33 太平記 巻第三十三 (その二)


○菊池合戦事
小弐・大友は、菊池に九国を打順られて、其成敗に随事不安思ければ、細川伊予守の下向を待て旗を挙んと企けるが、伊予守、崇徳院の御霊に罰せられて、犬死しぬと聞へければ、力を失て機を呈さず。斯る処に畠山治部太輔が、未宮方には随はで楯篭たる六笠の城を責んとて、菊池肥後守武光五千余騎にて、十一月十七日肥後国を立て日向国へぞ向ける。道四日路が間、山を超川を渡て、行先は嶮岨に跡は難所にてぞ有ける。小弐・大友、菊池が催促に応じて、豊後国中に打出て勢汰をしけるが、是こそよき時分なりと思ければ、菊池を日向国へ遣り過して後、大友刑部太輔氏時、旗を挙て豊後の高崎の城に取上る。宇都宮大和前司は、河を前にして豊前の路を塞ぎ、肥前刑部太輔は、山を後に当て筑後の道をぞ塞ぎける。菊池已に前後の大敵に取篭られて何くへか可引。只篭の中の鳥、網代の魚の如しと、哀まぬ人も無りけり。菊池此二十四年が間、筑紫九国の者共が軍立手柄の程を、敵に受け御方になして、能知透したりければ、後ろには敵旗を上道を塞たりと聞へけれ共、更に事ともせず、十一月十日より矢合して、畠山治部太輔が子息民部少輔が篭たる三保の城を夜昼十七日が中に責落して、敵を打こと三百人に及べり。畠山父子憑切たる三保の城落されて、叶はじとや思ひけん、攻の城にもたまらず、引て深山の奥へ逃篭りければ、菊池今は是までぞとて肥後国へ引返すに、跡を塞ぎし大敵共更に戦ふ事なければ、箭の一をも不射己が館へぞ帰りける。是までは未太宰小弐・阿蘇大宮司、宮方を背く気色無りければ、彼等に牒し合せて、菊池五千余騎を卒して大友を退治せん為に豊後国へ馳向ふ。是時太宰小弐俄に心替して太宰府にして旗を挙ければ、阿蘇大宮司是に与して菊池が迹を塞がんと、小国と云処に九箇所の城を構て、菊池を一人も打漏さじとぞ企ける。菊池兵粮運送の路を止られて豊後へ寄る事も不叶、又太宰府へ向はんずる事も難儀也ければ、先我肥後国へ引返してこそ、其用意をも致さめとて、菊池へ引返しけるが、阿蘇大宮司が構たる九箇所の城を一々に責落して通るに、阿蘇大宮司憑切たる手者共三百余人討れければ、敵の通路を止むるまでは不寄思、我身の命を希有にしてこそ落行けれ。

☆ 菊池合戦のこと

少弐頼尚と大友氏時は菊池武光に九州の支配権を握られ、その政治に何かと不満があり、細川伊予守繁氏の来着を待って反旗を上げようと計画していましたが、伊予守が讃岐国で崇徳院の御霊に罰せられ、犬死したことを聞くと戦意喪失し、その機会を失いました。ところで、

畠山治部大輔直顕が未だ宮方に属することなく、立て篭もっている六笠の城(穆佐城::むかさじょう)を攻めようと、菊池肥後守武光は五千余騎にて正平十三年(延文三年::1358年)十一月十七日、肥後国を進発し日向国に向かいました。道中の四日間は山を越え川を渡っての行軍で、行く先は険阻にして後方は難所です。

少弐、大友は菊池の催促に応じて、豊後の国に進出し軍勢を編成しましたが、今こそ好機だと思い、菊池が日向国に向かうのをやり過ごしてから、大友刑部太輔氏時は豊後の高崎の城で旗を上げました。宇都宮大和前司は河を前にして豊前への道を閉鎖し、肥前刑部太輔は山を背後にして筑紫への道を閉鎖しました。

菊池はすでに前後を大敵に取り囲まれてしまい、退くべき場所はありません。ただ籠の中の鳥か、仕掛けられた網にかかった魚と変わりないと、憐れに思わない人はいませんでした。しかし菊池はこの二十四年間、筑紫九国の武将らの合戦における腕前のほどを、敵となって受けたり、

また味方としてよく理解しているから、後方に敵の旗を見て、街道も閉鎖されたと聞いても全く動じることなく、十一月十日(おかしい、日が前後している)より矢合わせをし、畠山治部太輔直顕の子息、民部少輔が篭っている三俣の城を昼夜十七日で攻め落とし、敵を討ち取ること三百人に及びました。

畠山父子は頼り切っていた三俣の城を落とされ、もはやこれまでと思ったのか、最終拠点の城にかかわらず退却し、山深く逃げ込みました。菊池は今回はここまでと思い、肥後国に引き返しましたが、後方を閉鎖していた大敵らは、全く戦おうとしなかったので、矢の一本をも射ることなく自分の屋敷に帰りました。

今まで太宰少弐や阿蘇大宮司らは宮方に背く気配がないので彼らと連絡を取り、菊池は五千余騎を率いて大友征伐のため、豊後国に急行しました。その時太宰少弐はにわかに心変わりし、大宰府で反旗を翻すと阿蘇大宮司は少弐に味方し、菊池の後方をふさぐため小国と言う所に九ヶ所の城を構築し、

菊池の軍勢を一人残らず討ち取ろうと計画しました。菊地軍は兵糧輸送の道を閉鎖され、豊後へ迂回することも出来ず、かと言って大宰府に向かうことも困難なので、まず自分が肥後国に引き返して反撃の用意をしようと、菊池に引き返しました。そして阿蘇大宮司が構築した九ヶ所の城を一つ一つ攻め落としながら通過して行ったので、

阿蘇大宮司が頼り切っていた家来ら三百余人が討たれ、敵の通行を阻止することなど思いもよらず、我が命を危うく守って落ち延びたのでした。


去程に七月に征西将軍宮を大将として、新田の一族・菊池の一類、太宰府へ寄と聞へしかば、小弐は陣を取て敵を待んとて、大将太宰筑後守頼尚・子息筑後新小弐忠資・甥太宰筑後守頼泰・朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門頼信・窪能登太郎泰助・肥後刑部太輔泰親・太宰出雲守頼光・山井三郎惟則・饗場左衛門蔵人重高・同左衛門大夫行盛・相馬小太郎・木綿左近将監・西河兵庫助・草壁六郎・牛糞刑部大輔、松浦党には、佐志将監・田平左衛門蔵人・千葉右京大夫・草野筑後守・子息肥後守・高木肥前守・綾部修理亮・藤木三郎・幡田次郎・高田筑前々司・三原秋月の一族・島津上総入道・渋谷播磨守・本間十郎・土屋三郎・松田弾正少弼・河尻肥後入道・託間三郎・鹿子木三郎、此等を宗との侍として都合其勢六万余騎、杜の渡を前に当て味坂庄に陣を取る。宮方には、先帝第六の王子征西将軍宮、洞院権大納言・竹林院三位中将・春日中納言・花山院四位少将・土御門少将・坊城三位・葉室左衛門督・日野左少弁・高辻三位・九条大外記・子息主水頭、新田一族には、岩松相摸守・瀬良田大膳大夫・田中弾正大弼・桃井左京亮・江田丹後守・山名因幡守・堀口三郎・里見十郎、侍大将には、菊池肥後守武光・子息肥後次郎・甥肥前二郎武信・同孫三郎武明・赤星掃部助武貫・城越前守・賀屋兵部太輔・見参岡三川守・庄美作守・国分二郎・故伯耆守長年が次男名和伯耆権守長秋・三男修理亮・宇都宮刑部丞・千葉刑部太輔・白石三川入道・鹿島刑部太輔・大村弾正少弼・太宰権小弐・宇都宮壱岐守・大野式部太輔・派讃岐守・溝口丹後守・牛糞越前権守・波多野三郎・河野辺次郎・稲佐治部太輔・谷山右馬助・渋谷三河・同修理亮・島津上総四郎・斉所兵庫助・高山民部太輔・伊藤摂津守・絹脇播磨守・土持十郎・合田筑前守、此等を宗との兵として、其勢都合八千余騎、高良山・柳坂・水縄山三箇所に陣をぞ取たりける。同七月十九日に、菊池は先己が手勢五千余騎にて筑後河を打渡り、小弐が陣へ押寄す。小弐如何思けん不戦、三十余町引退き大原に陣を取る。菊池つゞひて責んとしけるが、あはひに深き沼有て細道一つ有けるを、三所堀切て、細き橋を渡したりければ、可渡様も無りけり。両陣僅に隔て旗の文鮮に見ゆる程になれば、菊池態小弐を為令恥、金銀にて月日を打て著たる旗の蝉本に、一紙の起請文をぞ押たりける。此は去年太宰小弐、古浦城にて已に一色宮内太輔に討れんとせしを、菊池肥後守大勢を以て後攻をして、小弐を助たりしかば、小弐悦びに不堪、「今より後子孫七代に至まで、菊池の人々に向て弓を引矢を放事不可有。」と、熊野の牛王の裏に、血をしぼりて書たりし起請なれば、今無情心替りしたる処のうたてしさを、且は訴天に、且は為令知人に也けり。

