33 太平記 巻第三十三 (その一)


○京軍事
昨日神南の合戦に山名打負て、本陣へ引返ぬと聞へしかば、将軍比叡山を打おり下て、三万余騎の勢を卒し、東山に陣をとる。仁木左京大夫頼章は、丹後・丹波の勢三千余騎を順へて、嵐山に取上る。京より南、淀・鳥羽・赤井・八幡に至るまでは、宮方の陣となり、東山・西山・山崎・西岡は、皆将軍方の陣となる。其中に有とあらゆる神社仏閣は役所の掻楯の為に毀たる。山林竹木は薪櫓の料に剪尽さる。京中をば敵横合に懸る時、見透す様になせとて、東山より寄て日々夜夜に焼仏ふ。白河をば敵を雨露に侵させて、人馬に気を尽させよとて、東寺より寄て焼仏ふ。僅に残る竹苑・枡庭・里内裏・三台・九棘の宿所々々、皆門戸を閉て人も無れば、野干の栖と成はて、荊棘扉を掩へり。去程に二月八日、細川相摸守清氏千余騎にて、四条大宮へ押寄せ、北陸道の敵八百余騎に懸合て、追つ返つ終日に戦ひ暮して、左右へ颯と引退処に、紺糸の鎧に紫の母衣懸て、黒瓦毛なる馬に厚総懸て乗たる武者、年の程四十許に見へたるが、只一騎馬を閑々と歩ませ寄て、「今日の合戦に、進む時は士率に先立て進み、引時は士率に殿れて引れ候つるは、如何様細河相摸守殿にてぞ坐すらん。声を聞ても我を誰とは知給はんずれ共、日已に夕陽に成ぬれば分明に見分くる人もなくて、あはぬ敵にや逢んずらんと存ずる間、事新く名乗申也。是は今度北陸道を打順へて罷上りて候桃井播磨守直常にて候ぞ。あはれ相摸殿に参り会て、日来承及し力の程をも見奉り、直常が太刀の金をも金引て御覧候へかし。」と、高声に名乗懸て、馬を北頭らに立てぞ控へたる。相摸守は元来敵に少も言ばを懸られて、たまらぬ気の人なりければ、桃井と名乗たるを聞て、少も不擬議、是も只一騎馬を引返て歩ませ寄る。あひ近に成ければ、互にあはれ敵や、天下の勝負只我と彼とが死生に可有。馬を懸合せ、組で勝負をせんと、鎧の綿嚼を掴んで引著たるに、言には不似桃井が力弱く覚へければ、甲を引切て抛げ捨て、鞍の前輪に押当て、頚掻切てぞ差挙たる。軈て相摸守の郎従十四五騎来たるに、此首と母衣とを持せて将軍の御前へ参り、「清氏こそ桃井播磨守を討て候へ。」とて軍の様を申されければ、蝋燭を明に燃し是を見給ふに、年の程はさもやと覚へ乍らさすがそれとは不見へ、田舎に住て早や多年になりぬれば面替りしけるにやと不審にて、昨日降人に出たりける八田左衛門大郎と云ける者を被召、「是をば誰が頚とか見知たる。」と問れければ、八田此頚を一目見て、涙をはら/\と流し、「是は越中国の住人に二宮兵庫助と申者の頚にて候。去月に越前の敦賀に著て候し此時、二宮、気比の大明神の御前にて、今度京都の合戦に、仁木・細川の人々と見る程ならば、我桃井と名乗て組で勝負を仕るべし。是若偽申さば、今生にては永く弓矢の名を失ひ後生にては無間の業を受べしと、一紙の起請を書て宝殿の柱に押て候しが、果して討死仕りけるにこそ。」と申ければ、其母衣を取寄て見給ふに、げにも、「越中国の住人二宮兵庫助、曝尸於戦場、留名於末代。」とぞ書たりける。昔の実盛は鬢鬚を染て敵にあひ、今の二宮は名字を替て命をすつ。時代隔たるといへ共其志相同じ。あはれ剛の者哉と惜まぬ人こそ無りけれ。

☆ 京都で行われた合戦のこと

さて昨日行われた神南の合戦に山名軍は負けてしまい、本陣に引き返したと聞こえてきたので、将軍尊氏は比叡山を下り、三万余騎の軍勢を率いて東山に陣を構えました。仁木左京大夫頼章は丹後、丹波の軍勢三千余騎を従えて嵐山に控えました。京都から南側は淀、鳥羽、赤井、八幡に至るまで、

南軍宮方の陣営が支配し、東山、西山、山崎、西岡はすべて将軍方の陣となりました。その範囲内にある神社仏閣は、各将士らの本拠を守る掻楯(かいだて::垣根のように並べたてる楯)用に破壊されました。また山林の竹や木などは薪櫓(たきぎやぐら::薪などを保管する建物)用に伐り尽されました。

京都市中は敵が横合いから攻めてきた時、見通せるようにせよと、東山から出て毎日毎夜焼き払っていきました。白河周辺は敵に雨露にさらして人馬に戦意の喪失をはかれと、東寺から出て来て同じく焼き払いました。わずかに残っている竹苑(皇族)、椒庭(しょうてい::皇后)、里内裏(臨時の御所)

三台(太政、左右大臣)、九棘(きゅうきょく::公卿)など住居の数々も、皆戸を閉ざして人も居ないので狐の住処と成り果て、荊棘(けいきょく::イバラなどトゲのある植物)が扉を覆っています。やがて文和四年(正平十年::1355年)二月八日、細川相模守清氏が千余騎ほどで四条大宮に押し寄せると、北陸道の敵八百余騎に攻撃を仕掛け、

追いつ追われつの戦いを一日中続けた末、左右にサッと分かれて引き下りました。その時、紺糸縅の鎧に紫の母衣(ほろ::流れ矢防止の布)をかけ、黒河原毛(くろかわらげ::黄褐色の馬で、たてがみが黒いもの)の馬に厚総(あつぶさ::馬の各部に付けた糸の総を厚く垂らしたもの)をかけて乗った武者、年の頃なら四十ばかりに見えますが、

ただ一騎で静かに馬を歩み寄せ、「今日の合戦において、進む時は士卒に先立って進み、退く時は士卒の後から退かれた方は、きっと細川相模守殿に違いありません。声をお聞きになっても、私が誰かとお分かりにならないと思いますし、日もすでに暮れて夕日となっては、はっきりと私と見分ける人もいなければ、

身分に合わない敵に出会ってしまうかも知れないので、ここではっきりと名乗りを上げようではないか。私はこのたび北陸道の軍勢らを従えて上洛してきた桃井播磨守直常であるぞ。幸いにも細川相模殿に巡り会い、日頃から承っている腕前のほどを見させてもらい、また直常の太刀の切れ味をも味わってもらいたい」と声高に名乗りをあげると、

馬の頭を北に向けて待機しました。相模守は元々敵に少しでも言葉をかけられれば、じっとしておれない気性の人なので、桃井と名乗るのを聞いて少しも疑うことなく、彼もまたただ一騎で馬を引き返し歩み寄りました。近くまで寄って来ると、互いに良き敵に出会ったものだ、天下の勝負は全て私と彼の生死にかかっているのだろう。

馬を掛け合わせて組み打ちで勝負をつけようと、鎧の綿嚼(わたがみ::鎧の前面と背面をつなぎ、左右の肩にかける部分の名称)をつかんで引きつけると、言葉に似合わず桃井は力が弱く見え、兜を引き切って投げ捨て、鞍の前輪(まえわ::鞍の前部、山形に高くなっているところ)に押しあてると、首を掻き切りさしあげました。

すぐ相模守の家来ら十四、五騎がやって来たので、この首と母衣を持たせて将軍の御前に参り、「細川清氏が間違いなく桃井播磨守を討ち取りました」と言って、その戦いの模様を話されました。しかし、蝋燭の火を明るくしてこの首をご覧になると、年の頃はもしかすればと思えますが、

かと言って間違いがないとも思われず、田舎に住み出してから早くも長年が過ぎたので、顔つきも変わったのかと不審に思い、昨日降伏を申し出た八田左衛門大郎と言う者を呼びつけられ、「これは誰の首なのか知っているか」と質問したところ、八田はこの首を一目見て、涙をハラハラと流しながら、「これは越中国の武将で、

