31 太平記 巻第三十一 (その二)


○笛吹峠軍事
新田武蔵守は、将軍の御運に退緩して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵国を前になし、越後・信濃を後に当て、笛吹峠に陣を取てぞおはしける。是を聞て打よる人々には、大江田式部大輔・上杉民部大輔・子息兵庫助・中条入道・子息佐渡守・田中修理亮・堀口近江守・羽河越中守・荻野遠江守・酒勾左衛門四郎・屋沢八郎・風間信濃入道・舎弟村岡三郎・堀兵庫助・蒲屋美濃守・長尾右衛門・舎弟弾正忠・仁科兵庫助・高梨越前守・大田滝口・干屋左衛門大夫・矢倉三郎・藤崎四郎・瓶尻十郎・五十嵐文四・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野八郎・禰津小二郎・舎弟修理亮・神家一族三十三人・繁野一族二十一人、都合其勢二万余騎、先朝第二宮上野親王を大将にて、笛吹峠へ打出る。将軍小手差原の合戦に無事故、石浜にをはする由聞へければ、馳参れける人々には、千葉介・小山判官・小田少将・宇都宮伊予守・常陸大丞・佐竹右馬助・同刑部大輔・白河権少輔・結城判官・長沼判官・河越弾正少弼・高坂刑部大輔・江戸・戸島・古尾谷兵部大輔・三田常陸守・土肥兵衛入道・土屋備前々司・同修理亮・同出雲守・下条小三郎・二宮近江守・同河内守・同但馬守・同能登守・曾我上野守・海老名四郎左衛門・本間・渋谷・曾我三河守・同周防守・同但馬守・同石見守・石浜上野守・武田陸奥守・子息安芸守・同薩摩守・同弾正少弼・小笠原・坂西・一条三郎・板垣三郎左衛門・逸見美濃守・白州上野守・天野三河守・同和泉守・狩野介・長峯勘解由左衛門、都合其勢八万余騎、将軍の御陣へ馳参る。鎌倉には、義興・義治七千余騎にて、著到を付ると聞へ、武蔵には新田義宗・上杉民部大輔、二万余騎にて引へたりと聞ゆ。何くへ可向と評定有けるが、先勢の労せぬ前に、大敵に打勝なば、鎌倉の小勢は不戦共可退散、衆議一途に定て、将軍同二月二十五日石浜を立て、武蔵府に著給へば、甲斐源氏・武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野守・同甲斐前司・同安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越後守・一条四郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸守・下山十郎左衛門、都合二千余騎にて馳参る。同二十八日将軍笛吹峠へ押寄て、敵の陣を見給へば、小松生茂て前に小河流たる山の南を陣に取て、峯には錦の御旗を打立、麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の文書たる旗共、其数満々たり。先一番に荒手案内者なればとて、甲斐源氏三千余騎にて押寄たり。新田武蔵守と戦ふ。是も荒手の越後勢、同三千余騎にて相懸りに懸りて半時許戦ふに、逸見入道以下宗との甲斐源氏共百余騎討れて引退く。二番に千葉・宇都宮・小山・佐竹が勢相集て七千余騎、上杉民部大輔が陣へ押寄て入乱々々戦ふに、信濃勢二百余騎討れければ、寄手も三百余騎討れて相引に左右へ颯と引。引けば両陣入替て追つ返つ、其日の午刻より酉刻の終まで少しも休む隙なく終日戦ひ暮してけり。夫れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申は、先後に山をあて、左右に水を堺ふて敵を平野に見下し、我勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒替る/\射手を進めて戦ふ者也。此陣幸に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守若武者なれば、毎度広みに懸出て、大勢に取巻れける間、百度戦ひ千度懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂に打負て、笛吹峠へぞ引上りける。

☆ 笛吹峠での合戦のこと

新田武蔵守義宗(新田義貞の三男)は将軍尊氏の強運になすすべもなく、石浜での合戦で本望を遂げることが出来なかったので、武蔵国の軍勢を前面に、越後、信濃国の軍勢を後方に置いて笛吹峠に陣を構えました。この状況を聞きつけて人々が駆けつけて来ました。大江田式部大輔、

上杉民部大輔、その子息兵庫助、中条入道、その子息佐渡守、田中修理亮、堀口近江守、羽河越中守、荻野遠江守、酒匂左衛門四郎、屋沢八郎、風間信濃入道、その弟村岡三郎、堀兵庫助、蒲屋美濃守、長尾右衛門、その弟弾正忠、仁科兵庫助、高梨越前守、大田滝口、干屋左衛門大夫、

矢倉三郎、藤崎四郎、瓶尻十郎、五十嵐文四、同じく文五、高橋大五郎、同じく大三郎、友野十郎、繁野八郎、禰津小二郎、その弟修理亮、神家一族の三十三人、繁野一族二十一人など総勢二万余騎が、先帝後醍醐の第二の宮、上野親王(宗良親王)を大将にして笛吹峠に進出しました。

対して将軍尊氏が小手指原の合戦で何事もなく、現在石浜に居られると聞いいて駆け参じて来る人たちは、千葉介、小山判官、小田少将、宇都宮伊予守、常陸大丞、佐竹右馬助、同じく刑部大輔、白河権少輔、結城判官、長沼判官、河越弾正少弼、高坂刑部大輔、江戸、戸島、古尾谷兵部大輔、

三田常陸守、土肥兵衛入道、土屋備前前司、同じく修理亮、同じく出雲守、下条小三郎、二宮近江守、同じく河内守、同じく但馬守、同じく能登守、曾我上野守、海老名四郎左衛門、本間、渋谷、曾我三河守、同じく周防守、同じく但馬守、同じく石見守、石浜上野守、武田陸奥守、その子息安芸守、

同じく薩摩守、同じく弾正少弼、小笠原、坂西、一条三郎、板垣三郎左衛門、逸見美濃守、白洲上野守、天野三河守、同じく和泉守、狩野介、長峯勘解由左衛門ら総勢、八万余騎が将軍の陣営に駆けつけて来ました。また鎌倉には義興、義治が七千余騎を率いて到着したと情報が入り、

武蔵には新田義宗、上杉民部大輔らが二万余騎で控えていると言われています。どちらを攻撃すべきか相談しましたが、我が軍勢が元気な内に、まず大敵に向かい勝利を収めれば、鎌倉の小勢は合戦に及ぶ前に退却するだろうと衆議一致し、将軍は正平七年(文和元年::1352年)二月二十五日に石浜を発ち、

武蔵国府(東京都府中市)に到着したところ、甲斐源氏、武田陸奥守、同じく刑部大輔、その子息修理亮、武田上野守、同じく甲斐前司、同じく安芸守、同じく弾正少弼、その弟薩摩守、小笠原近江守、同じく三河守、その弟越後守、一条四郎、板垣四郎、逸見入道、同じく美濃守、その弟下野守、

