陵が釣台も脚を伸るに水冷く、鄭大尉が幽栖も薪を担ふに山嶮し。如何なる一業所感にか、斯る乱世に生れ逢て、或は餓鬼道の苦を乍生受、或は脩羅道の奴と不死前に成ぬらんと、歎かぬ人は無りけり。此時、故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治三人、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所を定めず身を蔵て、時を得ば義兵を起さんと企て居たりける処へ、吉野殿未住吉に御坐有し時、由良新左衛入道信阿を勅使にて、「南方と義詮と御合体の事は暫時の智謀也と聞ゆる処也。仍節に迷ひ時を過すべからず。早義兵を起て、将軍を追討し、宸襟を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人の人々に逢て事の子細を相触ける間、さらば軈て勢を相催せとて、廻文を以て東八箇国を触廻るに、同心の族八百人に及べり。中にも石堂四郎入道は、近年高倉殿に属して、薩■山の合戦に打負て、無甲斐命計を被助、鎌倉に有けるが、大将に憑たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀謀反を起す人のあれかし、与力せんと思ひける処に、新田兵衛佐・同少将の許より内状を通じて、事の由を知せたりければ、流れに棹と悦て、軈て同心してけり。又三浦介・葦名判官・二階堂下野二郎・小俣宮内少輔も高倉殿方にて、薩■山の合戦に打負しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞処、口惜き者哉、哀謀反を起さばやと思ける処に、新田武蔵守・同左衛門佐の方より、憑み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸哉と悦て、則与力して、此人々密に扇谷に寄合て評定しけるは、「新田の人々旗を挙て上野国に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定て鎌倉にてはよも待給はじ、関戸・入間河の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等五六人が勢何にと無とも、三千騎はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態と馬廻りに扣て、合戦已に半ばならんずる最中、将軍を真中に取篭奉り、一人も不残打取て後に御陣へは参候べし。」と、新田の人々の方へ相図を堅く定て、石堂入道・三浦介・小俣・葦名は、はたらかで鎌倉にこそ居たりけれ。諸方の相図事定りければ、新田武蔵守義宗・左兵衛佐義治、閏二月八日、先手勢八百余騎にて、西上野に打出らる。

☆ 新田義貞の子息らが義兵を起こしたこと

さて吉野殿後村上天皇と幕府が和睦されたことによって、都や地方はしばらくは鎮まることになりました。しかしこの和睦は瞬く間に破棄され、合戦になってしまってからは、畿内や洛中は何とか朝廷に従っているとは言え、諸方の武将、豪族らは未だ幕府に従属する者が多かったのです。

このため、諸国七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海道)の武将らは、互いに近国を従えようと武力行使が絶えないので、合戦は止む間もなく続きました。もはや互いが自己主張を止めようとしない状況ですから、合戦が収まることなどあり得ないのも道理です。元弘(1331-1333年)から

建武(南朝::1134-1336年。北朝::1334-1338年)の後は天下は乱れに乱れ、一日として戦乱の止むことはありませんでした。状況を判断し理解できる人も、そうでない人も、どんなに山奥でもよいから身の安全を図れる住処を求めようとしましたが、何処に行っても同じ状況であり、

厳子陵(光武帝が即位すると同門の自分が徴用されるのを嫌い、身を隠したが、釣りをしているところを見つかった)の釣台も見つからないように脚を伸ばそうにも水の流れが激しく、鄭大尉(朝夕木を伐採して、親に孝行をしていた)の住む俗世間からほど遠い家も、薪を運ぶにはあまりにも山が険しいのです。

人は一体どのような悪業のために、このような乱世に生を受けて、例えば餓鬼道の苦しみを生きながらに受けさせられたり、またある人は争いや怒りの絶えない修羅道に住む阿修羅に何故死ぬ前になるのかと、嘆かない人はいませんでした。当時、故新田左中将義貞の次男、左兵衛佐義興、

三男の少将義宗、叔父の従兄弟、左衛門佐義治ら三人は武蔵、上野、信濃、越後周辺に居所を定めず身を隠していましたが、時期が来れば義兵を募って、蜂起しようと計画していました。そんな折、吉野殿後村上天皇がまだ住吉神社におられた時、由良新左衛入道信阿を勅使として、

「吉野朝廷と足利義詮の和睦は、暫時の方便として偽って結んだものと聞いている。そこで自分の進むべき方向を迷って、時間を無駄に過ごしてはならない。早急に義兵を募り軍事行動を起して、将軍を追討することによって、朕の心配を払拭せよ」と、仰せ下されました。

信阿は急遽東国に下り、三人と面会して事情を詳しく説明したので、それではすぐに軍勢を招集しようと、回文を作成して東八ヶ国に触れを回したところ、同調する勢は八百人になりました。その中でも、石塔四郎入道は最近高倉殿直義に属して、薩た(土偏に垂)山の合戦で負けたのですが、

大したことのない命を助けられて、鎌倉にいましたが、大将として頼みにしていた高倉禅門が毒殺されたのです。自分はとても事を起こすことは出来ない。殊勝にも謀反を起こす人がいれば、その時は味方しようと思っていたところ、新田兵衛佐、同じく少将のもとから内密に書状が届き、

事の次第を連絡してきたので、渡りに舟だと喜びすぐ味方になりました。また三浦介、葦名判官、二階堂下野二郎、小俣宮内少輔らも高倉殿に属して、薩た山の合戦で負けを喫したため、降伏を申し出て命だけはつなぎましたが、人の目や世間の噂を聞くと悔しくてならず、

何とか謀反を起こそうかと思っていたところ、新田武蔵守、同じく左衛門佐から頼りに思っている旨連絡して来たので、願ってもないことだと喜ぶと、すぐに味方になりました。これらの人々が内密に扇谷に集まって会議の結果、「新田の人々が反旗を挙げ、上野国で軍事行動を起こして、

武蔵国に押し寄せるらしいと聞けば、将軍はきっと鎌倉で待つことなどせずに、関戸、入間川のあたりまで進出し、防御しようとするでしょう。我ら五、六人の軍勢だけでも、とりあえず三千騎にはなるでしょうから、将軍が戦場に出陣した時、わざと将軍を警固する騎馬武者として控え、

