32 太平記 巻第三十二 (その二)


○直冬上洛事付鬼丸鬼切事
南方に再往の評定有て、足利右兵衛佐直冬を大将として京都を可攻由、綸旨を被成ければ、山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏、五千余騎の勢を卒して、文和三年十二月十三日伯耆国を立給ふ。山陰道悉順付て兵七千騎に及びしかば、但馬国より杉原越に播磨へ打て出、先宰相中将義詮の鵤の宿にをはするをや打散す、又直に丹波へ懸て、仁木左京太夫頼章が佐野の城に楯篭て、我等を支へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中の桃井播磨守直常・越前修理大夫高経の許より飛脚同時に到来して、只急ぎ京都へ攻上られ候へ。北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒せられける間、さらば夜を日に継で上んとて、山名父子七千六百余騎、前後十里に支て丹波国を打通るに、仁木左京大夫頼章当国の守護として敵を支ん為に在国したる上、今は将軍の執事として勢ひ人に超たれば、丹波国にて定て火を散す程の合戦五度も十度もあらんずらんと覚へけるに、敵の勇鋭を見て戦ては中々叶はじとや思ひけん、遂に矢の一をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲るのみならず天下の口遊とぞ成にける。都に有とある程の兵をば義詮朝臣に付て播磨へ被下、遠国の勢は未上らず。将軍僅なる小勢にて京中の合戦は中々悪かりぬと、思慮旁深かりければ、直冬已に大江山を超ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上を取奉て江州武作寺へ落給ふ。抑此君御位に即せ給て後、未三年を不過、二度都を落させ給ひ、百官皆他郷の雲に吟ひ給ふ、浅猿かりし世中なり。去程に同十三日、直冬都に入給へば、越中の桃井・越前修理大夫、三千余騎にて上洛す。直冬朝臣此七八箇年、依継母讒那辺這辺漂泊し給つるが、多年の蟄懐一時に開けて今天下の武士に仰れ給へば、只年に再び花さく木の、其根かるゝは未知、春風三月、一城の人皆狂するに不異。抑山名伊豆守は、若狭所領の事に付て宰相中将殿に恨あり。桃井播磨守は、故高倉禅門に属して望を不達憤あれば、此両人の敵に成給ひぬる事は少し其謂も有べし。尾張修理大夫高経は忠戦自余の一門に超しに依て、将軍も抽賞異于他にして世其仁を重くせしかば、何事に恨有べし共覚ぬに、俄に今敵に成て将軍の世を傾んとし給ふ事、何の遺恨ぞと事の起りを尋ぬれば、先年越前の足羽の合戦の時、此高経朝敵の大将新田左中将義貞を討て、源平累代の重宝に鬼丸・鬼切と云二振の太刀を取給ひたりしを、将軍使者を以て、「是は末々の源氏なんど可持物に非ず、急ぎ是を被渡候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜て、「此二振の太刀をば長崎の道場に預置て候しを、彼道場炎上の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替て、焼損じてぞ出されける。此事有の侭に京都へ聞へければ、将軍大に忿て、朝敵の大将を討たりつる忠功抜群也といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共多かりける間、高経是を憤て、故高倉禅門の謀叛の時も是に与し、今直冬の上洛にも力を合て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎮めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし。」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な/\夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。

☆ 足利直冬が上洛したことと、鬼丸、鬼切のこと

さて南朝では再び会議が持たれ、足利右兵衛佐直冬を大将として、京都を攻撃することについて綸旨をお願いしたところ下されたので、山名伊豆守時氏とその子息右衛門佐師氏が五千余騎の軍勢を率いて、文和三年(正平九年::1354年)十二月十三日、伯耆国を進発しました。

途上の山陰道の武将らは皆が皆従ったので、その軍勢は七千騎にもなり、但馬国から杉原(兵庫県多可郡多可町)越えを経由し播磨に進出すると、まず宰相中将義詮が鵤(いかるが::兵庫県揖保郡太子町)の宿に居られるのを蹴散らし、その後すぐ丹波に向かい、仁木左京大夫頼章が佐野の城に立てこもって、

我らの軍勢を迎え討とうとするのを、逆に攻め落とそうと作戦会議を開いているところに、越中の桃井播磨守直常と越前修理大夫高経のもとから飛脚が同時に到着し、ここは一気に京都に攻め上られたい。我々は北国の軍勢を率いて同時に攻め上ろうと、作戦を伝えてきたので、

それならば夜を日に継いで上ろうと、山名父子の七千六百余騎が前後十里に広がって、丹波国を通過しようとしました。その時、仁木左京大夫頼章が当国の守護として敵を迎え討つため在国していますし、また彼は今や将軍の執事としてその権勢は人を凌いでいますから、

丹波国ではきっと火を散らす激戦の五度や十度位はあるだろうと覚悟していましたが、仁木は敵軍の発する勢いに、とても戦ったところで勝てる気がせず、ついに矢の一本さえ放つことなく、城の麓を悠々と通過させたので、敵の嘲笑を受けただけでなく、天下の笑いものになりました。

ところで都に駐留していたすべての軍勢を、義詮朝臣に従わせて播磨に出兵させ、かと言って遠国の軍勢は未だ上って来てはいません。この状況に将軍は僅かな軍勢で、洛内での合戦は不利ではないかと、色々作戦を考えに考えていたところ、

直冬がすでに大枝山(京都市西京区と亀岡市の境)を越えたと情報が入り、文和四年(正平十年::1355年)正月十二日の暮れごろ、将軍は主上後光厳天皇のお供をして、江州武佐寺(近江八幡市にあった寺)に落ちて行きました。そもそもこの天皇は即位されてから未だ三年を過ぎてはいないのに、

二度にわたって都を落ちられ、仕えている諸官人らも皆、異郷の雲の下をさまよわれるという、何とも情けない世の中になったものです。やがて正月十三日に直冬が都に入られたので、越中の桃井と越前修理大夫は三千余騎を率いて上洛しました。

直冬朝臣はこの七、八ヶ年継母の讒言によって、あちこち漂泊を余儀なくされていましたが、長年の不満が一度に解消し、今や天下の武士たちの頂点に立たれ、ただ年毎に繰り返し花が咲いても、その木の根が枯れているのに気づかず、春風さわやかな三月、城内の人たちが皆、狂気乱舞するのと変わりありません。

そもそも山名伊豆守は若狭国の所領の件で、宰相中将殿に遺恨を持っています。また桃井播磨守は故高倉禅門直義に従ったけれど、自分の願望が達せられなかった不満を持っており、この両人が敵になることはある程度理由があります。

ところが尾張修理大夫高経は合戦における忠功が、他の一門の人々と比べ群を抜いているため、将軍もその恩賞に対して他の誰よりも重く扱っているので、何事に恨みを持っているのか理解に苦しむのですが、今、突然敵に寝返って、将軍の世を傾けようとするのは何故なのか、

その恨みのもとを調べてみると、次のようなことが原因でした。何年か前、越前の足羽における合戦の時、この高経は朝敵の大将新田左中将義貞を討ち取り(延元三年、建武五年::1338年)、源平累代の貴重な宝物である鬼丸、鬼切と言う二振りの刀を手に入れたのですが、

