32 太平記 巻第三十二 (その一)


○茨宮御位事
今度吉野殿と将軍と御合体の儀破れて合戦に及剋、持明院の本院・新院・主上・春宮・梶井二品親王まで、皆南方の敵に囚させ給て、或は賀名生の奥、或は金剛山の麓に御座あれば、都には御在位の君も御座さず、山門には時の貫首も渡せ給はず。此平安城と比叡山と同時に始まりて、已に六百余歳、一日も未斯る事をば不承及、是ぞ末法の世に成ぬる験よと、浅猿かりし事共也。されども角ては如何あるべきとて、天台座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤親王を成奉る。此宮は前門主の御振舞に様替て、遊宴奇物をも愛せさせ給はず、行業不退にして只吾山の興隆をのみ御心に懸られたりければ、靡き奉らぬ衆徒も無りけり。さて御位には誰をか即け進らすべきと尋求奉る処に、本院第二の御子、三条の内大臣公秀の御女三位殿の御局、後には陽禄門院と申しゝ御腹に生れさせ給たりしが今年十五に成せ給ふを、日野春宮権大進保光に仰て、南方へ取奉らんとせられけるが、兔角料理に滞て、保光京都に捨置奉りけるを尋出進せて、御位には即進せける也。此宮をば去年御継母宣光門女院の御計ひとして、妙法院の門跡へ御入室有べしとて、已御出家あらんとし給けるを、御外祖母広義門院より、内々北斗堂の実■法印に御占を問せ給たりければ、王位に即せ可給御果報御座す由を勘申たりける間、誠しからずとは乍思召、御出家の儀を止られて、日野右大弁時光に預置進せられける。其翌の年観応三年八月二十七日に俄に践祚有しかば、兆前の勘文更に一事も不違、実■法印忽に若干の叡感の忠賞に預りけり。

☆ 茨の宮が即位した皇位のこと

さてこのたび吉野殿後村上天皇と尊氏将軍との間で図られた南北両朝合併は不調に終わり、合戦に及んだ結果として、持明院の本院(光厳上皇)、新院(光明上皇)、主上(崇高天皇)、春宮(直仁親王)、梶井二品親王に至るまで、全員南朝宮方の敵に捕らわれて、賀名生の奥地や金剛山の麓に御座され、

都には在位されている天皇は居られませんし、現在山門延暦寺には貫主も居られない状態です。ここ平安京と比叡山とが同時に始まって以来、すでに六百余年が過ぎ、このような事態は一日とてなかったことです。これこそ末法の世になった証拠だと、嘆き悲しむばかりです。

とは言いながらこの状態を続ける訳にもいかず、天台座主には梶井二品親王の御弟子である承胤親王をお迎えしました。この宮様は前の門主とはその行いは大違いで、酒宴や珍奇な物などにあまり興味はなく、仏道修行一筋で、ただただ比叡山延暦寺の発展のみを心掛けておられますから、

尊崇しない衆徒などいませんでした。ところで天皇は誰に御即位願うのか人選を重ねていました。その頃、南朝では本院(光厳上皇)第二の皇子で、正親町三条の内大臣公秀の御息女で、三位殿の御局、後の陽禄門院の御腹にお生まれになった、今年十五歳になられた方を、日野春宮権大進保光に命じて、

南朝にお迎えしようとしましたが何かにつけ段取りがつかず、保光が京都にそのままにしていました。幕府側ではそのお方を探し出して天皇にお迎えしたのです。この宮は昨年、継母の宣光門女院のご配慮によって、妙法院の門跡にお入りになるため、すでに御出家されることになっていましたが、

外祖母である広義門院が、内々に北斗堂の実さん法印に占いをさせてみたところ、皇位につかれると良いことが続くことになるだろうと、占いの結果を申し上げたので、本当なのか疑いながらも御出家の件は中止され、日野右大弁時光に身柄をお預けになっていました。

そしてその翌年、観応三年(正平七年::1352年)八月二十七日、突然践祚されたので、以前の占い結果報告と違わなかったことにより、実そう法印は天皇より多額な恩賞を、にわかに手に入れることになりました。


○無剣璽御即位無例事付院御所炎上事
同九月二十七日に改元有て文和と号す。其年の十月に河原の御禊有て、翌の月大嘗会を被遂行。三種の神器をはしまさで、御即位の事は如何有べからんと、諸卿異儀多かりけれ共、武家強て申沙汰しける上は、只兔も角も其儀に随ふべしとて、織部の祭をば致されけるとぞ承る。夫人代百王の始は、鵜羽葺不合尊の第四王子、神日本磐余彦尊、大和国畝火橿原の宮にいまして、朝政をきこしめしたりしより以来、我君の御宇已に九十九代、三種の神器をはしまさで、御位を続せ給ふ事は、未其例を不聞と、有職を立る人々の欺申さぬは無りけり。帝都今静りて御在位安泰なるに付ても、先皇・両院・梶井宮、南山の奥に御座あれば、さこそ御心を悩さるらめと、主上御心苦き事に思召れければ、何にもして南山より盜出し奉らんと方便を被廻けれ共、主上・両上皇は南山の警固の兵密しくて可有御出様も無りけり。遥に程経て梶井宮許をぞ、兔角して盜出し進せける。同年の十月二十八日に国母陽禄門院隠させ給ひければ、天下諒闇の儀にて、洛中に物の音をもならさゞる事三月、禁裏椒庭殊更に物哀なる折節也。同二年二月四日、俄に矢火出来て院御所持明院殿焼にけり。回禄は天災にて尋常有事なれ共、近年打続き京中の堂社・宮殿残少く焼失ぬる事直事とも不覚、只法滅の因縁王城の衰微とぞ見へたりける。元弘・建武の乱より以来回禄に逢ぬる所々を数れば、先内裏・馬場殿・准后の御所・式部卿親王の常盤井殿・兵部卿宮の二条の御所・宣光門女院の御旧宅・城南離宮の鳥羽殿・竹田に近き伏見殿・十楽院・梨本・青蓮院・妙法院の白河殿・大覚寺殿の御旧迹・洞院左府の亭宅・大炊御門内府の亭・吉田内府の北白河・近衛殿の小坂殿・為世卿の和歌所・大覚寺御山庄・三条大納言棲馴し毘沙門堂・頼基が天の橋立跡旧て、塩竃の浦を摸せし河原院・中書王の古を慕て立し花園や、融の大臣の迹を慕千種宰相の新亭、雲客以下の家々は未数るに非遑。禁裏・仙洞・竹苑・椒房、三台九卿の曲阜以下都て三百二十余箇所、此時に当て焼にけり。仏閣霊験の地には、法城寺・法勝寺・長楽寺・清水寺六僧房・双林寺・講堂・慶愛寺・北霊山・西福寺・宇治宝蔵・浄住寺・六波羅の地蔵堂・紫野の寺・東福寺・雪村の塔頭大龍庵・夢窓国師の建られし天竜寺に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十余箇所の仏閣も皆此時に焼にけり。されば東山西郊、京白河在家もつゞかず、寺院も稀なれば、盜賊巷に満て、往来の道も不安、貝鐘の声も幽にして、無明の睡も醒め難し。

☆ 剣璽無しで御即位されたことは例の無いことと、院御所が炎上したこと

さて観応三年(正平七年::1352年)九月二十七日に改元が行われ、文和となりました。その年の十月に河原の御禊(即位後の大嘗祭の前月に賀茂川などに臨んで行ったみそぎ)が行われ、翌月には大嘗祭(天皇が即位後最初に皇祖および天神地祇に新穀を供え、これを食べる儀式)が遂行されました。

三種の神器が無い中での御即位は如何なものかと、諸卿らに異論は多いのですが、武家側が強硬に実施を申し入れてくる以上、それに従わねばならないだろうと、織部の祭(かんなめさい::その年の初穂を天照大神に奉納する儀式)が行われるようになったと聞いています。そもそも神武以来、

人が天皇になって以来百王の始まりは、鵜羽葺不合尊(うがやふきあえずのみこと::神武天皇の父)の第四王子、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと::神武天皇の即位前の名前)が大和国の畝傍橿原の宮におられて、我が国の政治を執られて以来、現在の天皇まですでに九十六代を数えますが、

三種の神器が無いのにかかわらず、皇位を継がせられるのは、いまだかつてその例は聞いたことが無いと、儀式行事などに知識ある人々は皆が皆、嘆きました。今は都も鎮静化し皇位も安泰しているゆえ、前の天皇(崇高天皇)や両院(光厳、光明上皇)、梶井宮尊胤たちが吉野の山奥に居られ、

きっとつらい気持ちになっているに違いないと、後光厳天皇は心苦しく思われ、何とか吉野朝廷より救出しなければと、色々策を練ってみましたが、主上、両上皇は吉野朝廷の警固が厳しく、とても救出出来そうにありません。その後しばらくして梶井宮だけはとりあえず救出しました。

文和元年(正平七年::1352年)十月(十一月?)二十八日、国母陽禄院がお亡くなりになったので、国中は諒闇の儀(りょうあん::天皇がその父母の崩御にあたり喪に服すること)によって、洛中では物音一つしない日が三ヶ月続き、宮中、中でも陽禄院に仕える人々の間では特に大きな悲しみに包まれた日々となりました。

文和二年(正平八年::1353年)二月四日、突然出火があり、院御所としていた持明院殿が燃えました。火災は天災であって普段から良くあることですが、最近では連続して発生し、京中の神社仏閣や宮殿など、残り少なくなるまで焼失するとは、とても尋常のこととは思えません。この原因としては、

仏法が滅び廃れ、朝廷の権威が衰えてきたためと思われます。元弘、建武(南北朝で異なるが1331-1338年)に起こった騒乱以来、火災にあった建物など調べてみると、まず内裏をはじめとして、馬場殿、准后の御所、式部卿親王の常盤井殿、兵部卿宮の二条の御所、宣光門女院の御旧宅、

城南離宮の鳥羽殿、竹田近くの伏見殿、十楽院、梨本、青蓮院、妙法院の白河殿、大覚寺殿の御旧跡、洞院左府の邸宅、大炊御門内府の亭、吉田内府の北白川、近衛殿の小坂殿、為世卿の和歌所、大覚寺御山庄、三条大納言の住み慣れた毘沙門堂、頼基の天橋立跡ふりて(?)