さて延文四年(正平十四年::1359年)七月に征西将軍宮懐良親王を大将にして、新田の一族や菊池一門らが大宰府へ攻め寄せたとの情報が入ったので、少弐は戦陣を構えて敵を待ち受けようと、大将は太宰筑後守少弐頼尚、その子息筑後新少弐忠資、甥の太宰筑後守頼泰、

朝井但馬将監胤信、筑後新左衛門頼信、窪能登太郎泰助、肥後刑部大輔泰親、太宰出雲守頼光、山井三郎惟則、饗場左衛門蔵人重高、同じく左衛門大夫行盛、相馬小太郎、木綿(こわた)左近将監、西河兵庫助、草壁六郎、牛糞(うしくそ)刑部大輔、また松浦党には佐志将監、田平左衛門蔵人、

千葉右京大夫、草野筑後守、その子息肥後守、高木肥前守、綾部修理亮、藤木(ふじのき)三郎、幡田(はたた)次郎、高田筑前前司、三原秋月(あきづき)の一族、島津上総入道、渋谷播磨守、本間十郎、土屋三郎、松田弾正少弼、河尻肥後入道、宅間三郎、鹿子木(かのこぎ)三郎らを主力の武将として、

総勢六万余騎が杜(えずり)の渡(久留米市宮の陣町)を前面にして、味坂庄(鯵坂)に陣を構えました。一方宮方は先帝後醍醐の第六皇子征西将軍宮懐良親王、洞院権大納言、竹林院三位中将、春日中納言、花山院四位少将、土御門少将、坊城三位、葉室左衛門督、日野左少弁、高辻三位、

九条大外記、その子息主水頭、また新田一族には岩松相模守、世良田(せらだ)大膳大夫、田中弾正大弼(だいひつ)、桃井左京亮、江田丹後守、山名因幡守、堀口三郎、里見十郎、そして侍大将として菊池肥後守武光、その子息肥後次郎、甥の肥前二郎武信、同じく孫三郎武明、赤星掃部助武貫(たけつら)

城越前守、賀屋(かや)兵部大輔、見参岡(みさおか)三河守、庄美作守、国分(こくぶん)二郎、故伯耆守長年の次男名和伯耆権守長秋、三男修理亮、宇都宮刑部丞、千葉刑部大輔、白石三河入道、鹿島刑部大輔、大村弾正少弼、太宰権少弐、宇都宮壱岐守、大野式部大輔、派(みなまた)讃岐守、

溝口丹後守、牛糞(うしくそ)越前権守、波多野三郎、河野辺(かわのべ)次郎、稲佐(いなさ)治部大輔、谷山右馬助、渋谷三河、同じく修理亮、島津上総四郎、斉所(さいしょ)兵庫助、高山民部大輔、伊藤摂津守、絹脇(きぬわき)播磨守、土持(つちもち)十郎、合田(あふた)筑前守らを主力の兵として、

総勢八千余騎が高良山(こうらさん::久留米市)、柳坂そして水縄山の三ヶ所に陣を構えました。同じく七月十九日、菊池はまず自分の手勢五千余騎で筑後川を渡り、少弐の陣営に押し寄せました。少弐はどう思ったのか戦うことなしに三十余町を退却し、大原に陣を構えました。

菊池は攻撃を継続しようとしましたが、途中に深い沼があり、狭い道が一本通っているのですが、三ヶ所の水路に細い橋が架かっているだけなので、渡ることは出来そうにありません。両軍は僅かに距離を置いただけで、旗の模様もはっきりと分かるぐらいなので、菊池は少弐をわざと辱めようと、

金銀にて月日を作って旗に取り付け、旗竿の先端に一通の起請文(神仏への誓いを記した文書)を張りつけました。これは昨年太宰少弐が古浦城において、一色宮内大輔に今まさに討たれようとした時、菊池肥後守が大勢で背後から攻めて少弐を助けたので、少弐は嬉しさのあまり、「今後、子孫七代にわたって、

菊池の人々に向かって弓を引いたり、矢を放つことなど絶対にいたしません」と熊野牛王(くまのごおう::熊野三社が発行する護符)の裏に、血を絞って書いた起請なので、今、情けなくも心変わりをした不義理加減を、一つは天に訴えようと、また一つは彼の知人らに知らしめようと言う訳です。