二宮兵庫助と言う者の首でございます。先月、越前の敦賀に到着した時、二宮は気比大明神の御前にて、今度京都の合戦において、仁木や細川の人々と出会うようなことがあれば、私は桃井と名乗って組み討ちの勝負をする。もしこの言葉に偽りがあれば、今生(こんじょう::現世)において、この先永久に弓矢の道に名を成さず、

後生(ごしょう::来世)においては八大地獄の内、一番厳しい無間地獄に落ちようと、一枚の紙に起請(きしょう::自分の言動に偽りのないことを、神仏に誓って書き記すこと)を書いて、宝殿(神殿)の柱に貼り付けたのですが、見事に討ち死にを遂げられたのだ」と話されたので、彼の母衣を取り寄せて見れば、確かに、

「越中国の住人二宮兵庫助、屍を戦場にさらし、その名を末代に留めよう」と、書かれていました。昔の斎藤実盛は鬢鬚(しゅぜん::髪やひげなど)を黒く染めて敵に向かい、今の二宮は苗字を偽って命を捨てました。時代は変わってもその心意気は同じです。素晴らしい豪勇の持ち主だと、その死を惜しまない人はいませんでした。


二月十五日の朝は、東山の勢共上京へ打入て、兵粮を取由聞へければ、蹴散かさんとて、苦桃兵部太輔・尾張左衛門佐、五百余騎にて東寺を打出、一条・二条の間を二手に成て打廻る。是を見て細川相摸守清氏・佐々木黒田判官、七百余騎にて東山よりをり下る。尾張左衛門佐が後陣に朝倉下野守が五十騎許にて通りけるを、追切て討んと、六条河原より京中へ懸入る。朝倉少も不騒、馬を東頭らに立て直して、閑に敵を待懸たり。細川・黒田が大勢是を見て、あなづりにくしとや思けん。あはひ半町計に成て、馬を一足に颯とかけ居て、同音に時をどつと作る。朝倉少も不擬議大勢の中へ懸入て、馬烟を立て切合ふ。左衛門佐是を見て、「朝倉討すな、つゞけ。」とて、三百余騎にて取て返し、六条東洞院を東へ烏丸を西へ、追つ返つ七八度までぞ揉合たる。細河度毎に被追立体に見へけるに、南部六郎とて世に勝たる兵有けるが、只一騎踏止て戦ひ、返し合ては切て落し、八方をまくりて戦ひけるに、左衛門佐の兵共、箆白に成てぞ見へたりける。左衛門佐の兵の中に、三村首藤左衛門・後藤掃部助・西塔の金乗坊とて、手番ふたる勇士五騎あり。互に屹と合眼して、南部に組んと相近付く。南部尻目に見て、から/\と打咲ひ、「物々しの人々哉。いで胴切て太刀の金の程見せん。」とて、五尺六寸の太刀を以て開て片手打にしとゝ打。金乗房無透間つと懸寄てむずと組。南部元来大力なれば、金乗を取て中に差上たれ共、人飛礫に打まではさすが不叶、太刀の寸延たれば、手本近してさげ切にもせられず、只押殺さんとや思けん、築地の腹に推当て、ゑいや/\と押けるに、已に乗たる馬尻居に動と倒れければ、馬は南部が引敷の下に在ながら、二人引組で伏たり。四騎の兵馳寄て、遂に南部を打てければ、金乗南部が首を取て鋒に貫て馳返る。此にて軍は止で敵御方相引に京白河へぞ帰りにける。又同日の晩景に、仁木右京大夫義長・土岐大膳大夫頼康、其勢三千余騎にて七条河原へ押寄せ、桃井播磨守直常・赤松弾正少弼氏範・原・蜂屋が勢二千余騎と寄合て、川原三町を東西へ追つ返つ、烟塵を捲て戦事二十余度に及べり。中にも桃井播磨守が兵共、半ば過て疵を被ければ、悪手を替て相助ん為に、東寺へ引返しける程に、土岐の桔梗一揆百余騎に被攻立、返し合る者は切て落され、城へ引篭る者は城戸・逆木にせかれ不入得。城中騒ぎ周章て、すはや只今此城被攻落ぬとぞ見へたりける。

二月十五日の朝、東山の軍勢らが上京に進入して、兵糧を集める気らしいと聞き、ならば蹴散らしてしまえと苦桃(にがもも)兵部太輔と尾張左衛門佐が五百余騎で東寺を出て、一条、二条の間を二手に分かれて巡回しました。この状況に細川相模守清氏と佐々木黒田判官は七百余騎を従えて東山から下りて来ました。

尾張左衛門佐の後詰、朝倉下野守が五十騎ばかりを率いて通過するのを、追い込んで討ち取ってしまおうと、六条河原から京都内に駆け込みました。朝倉は少しも騒ぐことなく、馬を東に向けて静かに敵を待ち受けました。細川、黒田の軍勢はこれを見て、馬鹿にされ憎いと思ったかも知れません。その距離半町(約五十五m)ばかりになると、

馬を少しばかりサッと駆け寄せ、同時に閧の声をあげました。朝倉は少しもためらうことなく大軍の中に駈け入ると、馬煙(うまけむり::馬の上げる砂ぼこりなど)をあげて斬りあいました。左衛門佐はこれを見ると、「朝倉を討たすな、続けや」と言って、三百余騎で引き返し、六条東洞院を東に烏丸を西へと、

追いつ追われつ七、八度まで揉み合いました。細川はその度に追い込まれていくように見えましたが、南部六郎と言う、世に知られた勇猛な兵士がただ一騎で踏みとどまって戦い、引き返しては敵を切り落とし、あらゆる方向に追い立てるように戦い続けると、左衛門佐の兵士らはバラバラになったように見えました。

左衛門佐の兵士の中に、三村首藤左衛門、後藤掃部助、西塔の金乗坊と言う手番(てつがい::射技を競う行事)に参加するくらいの技量を持った勇士五騎がいました。お互いにキッと目配せして、南部に組み付こうと近づいて行きました。南部はその様子を冷ややかに見てカラカラと笑いながら、「大げさな人たちだな。

では胴を切って太刀の切れ味を見せてやろう」と言うと、五尺六寸の太刀を手にし、片手打ちで激しく打ち付けました。金乗房は油断なくサッと駆け寄り、むんずと組み付きました。南部はもともと大力の持ち主なので、金乗をつかまえ空中にさしあげたものの、小石のように軽々と投げつけることはさすが出来ず、

太刀も長すぎて手元に近くでは切り下げることも出来ません。ここはただ押し殺すしかないと思ったのか、築地塀に押し付けてエイヤエイヤっと押していると、乗っていた馬が尻もちをつくようにドッと倒れたので、馬は南部の引敷(ひっしき::毛皮に緒をつけて腰の後ろに当て、座るときに敷物としたもの)の下になったまま、二人は組み合って倒れ込みました。

そこへ四騎の兵士が駆け寄って来て、ついに南部を討ち取ったので、金乗は南部の首を切り取ると、刃物の先端に突き刺し駆け戻りました。これを機に戦闘は中止になり、敵味方とも京、白河に退きました。また同日の夕方、仁木右京大夫義長、土岐大膳大夫頼康の二人が総勢三千余騎を率いて七条河原に押し寄せ、

桃井播磨守直常、赤松弾正少弼氏範、原、蜂屋などの軍勢二千余騎に攻めかかり、河原の三町(約330m)程の間を東西に追いかけたり追われたり、砂塵を上げながら二十余度を渡り合いました。中でも桃井播磨守の兵士らは、戦闘も半ばを過ぎる頃、負傷者が多くなり助けるため新手を投入し、東寺に退き返そうとしていると、

土岐の桔梗一揆、百余騎に攻めたてられ、返して戦う者は切り落とされ、城に引き篭もろうとした者は、城戸や逆茂木(さかもぎ::敵の侵入を防ぐため、先端をとがらせた木の枝などで作った柵)に邪魔をされて、城に入ることも出来ませんでした。城内は慌てふためき、てもはやこの城は攻め落とされそうに見えました。