塩竃の浦を摸した河原院、中書王の昔を慕って建てた花園や、融の大臣の跡を慕って建てた千種宰相の新亭などなど、そのほか殿上人以下の家々については、いまだその数を調べるひまもありません。禁裏(天皇の御所)、仙洞(上皇の御所)、竹苑(皇族の住居)、椒房(皇后の御所)

三台(太政、左、右大臣)九卿(三台に次ぐ高級官吏)の曲阜(きょくふ::宮廷建造物等々?)以下、都において三百二十ヶ所がこの時期に焼失しました。その他、霊験ある仏閣の地としては、北城寺、法勝寺、長楽寺、清水寺六僧房、双林寺、講堂、慶愛寺、北霊山、西福寺、宇治宝蔵、浄住寺、六波羅の地蔵堂、

紫野の寺、東福寺、雪村の塔頭大龍庵、夢窓国師が建てられた天龍寺に至るまで、禅院、律院、御祈祷所など三十余ヶ所の仏閣も皆、この時に焼けたのでした。このため東山、西郊(洛西)や京白川なども民家はまばらになり、寺院も数少なくなってきたため、盗賊らはちまたにあふれ、往来の安全も脅かされ、ほら貝や鐘楼の音などもあまり聞こえず、いつまでも煩悩から逃れることが出来ません。


○山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害事
山名右衛門佐師氏は今度八幡の軍に功有て、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未当知行無りける若狭国の斉所今積を如本の可宛給由、佐々木佐渡判官入道々誉に属して申達せん為に、日々に彼の宿所へ行給ひけれ共、「今日は連歌の御会席にて候。」「只今は茶会の最中にて候。」とて一度も対面に不及、数剋立せ、暮るまで待せて、只徒にぞ帰しける。度重なれば右衛門佐大に腹立して、「周公旦は文王の子武王の弟たりしか共、髪を洗ふ時訴人来れば髪を握て合、飯を食する時賓客来れば哺を吐て対面し給けり。才乏しといへ共我大樹の一門に列なる身たり。礼儀を存せば、沓を倒にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び/\も急てこそ対面すべきに、此入道加様に無礼に振舞こそ返々も遺恨なれ。所詮叶はぬ訴詔をすればこそ、諂ふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立て伯耆へ下り、軈て謀叛を起して天下を覆し、無礼なりつる者共に、思知せんずる物を。」と独言して、我宿所へ帰ると均く、郎等共に角共いはず、唯一騎文和元年八月二十六日の夜半に伯耆を差て落て行けば、相順し兵共聞伝て、七百余騎迹を追てぞ下りける。伯耆国に著れければ、師氏先づ親父左京大夫時氏の許に行て、「京都の沙汰の次第、面目を失つる間、将軍に暇をも申さず罷下候。」と語りければ、親父も大に忿て、軈て宮方の御旗を揚げ、先づ道誉が小目代にて、吉田肥前が出雲国に有けるを追出し、事の子細を相触るに、富田判官を始として、伊田・波多野・矢部・小幡に至まで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国即時に打順へてげり。さらば軈て南方へ牒送せよとて、吉野殿へ奏聞を経るに、山陰道より攻上らば、南方よりも官軍を出されて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大に悦て、五月七日伯耆国引具して、三千余騎丹波路を経て攻上る。兼て相図を差ければ、南方より惣大将四条大納言隆俊・法性寺左兵衛督康長・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範・湯浅・貴志・藤波を始として、和泉・河内・大和・紀伊国兵共三千余騎勝り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡、西は梅津・桂の里・谷堂・峯堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼つゞけたる篝火の影、幾千万と云数を不知。此時将軍未上洛し給はで、鎌倉にをはせしかば、京都余りに無勢にて、大敵可戦様も無りけり。中々なる軍して敵に気を著ては叶まじとて、土岐・佐々木の者共、頻に江州へ引退て、勢多にて敵を相待んと申けるを、宰相中将義詮朝臣、「敵大勢なればとて、一軍もせでいかゞ聞逃をばすべき。」とて、主上をば先山門の東坂本へ行幸なし進て、仁木・細河・土岐・佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷を後に当て、敵を洛川の西に相待たる。此陣の様、前に川有て後に大山峙たれば、引場の思はなけれ共、韓信が兵書を褊して背水陣を張しに違へり。殊更土岐・佐々木の兵、近江と美濃とを後に於て戦はんに、引て暫気を休めばやと思はぬ事や有べきと、未戦前に敵に心をぞはかられける。

☆ 山名右衛門佐を敵にさせたことと、武蔵将監が自害したこと

山名右衛門佐師氏はこの度の八幡の合戦において、大いに手柄を上げ、恩賞は自分に勝る者などいないと思っていましたので、以前拝領していながら未だ知行を許されていない若狭国の斉所今積(?)の土地を元通り賜りたいと、佐々木佐渡判官入道道誉を通じて申し入れるため、

日々彼の宿所に通いましたが、「今日は連歌の会があります」とか、「ただ今、茶会の最中です」などと言って一度も面会できず、数時間立ち通しで暮れるまで待たされた挙句、むなしく追い返されました。このようなことが度重なると、さすが右衛門佐も堪忍袋の緒が切れ、「周公旦(周王朝の政治家)は文王(周朝の始祖)の子であり、

武王(周朝の創始者、文王の次子)の弟ですが、髪を洗っている時、訴えごとのある人が来れば髪を手にして面会し、食事中に賓客があれば、口中の食べ物を吐き出して面会された。大した能はないとしても、私は大樹足利尊氏の一門に連なる身である。もし礼儀をわきまえるならば、

くつを左右反対に履いても庭に出迎え、袴の腰ひもを結びながらでも対面すべきであるのに、この入道はこのように無礼千万の行動をとるとは、この上なく腹が立ち恨みに思うばかりである。少しばかり無理な嘆願をしているので、機嫌を取りたくない相手にでも、御機嫌を取ってきたのじゃないか。

こうなりゃ今夜中に都を発って伯耆国に帰り、すぐにでも謀反を起こし天下を転覆させ、無礼な人間どもを思い知らせてやろう」と独り言を言い、自分の宿所に帰ると家来らには詳しく事情を話すことなく、すぐにただ一騎で文和元年(正平七年::1352年)八月二十六日の夜半に伯耆に向かって落ちて行き、

後に残された兵士らは事情を伝え聞くと、七百余騎が後を追って下って行きました。伯耆国に到着すると師氏は、まず最初に父親の左京大夫山名時氏のもとに行き、「京都での私に対する対応について、あまりにも名誉を傷つけられたので、将軍に暇を求ることなく下ってきました」と話されると、

親父も大変腹を立て、すぐに宮方の御旗を揚げ、手始めに道誉の小目代(代官の下役)として出雲国に赴任している吉田肥前を追い出し、事の次第を触れ回ったところ、富田判官をはじめに、伊田、波多野、矢部、小幡に至るまで皆が同意したので、出雲、伯耆、隠岐、因幡の四ヶ国を即刻従えることになりました。

それではと早速南朝に書状を送って、吉野殿後村上天皇に奏聞を願い出たところ、山陰道より都に攻め上られるなら、南朝も官軍を派遣し、同時に京都を攻撃しようと仰せられたので、時氏は大いに喜び文和二年(正平八年::1353年)五月七日伯耆国の軍勢三千余騎を率いて、丹波路経由で攻め上りました。

前もっての取り決め通り、南朝も総大将として四条大納言隆俊、法性寺左兵衛督廉長、和田、楠木、原、蜂屋、赤松弾正少弼氏範、湯浅、貴志、藤波らをはじめに和泉、河内、大和、紀伊んどの国々の兵士ら三千余騎を選り出したので、南は淀、鳥羽、赤井、大渡から、西は梅津、桂の里、

谷堂、峯堂、嵐山に至るまで陣営を構えない所もない状況なので、燃やし続ける篝火の明かりは、幾千万になるのかその数も分かりません。この時尊氏将軍はいまだ上洛されず鎌倉に居られたので、京都の防衛軍は非常に手薄であり、とても大軍を相手にすることは出来ませんでした。中途半端な合戦をして、

敵に勢いをつけさせては具合が悪いだろうと、土岐や佐々木の武将らがここは一旦、江州に退き下り、瀬田にて敵を待ち受けては如何かとしきりに話すのを、宰相中将義詮朝臣は、「敵が大軍だからと言って一度も合戦をせず、敵の来襲を聞いただけで、どうして逃げることが出来ようか」と言って、