八月十六日の夜半許に、菊池先夜討に馴たる兵を三百人勝て、山を越水を渡て搦手へ廻す。宗との兵七千余騎をば三手に分て、筑後河の端に副て、河音に紛れて嶮岨へ廻りて押寄す。大手の寄手今は近付んと覚ける程に、搦手の兵三百人敵の陣へ入て、三処に時の声を揚げ十方に走散て、敵の陣々へ矢を射懸て、後へ廻てぞ控たる。分内狭き所に六万余騎の兵、沓の子を打たる様に役所を作り双たれば、時の声に驚き、何を敵と見分たる事もなく此に寄合彼に懸合て、呼叫追つ返つ同士打をする事数剋也しかば、小弐憑切たる兵三百余人、同士打にこそ討れけれ。敵陣騒乱て、夜已に明ければ、一番に菊池二郎、件の起請の旗を進めて、千余騎にてかけ入。小弐が嫡子太宰新小弐忠資、五十余騎にて戦けるが、父が起請や子に負けん。忠資忽に打負て、引返々々戦けるが、敵に組れて討れにけり。是を見て朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔、百余騎にて取て返し、近付く敵に引組々々差違て死ければ、菊池孫次郎武明・同越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三川守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下宗との兵八十三人、一所にて皆討れにけり。小弐が一陣の勢は、大将の新小弐討れて引退ければ、菊池が前陣の兵、汗馬を伏て引へたり。二番に菊池が甥肥前二郎武信・赤星掃部助武貫、千余騎にて進めば、小弐が次男太宰越後守頼泰、並太宰出雲守、二万余騎にて相向ふ。初は百騎宛出合て戦けるが、後には敵御方二万二千余騎、颯と入乱、此に分れ彼に合、半時許戦けるが、組で落れば下重り、切て落せば頚をとる。戦未決前に、小弐方には赤星掃部助武貫を討て悦び、寄手は引返す。菊池が方には太宰越後守を虜て、勝時を上てぞ悦ける。此時宮方に、結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同出雲守・熊谷民部大輔以下、宗との兵三百余人討死しければ、将軍方には、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、憑切たる兵共七百余人討れにけり。三番には、宮の御勢・新田の一族・菊池肥後守一手に成て、三千余騎、敵の中を破て、蜘手十文字に懸散んと喚ひて蒐る。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵二万余騎、左右へ颯と分れて散々に射る。宮方の勢射立られて引ける時、宮は三所まで深手を負せ給ければ日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮を落し進せんと蹈止て討れ給ふ。是を見て新田の一族三十三人、其勢千余騎横合に懸て、両方の手崎を追まくり、真中へ会尺もなく懸入て、引組で落、打違て死、命を限に戦けるに、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守、敵に組れて討れにけり。菊池肥後守武光・子息肥後次郎は、宮の御手を負せ給のみならず、月卿雲客・新田一族達若干討るゝを見て、「何の為に可惜命ぞや。日来の契約不違、我に伴ふ兵共、不残討死せよ。」と励されて、真前に懸入る。敵此を見知たりければ、射て落さんと、鏃をそろへて如雨降射けれ共、菊池が著たる鎧は、此合戦の為に三人張の精兵に草摺を一枚宛射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵て威たれば、何なる強弓が射けれ共、裏かく矢一も無りけり。馬は射られて倒れ共乗手は疵を被らねば、乗替ては懸入々々、十七度迄懸けるに、菊池甲を落されて、小鬢を二太刀切れたり。すはや討れぬと見へけるが、小弐新左衛門武藤と押双て組で落、小弐が頚を取て鋒に貫き、甲を取て打著て、敵の馬に乗替、敵の中へ破て入、今日の卯剋より酉の下まで一息をも不継相戦けるに、新小弐を始として一族二十三人、憑切たる郎従四百余人、其外の軍勢三千二百二十六人まで討れにければ、小弐今は叶はじとや思けん、太宰府へ引退て、宝万が岳に引上る。菊池も勝軍はしたれども、討死したる人を数れば、千八百余人と注したりける。続て敵にも不懸、且く手負を助てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其後は、敵も御方も皆己が領知の国に楯篭て、中々軍も無りけり。

八月十六日の夜半頃、菊池はまず夜討ちに慣れた兵士三百人を選び出し、山を越え川を渡らせて搦手に回しました。そして主力の兵士ら七千余騎を三手に分けると、筑後川の岸に沿って、川音に紛れて険しい地形の方に回り込み押し寄せました。寄せ手の大手軍が今まさに近づこうとしている時、

搦手の兵士三百人が敵陣に入り込み、三ヶ所で鬨の声をあげると、四方八方に走り抜け、敵陣の各所に矢を射かけ、後方に回り込んで待機しました。もともと狭い場所に入り込んだ六万余騎の兵士らは、各武将らの詰め所が隙間なく並んだ中で鬨の声を聞いて驚き、いずれが敵なのか見分けることもなく、

こちらに押し寄せ、向こうに駆け込んだりして、叫び声を上げながら追いつ追われつ戦ううち、同士討ちをすること数時間に及んだので、少弐が頼りとする兵士ら三百余人は、同士討ちにて討たれたのです。敵陣が秩序を失って騒ぐうちに、夜もすでに明けたので、一番最初に菊池二郎が例の起請の旗を前面に進めて、

千余騎にて駆け入りました。少弐の嫡子、太宰新少弐忠資は五十余騎にて応戦しましたが、父の起請が子供に報いがきたのか、忠資は瞬く間に負け、引き返し引き返し戦う内に、敵に組み付かれて討たれたのでした。これを見て、朝井但馬将監胤信、筑後新左衛門、窪能登守、

肥前刑部大輔らが百余騎にて引き返し、近づく敵に組み付き組み付いては刺し違えて死んだので、菊池孫三郎武明、同じく越後守、賀屋兵部大輔、見参岡(みさおか)三河守、庄美作守、宇都宮刑部丞、国分次郎以下主力の兵士ら八十三人が、一ヶ所で全員討たれたのでした。

少弐軍の先鋒軍は大将の新少弐が討たれて引き下がったので、菊池の先鋒軍は疲労激しい馬を休めて待機しました。二番目の戦闘は菊池の甥である肥前二郎武信と赤星掃部助武貫(たけつら)が千余騎で進攻してきたので、少弐の次男太宰越後守頼泰並びに太宰出雲守が二万余騎で向かいました。

初めは敵味方百騎を互いに出して戦っていましたが、その後は敵味方二万二千余騎があっと言う間に入り乱れ、ここかしこで乱戦となり、半時(約一時間)ばかりを戦いましたが、組み打ちになると折り重なって落馬し、切り落とせば首を切り取りました。戦闘がまだ決着のつく前に、

少弐方では赤星掃部助武貫(たけつら)を討ち取ったと喜べば、寄せ手は引き返しました。また菊池方では太宰越後守を生け捕りにし、勝鬨をあげて喜びました。この合戦で宮方では結城右馬頭、加藤大夫判官、合田筑前入道、熊谷豊後守、三栗屋十郎、太宰修理亮、松田丹後守、同じく出雲守、

熊谷民部大輔以下主だった兵士ら三百余人が討ち死にし、将軍方では饗庭右衛門蔵人、同じく左衛門大夫、山井三郎、相馬小太郎、木綿(こわた)左近将監、西川兵庫助、草壁六郎以下頼りにしていた兵士ら七百余人が討たれたのです。三番目として征西将軍宮懐良親王の軍勢と

新田一族そして菊池肥後守の軍勢が一つにまとまった三千余騎が、敵の中央を突破して蜘手十文字(くもでじゅうもんじ::武器などを四方八方に振り回す)に駆け散らそうと喚いて切りかかりました。少弐、松浦、草壁、山賀、島津、渋谷の兵士ら二万余騎は、左右にサッと分かれると、激しく矢を射込みました。

宮方の軍勢はこの攻撃に退こうとした時、征西将軍宮懐良親王が三ヶ所に重傷を負われたので、日野左少弁、坊城三位、洞院権大納言、花山院四位少将、北山三位中将、北畠源中納言、春日大納言、土御門右少弁、高辻三位、葉室左衛門督に至るまで、宮を落とそうと踏み止まり討たれたのでした。

これを見て新田の一族三十三人が総勢千余騎で、敵の側面から攻撃を仕掛け、両側の先頭兵を追いまくりながら、敵中のど真ん中に有無を言わさず駈け入り、取っ組んでは落ち、武器で戦っては討たれたりして、命がけで戦った結果、世良田大膳大夫、田中弾正大弼、岩松相模守、

桃井右京亮、堀口三郎、江田丹後守、山名播磨守らは、敵に組み付かれて討たれました。菊池肥後守武光と、その子息肥後次郎の二人は懐良親王が重傷を負われただけでなく、公卿や殿上人また新田の一族らが多数討たれるのを目にして、「この事態に何故命など惜しむのか。

日頃の約束を違えることなく私に従ってきた兵士ども、全員残らず討ち死にを覚悟せよ」と檄を飛ばし、真っ先に駈け入りました。敵は彼を見知っているので、射落とそうと雨の降るかように狙いすまして射込んできましたが、菊池が身に着けている鎧は、この合戦に備えて三人張りの弓を扱う精兵に、