赤松弾正少弼氏範は、郎等小牧五郎左衛門が痛手を負て引兼たるを助んと、馬上より手を引立て歩ませけるを、大将直冬朝臣、高櫓の上より遥に見給て、「返して御方を助けよ。」と、扇を揚て二三度まで招れける間、氏範、小牧五郎左衛門をかひ掴城戸の内へ投入、五尺七寸の太刀の鐔本取延て、只一騎返合々々、馳並々々切けるに、或は甲の鉢を立破に胸板まで破付られ、或は胴中を瓜切に斬て落されける程に、さしも勇める桔梗一揆叶はじとや思けん、七条河原へ引退て、其日の軍は留りけり。三月十三日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原相集て七千余騎、七条西洞院へ押寄せ、一手は但馬・丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。此陣の寄手動ば被懸立体に見へければ、将軍より使者を立られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。那須は此合戦に打出ける始、古郷の老母の許へ人を下して、「今度の合戦に若討死仕らば、親に先立つ身と成て、草の陰・苔の下までも御歎あらんを見奉らんずる事こそ、想像も悲く存候へ。」と、申遣したりければ、老母泣々委細に返事を書て申送けるは、古より今に至まで、武士の家に生るゝ人、名を惜て命を不惜、皆是妻子に名残を慕ひ父母に別を悲むといへ共、家を思ひ嘲を恥る故に惜かるべき命を捨る者也。始め身体髪膚を我に受て残傷ざりしかば、其孝已に顕ぬ。今又身を立道を行て名を後の世に揚るは、是孝の終たるべし。されば今度合戦に相構て身命を軽じて先祖の名を不可失。是は元暦の古へ、曩祖那須与一資高は、八島の合戦の時扇を射て名を揚たりし時の母衣也。」とて、薄紅の母衣を錦の袋に入てぞ送りたりける。さらでだに戦場に臨て、いつも命を軽ずる那須五郎が、老母に義を勧められて弥気を励しける処に、将軍より別して使を立られ、「此陣の戦難儀に及ぶ。向て敵を払へ。」と無与儀も被仰ければ、那須曾て一儀も不申畏て領状す。只今御方の大勢共立足もなくまくり立られて、敵皆勇み進める真中へ会尺もなく懸入て、兄弟二人一族郎従三十六騎、一足も不引討死しける。

赤松弾正少弼氏範は家来の小牧五郎左衛門が負傷して、退くことが出来そうにないのを助けようと、馬上から手を伸ばして支えながら歩ませているのを、大将の直冬朝臣が高櫓の上から遠くに見られ、「引き返して味方を助けよ」と、扇をあげて二、三度招かれたので、氏範は小牧五郎左衛門を抱えて城戸の中に投げ入れると、

五尺七寸の太刀の鍔近くを手にし、ただ一騎で引き返し駆け合わせ、また引き返しては駆け並べて切りつけたので、ある者は兜の鉢を真っ二つに胸板近くまで切り裂かれ、またある者は体の中央部を瓜のように切り落とされ、これにはさすが勇猛な桔梗一揆も対抗できないと思ったのか、七条河原まで退却し、

その日の戦闘は終わったのでした。文和四年(正平十年::1355年)三月十三日、仁木、細川、土岐、佐々木、佐竹、武田、小笠原らが集結し、総勢七千余騎で七条西洞院に押し寄せ、その内の一手は但馬、丹後の敵と戦い、もう一手は尾張修理大夫高経と戦いました。ここの寄せ手の陣営は何となく攻めたてられているように見えるので、

将軍から使者が送られ、「那須五郎を向かわせるように」と、仰せられました。那須はこの合戦に出陣する際、故郷の老母のもとに人を送り、「今度の合戦にもし討ち死にすれば、親に先立つことになり、草の陰や苔の下にあってもお嘆きされるのを見るのは、思っただけで悲しい限りです」と申し送ると、

老母が泣く泣く返事を事細かく書き送ってきたのは、「古来より現在に至るまで、武士の家に生まれた者は、名を惜しんで命は惜しまないものです。このことは全て妻や子供、また父や母との別れを悲しむと言えども、家の名誉を思い、他人からの批判嘲笑を恥じるばかりに、惜しむべき我が命を捨てるのです。

最初に身体髪膚(しんたいはっぷ::肉体と髪と肌、つまり体全体)を我が身に受け取り、それを守り通したことによって、孝行の実はすでに達成されています。今また身を世に現し、人としての取るべき道を守り、その名を後世に残すことは、これすなわち、孝行の極みであります。そこで今回の合戦において、決して我が身命を惜しむことなく行動し、

先祖の名を傷つけないようにするべきです。これは元暦(1184-1185年)の昔、先祖の那須与一資高が屋島の合戦において、扇を射て名をあげた時の母衣です」とあり、薄紅の母衣を錦の袋に入れて送ってきました。ただでさえ戦場に臨んで、いつも命を惜しむことなく戦う那須五郎ですから、老母に義を通すことの重要さを教えられ、

いやが上にも戦意が高揚しているところに、将軍から特別に使者が立てられ、「今回の合戦は非常に困難な戦いとなりつつある。ここは一つ、汝が向かって敵を追い払うように」と、一縷の望みを託すように仰せられたので、那須は全く一言も発することなく畏んで命に応じました。今まさに味方の大軍が攻め倒されて、

敵は皆が皆、こことばかりに勇んで攻めて来る敵のど真ん中に、名乗りを上げることなく駈け入り、兄弟二人と一族や家来三十六騎は、一歩も退くことなく討ち死にしたのでした。


那須が討死に、東寺の敵機に乗らば、合戦又難儀に成ぬと危く覚へける処に、佐々木六角判官入道崇永と相摸守清氏と両勢一手に成て、七条大宮へ懸抜け、敵を西にうけ東に顧て、入替々々半時許ぞ戦たる。東寺の敵も此を先途と思けるにや、戒光寺の前に掻楯掻て打出々々火を散して戦けるに、相摸守薄手数所に負て、すはや討れぬと見へければ、崇永弥進て是を討せじと戦ふたる。斯処に土岐桔梗一揆五百余騎にて、悪手に替らんと進けるを見て、敵も悪手をや憑けん、掻楯の陰をばつと捨半町計ぞ引たりける。敵に息を継せば又立直す事もこそあれとて、佐々木と土岐と掻楯の内へ入て、敵の陣に入替らんとしけるが、廻る程も猶遅くや覚へけん、佐佐木が旗差堀次郎、竿ながら旗を内へ投げ入て、己が身は軈て掻楯を上り越てぞ入たりける。其後相摸守と桔梗一揆と左右より回て掻楯の中へ入、南に楯を突双て、三千余騎を一所に集め、向城の如くにて蹈せたれば、東寺に篭る敵軍の勢、気を屈し勢を呑れて、城戸より外へ出ざりけり。京中の合戦は、如此数日に及て雌雄日々に替り、安否今にありと見へけれ共、時の管領仁木左京大夫頼章は、一度も桂川より東へ打越ず、只嵐山より遥に直下して、御方の勝げに見ゆる時は延上りて悦び、負るかと覚しき時は、色を変じて落支度の外は他事なし。同陣に有ける備中の守護飽庭許ぞ、余りに見兼て、己が手勢許を引分て、度々の合戦をばしたりける。され共大廈は非一本支、山陰道をば頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲れ、東山・北陸の両道は将軍の大勢に塞がつて、僅に河内路より外はあきたる方無りければ、兵粮運送の道も絶ぬ。重て攻上るべき助の兵もなし。合戦は今まで牛角なれ共、将軍の勢日々に随て重る。角ては始終叶はじとて、三月十三日の夜に入て右兵衛佐直冬朝臣、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引て、八幡・住吉・天王寺・堺の浦へぞ落られける。

那須が討ち死にし、東寺の敵がこの好機を逃さなければ、この合戦はまたもや苦戦を強いられるのではと思っていると、佐々木六角判官入道崇永(そうえい::六角氏頼)と細川相模守清氏の両軍が一つになって、七条大宮へ駈け入り、敵を西に迎えるとともに東方向を警戒しながら、半時(約一時間)ばかりを入れ替わり立ち替わり戦いました。

東寺の敵もここが運命の分かれ目と思ったのか、戒光寺(東山区)の前に掻楯(垣根のように並べた楯)を設置し、出て来ては戦い、また飛び出して火を散らすほど激しく戦ううちに、相模守は浅いながらも数ヶ所に傷を負い、もはや討ち取られるのではと見えましたが、佐々木判官崇永が彼を討たせまいと進み出て戦いました。

そんな時、土岐の桔梗一揆(土岐氏一族の武士団)五百余騎が、新手として参戦しようとするのを見て、敵も新手を投入しようと、掻楯を払いのけ半町(約55m)ほど退却しました。敵に休む間を与えては、又立ち直ることもあろうかと、佐々木と土岐は掻楯の内側に入り込み、敵陣に紛れ込み入れ替わろうとしましたが、