南部常陸守、下山十郎左衛門らが二千余騎を率いて駆けつけて来ました。二月二十八日、将軍は笛吹峠に押し寄せ、敵の陣を注意深く見てみると、松が生い茂り、前には小川が流れている山の南に陣を構え、山頂には錦の御旗を立て、麓には白旗、中黒、棕櫚葉(しゅろよう)

梶葉(カジノキの葉)などの紋が書かれた多くの旗が、その数も分からないほどはためいています。まず最初に地理に詳しい上、元気な軍勢だと言うことで、甲斐源氏が三千余騎で押し寄せ、新田武蔵守と戦いました。こちらも新手の越後勢、三千余騎が正面から互いに激突し、半刻(約一時間)ばかり戦った結果、

逸見入道以下主なる甲斐源氏ら百余騎が討たれ、退き下がりました。二番手には千葉、宇都宮、小山、佐竹らの軍勢が集まり、七千余騎となって上杉民部大輔の陣営に押し寄せ、入り乱れての激しい戦闘の結果、信濃の軍勢が二百余騎討たれ、また寄せ手も三百余騎が討たれ、

双方とも左右にサッと引き上げました。その後両軍とも新手と入れ替わり、追いつ追われつの戦いがその日の午刻(正午)から酉刻(午後六時)が終わるまで、少しも休むことなく一日中戦い続けました。そもそも小勢でもって大敵と戦うには、鳥雲の陣立て(鳥や雲の集散が変幻自在なように、展開や密集が自在に出来る陣立て)に勝るものはありません。

鳥雲の陣とはまず後方に山を控えさせ、左右には水路による防御線をおき、敵を平地に見下ろして、我が軍勢は敵に見せず虎賁(こほん::前漢代に設立された皇帝直属の部隊名)狼卒(精兵)が入れ代わり立ち代わり射手を進め戦うことです。今のこの状況は幸いにも鳥雲の陣に合致しています。

時間をかけて戦えば有利に戦えるのを、武蔵守はまだ武者として若く経験も浅いので、幾度も広場に駆け出ては大軍に取り囲まれて、その度に百回戦って千回敵を蹴散らしたとしても、敵は信じられないほどの大軍ですから、新田、上杉軍はとうとう負けてしまい、笛吹峠に引き上げたのでした。


上杉民部大輔が兵に、長尾弾正・根津小次郎とて、大力の剛者あり。今日の合戦に打負ぬる事、身一の恥辱也と思ければ、紛れて敵の陣へ馳入、将軍を討奉らんと相謀て、二人乍ら俄に二つ引両の笠符を著替へ、人に見知れじと長尾は乱髪を顔へ颯と振り懸け、根津は刀を以て己が額を突切て、血を面に流しかけ、切て落したりつる敵の頚鋒に貫き、とつ付に取著て、只二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢道に横て、「誰が手の人ぞ。」と問ければ、「是は将軍の御内の者にて候が、新田の一族に、宗との人々を組討に討て候間、頚実検の為に、将軍の御前へ参候也。開て通され候へ。」と、高らかに呼て、気色ばうて打通れば、「目出たう候。」と感ずる人のみ有て、思とがむる人もなし。「将軍は何くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引へさせ給ひて候也。」と、指差て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔たる事草鹿の的山計に成にける。「あはれ幸や、たゞ一太刀に切て落さんずる者を。」と、二人屹と目くはせして、中々馬を閑々と歩ませける処に、猶も将軍の御運や強かりけん、見知人有て、「そこに紛て近付武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼りければ、将軍に近付奉らせじと、武蔵・相摸の兵共、三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る。根津と長尾と、支度相違しぬと思ければ、鋒に貫きたる頚を抛て、乱髪を振揚、大勢の中を破て通る。彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也。是等は只二騎なり、十方より矢衾を作て散々に射ける間、叶はじとや思けん、「あはれ運強き足利殿や。」と高らかに欺て、閑々と本陣へぞ帰りける。夜に入ければ、両陣共に引退て陣々に篝を焼たるに、将軍の御陣を見渡せば、四方五六里に及て、銀漢高くすめる夜に、星を列るが如くなり。笛吹峠を顧れば、月に消行蛍火の山陰に残るに不異。義宗也を見給て、「終日の合戦に、兵若干討れぬといへ共、是程まで陣の透べしとは覚ぬに、篝の数の余りにさびしく見るは、如何様勢の落行と覚るぞ。道々に関を居よ。」とて、栽田山と信濃路に、稠く関を居られたり。「夫士率将を疑ふ時は戦不利云事あり。前には大敵勝に乗て、後は御方の国国なれば、今夜一定越後・信濃へ引返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢不可有。舟を沈め糧を捨て、二度び帰じと云心を示すは良将の謀なり。皆馬の鞍をゝろし鎧を脱で、引まじき気色、人に見せよ。」とて、大将鎧を脱給へば士率悉鞍をおろして馬を休む。宵の程は皆心を取静めて居たりけるが、夜半許に続松をびたゝしく見へて、将軍へ大勢のつゞく勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部大輔、篝計を焼棄て、信濃へ落にければ、新田武蔵守、其暁越後へ落られけり。斯りし後は、只今まで新田・上杉に付順つる武蔵・上野の兵共も、未何方へも不著して、一合戦の勝負を伺ひ見つる上総・下総の者共も、我前にと将軍へ馳参りける程に、其勢無程百倍して、八十万騎に成にけり。新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門佐義治は、六千余騎にて尚鎌倉にをはしけるが、将軍已に笛吹峠の合戦に打勝て、八箇国の勢を卒して、鎌倉へ寄給ふ由聞へければ、義興も義治も、只此にて討死せんと宣ひけるを、松田・河村の者共、「某等が所領の内、相摸河の河上に究竟の深山候へば、只それへ先引篭らせ給て、京都の御左右をも聞召し、越後信乃の大将達へも被牒合候て、天下の機を得、諸国の兵を集てこそ重て御合戦も候はめ。」と、より/\強て申ければ、義興・義治諸共に、三月四日鎌倉を引て、石堂・小俣・二階堂・葦名判官・三浦介・松田・河村・酒勾以下、六千余騎の勢を卒して、国府津山の奥にぞ篭りける。

上杉民部大輔の兵士に長尾弾正、根津小次郎と言う大力を持つ勇猛な者がいます。今日の合戦に負けたことは、我が身にとって最大の屈辱と思い、敵の陣に紛れて駆け込み、将軍を討とうではないかと共謀し、二人ともすぐ二つ引両の足利の笠印に付け替え、人に顔を知られているのではないかと思い、

長尾は乱れた髪で顔を隠すように左右に振り分け、根津は刀で額を切りつけて流れる血を顔にたらし、切り落した敵の首を貫き刀の鍔近くに付けて、たった二騎だけで将軍の陣内に駆け込みました。数万の軍勢が途中横に居並び、「誰の家中の者だ」と、問われたので、

「私は将軍の身内の者ですが、新田の一族と思われる重鎮らと組み合って討ち取りましたので、首実験に供したく将軍の御前に参ろうとするものです。ここを開けて通して下され」と声高らかに呼びかけながら、それらしい態度を見せながら通り過ぎると、