草摺りを一枚づつ射させ、矢を通さなかった札(さね::鎧を構成する鉄または革製の細長い小板)を一枚づつ拵えて威しているので、どんなに強弓で射た矢でも、裏まで通る矢は一本もありませんでした。たとえ馬は射られて倒れても乗り手は傷を負うことがないので、乗り換えては駆け入ること十七度に及んだ頃、

菊池は兜を落とされて、頭の側面を二太刀切られました。あっ、討たれるのではと見えましたが、少弐新左衛門武藤と馬を並べ組み合って落ちると、少弐の首を取って切っ先に貫き、兜も取り上げて自分が着け、その上敵の馬に乗り換えると敵中に割って入りました。今日の卯の刻(午前六時頃)から

酉の下(午後七時過ぎ頃)まで休むことなく戦い続けましたが、新少弐をはじめとして、一族二十三人、頼みとしていた家来ら四百余人、そのほかの軍勢、三千二百二十六人も討たれてしまったので、この状況に少弐はもはや戦いを続けることは不可能と考え、大宰府に退却し宝万が岳(宝満城)に上りました。

菊地も合戦には勝利を収めましたが、討ち死にした人数を数えると千八百余人だと記録されました。そして続けて敵にかかることなく、味方の負傷者の治療に励みその後再び合戦をしようと、肥後国に引き返しました。その後は菊池も少弐も皆、自分の領地の国に立て篭もり、意外にも合戦は起こりませんでした。


○新田左兵衛佐義興自害事
去程に尊氏卿逝去あつて後、筑紫は加様に乱れぬといへ共、東国は未静也。爰に故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興・其弟武蔵少将義宗・故脇屋刑部卿義助子息右衛門佐義治三人、此三四年が間越後国に城郭を構へ半国許を打随へて居たりけるを、武蔵・上野の者共の中より、無弐由の連署の起請を書て、「両三人の御中に一人東国へ御越候へ。大将にし奉て義兵を揚げ候はん。」とぞ申たりける。義宗・義治二人は思慮深き人也ければ、此比の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早にして、忠功人に先立たん事をいつも心に懸て思はれければ、是非の遠慮を廻さるゝまでもなく、纔に郎従百余人を行つれたる旅人の様に見せて、窃に武蔵国へぞ越られける。元来張本の輩は申に不及、古へ新田義貞に忠功有し族、今畠山入道々誓に恨を含む兵、窃に音信を通じ、頻に媚を入て催促に可随由を申者多かりければ、義興今は身を寄る所多く成て、上野・武蔵両国の間に其勢ひ漸萌せり。天に耳無といへ共是を聞に人を以てする事なれば、互に隠密しけれ共、兄は弟に語り子は親に知せける間、此事無程鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣・畠山入道々誓に聞へてげり。畠山大夫入道是を聞しより敢て寝食を安くせず、在所を尋聞て大勢を差遣せば、国内通計して行方を不知。又五百騎三百騎の勢を以て、道に待て夜討に寄て討んとすれば、義興更に事共せず、蹴散しては道を通り打破ては囲を出て、千変万化総て人の態に非ずと申ける間、今はすべき様なしとて、手に余りてぞ覚へける。さても此事如何がすべきと、畠山入道々誓昼夜案じ居たりけるが、或夜潜に竹沢右京亮を近付て、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、彼の義興の手に属して忠ありしかば、義興も定て其旧好を忘れじとぞ思はるらん。されば此人を忻て討んずる事は、御辺に過たる人可有。何なる謀をも運して、義興を討て左馬頭殿の見参に入給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語れける。竹沢は元来欲心熾盛にして、人の嘲をも不顧古への好みをも不思、無情者也ければ、曾て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛佐殿の疑を散じて相近付候はん為に、某態御制法候はんずる事を背て御勘気を蒙り、御内を罷出たる体にて本国へ罷下て後、此人に取寄り候べし。」と能々相謀て己が宿所へぞ帰ける。兼て謀りつる事なれば、竹沢翌日より、宿々の傾城共を数十人呼寄て、遊び戯れ舞歌。是のみならず、相伴ふ傍輩共二三十人招集て、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或人是を畠山に告知せたりければ、畠山大に偽り忿て、「制法を破る罪科非一、凡破道理法はあれども法を破る道理なし。況や有道の法をや。一人の科を誡るは万人を為助也。此時緩に沙汰致さば、向後の狼籍不可断。」とて、則竹沢が所帯を没収して其身を被追出けり。竹沢一言の陳謝にも不及、「穴こと/゛\し、左馬頭殿に仕はれぬ侍は身一は過ぬ歟。」と、飽まで広言吐散して、己が所領へぞ帰にける。

☆ 新田左兵衛佐義興が自害したこと

さて足利尊氏卿がご逝去(正平十三年::1358年)されてから、筑紫ではこのように騒乱がありましたが、東国ではまだまだ安定していました。そのような時、故新田左中将義貞の子息、左兵衛佐義興とその弟、武蔵少将義宗、故脇屋刑部卿義助の子息、右衛門佐義治の三人は、

この三、四年間越後国に城郭を構えて半国ほどを支配していました。しかし武蔵、上野の武将の誰かから、決して異心の無い旨を署名した起請(きしょう::自分の言動に偽りのないことを神仏に誓って書き記すこと)を書いて、「両三人の内、誰かお一人東国にお越しください。大将にお迎えして義兵をあげようと思います」と、申し入れてきました。

義宗と義治の二人は思慮深い人なので、最近の人の心はむやみに信用出来ないと断りました。しかし義興は血気盛んな上、忠功で他人に遅れを取らない事を常に心掛けていますので、事の重大さや善悪など深く考えることもなく、わずか百余人の家来を連れた旅人の格好をして、ひそかに武蔵国に行きました。

もともと、このような策を企てる人は言うまでもなく、過去に新田義貞に忠功のあった人々で、現在畠山入道道誓(畠山国清)に恨みを持っている兵士らがひそかに連絡を取り合い、軍勢招集の催促があれば、即刻従うとしきりに申し入れる者が多いので、義興は今や身を寄せる所も多くなり、上野、武蔵両国において、

その勢力はようやく姿を現そうとしていました。天に耳は無いとは言いますが、このような話は人が人にすることなので、お互い秘密にしてはいても、兄は弟に語り掛け、子は親に知らせますから、このような状況はやがて鎌倉の管領(かんれい::将軍の補佐職)、足利左馬頭基氏朝臣や畠山入道道誓の耳に入りました。

畠山入道はこの話を聞いてから、とても寝食に安心できず、彼らの居場所を調べては大勢を向かわせてみても、情報は筒抜けになって行方は分かりません。また五百騎、三百騎の軍勢で街道にて待ち伏せたり、夜討ちをかけようとしても、義興はいっこうに問題にする風もなく、蹴散らして道を通過し、

押し寄せて来た軍勢を突破して包囲から脱出したり、状況に応じて様々な対応を取るため、とても人間業とは思えないと皆が話すので、今は取るべき手段も思いつかず、手の打ちようもないように思われました。とは言っても、この状況を如何に解決すれば良いのかと、畠山入道道誓は昼も夜もそのことばかり考えていましたが、

ある夜のこと、ひそかに竹沢右京亮を近くに呼び、「貴殿は以前武蔵野における合戦の時、あの義興軍に属して功績があったので、義興もきっと昔のよしみを忘れているとは思えない。そこで策を使って彼を討つのに、貴殿以上にふさわしい者はいないだろう。いかなる謀略を巡らしてでも義興を討ち取り、

左馬頭基氏殿のもとに参上されるが良いだろう。その場合恩賞は思うがままであろう」と、話されました。竹沢は元来強欲な人間なので、他人の批判などには無頓着で、また過去の親しい交際など考えもしない、無情な人間なので全く一言も発することなく、「そうと決まれば兵衛佐殿に不審を感じさせずに近づくため、