将軍が使者を通じて、「この刀は源氏一族の中でも末端の者が手にするものではない。すぐこれを引き渡すように。当家の家宝として嫡流の者が相続して行くことにしよう」と度々申し入れて来るのを、高経は惜しい気持ちがどうにもならず、「これら二振りの太刀は長崎の道場に預けておいたのですが、

その道場が火災に会ったとき焼けてしまいました」と言って、同じ寸法の太刀二振りに取り替えて、焼け損じた太刀ですと提出しました。ところがこの事情がそのまま京都に知れることになり、将軍は非常に憤慨し、朝敵の大将を討ち取った忠功は抜群だと言っても、

それほどの恩賞を与えることもせず、事あるごとに不名誉な扱いをすることが多いので、高経はこのことを根に持って、故高倉禅門直義が謀反を起こした時も直義の味方をし、今回直冬の上洛にあたっても、彼に協力して攻め上ることになったと言われています。

そもそもこの鬼丸と言う太刀は、北条四郎時政(時頼?)が天下を取って国内を安定させてから、身長一尺ばかりの小さな鬼が夜な夜な時政の枕元に来て、夢の中なのか、幻なのか分かりませんが苦しめられることが度々ありました。修験道の行者に加持祈祷してもらっても、効果がありませんでした。

また陰陽寮(陰陽五行説に基づき、占いなどを司る役所)によって退治しようとしても立ち去りませんでした。このためか時政は病気になり、心身共に苦しむことこの上ありません。ある夜、見た夢の中でこの太刀が一人の老翁に姿を変え、「私は常に汝を擁護するため、

あの妖怪を退治しようとするのだが、汚れた人間の手によって剣を握られたことによって錆びてしまい、抜こうとしても抜くことが出来ない。早くあの妖怪を退治したいと思うなら、心清浄なる人に私の錆びを拭い取ってもらうように」と詳しく説明した後、老翁は再び元の太刀に姿を変えたように見えました。

時政は朝早く起きて老翁が夢の中で教えたように、ある侍を水で清めさせこの太刀の錆びを拭い取らせて、鞘には入れず寝室の傍らの柱に立てかけました。冬のことですから部屋を暖めようと、火鉢を近くに取り寄せ火鉢を置いた台を見ると、銀で身長一尺ばかりの小鬼に鋳造し、

目には水晶を入れ、歯には金を沈めたものが施してありました。時政はこれを見て、最近夜な夜な夢に現れて私を悩ませる鬼の姿をした者は、確かにこれに似た者だなと思い浮かべていたところ、抜いて立てかけてあった太刀が突然倒れ、この火鉢の台に施されていた小鬼の頭を削り落としました。

確かにこの鬼が化けて人を苦しめたのでしょうか、時政は瞬く間に気分が晴れ、その後は鬼の姿をした者を夢に見ることもなくなりました。


さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。是は奥州宮城郡の府に、三の真国と云鍜冶、三年精進潔斎して七重にしめを引、きたうたる剣なり。又鬼切と申は、元は清和源氏の先祖摂津守頼光の太刀にてぞ有ける。其昔大和国宇多郡に大森あり。此陰に夜な/\妖者有て、往来の人を採食ひ、牛馬六畜を掴裂く。頼光是を聞て、郎等に渡辺源五綱と云ける者に、彼の妖者討て参れとて、秘蔵の太刀をぞたびたりける。綱則宇多郡に行き甲胃を帯して、夜々件の森の陰にぞ待たりける。此妖者綱が勢にや恐たりけん、敢て眼に遮る事なし。さらば形を替て謀らんと思て、髪を解乱して掩ひ、鬘をかけ、かね黒に太眉を作り、薄衣を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通りける。俄に空掻曇て、森の上に物の立翔る様に見へけるが、虚空より綱が髪を掴で中に提てぞ挙たりける。綱、頼光の許より給りたる太刀を抜て、虚空を払斬にぞ切たりける。雲の上に唖と云声して、血の颯と顔に懸りけるが、毛の黒く生たる手の、指三有て爪の鉤たるを、二の腕よりかけず切てぞ落しける。綱此手を取て頼光に奉る。頼光是を秘して、朱の唐櫃に収て置れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢の博士に夢を問給ければ、七日が間の重き御慎とぞ占ひ申ける。依之堅門戸を閉て、七重に七五三を引四門に十二人の番衆を居て、毎夜宿直蟇目をぞ射させける。物忌已に七日に満じける夜、河内国高安の里より、頼光の母義をはして門をぞ敲せける。物忌の最中なれ共、正しき老母の、対面の為とて渺々と来り給たれば、力なく門を開て、内へいざなひ入奉て、終夜の酒宴にぞ及びける。頼光酔に和して此事を語り出されたるに、老母持たる盃を前に閣き、「穴をそろしや、我傍の人も此妖物に取れて、子は親に先立、婦は夫に別れたる者多く候ぞや。さても何なる者にて候ぞ。哀其手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃の中より件の手を取出して老母の前にぞ閣ける。母是を取て、暫く見る由しけるが、我右の手の臂より切られたるを差出して、「是は我手にて候ける。」と云て差合、忽に長二丈計なる牛鬼と成て、酌に立たりける綱を左の手に乍提、頼光に走蒐りける。頼光件の太刀を抜て、牛鬼の頭をかけず切て落す。其頭中に飛揚り、太刀の鋒を五寸喰切て口に乍含、半時許跳上り/\吠忿りけるが、遂には地に落て死にけり。其形は尚破風より飛出て、遥の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作に破風をせざるは此故也。其比修験清浄の横川の僧都覚蓮を請じ奉て、壇上に此太刀を立、七五三を引、七日加持し給ければ、鋒五寸折たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍に如元生出にけり。其後此の太刀多田満仲が手に渡て、信濃国戸蔵山にて又鬼を切たる事あり。依之其名を鬼切と云なり。此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。時の武将田村の将軍に是を奉る。此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。其後摂津守頼光、太神宮参詣の時夢想あり。「汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示給ひたる太刀也。されば源家に執せらるゝも理なり。

そうしてこの太刀は鬼丸と名付けられ、北条高時(鎌倉幕府第十四代執権)の代に至るまで肌身離さず守り神として、平氏の嫡流家に伝わってきました。相模入道高時が鎌倉の東勝寺で自害された時、この太刀を相模入道の次男、幼名亀寿丸(北条時行)に我が家の家宝だと言って渡し、

信濃国へ祝部を頼って落ちさせました。建武二年(1335年)八月、中先代の乱において、時行は鎌倉の合戦に敗れて、諏訪三河守をはじめに主だった大名四十余人が、勝長寿院の大御堂の中に走り込み、顔の皮をはいで自害しましたが、その中にこの太刀があったので、

きっと相模次郎時行もここで腹を切ったのだろうと、人々は皆、哀れに思ったのでした。そしてこの太刀は勝者の新田義貞に渡されました。義貞は大いに喜び、「これは平家代々に伝わる有名な鬼丸と言う貴重な宝物だ」と言って、秘蔵していた剣です。