「それはおめでとう」と感心する人は居ますが、不審に思う人はいませんでした。「将軍はどこにおられるのでしょうか」と問えば、ある人が、「あそこに控えておられます」と、指をさして教えてくれました。馬の上で伸びあがって見てみれば、その距離は草鹿(くさじし::板で鹿の姿を作り外側に皮や布を張り、

中には綿を入れて吊るし、弓の的にしたもの)の的ほどしかありません。「これはもっけの幸いだ。ただの一太刀で切り落として見せよう」と二人はキッと目配せして、はやる気持ちを抑えて静かに馬を歩ませていると、またもや将軍の運の強さなのか、彼らを見知った人があり、「そこで紛れ込んで近づく武者は、

長尾弾正と根津小次郎ではないか。将軍の近くに行かすな、危険だぞ」と皆に呼びかけたので、将軍のそばには行かすなと、武蔵や相模の兵士ら三百余騎が、中を開けて左右よりサッと駆け寄りました。根津と長尾は計画が失敗したと思い、刀に突き刺していた首を放り投げ、乱れた髪を振り回して大軍の中を突き破りました。

彼ら二人の間合いに入った敵は皆、兜の鉢を胸板まで真っ二つに割られ、腰のつなぎ目を切り落とされなかった者は一人としていませんでした。とは言っても敵は大勢であり、こちらはただの二騎に過ぎません。四方八方から矢を隙間もなく激しく射込まれれば、とても戦うことはできないと思ったのか、

「本当に運の強い足利殿だ」と声高に言い放って、しずしずと本陣に帰ったのでした。夜に入ると双方とも引き上げて、各陣ごとに篝火を燃やしましたが、中でも将軍の御陣を眺めてみると、四方五、六里にわたって、天の川が空高く澄み渡った夜空に、星を連ねているように見えました。

それにひきかえ、笛吹峠を振り返って見ると、月の明かりに消えそうな蛍のともしびが、山蔭に僅かに見えるのと大差ありません。義宗はこの様子を見て、「丸一日の合戦で兵士ら多数が討たれたとは言っても、これほど陣の数が少なくなるとは考えられない。篝の数があまりにも寂しく見えるのは、

間違いなく軍勢が落ち逃げたからだと思える。各街道に関所を設けるように」と言って、栽田山(うえたやま)と信濃路に関を設け、厳しく取り締まりました。「一般に士官や兵士が将官に疑いを感じる時に、戦闘が有利に進行することなどありません。前方には勝ちに乗じた敵がおり、後方は味方の国々であれば、

今夜には間違いなく越後や信濃に引き返そうと思うのではないかと、自分を疑わない軍勢などいませんでした。舟を沈め兵糧さえ捨て去り、二度と帰ることなど期さない覚悟を表すのも、優れた将官の取る一つの策でもある。ここは皆、馬の鞍を下し、鎧も脱いで絶対に退却などしない態度を示すように」と言って、

大将が鎧をお脱ぎになると、士卒ら皆は鞍を下し馬を休ませました。宵の内こそ皆は動揺することなくいましたが、夜半になると、おびただしい数のたいまつが見えて、多くの軍勢が将軍の陣営に向かって続いているのを見ると、明日の軍も到底勝ち目はないと思ったのか、

上杉民部大輔は篝火だけは焼き捨て、信濃に落ちられると、新田武蔵守も翌朝越後に落ちられたのです。その結果たった今まで新田や上杉に従っていた武蔵や上野の兵士らも、また未だどこにも属することなく、今後の合戦の勝負を見極めようとしていた、上総や下総の者どもも、

我先にと将軍の陣営に駆け込んだので、将軍の軍勢はすぐ百倍し、八十万騎になりました。新田左兵衛佐義興と脇屋左衛門佐義治は六千余騎を従えて未だ鎌倉にいますが、将軍がすでに笛吹峠の合戦に勝利を収め、東八ヶ国の軍勢を手中にし、鎌倉に攻め寄せようとしているらしいと聞こえてくると、

義興も義治もここで討ち死にしようと話されるのを、松田や河村の人々が、「我々の所領の中で、相模川の上流におあつらえ向きの深山がありますので、今はとりあえずそこに引き篭もり、京都の情報などお集めになり、越後や信濃の大将たちとも連絡を取り合って、天下の情勢変化を機敏にとらえることが出来れば、

諸国の兵士に招集をかけて、再度の合戦をされるが良いのでは」と重ね重ね、また強く申し上げたので、義興と義治両者は正平七年(文和元年::1352年)三月四日鎌倉を引き上げ、石塔、小俣、二階堂、葦名判官、三浦介、松田、河村、酒匂以下が六千余騎の軍勢を率いて、国府津山(こうづやま)の奥地に立て篭もりました。