すでに合戦が半ばになった時を見計らい、将軍を中に取り込めて一人残さず討ち取ってから新田の陣に行こう」と決め、新田の人々に対して合図万端抜かりないよう準備が済むと、石塔入道、三浦介、小俣、葦名らは出撃せずに鎌倉に居残りました。諸方面に対して蜂起の準備が整ったので、新田武蔵守義宗と左兵衛佐義治は正平七年(文和元年::1352年)閏二月八日、まず各々の兵士ら八百余騎で西上野に進出しました。


是を聞て国々より馳参ける当家他門の人々、先一族には、江田・大館・堀口・篠塚・羽河・岩松・田中・青竜寺・小幡・大井田・一井・世良田・篭沢、外様には宇都宮三河三郎・天野民部大輔政貞・三浦近江守・南木十郎・西木七郎・酒勾左衛門・小畑左衛門・中金・松田・河村・大森・葛山・勝代・蓮沼・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・南西・高田・中村、児玉党には浅羽・四方田・庄・桜井・若児玉、丹の党には安保信濃守・子息修理亮・舎弟六郎左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・勅使河原丹七郎・西党・東党・熊谷・太田・平山・私市・村山・横山・猪俣党、都合其勢十万余騎、所々に火を懸て、武蔵国へ打越る。依之武蔵・上野より早馬を打て鎌倉へ急を告る事、櫛の歯を引が如し。「さて敵の勢は何程有ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎には劣候はじ。」とぞ答ける。仁木・細川の人々是を聞て、「さてはゆゝしき大事ごさんなれ。鎌倉中の勢、千騎にまさらじと覚也。国々の軍勢は縦参る共、今の用には難立。千騎に足らぬ御勢を以て、敵の二十万騎を防ん事は、可叶共覚候はず。只先安房・上総へ開せ給て、御勢を付て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞給て、「軍の習、落て後利ある事千に一の事也。勢を催さん為に、安房・上総へ落なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共は、縦尊氏に志有共、敵に隔られて御方に成事あるべからず。又尊氏鎌倉を落たりと聞かば、諸国に敵に成者多かるべし。今度に於ては、縦少勢なりとも、鎌倉を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如じ。」とて、十六日の早旦に、将軍僅に五百余騎の勢を率し、敵の行合んずる所までと、武蔵国へ下り給ふ。鎌倉より追著奉る人々には、畠山上野・子息伊豆守・畠山左京大夫・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・其次式部大夫・仁木左京大夫・舎弟越後守・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石堂左馬頭・今河五郎入道・同式部大夫・田中三郎・大高伊予守・同土佐修理亮・太平安芸守・同出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曾我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同三郎左衛門・饗庭命鶴・和田筑前守・長井大膳大夫・同備前守・同治部少輔・子息右近将監等也。元より隠謀有しかば、石堂入道・三浦介・小俣少輔次郎・葦名判官・二階堂下野次郎、其勢三千余騎は、他勢を不交、将軍の御馬の前後に透間もなくぞ打たりける。久米河に一日逗留し給へば、河越弾正少弼・同上野守・同唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同下野守・同修理亮・高坂兵部大輔・同下野守・同下総守・同掃部助・豊島弾正左衛門・同兵庫助・土屋備前守・同修理亮・同出雲守・同肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同三郎左衛門・二宮但馬守・同伊豆守・同近江守・同河内守・曾我周防守・同三河守・同上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早河刑部大夫・同勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守・都合其勢八万余騎、将軍の陣へ馳参る。

この事態を聞いて国々から駆けつけて来た新田家一族や、その他の家々の人々は、一族としては江田、大舘、堀口、篠塚、羽河、岩松、田中、青竜寺、小幡、大井田、一井、世良田、篭沢などで、外様として、宇都宮三河三郎、天野民部大輔政貞、三浦近江守、南木十郎、

西木七郎、酒匂左衛門、小幡左衛門、中金、松田、河村、大森、葛山、勝代、蓮沼、小磯、大磯、酒間、山下、鎌倉、玉縄、梶原、四宮、三宮、南西、高田、中村らであり、児玉党には浅羽、四方田、庄、桜井、若児玉などで、また丹の党には、安保信濃守、その子息修理亮、

その弟六郎左衛門、加治豊後守、同じく丹内左衛門、勅使河原丹七郎、西党、東党、熊谷、太田、平山、私市、村山、横山、猪俣党など総勢十万余騎があちこちに火をかけながら武蔵国に侵攻しました。このため武蔵国や上野国から早馬を立てて鎌倉に急を告げること、

櫛の歯を挽くように絶え間なく続きました。鎌倉では使者に対して、「それで敵の軍勢は如何ほどなのか」と質問すれば、使者らは皆、「二十万騎は下らないと思われます」と、答えたのです。仁木、細川の人たちはこの返答を聞くと、「なに!えらいことになっているではないか。

鎌倉中の軍勢はどう考えても千騎を超えないだろう。諸国の軍勢がたとえ加勢に駆けつけても、今すぐに役立つわけでない。千騎にも満たない軍勢で、敵の二十万騎を防ぐことなど、どう考えても無理だろう。ここはまず安房か上総に転進し、軍を増強してから再度合戦をすることだ」と話されるのを、

将軍尊氏は真剣に聞いていましたが、「合戦の習性として一旦落ちて、その後有利に戦えることなど、千に一つあるくらいなものだ。軍勢を招集しようと安房や上総に落ちたりすれば、武蔵や相模、上野、下野などの武将らは、たとえ尊氏に加担しようにも、敵に遮られて味方にはなれないだろう。

また、尊氏が鎌倉を落ちたと聞けば、諸国にいる味方も敵に寝返る者が続出するに違いない。今回はたとえ小勢であっても鎌倉を出て、道中に敵を迎え決戦をすることが最善だろう」と言って、十六日の早朝に将軍は僅か五百余騎を率い、敵と出会うと思われる所までと、武蔵国に下られました。

鎌倉より将軍を追って来た人たちは、畠山上野、その子息伊豆守、畠山左京大夫、その弟尾張守と同じく弟の大夫将監、同じく式部大夫、仁木左京大夫、その弟越後守、三男の修理亮、岩松式部大夫、大島讃岐守、石塔左馬頭、今川五郎入道、同じく式部大夫、田中三郎、大高伊予守、