この太刀は奥州宮城郡の国府にいた三の真国と言う刀鍛冶が、三年間精進潔斎して七重にしめ縄を張って、鍛えた剣です。また鬼切と言うのは、元々清和源氏の先祖、摂津守源頼光の太刀なのです。その昔、大和国の宇陀郡に大きな森がありました。この森陰に夜な夜な怪しい者が現れ、

往来する人を捕まえて食べたり、牛馬六畜(六種の家畜::馬、牛、羊、犬、いのこ、鶏)を捕まえて引き裂きました。頼光はこの話を聞いて、家来の渡辺源五綱と言う武士に、あの怪しげな者を討ち取って来いと言って、秘蔵の太刀を与えました。綱は早速宇陀郡に行き甲冑で身を固めて、

毎夜その森陰で待ち受けました。しかしこのばけものは綱の気勢に怖じ気づいたのか、全く目の前に現れません。しからば変装してだましてやれと考え、髪の毛をかき乱して覆い、髪飾りを付け歯は黒く染め眉も太く描き、薄衣を身にまとい女性のような姿になって、

朧月夜の明け方、森の近くを通りました。すると突然空が暗くなり、森の上方に何か立ちのぼったように見えるや、空中から綱の髪をつかんで宙に持ち上げました。綱は頼光から賜った太刀を抜き、虚空を切り払うように薙ぎました。

すると雲の上方でアッと言う声がして、血が顔にサッとかかり、黒い毛が生えた手に曲がった爪をした指三本のついた腕が、肩から肘にかけて切り取られ、落ちて来ました。綱はこの手を取り上げ、頼光に渡しました。頼光はこの手をひそかに朱色の唐櫃の中に収めておいたのですが、

その後夜毎に恐ろしい夢を見たので、夢占いの博士に夢の件について質問したところ、七日間の厳しい謹慎をするべしと占ったのです。このため、門を固く閉ざし、七重にしめ縄を張り、四つの門には十二人の当直を決めて、毎夜宿直の者に蟇目(ひきめ::射た時に音を発する矢)を射させました。

謹慎の七日間がすでに過ぎようとした夜、河内国高安の里より頼光の母君が来られて門を叩かれました。物忌で謹慎の最中ではありますが、間違いなく自分の老母が面会のために、遥か遠方から来られたとあっては断ることも出来ず、門を開いて中に招じ入れ、

終夜にわたって酒宴が開かれました。頼光は酔いに気持ちが和やかになり、最近起こったこの出来事を話されると、老母は手にしていた盃を前に置き、「なんとまぁ、恐ろしい話だ。私の周りの人でも、この化け物に取りつかれて子供は親に先だったり、妻は夫と別れることになったりした者が沢山います。

しかし一体どんな者なのでしょうや、良ければその手を見せてもらいたい」と頼まれたので、頼光は、「お安い御用です」と櫃の中より例の手を取り出し、老母の前に置きました。母はその手を取り上げ、しばらくご覧になる振りをしていましたが、

自分の右の手が肘付近で切られているのを差し出し、「これは私の手です」と言って我が手に添えると、突然身長二丈(一丈は十尺)程の牛鬼(うしおに::地獄で死者を責める鬼)に姿を変え、酌に立ち上がった綱を左の手でつり下げながら、頼光にとびかかりました。頼光は例の太刀を抜いて、

牛鬼の頭をいとも簡単に切り落しました。切り落された頭は空中に飛び上がり、太刀の刃の部分を五寸食い切り、口に含んだままで、半時(約一時間)ばかり飛び跳ねながら吠え騒ぎましたが、最後には地上に落ちて死んだのでした。それでもなお、

その死体は屋敷の破風(はふ::屋根についた三角形の部分)から飛び出し、遥か上空に上って行ったのでした。今に至るまで渡辺党(摂津源氏の一派)の者が家を建てる時、破風を取り入れないのはこのことが理由になっています。その頃苦行を重ね煩悩から解かれた横川の僧都(そうず::僧位の内、僧正に次いで二番目)

覚蓮を招き、壇の上にこの太刀を立て、しめ縄を張り七日間祈祷を行ったところ、刃の部分五寸が折れた剣に、天井から倶利伽羅竜王が下りてきて、太刀の峰を口に含んだところ、刃の部分は元通りになったのでした。その後この太刀は多田満仲の手に渡り、

信濃国の戸隠山で再び鬼を切ったことがあります。これらの理由からその名を鬼切と言うのです。この太刀は伯耆国会見郡(鳥取県西伯郡伯耆町大原)の大原五郎太夫安綱と言う刀鍛冶が、精神を統一しあらゆる煩悩を捨てて、一心不乱に鍛えに鍛えた剣です。

当時の武将、征夷大将軍坂上田村麻呂にこの刀を献上しました。この剣は鈴鹿の御前(鈴鹿山に住んでいたと言われる盗賊)と田村麻呂将軍が鈴鹿山で決闘の際、使用した剣でもあります。(この伝説には諸説あり一概に人物を特定できない)その後田村麻呂が伊勢大神宮に参詣した時、

朝廷から夢のお告げに従うように要求され、この太刀を伊勢大神宮に奉納されました。またその後、摂津守源頼光が伊勢大神宮に参詣された時、夢に神仏が現れ、「汝にこの剣を授ける。この剣を子孫代々にわたって嫡流に伝え、天下の安定を護るように」と、示現のあった太刀です。