後光厳天皇をまず山門延暦寺領の東坂本に行幸を願い、仁木、細川、土岐、佐々木ら三千余騎の軍勢を一ヶ所に集め、鹿ヶ谷を後ろにして、敵が鴨川の西に来るのを待ち受けました。この陣構えは前に川を置き、後ろには山塊が控えているので、退却は考えに入ってはいませんが、韓信の兵書を無視して背水の陣を敷いたのではありません(?)。土岐や佐々木の兵士らが、郷里の近江や美濃を後ろにして戦えば、退いて安全を求めようと考えるに違いないと、まだ戦う前に敵にその意図を知られました。


去程に文和二年六月九日卯刻に、南方の官軍、吉良・石堂・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範三千余騎、八条九条の在家に火を懸て、相図の烟を上たれば、山陰道の寄手、山名伊豆守時氏子息右衛門佐師氏・伊田・波多野、五千余騎、梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を懸て、先京中へぞ寄たりける。洛中には向ふ敵なければ、南方西国の兵共、一所に打寄て、四条川原に轡を双て引へたり。此より遥に敵の陣を見遣ば、鹿谷・神楽岡の南北に、家々の旗二三百流れ翻て、四つ目結の旗一流真前に進で、真如堂の前に下り合ふたり。敵陣皆山に寄て木陰に引へたり。勢の多少も不見分。和田・楠、法勝寺の西の門を打通て、川原に引へたりけるが、敵を帯き出して勢の程を見んとて、射手の兵五百人馬より下し、持楯畳楯つきしとみ/\、閑に田の畦を歩せて、次第々々に相近付。爰に佐々木惣領氏頼、其の比遁世にて西山辺に隠れ居たりける間、舎弟五郎右衛門尉世務に代て国の権柄を執しが、近江国の地頭・御家人、此手に属して五百余騎有けるが、楠が勢に招れて、胡録を敲き時の声を揚げ喚て懸る。楠が勢陽に開き陰に囲めて散々に射る。射れ共佐々木が勢ひるまず、錣を傾けて袖をかざし、懸入けるを見て、山名が執事小林左京亮、七百余騎にて横合にあふ。佐々木勢余りに手痛く懸られて、叶はじとや思けん、神楽岡へ引上る。宮方手合の軍に打勝て、気を揚げ勇に乗て東の方を見たれば、土岐の桔梗一揆、水色の旗を差上、大鍬形を夕陽に耀し、魚鱗に連りて六七百騎が程控へたり。小林是を見て人馬に息をも継せず、軈て懸合せんとしけるを、山名右衛門佐扇を揚て招止め、荒手の兵千余騎を引勝て相近付。土岐も山名もしづ/\と馬を歩ませて、一矢射違る程こそあれ。互に諸鐙を合せて懸入り、敵御方二千余騎、一度に颯と入乱て、弓手に逢ひ馬手に背き、半時許切合たるに、馬烟虚空に廻て飆微塵を吹立たるに不異。太刀の鍔音・時の音、大山を崩し大地を動して、すはや宮方打勝ぬと見へしかば、鞍の上空しき放れ馬四五百疋、河より西へ走出て、山名が兵の鋒に頚を貫かぬは無りけり。細河相摸守清氏、是程御方の打負たるを見ながら、些も機を不屈、尚勇進でぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮民部少輔・海東・和田・楠、皆荒手なれば細河と懸り合て、鴨川を西へ追渡し、真如堂の前を東へ追立て、時移るまでぞ戦たる。千騎が一騎に成までも引じとこそ戦けれ共、将軍の陣あらけ靡て後の御方あひ遠に成ければ、細河遂に打負て四明の峯へ引上る。赤松弾正少弼氏範は、いつも打ごみの軍を好まぬ者也ければ、手勢計五六十騎引分て、返す敵あれば、追立々々切て落す。名もなき敵共をば、何百人切てもよしなし。哀よからんずる敵に逢ばやと願ひて、北白川を今路へ向て歩ませ行処に、洗ひ皮の鎧の妻取たるに竜頭の甲の緒を縮、五尺許なる太刀二振帯て、歯の亘り八寸計なる大鉞を振かたげて、近付敵あらば只一打に打ひしがんと尻目に敵を睨で閑に落行武者あり。

やがて文和二年(正平八年::1353年)六月九日卯刻(午前六時頃)に、吉野の官軍、吉良、石塔、和田、楠木、原、蜂屋、赤松弾正少弼氏範ら三千余騎が八条や九条の民家に火を放ち、合図の煙を上げたので、山陰道に控えていた寄せ手、山名伊豆守時氏の子息右衛門佐師氏、伊田、

波多野らの五千余騎が梅津、桂、嵯峨、仁和寺、西七条に火を放って、一番最初に洛内に寄せました。洛中には向かって来る敵もいないので、吉野軍や西国の兵士らは一ヶ所に集まり、四条河原に馬を並べて控えました。ここから遥か遠くの敵陣を見ると、鹿ヶ谷や神楽岡の南北に各家々の旗二、三百ほどが翻り、

四ツ目結の旗(佐々木の旗か?)一旒が真ん前に進み出て、真如堂の前に控えています。敵の陣営は皆、山に沿って木陰に隠れるように控えているので、軍勢の多少も見分けがつきません。和田と楠木は法勝寺の西門を抜け、河原に控えていますが、敵をおびき出して軍勢の状況を確かめようと考え、

射手の兵士五百人を馬からおろして、持楯(手に持って使う小型の楯)や畳楯(板塀のようにつなぎ合わせた楯)で防御しながら、静かに田の畔を歩ませ、次第次第にその距離を縮めて行きました。その頃、佐々木惣領氏頼と言う武将は世を捨てて西山あたりに隠れ住んでいましたので、

その舎弟、五郎右衛門尉が代わりに領国の政治を執っていました。そこで近江国の地頭や御家人が彼の手に属し、その数五百余騎を有していましたが、楠木の陣営から招かれて、箙を叩き鬨の声をあげ喚きながら攻めかかりました。その時、楠木の軍勢は積極的に展開したり、また集結したりしながら激しく矢を射込みました。

しかしいくら射込まれようと佐々木の軍勢はひるむことなく、錣(しころ)を傾け(兜を少し前に伏せて、敵の矢を避ける)、鎧の袖をかざして(同じく敵の矢を避けるため)駆け入るのを見ると、山名の執事、小林左京亮は七百余騎で横合いから攻め込みました。この攻撃に佐々木の軍勢は被害が大きく、

とても耐えきれないと思ったのか神楽岡に引き上げました。宮方は緒戦の戦闘に勝ったので、勇気百倍し意気揚々と東の方角を見れば、土岐の桔梗一揆が水色の旗を揚げて、大鍬形(兜の前部に付けた大きな前立)を夕日に輝かせながら、魚鱗の陣形(△の形に兵を配する)で六、七百騎ほどが控えています。

小林左京亮はこれを見ると人馬に休憩を与えようともせず、すぐに駆け向かおうとするのを、山名右衛門佐が扇を上げて招きよせると攻撃を止めさせ、新手の兵士千余騎を選び抜き近づいて行きました。土岐も山名もしずしずと馬を歩ませ、矢を射合わすほどまでになりました。

お互い左右の鐙で同時に馬の腹を打って駈け入り、敵味方の二千余騎が一度にドッと入り乱れ、左側に敵を迎えたと思えば、右方向にかわして半時(約一時間)ばかり切りあいをしている様子は、馬の上げる砂ぼこりが虚空に舞い上がり、激しい風のため塵埃が吹き乱れるのと変わりありません。

太刀の上げる鍔音や閧の声は、大きな山を崩し大地をも揺り動かし、これは宮方が勝つのではと見えましたが、その時、鞍には誰も乗っていない放れ馬四、五百頭が川から西に向かって走り出てくると、山名の兵士らが手にした太刀の刃先に首を貫かれない者はいませんでした。

細川相模守清氏はこれほど味方が負けているのを見ながら、少しも戦意が衰えることなく、ますます意気盛んなように見えました。吉良、石堂、原、蜂屋、宇都宮民部少輔、海東、和田、楠木らの軍勢はみな新手なので細川に攻めかかると鴨川を西(東では?)に向かって追い、真如堂の前を東に追い立て、

数時間を戦い続けました。たとえ千騎が一騎になるまで、退くことはせず戦おうとしましたが、将軍の陣営はばらばらになり、後に続くべき味方も遠く離れてしまったので、細川もついに敗れ四明岳(しめいがたけ::比叡山の一峰)に引き上げました。赤松弾正少弼氏範はいつも秩序のない乱戦は好まないので、

手勢の五、六十騎を引き抜いて、返してくる敵があれば追い立て追い立て切り落としました。名もない敵を何百人切ったところで意味などありません。何とか良い敵に巡り会おうと願いながら、北白川を今路に向かって歩んでいると、薄紅色に染めた革で威し、袖や草摺りは別色で威した鎧に、

竜の頭の前立てを付けた兜の緒を締め、五尺ほどもある太刀を二振り差し、刃渡り八寸もある大きなマサカリを肩にして、近づく敵あらばただの一撃で仕留めようと、敵をちらちらと睨みながら静かに落ちて行く武者がいました。