同じく土佐修理亮、太平安芸守、同じく出羽守、宇津木平三、宍戸安芸守、山城判官、曾我兵庫助、梶原弾正忠、二階堂丹後守、同じく三郎左衛門、饗庭命鶴、和田筑前守、長井大膳大夫、同じく備前守、同じく治部少輔、その子息右近将監らです。当初より陰謀を策してきたので、石塔入道、

三浦介、小俣少輔次郎、葦名判官、二階堂下野次郎らの総勢三千余騎は、他の軍勢とは別行動を取り、将軍が乗られた馬の前後に隙間なく控えました。久米川(東村山市)で一日逗留したので、河越弾正少弼、同じく上野守、同じく唐戸十郎左衛門、江戸遠江守、同じく下野守、同じく修理亮、

高坂兵部大輔、同じく下野守、同じく下総守、同じく掃部助、豊島弾正左衛門、同じく兵庫助、土屋備前守、同じく修理亮、同じく出雲守、同じく肥後守、土肥次郎兵衛入道、その子息掃部助、その弟甲斐守、同じく三郎左衛門、二宮但馬守、同じく伊豆守、同じく近江守、同じく河内守、曾我周防守、

同じく三河守、同じく上野守、その子息兵庫助、渋谷木工左衛門、同じく石見守、海老名四郎左衛門、その子息信濃守、その弟修理亮、小早川刑部大夫、同じく勘解由左衛門、豊田因幡守、狩野介、那須遠江守、本間四郎左衛門、鹿島越前守、島田備前守、浄法寺左近大夫、白塩下総守、

高山越前守、小林右馬助、瓦葺出雲守、見田常陸守、古尾谷民部大輔、長峯石見守など総勢八万余騎が、将軍の陣営に駆けつけてきました。


已に明日矢合と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦介を呼のけて宣ひけるは、「合戦已に明日と定められたり。此間相謀つる事を、子息にて候右馬頭に、曾て知せ候はぬ間、此者一定一人残止て、将軍に討れ進せつと覚候。一家の中を引分て、義卒に与し、老年の頭に胄を戴くも、若望み達せば、後栄を子孫に残さんと存ずる故也。されば此事を告知せて、心得させばやと存ずるは如何が候べき。」と問給ひければ、三浦、「げにも是程の事を告進せられざらんは、可有後悔覚候。急知せ進らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬頭を呼て、「我薩■山の合戦に打負て、今降人の如くなれば、仁木・細川等に押すへられて、人数ならぬ有様御辺も定て遺恨にぞ思らん。明日の合戦に、三浦介・葦名判官・二階堂の人々と引合て、合戦の最中将軍を討奉り、家運を一戦の間に開かんと思也。相構て其旨を心得て、我旗の趣に可被順。」と云れければ、右馬頭大に気色を損じて、「弓矢の道弐ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑れ進せたる身にて候へば、後矢射て名を後代に失はんとは、えこそ申まじけれ。兄弟父子の合戦古より今に至まで無き事にて候はず。何様三浦介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告申さずは大なる不忠なるべし。父子恩義已に絶候ぬる上は、今生の見参は是を限りと思召候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興を醒して、急ぎ三浦が許に行て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候けり。此事右馬頭に不知、敵の中に残て討れもやせんずらんと思ふ悲さに、告知せて候へば、以外に気色を損じて、此事将軍に告申さでは叶まじきとて、帰候つるは如何。此者が気色、よも告申さぬ事は候はじ、如何様軈て討手を向られんと覚候。いざゝせ給へ。今夜我等が勢を引分て、関戸より武蔵野へ回て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致候はん。」と宣ひければ、多日の謀忽に顕れて、却て身の禍に成ぬと恐怖して、三浦・葦名・二階堂手勢三千余騎を引分、寄手の勢に加らんと関戸を廻て落行。是ぞはや将軍の御運尽ざる所なれ。

さてすでに明日は矢合わせが行われると決まっていた前夜、石塔四郎入道が三浦介を呼び寄せると、人を遠ざけて、「合戦はすでに明日と決まった。先日相談した謀略のことを、子息である右馬頭にまだ知らせていないので、彼は間違いなく一人残って将軍に討たれると思う。

一家を二つに分けて宮方に味方し、年老いた頭に兜をかぶるのも、もし望みを達することが出来れば、子孫に栄誉を残すことが出来ると思うからです。そこでこの事実を彼に知らせて、納得させようと思うがどうだろうか」と話されると、三浦介は、「確かにこれほど重要な話を知らせないでおけば、

後悔することになると思える。急いで知らせるが良いでしょう」と話されたので、石塔禅門は子息の右馬頭を呼び、「私は薩た山の合戦に負けて、現在は降伏した人間として扱われ、仁木や細川に押さえつけられ、一人前として認めてもらえない有様は、きっと貴殿も恨めしく思っているだろう。

明日の合戦において、三浦介、葦名判官、二階堂の人々らと手を組んで、合戦の最中に将軍を討ち取り、我が家の将来をこの一戦で手に入れようと思っている。このことを十分考慮に入れて、我々の旗の動きを考えそれに従うことだ」と言ったところ、右馬頭は大いに機嫌を悪くし、

「弓矢の道において、二心を持つことは恥と心得ています。人のことはいざ知らず、私は尊氏将軍から大いに頼りとされている身であれば、味方に向かって矢を放つような真似をして、不名誉極まる名を後世に残すことなど、どうあっても了解できません。兄弟や父子が敵味方に分かれての合戦は、

古来その例がない訳ではありません。ここはどんなことがあっても、三浦介、葦名判官の陰謀の事実を将軍に報告しなければ、不忠の極まりこれ以上はありません。親子としての恩義も、はや途絶えたからには、今生における対面はこれを最後とお思いください」と、顔を赤らめ怒りをあらわにして、

将軍の陣営に参られたのです。父の石塔四郎禅門は大いに気分を害し、急いで三浦介のところに行き、「父が子を思うほどに、子は父のことなど何も考えないようだ。事実を右馬頭に知らせず、敵の中に残って討たれるのではないかと、悲しく思えばこそ知らせたのだが、

以外にも機嫌を悪くし、この事情を将軍に報告しなければと帰ったが、どうしたものだろうか。彼の剣幕を考えれば、まさか将軍に話さないとは思えません、どう考えても、すぐ討手を向かわせると思います。もはや仕方がないのでこうしようではありませんか。今夜我らの軍勢を引き抜き、