これらの諸事情から源家が保管し相続して行くのも当然のことです。


○神南合戦事
去程に、将軍は持明院の主上を守護し奉て、近江国四十九院に落止り、宰相中将義詮朝臣は西国より上洛せんずる敵を支へん為に、播磨の鵤に兼て在庄し給ひたりと聞へしかば、土岐・佐々木・仁木右京大夫義長、三千余騎にて四十九院へ馳参る。四国・西国の兵二万余騎、鵤へ馳集る。畠山尾張守も東八箇国の勢を率して、今日明日の程に参著仕るべしと、飛脚及度度由申されければ、将軍父子の御勢、只竜の天に翔て雲を起し、虎の山に靠て風を生が如し。東西の牒使相図の日を定めければ、将軍は三万余騎の勢にて、二月四日東坂本に著給ふ。義詮朝臣は七千余騎にて、同日の早旦に、山崎の西、神南の北なる峯に陣を取給ふ。右兵衛佐直冬も始は大津・松本の辺に馳向て合戦を致さんと議せられけるが、山門・三井寺の衆徒、皆将軍に志を通ずる由聞へければ、只洛中にして東西に敵を受て繕て合戦をすべしとて、一手は右兵衛佐直冬を大将にて、尾張修理大夫高経・子息兵部少輔・桃井播磨守直常・土岐・原・蜂屋・赤松弾正少弼、其勢都合六千余騎、東寺を攻の城に構へて、七条より下九条まで家々小路々々に充満たり。一手は山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏を大将にて、伊田・波多野・石原・足立・河村・久世・土屋・福依・野田・首藤沢・浅沼・大庭・福間・宇多河・海老名和泉守・吉岡安芸守・小幡出羽守・楯又太郎・加地三郎・後藤壱岐四郎・倭久修理亮・長門山城守・土師右京亮・毛利因幡守・佐治但馬守・塩見源太以下其勢合て五千余騎、前に深田をあて、左に河を堺て、淀・鳥羽・赤井・大渡に引分々々陣を取る。河より南には、四条中納言隆俊・法性寺右衛門督康長を大将として、吉良・石堂・原・蜂屋・赤松弾正少弼・和田・楠・真木・佐和・秋山・酒辺・宇野・崎山・佐美・陶器・岩郡・河野辺・福塚・橋本を始として、吉野の軍兵三千余騎、八幡の山下に陣を取る。山名右衛門佐師氏、始の程は待て戦んとて議したりけるが、神南の敵さまでの大勢ならずと見すかして、日来の議を翻して、八幡に引へたる南方の勢と一に成て、先神内の宿に打寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯を堅めて二の尾よりあげたり。此陣始より三所に分れて、西の尾崎をば、赤松律師則祐・子息弥次郎師範・五郎直頼・彦五郎範実・肥前権守朝範、並佐々木佐渡判官入道々誉が手者・黄旗一揆、彼是合て二千余騎にて堅めたり。南の尾崎をば、細河右馬頭頼之・同式部大輔、西国・中国の勢相共に、二千余騎堅めたり。北に当りたる峯には、大将義詮朝臣の陣なれば、道誉・則祐以下老武者、頭人・評定衆・奉行人、其勢三千余騎、油幕の内に布皮を敷き双べ、袖を連て並居たり。嶮き山の習として、余所はみへて麓は不見。何れの陣へか敵は先蒐らんと、遠目仕ふて守り居たる所に、山名右衛門佐を先として、出雲・伯耆の勢二千余騎、西の尾崎へ只一息に懸上て、一度に時をどつと作る。分内狭き両方の峯に馬人身を側むる程に打寄たれば、互に射違るこみ矢のはづるゝは一もなし。爰に播磨国の住人後藤三郎左衛門尉基明と云ける強弓の手垂れ、一段高き岩の上に走り上て、三人張りに十四束三伏、飽まで引て放けるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵共進かねて、少し白うてぞ見へたりける。是を利にして、佐々木が黄旗一揆の中より、大鍬形に一様の母衣懸たる武者三人、己が結たる鹿垣切て押破り、「日本一の大剛の者、近江国の住人江見勘解由左衛門尉・蓑浦四郎左衛門・馬淵新左衛門、真前懸て討死仕るぞ。死残る人あらば語て子孫に名を伝へよ。」と声々に名乗呼はて、斬死にこそ死にけれ。後藤三郎左衛門尉基明・一宮弾正左衛門有種・粟飯原彦五郎・海老名新左衛門四人、高声に名乗て川を渡し城へ切て入。「合戦こそ先懸は一人に定まれ。加様の広みの軍には、敵と一番に打違たるを以て先懸とは申すぞ。御方に一人も死残る人あらば、証拠に立てたび候へ。」と呼はて、寄手数万の中へ只四人切て入る。右衛門佐大音声を揚て、「前陣戦労れて見ゆるぞ。後陣入替てあの敵討。」と下知すれば、伊田・波多野の早雄の若武者共、二十余人馬より飛下飛下、勇々で抜連て渡合ふ。後ろには数万の敵、「御方つゞくぞ引な。」と力を合て喚き叫ぶ。前には五十余人の者共颯と入乱れて切合ふ。太刀の鐔音鎧突、山彦に響き暫も休時なければ、山岳崩て川谷を埋むかとこそ聞へけれ。此時後藤三郎左衛門已下、面に立程の兵五十余人討れにけり。

☆ 神南での合戦のこと

さて尊氏将軍は持明院の主上、後光厳天皇を守護して、近江国の四十九院に落ちられはしましたが、そこに留まられていますし、宰相中将義詮朝臣は西国から上洛しようとする敵を迎え撃つため、播磨国、鵤の宿に以前から駐留していると言われていますので、

土岐、佐々木、仁木右京大夫義長らが三千余騎を率いて四十九院に駆けつけて来ました。また四国や西国の兵士ら二万余騎が、鵤の陣営に駆け集まって来ました。その外、畠山尾張守も東八ヶ国の軍勢を率いて、今日か明日には参着出来るだろうと、飛脚を通じて度々申し寄こしてくるので、

将軍父子の気勢は、ただただ竜が天に駆け上って雲を起こしたり、虎が山を頼って風を生む程の勢いを思わせます。東の尊氏軍と西の義詮軍から派遣された使者によって、合戦の日程が決定したので、将軍は三万余騎の軍勢で、文和四年(正平十年::1355年)二月四日東坂本に到着されました。

また義詮朝臣は七千余騎で同日の早朝、山崎の西、神南(こうない::高槻市神内)の北にある山に陣を構えました。右兵衛佐直冬も最初大津、松本のあたりに駆けつけて合戦を行おうと決めていましたが、山門延暦寺や三井寺の衆徒らが全員、将軍の味方をするのではと言われ出したので、

それでは洛中で東西よりの敵を迎え、急遽防戦準備を整えて合戦を行うと決め、一手は右兵衛佐直冬を大将にして、尾張修理大夫高経、その子息兵部少輔、桃井播磨守直常、土岐、原、蜂屋、赤松弾正少弼らの総勢六千余騎が、東寺を最終拠点の城として構え、

七条から南へ九条までの家々や、あらゆる小路に満ち溢れました。また一手は山名伊豆守時氏、その子息右衛門佐師氏を大将にして、伊田、波多野、石原、足立、河村、久世、土屋、福依、野田、首藤沢、浅沼、大庭、福間、宇多河、海老名和泉守、吉岡安芸守、小幡出羽守、楯又太郎、

加地三郎、後藤壱岐四郎、倭久修理亮、長門山城守、土師右京亮、毛利因幡守、佐治但馬守、塩見源太以下その勢、合わせて五千余騎が、前には深田、左は川で隔てて、淀、鳥羽、赤井、大渡に分散して陣を構えました。川より南には四条中納言隆俊、法性寺右衛門督康長を大将として、

吉良、石塔、原、蜂屋、赤松弾正少弼、和田、楠木、真木、佐和、秋山、酒辺、宇野、崎山、佐美、陶器(すえ)、岩郡(いわくり)、河野辺、福塚、橋本らをはじめに、吉野の軍兵三千余騎が八幡の山麓に陣を構えました。山名右衛門佐師氏は当初敵を待ち受けて戦おうと決めていましたが、

神南の敵はそれほど大軍でもないと見抜き、今まで守っていた戦法を変え、八幡に控えている吉野軍と一緒になって、まず神南の宿に押し寄せ、楯にした板を湿らせ、馬の腹帯をきつく締め、二つの山すそより攻め上ることにしました。ここを占める敵の陣営は最初から三つに分かれて展開しており、

西の山裾は赤松律師則祐、その子息弥次郎師範、五郎直頼、彦五郎範実、肥前権守朝範並びに佐々木佐渡判官入道道誉らが各自の家来や黄旗一揆など、かれこれ合わせて二千余騎で固めています。また南の裾は細川右馬頭頼之、同じく式部大輔と西国や中国などの軍勢らとともに二千余騎で固めています。