○八幡合戦事付官軍夜討事
都には去月二十日の合戦に打負て、足利宰相中将殿は近江国へ落させ給ひ、持明院の本院・新院・主上・春宮は、皆捕はれさせ給て、賀名生に遷幸成ぬ。吉野の主上は猶世を危て、八幡に御座あり。月卿雲客は、西山・東山・吉峯・鞍馬の奥などに逃隠れてをはすれば、帝城の九禁いつしか虎賁猛将の備へもなく、朝儀大礼の沙汰も無て、野干の棲と成にけり。桓武の聖代此四神相応の地を撰で、東山に将軍塚を築れ、艮の方に天台山を立て、百王万代の宝祚を修し置れし勝地なれば、後五百歳未来永々に至るまで、荒廃非じとこそ覚つるに、こはそも何に成ぬる世の中ぞやと、歎かぬ人も無りけり。宰相中将殿は、近江の四十九院に、はる/゛\とをはしけれ共、土岐・佐々木が外は、相従ふ勢も無りしが、東国の合戦に、将軍勝給ぬと聞へて、後より勢の付奉る事如雲霞。さらば軈て京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院を立て、三万余騎先伊祇代三大寺にして手を分つ。或漫々たる湖上に、山田・矢早瀬の渡舟の棹す人もあり。或は渺々たる沙頭に、堅田・高島を経て駒に鞭うつ勢もあり。旌旗水烟に翻て、竜蛇忽天にあがり、甲胄夕陽に耀て、星斗則地に列なる。中の院の宰相中将具忠卿、千余騎にて此勢を防ん為に、大津辺に控られたりけるが、敵の大勢なる体を見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未不近前に八幡へ引返さる。同十五日宰相中将殿京都に発向して、東山に陣をめさるれば、宮方の大将北畠右衛門督顕能、都を去て淀・赤井に陣を取る。同十七日に宰相中将殿下京に御移有て、東寺に御陣を召るれば、顕能卿淀河を引て、八幡の山下に陣をとる。未戦前に宮方の大将陣を去事三箇度なれば、行末とてもさぞ有んずらめと、憑少なくぞ見たりける。さは有り乍ら、八幡は究竟の要害なるに、赤井の橋を引て、畿内の官軍七千余騎にて楯篭りたり。三方は大河隔て橋もなく舟もなし。宇治路を後へ廻らば、前後皆敵陣にはさまりて、進退心安かるまじ、如何すべきと評定有て、東寺には猶国々の勢を待れける処に、細川陸奥守四国の勢を率して、三千余騎にて上洛せらる。又赤松律師則祐は、吉野殿より宮を一人申下し進せて、今までは宮方を仕る由にて有けるが、是もいかゞ思案したりけん。宮方を背きて京都へ馳来りければ、宰相中将殿は竜の水を得、虎の山に靠が如くに成て、勢京畿を掩り。同三月二十四日、宰相中将殿三万余騎の勢を率し、宇治路を回て木津河を打渡り、洞峠に陣を取んとす。是は河内・東条の通路を塞て、敵を兵粮に攻ん為也。八幡より北へは、和田五郎・楠次郎左衛門とを向られけるが、楠は今年二十三、和田は十六、何れも皆若武者なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉く危み思はれけるに、和田五郎参内して申けるは、「親類兄弟悉度々の合戦に、身を捨討死仕候畢。今日の合戦は又公私の一大事と存ずる事にて候上は、命を際の合戦仕て、敵の大将を一人討取候はずは、生て再び御前へ帰り参る事候まじ。」と、申切て罷出ければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々の勇士也と、感ぜぬ人は無りけり。去程に和田・楠・紀伊国勢三千余騎、皆荒坂山へ打向て爰を支んと引へたれば、細河相摸守清氏・同陸奥守顕氏・土岐大膳大夫・舎弟悪五郎、六千余騎にて押寄たり。山路嶮しく、峯高く峙たれば、麓より皆馬を蹈放ち/\、かづき連てぞ上たりける。斯る軍に元来馴たる大和・河内の者共なれば、岩の陰、岸の上に走り渡て散々に射る間、面に立つ土岐と細河が兵共、射しらまされて不進得。土岐悪五郎は、其の比天下に名を知れたる大力の早わざ、打物取て達者也ければ、卯の花威の鎧に鍬形打て、水色の笠符吹流させ、五尺六寸の大太刀抜て引側め、射向の袖を振かざいて、遥に遠き山路を只一息に上らんと、猪の懸る様に、莞爾笑上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打見て、突たる楯をかはと投棄て、三尺五寸の小長刀、茎短に取て渡合ふ。

☆ 八幡合戦のことと、官軍宮方が夜討ちをかけたこと

さて都では観応三年(文和元年、正平七年::1352年)閏二月二十七日の合戦に敗れた足利宰相中将義詮殿は近江国に逃げ落ち、持明院の本院(光厳上皇)、新院(光明上皇)、主上(崇高天皇)、春宮(直仁親王)らは全員捕えられ賀名生に遷幸されました。吉野の主上、後村上天皇はまだ油断はできないと、

八幡に留まっておられます。公卿、殿上人たちは西山、東山、吉峰、鞍馬の奥などに逃げ込み隠れていますから、都の皇居はいつの間にか朝廷直属の猛将による防御もなくなり、朝廷の公式の重要な儀式も行われず、キツネ(野干::やかん)の棲み処となってしまいました。

桓武天皇(第五十代天皇、在位::781-806年)の御代、この四神相応(しじんそうおう::東に流水、西に大道、南に窪地、北に丘陵がある所、四神の存在にふさわしい場所)の地を選び、東山に将軍塚を築かれ、艮(うしとら::東北)の方角には天台山(中国三大霊山の一つ)を摸して延暦寺を置き、朝廷万代の皇位を継承していく優れた土地なので、

後五百年(ごごひゃくねん::釈迦入滅後の二千五百年を五つの時期に分けたもの)はおろか未来永劫に至るまで、荒廃することなどあり得ないと思っていたのに、一体この世はどうなったのかと嘆かない人はいませんでした。宰相中将義詮殿は遠く近江の四十九院(地名)に居られますが、

土岐や佐々木以外に付き従う軍勢もいませんでした。しかし、東国で行われた合戦に、将軍尊氏が勝利を収めたと聞くと、その後は雲霞のように軍勢が集まりました。こうなれば即刻京都に攻め寄せようと、正平七年(文和元年::1352年)三月十一日、四十九院を進発し、三万余騎がまず伊祇代三大寺において軍勢を分割しました。

ある部隊は果てしなく広がる琵琶湖湖上に、山田や矢橋から渡し船の掉をさしたり、またある軍勢は広々とした砂浜を、堅田、高島を経由して馬に鞭をうちました。旌旗(せいき::旗やのぼり)は水煙の中に翻り、竜蛇(蛇が神となった竜)は瞬く間に天に昇り、甲冑は夕日に輝いて、まるで星が地に連なっているようです。

宮方の中院の宰相中将具忠卿は千余騎を率いて、この攻撃軍にあたるため大津周辺に控えていましたが、敵の大軍を見て、とても戦えるものではないと思われたのか、敵が近づく前に八幡へ引き返しました。同じく三月十五日、宰相中将殿も京都に向かって進発し、東山に陣を構えたところ、

宮方(南朝)の大将北畠右衛門督顕能は都を捨てて淀、赤井に陣を構えました。同じく十七日、宰相中将殿が下京に移動して東寺に陣を進めたところ、顕能卿は淀川を引き上げ八幡男山の麓に陣を構えました。まだ合戦も始まらないうちに、宮方の大将が陣を退くこと三度ともなれば、

この先とても見込みはないと頼りなく見えました。とは言っても八幡男山は屈強の要害である上、赤井の橋を落とし畿内の官軍七千余騎で立て篭もっています。山の三方は大河(桂川、宇治川、木津川)が流れ、橋もなければ舟もありません。幕府側では、宇治方面後方から攻撃をすれば、前後皆敵に挟まれ、

進退もおぼつかない、どうすれば良いだろうかと会議が持たれ、また東寺では諸国からの援軍を待っていました。そんな時、細川陸奥守が四国の軍勢三千余騎を率いて上洛してきました。また赤松律師則祐は吉野殿から宮(護良親王の皇子、陸良親王では?)を一人お迎えして、今までは宮方にお仕えしていましたが、

これも何をどう思ったのか、宮方をそむいて京都に駆けつけて来たので、宰相中将義詮殿は竜が水を得たかのように、また虎が頼るべき山に潜むようにして、その勢いは京都と周辺の国々に及びました。同じく正平七年(文和元年::1352年)三月二十四日、宰相中将殿は三万余騎を率い、

宇治路に迂回して木津川を渡り、洞ヶ峠に陣を構えることにしました。これは河内、東条からの街道を封鎖し、敵を兵糧攻めにするためです。八幡陣営では北方に和田五郎と楠木次郎左衛門正儀を派遣することにしましたが、楠木は今年二十三歳で、和田は十六歳です。どちらも若武者なので、