回り込むのも何かもどかしいと思ったのか、佐々木の旗差し(はたさし::戦場で主人の旗を持って従う武士)堀次郎が旗を竿に付けたまま城内に投げ入れると、自分はすぐ掻楯の上を飛び越えて中に入りました。その後、相模守と桔梗一揆が左右から回り込んで掻楯の中に入ると、南側に楯を並べ立て、三千余騎の軍勢を一ヶ所に集め、

向かい城(敵の城を攻めるため、それに対して構える城)のようにして駐留させたので、東寺に篭っていた敵の軍勢は、彼らの気勢に戦意を喪失し、城戸から外へ出るに出られませんでした。このように京においての合戦は数日に及んだものの、勝敗は決着がつかず日々入れ替わる状況に、勝負を決するのは今をおいてはないと思われたのですが、

当時の管領(将軍の補佐職)、仁木左京大夫頼章は一度も桂川より東に進攻することなく、ただ嵐山よりはるか遠くから戦況を見るだけで、味方が優勢に見える時は伸びあがって喜び、負けそうに思える時は顔色を変えて逃げ落ちる支度以外、何もしようとしませんでした。同じ陣営に属していた備中の守護、飽庭(あいば)だけがさすがに見かねて、

自分の手勢だけを引き抜いて、数回にわたって合戦をしました。しかしながら、大廈(たいか::大きな建物)は非一本支(一本の木で支えることは出来ない)であり、大勢が傾きかけている時、とうてい一人の力で支えることなど出来る訳がなく、山陰道は頼章の軍勢で閉鎖され、山陽道は足利義詮朝臣に囲まれて、

東山、北陸の両道は尊氏将軍の大軍で閉鎖されているので、残るはわずかに河内路以外、通行可能な街道はないので、兵糧の運送も出来ず、再度の攻撃を行うにも救援の兵士さえ補充出来ません。合戦そのものは今まで互角でしたが、将軍の軍勢は日に日に増加しています。これでは到底戦い続けることは出来ないと、

文和四年(正平十年::1355年)三月十三日の夜になって、右兵衛佐直冬朝臣は諸国の大将らとともに、東寺、淀、鳥羽の陣営から引き上げ、八幡石清水八幡宮、住吉、天王寺、堺の浦に向かって逃げ落ちました。


○八幡御託宣事
爰にて落集たる勢を見れば五万騎に余れり。此上に伊賀・伊勢・和泉・紀伊国の勢共、猶馳集るべしと聞へしかば、暫此勢を散さで今一合戦可有歟と、諸大将の異見区也けるを、直冬朝臣、「許否凡慮の及ぶ処に非ず。八幡の御宝前にして御神楽を奏し、託宣の言に付て軍の吉凶を知べし。」とて、様々の奉幣を奉り、蘋■を勧て、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の声、きねが袖ふる鈴の音、深け行月に神さびて、聞人信心を傾たり。託宣の神子、啓白の句、言ば巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、たらちねの親を守りの神なれば此手向をば受る物かはと一首の神歌をくり返し/\二三反詠じて、其後御神はあがらせ給にけり。諸大将是を聞て、さては此兵衛佐殿を大将にて将軍と戦はん事は、向後も叶まじかりけりとて、東山・北陸の勢は、駒に策をうち己が国々へ馳下り、山陰・西海の兵は、舟に帆を揚て落て行。誠に征罰の法、合戦の体は士卒に有といへ共、雌雄は大将に依る者也。されば周の武王は木主を作て殷の世を傾け、漢高祖は、義帝を尊て秦の国を滅せし事、旧記の所載誰か是を不知。直冬是何人ぞや、子として父を攻んに、天豈許す事あらんや。始め遊和軒の朴翁が天竺・震旦の例を引て、今度の軍に宮方勝事を難得と、眉を顰て申しを、げにも理なりけりとは、今社思ひ知れたれ。東寺落て翌の日、東寺の門にたつ。兔に角に取立にける石堂も九重よりして又落にけり深き海高き山名と頼なよ昔もさりし人とこそきけ唐橋や塩の小路の焼しこそ桃井殿は鬼味噌をすれ。

☆ 八幡石清水八幡宮の御宣託があったこと

さて改めて逃げ落ちてきた者を集めてみると、五万騎を超えています。そればかりでなく伊賀、伊勢、和泉、紀伊国などの軍勢も、今後駆け集まってくると言われているので、ここしばらくは現在の軍勢を維持すれば、再度の合戦も出来るのではと思えますが、諸大将の意見もまちまちなので、直冬朝臣は、「この判断は凡人の考えが及ぶところではない。

八幡の神前において、御神楽を奏し、神の宣託によって合戦の吉凶を判断することにしよう」と言って、様々の幣帛をささげ、蘋ぱん(草かんむりに繁・ひんぱん::供物)も供えて、神のお告げを待ちました。神職らの打つ鼓の音、巫女が袖を振り鈴の音が響き、更け行く月に全てが神秘的に感じられ、聞く人も信心の気持ちが起こります。

託宣を告げる神子は神に申し上げる言葉などを、巧みに美辞麗句を連ねて色々なことを話していましたが、
      たらちねの 親を守りの 神なれば 此手向をば 受る物かは(石清水八幡宮は親を護る神なので、このような供物を受け取ることは出来ない)

とお告げを歌にした一首を、繰り返し繰り返し二、三回詠じ、その後巫女に乗り移っていた神霊は天に上りました。諸大将はこのお告げを聞いて、と言うことは、この右兵衛佐殿を大将にして、将軍と戦うのは今後とも勝利はおぼつかないと言って、東山や北陸の軍勢は馬に鞭打って各自の国々に駆け戻り、

山陰や西海の兵士らは舟に帆をあげて落ちて行きました。確かに征討戦の実施方法や合戦の実態などは、実際に戦っている兵士や将官に左右されるとは言っても、最終的な勝敗は大将によって決まるものです。そこで周国の武王は木主(もくしゅ::神や人の霊魂をまつる木製のもの)を作って殷国の世を滅ぼしたことや、

漢国の高祖が義帝(秦末の反秦勢力の名目上の盟主)を敬い大事に扱うことで秦の国を滅ぼしたことなどが、古い書物に記載されていることを、知らない人などいません。今ここに直冬とは一体何者なのでしょうか、子供でありながら、父を攻めることなど、決して天が許すはずがありません。

乱が起こった当初、遊和軒の朴翁が天竺、震旦の例を参考に、今度の合戦で宮方が勝つことは難しいだろうと、眉をひそめて話されたこと(三十二巻その一)も、確かに理に適っていると今更思い知らされたのです。東寺が落城した翌日、東寺の門に立ったのは、

      兎に角に 取立にける 石堂も 九重よりして 又落にけり(抜擢した石塔も、積んでいる内にまた落ちてしまった?)

      深き海 高き山名と 頼りなよ 昔もさりし 人とこそきけ(高い山だと頼りにしていたが、以前のように去って行った?)

      唐橋や 塩の小路の 焼しこそ 桃井殿は 鬼味噌をすれ(桃井殿は外見倒れのヘタレだ?)