策として、私はご法度に違反し、主君から勘気を受けたため、主君のもとを去った振りをして本国に下り、その後、義興殿に近づくことにしましょう」と抜かりなく策を練って、自分の屋敷に帰りました。前もって作戦を立てていたことなので、竹沢は翌日より各宿場宿場の遊女など数十人を呼び寄せ、

遊び戯れて踊ったり歌ったりしました。そればかりでなく、同僚の武士ら二、三十人を招き、昼夜十余日にわたって博打をしました。ある人がこのことを畠山に知らせると、畠山は激怒した振りをして、「規則を破る罪、一つだけではない。およそ道理を破る法はあっても、法を破るのに道理などあるわけがない。

まして道理にかなった法を。一人の罪科を処罰するのは、万人を救うためである。今回軽い判決を下せば、今後同じような犯罪を防止することが出来ない」と言って、即刻竹沢の財産や官職などを没収した上、国外に追放しました。竹沢は一言の謝罪もすることなく、「なんとも大げさな話だ、

左馬頭殿に奉公している侍は、我が身一つさえ思うようにならないのか」と大口を吐き散らして、自分の所領に帰りました。


角て数日有て竹沢潜に新田兵衛佐殿へ人を奉て申けるは、「親にて候し入道、故新田殿の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抽で候き。某又先年武蔵野の御合戦の時、御方に参て忠戦致し候し条、定て思召忘候はじ。其後は世の転変度々に及て、御座所をも存知仕らで候つる間、無力暫くの命を助て御代を待候はん為に、畠山禅門に属して候つるが、心中の趣気色に顕れ候けるに依て、差たる罪科とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収せらる。結句可討なんどの沙汰に及び候し間、則武蔵の御陣を逃出て、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某が此間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内奉公の身と罷成候て、自然の御大事には御命に替り進せ候べし。」と、苦にぞ申入たりける。兵衛佐是を聞給て、暫は申所誠しからずとて見参をもし給はずして、密儀なんどを被知事も無りければ、竹沢尚も心中の偽らざる処を顕して近付奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申ける上臈女房の、年十六七許なる、容色無類、心様優にやさしく坐けるを、兔角申下して、先己が養君にし奉り、御装束女房達に至まで、様々にし立て潜に兵衛佐殿の方へぞ出したりける。義興元来好色の心深かりければ、無類思通して一夜の程の隔も千年を経る心地に覚ければ、常の隠家を替んともし給はず、少し混けたる式にて、其方様の草のゆかりまでも、可心置事とは露許も思給はず。誠に褒■一たび笑で幽王傾国、玉妃傍に媚て玄宗失世給しも、角やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀る道を教しを不知けるこそ愚かなれ。角て竹沢奉公の志切なる由を申けるに、兵衛佐早心打解て見参し給ふ。軈て鞍置たる馬三疋、只今威し立てたる鎧三領、召替への為とて引進す。是のみならず、越後より著き纏奉て此彼に隠居たる兵共に、皆一献を進め、馬・物具・衣裳・太刀・々に至まで、用々に随て不漏是を引ける間、兵衛佐殿も竹沢を異于也。思をなされ、傍輩共も皆是に過たる御要人不可有と悦ばぬ者は無りけり。加様に朝夕宮仕の労を積み昼夜無二の志を顕て、半年計に成にければ、佐殿今は何事に付ても心を置給はず、謀反の計略、与力の人数、一事も不残、心底を尽て被知けるこそ浅猿けれ。九月十三夜は暮天雲晴て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会に事を寄て佐殿を我館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我館の傍にぞ篭置ける。日暮ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私の茅屋へ御入候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申候はん為に、白拍子共少々召寄て候。」と申ければ、「有興遊ありぬ。」と面々に皆悦て、軈て馬に鞍置せ、郎従共召集て、已に打出んとし給ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息あり。披て見給へば、「過し夜の御事を悪き様なる夢に見進て候つるを、夢説に問て候へば、重き御慎にて候。七日が間は門の内を不可有御出と申候也。御心得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是を見給て、執事井弾正を近付て、「如何可有。」と問給へば、井弾正、「凶を聞て慎まずと云事や候べき。只今夜の御遊をば可被止とこそ存候へ。」とぞ申ける。佐殿げにもと思給ければ、俄に風気の心地有とて、竹沢をぞ被帰ける。竹沢は今夜の企案に相違して、不安思けるが、「抑佐殿の少将の御局の文を御覧じて止り給つるは、如何様我企を内々推して被告申たる者也。此女姓を生て置ては叶まじ。」とて、翌の夜潜に少将の局を門へ呼出奉て、差殺して堀の中にぞ沈めける。痛乎、都をば打続きたる世の乱に、荒のみまさる宮の中に、年経て住し人々も、秋の木葉の散々に、をのが様々に成しかば、憑む影なく成はてゝ、身を浮草の寄べとは、此竹沢をこそ憑給ひしに、何故と、思分たる方もなく、見てだに消ぬべき秋の霜の下に伏て、深き淵に沈られ給ひける今はの際の有様を、思遣だに哀にて、外の袖さへしほれにけり。

こうして数日が経ってから、竹沢はひそかに新田兵衛佐殿のもとに人を送って、「私の親である入道は故新田義貞殿の配下として、元弘の鎌倉合戦(元弘三年::1333年)においては他の人をしのぐ活躍をいたしました。また私は以前の武蔵野合戦(正平七年::1352年)の時、兵衛佐殿の味方として加勢し忠義ある戦いをしたこと、

きっとお忘れになってはおられないでしょう。その後世の中は定まることなく目まぐるしく変化し、殿の所在も存じ上げなかったので、やむを得ず命を永らえ、殿の時代をお待ちするために畠山禅門の支配を受けていましたが、私の本心が態度に現れたためか、これと言うほどの罪とも思われないのに、

一所懸命(生活の基盤となる一ヶ所の領地)の土地を没収されてしまいました。それだけでなく討ち取ることも検討されているらしいと聞き、すぐに武蔵の陣営を逃げ出し、現在は深山幽谷(奥深い山や谷)に隠れ住んでいる状況です。私が一時畠山の手に属していた不義さえお許し下されば、

家来として奉公させていただき、万一殿に大事が起これば殿の御命に代わりましょう」と、心を込めて申し入れました。兵衛佐はこのことをお聞きになっても、しばらくはこの申し入れに不審を感じ、会おうともしませんでしたが、こちらの密議のことも知られていないので、竹沢はなおも自分の心中に偽りのないことをはっきりさせて近づくため、

京都に人を上らせ、ある宮家の御所より少将殿と申される身分の高い女官、年齢は十六、七歳で無類の容色をお持ちで、その上性格も大変上品で優しい方を、何かと理由をつけて申し入れ、まず自分の養女にお迎えし、衣裳からお付きの女性らに至るまで色々と準備して、ひそかに兵衛佐殿のもとに送り出しました。

義興はもともと女性にはだらしないところがあり、驚くほど気持ちが舞い上がり、一夜さえそばを離れると千年も会っていない気持ちになり、いつもの隠れ家を変えようともせず、少し緊張感も緩んで、その女性につながることすべてに注意を払わなければならないとは全く考えませんでした。

確かに古代中国の例に見るように、褒じ(ほうじ::じ=女偏に以::周国の幽王の后。なかなか笑わない后)が一たび笑って幽国が滅亡に向かい出したり、唐の国では楊貴妃が傍で王の気を引いている内に、玄宗皇帝は国を失ったのも、このようなことかと思い知らされました。つまり太公望が利に弱い人間には、