関戸から武蔵野に迂回し、新田の軍勢と合流して明日の合戦に参加しよう」と話されたので、時間をかけて練り上げた謀略も、簡単に漏れてしまい、かえって我が身の災禍になるのではと恐れ、三浦、葦名と二階堂らは、我が軍勢三千余騎を引き抜き、寄せ手の宮方軍に加わるため、関戸を経由して落ちて行きました。これもまた将軍尊氏が運の強いことの現れでしょう。


○武蔵野合戦事
三浦が相図相違したるをば、新田武蔵守夢にも不知、時刻よく成ぬと急ぎ、明れば閏二月二十日の辰刻に、武蔵野の小手差原へ打臨み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守義宗五万余騎、白旗・中黒・頭黒、打輪の旗は児玉党、坂東八平氏・赤印一揆を五手に引分て、五所に陣をぞ取たりける。一方には新田左兵衛佐義興を大将にて、其勢都合二万余騎、かたばみ・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引ては一りも帰じと是も五手に一揆して四方六里に引へたり。一方には脇屋左衛門佐義治を大将にて、二万余騎、大旗・小旗・下濃の旗、鍬形一揆・母衣一揆、是も五箇所に陣を張り、射手をば左右に進ませて懸手は後に■控へたり。敵小手差原にありと聞へければ、将軍十万余騎を五手に分て、中道よりぞ寄られける。先陣は平一揆三万余騎、小手の袋・四幅袴・笠符に至るまで一色に皆赤かりければ、殊更耀てぞ見へたりける。二陣には白旗一揆二万余騎、白葦毛・白瓦毛・白佐馬・■毛なる馬に乗て、練貫の笠符に白旌を差たりけるが、敵にも白旌有と聞て俄に短くぞ切たりける。三陣には花一揆、命鶴を大将として六千余騎、萌黄・火威・紫糸・卯の花の妻取たる鎧に薄紅の笠符をつけ、梅花一枝折て甲の真甲に差たれば、四方の嵐の吹度に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆とて三万余騎、二引両の旌の下に将軍を守護し奉て、御内の長者・国大名、閑に馬を引へたり。五陣は仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・三男修理亮義氏、其勢三千余騎、笠符をも不著、旌をも不差、遥の外に引のけて、馬より下てぞ居たりける。是は両方大勢の合戦なれば、十度二十度懸合々々戦んに、敵も御方も気を屈し、力疲れぬ事不可有。其時荒手に代りて、敵の大将の引へたらんずる所を見澄して、夜討せんが為也けり。去程に新田・足利両家の軍勢二十万騎、小手差原に打臨で、敵三声時を作れば御方も三度時の声を合す。上は三十三天までも響き、下は金輪際迄も聞ゆらんと震し。先一番に新田左兵衛佐が二万余騎と、平一揆が三万余騎と懸合て、追つ返つ合つ分れつ、半時計相戦て、左右へ颯と引除たれば、両方に討るゝ兵八百余人、疵を被る者は未計るに不遑。二番に脇屋左衛門佐が二万余騎と、白旗一揆が二万七千余騎と、東西より相懸りに懸て、一所に颯と入乱れ、火を散して戦ふに、汗馬の馳違音、太刀の鐔音、天に光り地に響く。或は引組で頚を取もあり被取もあり、或は弓手妻手に相付て、切て落すもあり被落もあり。血は馬蹄に被蹴懸紅葉に酒く雨の如く、尸は野径に横て尺寸の地も不余さ。追靡け懸立られ、七八度が程戦て東西へ颯と別れたれば、敵御方に討るゝ者又五百人に及べり。三番に饗庭の命鶴生年十八歳、容貌当代無双の児なるが、今日花一揆の大将なれば、殊更花を折て出立、花一揆六千余騎が真前に懸出たり。新田武蔵守是を見て、「花一揆を散さん為に児玉党を向はせ、打輪の旗は風を含める物也。」とて、児玉党七千余騎を差向らる。花一揆皆若武者なれば思慮もなく敵に懸りて、一戦々とぞ見へし。児玉党七千余騎に被揉立、一返も返さずはつと引。自余の一揆は、かくる時は一手に成て懸り、引時は左右へ颯と別れて、荒手を入替さすればこそ、後陣は騒がで懸違たれ。是其軍立無甲斐、将軍の後に引へておはする陣の中へ、こぼれ落て引間、荒手は是に被蹴立不進得、敵は気に乗て勝時を作懸々々、責付て追懸る。角ては叶まじ、些引退て一度に返せと云程こそ有けれ、将軍の十万余騎、混引に引立て、曾て後を不顧。新田武蔵守義宗、旗より先に進で、「天下の為には朝敵也。我為には親の敵也。只今尊氏頚を取て、軍門に不曝、何の時をか可期。」とて、自余の敵共の南北へ分れて引をば少も目に懸ず、只二引両の大旗の引くに付て、何くまでもと追蒐給ふ。引も策を挙げ、追も逸足を出せば、小手差原より石浜まで坂東道已四十六里を片時が間にぞ追付たる。

☆ 武蔵野合戦のこと

三浦介との計画が反故になっているのを新田武蔵守義宗は全く気付かずに、時刻だけはどんどんと過ぎて行き、明けて正平七年(文和元年::1352年)閏二月二十日、辰刻(午前八時頃)に武蔵野の小手指原(所沢市)に進出しました。一方の大将として新田武蔵守義宗の五万余騎、白旗、中黒、

頭黒などの団扇を基本とした旗の児玉党、そのほか坂東八平氏や赤印一揆などの軍勢を五つに分け、五か所に陣を構えました。またもう一方には新田左兵衛佐義興を大将に総勢二万余騎、かたばみ、鷹の羽、一文字、十五夜の月弓一揆などの紋所の武者たちが、一人も退却することなど眼中になく、

五つの編成軍を作って周辺一帯に控えました。また他方では、脇屋左衛門佐義治を大将として二万余騎が、大旗、小旗、下濃の旗の軍勢や鍬形一揆、母衣一揆などがこれもまた五ヶ所に陣を構え、弓部隊を左右に前進させて、突撃部隊は後方に控えました。幕府軍は敵が小手指原に展開していると聞き、