そして北に位置する山の頂上は大将義詮朝臣の陣営ですから、道誉や則祐以下の老武者また幕府の要人である頭人、評定衆、奉行人など総勢三千余騎が、雨露をしのぐため油を塗った陣幕の中で、布や革を敷き詰め、袖を連ねて並んでいます。

険しい山にありがちなのですが、関係のない所はよく見えますが、肝心の麓はあまり見えません。いずれの陣に敵が押し寄せるかと、目を凝らして眺めながら守っていると、山名右衛門佐師氏を先頭に、出雲、伯耆の軍勢、二千余騎が西の山裾を一気に駆け上り、一斉にドッと閧の声をあげました。

狭い二つの峰に、馬や人間が体を接するほど近寄っているので、お互い射合わせる矢の一本たりと外れることはありません。その時、播磨国の豪族、後藤三郎左衛門尉基明と言う強弓を扱う達人が、一段高い岩の上に走りあがり、

三人張りの弓に十四束三伏(こぶし十四握りの幅に指三本の幅を加えた長さ)の矢を一杯まで引き絞り放つと、楯も甲冑も役に立たたないので、山名の兵士らは進むことが出来ず、少しひるんでいるように見えました。この状況を利用して、佐々木の黄旗一揆の中から、

大鍬形(兜に付けた大きな前立物)に薄い母衣(ほろ::鎧に付ける流れ矢防止の布)を肩にかけた武者三人が、自分らで設置した鹿垣(ししがき::敵を防ぐため、竹や木で編んだ垣)を押し破り、「日本一の剛勇なる武者である、近江国の豪族、江見勘解由左衛門尉、簑浦四郎左衛門、馬淵新左衛門の三人が、

真っ先に駆け込み討ち死にしようじゃないか。もし生き残った者がいれば、子孫に語って名を伝えてくれ」と各自名乗りを上げて、斬り死にを遂げたのです。後藤三郎左衛門尉基明、一宮弾正左衛門有種、粟飯原彦五郎と海老名新左衛門の四人は大声で名乗りを上げて、

川を渡ると城内に切り込み、「合戦で先駆けと言うのは一人だけだ。このように広範囲の合戦では、敵と一番最初に斬り合ってこそ、先駆けと言うのだ。味方にもし一人でも生き残る者がいれば、証人になってくれ」と叫びながら、寄せ手数万の敵中にただ四人で斬り込みました。

山名右衛門佐は大音声を上げ、「先陣の兵らは疲れているようだ、後方の兵士ら入れ替わって敵を討ち取れ」と命令したので、伊田、波多野の血気にはやった若武者ら二十余人が馬から次々と飛び下り、太刀を抜き払って勇敢に渡り合いました。

後ろには数万の敵が控えていますが、「味方は次々と続くぞ、退くな退くな」と力を合わせ、喚き散らしました。前では五十余人の武者らが入り乱れて斬り合っています。太刀の鍔が発する音や、鎧をゆする音(鎧のさねの隙間を防ぐのが目的)などが山々に響きわたり、

しばしも休む間もないので、山々が崩れ落ち川や谷を埋め尽くすのではと聞こえました。この時、後藤三郎左衛門以下、世間に知られた兵士ら五十余人が討たれたのです。


此二陣の南尾をば、細河右馬頭・同式部大輔大将にて、四国・中国の兵共が二千余騎にて堅めたりけるが、此は殊更地僻り谷深く切れて、敵の上べき便なしと思ける処、山名伊豆守を先として小林民部丞・小幡・浅沼・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後・因幡の兵共三千余騎にて、さしも岨き山路を盤折にぞ上たりける。陣には未鹿垣の一重も結ざれば、両方時の声を合せて矢一筋射違る程こそ有けれ。軈て打物に成て乱合ふ。先一番に進で戦ける四国勢の中に、秋間兵庫助兄弟三人・生稲四郎左衛門一族十二人一足も引かで討れにけり。是を見て坂東・坂西・藤家・橘家の者共少し飽んで見へけるを、備前国住人須々木三郎左衛門父子兄弟六人入替て戦けるが、つゞく御方なければ是も一所にて討れにけり。是より一陣二陣共に色めき、兵しどろに見へけるを、小林民部丞得たり賢しと、勝に乗て短兵急に拉んと、揉に揉で責ける間、四国・中国の三千余騎、山より北へまくり落されて、遥に深き谷底へ、人雪頽をつかせて落重なれば、敵に逢て討死する者は少しといへ共、己が太刀・長刀に貫れて死する兵数を不知。是を見て山名右衛門佐弥気に乗て真前に進む上は、相順ふ兵共誰かは少しも擬議すべき、我先に敵に合んと争ひ前まずと云者なし。中にも山名が郎等、因播国の住人に福間三郎とて、世に名を知れたる大力の有けるが、七尺三寸の太刀だびら広に作りたるを、鐔本三尺計をいて蛤歯に掻合せ、伏縄目の鎧に三鍬形打たる甲を猪頚に著なし、小跳して片手打の払切に切て上りけるに、太刀の歯に当る敵は、どう中諸膝かけて落され、太刀の峯に当る兵は、或は中にづんど打上られ、或尻居にどうど打倒されて、血を吐てこそ死にけれ。両陣已に破し後、兵皆乱て、惣大将の御勢と一所にならんと、崩れ落て引ける間、伊田・波多野の者共、「余すな洩すな。」と喚き叫で追懸たり。石巌苔滑かにして荊棘道を塞たれば、引者も不延得返す兵敢て不討云事なし。赤松弥次郎・舎弟五郎・同彦五郎三人引留りて、「此を返さで引程ならば、誰かは一人可生残。命惜くは返せや殿原、返せや一揆の人々。」と恥しめて罵けれ共、蹈留る者無りければ、小国播磨守・伊勢左衛門太郎・疋壇藤六・魚角大夫房・佐々木弾正忠・同能登権守・新谷入道・薦田弾正左衛門・河勾弥七・瓶尻兵庫助・粟生田左衛門次郎、返合々々所々にて討れにけり。河原兵庫助重行は、今度の軍に打負ば、必討死せんと兼て思儲けるにや、敵の已に押寄んと方々より打寄るを見て申けるは、「今日の合戦は我身独の喜び哉。元暦の古へ、平家一谷に篭りしを攻し時、一の城戸生田森の前にて、某が先祖河原大郎・河原次郎二人、城の木戸を乗越て討死したりしも二月也。国も不替月日も不違、重行同く討死して弥先祖の高名を顕さば、冥途黄泉の道の岐に行合て、其尊霊さこそ悦給はんずらめ。」と、泪を流して申けるが、云つる言少しも不違、数万人の敵の中へ只一騎懸入て、終に討死しけるこそ哀なれ。赤松肥前権守朝範は、此陣を一番に破られぬる事、身独の恥と思ければ、袖に著たる笠符を引隠て、敵の中へ交て、よき敵にあはゞ打違へて死なんと伺見ける処に、山名右衛門佐が引敵を追立て、敵を少も足ためさせずして、只何くまでも追攻々々討て、前へ通れと兵を下知して、弓手の方を通りけるを、朝範吃と打見て、「哀敵や。」と云侭に、走懸て追様に、右衛門佐が甲を破よ砕よとしたゝかにちやうど打れて吃と振返れば、山名が若党三人中に隔て、肥前守が甲を重ね打に打て打落す。落たる甲を取て著んとて、差うつぶく処に、小鬢のはづれ小耳の上、三太刀まで被切ければ、流るゝ血に目昏て、朝範犬居に動と臥せば、敵押へてとどめを差てぞ捨たりける。され共此人死業や不来けん、敵頚をも不取。軍散じて後、草の陰より生出て助りけるこそ不思議なれ。一陣二陣忽に攻破られて、山名弥勝に乗ければ、峯々に控たる国々の集勢共、未戦先に捨鞭を打て落行ける程に、大将羽林公の陣の辺には僅に勢百騎計ぞ残ける。是までも猶佐々木判官入道々誉・赤松律師則祐二人、小も気を不屈、敷皮の上に居直りて、「何くへか一足も引候べき。只我等が討死仕て候はんずるを御覧ぜられて後、御自害候へ。」と、大将をおきて奉て、弥勇てぞ見へたりける。