珍しい財宝を与えて判断を迷わし、色事が好きな者には美女を与えて惑わせば良いと、敵をだます方法を教えているのに、これを知らなかったとは愚かなことです。この状況になってから、竹沢は奉公する気持ちが未だ強いことを申し上げたところ、兵衛佐はもはや心も打ち解けて面談を許されました。

早速鞍を置いた馬を三頭と、たった今縅の済んだ新品の鎧三領を交換の用意にと献上しました。それだけでなく、越後より義興殿に従い、ここかしこに隠れ住んでしる兵士らに対しても、全員くまなくお酒を勧め、馬、馬具、衣裳、太刀、刀などに至るまで、必要に応じて全員くまなく贈りましたので、

兵衛佐殿も竹沢を気に入られました。またお側に控える武将らもこの人以上に重要な人物は居ないだろうと、喜ばない人はいませんでした。こうして朝夕宮仕えに励み、昼夜二心なく忠義の心を表に出して奉公し、半年ばかり経ったころには、佐殿は今は何事も信頼しきって、謀反の計画や、

その計画に同調する武将らの人数など、すべて隠すことなく本音を話されるとは、あきれ返るばかりです。正平十三年(延文三年::1358年)九月十三日の夜は、夕暮れから雲も晴れ渡り、その名にふさわしい十三夜の月が姿をあらわしているので、今夜名月の会を開くことを良いことに、

佐殿を我が舘にお招きして、酒宴の最中に討ち取ることに決め、絶大なる信頼を置く一族や若武者三百余人を招集し、我が舘の周辺に控えさせました。日が暮れると竹沢は急いで佐殿のもとに参り、「今夜は名月の夜でございますから、おそれながら我があばら家にお越しいただき、草深い庭に出る月をご覧いただきたく思います。

身内の方々にも労をねぎらいたく思い、白拍子(遊女)らも少しばかり呼び寄せております」と、申し上げると、「それは面白い、楽しませていただこう」と、皆喜ばれすぐ馬に鞍を置き、家来たちを呼び寄せて今まさに門を出ようとした時、少将のお局様より佐殿に便りが届きました。

早速開いてみると、「先日の夜、良くない夢を見ましたので、夢占いに詳しい人に聞いてみたところ、厳しく慎みをされることです。七日間は門の内から外へお出になることはいけませんと言われました。その旨心構えのほどよろしくお願いします」と、書いてありました。佐殿はこれを見られると、

執事の井弾正を近くに呼び、「どうすれば良いだろうか」と相談されると、井弾正は、「凶だと言われて謹慎しないことなどあるはずはございません。今夜の御遊は中止されること以外考えられません」と、申されました。佐殿も確かにそうだろうと思い、急に風邪気味な気がしてならないと言って、竹沢を帰されました。

竹沢は今夜の計画が失敗に終わり、不安を感じましたが、「大体、佐殿が少将のお局からの文を見て中止されたと言うことは、間違いなく彼女は内心私の計画を推測して告げられたのだろう。この女性を生かしておいては何事も出来ない」と言って、翌日の夜、ひそかに少将の局を門に呼び出し、刺し殺すと堀の中に沈めました。

何とも痛ましい話です。都はいつ終わるとも知れない世の乱れに、粗暴なことが当たり前になった宮中で、年を重ねてきた人々も、秋になって木の葉が散り散りになるように自分の環境もそうなっていくと、今更頼れる人もいなくなり、我が身を寄せるには、この竹沢こそ頼りになる人だと思っていたのに、

どうしてこうなるのかと考える間もなく鋭い刃に伏せ、深い淵に沈められるその最期の様子は思えば思うほど哀れで、外袖(そとそで::二枚袖の外側の袖)まで涙に濡れるのでした。


其後より竹沢我力にては尚討得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば委細に存知仕て候へ共、小勢にては打漏しぬと覚へ候。急一族にて候江戸遠江守と下野守とを被下候へ。彼等に能々評定して討奉候はん。」とぞ申ける。畠山大夫入道大に悦て、軈て江戸遠江守と其甥下野守を被下けるが、討手を下す由兵衛佐伝聞かば、在所を替て隔る事も有とて、江戸伯父甥が所領、稲毛の庄十二郷を闕所になして則給人をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽り忿て、軈て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招集て、「只畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取て兵衛佐に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢篭の身と罷なる間、力不及一族共を引卒して、鎌倉殿の御陣に馳向ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但可然大将を仰奉らでは、勢の著く事有まじきにて候へば、佐殿を大将に憑奉らんずるにて候。先忍て鎌倉へ御越候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎も可有候。其勢を付て相摸国を打随へ、東八箇国を推て天下を覆す謀を運らし候はん。」と、誠に容易げにぞ申たりける。さしも志深き竹沢が執申なれば、非所疑憑れて、則武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触て、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍で先鎌倉へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼て支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所えり貫て、のみを差し、渡の向には宵より江戸遠江守・同下野守、混物具にて三百余騎、木の陰岩の下に隠て、余る所あらば討止めんと用意したり。跡には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人勝て、取て帰されば遠矢に射殺さんと巧たり。「大勢にて御通り候はゞ人の見尤め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従共をば、兼て皆抜々に鎌倉へ遣したり。世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎佐衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門尉・南瀬口六郎僅に十三人を打連て、更に他人をば不雑、のみを差たる船にこみ乗て、矢口渡に押出す。是を三途の大河とは、思寄ぬぞ哀なる。倩是を譬ふれば、無常の虎に追れて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮出て是を呑んと舌を暢べ、其餐害を遁んと岸の額なる草の根に命を係て取付たれば、黒白二の月の鼠が其草の根をかぶるなる、無常の喩へに不異。此矢口の渡と申は、面四町に余りて浪嶮く底深し。渡し守り已に櫓を押て河の半ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓かいを河に落し入れ、二ののみを同時に抜て、二人の水手同じ様に河にかは/\と飛入て、うぶに入てぞ逃去ける。是を見て、向の岸より兵四五百騎懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚なる人々哉。忻るとは知ぬか。あれを見よ。」と欺て、箙を扣てぞ笑ける。

その後、竹沢は独力で討ち取ることは難しいと思い、畠山殿のもとに使いを送り、「兵衛佐殿が隠れ住んでいる場所については詳しく知り得ましたが、小勢で攻撃した所で討ち漏らすことも考えられます。大急ぎで一族の江戸遠江守と下野守をこちらに向かわせてください。

彼らと綿密な計画を立てて討ち取ることにしましょう」と、申し上げました。畠山大夫入道は大いに喜び、すぐに江戸遠江守とその甥、下野守を下すことにしましたが、討っ手を派遣したことを兵衛佐が伝え聞くことがあれば、居場所を変えてしまうこともあろうかと、江戸の伯父、甥の所領である稲毛の庄、十二郷を没収し、

すぐに代わりの者に支給しました。江戸伯父、甥は激怒したふりをして、すぐに稲毛の庄に馳せ下り、新しい領主を追い出して城郭を構え、一族以下の兵士ら五百余騎を招集して、「こうなれば畠山殿に向かって、一矢でも射かけて討ち死にしようではないか」と、騒ぎ立てました。しばらくしてから、

江戸遠江守は竹沢右京亮を仲介として兵衛佐に、「畠山殿は理由もなく我が所領を没収し、伯父、甥ともに領地を失い無禄になってしまったので、たとえ力及ばずとも一族を率いて鎌倉殿の陣営に馳せ向かい、畠山殿に一矢なり射ようと考えています。とは言っても、しかるべく大将をお迎えしなければ、