などの狂歌でした。


○三上皇自芳野御出事
足利右兵衛佐直冬・尾張修理大夫高経・山名伊豆守時氏・桃井播磨守直常以下の官軍、今度諸国より責上て、東寺・神南度々の合戦に打負しかば、皆己が国々に逃下て、猶此素懐を達せん事を謀る。依之洛中は今静謐の体にて、髪を被り衽を左にする人はなけれ共、遠国は猶しづまらで、戈を荷ひ粮を裹こと隙なし。爰に持明院の本院・新院・主上・春宮は皆去々年の春南方へ囚れさせ給て、賀名生の奥に被押篭御坐しかば、とても都には茨の宮已に御位に即せ給ぬる上は、山中の御棲居余りに御痛はしければとて、延文二年の二月に、皆賀名生の山中より出し奉て、都へ還幸なし奉る。上皇は故院の住荒させ給し伏見殿に移らせ給て御座あれば、参り仕る月卿雲客の一人もなし。庭には草生滋りて、梧桐の黄葉を踏分たる道もなく、軒には苔深くむして、見人からに袖ぬらす月さへ疎く成にけり。本院は去観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智とぞ申ける。御帰洛の後、本院・新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子に成せ給て、本院は嵯峨の奥小倉の麓に幽なる御庵りを結ばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座有ける。何れも物さびしく人目枯たる御栖居、申も中々疎かなり。彼悉達太子は、浄飯王の宮を出て檀特山に分入、善施太子は、鳩留国の翁に身を与へて檀施の行を修し給ふ。是は皆十善の国を合せたる十六の大国を保給ひし王位なれ共、捨るとなれば其位一塵よりも猶軽し。況や我国は粟散辺地の境也。縦天下を一統にして無為の大化に楽ませ給ふ共、彼の大国の王位に比せば千億にして其一にも難及。加様の理りを思食知せ給て、憂を便りに捨はてさせ給ひぬる世なれば、御身も軽きのみならず御心も又閑にして、半間の雲一榻の月、禅余の御友と成にければ、中々御心安くぞ渡らせ給ける。

☆ 三上皇が吉野からお出ましになったこと

さて足利右兵衛佐直冬、尾張修理大夫高経、山名伊豆守時氏、桃井播磨守直常以下の官軍は、今回諸国から攻め上って来たのですが、東寺や神南などで行われた度々の合戦に敗北を喫したので、すでに全員が各国々に逃げ下りましたが、なおも当初の願望を果たそうと策を練っています。

このため洛中は現在静まっているので、ざんばら髪にしたり、着物を左前に着るなどと言う野蛮な格好をする人はいませんが、都を遠く離れた国々は今なお収まる気配はなく、武器を揃えたり兵糧の蓄積に努めています。ところで、持明院統の本院(光厳上皇)、新院(光明上皇)、主上(崇高天皇)、春宮(直仁親王)は皆、

去る正平七年(文和元年::1352年)の春、吉野の南軍に囚われて賀名生の奥地に幽閉されいますが、しょせん都ではすでに後光厳天皇が御即位されているので、このような山中でのご生活はあまりにも御いたわしいことだと、延文二年(正平十二年::1357年)二月、賀名生の山中を出られて、都に還幸されることになりました。

光明上皇は故院(後伏見天皇?)が仙洞御所として住まわれていた伏見殿にお移りになられましたが、そこにはお仕えする公卿や殿上人など一人もいませんでした。庭は草が生い茂り、青桐の黄色い落ち葉を踏み分けた道もなく、軒は深く苔むして、見る人が皆、涙に袖を濡らす月さえあまり見られなくなりました。

本院光厳上皇は去る観応三年(正平七年::1352年)八月八日、河内の行宮(賀名生?)において御出家されました。御年四十一歳のことで、法名を勝光智と申されました。都に戻られてから、本院、新院の両御所ともに夢窓国師の御弟子となられ、本院は嵯峨の奥、小倉山の麓にひっそりと御庵を結ばれ、

また新院光明上皇は伏見の大光明寺にお住まいになられました。どちらももの寂しい上、人の目につかないお住まいで、そのわびしさを言葉で表すのも難しく思います。あの悉達太子(しったたいし::釈迦の出家前太子の時の名前)は浄飯王(じょうぼんおう::釈迦の実父)の宮殿を出られて、檀特山(だんどくせん)に分け入り、

また善施太子(ぜんせたいし::釈迦が前世で太子であった時の名前)は鳩留国(くるこく::天竺の東にある国)の老人に我が身を与え、檀施(だんせ::僧や仏に物品や金銭を与えること。布施)の行を行いました。これは皆、十善の国(前世で十善を行った果報として今生で天子になっている国)を含めて十六の大国(古代インドにあった十六の諸国)を治めている帝王の地位ですが、

いざ捨てると決めればその地位などホコリよりも軽いものです。ましてわが日本は粟散辺地(粟粒を散らしたような辺鄙な国土)です。たとえ天下を統一し平和な安定社会に帝王として生を楽しんだとしても、かの古代インドの王位と比較すれば、千億分の一にもならないでしょう。このような理屈など充分に御理解されて、

世間のわずらわしさを理由に、世をお捨てになられるような時代なので、心身ともに自由で気楽な毎日と自然を愛しながら、禅のみを友として日々お暮しになられたので、かえってお気持ちも楽にお過ごしになられました。


○飢人投身事
角て事の様を見聞に、天下此の二十余年の兵乱に、禁裏・仙洞・竹苑・枡房を始として、公卿・殿上・諸司・百官の宿所々々多く焼け亡て、今は纔に十が二三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払て、京白川に武士の屋形の外は在家の一宇もつゞかず。離々たる原上の草、塁々たる白骨、叢に纏れて、有し都の迹共不見成にければ、蓮府槐門の貴族・なま上達部・上臈・女房達に至るまで、或は大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、或は遠国に落下て田夫野人の賎きに身を寄せ、或は片田舎に立忍て、桑門、竹扉に住はび給へば、夜るの衣薄して暁の霜冷く、朝気の煙絶て後、首陽に死する人多し。中にも哀に聞へしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかや云ける者、日来は富栄て楽み身に余りけるが、此乱の後財宝は皆取散され、従類眷属は何地共なく落失て、只七歳になる女子、九になる男子と年比相馴し女房と、三人許ぞ身に添ける。都の内には身を可置露のゆかりも無て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思かねて、女房は娘の手を引、夫は子の手を引て、泣々丹波の方へぞ落行ける。誰を憑としもなく、何くへ可落著共覚ねば、四五町行ては野原の露に袖を片敷て啼明し、一足歩では木の下草にひれ臥て啼き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許に丹波国井原の岩屋の前に流たる思出河と云所に行至りぬ。

☆ 飢餓に苦しむ人が身を投げたこと

さて色々と世間の事情を見聞きしてみると、世間がこの二十余年にわたって続いた兵乱のため、禁裏(皇居)、仙洞(上皇の御所)、竹苑(皇族の住居)、椒房(しょうぼう::皇后の御所)などをはじめに、公卿、殿上人、諸役所、諸役人らの建物が数多く焼失し、今はわずかに二、三割が残っていたのですが、また今回の東寺合戦に臨んで、

邪魔になるものは取り払ったので、京白川周辺には武士の屋敷以外、民家など一軒も残っていません。離々たる原上の草(白楽天::つやつやと生い茂っている野原の草)、どこまでも続く白骨は草むらに隠され、昔の都の風情などどこにも感じられず、蓮府槐門(れんぷかいもん::諸大臣)の貴族、なま上達部(かんだちめ::若い公卿)

上臈(身分の高い女官)、女房(女官)達に至るまで、ある人は大堰川(おおいがわ::桂川の上流)や桂川の流れの底で水屑(みくず::水中のゴミ)となり、またある人は遠国に逃げ落ち、田夫野人(でんぷやじん::無教養で野蛮な人)の卑しい人に身を寄せ、またある人は片田舎に身をひそめ、僧侶の竹扉(たけのとぼそ::貧しい家のたとえ)に住まわれたりすれば、

夜具も薄い上、明け方の霜に冷え込みも厳しく、朝食の支度もままならず、首陽(首陽山::餓死のたとえ)で死ぬ人も多かったのです。その中でも特に哀れに思えるのは、御所に仕える北面の武士の中でも位の高い兵部少輔の何某と言う者がいました。今までは裕福で身に余るほどの楽しい暮らしをしていましたが、

この騒乱以後は財宝など全て行方不明になり、家来や親戚など何処かも分からず落ち逃げ、ただ七歳になる女の子と九つになる男の子、長年連れ添ってきた女房との三人だけが残りました。都の内には身を置く事の頼める何らかの縁故もなく、かといって道端で物乞いをするのもさすがに気が引け、これと言う解決法も思いつかず、

女房は娘の手を引き、夫は男の子の手を引いて、泣く泣く丹波に向かって落ちて行きました。誰かを頼って行く訳でもなく、何処に落ちて行けばよいかも分からないので、四、五町行っては露の降りた野原に袖の片方だけ敷いて泣き明かし、少し歩んでは木の下草にひれ伏すように泣き暮らしました。