南側山裾方面の二陣では、細川右馬頭、同じく式部大輔を大将として、四国や中国の兵士ら二千余騎で守っていましたが、この方面は特に土地が陥没して谷が深いので、敵も登って来る方法がないのではと思っていたところ、山名伊豆守時氏を先頭に、

小林民部丞、小幡、浅沼、和田、楠木、和泉、河内、但馬、丹後、因幡などの兵士らが三千余騎で、この険しい山道を曲がりくねりながら登ってきました。ここの陣営は未だ鹿垣の一つさえ構築できていないのに、両軍鬨の声を合わせ、開戦の矢を合わせました。

そしてすぐに武器を手にしての乱戦になったのです。まず第一番に進み出て戦った四国勢の中で、秋間兵庫助兄弟三人、生稲四郎左衛門の一族十二人らは、一歩も退くことなく討たれたのです。この状況に、坂東、坂西、藤家、橘家の者どもが少し手に負えかねているように見えたので、

備前国の豪族須々木三郎左衛門父子が入れ替わって戦いましたが、後に続く味方がいなかったので、彼らも同じ場所で討たれてしまいました。これ以後は、将軍勢の一陣も二陣も動揺が隠せず、兵士らの動きも秩序無く乱れ出したのを、

小林民部丞はこことばかり勝ちに乗じて一気に押しつぶそうと、攻めに攻め続けたので、四国、中国の三千余騎は山から北側に追い立てられ、はるか下の深い谷底に、雪崩を打つように人が落ち重なったため、敵のために討ち死にする者は少ないけれど、

自分の太刀や長刀に突き抜かれて死んだ兵士は、その数さえ分からないほど多かったのでした。これを見た山名右衛門佐はますます勢いづき、先頭に立って進攻すると、従う兵士らはなんら躊躇することなく、我先に敵に巡り会おうと、争うように進みました。

中でも山名の家来に因幡国の豪族、福間三郎と言う、世間にその名を知られた大力の持ち主が居ましたが、七尺三寸の太刀を、だびらひろ(太平広::刀剣の刃の幅が広いこと)に仕立て、鍔から三尺ばかりを蛤刃(はまぐりば::刃物の断面が刃先から峰に向かって、なだらかな曲線になっていること)になるように仕上げ、

伏縄目威し(ふしなわめおどし::白、薄青、紺で縄を並べたように染めた革で威したもの)の鎧に、三鍬形(みつくわがた::前立物で鍬形の中央に剣の形を立てたもの)を打った兜をあみだにかぶり、小躍りしながら片手でなぎ切るように払うと、太刀の刃にあたる敵は、胴の中央や両膝を切られ、

太刀の刃にあたった兵は、ある者は空中に放り上げられたり、またある者は尻もちをつかされ血を吐いて死んだのでした。一陣二陣ともすでに攻略され、兵士らは皆総崩れとなって、総大将の軍勢と一緒になろうと、落ちて行きました。

しかし、伊田や波多野の兵士らが、「取り逃がすな、討ち漏らすな」と、喚き騒ぎながら追いかけました。岩々には苔が滑らかに生え、茨が進む道を閉ざすので、退却を図ろうとする者も逃げ延びることが出来ず、引き返す兵も討たれずに済むことはありませんでした。

赤松弥次郎、その弟五郎、同じく彦五郎の三人はその場に残って、「ここで反撃しないで、退却などすれば誰が生き残れると言うのだ。命が惜しかったら返して反撃せよ、皆の者。引き返せや一揆の者ども」と辱め、ののしったものの、踏み止まる者もいないので、

小国播磨守、伊勢左衛門太郎、疋壇(ひきだ)藤六、魚角(うおすみ)大夫房、佐々木弾正忠、同じく能登権守、新谷(にいのや)入道、薦田弾正左衛門、河勾(こうわ)弥七、瓶尻(かめじり)兵庫助、粟生田(あおうだ)左衛門次郎らは、ここかしこで返しては討たれ、返しては討たれたのです。

河原兵庫助重行は今回の合戦にもし負けるようなことがあれば、必ず討ち死にを遂げようと覚悟していたので、敵がすでに押し寄せようと方々から近づいて来るのを見ながら、「今日の合戦は私にとってこの上ない喜びである。元暦(1184-1185年)の昔、一の谷に篭った平家を攻撃した時、

一の城戸である生田の森の前で、私の先祖、河原太郎、河原次郎の二人が、城の木戸を乗り越えて討ち死にしたのも二月のことである。国も同じであれば、月日も同じである。重行も同じように討ち死にして、ますます先祖の高名を上げることによって、

死後の世界に行く途中のどこかで先祖に出会えれば、尊霊もきっと大喜びされるだろう」と、涙を流しながら話されましたが、言葉に偽りなく数万の敵の中にただ一騎で駆け込み、ついに討ち死にしたことも哀れな話です。赤松肥前権守朝範は自分の属する陣が一番に破られたことを、

我が身一人の恥だと思い、袖に付けた笠印を隠して敵の中に紛れ込み、良き敵に出会えれば刺し違えて死のうと探し求めていると、山名右衛門佐が退却する敵兵を追い立て、敵に休む間も与えずどこまでも追いかけては討ち取り、兵士らに先に行けと命令して、

左方向を通り過ぎようとするのを、朝範はキッと睨みつけ、「あぁ、良き敵だ」と言うが早いか、走り出し追いつき様に、右衛門佐の兜も割れよ砕けよとばかり、激しく打ち付けキッと振り返ると、山名の若党ら三人が中に割って入り、肥前守の兜を同時に打ち付け落としました。

肥前守は落ちた兜を拾い上げ、かぶろうとうつむいたところを、頭の側面、耳の上を三太刀まで切られ、流れ出した血に目が見えなくなり、朝範は四つん這いになるやドウと伏せたので敵が押さえつけ、とどめを刺して捨て置きました。

しかしこの人は死に業(しにごう::前世の悪業の報いとして死ぬこと)も受けなかったのでしょうか、敵は首を取ることもしませんでした。そして合戦が終わってから、草の陰で生き返り命が助かったのも不思議なことでした。このように一陣、二陣とも瞬く間に攻略して、