将軍は十万余騎の軍勢を五つの軍に編成し、中道より攻め寄せました。先陣は平一揆の三万余騎で、小手の袋、四幅袴(ひざ丈位の袴)から笠印に至るまで皆、赤一色に統一されているので、ことさら輝いて見えました。次に控える二陣は白旗一揆の二万余騎が白葦毛(灰色)、白瓦毛(淡い黄褐色)

白佐馬(真っ白か象牙色)、月毛(クリームから淡い黄褐色)などの馬に乗り、練貫(ねりぬき::経糸に生糸、緯糸に練り糸を使用した平織物)の笠印に白旗をさしていましたが、敵軍にも白旗の部隊がいると聞き、慌てて短く切りました。続く三陣には花一揆、命鶴を大将にして六千余騎が萌黄、緋縅、紫糸、

卯の花縅(白糸の縅)などを褄取った(つまどった::鎧の袖などの端を縅糸と別色にしたもの)鎧に薄紅の笠印を着けて、梅の花一枝など折って兜の真ん前に挿したりしたので、四方から風が吹く度に、鎧の袖がほのかに匂うことでしょう。四陣は御所一揆と称した三万余騎が、二引両の家紋(足利の紋)を描いた旗のもと、

将軍尊氏を護衛し、一族の長者や国大名らが静かに馬を並べています。最後の第五陣としては仁木左京大夫頼章、その弟越後守義長、三男の修理亮義氏らの軍勢三千余騎が笠印も付けず旗もさすことなく、はるか後方に馬から降りて控えました。これは双方大軍同士の合戦ともなれば、

十度二十度と白兵戦を繰り返しているうちに、敵も味方も戦意がくじけ体力の消耗も激しくなります。その時、新手として戦闘に加わり、敵の大将が控えていると思われる場所に狙いをつけて奇襲するためです。やがて新田、足利両家の軍勢二十万騎が小手指原に対峙し、敵が三度鬨を作れば、

味方も三度鬨の声をあげました。上には三十三天(とう利天::須弥山の頂に位置し、閻浮提の上にある天界)まで響き、下には金輪際(大地の最下底)まで届いたのではないかと思われるぐらい激しいものでした。まず最初、新田左兵衛佐の二万余騎と平一揆ぼ三万余騎との戦闘が始まり、追いつ追われつ、

ぶつかっては離れる戦いを半時(約一時間)ばかりして、左右にサッと引き上げると、両軍で討たれた兵士は八百余人、傷を受けた者は未だ数えることが出来ないほどです。二番手には、脇屋左衛門佐の二万余騎と、白旗一揆の二万七千余騎が東西より同時に激突し、一ヵ所にサッと集まり入り乱れ、

火を散らしての戦いは、馬が駆け抜ける音や、太刀が上げる鍔音など、散らした火は天空で光り、音は大地に響き渡りました。ある者は取っ組み合いになって首を取ったり取られたりし、またある者は馬上で弓手(ゆんで::左手)妻手(めて::右手)に組みつき切り落とす者がいれば、切り落とされる者もいます。

流れる血は馬のひづめに蹴散らされ、紅葉に注ぐ雨のようで、屍は路傍に横たわり地面さえ見えなくなりました。追いまわしたり追い回されたりしながら、七、八度繰り返し戦い、東西にサッと分かれてみると、敵味方で討たれた者は、またもや五百人に上りました。三番手として、饗庭の命鶴、

今年十八歳で、その容貌は当世無類の美男子ですが、今日は花一揆の大将ですので、特に考えて花を一枝折って出陣し、花一揆六千余騎の真ん前に駆け出てきました。新田武蔵守はこの様子に、「花一揆を散らすため児玉党を当てよう、児玉の団扇紋の旗は風を送るためだ」と言って、

児玉党の七千余騎を向かわせました。花一揆の兵士は皆若武者なので、臆することなく敵にかかって行き、一合戦が出来そうに見えました。しかし児玉党七千余騎に揉み立てられると、一合戦もすることなくハッと退きました。このような一揆軍は今回の場合、一軍となって突撃し退く時は左右にサッと分かれて、

新手の軍勢と入れ替わってこそ、後に控えている軍勢は乱れることなく戦闘に加わることが出来ます。ところが今は軍としての組織も崩れてしまい、将軍の後ろに控えている後詰めの陣営に、ばらばらになって逃げ落ちて来るので、新手の軍勢はこの退却兵が邪魔になって進むことが出来ない上、

敵は機に乗じて勝鬨を作りながら、攻め込み追い回しました。これでは戦いにならない、この際一旦退却しその後反撃に移ろうと考えたものの、将軍の十万余騎は、ただただ退却に退却を続け、後方の様子など顧みるいとまもありません。新田武蔵守義宗は旗の前に進み出て、「天下にとっては朝敵であり、

我々にとっては親の仇である。ここはただ尊氏の首を取り、軍門にさらさないでは何の意味があるのか」と言って、そのほかの敵どもが、南北に分かれて退却するのには全く関知せず、ただ二引両の大旗が退いて行くのを、どこまでも追いかけて行ったのです。退却軍も馬に激しく鞭を当てれば、追跡軍も馬の足を速めたので、小手指原より石浜まで、坂東道もすでに四十六里を過ぎて瞬く間に追いついたのでした。