軍も気勢が上がらないと思いますので、佐殿を大将にお迎えしたく思っています。まず先に人目を避けて鎌倉にお越しください。鎌倉中には当家の一族が少なくとも二、三千騎はいます。その軍勢を率い、相模国を従え東八ヶ国を抑えて、天下の転覆をはかることを考えましょう」と、誠に簡単そうに申し上げたのです。

あれほど忠義ある竹沢が取り次いだ話なので何ら疑うこともなく信用し、すぐ武蔵、上野、常陸、下総の国々の中で、以前より内密に協力を約束している武将たちに、事の次第を連絡してから、正平十三年(延文三年::1358年)十月十日の明け方、先に兵衛佐殿は人目を避けて鎌倉に急がれました。

江戸と竹沢は前もって準備したのは、矢口の渡し(大田区)の舟の底を二ヶ所彫り抜き、水漏れを防ぐため栓(のみ)を差し込みました。また渡しの向かい側には、夕方より江戸遠江守、同じく下野守が混物具(ひたもののぐ::一同そろって甲冑に身を固めること)の三百余騎を木の陰や岩の下に隠して、

逃げ出す者がいれば討ち取ろうと用意しました。後方には竹沢右京亮が屈強の射手、百五十騎を選び出し、引き返そうとする者がいれば、遠矢で射殺そうと用意しました。「大勢で街道を通行されると、人に見とがめられることもあるかと思われます」と言って、兵衛佐の家来ら全員を前もって鎌倉へひそかに向かわせました。

世良田右馬助、井弾正忠、大島周防守、土肥三郎左衛門、市川五郎、由良兵庫助、同じく新左衛門尉、南瀬口六郎ら僅かに十三人を率い、その上、他の人が同乗することなく、栓を細工した舟に乗り込んで、矢口の渡しに漕ぎ出しました。この川が三途の大河になるとは、思いもよらずにいることも可哀そうな話です。

この状況をよくよく考えて例えれば、仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)にある説話、象(虎ではない)に追われ煩悩の大河を渡って逃れようとすると、三毒(貪::むさぶる心・瞋::怒る心・痴::愚かな事)を持った大蛇が浮き出て来て呑み込もうと舌を延ばすので、それから逃げようとして突き出ている草の根に命がけで取りついたものの、

黒と白二匹の鼠がそれをかじりだした話のように、逃げ場のない命のはかなさが今現実にあるのです。この矢口の渡しと言うのは、川幅四町(約380m)以上あり、波は激しく底は深いのです。渡し舟の船頭が櫓を操ってすでに河の半ばを過ぎる頃、取り外すように櫓や櫂を河に落とし入れ、

船底の二つの栓を同時に引き抜くと、二人の船乗りは同時に河に飛び込み逃げ去りました(かはかは・うぶに入て::不明)。向かいの岸から兵士ら四、五百騎が駆け出て来て鬨の声をあげると、その後から鬨を合わせて、「馬鹿者ばかりだ。だまし打ちに気づかなかったのか、あれを見よ」と馬鹿にして、箙(えびら::矢を格納する武具)を叩いて笑いました。


去程に水船に涌入て腰中許に成ける時、井弾正、兵衛佐殿を抱奉て、中に差揚たれば、佐殿、「安からぬ者哉。日本一の不道人共に忻られつる事よ。七生まで汝等が為に恨を可報者を。」と大に忿て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回々々、二刀まで切給ふ。井弾正腸を引切て河中へかはと投入れ、己が喉笛二所さし切て、自らかうづかを掴み、己が頚を後ろへ折り付る音、二町許ぞ聞へける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人刀を柄口まで突違て、引組で河へ飛入る。由良兵庫助・同新左衛門は舟の艫舳に立あがり、刀を逆手に取直して、互に己が頚を掻落す。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎三人は、各袴の腰引ちぎりて裸に成、太刀を口えくわへて、河中に飛入けるが、水の底を潜て向の岸へかけあがり、敵三百騎の中へ走入り、半時計切合けるが、敵五人打取り十三人に手負せて、同枕に討れにけり。其後水練を入て、兵衛左殿並に自害討死の頚十三求出し、酒に浸して、江戸遠江守・同下野守・竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿の御坐武蔵の入間河の陣へ馳参。畠山入道不斜悦て、小俣少輔次郎・松田・河村を呼出して此を被見に、「無子細兵衛佐殿にて御坐し候けり。」とて、此三四年が先に、数日相馴奉し事共申出て皆泪をぞ流しける。見る人悦の中に哀添て、共に袖をぞぬらしける。此義興と申は、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後守義顕が討れし後も、親父猶是を嫡子には不立、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は有にも非ず、孤にて上野国に居たりしを、奥州の国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ責上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共、此義興を大将に取立て、三万余騎にて奥州の国司に力を合せ、鎌倉を責落して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠に武勇の器用たり。尤義貞が家をも可興者也。」とて、童名徳寿丸と申しを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召れける。器量人に勝れ謀巧に心飽まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当る事、古今未聞処多し。其後身を側め、只二三人武蔵・上野の間に隠れ行給ひし時、宇都宮の清党が、三百余騎にて取篭たりしも不討得。其振舞恰も天を翔地を潜る術ありと、怪き程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将も、安き心地をばせざりつるに、運命窮りて短才庸愚の者共に忻られ、水に溺れて討れ給ふ。懸りし程に江戸・竹沢が忠功抜群也とて、則数箇所の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉。」と是を羨む人もあり、又、「涜き男の振舞哉。」と爪弾をする人もあり。竹沢をば猶も謀反与同の者共を委細に尋らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人には暇たびて恩賞の地へぞ下されける。

やがて水が舟に湧き入り、腰の半ばあたりまでなった時、井弾正忠と兵衛佐殿を抱き上げ空中に差し上げると、佐殿は、「安心してはならない奴だったのか。日本一の不道徳者どもにだまされたものだ。この世に七度生まれ変わっても、汝らにこの恨みを晴らそうぞ」と激怒して、腰の刀を抜き、

左の脇腹から右のあばら骨までかき回し、かき回し、二度にわたって切られました。井弾正は腸を引き切り河に投げ入れ、自分の喉笛を二か所刺し切ると、自分の髻の先をつかんで、自分の首を後ろに折ると、その音は二町(約190m)ほど遠くまで聞こえました。世良田右馬助と大島周防守の二人は、

互いに刀を柄の根元まで刺し違え、抱き合うように河に飛び込みました。由良兵庫助と同じく新左衛門は舟の船首と船尾に仁王立ちになると、刀を逆手に持ち直して、お互いが自分の首を掻き落としました。土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の三人は皆、袴の腰部分を引きちぎって裸になり、

太刀を口にくわえて河に飛び込むと、河の底を潜って向かい岸に駆けあがり、敵の三百騎の中に走り込み、半時(約一時間)ばかり切り合いをして、敵の五人を討ち取り、十三人に負傷を負わせて全員が枕を並べて討たれました。一連の騒動の後、泳ぎの熟練者を川に入れて、

兵衛佐並びに自害や討ち死にをした者の首十三級を探し出すと酒に浸し、江戸遠江守、同じく下野守そして竹沢右京亮らが五百余騎を率いて、左馬頭基氏殿のおられる武蔵入間川の陣営に駆けつけました。畠山入道は上機嫌で、小俣少輔次郎、松田、河村を呼び出してこの首を見せると、

「間違いなく兵衛佐です」と申し上げ、この三、四年前、数日間親しく交際をしていたことなど話し合って、皆涙を流されました。見ていた人も喜びの中にも悲しさを覚え、共に袖を濡らされました。この新田義興と言う人間は、故新田左中将義貞の愛妾の腹に出来た子供なので、