赤松遥に是をみて、是は聞る長山遠江守ごさんめれ。其れならば組で討ばやと思ければ、諸鐙合せて迹に追著、「洗革の鎧は長山殿と見るは僻目か、蓬くも敵に後を見せらるゝ者哉。」と、言を懸て恥しめければ、長山屹とふり返てから/\と打笑ひ、「問ふは誰とよ。」「赤松弾正少弼氏範よ。」「さてはよい敵。但只一打に失はんずるこそかはゆけれ。念仏申て西に向へ。」とて、件の鉞を以て開き、甲の鉢を破よ砕けよと思様に打ける処を、氏範太刀を平めて打背け、鉞の柄を左の小脇に挟て、片手にてえいやとぞ引たりける。引れて二疋の馬あひ近に成ければ、互に太刀にては不切、鉞を奪はん奪れじと引合ける程に、蛭巻したる樫木の柄を、中よりづんと引切て、手本は長山手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留りける。長山今までは我に勝る大力非じと思けるに、赤松に勢力を砕かれて、叶はじとや思けん、馬を早めて落延ぬ。氏範大に牙を嚼て、「無詮力態故に、組で討べかりつる長山を、打漏しつる事の猜さよ。ゝし/\敵は何れも同事、一人も亡すに不如。」とて、奪取たる鉞にて、逃る敵を追攻々々切けるに、甲の鉢を真向まで破付られずと云者なし。流るゝ血には斧の柄も朽る許に成にけり。美濃勢には、土岐七郎を始として、桔梗一揆の衆九十七騎まで討れぬ。近江勢には、伊庭八郎・蒲生将監・川曲三郎・蜂屋将監・多賀中務・平井孫八郎・儀俄五郎知秀以下、三十八騎討れぬ。此外粟飯原下野守・匹田能登守も討死しつ。後藤筑後守貞重も生虜れぬ。打残されたる者とても、或は疵を被り或は矢種射尽して、重て可戦共覚ざりければ、大将義詮朝臣も日暮て東坂本へ落給ふ。是までも猶細河相摸守清氏は元の陣を不引退、人馬に息を継せて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑戦て雌雄を爰に決せんとて、西坂本に引、其夜は遂に落給はず。夜明ければ、宰相中将殿より使者を立て、「重て合戦の評定あるべし。先東坂本へ被打越候へ。」と被仰ければ、此上は清氏一人留ても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本へ被参ける。此時故武蔵守師直が思者の腹に出来たりとて、武蔵将監と云者、片田舎に隠て居たりけるを、阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠等、俄に取立て大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集て、宰相中将殿に力を合せん為に、西山の吉峯に陣を取てぞ居たりける。京都の大敵にだに輙く打勝て勇々たる山名が兵共なれば、なじかは少しも可猶予、十一日曙に吉峯へ押寄、矢一も射させず、抜連て切て上る。阿保・荻野が兵共余りにつよく被攻て、一支も支へず谷底へ懸落されければ、久下五郎を始として討るゝ者四十余人、疵を被る者数を不知。希有にして逃延たる者共も、弓矢・太刀・長刀を取捨て、赤裸にて落て行。見苦しかりし有様也。武蔵将監は、二町許落延たりけるを、阿保と荻野と遥に顧て、「今は叶はぬ所にて候。御自害候へ。」と勧ける間、馬上にて腹掻切り、倒に落て死にけり。此首を取んとて、敵一所に打寄てひしめきけるを、沼田小太郎只一騎返合せて戦けるが、敵は大勢也。御方はつゞかず、叶ふまじとや思けん、同腹掻切て、武蔵将監が死骸を枕にしてぞ臥たりける。其間に阿保と荻野は落延て、無甲斐命を助りけり。

赤松ははるかにこの男を見て、この男はあの有名な長山遠江守に違いない。それなら組んで討ち取ろうと思い、馬を急がせて追いつき、「洗い革の鎧を着たお主は長山殿と見たが、見間違いか。汚くも敵に後ろを見せられるのか」と言葉をかけて侮辱すると、長山はキッと振り向いてからからと笑い、

「問いかけたのは誰だ」「赤松弾正少弼氏範だ」「それは良い敵だ。しかし、ただの一撃で命を落とすのも可哀そうに思えるが、西に向かって念仏を唱えろ」と言って、例のマサカリを手に、兜の鉢も割れよ砕けよとばかりに打ち付けてきたところを、氏範は太刀を横にして遮り、マサカリの柄を左の小脇に抱え込むと、

片手でエイヤッと引きました。はずみで二頭の馬が近づいたので、お互い太刀での切合いは出来ず、マサカリの奪い合いになり引き合っていると、蛭巻(ひるまき::柄に金属の細長い薄板を間を開けて巻いたもの)した樫の木の柄が中ほどから引きちぎれ、手元は長山の手に残り、マサカリの刃の部分は赤松の左の脇に残りました。

長山は未だかつて自分より勝る大力の持ち主は居ないと思っていたので、赤松にその自信を砕かれては戦闘意欲も失い、馬を速めて落ち延びて行きました。氏範は非常に悔しがり、「ただの力づくでの勝負になってしまったので、本当なら組み合って討ち取るべき長山を、討ち漏らしてしまったことには腹が立つ。

まあ良いか、敵は誰でも同じだ、一人でも多く討ち取ることだ」と言って、奪い取ったマサカリで逃げる敵を追いかけては切り、追っては切ったので、兜の鉢を真っ二つに割られなかった者などいませんでした。流れる血のため、マサカリの柄は朽ち果てそうになったのでした。

美濃勢としては土岐七郎をはじめに、桔梗一揆の衆九十七騎が討たれました。また近江勢では伊庭八郎、蒲生将監、川曲三郎、蜂屋将監、多賀中務、平井孫八郎、儀俄五郎知秀以下三十八騎が討たれました。このほか、粟飯原下野守、匹田能登守も討ち死にしました。後藤筑後守貞重も生け捕りになりました。

たとえ討たれずに残った者でも、ある者は傷を負い、またある者は矢を射尽くして、再度の戦闘などとても出来る状況でないので、大将義詮朝臣も日が暮れてから東坂本に落ちられました。このような状況の中でも、まだ細川相模守清氏は元の陣から退くことなく、人馬を休憩させて自分に同調する味方があれば、

今一度喜んで戦闘を挑み、雌雄をこの場ではっきりさせようと西坂本に退き、その夜はついに落ちることはしませんでした。そして夜が明けると宰相中将殿より使者が来られて、「今後の合戦について会議を開きます。まず東坂本まで来られたし」との連絡があり、こうとなれば清氏一人留まっても仕方がないと、

翌日早朝東坂本に参られました。このような合戦が行われていた時、故武蔵守高師直の妾腹に出来た武蔵将監高師詮と言う者は、片田舎に隠れ住んでいましたが、阿保肥前守忠実や荻野尾張守朝忠らが急遽取り立てて大将に任命し、丹波、丹後、但馬三ヶ国の軍勢三千余騎を招集して、

宰相中将殿の味方になって戦おうと、西山の吉峯寺に陣を構えていました。京都の大軍相手でも簡単に勝利を収め、意気揚々たる山名の兵士らですから、少しの猶予も与えず文和二年(正平八年::1353年)六月十一日の明け方に善峯寺へ押し寄せ、矢の一本さえ射させることなく、

抜き身の太刀を手にして攻め上りました。阿保、荻野の兵士らはあまりにも激しい攻撃に、何ら抵抗も出来ず谷底に蹴落とされたので、久下五郎をはじめに討たれた者四十余人、傷を負った者は数さえ分かりません。珍しく逃げ延びた者でさえ、弓矢、太刀、長刀など捨て去り、裸同然の姿で落ちて行きました。

みっともない話です。武蔵将監は二町ばかり落ち延びたのですが、阿保と荻野が遠くから声をかけ、「今はもう挽回不可能でしょう。御自害してください」と勧められ、馬上にて腹を掻き切り、真っ逆さまに落ちて死んだのでした。この首を得ようと敵が一ヶ所に集まり、ひしめき合っているのを、

沼田小太郎がただ一騎で引き返し戦いましたが、敵は大勢であり続く味方などいません。もうこれまでと思い、同じく腹を掻き切って武蔵将監の死骸を枕に伏せたのでした。このどさくさに阿保と荻野は落ち延び、大したことのない命だけは助かったのでした。