山名はますます勝ちに乗じて気勢のあがる様子に、峰々に控えている諸国の寄せ集めの軍勢らは、戦うことなく馬に鞭を入れて早駆けで落ちて行ったため、大将義詮公の陣営は僅か百騎ばかりの軍勢が残ったに過ぎませんでした。この状況の中でも、

佐々木判官入道道誉と赤松律師則祐の二人は、少しも戦意消失することなく、敷き革の上に坐り続け、「我らは何処にも一歩たりと退くことなどしません。ここは我らが討ち死にするところをご覧になってから、御自害してください」と大将義詮を前に、ますます意気盛んな様子に見えました。


大将の陣無勢に成て、而も四目結の旗一流有と見へければ、山名大に悦て申けるは、「抑我此の乱を起す事、天下を傾け将軍を滅し奉らんと思ふに非ず、只道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思許也。此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。自余の敵に目な懸そ。あの頚取て我に見せよ。」と、歯嚼をして前まれければ、六千余騎の兵共、我先にと勇み前んで大将の陣へ打て懸る。敵の近事二町許に成にければ、赤松律師則祐、帷幕を颯と打挙て、「天下勝負此軍に非ずや。何の為にか命を可惜。名将の御前にて紛もなく討死して、後記に留めよや。」と下知しければ、「承候。」とて、平塚次郎・内藤与次・近藤大蔵丞・今村宗五郎・湯浅新兵衛尉・大塩次郎・曾禰四郎左衛門七人、大将の御前をはら/\と立て抜て懸る。敵に射手は一人もなし。向ふ敵を御方の射手に射すくめさせて、七人の者共鎧の射向の袖汰合せ、跳懸々々鍔本に火を散し、鋒に血を淋ひで切て廻けるに、山名が前懸の兵四人目の前に討れて、三十人深手を負ければ、跡につゞける三百余人進兼てぞ見へたりける。是を見て平井新左衛門景範・櫛橋三郎左衛門尉・桜田左衛門俊秀・大野弾正忠氏永、声々に、「つゞくぞ引な。」と、御方の兵に力を付て、喚てぞ懸たりける。かさに敵を請たる徒立の勢なれば、悪手の馬武者に中を懸破られて足をもためず、両方の谷へ雪下て引を見て、初め一陣二陣にて打散されつる四国・中国の兵、此彼より馳来て、忽に千余騎に成にけり。山名右衛門佐、跡なる勢を麾て、猶蒐入んと四方を見廻す処に、南方の官軍共、跡に千余騎にて控たりけるが、何と、云儀もなく、崩落て引ける間、矢種尽き気疲れたる山名が勢、心は猛く思へ共不叶、心ならず御方に引立られて、山崎を差て引退く。敵却て勝に乗しかば、嶺々谷々より、五百騎三百騎道を要へ前を遮て、蜘手十文字に懸立る。中にも内海十郎範秀は、逃る敵に追すがうて、甲の鉢・胄の総角、切付々々行けるが、鐔本より太刀をば打折ぬ。馬は疲れぬ。徒立に成てぞ立たりける。弓手の方を屹と見たれば、噎爽に鎧ふたる武者一騎、三引両の笠符著て馳通りけるを、哀敵やと打見て、馬の三頭にゆらりと飛乗り、敵と二人馬にぞ乗たりける。敵是を御方ぞと心得て、「誰にてをはするぞ。手負ならば我が腰に強く抱著給へ。助奉らん。」と云ければ、「悦入て候。」と云もはてず、刀を抜て前なる敵の頚を掻落し、軈其馬に打乗て、落行敵を追て行く。

大将義詮の陣営が無勢になり、しかも四ツ目結の旗(佐々木の旗)一旒が翻っているだけと見えたので、山名は大いに喜び、「大体私がこの兵乱を起こしたのは、何も天下を傾け将軍を亡き者にしようと思ったからではない。ただ道誉が私に取った無礼な振る舞いを憎んだからである。

今ここに見える四ツ目結の旗は、道誉のものに違いない。これはまさしく天が与えてくれた幸運である。ほかの敵などに目もくれず、彼奴の首を取って私に見せてくれ」と、興奮に歯をきつく噛みながら歩むと、六千余騎の兵士らは勇んで我先に大将の陣営に攻め込みました。

敵が二町ばかりまで近づいてきたので、赤松律師則祐は陣幕をサッと引き上げ、「天下の一大勝負はこの一戦にあるぞ。何を思って命を惜しむのだ。名将の御前にて間違いなく討ち死にして、後世の記録にその名を残せや」と、命令したので、「了解しました」と言って、

平塚次郎、内藤与次、近藤大蔵丞、今村宗五郎、湯浅新兵衛尉、大塩次郎、曽爾四郎左衛門の七人は、大将の御前を一斉に立ち上がり、太刀を抜き放って駆けて行きました。敵には弓を使う射手は一人も居ません。向かって来る敵を味方の射手に射すくめさせ、

七人の者たちは鎧の射向けの袖(鎧の左側の袖)を揺り動かしながら、躍りかかり、また飛びかかって鍔元に火を散らし、太刀の刃は血で濡らして切り回る内に、山名軍の先頭を駆けていた兵士四人が目の前で討たれ、三十人が重傷を負ったので、後に続いていた三百余人は、

攻め込むことにためらっているように見えました。これを見て平井新左衛門景範、櫛橋三郎左衛門尉、桜田左衛門俊秀、大野弾正忠氏永らがそれぞれ声を上げ、「続いて行くぞ、退くことならぬ」と味方の兵士に気合を入れ、喚きながら攻め込みました。

勢いを失った徒歩立ちの軍勢が、新手の騎馬武者に中央を突破されては、踏み止まることも出来ず、両側の谷に雪崩を打つように落ちて行くのを見て、最初一陣、二陣に属して蹴散らされた四国や中国の兵士らが、あちこちから駆けつけて来たので、瞬く間に一千余騎に膨れ上がりました。

山名右衛門佐師氏は後に控えている軍勢を率いて、なおも駆け入ろうと四方を見渡したところ、吉野勢の官軍ら一千余騎が控えてはいたのですが、何がどうなったのか総崩れになって退却し出し、矢を射尽くし気力も落ちかけた山名の軍勢は、まだ戦意だけは持ち続けていたものの、

不本意とは思いながら味方に引きずられる格好で、山崎に向かって退却しました。この状況に将軍勢は勝ちに乗じて、あちこちの峰々や谷々から五百騎、三百騎と道に進出し前方を遮断して、山名勢を四方八方から攻め駆けました。その中でも、内海十郎範秀は逃げる敵に追いすがり、

兜の鉢や兜の総角(あげまき::鎧の背の飾り紐)を切りつけているうちに、太刀が鍔の根元から折れてしまいました。馬も疲労が激しく、止む無く徒歩立ちになりました。その時、左の方向をキッと見たところ、いかにも爽やかそうに鎧を身に着けた武者一騎が、

三つ引両(みつひきりょう::平行線が三本のもの)の笠印を付けて通り過ぎるのを、ありがたい、敵ではないかと見て、馬の三頭(さんず::背の尻近く高くなっている所)にひらりと飛び乗り、敵と二人が馬に乗りました。敵は内海を味方だと思い、「どなたですか。もし負傷しているのなら、