将軍石浜を打渡給ひける時は、已に腹を切んとて、鎧の上帯切て投捨て高紐を放さんとし給ひけるを、近習の侍共二十余騎返合て、追蒐る敵の河中まで渡懸たると、引組々々討死しける其間に、将軍急を遁れて向の岸にかけ上り給ふ。落行敵は三万余騎、追懸る敵は五百余騎、河の向の岸高して、屏風を立たるが如くなるに、数万騎の敵返合せて、此を先途と支たり。日已に酉のさがりに成て河の淵瀬も不見分、新田武蔵守義宗続ひて渡すに不及、迹より続く御方はなし。安からぬ者哉と牙を嚼て本陣へと引返さる。又将軍の御運のつよき所なり。新田兵衛佐と脇屋左衛門佐とは一所に成て、白旗一揆が二三万騎北に分れて引けるを、是ぞ将軍にておはすらん。何くまでも追攻て討んとて、五十余町迄追懸て行処に、降参の者共が馬より下、各対面して色代しける程に、是に会尺んと、所々にて馬を控へ会尺し給ひける間、軍勢は皆北を追て東西へ隔りぬ。義興と義治と僅に三百余騎に成てぞをおはしける。仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長は、元来加様の所を伺て未一戦もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、是を見て、「末々の源氏、国々のつき勢をば、何千騎討ても何かせん。あはれ幸や、天の与へたる所哉。」と悦て、其勢三千余騎、只一手に成て押寄たり。敵小勢なれば、定て鶴翼に開て、取篭んずらんと推量して、義興・義治魚鱗に連て、轡をならべて、敵の中を破んと見繕ふ処に、仁木越後守義長是を屹と見て、「敵の馬の立様・軍立、尋常の葉武者に非ず。小勢なればとて、侮りて中を破らるな。一所に馬を打寄て、敵懸る共懸合すな。前後に常に目を賦て、大将と覚しき敵あらば組で落て首をとれ。葉武者かゝらば射落せ。敵に力を尽させて御方少も不漂、無勢に多勢不勝や。」と、委細に手立を成敗して一処に勢をぞ囲たる。案に不違義興・義治、目の前に引へて欺く敵に怺へ兼て、三百余騎を一手になし、敵の真中を懸破て、蜘手十文字に懸立んと喚て懸りけれ共、仁木越後守些も不轟。「真中を破らるな。敵に気を尽させよ。」と下知して、弥馬を立寄、透間もなく引へたれば、面にある兵計互に討れて颯と引けれ共、追ても更に不懸、裏へ通りて戦へども、面は些も不騒、東へ廻れ共西は閑なり。北へ廻れ共南は曾不轟。懸寄れば打違、組で落れば落重る。千度百度懸れ共、強陣勢堅くして大将退く事無れば、義興・義治気疲れて東を差て落て行。二十余町落延て、誰々討れたると計るに、三百余騎有つる兵共、百余騎討れて二百余騎ぞ残りける。義興甲の錣・袖の三の板切落されて、小手の余り・臑当のはづれに、薄手三所負ひたり。義治は太刀かけ・草摺の横縫、皆突切れて威毛計続たるに、鍬形両方被切折、星も少々削られたり。太刀は鐔本より打折ぬ。中間に持せたる長刀を持れけるが、峯はさゝらの子の如く被切て、刃は鋸の様にぞ折たりける。馬は三所まで被切たりけるが、下て乗替にのり給へば、倒れて軈て死にけり。両大将如此、自戦て疵を被る上は其已下の兵共痛手を負、切疵の二三箇所負ぬ者は希也。新田武蔵守、将軍をば打漏しぬ。今日は日已に暮ぬれば、勢を集て明日石浜へ寄んとて小手差原へ打帰る。「兵衛佐殿何くにか引へ給ぬる。」と行合ふ兵共に問給へば、「兵衛佐殿と脇屋殿とは、一所に引て御渡り候つるが、仁木殿に打負て、東の方へ落させ給候つる也。」とぞ答ける。さて爰に見へたる篝は、敵歟御方かと問給へば、「此辺に御方は一騎も候まじ。是は仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆の者共が、焼たる篝にてぞ候覧。小勢にて此辺に御坐候はん事は如何と覚候へば、夜に紛て急ぎ笛吹峠の方へ打越させ給候て、越後・信濃勢を待調へられ候て、重て御合戦候へかし。」と申ければ、武蔵守暫思案して、「げにも此義然べし。」とて、「笛吹峠は何くぞ。」と、問々夜中に落給ふ。

将軍は石浜(東京都台東区、隅田川か?)を渡る時には、もうすでに腹を切ろうと思い鎧の上帯を切り捨て、高紐(鎧の前後を肩で結ぶ紐)も解こうとしているのを、側近くに仕えている侍たち二十余騎が引き返してきて、追いかけて来る敵が川の中頃まで渡って来ているのに、組み付き組み付き戦って討ち死にしていく間に、

将軍は危機を脱して向こう岸に駆け上りました。逃げ落ちて行く軍勢は三万余騎、それを追いかける軍勢の五百余騎ですが、川の向こう岸は高くまるで屏風を立てたようなので、数万騎の敵軍が引き返して来ると、ここを死処とばかり激しく防戦に努めました。日はすでに酉刻(午後六時頃)も過ぎようとし、

川の淵(深場)や瀬(浅場)の区別もつきにくくなり、新田武蔵守義宗もこのまま続けて渡河することは止めましたが、かと言って後に続く味方も期待できません。残念でならない上、悔しくて仕方ありませんが味方の本陣に引き返しました。これもまた、将軍の運の強さなのでしょう。

新田兵衛佐と脇屋左衛門佐とは一ヶ所に集まると、白旗一揆の二、三万騎が北に分かれて退却していくのを見て、きっとこの中に将軍がおられるのだろう。何処までも追いかけ討ち取ろうと思い、五十余町(一町は六十間、約109メートル)ほど追いかけて行きましたが、降伏した兵士らが馬から降りて、

いちいち対面の上挨拶をしてくるので、これに相手をしなければと、所々で馬を止め挨拶をしている間に軍勢は皆、逃走する軍勢を追って東西に離れていきました。そのため義興と義治に従う軍勢は僅か三百余騎になってしまいました。足利勢の仁木左京大夫頼章と弟の越後守義長は戦況を見ながら機をうかがい、

まだ一度も戦わずに馬を休めて葦原の中に隠れていましたが、この状況を見て、「末端の源氏どもや、国々の寄り集まりの兵士らを、何千騎と討ち取っても何の意味もない。なんと言う幸運だろう、これこそ天から与えられた好機だ」と喜び、従う勢三千余騎全てが一つの軍団になって押し寄せました。

迎える義興、義治は敵はこちらを小勢と見て、きっと鶴翼に陣形を開き、取り囲むに違いないと考え、義興と義治は魚鱗の陣形に組み、馬の轡をそろえ敵の中央突破を敢行しようと機をうかがっていると、仁木越後守義長はぐっとにらみつけ、「敵の馬の配置、軍の編成など普通の雑兵とは思えない。

小勢だからと油断して中央を突破されるな。一ヶ所に馬を集め、敵がかかって来ても相手をするな。常に前後を目くばりし、大将とおぼしき敵がいれば、組み合い馬から落として首を取れ。雑兵が向かって来れば射落とすことだ。敵がどんなに抵抗しようとも、味方は少しもひるむことはない、