○主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
義詮朝臣は、兼て佐々木近江守秀綱を警固に備ふれば、東坂本の事心安かるべし。爰にて国々の勢をも催さんと被議けるが、吉野殿より大慈院の法印を大将の為に山門へ呼寄たりと沙汰しける間、坂本を皇居になされん事可悪とて、同六月十三日、義詮朝臣竜駕を守護し奉て、東近江へ落給ふ。行幸の供奉には、二条前関白左大臣・三条大納言実継・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠秀・松殿大納言忠嗣・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・花山院中納言兼定・左大弁俊冬・右大弁経方・左中弁時光・勘解由次官行知・梶井二品親王に至らせ給ふまで出世・坊官一人も不残被召具、竜駕の次に御輿を早めらる。武士には足利宰相中将義詮を大将にて、細河相摸守清氏・尾張民部少輔・舎弟左京権大夫・同左近将監・今河駿河守頼貞・同兵部太輔助時・同左近蔵人・土岐大膳大夫頼康・熊谷備中守直鎮・佐々木・山内五郎左衛門信詮、是等を宗との人々として、都合其勢三千余騎、和仁・堅田の浜道に駒を早めてぞ被落ける。爰に故堀口美濃守貞満の子息掃部助貞祐が、此四五年堅田に隠て居たりけるが、其辺の溢者共を語て、五百余人真野の浦に出合て、落行敵を打止んとす。真前には住上を擁護し奉て、梶井二品親王御門徒の大衆、済々と召具して落させ給へば、門主に恕を置奉て弓を不引、矢を不放。此間坂本の警固にて居たりつる佐々木近江守秀綱、三百余騎にて遥の後陣に通りけるを、「是は山門の故敵、時の侍所なれば、是を討留よ。」とて、堀口が兵五百余人東西より引裹で、足軽の射手山にそひ皋を阻て散々に射ける間、佐々木三郎左衛門・箕浦次郎左衛門・寺田八郎左衛門・今村五郎一所にて皆討れにけり。秀綱は憑切たる一族若党共が、跡に蹈止て討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん。高尾四郎左衛門入道と二騎、馬の鼻を引返して、敵の中へ懸て入る。共に歩立の敵に馬の諸膝ながれて、落る処にて討れにければ、遥に落延たる若党共三十七人、返合々々所々にて討れにけり。其夜は塩津に腰輿を舁留奉りて、供奉の人々をも些休め奉らんとせられけるを、塩津・海津の地下人共、軍勢此に一夜も逗留せば、事に触て煩あるべしと思ける間、此道の辻、彼の岡山に取上て、鐘を鳴し時を作りける程に、暫の御逗留叶はで、主上又腰輿に召れたれ共、舁進らすべき駕輿丁も、皆逃失て一人もなければ、細河相摸守清氏、馬より飛で下り徒立になり、鎧の上に主上を負進せて、塩津の山をぞ越られける。子推が股の肉を切り、趙盾が車の片輪を扶しも、此忠には過じとぞ見へし。月卿雲客、或は長汀の月に策をあげ、或は曲浦の浪に棹さし給へば、「巴猿一叫停舟於明月峡之辺、胡馬忽嘶失路於黄沙磧之裏。」と古人の書し征路の篇も、今こそ被思知たれ。是より東は路次の煩も無りしかば、美濃の垂井の宿の長者が家を皇居にして、義詮朝臣以下の官軍皆四辺の在家に宿を取て、皇居を警固し奉りけり。

☆ 後光厳天皇と義詮が都落ちしたことと佐々木秀綱が討ち死にしたこと

足利義詮朝臣は以前より佐々木近江守秀綱を防衛にあたらせていたので、東坂本の安全は保たれているはずである。そこでこの場所で諸国の軍勢を招集しようと考えていましたが、吉野殿後村上天皇の陣営より、大慈院の法印を大将にするため山門に呼び寄せたらしいと噂があり、

それでは坂本に皇居を置くのは良くないだろうと、文和二年(正平八年::1353年)六月十三日に、義詮朝臣は天皇の御座された駕籠を護衛し、東近江に落ちられました。行幸のお供には、二条前関白左大臣、三条大納言実継、西園寺大納言実俊、裏築地大納言忠秀、松殿大納言忠嗣、大炊御門中納言家信、

四条中納言隆持、菊亭中納言公直、花山院中納言兼定、左大弁俊冬、右大弁経方、左中弁時光、勘解由次官行知そして梶井二品親王に至るまで、社会的に地位のある人や、天皇家につながる諸家に仕えている人など、一人残さずお連れし、天皇のお乗りになった駕籠に続いて御輿を速められました。

武士としては、足利宰相中将義詮を大将にして、細川相模守清氏、尾張民部少輔、その弟左京権大夫、同じく左近将監、今川駿河守頼貞、同じく兵部大輔助時、同じく左近蔵人、土岐大膳大夫頼康、熊谷備中守直鎮、佐々木、山内五郎左衛門信詮らなどを主力に、総勢三千余騎が和邇、堅田の浜沿いの道を、

馬を急がせて落ちて行かれたのです。ところがその時、故堀口美濃守貞満の子息、掃部助貞祐がここ四、五年堅田に隠れ住んでいたのですが、周辺のあぶれ者らに語り掛けて、五百余人が真野の浦に進出して、敵の落ち武者らを討ち取ろうとしていました。落ち行く行列の先頭は後村上天皇を警護するため、

梶井二品親王の門徒など意気盛んな大衆を引き連れて落ちられて行くので、門主に気を使って弓を引くことなく、矢も放ちませんでした。この時坂本の警固についていた佐々木近江守秀綱は、三百余騎を率いて遥か後方を行軍していましたが、「この男は山門にとって昔からの敵であり、

現在侍所(軍事、警察担当の役所)の長官をしている者なので、こいつを討ち取ってしまえ」と言って、堀口貞祐の兵士ら五百余人が、東西より包むように取り囲み、足軽の射手は山に沿って、間には沢を隔てて激しく射込んできたので、佐々木三郎左衛門、箕浦次郎左衛門、寺田八郎左衛門、

今村五郎らがこの場所で全員討たれたのです。秀綱は全面的に信頼している一族郎党らが、後方に留まって討ち死にするのを見て、逃げ落ちる気などなくなったのか、高尾四郎左衛門入道との二騎だけで馬の鼻を返し、敵の中に駈け入りました。しかし二人とも敵の歩兵に馬の両膝をなぎ切られ、

落馬したところを討たれてしまい、遥か遠くまで逃げ延びていた若党ら三十七人が引き返して来ましたが、それぞれがあちらこちらで討たれたのでした。その夜は塩津に帝の乗られた腰輿(ようよ::二人で前後を持って運ぶ輿)を留めて、お供の人たちに少しでも御休憩を取っていただこうとしましたが、

塩津、海津の地元住人らが、この地に軍勢が一晩でも逗留などすれば、何かにつけ厄介なことになると思い、街道沿いの辻や、山とか丘に登り、鐘を鳴らしたり鬨の声をあげたりするので、しばらくの休憩もままならず、天皇は再び腰輿にお乗りにはなりましたが、今度は担ぐべき人が皆逃げてしまい誰一人いないので、

細川相模守清氏が馬を飛び降り徒歩立ちになって、鎧の上に天皇を負ぶって塩津の山を越えられました。古代中国の子推(界子推・かいしかい::文公の臣下)が股の肉を切って、亡命中飢えた重耳(文公)に食べさせたことや、趙盾(ちょうとん::霊公の臣下)が霊公を諫めたため殺されそうになった時、

部下が乗って逃げる車の片方の車輪を支えたことなども、今のこの忠義ある行動にはかなわないと思えます。公卿、殿上人らのある人は琵琶湖の長い波打ち際を馬に乗って鞭を打ち、またある人は曲がりくねった湖岸に舟を浮かべ竿させば、「巴猿(はえん::峡谷に鳴く猿)一叫停舟於明月峡(四川省広元市)之辺、

胡馬(胡の国から来た馬)忽嘶失路於黄沙碩(黄砂の砂漠)之裏」(峡谷に猿の鳴き声を聞けば、舟を明月峡のほとりに停め、旅の悲しさを思い、胡国から来た馬が突然いななけば、黄砂の砂漠を進むべき道を見失い、先の不安を思う)と、古人が書いた征路(旅路)の篇も、今更のごとくに思い知らされます。ここまで来ればこの先道中も安全と思われるので、

美濃国垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)で土地の長者の家を皇居に定め、義詮朝臣以下の軍勢は、皆周辺の民家を宿所として、皇居の警固にあたりました。


○山名伊豆守時氏京落事
去程に山名右衛門佐師氏は、都の敵を輙く攻落して心中の憤一時に解散しぬる心地して、喜悦の眉を開事理也。勢著かばやがて濃州へ発向して、宰相中将殿を攻奉らんと議せられけれ共、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀也。剰洛中には吉野殿より四条少将を成敗の体にて置れたりける間、毎事山名が計にも非ず、又知行の所領も近辺に無りければ、出雲・伯耆より上り集たりし勢共も、在京に労れて漸々に落行ける程に、日を経て無勢に成にけり。角ては如何せん、却て敵に寄られなば我も都を落されぬと、内々仰天せられける処に、義詮朝臣、東山・東海・北陸道の勢を率して宇治・勢多より攻上らるとも聞へ、又赤松律師則祐が中国より勢を卒して上洛すとも聞へければ、四方の敵の近付かぬ先に早く引退けとて、数日の大功徒に、天下に時を不得しかば、四条少将は官軍を卒して南方に帰り、山名は父子諸共に道を追払て、伯耆の国へぞ下りける。

☆ 山名伊豆守時氏が京都を落ちられたこと

ところで山名右衛門佐師氏は都の敵を簡単に攻め落とすことが出来、今までのうっ憤が一度に晴れた気がして、喜びもひとしおでした。そのうち軍勢が集まってくればすぐに美濃へ発向して、宰相中将殿の攻撃に移ろうと決めていましたが、降参してくる敵もいず、招集に応じる兵士も数少ない有様です。

その上洛中には吉野殿が四条少将を都の統治をさせるため駐在させているので、何事も山名の思い通りにはいきませんでした。また山名氏が治めている所領も都周辺にはなく、出雲や伯耆から上って来ている軍勢らも、都での駐留に疲れて次々と落ちて行くので、日が経つにつれて軍勢は少なくなってきました。

どうしたものか、この状況で敵に押し寄せられたら、自分も都を追い出されることになるのかと、内々びくびくしていたところ、義詮朝臣が東山、東海、北陸道の軍勢を引き連れて、宇治、瀬田より攻め上って来るらしいと噂があり、また赤松律師則祐が中国より軍勢を率いて上洛するとも聞こえてくるので、

山名は四方より敵が近づかぬ前に、早々に退却することにしました。ここ数日の軍功も無駄になり、天下の時流に乗ることも出来なかったため、四条少将は吉野の官軍を率いて吉野に帰り、山名は親子共々道中を蹴散らすようにして、伯耆の国へ下って行きました。