ただ夢の中での出来事のように感じていると、十日ばかりして丹波国の井原の岩屋(石龕寺)の前を流れる思出川(加古川の上流)と言う所に着きました。


都を出しより、道に落たる栗柿なんどを拾て纔に命を継しかば、身も余りにくたびれ足も不立成ぬとて、母・少き者、皆川のはたに倒れ伏て居たりければ、夫余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行て、中門の前に彳で、つかれ乞をぞしたりける。暫く有て内より侍・中間十余人走出て、「用心の最中、なまばうたる人のつかれ乞するは、夜討強盜の案内見る者歟。不然は宮方の廻文持て回る人にてぞあるらん。誡置て嗷問せよ。」とて手取足取打縛り、挙つ下つ二時許ぞ責たりける。女房・少き者、斯る事とは不思寄、川の端に疲れ臥て、今や/\と待居たりける処に、道を通る人行やすらひて、「穴哀や、京家の人かと覚しき人の年四十許なりつるが、疲れ乞しつるを怪き者かとて、あれなる家に捕へて、上つ下つ責つるが、今は責殺てぞあるらん。」と申けるを聞て、此女房・少き者、「今は誰に手を牽れ誰を憑てか暫くの命をも助るべき。後れて死なば冥途の旅に独迷はんも可憂。暫待て伴はせ給へ。」と、声々に泣悲で、母と二人の少き者、互に手に手を取組、思出河の深淵に身を投けるこそ哀なれ。兵部少輔は、いかに責問けれ共、此者元来咎なければ、落ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是にもこりず、妻子の飢たるが悲しさに、又とある在家へ行て、菓なんどを乞集て、先の川端へ行て見るに、母・少き者共が著たる小草鞋・杖なんどは有て其人はなし。こは如何に成ぬる事ぞやと周章騒ぎて、彼方此方求ありく程に、渡より少し下もなる井堰に、奇き物のあるを立寄て見たれば、母と二人の子と手に手を取組て流懸りたり。取上て泣悲め共、身もひへはてゝ色も早替りはてゝければ、女房と二人の子を抱拘へて、又本の淵に飛入、共に空く成にけり。今に至まで心なき野人村老、縁も知ぬ行客旅人までも、此川を通る時、哀なる事に聞伝て、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様哉と、思遣れて哀なり。

都を出てからは道に落ちている栗や柿を拾って、何とか命をつないではきたのですが、疲れ果てて足も立たなくなり、母や幼い子供たちは皆、川のそばに倒れ込む始末に夫は見るに見かねて、それなりの人が住まわれていると思える、とある家に入り中門の前にたたずみ、止むにやまれず物乞いをしました。

しばらくすると、中から侍、中間らが十人余り走り出て来て、「警戒している最中に、胡散臭い人間が物乞いに来るとは夜討、強盗が下見に来たのか、でなければ、宮方の廻文(同志間などで順に回す書状類)を持ち回っている者に違いない。縛りあげて拷問を加えろ」と言うと、手取り足取りして縛り上げ、吊り上げたり下したりして、

二とき(約四時間)ほど責め続けました。女房や子供たちはこんなことになっているとは夢にも思わず、川のそばで疲れ果てて倒れ込んだまま、今か今かと待っていると、道を通りかかった人がためらいがちに立ち止まって、「可哀そうにも都にお住まいになっておられると思える人で、年の頃なら四十歳ばかりの方が、

物乞いに訪れたのを怪しい人間だと疑われ、あそこの家に捕らわれ、吊り上げたりされて拷問を受けていますが、今頃はもう責め殺されたかも知れません」と話されるのを聞き、この女房、子供らは、「こうなった以上、誰かに手を引いてもらって世話になり、しばらくの命を永らえることなどするべきでない。

主人に遅れて死ぬことになれば、冥途への旅で一人道に迷ったりして、これもまたつらい話です。少し待ってください、一緒に逝かせて下さい」と声々に泣き悲しみ、母と二人の子供らは互いに手と手をしっかりつないで、思出川の深い淵に身を投げたことも可哀そうな話です。その頃、兵部少輔はどれほど責め続けられても、

元々何ら疑われる理由などないので、白状などする訳がなく、「では、許してやろう」と言って、解放されました。しかしこれに懲りず、妻子が飢えに苦しむ姿が悲しく、またとある民家に行き、菓子などを乞い受けて、先ほどの川のほとりに戻ってみると、母や幼い子供らが身にしていた小さなわらじや、杖などはありますが、姿は見えません。

これは一体どうなったのかと、慌てうろたえ周辺を探し求めて歩いているうち、渡し場から少し下流にある井堰(いせき::川水をせき止めるもの)に何か不審なものが有るのを見つけ傍によって見ると、母と二人の子供が手を組んだまま流されてきて、引っかかっていたのです。引き上げて泣き悲しんでも、身体はすっかり冷え切っており、

色もすでに変わってしまっているので、女房と二人の子供を抱きかかえ、また元の淵に飛び込んで、皆一緒に死んだのです。そして今に至るも、薄情だと思われる村人や古老たち、また縁もゆかりもない通行人や旅人たちまで、この川のそばを通る時、この哀れな話を耳にして涙を流さない人などいませんでした。これほど悲しい出来事があったのかと、同情すると同時に悲しくなります。


○公家武家栄枯易地事
公家の人は加様に窮困して、溝壑に填道路に迷ひけれ共、武家の族は富貴日来に百倍して、身には錦繍を纏ひ食には八珍を尽せり。前代相摸守の天下を成敗せし時、諸国の守護、大犯三箇条の検断の外は綺ふ事無りしに、今は大小の事、共に只守護の計ひにて、一国の成敗雅意に任すには、地頭後家人を郎従の如くに召仕ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押へて管領す。其権威只古の六波羅、九州の探題の如し。又都には佐々木佐渡判官入道々誉始として在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽すに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧をして、皆曲■の上に豹・虎の皮を布き、思々の段子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双て坐し給へるに不異。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈とて、座の囲四方一丈に珍物を備ふなれば、其に不可劣とて、面五尺の折敷に十番の斎羹・点心百種・五味の魚鳥・甘酸苦辛の菓子共、色々様々居双べたり。飯後に旨酒三献過て、茶の懸物に百物、百の外に又前引の置物をしけるに、初度の頭人は、奥染物各百充六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置。三番の頭人は、沈のほた百両宛、麝香の臍三充副て置。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立たる鎧一縮に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くゝみたる刀に、虎の皮の火打袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様をかへ数を尽して、如山積重ぬ。されば其費幾千万と云事を不知。是をもせめて取て帰らば、互に以此彼に替たる物共とすべし。ともにつれたる遁世者、見物の為に集る田楽・猿楽・傾城・白拍子なんどに皆取くれて、手を空して帰しかば、窮民孤独の飢を資るにも非ず、又供仏施僧の檀施にも非ず。只金を泥に捨て玉を淵に沈めたるに相同じ。此茶事過て後又博奕をして遊びけるに、一立てに五貫十貫立ければ、一夜の勝負に五六千貫負る人のみ有て百貫とも勝つ人はなし。此も田楽・猿楽・傾城・白拍子に賦り捨ける故也。抑此人々長者の果報有て、地より物が涌ける歟、天より財が降けるか。非降非涌、只寺社本所の所領を押へ取り、土民百姓の資財を責取、論人・訴人の賄賂を取集めたる物共也。古の公人たりし人は、賄賂をも不取、勝負をもせず、囲碁双六をだに酷禁ぜしに、万事の沙汰を閣て、訴人来れば酒宴茶の会なんど云て不及対面、人の歎をも不知、嘲をも不顧、長時に遊び狂ひけるは、前代未聞の癖事なり。懸し程に、延文三年二月十二日、故左兵衛督直義入道慧源、さしも爪牙耳目の武臣たりしかば、従二位の贈爵を苔の下なる遺骸にぞ賜ひける。法体死去の後、如此宣下無其例とぞ人皆申合れける。

☆ 公家と武家の栄枯が逆転したこと

公家の人たちはこのように困窮して、野垂れ死にをしたり道路にさ迷ったりしましたが、幕府の連中は今までとは異なり、日々豊かになって行き、身には錦や刺繍を施した美しい着物をまとい、食事も珍しい食材をこれでもかと使用しました。歴代の北条執権である相模守が天下を支配していた時、

諸国の守護は大犯三箇条(たいぼんさんかじょう::鎌倉時代守護の権限で最も重要な三つの事項。大番催促、謀反人と殺害人の審理)の審理と判決以外関与しませんでしたが、今は事の大小にかかわらず全て守護が取り扱い、一国の政治を思うように動かすために、地頭や御家人を自分の家来のように召使い、