無鉄砲な合戦をするのではないかと、諸卿らが皆危惧していたところ、和田五郎が参内し、「親類や兄弟全員が度々の合戦に身を捨てて戦い、討ち死にしました。今日の合戦は、公私にとって一大事と考えておりますから、命をかけて合戦を行い、敵の大将一人を討ち取ることなしに、

生きて再び御前に帰参することはありません」と覚悟を披露して退出されたので、その場に居合わせた諸卿や国々の武将らは、なんともまあ代々続く勇者だと、感激しない人はいませんでした。やがて和田、楠木と紀伊国の軍勢三千余騎は全員荒坂山に向かい、ここの防御にあたろうと控えていると、

幕府側から細川相模守清氏、同じく陸奥守顕氏、土岐大膳大夫、その弟悪五郎らが六千余騎にて押し寄せてきました。山道が険しい上、峰も高くそびえ立っていますから、全員麓で馬をおり、担ぐように登りました。(?)元々このような戦闘に慣れている大和や河内の兵士らですから、岩の蔭からや、

岸の上を走り回って散々に射掛けてくるので、正面を進む土岐と細川の兵士らは、矢による攻撃にひるんで進むことが出来ません。土岐悪五郎は当時天下にその名を知られた大力と、素早い動作の持ち主であり、武器を持てば無類の豪傑ですから、卯の花縅(白一色に縅したもの)の鎧に鍬形(兜の前部に付ける前立ての一つ)を打ち、

水色の笠印を風にそよがせて、五尺六寸の大太刀を抜いて脇に隠すように引き寄せ、射向けの袖(鎧の左側の袖)を振りかざして、遥か遠くまで続く山道を一気に登ろうと、猪が駆け上るように、ニコッと笑いながら登る姿を見た和田五郎は、素晴らしい敵ではないかと、持っていた楯をガバッと投げ捨て、三尺五寸の小薙刀(長大化した物に対して、六尺までの従来の長さの柄を持つ物)を柄の先の方を持って渡り合いました。


爰に相摸守が郎従に、関左近将監と云ける兵、土岐が脇よりつと走抜て、和田五郎に打て蒐る。和田が中間是を見て、小松の陰より走出て、近々と攻寄て、十二束三伏暫堅めて放つ矢、関将監がゝらどうを、くさ目どほしに射抜れて、小膝をついてぞ臥たりける。悪五郎走寄て引起さんとしける処を、又和田が中間二の矢を番ふて、悪五郎が脇立のつぼの板、くつ巻せめてぞ射こうだる。関将監是を見て、今は可助く人なしと思けるにや、腰の刀を抜て腹を切んとしけるを、悪五郎、「暫し自害なせそ、助けんずる。」とて、つぼ板に射立られたる矢をば、脇立ながら引切て投棄、かゝる敵を五六人切臥、関将監を左の小脇に挟み、右手にて件の太刀を打振々々、近付く敵を打払て、三町許ぞ落たりける。跡に続ひて何くまでもと追懸ける和田五郎も討遁しぬ。不安思ひける処に、悪五郎が運や尽にけん、夕立に掘たる片岸の有けるを、ゆらりと越けるに、岸の額のかた土くわつと崩れて、薬研のやうなる所へ、悪五郎落ければ、走寄て長刀の柄を取延、二人の敵をば討てげり。入乱れたる軍の最中なれば、頚を取までもなし。悪五郎が引切て捨たりつる、脇立許を取て、討たる証拠に備へ、身に射立ふれたる矢ども少々折懸て、主上の御前へ参り合戦の体を奏し申せば、「初め申つる言ばに少しも不違、大敵の一将を討取て数箇所の疵を被りながら、無恙して帰り参る条、前代未聞の高名也。」と、叡感更に不浅。悪五郎討れて官軍利を得たりといへ共、寄手目に余る程の大勢なれば、始終此の陣には難怺とて、楠次郎左衛門夜に入て八幡へ引返せば、翌日朝敵軈て入替て、荒坂山に陣を取る。然ども官軍も不懸、寄手も不攻上、八幡を遠攻にして四五日を経る処に、山名右衛門佐師氏、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢卒して上洛す。路次の遠きに依て、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直に八幡へ推寄て一軍せんとて淀より向はれけるが、法性寺の左兵衛督爰に陣を取て、淀の橋三間引落し、西の橋爪に掻楯掻て相待ける間、橋を渡る事は叶はず、さらば筏を作り渡せとて、淀の在家を壊て筏を組たれば、五月の霖に水増りて押流されぬ。数日有て後、淀の大明神の前に浅瀬有と聞出して、二千余騎を一手になし、流を截て打渡すに、法性寺の左兵衛督只一騎、馬のかけあがりに控へて、敵三騎切て落し、のりたる太刀を押直して、閑々と引て返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、蓬くも敵に後をば見せられ候者哉。」とて追懸たり。「返すに難き事か。」とて、兵衛督取て返してはつと追散し、返し合ては切て落し、淀の橋爪より御山まで、十七度迄こそ返されけれ。され共馬をも切れず、我身も痛手を負ざれば、袖の菱縫吹き返しに立処の矢少々折懸て、御山の陣へぞ帰られける。山名右衛門佐、財園院に陣をとれば、左兵衛督猶守堂口に支て防がんとす。四月二十五日、四方の寄手同時に牒し合せて攻戦ふ。顕能卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎にて、園殿口に支て戦ふ。和田・楠・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科に支て戦ふ。軍未半なるに、高橋の在家より神火燃出て、魔風十方に吹懸ける程に、官軍烟に咽で防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引上る。四方の寄手二万余騎、則洞峠へ打上りて、土岐・佐々木・山名・赤松・々田・飽庭・宮入道、一勢々々数十箇所に陣を取、鹿垣結て、八幡山を五重六重にぞ取巻ける。細河陸奥守・同相摸守は、真木・葛葉を打廻て、八幡の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取て、敵と堀一重を隔てぞ攻たりける。五月四日、官軍七千余騎が中より夜討に馴たる兵八百人を勝りて、法性寺左兵衛督に付らる。左兵衛督昼程より此勢を吾陣へ集て、笠符を一様に著させ、誰そと問ば、進と名のるべしと約束して、夜已に二三更の程也ければ、宿院の後を廻て如法経塚へ押寄、八百人の兵共、同音に時をどつと作る。細河が兵三千余人、暗さは闇し分内はなし、馬放れ人騒で、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負、討るゝ者数を不知。遥なる谷底へ人なだれをつかせて追落されければ、馬・物具を捨たる事、幾千万共難知。一陣破れば残党全からじと見る処に、土岐・佐々木・山名・赤松が陣は些も動かず、鹿垣密く結て用心堅見へたれば、夜討に可打様もなく、可打散便りも無りけり。角ては何までか可怺、和田・楠を河内国へ返て、後攻をせさせよとて、彼等両人を忍て城より出して、河内国へぞ遣されける。八幡には此後攻を憑て今や/\と待給ける処に、是を我大事と思入れて引立ける和田五郎、俄に病出して、無幾程も死にけり。楠は父にも不似兄にも替りて、心少し延たる者也ければ、今日よ明日よと云許にて、主上の大敵に囲まれて御座あるを、如何はせんとも心に不懸けるこそ方見けれ。尭の子尭の如くならず、舜の弟舜に不似とは乍云、此楠は正成が子也。正行が弟也。何の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり。