無勢が多勢に勝ったためしはないのだ」と事細かく指示し、一ヶ所に兵を集めました。案の定義興、義治は目の前に控えて何も仕掛けない敵に我慢が出来ず、三百余騎を一つにまとめて敵の中央を突破し、蜘蛛手十文字(四方八方に縦横み駆け回る)に攻撃を仕掛けようと、わめきながらかかってきましたが、

仁木越後守は全く動じることはありませんでした。「真ん中を突破されるな、敵を精神的に追い詰めることだ」と命令し、少し馬を寄せ手隙間なく控えると、前面の兵だけがお互いに討たれてはサッと引き上げますが、追撃をしても応戦することなく、後方にまわって戦っても前線は少しも慌てることなく、

東に回ってみても西は静かです。北に回り込んでも南は全く静まり返っています。駆け寄れば応戦し、組み討ちになると共に落ち重なります。千度百度としつこく攻撃しても陣営の守りは固く、決して大将が退く気配もしないので、義興、義治は戦意消失し、東に向かって落ちて行きました。

二十余町ほど落ち延びてから、討たれた者を調べてみると、三百余騎いた兵士らは百余騎が討たれ、残っているのは二百余騎でした。義興は兜の錣(しころ::兜から垂らして首や襟を護るもの)と袖の三の板を切り落とされ、小手の余りや脛当てのはずれに浅い傷を三ヶ所受けていました。

また義治は太刀かけ(弓を射る時敵に向き合うため強固に作った所)や草摺の横縫い(鎧の胴部分と縫い合わせた糸)など皆切られて、威した糸だけが残っており、鍬形(くわがた::兜の頭部につけた角のようなもの)は両方とも切断され、星(兜の表面についているいぼ状の突起)も少々削られていました。

太刀は鍔の根元から折れてしまいました。そこで中間に持たせていた長刀を手にしていますが、峰(みね::刀の背の方)の部分はざらざらになり、刃の部分はのこぎり状になっています。馬は三ヶ所を切られてしまい、乗り換え用の馬に乗ったのですが、前の馬は倒れるとすぐに死んだのでした。

両大将ともこのような状態であり、自ら戦闘に参加して傷を受けるようなことでは、従う兵士らが負傷を負ったり傷の二、三ヶ所を受けていない者などほとんどいません。新田武蔵守義宗は将軍尊氏を討ち漏らしたのです。今日はすでに日も暮れたので、軍勢を集めると明日、石浜に攻め込むことにして、

小手指原に引き上げました。「兵衛佐殿はどこに居られるのか」と、行き交う兵士らに問いかけると、「新田兵衛佐殿と脇屋義治殿は一ヶ所に居られましたが、仁木殿に負けて東の方に落ちられました」と、答えがありました。ところでこのあたりに見えている篝火は、敵なのかそれとも味方なのかと問うと、

「このあたりに味方は一騎もいません。この篝は仁木殿兄弟の軍勢か、白旗一揆の兵どもが燃やしている篝に違いありません。小勢でこのあたりにいるのは危険極まりないと思いますので、夜に紛れて急いで笛吹峠(うすいとうげ::埼玉県鳩山町と嵐山町の境にある峠)の方に行かれて、越後、信濃勢の到着をお待ちになり、軍勢の編成が出来れば改めて合戦をされれば如何でしょうか」と話されると、武蔵守はしばらく思案して、「確かに言われる通りだ」と、言って、「笛吹峠はどこだ」と、夜になってから道中を確認しながら落ちられました。


○鎌倉合戦事
新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐二人は、纔に二百余騎に被打成、武蔵守に離れぬ、御方の勢共は何地へか引ぬらん。浪にも不著礒にも離たる心地して、皆馬より下居て休まれけるが、「此勢にては上野へも帰り得まじ。落て可行方もなし。可打死命なれば、鎌倉へ打入て、足利左馬頭に逢て、命を失はゞや。」と宣へば、諸人皆此義に同じて、混ら討死せんと志し、思々の母衣懸て、鎌倉へとぞ趣れける。夜半過程に関戸を過給けるに、勢の程五六千騎も有らんと覚て、西を指て下る勢に行合給て、是は搦手に廻る勢にてぞ有らん。さては鎌倉までも不行著して、関戸にてぞ、尸をば可曝にて有けりと、面々に思定て一処に馬を懸寄せ、「是は誰殿の勢にて御渡候ぞ。」と問れければ、「是は石堂入道・三浦介、新田殿へ御参候也。」とぞ答ける。義興・義治手を拍て、こはいかにと悦給ふ事無限。只魯陽が朽骨二たび連て韓搆と戦を致し時、日を三舎に返しゝ悦も、是には過じとぞ覚ける。軈て此勢と打連れて、神奈河に著て鎌倉の様を問給へば、「鎌倉には将軍の御子息左馬頭基氏を警固し奉て、南遠江守、安房・上総の勢三千余騎にて、けはひ坂・巨福呂坂を切塞で用心密く見へ候しが、昨日の朝敵三浦に有と聞て、打散さんとて向はれ候しか共、虚言にて有けりとて、只今鎌倉へ打帰給て候よ。」とぞ語りける。「さては只今の合戦ごさんなれ、爰にて軍の用意をせよ。」とて、兵粮を仕ひ馬に糟かはせて、三千余騎二手に分て、鶴岳へ旗指少々差遣て大御堂の上より真下にぞ押寄たる。鎌倉勢は只今三浦より打帰て、未馬の鞍をもをろさず鎧の上帯をも解ぬ程なれば、若宮小路へ打出て、只一所に引へたり。小俣小輔次郎をば、今日の軍奉行と今朝より被定たりければ、手勢七十三騎ひつ勝て、敵の村立て引へたる中へつと懸入、火を散て切乱す。三浦・葦名・二階堂の兵共、案内は知たり、人馬は未疲、此谷彼の小路より、どつと喚ては懸入り、颯と懸破ては裏へ抜、谷々小路々々に入乱てぞ戦たる。兵衛佐義興は、浜面の在家のはづれにて、敵三騎切て落し、大勢の中をつと懸抜ける処にて、小手の手覆を切ながさるゝ太刀にてゝ手綱のまがりをづんと切れて、弓手の片手綱土にさがり馬の足に蹈れけるを、太刀をば左の脇に挟み、鐙の鼻に落さがり、左右の手縄を取合て結れけるを、敵三騎能隙哉と馳寄て、胄の鉢と総角著とを三打四打したゝかに切けれ共、義興些も不騒、閑に手綱を結て鞍坪に直り給へば、三騎の敵はつと馬を懸のけて、「あはれ大剛の武者や。」と、高声に二声三声感じて御方の勢にぞ馳著たる。塔辻の合戦難義也と見へければ、脇屋左衛門佐と、小俣小輔二郎と一手に成て、二百余騎喚ひて懸られけるに、南遠江守被懸立て、旗を巻て引退くを見て、谷谷に戦ける兵共、十方へ落散ける間、一所に打寄事不叶して、百騎二百騎思々に落て行。され共三浦・石堂が兵共、余に戦くたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江守は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜を差て被落けり。新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐、二月十三日の鎌倉の軍に打勝てこそ、会稽の恥を雪るのみに非ず、両大将と仰がれて、暫く八箇国の成敗に被居けり。