寺社や本所(荘園の実支配者より上位に位置する名目上の権利所有者)の所領を兵糧米の領地として領有し支配しました。その権威たるや昔の六波羅や九州探題のようです。また都においては佐々木佐渡判官入道道誉をはじめに、在京している大名らは、仲間を組んで茶の会をはじめとして、日々寄合っては贅沢を追い求め、

異国や我が国の貴重な品々を集めたり、それぞれの人がそれぞれの装いを凝らし、全員が曲ろく(きょくろく::椅子)の上に豹や虎の皮を敷き、思い思いの金襴緞子(きんらんどんす::金糸を使用したり光沢のある織り方をした高級な布)を裁縫した着物を身に着け、四主頭(ししゅちょう::禅院で行われる茶会の着席法)の座に居並ぶ様子は、

まさしく百福荘厳(数多くの福や徳を積んで、仏像を飾ること)の床の上で、千人の仏が光を発しながら、並び座っているのと変わりありません。異国において様々な支配階級の人たちは、遊宴を実施する時、食膳方丈(しょくぜんほうじょう)と言って、食席の周り四方を一丈にわたって珍品を並べると言われているので、

それに負けることのないよう、表面五尺の折敷(おしき::個人用の食膳)に十種の斎羹(さいこう::精進料理の熱い吸い物)、点心(軽めの食べ物)百種、五種類の味覚で調理した魚や鳥、また甘酸苦辛の四つの味覚で作った菓子類など、色々と並べました。食事が終われば美酒で三献(さんこん::酒肴の膳を三度変え、その度に大、中、小の杯で都合九杯の酒を勧めるもの)を行い、

闘茶(四種類の茶を十回ずつ飲んで、茶の品種、産地などを当てるもの)の懸け物として様々な物や、それ以外、引き出物などを客の前に並べ、最初の頭人(とうにん::主将)は奥染物(?)百反づつを六十三人の前に積みました。二番目の頭人は色々な小袖を十着づつ置きました。三番目の頭人は沈のほた(?)百両づつに、

麝香鹿の臍を三つづつ添えて置きました。四番目の頭人は砂金を百両づつを金糸花(金糸梅の花のことか?)の盆に入れて置きました。五番目の頭人はたった今仕立てあがった鎧一領に、鮫皮で仕立てた白太刀(柄や鞘などの金具をすべて銀製にしたもの)を、柄、鞘など全て金で細工を施した刀に、虎の皮で作った火打袋(火打道具を入れる袋)を添えて、

同じように置きました。その後の頭人ら、二十余人は他の人に負けてはならじと、様を変え、数で勝負だと言わんばかりに、山のように懸物を積み重ねました。このような状況なので、その費用たるや幾千万になるのか、誰にも分りません。このような懸物をせめて勝ち取って帰れば、お互い自分の物と入れ替わったとも考えられます。

しかし皆同行してきた世捨て人や、見物に集まってきた田楽、猿楽、傾城、白拍子(芸能人、遊女など)などに全て与えてしまい、何も持たずに帰るので、困窮した人や、孤独な人の飢えを救う訳でもなく、また仏への供養にもならず、僧侶への布施になる訳でもありません。これはただ単に、黄金を泥沼に投げ捨てたり、

宝玉を淵に沈めるのと変わりありません。こうして闘茶と言われる茶の会が終われば、今度はまた博奕に興じ、一度の賭けに五貫、十貫と賭けるので、一夜の勝負で五、六千貫を負ける人ばかりで、百貫を勝つ人などいません。これも田楽、猿楽、傾城、白拍子などにくれてやるからです。

ところでこの人たちは長者として幸運を持ち合わせているので、地中より品物が湧き出したり、天から財宝が降ってくるのでしょうか。そのようなことがある訳ありません、ただ寺社や本所(ほんじょ::名目上の権利所持者)の所領を横領したり、土民百姓らの資財を押収したり、論人(ろんにん::被告人)や訴人(そにん::告訴人)から賄賂として取ったものなどです。

昔の公職にあった人は、賄賂を取ることもなく、賭け事もせず、囲碁や双六さえ厳重に禁止されていましたが、この人々は全ての事案をそのままにして、訴人が来れば、今は酒宴や茶の会の最中だと言って対面しようとはせず、人の苦しみを思うこともなければ、他人からの嘲笑をも顧みず、

長時間にわたって遊び狂うのは、前代未聞の許されない行動です。そうこうしている内、延文三年(正平十三年::1358年)二月十二日、故左兵衛督直義入道慧源はあれほど国家に仕えた武臣だと言うことで、従二位の贈爵(ぞうしゃく::死後爵位を贈られること)を苔の下にある遺骸に贈られたのです。法体の人間が死去してから、このような宣下が行われるのは、過去に例を見ないと人々は皆話し合いました。


○将軍御逝去事
同年四月二十日、尊氏卿背に癰瘡出て、心地不例御坐ければ、本道・外科の医師数を尽して参集る。倉公・華他が術を尽し、君臣佐使の薬を施し奉れ共更無験。陰陽頭・有験の高僧集て、鬼見・太山府君・星供・冥道供・薬師の十二神将法・愛染明王・一字文殊・不動慈救延命の法、種々の懇祈を致せ共、病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。鎖龕は天竜寺の竜山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、奠茶は建仁寺の無徳和尚、奠湯は東福寺の鑑翁和尚、下火は等持院の東陵和尚にてぞをはしける。哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。別れの泪掻暮て、是さへとまらぬ月日哉。五旬無程過ければ、日野左中弁忠光朝臣を勅使にて、従一位左大臣の官を贈らる。宰相中将義詮朝臣、宣旨を啓て三度拝せられけるが、涙を押へて、帰べき道しなければ位山上るに付てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使も哀なる事に聞て、有の侭に奏聞しければ、君無限叡感有て、新千載集を被撰けるに、委細の事書を載られて、哀傷の部にぞ被入ける。勅賞の至り、誠に忝かりし事共なり。

☆ 将軍尊氏がご逝去されたこと

さて正平十三年(延文三年::1358年)四月二十日、尊氏卿は背中に癰瘡(ようそう::おでき)が出来、体調を崩されたので、内科、外科の医師ら多数が集められました。倉公や華他が持てる医術を尽くして、君薬、臣薬、佐薬、使薬の薬を調剤しましたが、全く効き目は認められませんでした。

陰陽の頭(陰陽寮の長官)、有験(祈祷に長じること)の高僧らを集めて、鬼見(?)、太山府君(寿命延長祈願)、星供(ほしく::息災延命祈願)、冥動供(みょうどうく::閻魔大王に罪の消滅と長寿を祈願する供養法)、薬師の十二神将法、愛染明王、一字文殊、不動慈救(不動明王の呪文の一つ、厄災からまぬがれる)延命の法など種々の祈祷を心を込めて行いましたが、

病は日を追って重くなり、時とともに容態も思わしくないように思われてきたので、将軍の屋敷に仕える男女らは固唾を飲んで見守り、お側近くつとめる従者らは涙をこらえ、日夜寝食も忘れていました。やがて身体は次第次第に衰え、同じく四月二十九日の寅刻(午前四時頃)、享年五十四歳にして、とうとうお亡くなりになりました。

それでなくても別れは悲しいものなのに、国家の柱石が砕けてしまったので、天下は今後一体どうなるのかと嘆き悲しむばかりです。しかし、いつまでも悲しんでいる訳にもいかず、中一日おいて、衣笠山の麓にある等持院に葬りました。鎖龕(さがん::遺体を収めた棺のふたをすること)は天竜寺の竜山和尚が勤め、

起龕(きがん::禅宗で棺を墓所におくりだすこと)は南禅寺の平田和尚、奠茶(てんちゃ::霊前に茶を供えること)は建仁寺の無徳和尚、奠湯(てんとう::霊前に湯を供えること)は東福寺の鑑翁和尚が勤め、下火(あこ::遺体を焼く燃料に火をつけること)は等持院の東陵和尚がお勤めになりました。まことに悲しいことです、

生まれながらの武将として二十五年、向かう先は全て彼に従ってきたと言えども、死を迎えるにあたってそれを防ぐ兵士はいません。悲しくなりますが、天下の六十余州を治めて彼の命令に従う者は多いのですが、無常なこの世を去るにあたって、伴ってくれる人もいません。現世の肉体は忽ちにして暮れ行く空を立ちのぼる僅かな煙となり、