私の腰に強く抱きつきなさい。お助けしよう」と言ったので、「うれしいことだ」と言うや否や、刀を抜いて前にいる敵の首を掻き落とし、その馬に乗って落ちて行く敵を追いかけました。


山名右衛門佐が兵共始因幡を立しより、今度は必都にて尸を曝さんと思儲し事なれば、伊田・波多野・多賀谷・浅沼・藤山・土屋・福依・石原・久世・竹中・足立・河村・首藤・大庭・福塚・佐野・火作・歌・河沢・敷美以下、宗との侍八十四人、其一族郎従二百六十三人、返合々々四五町が中にて討れにけり。右衛門佐は小林民部丞が跡に蹈止て防矢射けるを、討せじと七騎にて又取て返し、大勢の中へ懸入て面も不振戦はれける程に、左の眼を小耳の根へ射付られて目くれ肝消しければ、太刀を倒に突て、些心地を取直さんとせられける処に、敵の雨の降如く射る矢、馬の太腹・草脇に五筋まで立ければ、小膝を折て動ど臥す。馬より下り立て、鎧の草摺たゝみ上て、腰の刀を抜て自害をせんとし給けるを、河村弾正馳寄て、己が馬に掻乗せ、福間三郎が戦疲れて、とある岩の上に休て居たりけるを招て、右衛門佐の馬の口を引せ、河村は徒立に成て、追て懸る敵に走懸々々、切死にこそ死にけれ。右衛門佐は乗替の馬に乗て、些人心は付たれ共、流るゝ血目に入て東西更に不見ければ、「馬廻に誰かある。此馬の口を敵の方へ引向よ。馳入、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」と勇けるを、福間三郎、「此方が敵の方にて候。」とて、馬の口を下り頭に引向け、自馬手の七寸に付て、小砂まじりの小篠原を、三町許馳落て、御方の勢にぞ加りける。爰までは追てかゝる敵もなし。其後軍は休にけり。右衛門佐は淀へ打帰て、此軍に討れつる者共の名字を一々に書注して、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提をぞ吊はせられける。中にも河村弾正忠は我命に代て討れつる者なればとて、懸たる首を敵に乞受て、空しき顔を一目見て泪を流てくどかれけるは、「我此乱を起して天下を覆へさんとせし始より、御辺が我を以て如父憑み、我は御辺を子の如くに思き。されば戦場に臨む度毎に、御辺いきば我もいき、御辺討死せば我も死なんとこそ契しに、人は依儀に為我死し、我は命を助られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔の下草の陰にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立本の瀝と後るゝ共、再会は必九品浄土の台に有べし。」と泣々鬢を掻き撫て、聖一人請じ寄て、今まで秘蔵して被乗たる白瓦毛の馬白鞍置て葬馬に引せ、白太刀一振聖に与て、討死しつる河村が後生菩提を問れける、情の程こそ難有けれ。昔唐の太宗戦に臨で、戦士を重くせしに、血を含み疵を吸のみに非ず、亡卒の遺骸をば帛を散して収しも、角やと覚て哀なり。

山名右衛門佐師氏の兵士らは、最初因幡を出発した時より、今回は必ずや都に屍をさらそうと、覚悟を決めていたことなので、伊田、波多野、多賀谷、浅沼、藤山、土屋、福依、石原、久世、竹中、足立、河村、首藤、大庭(おおにわ)、福塚、佐野、火作(こつくり)、歌(うだ)、河沢、敷美以下、

主だった侍八十四人と、その一族家臣など二百六十三人が四、五町の間に、引き返しては討たれ、反撃しようとしては討たれました。右衛門佐は小林民部丞が後に踏みとどまって、防ぎ矢を射ているのを、討たせてはならないと、再び七騎で引き返し、大軍の敵中に駈け入り、

わき目も振らず戦っているうち、左の眼を耳の根元まで射付けられ、目が見えなくなり気も動転し、太刀を逆さに突き立てて、少し気持ちを落ち着かせようとしていると、敵が雨の降るがごとく射て来る矢に、馬の太腹、草脇(胸先の部分)に五本まで矢が立ち、たまらず膝を折ってドウと伏したのでした。

馬から降り立ち鎧の草摺りを上にたたみ上げ、腰の刀を抜いて自害しようとしました。そこへ河村弾正が駆け寄って、自分の馬に抱き上げて乗せると、福間三郎が戦い疲れて、とある岩の上で休んでいるのを招き寄せ、右衛門佐の馬の口を取らせました。

徒歩立ちになった河村弾正は、追いかけて来る敵に立ち向かって戦い、また向かって戦い続ける内、斬り死にしたのでした。右衛門佐は乗り換えの馬に乗り、いくらか一息は入れたのですが、流れる血が目に入って東西も分からない状態に、「誰か馬廻り(大将の馬の周囲に付き添い、護衛や伝令など受け持つ者)の者はいないか。

この馬の口を敵の方に向けよ。駆け込んで河村弾正の死骸の上で討ち死にしよう」といきり立つのを、福間三郎は、「この方角が敵軍です」と言って、馬の口を下り方向に向け、自分は馬の手綱の両端を持ち、砂交じりの笹原を三町ほど駆け落ちて味方の軍勢と一緒になりました。

ここまで追いかけて来る敵もいません。その後合戦も休戦となりました。右衛門佐は淀に帰り、この合戦で討たれた者の苗字を一人一人書き記し、因幡の岩常谷(鳥取県岩美町)の道場に送り、亡き兵士らの後世を弔わせました。その中でも、

河村弾正忠は自分の身代わりとなって討たれた者なので、架けられていた首を敵から貰い受け、その顔を一目見て涙を流しながら述懐し、「私がこの兵乱を起こして天下の転覆をはかった時より、汝が私のことを父であるかのように頼みにされ、私は汝を子供のように思ってきた。

そこで戦場に臨む時毎に、汝が生きていれば、私も生き永らえ、汝が討ち死にすれば、私も死のうと約束をしたのに、汝は義に従って私のために討ち死にし、私は命を助けられて生き残ったこと、恥ずかしい限りである。汝にしても、たとえ苔の下、草葉の陰にあってもきっと情けなく思っているでしょう。

葉先の露であっても、根元から滴り落ちるしずくでも、やがては必ず消えるものであれば、二人は必ずや極楽浄土にある蓮の花をかたどった台(うてな)で再会を遂げるでしょう」と、涙にくれながら鬢を掻き撫でて、僧侶を一人招き入れ、

今まで秘蔵し乗馬に使用してきた白河原毛(しろかわらげ::黄褐色の馬で、たてがみが白みを帯びたもの)の馬に白い鞍を置いて、葬送用の馬に引かせて、白太刀(柄や鞘などの金具をすべて銀製にした太刀)一振りを僧侶に与え、討ち死にした河村の後生を弔われると言う、山名右衛門佐の情け深い行いは、

本当にありがたいことでした。昔唐国の太宗が合戦に臨んで、戦士を大事に扱うが故に、負傷者の傷口を吸って血を口に含んだだけでなく、戦死した兵士の遺骸を惜しげなく絹布に包んで収容したことなども、このような状況だったのかと思えて悲しくなります。      (終り)

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