その時相模守の家来で関左近将監と言う兵士が、土岐の脇よりツッと走り抜けて和田五郎にかかってきました。和田の中間がこれを見て小松の陰から走り出ると、近々と駆け寄り十二束三伏(こぶし十二握りと指三本の幅を加えた長さ)の矢を引き絞り、暫らくためて放つと、関将監は鎧の胴部分を射抜かれ、

膝をついて倒れました。悪五郎が走り寄り引き起こそうとしているところを、また和田の中間が二の矢を番えて、悪五郎の脇楯(わいだて)の壺板(右脇の隙間をふさぐための板)をくつ巻(鏃の根元部分)まで突き刺さるほど射かけました。(?)関将監はこの状況にもう誰も助けてはくれないだろうと、

腰の刀を抜き放ち腹を切ろうとしたのを、悪五郎が、「待てしばし、自害などするな、助けて進ぜよう」と言って、壺板に突き刺さっている矢を脇楯ごと引きちぎって投げ捨てると、かかってくる敵を五、六人ばかり切り伏せ、関将監を左の脇に挟み、右手は例の太刀を振り回して近づく敵を打ち払いながら、

三町ほどを逃げ落ちました。後を追いかけて来た和田五郎は二人を討ち取ることが出来ませんでした。しまったと思っていたところ、悪五郎も運が尽きたのか、夕立のため出来た崖のような所を、ゆっくりと飛び越そうとした時、崖の先端部分の土がドッと崩れて、薬研(やげん::漢方薬を粉末にする細長く深い器具)のような恰好をした場所に落ちたので、

和田五郎は走り寄って長刀の柄を長く持ち替え、二人の敵を討ち取りました。入り乱れての合戦の最中なので、首は取りませんでした。悪五郎が引きちぎって捨てた脇楯を持って、後々討ち取った証拠に変え、自分の鎧に刺さった矢を少しばかり折り、吉野殿(後村上天皇)の御前に参って合戦の様子を報告したところ、

「最初に言った言葉に少しも違わず、大敵の一将を討ち取り、その上数ヶ所に傷を受けながら無事に帰ってきたこと、前代未聞の手柄である」と、主上も大いに感心しました。悪五郎が討たれたことによって官軍は幾分有利になったと言え、寄せ手は目に余る大軍なので、何時までもこの陣に留まるわけにはいかないと、

楠木次郎左衛門は夜になってから八幡に引き返したので、翌日の朝には敵がすぐ入れ替わって荒坂山に陣を構えました。しかし官軍も攻撃をかけなければ、寄せ手も攻めようとはせず、八幡を遠巻きにして四、五日過ぎた頃、山名右衛門佐師氏が出雲、因幡、伯耆三ヶ国の軍勢を率いて上洛してきました。

都まで道中があまりにも遠いため、荒坂山の合戦に間に合わなかったことを無念に思って、すぐ八幡に攻め寄せ一戦しようと、淀より向かいましたが、法性寺の左兵衛督がここに陣を構えて、淀の橋を三間にわたって落とし、西の橋詰には垣根のように楯を立ならべて待ち受けているので、

橋を渡ることが出来ないため、ならば筏を作って川を渡ろうと、淀付近の民家を壊して筏に組みましたが、五月の長雨に増水していたため押し流されました。それから数日して淀の大明神の前に浅瀬があると聞き出し、二千余騎を一軍にまとめ、流れを横切るようにして渡ろうとしました。

その時法性寺の左兵衛督がただ一騎で、馬の駆け上がってくる場所に控え、敵を三騎切り落とし反り返った太刀を押し直すと、静々と引き返そうとしましたが、山名の兵士ら三千余騎が、「大将とお見受けしましたが、汚くも敵に後ろを見せるのか」と言って、追いかけました。「何の、引き返してやろうか」と言って、

兵衛督は引き返しては追う敵を追い散らし、敵に向かいあえば切り落とし、淀の橋詰より男山までに、十七度にわたって返しては反撃しました。しかしながら馬も切られることなく、我が身も負傷していないので、袖の菱縫い(飾り綴じ紐)や吹き返し(兜の横でに後方に反っている部分)に立った矢を少しばかり折れ刺さったままにして、

男山の陣営に帰られました。山名右衛門佐が財園院(薬園寺?)に陣を構えると、左兵衛督はなおも守堂口にて防衛しようとしました。正平七年(文和元年::1352年)四月二十五日、四方を取り囲んでいた寄せ手は、打ち合わせ通り同時に攻撃を仕掛けました。顕能卿の伊賀、伊勢の軍勢三千余騎は園殿口にて防戦しました。

また和田、楠木、湯浅、山本、和泉、河内の軍勢は佐羅科(さらしな::八幡山=男山西南)にて防衛戦をしました。戦闘が未だ半ば頃に、高橋の民家から不思議にも火が上がり、悪魔が起こすかのような風が四方八方に吹き荒れ、官軍は煙にむせびながらも防戦に努めましたがとても守り切れず、

全員八幡山に引き上げました。四方の寄せ手二万余騎はすぐ洞ヶ峠に上り、土岐、佐々木、山名、赤松、松田、飽庭、宮入道などが各軍勢毎に数十ヶ所に分かれて陣を構え、鹿垣(ししがき::竹や木を組んで防御する物)を組み、八幡山を五重六重に取り巻きました。細川陸奥守、

同じく相模守は真木、葛葉を迂回して八幡の西、尾崎、如法経塚(男山の西)の上に陣を構えて、敵と堀一本を隔てて攻めました。五月四日、官軍七千余騎の中から夜討ちに慣れた兵士ら八百人を選び、法性寺左兵衛督に預けました。左兵衛督は昼頃よりこの軍勢を自陣に集めて、

笠印を統一して誰かと問われれば、進と名乗ることと決めて、夜もすでに二、三更(午後九時から午前一時頃)になった頃、宿院の後ろを回って如法経塚へ押し寄せ、八百人の兵士らが声を揃えて鬨の声をあげました。細川の兵士ら三千余人は暗闇の中訳も分からず、馬は逃げ出し人は騒ぎ回り、

太刀を抜くことも出来ず、弓もひくことが出来ない状態なので、負傷者や討たれる兵士らその数さえ分かりません。はるか下の谷底に向かってなだれるように人が追い落とされたので、馬や、甲冑など捨てられた数など、幾千万に上るのか知りようがありません。一つの陣営が崩れると、

残る陣営も支えられないのではと思われましたが、土岐、佐々木、山名、赤松の陣営では何ら動揺することもなく、鹿垣を強固に組んで最大限の警戒をしているので、夜討ちを仕掛けることも出来なければ、追い散らす方法もありません。この状態では何時までここを支えられるのか、