○直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事
翌年の春、新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門義治、共に相摸の河村の城を落て、何くに有共不聞しかば、東国心安く成て、将軍尊氏卿上洛し給へば京都又大勢に成にけり。さらば軈山名を可被攻とて、宰相中将義詮朝臣を先播磨国へ下さる。山名伊豆守是を聞て、此度は可然大将を一人取り立て合戦をせずは、我に勢の著事は有まじと被思ける間、足利右兵衛佐直冬の筑紫九国の者共に被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招請じ奉り、惣大将とぞ仰ぎける。但是も将軍に敵すれば、子として父を譴る咎あり。天子に対すれば臣として君を無し奉る恐あり。さらば吉野殿へ奏聞を経て勅免を蒙り、宣旨に任て都を傾け、将軍を攻奉らんは、天の忿り人の譏りも有まじとて、直冬潜に使を吉野殿へ進せて、「尊氏卿・義詮朝臣以下の逆徒を可退治由の綸旨を下給て、宸襟を休め奉るべし。」とぞ申されける。伝奏洞院右大将頻に被執甲ければ、再往の御沙汰迄もなく直冬が任申請、即綸旨をぞ被成ける。是を聞て遊和軒朴翁難じ申けるは、「天下の治乱興滅皆大の理に不依と云事なし。されば直冬朝臣を以て大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就すべからず。其故は昔天竺に師子国と云国あり。此の国の帝他国より后を迎へ給けるに、軽軒香車数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に支て道をぞ送り進せける。日暮て或深山を通りける処に、勇猛奮迅の師子共二三百疋走出、追譴々々人を食ける間、軽軒軸折て馳れ共不遁、官軍矢射尽て防げ共不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰殺されにけり。其中に王たる師子、彼后を口にくはへて、深山幽谷の巌の中に置奉て、此師子容顔美麗なる男の形に変じければ、后此妻と成給て、思はぬ山の岩の陰に、年月をぞ送らせ給ける。始の程は后、かゝる荒き獣の中に交りぬれば、我さへ畜類の身と成ぬる事の心憂さ、何に命のながらへて、一日片時も過べしと覚えず、消ぬを露の身の憂さに思召沈ませ給ひけるが、苔深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干は媚て卿相雲客となり、師子は化して万乗の君と成て、玉■の座に粧を堆くして、袞竜の御衣に薫香を散ぜしかば、后早憂かりし御思も消果て、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲み、階老の枕の下に、夜の隔つる程をだにかこたれぬべく思召す。角て三年を過させ給ける程に、后たゞならず成給て男子を生給へり。愍みの懐の中に長て歳十五に成ければ、貌形の世に勝たるのみに非ず、筋力人に超て、何なる大山を挟で北海を飛越る共、可容易とぞみへたりける。或時此子母の后に向て申けるは、「適人界の生を受ながら、后は畜類の妻と成せ給ひ、我は子と成て候事、過去の宿業とは申ながら、心憂事にて候はずや。可然隙を求て、后此山を逃出させ給へ。我負奉て師子国の王宮へ逃篭り、母を后妃の位に昇奉り、我も朝烈の臣と仕へて、畜類の果を離れ候はん。」と勧申ければ、母の后無限喜て、師子の他山へ行たりける隙に、后此子に負れて、師子国の王宮へぞ参り給ける。帝不斜喜び思召て、君恩類無りければ、後宮綺羅の三千、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新き人来旧き人棄られぬ。眼の裏の荊棘掌上の花の如し。

☆ 直冬と吉野殿が同盟関係になったことと、天竺の震旦物語のこと

翌年(文和二年・正平八年::1353年)の春、新田左兵衛佐義興と脇屋左衛門義治は二人とも河村の城を落ちてから行方不明と噂され、東国には不安がなくなり、将軍尊氏卿が上洛されたので、京都の軍勢も再び大軍となりました。こうなればすぐにでも山名を攻めようと決め、宰相中将義詮朝臣をまず播磨国に下しました。

山名伊豆守時氏はこの話を聞いて、今回はしかるべき大将を迎えて合戦に臨まなければ、自分に加勢する軍勢は期待できないと思い、足利右衛門佐直冬が筑紫九ヶ国の者に背かれて、安芸や周防周辺にさまよっているのを招いて、総大将として迎えました。ただしこれは将軍を敵として戦えば、

子供として父を責めることになり、非難を受けることになります。天子に敵対すれば臣として、天子をないがしろにする恐れがあります。それならば吉野殿後村上天皇に奏聞を行い、朝廷から許しを得て宣旨に従って都を攻め、将軍を攻めるならば、天の怒りや世間の人からそしりを受けることもないだろうと、

直冬はひそかに使者を吉野殿に派遣し、「尊氏卿と義詮朝臣以下の逆徒を征伐すべきとの綸旨をいただいて、天皇のお心を安んじられるようにいたしましょう」と、申し上げました。伝奏(天皇への取次役)の洞院右大将が熱心に取次をされたので、再度のご質問などもなく直冬の申請通り、すぐに綸旨が下されたのでした。

この話を聞いて、遊和軒朴翁は、「天下の安定や騒乱また発展や没落など、すべて天の大きな理論に従っていないことなどないものだ。そこで、直冬朝臣を大将として京都を攻撃することは、一旦は成功を収めるかもしれないが、事の成就はしないだろう。何故かと言えば、昔天竺(インド)に師子国と言う国がありました。

この国の帝が他国より后を迎えるにあたり、軽軒香車(けいけんこうしゃ::高級乗り物)数百両に、護衛の兵士十万人が前後四、五十里に渡って街道を警戒する中、行列は進みました。日が暮れてある深山を通過している時、猛々しく機敏な動きの獅子二、三百頭が走り出て来て、追いかけ追い詰め次々と人を食べている内に、

乗り物の車軸が折れ、走っても走っても逃れることが出来ず、官軍の兵士らも矢を射つくして防げません。このため、大臣、公卿、武士、召使など貴賤合わせて三百万人が、一人残らず食い殺されたのでした。獅子集団の中で王と思われる獅子が、例の后を口にくわえて、深山幽谷の岩穴の中に置いたところ、

この獅子は美しい顔かたちを持った男性に姿を変え、后を妻に迎えて思いもよらない山の岩陰に年月を送られたのです。当初この后もこのような獰猛なけだものと交わっていると、わが身も畜生の部類になるのではと、嘆き悲しみ気分も晴れず、何かのために命を永らえようと、一日一時間とて過ごしたことはありません。

ただ露の命が消えないわが身がつらくて、落ち込むばかりでしたが、苔深い岩は玉楼金殿(金や宝玉で飾った宮殿)に変じ、虎狼野干(ころうやかん::残忍非道な者や狡猾なけだもの)などもへつらうだけの公卿殿上人になり、獅子は皇帝に姿を変え、屏風を背後にした玉座に美しく装い、礼服には香を焚きしめてお坐りになられたので、

后は今までのつらい気持ちも消えて、並んで生えている木の途中で、一つにつながった枝に咲く花の色が移り行くことを悲しみ、仲良く一緒に暮らしたいため、一夜でも枕を共にしなければ、心が満たされない気持ちになりました。このようにして三年が過ぎ、后は妊娠し男の子を出産されました。

愛情あふれる母の胸に育ち、やがて十五歳になる頃、容貌が人より優れているだけでなく、筋力においても他を寄せ付けず、如何なる大山であろうと脇に挟んで、北海を飛び越えることも出来そうに思えました。そんなある時、この子が母の后に向かって、「偶然にもこの人間界に生を受けながら、

后はけだものの妻となられ、私がその子供になったこと、過去の宿業(前世での善悪の行為によって受ける、現世で報い)とは言えども、心苦しく嘆かわしいことです。何とか隙を見つけて后はこの山から逃げ出して下さい。その時は、私が背負って師子国の王宮に逃げ込み、そこに立て篭もって母を后妃の地位に就いていただき、

私も朝廷に優れた臣下として仕え、畜類の因果応報から逃れましょう」と勧められると、母は非常に喜ばれ、獅子が他山に行かれたその隙に、后はこの子供に背負われて、師子国の王宮に参内しました。皇帝の喜びや大変なもので、その寵愛ぶりも類まれなものであり、

後宮の美しい三千人とも言われる女性たちも、為君薫衣装、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。(帝のために衣装に香を焚きしめても、帝は蘭麝でも良い香りと思ってくれないし、帝のために立派に着飾っても、黄金やヒスイを見られても、何も感じてくれません)新しい人が現れれば、古い人は捨てられます。目の裏の荊棘掌上の花の如し(?)