☆ 鎌倉合戦のこと

さて新田左兵衛佐と脇屋左衛門佐の二人は僅か二百余騎にまで打ちのめされ、武蔵守とも離れてしまい、味方の軍勢もどこへ退却したのかも分かりません。波に乗ることも出来ず磯からも離れてしまった舟に乗っている気分で、全員馬から降りて休んでいましたが、

「この軍勢では上野に帰ることも難しいだろうし、落ちて行こうにも行くあてもない。どうせ討ち死にするなら、鎌倉に侵攻し足利左馬頭基氏と勝負し、死のうではないか」と話されたので、皆この考えに同調し討ち死にを覚悟して、思い思いの母衣(ほろ::鎧の背にかける流れ矢防止の布)をかけて鎌倉に向かいました。

夜半を過ぎる頃、関所の門を通り過ぎると、五、六千騎もいるかのような軍勢が、西に向かって下って行くのに行き会い、これは搦手に回ろうとする軍勢に違いないだろう。すると、鎌倉まで行き着くことなく、この関所で屍をさらすことになるのかと皆は覚悟を決め、一ヶ所に馬を駆け寄せて、

「これは一体どなた殿の軍勢でございますか」と、問うてみたところ、「これは石塔入道と三浦介の軍勢で、新田殿の陣営に参るところでございます」と、答えがありました。義興と義治は手を叩き、何と言うことだと大喜びしました。たとえるなら、楚国の魯陽が老骨に鞭うって韓搆との合戦を行った時、

日が暮れようとしたのを沈む夕日を差し招いて、軍隊三日ほどの行程分の時間を引き戻すことが出来た喜びも、今のこの喜びほどではないと思えました。すぐこの軍勢と合流し、神奈川に到着してから鎌倉の様子を聞いてみると、「鎌倉では将軍の御子息左馬頭基氏を警固のため、

南遠江守が安房、上総の軍勢三千余騎で化粧坂、巨福呂(小袋)坂を閉鎖して用心深く見えました。ところが昨日の朝、敵が三浦に現れたと聞いたので、撃退しようと向かわれたのですが間違いだと分かり、ついさっき鎌倉にお帰りになりました」と、話しました。「それなら今すぐ合戦をしよう、

ここで戦いの用意をしろ」と言って、兵糧をすませ馬にもぬかを食わせると、三千余騎を二手に分け、鶴岳(鶴岡八幡宮の裏山か?)に旗指物を少しばかり立てて、大御堂の上から真下に向かって押し寄せました。鎌倉勢はたった今三浦より帰ってきたところであり、まだ馬から鞍を下していないし、

鎧の上帯も解いていないので、すぐに若宮小路に進出し一ヶ所に集まって控えました。小俣少輔次郎は今朝より本日の軍奉行に決められていたので、手勢七十三騎を選りすぐって、敵が群がっている中に駈け入り、火花を散らして切りまくりました。三浦や葦名、二階堂の兵士らは地理に詳しい上人馬もまだ疲れていませんから、

ここかしこの谷(やつ::山と山の間に開けた道)や小路よりドッとわめき声を上げては駆け込むと、サッと駆け抜けて裏に回ったり、谷々小路々に入り乱れて戦いました。左兵衛佐義興は浜面のある民家のはずれで敵を三騎切り落とし、大軍の中を駆け抜ける時、籠手を覆っている部分を切られると、

そのはずみに太刀によって手綱の中ほどが切られ 左手で握っていた手綱が下に落ちて馬に脚で踏まれたので、太刀を左の脇に掻い込み、鐙の鼻にぶら下がって左右の手綱を手繰り寄せて結んだのですが、そこに敵の三騎がここが好機とばかり駆け寄ってくると、兜の鉢と鎧の後ろ部分を三度四度と激しく切り込んだのですが、

義興はいささかも慌てることなく、静かに手綱を結わえると鞍に坐り直すのを見て、「これは見事な勇猛なる武者だ」と、声高に二、三度声を上げると味方の軍勢に駆け戻りました。やがて塔ノ辻(道路が交差する辻に塔が建てられている所、鎌倉には七ヶ所あった)での合戦は困難だと思えたので、

脇屋左衛門佐と小俣少輔次郎の軍勢は一緒になり、その二百余騎がわめきながら突撃を仕掛けたため、南遠江守は攻め込まれ、旗を巻いて退却にかかったのを見て、そこかしこの谷(やつ)で戦っていた兵士らが、四方八方に逃げ散る有様に、とても一ヶ所に集合することは不可能になり、

百騎、二百騎と思い思いに落ちて行きました。しかし、三浦介や石塔の兵士らもあまりにも戦いの疲れがひどく、それほど敵を追撃しなかったため、南遠江守はこの合戦に討たれることもなく、左馬頭基氏をお連れし、石浜に向かって落ちられました。新田左兵衛佐と脇屋左衛門佐は正平七年(文和元年::1352年)二月十三日に行われた鎌倉の合戦に勝利を収めることによって、会稽の恥を雪いだだけでなく、両大将とあがめられ、しばらくは東八ヶ国の支配権を持つことになりました。      (終り)

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