この際和田、楠木正儀を河内国に返し、改めて後方より反撃させるのが良いだろうと、彼ら二人を城からひそかに出して、河内国に向かわせました。八幡ではこの後詰めの攻撃を頼りにして、今や遅しと待ち受けていましたが、今後の行動こそ自分にとって最高の見せ場だと意気込んでいた和田五郎は突然病に侵され、

間もなく死亡しました。また楠木は父に似るところもなく、兄とも違って性格的に優柔不断なところがあり、今日だ明日だと言うばかりで、天皇が大敵に囲まれておられるのに、何ら行動を起こすこともなく、かと言って策を練る様子もないのも情けない話です。尭(ぎょう::古代中国の伝説上の聖王、

後を継いだ舜とともに理想の天子とされる)の子供が尭のようでなく、舜(しゅん)の弟が舜に似ずとはよく言いますが、この楠木は正成の子供であり、正行の弟です。どういう訳で親にも似ず、またこれほど兄に劣るのかと、悪口を言わない人はいませんでした。


○南帝八幡御退失事
三月十五日より軍始て、已に五十余日に及べば、城中には早兵粮を尽し、助の兵を待方もなし。角ては如何が可有と、云囁程こそあれ。軈て人々の気色替て、只落支度の外はする態もなし。去程に是ぞ宗との御用にも立ぬべき伊勢の矢野下野守・熊野湯河庄司、東西の陣に幕を捨て、両勢三百余騎降人に成て出にけり。城の案内敵に知れなば、落る共落得じ。さらば今夜主上を落し進よとて、五月十一日の夜半計に、主上をば寮の御馬に乗進せて、前後に兵共打囲み、大和路へ向て落させ給へば、数万の御敵前を要り跡に付て討留進らせんとす。依義軽命官軍共、返し合せては防ぎ、打破ては落し進らするに、疵を被て腹を切り、蹈留て討死する者三百人に及べり。其中に宮一人討れさせ給ひぬ。四条大納言隆資・円明院大納言・三条中納言雅賢卿も討れ給ひぬ。主上は軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官が進せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛なる馬にめされたるを、一宮弾正左衛門有種追蒐進せて、「可然大将とこそ見進せ候。蓬くも敵に被追立、一度も返させ給はぬ者哉。」と呼はり懸て、弓杖三杖許近付たりけるを、法性寺左兵衛督屹と顧て、「悪ひ奴原が云様哉。いで己に手柄の程を見せん。」とて、馬より飛で下り、四尺八寸の太刀を以て、甲の鉢を破を砕けよとぞ打れたる。さしもしたゝかなる一宮、尻居にどうど打居られて、目くれ胆消にければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上遥に落延させ給ひにけり。古津河の端を西に傍て、御馬を早めらるゝ処に、備前の松田・備後の宮の入道が兵共、二三百騎にて取篭奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁れ給ふべし共不見けるが、天地神明の御加護も有けるにや、御鎧の袖・草摺に二筋当りける矢も、曾て裏をぞかゝざりける。法性寺左兵衛督、是までも尚離れ進せず、只一騎供奉したりけるが、迹より敵懸れば引返して追散し、敵前を遮れば懸破て、主上を落し進らせける処に、何より来るとも不知御方の兵百騎計、皆中黒の笠符著て、御馬の前後に候けるが、近付敵を右往左往に追散して、かき消様に失にければ、主上は玉体無恙して東条へ落させ給にけり。内侍所の櫃をば、初め給て持たりける人が田の中に捨たりけるを、伯耆大郎左衛門長生、著たる鎧を脱捨て、自荷担したりける。迹より追敵共、蒔捨る様に射ける矢なれば、御櫃の蓋に当る音、板屋を過る村雨の如し。され共身には一筋も不立ければ、長生兔角かゝくり付て、賀名生の御所へぞ参りける。多くの矢共御櫃に当りつれば、内侍所も矢や立せ給ひたるらんと、浅猿くて御櫃を見進せたれば、矢の跡は十三まで有けるが、纔に薄き桧木板を射徹す矢の一筋も無りけるこそ不思議なれ。今度忻て京都を攻られん為に、先住吉・天王寺へ行幸成たりし時、児島三郎入道志純も召れて参りたりけるを、「是が一大事なれば急東国・北国に下て、新田義貞が甥・子共に義兵を興させ、小山・宇都宮以下、便宜の大名を語ひて、天下の大功を即時に致す様に、智謀を運せ。」と仰出されければ、志純夜を日に継で関東へ下りたれば、東国の合戦早事散じて、新田義興・義治は河村の城に楯篭り、武蔵守義宗は越後国にぞ居たりける。勅使東国・北国に行向て、「君已に大敵に囲れさせ給ひて助の兵、力労ぬ。若神竜化して釣者の為に捕はれさせ給ひなば、天下誰が為にか争はん。」と、依義重可軽命習を申ければ、小山五郎・宇都宮少将入道も、「勅定に随ふ也。」とて、東国静謐の計略を可運由約諾す。義興・義治は尚東国に止て将軍と戦ひ、新田武蔵守義宗・桃井播磨守直常・上杉民部大輔・吉良三郎満貞・石堂入道、東山・東海・北陸道の勢を卒し二手に成て上洛し、八幡の後攻を致して朝敵を千里の外に可退と、諸将の相図を定て、勅使を先立てぞ上りける。去程に新田武蔵守義宗は、四月二十七日越後の津張より立て、七千余騎越中の放正津に著けば、桃井播磨守直常、三千余騎にて馳参る。都合其勢一万余騎、九月十一日前陣已に能登国へ発向す。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河国を立て、路次の軍勢を駈催し、六千余騎を卒して、五月十一日に先陣已に美濃の垂井・赤坂に著しかば、八幡に力を勠せんと遠篝をぞ焼たりける。是のみならず信濃の下の宮も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召具して、同日に信濃を立せ給ふ。伊予には土居・得能、兵船七百余艘に取乗て、海上より責上る。東山・北陸・四国・九州の官軍共、皆我国々を立しかば、路次の遠近に依て、縦五日三日の遅速は有とも、後攻の勢こそ近づきたれと、云ひ立程ならば、八幡の寄手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上は八幡を落させ給ひしかば、国々の官軍も力を落しはて、皆己が本国へぞ引返しける。是も只天運の時不至、神慮より事起る故とは云ながら、とすれば違ふ宮方の運の程こそ謀られたれ。

☆ 南朝の後村上天皇が八幡を引き上げられたこと

正平七年(文和元年::1352.年)三月十五日に合戦が始まってからすでに五十余日が過ぎ、八幡の城内では早くも兵糧が尽きてしまい、援軍の到着も期待できません。この事態にどうすれば良いのかと囁き合うばかりです。そのうち人々の態度にも変化があり、ただ逃げ落ちるための支度以外何もしなくなりました。