去程に師子外の山より帰り来て后を尋求るに、后も座さず、我子もなし。こは何なる事ぞと驚き周章て、ばけたる貌元の容に成て、山を崩し木を堀倒し求れ共不得。さては人の棲む里にぞ御坐らんとて、師子国へ走出て、奮迅の力を出して吠忿るに、何かなる鉄の城なり共破れぬべくぞ聞へける。野人村老懼れ倒、死する者幾千万と云数をしらず。又不近付所も、家を捨財宝を捨逃去ける間、師子国十万里の中には、人一人も無りけり。され共、此師子王位にや恐けん、都の中へは未入、只王宮近き辺に来て、夜々地を揺して吠嗔り、天に飛揚して鳴叫ける間、大臣・公卿・刹利・居士、皆宮中に逃篭る。時に公卿僉議有て、此師子を退治して進せたらんずる者には、大国を一州下さるべしと法を出して、道々に札を書てぞ被立ける。彼師子の子此札を見て、さらば我父の師子を殺して一国を給らんと思ければ、尋常の人ならば、百人しても引はたらかすまじかりける鉄の弓・鉄の矢を拵へ、鏃に毒を塗て、父の師子をぞ相待ける。師子今は王宮へ飛入て、国王大臣を喰殺さんとて、禁門の前を過けるが、我子の毒の矢をはげて立向たるを見て、涙を流し地に臥て申けるは、「我年久相馴し后と、二人ともなき汝を失て、恋悲く思ふ故に、若干の人を失ひ多くの国土を亡しつ。然るに事の様を尋きけば、后は王宮にをはすなれば、今生にて再び相見ん事有がたし。せめて汝をだに一目見たらば、縦我命を失ふ共悲む処にあらずと思き。道々に被立たる札を見れば、我命を以一国の抽賞に被報たり。然れども我を一箭にも射殺さんずる者は、天下に汝より外は有べからず。命を惜むも子の為也。汝一国の主と成て栄花を子孫に及さば、我命全く不可惜。早く其弓を引其矢を放て我を射殺し、報国の賞に預れ。」とて、黄なる涙を流しつゝ、「爰を射よ。」とて自口をあきてぞ臥たりける。師子は畜類なれ共子を思ふ心猶深く、子は人倫の身なれ共親を思ふ道無りければ、飽まで引て放つ矢に、師子喉を射抜れて、地に伏て忽に死けり。子、師子の頚を取て天子に是を奉る。一人万民悦合へる事限なし。已に宣旨を下して其賞を定られし上は子細に不及、師子の子に一国を下し給ふべかりしを、重て公卿僉議有て、勅宣に随ふ処は雖有忠父を殺す罪不軽。但忠賞の事は法を被定しかば、綸言今更変じ難しとて、恩賞に被擬ける一国の正税・官物、百年が間を勘て、天下の鰥寡孤独の施行に引れぬ。以彼思之、縦一旦利を得たり共終には諸天の御とがめあるべし。

遊和軒朴翁の話は続きます。「やがて獅子が他山より帰ってきて、后を探しましたが后はどこにも居ず、我が子もいません。これは一体どう言うことかと慌て驚くと、化けていた顔かたちが元の姿になり、山を崩し木も掘り返して探しましたがどこにも見つかりません。さては人の住む里に行ったのかと、

師子国に向かって走り出しました。師子がありったけの力を出して怒りをぶつけると、いかなる鉄のような城であっても破壊出来ると聞いています。村民や村の長老などは恐怖に倒れたり死んだりする者、幾千万なのかその数も分かりません。また獅子が近くに来なくても家を捨て、財宝も捨てて逃げだしたので、

師子国十万里の中には人っ子一人いなくなりました。しかし、この獅子も王位には恐れを抱いているのか、いまだ都の中には入らず、ただ王宮近くに来ては夜な夜な大地を揺るがし大声を出し、天に飛び上がっては喚き騒ぐので、大臣、公卿、刹利(王族や武士)、居士(富豪)らは、皆宮中に逃げ込みました。

そこで公卿による会議が持たれ、この獅子を退治した者には大国を一州与えると言う法令を作り、道々に札を立てて告知しました。あの獅子の子供はこの高札を見て、それならば我が父の獅子を殺害し一国を頂こうと考え、普通の人では百人かかっても引くことが出来なく、とても使いこなせないような鉄の弓と、

鉄の矢をこしらえ、その鏃には毒を塗り、父の獅子を待ち受けました。獅子はこうなれば王宮に飛び込んで国王や大臣など食い殺してやろうと、王宮に続く門の前を過ぎようとした時、我が子が毒の矢を番えて正面から向かってくるのを見て、涙を流し地に伏せて、『私は長年慣れ親しんだ后と、二人といない汝を失い、

悲しみに耐えられず多くの人を殺し、多くの国土を破壊した。しかし色々事情を聞いてみると、后は王宮に居られるので今生で再び会うことは出来ないだろう。せめて汝だけでも一目見ることが出来たので、たとえわが命を失うことになっても悲しいとは思わない。道々に立っている高札を見れば、

我が命に一国の懸賞をかけると書かれている。とはいえ、私をただの一本の矢で射殺すことが出来るのは、天下に汝以外にはいないだろう。命を惜しむのも子のためである。汝が一国の主となって栄華を子孫に残すことが出来るなら、私の命など全く惜しいとは思わない。早くその弓を引いて矢を放ち、

私を射殺して国に忠義を尽くし懸賞を手に入れるように』と言うと、黄色い涙を流しながら、『ここを射るように』と言って、自ら口を開けて伏せました。獅子は畜生でありながら子供を思う気持ちは強いのですが、子供は人間であっても親を思う気持ちが無いので、ためらうことなく放った矢に、

獅子は喉を射抜かれ地に伏せると、すぐに死にました。子供は獅子の首を取って天子に届けました。帝をはじめに万民の喜びもひとしおでした。すでに宣旨によって懸賞が決められており、問題なく獅子の子供に一国を与えるべきであるのに、公卿は改めて会議を開き、宣旨に従ったのは忠あるとは言え、

父を殺害する罪も軽いものではない。ただし懸賞については法令で定めている以上、今更綸言を変えることは難しいので、恩賞に充てられた一国の正税(基本の税物)、官物(正税以外の貢納品)を百ヶ年の期間を定めて、天下の妻を失った男や、夫を失った女などの孤独を癒すため引き当てました。こう考えると、たとえ一旦利を得たと言っても、最後には天上界の神々の御咎めがあるのでしょう」


又漢朝の古、帝尭と申けるいみじき聖徳の帝御坐しけり。天子の位にいます事七十年、御年已に老ぬ。「誰にか天下を可譲る。」と御尋有ければ、大臣皆諛て、「幸に皇太子にて御渡候へば丹朱にこそ御譲り候はめ。」と申けるを、帝尭、「天下は是一人の天下に非ず、何を以てか太子なればとて、天下授るに足ざらん者に位を譲て、四海の民を苦しましむべき。」とて丹朱に世を授給はず。さても何くにか賢人ありと、隠遁の者までも尋求め給ひける処に、箕山と云所に許由と申ける賢人、世を捨光を韜て、只苔深く松痩たる岩の上に一瓢を懸て、瀝々たる風の音に人間迷情の夢を醒してぞ居たりける。帝尭是を聞召て即勅使を立られ、御位を譲べき由を被仰けるに、許由遂に勅答を不申。剰松風渓水の清き音を聞て爽なる耳の、富貴栄花の賎しき事を聞て汚れたる心地しければ、潁川の水に耳を洗ける程に、同じ山中に身を捨隠居したりける巣父と云賢人、牛を引て此川に水を飼んとしけるが、許由が耳を洗ふを見て、「何事に今耳をば洗ふぞ。」と問ければ、許由、「帝尭の我に天下を譲らんと被仰つるを聞て、耳汚たる心地して候間洗ふ也。」とぞ答へける。巣父首を掻て、「さればこそ此水例よりも濁て見へつるを、何故やらんと無覚束思ひたれば、此事にて有けり。左様に汚たる耳を洗たる水の流をば、牛にも飲ふべき様なし。」とて徒に牛を引てぞ帰りける。帝■尭さては誰にか世を可授とて、至らぬ隈もなく尋求給ふに、冀州に虞舜と云賎き人あり。其父瞽叟盲母は頑■也。弟の象驕戻。虞舜は孝行の心深して、父母を養はん為に歴山に行て耕すに、其地の人畔を譲り、雷沢に下て漁るに、其浦の人居を譲る。河浜に陶するに、器苦窪あらず。虞舜の行て居る処、二年あれば邑をなし、三年あれば都をなす。万人其徳を慕て来集し故也。舜年二十にして孝行天下に聞へしかば、帝尭是に天下を譲らんと覚す心あり。先内外に著て其行を御覧ぜんと覚して、娥皇・女英と申ける姫宮を二人舜に妻はせ給ふ。又尭の御子九人を舜の臣となして、其左右にぞ慎み随はせられける。尭の二女己れが高きを以て夫に驕らざれば、舜の母に嬪する事甚不違。九男同く舜に臣として事ること礼敬更に不懈。帝尭弥悦て、舜に又、倉廩・牛羊・■衣・琴一張を給ふ。舜如斯声誉上に達し父母に孝有しか共、継母我子の象を世に立ばやと猜む心深く有しかば、瞽叟と象と三人相謀て舜を殺さんとする事度々也。舜是をしれ共父をも不恨、母をも弟をも不嗔、孝悌の心弥慎て、只父母の意に違へる事をのみ天に仰でぞ悲みける。或時瞽叟舜を廩の上に登せて屋を葺せけるに、母下より火を放て舜を焼殺さんとす。舜始より推したりしかば、兼て持たる二の唐笠を張て、其柄に取付て飛下にけり。瞽叟不安思ければ、又象と相謀て舜に井をぞ堀せける。是は井已に深く成たらん時、上より土を下して舜を乍生埋ん為也。堅牢地神も孝行の子を哀にや覚しけん、井の底より上ける土の中に半ば金ぞ交りたりける。瞽叟・弟の象共に欲心に万事を忘ければ、土を揚ける度毎に是を争ふ事限なし。其間に舜傍に匿穴をぞ堀たりける。井已に深く成ぬる時、瞽叟と象と共に土を下し大石を落して舜を埋ければ、舜潜に兼て堀し匿穴より逋出て己れが宮へぞ帰ける。舜如斯して生たりとは弟の象夢にも不知、帝尭より舜に給はりし財共を面々に分ち領じけるに、牛羊・倉廩をば父母に与へ二女と琴一張とをば象我物にすべしと相計ふ。象則琴を弾じて二女を愛せん為に、舜の宮に行たれば、舜敢て不死、二女は瑟を調べ、舜は琴を弾じて、優然としてぞ居たりける。象大に鄂て曰く、「我舜を已に殺しつと思て、鬱陶しつ。」と云て、誠に忸怩たる気色なれば、舜琴を閣て、其弟たる言ばを聞くがうれしさに、「汝さぞ悲く思ひつらん。」とてそゞろに涙をぞ流しける。斯し後も舜弥孝有て父母に事る道も不懈、弟を愛る心も不浅ければ、忠孝の徳天下に顕れて、帝尭遂に帝位を譲り給ひにけり。舜天子の位を践で世を治め給ふ事天に叶ひ地に随ひしかば、五日の風枝を不鳴十日の雨壌を破事なし。国富み民豊にして、四海其恩を仰ぎ、万邦其徳を頌せり。されば孔子も、尋於忠臣在孝子之門といへり。為父不孝ならん人、豈為君忠あらんや。天竺・震旦の旧き迹を尋るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。師子国の例是也。為父孝あれば賎しけれ共被賞。虞舜の徳是也。然に右兵衛佐直冬は父を亡さん為に君の命を仮んとす。君是を御許容有て大将の号を被許事旁以非道。山名伊豆守若此人を取立て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」と昨木の隠子朴翁が眉を顰て申けるが、果してげにもと被思知世に成にけり。