はかなく残った骨は僅かばかりが墓石の塵となりました。別れの涙は止まることなく月日ばかりが過ぎて行きました。やがて五十日が過ぎたので、日野左中弁忠光朝臣を勅使として、従一位左大臣の官位が贈られました。宰相中将義詮朝臣は宣旨を開き、三度にわたって拝礼してから涙をこらえて、

      帰べき 道しなければ 位山 上るに付て ぬるる袖かな(引き返す道もない位山を登っても、流れる涙に袖がぬれるばかりです。位山::位階の昇進)

と詠まれたのを、勅使も悲しく思い、ありのままを天皇に話されたので、天皇も大いに心を揺すられ、新千載和歌集を編纂するにあたって、詳しい詞書とともに、哀傷の部に入れられたのです。天皇から恩賞を受けたのは、まことにありがたいことでした。


○新待賢門院並梶井宮御隠事
同四月十八日、吉野の新待賢門の女院隠れさせ給ぬ。一方の国母にて御坐しければ、一人を始め進せて百官皆椒房の月に涙を落し、掖庭の露に思を摧く時節、何に有ける事ぞやとて、涙を拭ける処に、又同年五月二日、梶井二品親王御隠有ければ、山門の悲歎、竹苑の御歎更に類なし。此等は皆天下の重き歎なりしかば、知も知ぬも推並て、世の中如何あらんずらんと打ひそめき、洛中・山上・南方、打続たる哀傷、蘭省露深く、柳営烟暗して、台嶺の雲の色悲んで今年は如何なる歳なれば、高き歎の花散て、陰の草葉に懸るらんと、僧俗男女共に押並て袖をぞ絞りける。

☆ 新待賢門院と梶井宮がお亡くなりになったこと

正平十三年(延文三年::1358年)四月十八日(正平十四年四月二十九日では?)、吉野の新待賢門院(阿野廉子)が亡くなりました。南朝にとっては国母ですから後村上天皇をはじめ、多くの役人らが皆、皇后の御所にかかる月に涙し、宮殿の露に色々な思いが交錯し、何故こんなことになるのだと、涙をぬぐっていたところ、

正平十四年(延文四年::1359年)五月二日、梶井二品尊胤法親王がお亡くなりになり、山門の嘆き悲しみや、皇居のお嘆きも尋常なものではありませんでした。これらの不幸は天下にとっても大きな悲しみなので、人々は皆が皆、今後世の中はどうなるのかと、不安に静まり返りました。

洛中、山門また吉野朝廷にとっても続く不幸に、皇后のお住まいになられる宮殿には露が深く下り、軍の駐留地も意気が上がらず、比叡山にかかる雲の色も悲しみを表し、今年は一体どう言う訳でこのように高く咲いた嘆きの花が散り、草葉の陰に埋もれるのかと、僧侶や在家の男女すべてが袖の涙を絞ったのでした。


○崇徳院御事
今年の春、筑紫の探題にて将軍より被置たりける一色左京大夫直氏・舎弟修理大夫範光は、菊池肥前守武光に打負て京都へ被上ければ、小弐・大友・島津・松浦・阿蘇・草野に至るまで、皆宮方に順ひ靡き、筑紫九国の内には、只畠山治部大輔が日向の六笠の城に篭たる許ぞ、将軍方とては残りける。是を無沙汰にて閣かば、今将軍の逝去に力を得て、菊池如何様都へ責上りぬと覚る。是天下の一大事也。急で打手の大将を下さでは叶まじとて、故細川陸奥守顕氏子息、式部大夫繁氏を伊予守になして、九国の大将にぞ下されける。此人先讃岐国へ下り、兵船をそろへ軍勢を集る程に、延文四年六月二日俄に病付て物狂に成たりけるが、自ら口走て、「我崇徳院の御領を落して、軍勢の兵粮料所に充行しに依て重病を受たり。天の譴八万四千の毛孔に入て五臓六府に余る間、冷しき風に向へ共盛なる炎の如く、ひやゝかなる水を飲共沸返る湯の如し。あらあつや難堪や、是助てくれよ。」と悲み叫て、悶絶僻地しければ、医師陰陽師の看病の者共近付んとするに、当り四五間の中は猛火の盛に燃たる様に熱して、更に近付人も無りけり。病付て七日に当りける卯の刻に黄なる旗一流差て、混た甲の兵千騎許、三方より同時に時の声を揚て押寄たり。誰とは不知敵寄たりと心得て、此間馳集たる兵共五百余人、大庭に走出て散々に射る。箭種尽ぬれば打物に成て、追つ返つ半時許ぞ戦たる。搦手より寄ける敵かと覚て、紅の母衣掛たる兵十余騎、大将細川伊予守が頚と家人行吉掃部助が頚とを取て鋒に貫き、「悪しと思ふ者をば皆打取たるぞ。是看よや兵共。」とて、二の頚を差上たれば、大手の敵七百余騎、勝時を三声どつと作て帰るを見れば、此寄手天に上り雲に乗じて、白峯の方へぞ飛去ける。変化の兵帰去れば、是を防つる者共、討れぬと見へつる人も不死、手負と見つるも恙なし。こはいかなる不思議ぞと、互に語り互に問て、暫くあれば、伊予守も行吉も同時に無墓成にけり。誠に濁悪の末世と乍云、不思議なる事共なり。

☆ 崇徳院のこと

今年(正平十三年::1358年)の春、筑紫の探題として将軍から配属されていた一色左京大夫直氏とその弟修理大夫範光は、菊池肥前守武光と麻生山の合戦で大敗を喫し、京都に上って行ったので、少弐、大友、島津、松浦、阿蘇そして草野に至るまで全員が宮方に属し、筑紫九国の中ではただ一人、

畠山治部大輔が日向の六笠の城(穆佐城)に篭って、将軍方として残っているだけになりました。この状況に何も対策を取らなければ、この度の将軍逝去につけこんで、菊池肥前守が間違いなく都に攻め上って来ると思われます。こうなれば天下の一大事です。大至急征討軍を編成し、

大将を派遣しなければならないと、故細川陸奥守顕氏の子息、式部大夫繁氏を伊予守に任命し、九州の大将として下すことになりました。彼は先に讃岐国に渡り、兵船の準備と軍勢を集めていたところ、延文四年(正平十四年::1359年)六月二日、突然病に倒れると神がかり状態で口走るのは、「私は崇徳院の御領を侵して、

軍勢の兵糧徴収財源に充てたので重病になった。天による咎めが八万四千の毛穴に入り込み、五臓六腑に行きわたったため、冷たい風にあたっても燃え盛る炎のように熱く、冷たい水を飲んでも、煮えくり返る湯のようだ。熱い熱い、我慢できない、助けてくれ」と悲しみ叫んで、悶絶躄地(もんぜつびゃくじ::もだえ苦しみ、這いずり回ること)するばかりなので、

看病の医師や陰陽師らが近づこうとすれば、周辺の四、五間は猛火に包まれたように熱く、とても人が近づくことなど出来ません。発病してから七日目の卯の刻(午前六時頃)に黄色い旗一旒をさして、直兜(ひたかぶと::一同そろって鎧兜で身を固めること)の兵士ら、千騎ばかりが三方より同時に鬨の声をあげて、押し寄せて来ました。

誰だか分かりませんが、敵が押し寄せてきたと思い、今までに集めた兵士ら五百余人が大庭に出て激しく射込みました。やがて矢も射尽くしたので太刀、長刀などを手にして、追いつ追われつ半時(約一時間)ばかり戦いました。その時搦手から寄せて来た、敵と思える紅の母衣をかけた兵士ら十余騎が、大将細川伊予守の首と、

その家来、行吉掃部助の首を取って太刀の先に突き刺し、「悪人と思える者どもを全員討ち取ったぞ。これを見よ、兵士ども」と言って、二つの首を差し上げれば、大手の敵七百余騎は勝鬨を三回上げて帰るのを見ていると、この寄せ手らは天に上り雲に乗って、白峯(崇徳院の墓所、白峯寺)の方へ飛び去ったのでした。

妖怪と思える兵士らが帰り去ると、彼らとの防御戦を戦った者どもで、討たれたと見えた人も死んではいず、負傷したと見えた人も傷はありませんでした。なんとまあ不可解なことがあるものかと、互いに話し合ったり、不審なことを尋ね合ったりしている内、しばらくすると、伊予守も行吉も同時に息絶えたのでした。

汚れや悪に満ちた末世とは言え、実に不思議なことがあるものです。      (終り)

太平記総目次に戻る    次へ→