やがて、この人こそ重要なことに関して必要な伊勢の矢野下野守と熊野湯河庄司の二人は、東西の陣内に陣幕を捨て、両勢合わせて三百余騎が降伏を申し出ました。これによって城の状況が敵に知られることになれば、落ちていくことも不可能になるかもしれないので、

いっそ今夜中に天皇をお遷しするのが良いだろうと、五月十一日の夜半頃、天皇を寮(馬寮::馬の飼育などする役所)の馬にお乗せし、前後を兵士で取り囲み、大和路に向かって落ちて行くと、数万の敵兵が前を横切り後方について討ち取ろうとしました。忠義あふれる官軍は自分の命を顧みることなく、

引き返しては敵に向かって防戦し、前方を切り開いては落とし参らせする内、傷を受けて腹を切る者、踏みとどまって討ち死にする者など三百人を数えました。討たれた者の中には一人の宮がいました。その外四条大納言隆資、円明院大納言、三条中納言雅賢卿らも討たれました。

後村上天皇は軍勢に紛れて脱出を図るため、山本判官がお勧めになった黄糸縅の鎧を召され、栗毛(黒みを帯びた褐色で、たてがみと尾が赤褐色のもの)の馬に乗られているのを、一宮弾正左衛門有種が追いかけて来て、「しかるべき大将とお見受け致します。敵に追い立てられながら、

汚くも一度とて引き返さないのですか」と呼びかけながら駆け寄り、弓の長さ三本ばかりに近づいて来たのを、法性寺左兵衛督がキッと睨みつけ、「悪い奴ゆえの言いぐさか。よしっ、貴様に我が腕のほどを見せてくれよう」と言って、馬より飛び降りると、四尺八寸の太刀で兜の鉢を、割れよとばかりに打ち付けました。

これには強靭な肉体を持つ一宮も、尻もちをつくほどに打ちすえられたので、目がくらみ意識も薄れていく中、しばらく心を落ち着かせようと目を塞いでいる内に、天皇は遥か遠方まで落ち延びられたのでした。古津河(木津川?)の西岸に沿って、馬を速められていたところ、

備前の松田と備後の宮の入道の兵士ら二、三百騎が取り囲みました。四方八方から雨のように降り注ぐ矢に、とても逃げることなど不可能と思われましたが、天地神明の御加護があったのか、御鎧の袖や草摺りに中った矢も、決して裏まで突き抜けてはいませんでした。

法性寺左兵衛督はここまで決して天皇のおそばを離れることなく、ただ一騎でお供をしてまいりました。途中敵が後ろから追いついて来れば、引き返して追い散らし、また前方を遮る敵があれば蹴散らしながら、天皇が逃げ落ちられるのを助けて来ました。そしてここにきて、どこから現れたのか分かりませんが、

味方の兵士ら百騎ばかりが全員、中黒(新田の紋)の笠印を付け、御馬の前後に控えて、近づく敵があれば、右や左に追い散らし、かき消すようにいなくなる頃、天皇はお体何事もなく東条に落ちられたのでした。当初内侍所(八咫鏡)の櫃(ひつ::蓋が上方に開く箱)を持ち運んでいた人が、途中で田んぼの中に捨てたのを、

伯耆太郎左衛門長生(ながなり、ながたか?::名和長年の弟?)が身に着けていた鎧を脱ぎ捨て、みずから担いできました。後ろから追いかけて来る敵が、まき捨てるように矢を射かけて来るので、御櫃の蓋に中る音は、板屋根に打ち付ける激しいにわか雨と変わりありません。

しかし我が身には一筋の矢も立つことはなかったので、長生は何とか運び通し賀名生の御所に参内しました。多くの矢が御櫃に中っているので、内侍所にも矢が立っているのではと、不安いっぱいで御櫃を見てみると、矢の跡は十三まで数えられましたが、それでも薄い檜の板を射通した矢が一筋も無かったのも不思議な話です。

このたび計略をめぐらし京都を攻撃するために、まず住吉、天王寺へ行幸された時、児島三郎入道志純(しじゅん::児島高徳)が呼び寄せられ参内した時に、「この一大事に際し急ぎ東国、北国に下り、新田義貞の甥や子供らに義兵を募らせ、小山や宇都宮以下の頼りになる大名らに語り掛けて、

天下の大事に際してすぐに行動を起こし、勲功を上げさせるため策を練るように」と仰せられたので、志純は夜を日に継いで関東に下って見たところ、東国の合戦はすでに休戦し、新田義興、義治は河村の城に立て篭もり、武蔵守義宗は越後国にいます。勅使は東国、北国に向かい、「天皇はすでに大軍に取り囲まれ、

守るべき兵士は疲れ果てています。もし天皇が賊徒に捕らわれるようなことになれば、天下のことは一体誰のために戦えば良いのだ」と、忠義を尽くし生命を賭して戦うのが武士の務めだと話されると、小山五郎、宇都宮少将入道も、「勅諚に従いましょう」と言って、東国の騒乱を収めるよう策を練り、

実行することを約束しました。義興と義治は今後とも東国に留まって尊氏将軍と戦い続け、新田武蔵守義宗、桃井播磨守直常、上杉民部大輔、吉良三郎満貞、石塔入道らは、東山、東海、北陸道の軍勢を率い、二手に分かれて上洛し、八幡を後方から攻撃を行い、朝敵を千里のかなたに追い落とすため、

諸将との間で合図を定めて勅使を先頭に上洛しました。また新田武蔵守義宗は正平七年(文和元年::1352年)四月二十七日に越後の津張(新潟県魚沼市)を進発し、七千余騎が越中の放正津(富山県射水市)に着くと、桃井播磨守直常が三千余騎を率いて駆けつけて来ました。

総勢一万余騎となって九月十一日には、すでに先発隊が能登国に向かって発向しました。その外、吉良三郎や石塔も四月二十七日に駿河国を出発し、途中で軍勢を招集し六千余騎を率いて五月十一日に先発隊がすでに美濃国の垂井、赤坂に到着し、八幡の陣営に士気を伝えんと遠くから篝火を燃やしました。

これだけでなく、信濃にいる信濃宮(宗良親王::後醍醐天皇の皇子)も神家、滋野、友野、上杉、仁科、禰津以下の軍勢を招集して同日信濃を進発しました。伊予では土居、得能らが兵船七百余艘に乗り込んで、海上から攻め上りました。このように東山、北陸、四国、九州の官軍らも皆、それぞれの国々を出発しましたから、

遠征距離の違いによって例え四、五日のずれはあっても、後方からの攻撃軍が近づいているらしいと、噂されるようになれば、八幡の寄せ手軍は皆、退却することになったのを、今少し四、五日を待つことが出来ず、天皇は八幡を落ちられることになったので、諸国の官軍も戦意喪失して、皆、各々本国に引き返すことになりました。

このように好機を逸するのも天運のなす技で、神の御意向によって事を起こしているとは言っても、結局幕府が支える宮方の運の強さに左右されたのでしょう。      (終り)

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