話は続きます。「また昔漢朝の頃、帝尭(ていぎょう)と言う大変徳のある帝がおられました。天子の座にいること七十年になり、すでに年老いて来ました。『誰かに天下を譲ろうか』と尋ねられたので、大臣らは皆媚びるように、『幸いにして皇太子であられる丹朱にこそお譲りになれば』と返答されるのを、

帝尭は、『天下と言うものは彼一人のものではない。どうして皇太子だからと言って、天下を譲るべきでない者に譲り、国民を苦しませて良いものか』と言って、丹朱に天下を与えませんでした。そこでどこかに国を譲っても良いような賢人が居ないものかと、隠遁している者まで含めて探し回ると、

箕山(きざん)と言うところに許由(きょゆう)と言う賢人が、世を捨て俗世での名誉など隠して、ただ苔深く細い松の生えた岩の上に、酒なのか飲み物の入った瓢箪一つをかけて、鳴り響く風の音の中、人間としての煩悩から解脱されておられました。帝尭はこのことをお聞きになり、すぐに勅使を立てられ、

帝位を譲りたい旨仰せられましたが、許由はなんら返答をしませんでした。それでなくても、松を吹き抜ける風や谷川を流れる清らかな音だけを聞いて、すがすがしい耳なのに、富や名声など卑しいことを耳にして、汚れた気持ちになり、潁川(えいせん::河南省)の水で耳を洗っていると、

同じ山中で世を捨て隠居している巣父(そうふ::中国古代の伝説上の隠者。樹上に巣を作って住んだという)と言う賢人が、牛をひいて来てこの川で水を飲まそうとしていましたが、許由が耳を洗うところを見て、『どうして今、耳を洗おうとしているのか』と問いかけると、許由は、『帝尭が私に天下を譲ろうと仰るのを聞き、

耳が汚れた気持ちがしたので洗うのだ』と、答えられました。巣父は首を掻きながら、『なるほど、この水がいつもより濁っているので、何故なのかと思っていたがこういうことだったのか。そのように汚れた耳を洗った水を、牛に飲ますわけにはいかない』と言って、何することなく牛をひいて帰りました。

次に帝尭はそれでは一体誰に国を譲ろうかと、各地くまなく探し求めてみると、冀州(きしゅう::中国にかつて存在した州)に虞舜(ぐしゅん::中国古代の伝説上の聖王)と言う身分の低い人がいました。彼の父、瞽叟(こそう)は盲目であり、母は幼い時に亡くなり、継母は粗暴で残忍な人でした。また弟の象は横柄で理不尽な人物でした。

しかし虞舜は孝行の心が強く、父母を養うため歴山(れきざん::中国山東省)に行って耕作をしようとすると、その土地の人が田畑を提供してくれ、雷沢に魚を捕りに行くと、周辺の人が住まいを譲りました。また黄河のほとりで陶器を焼くと、出来た器には傷やゆがみなどありませんでした。

虞舜の行くところ二年もすれば村が出来、三年も経てば都となりました。世間の万人が彼の人徳を慕って集まって来るからです。舜が年齢二十にして、孝行ぶりが天下に知れ渡ってきたので、帝尭は彼に天下を譲ろうと考えました。そこでまず公私に渡りその言動を調べようと、尭の姫宮、

娥皇(がこう::中国古代の伝説上の女性)と女英(じょえい::中国古代の伝説上の女性)の二人を舜に娶せました。また尭の子供ら九人を舜の家来にして、彼の左右にいつも付き添わせました。尭の二人の姫宮は、身分の高いことを夫に対して自慢することもなく、舜の母親に対しても同じく謙虚に振る舞いました。

九人の子供らも同じく臣として舜を尊敬し、誠実に務めを果たしました。帝尭はますますお喜びになり、再び舜に倉廩(そうりん::穀物蔵)、牛や羊、?衣、琴一張りを与えました。このように舜の声望は帝にまで届き、父母に対しても孝行しましたが、継母は我が子の象を出世させたい一心で、舜をねたむ気持ちが強くなり、

父の瞽叟と象の三人で陰謀を企て、舜を幾度となく殺害しようとしました。その事実を知った舜ですが、父を恨むこともなく、母や弟に対して怒りを覚えることもなく、ますます父母に孝行し、弟を大事にする気持ちが強くなり、ただ父母の気持ちにそえていないことのみが悲しくて、天を仰ぐばかりでした。

ある時、瞽叟が舜を蔵に上らせて、屋根を葺かせていましたが、母が下から火を放ち、舜を殺そうとしました。舜ははじめから危険を感じていたので、前もって用意していた二つの唐笠を開き、その柄を手にして飛び降りました。瞽叟はこの失敗に不安を感じ、また象と相談の上、舜に井戸を掘らせました。

これは井戸をそこそこ深くまで掘り下げた時、上から土を落として舜を生け埋めにするためです。堅牢地神(けんろうじしん::大地を支配する神)も孝行息子を哀れに思ったのか、井戸の底から引き上げる土の中に、半分くらい金を混ぜました。瞽叟と弟の象二人は欲深いので、土を引き上げるたびにすべてを忘れて争いました。

その間に舜は隠れることのできる横穴を掘りました。井戸が深くまで掘られた時、瞽叟と象の二人は土と大きな石を落とし舜を埋めたのですが、舜が前もってひそかに掘っておいた横穴から逃げ出し、自分の宮に帰りました。このように舜が無事だったとは、弟の象は夢にも思わず、帝尭から舜が賜った財産などを皆に分けるのに、

牛や羊、倉廩は父母に与え、二人の姫君と琴の一張は、象が我が物にしようと考えました。象は早速琴を弾じながら、二人の姫を可愛がろうと舜の宮に行ってみると、舜は勿論死んではいませんし、二人の姫は瑟(しつ::中国古代の弦楽器の一、筝に似る)を演奏し、舜は琴を弾いて悠然としていました。

象はびっくり仰天し、『私はすでに舜を殺したと思って、気持ちが晴れないでいた』と言って、深く恥じ入る様子に、舜は琴を横に置き、弟の言葉を聞いた嬉しさに、『汝もきっと悲しく思っていたのだろう』と言って、訳もなく涙を流しました。このようなことがあってからも、舜の孝行の気持ちは変わらず、

父母に対して誠意をもって仕え、弟への深い愛情にも変化がないので、忠孝の人徳は天下に知れ渡ることとなり、帝尭はついに帝位を舜にお譲りになられました。舜が天子の位を継いで、世を治めることは天の意にかない、地の神の意にも沿うことなので、五日と続く風は吹かず、十日と続く雨が降ることもなく、

世の中は平穏無事でした。国は富み、民は豊かになって、天下国家皆が皆、その恩恵に感謝し、あらゆる土地の人がその徳を褒めたたえました。そこで孔子は忠臣を求めるなら、親に孝行する者のいる家から求めよと言ったのです。父に対して親不孝の人間が、主君に対して決して忠義の心などあるはずがありません。

天竺(インド)や震旦(古代中国)にあった古い出来事を調べると、親に対して人の道を誤れば、たとえ忠義があっても罰せられました。師子国の出来事がその例です。父のために孝行の心があれば、卑しい身分の人間でも賞せられました。虞舜の人徳がその例です。しかしながら、右兵衛佐直冬は父を滅ぼすために、

天皇の命令を利用しようとしました。天皇もまたこれをお許しになり、大将の称号をお許しになったことは、もっての外な非道なことと言えます。山名伊豆守がもしこの人間を取り立てて、大将とするようなことがあれば、天下の大事業を成し遂げることなど出来るわけがありません」と、昨木遊和軒朴翁が眉をひそめて話されましたが、結果として彼の言うような世の中になりました。      (終り)

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