兄の越後守義顕が金ヶ崎の戦いで自害してからも、親父はなおも嫡子に立てることなく、三男の武蔵守善宗が六歳の時から昇殿を許され、皆からもてはやされていたため、義興は居ても居なくてもよいような立場で、一人で上野国にいました。ところがその頃、奥州の国司だった北畠顕家卿が陸奥国から鎌倉に攻め上る時、

未だ義貞に心を寄せている武蔵、上野の兵士らが、この義興を大将に取り立て三万余騎で奥州の国司に加勢して、鎌倉を攻め落とし吉野朝廷に参内すると、先帝後醍醐は大変感じ入り、「まことに武勇の才能が豊かである。当然義貞の家を再興するのはこの男である」と仰せられ、

幼名徳寿丸であったのを先帝の御前にて元服させられ、新田左兵衛佐義興と名づけられました。世間の評価は人より優れ、謀略に関しても巧妙であり、すべてに関して判断も早いので、正平七年(文和元年::1352年)の武蔵野の合戦、鎌倉の戦闘において大敵を撃破したり、大軍に立ち向かって行ったことなど、

かつて例の見ないことも多かったのです。その後は表に出ることもなかったのですが、ただ二、三人で武蔵、上野周辺に隠れて向かおうとした時、宇都宮の清党(宇都宮氏所属の武士団の一つ)の三百余騎に取り囲まれましたが、討ち取られることはありませんでした。その行動はまるで天を駆け巡ったり、

地に潜り隠れる術を心得ているようで、信じられない程の勇者と思われていたので、鎌倉の左馬頭基氏殿も、京都の宰相中将義詮殿も安心できない状況でしたが、ここに運命は尽き果てたのか、大した才能も持ち合わさない愚かな者どもの騙し討ちに会い、水におぼれた挙句討たれたのでした。

このような結果となったので、江戸や竹沢の忠義ある行動は抜群の手柄だと、直ちに数ヶ所の恩賞を賜ったのです。「これこそ弓矢取る者にとって最大の名誉である」とこれをうらやむ人がいれば、また「欲深い卑劣な男がする行為だ」と爪弾きして、非難する人もいました。

竹沢はこの後も謀反に加担した者らを徹底的に取り調べるようにと、武蔵入間川の陣営に留め置かれ、江戸ら二人は暇を出されて恩賞の土地に下されました。


江戸遠江守喜悦の眉を開て、則拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日の暮程に、矢口の渡に下居て渡の舟を待居たるに、兵衛佐殿を渡し奉し時、江戸が語らひを得て、のみを抜て舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴を用意して、迎の舟をぞ漕出しける。此舟已に河中を過ける時、俄に天掻曇りて、雷鳴水嵐烈く吹漲りて、白波舟を漂はす、渡守周章騒で、漕戻んと櫓を押て舟を直しけるが、逆巻浪に打返されて、水手梶取一人も不残、皆水底に沈みけり。天の忿非直事是は如何様義興の怨霊也と、江戸遠江守懼をのゝきて、河端より引返、余の処をこそ渡さめとて、此より二十余町ある上の瀬へ馬を早めて打ける程に、電行前に閃て、雷大に鳴霆めく、在家は遠し日は暮ぬ。只今雷神に蹴殺されぬと思ひければ、「御助候へ兵衛佐。」と、手を合せ虚空を拝して逃たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲一村江戸が頭の上に落さがりて、雷電耳の辺に鳴閃めきける間、余りの怖さに後ろを屹と顧たれば、新田左兵衛佐義興、火威の鎧に竜頭の五枚甲の緒を縮て、白栗毛なる馬の、額に角の生たるに乗、あひの鞭をしとゝ打て、江戸を弓手の物になし、鐙の鼻に落さがりて、わたり七寸許なる雁俣を以て、かひがねより乳の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思て、江戸馬より倒に落たりけるが、やがて血を吐き悶絶僻地しけるを、輿に乗て江戸が門へ舁著たれば、七日が間足手をあがき、水に溺たる真似をして、「あら難堪や、是助けよ。」と、叫び死に死にけり。有為無常の世の習、明日を知ぬ命の中に、僅の欲に耽り情なき事共を巧み出し振舞し事、月を阻ず因果歴然乍に身に著ぬる事、是又未来永劫の業障也。其家に生れて箕裘を継弓箭を取は、世俗の法なれば力なし。努々人は加様の思の外なる事を好み翔ふ事有べからず。又其翌の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打て時を作る声しける間、何者の寄来るやらんと怪くて、音する方を遥に見遣たるに、新田左兵衛佐義興、長二丈許なる鬼に成て、牛頭・馬頭・阿放・羅刹共十余人前後に随へ、火車を引て左馬頭殿のをはする陣中へ入と覚へて、胸打騒て夢覚ぬ。禅門夙に起て、「斯る不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言ばの未終ざるに、俄に雷火落懸り、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼と成にけり。是のみならず義興討れし矢口の渡に、夜々光物出来て往来の人を悩しける間、近隣の野人村老集て、義興の亡霊を一社の神に崇めつゝ、新田大明神とて、常盤堅盤の祭礼、今に不絶とぞ承る。不思議なりし事共なり。

江戸遠江守は喜びに包まれてすぐに拝領した領地に下って行きましたが、正平十三年(延文三年::1358年)十月二十三日の暮れ頃、矢口の渡しに到着し渡しの舟を待っていましたが、兵衛佐殿を渡す時に、江戸遠江守から相談を受けて舟の栓を細工してその舟を沈めた船頭が、

江戸が恩賞を賜って下って行こうとしていることを聞き、色々と酒肴を用意し迎えの舟を漕ぎ出しました。この舟がすでに川の半ばを過ぎようとした時、にわかに天がかき曇り雷鳴がとどろき、激しい風が水をまき上げて吹き荒れ、白波は舟の航行の自由を奪ったので船頭は慌てふためき、

漕ぎ戻ろうと櫓を操り舟を直そうとしましたが、逆巻く波にひっくり返され、船頭も水夫も一人残らず水底に沈みました。天の怒りは尋常なものとは思えず、これは間違いなく義興の怨霊がなせる業だと、江戸遠江守は恐怖におののいて、川岸から引き返し他の場所を渡ろうと、

ここから二十余町(約1900m)上流の瀬に向かって馬を急がていると、稲光が眼前にひらめき、雷の音は大きく鳴り響きましたが、民家は遠いし日も暮れてきました。今ここで雷神に蹴り殺されるのではと思い、「助けてくだされ、兵衛佐殿」と、両手を合わせ空中を拝んで逃げるうち、とある山の麓にある辻堂が目に入り、

あそこまで何とかと馬を急がせていると、黒い雲の一群が江戸の頭上に下り落ち、雷鳴が耳のあたりに響き渡った時、あまりの恐怖に後ろをキッと振り返れば、新田左兵衛佐義興が緋縅(ひおどし::紅で染めた紐や革で縅したもの)の鎧に竜頭の五枚兜(首を防御する板が五枚の兜)を締めて、

白栗毛(栗毛の色が薄く黄味に見えるもの)で額に角の生えた馬に乗り、鞭を激しく打つと江戸を左方向に置き、鐙にぶら下がるようにして、刃の長さ七寸ほどもある雁股(かりまた::先が二つに分かれ内側に刃のつけたもの)で、肩甲骨から乳の下へいとも簡単に射通したと思った時、江戸は馬から逆さに落ちました。

やがて血を吐き苦しみもだえ(びゃくち::地に倒れ転げ回ること)を続ているのを、輿に乗せて江戸の屋敷門へ担ぎ込むと、七日の間、手や足をじたばたさせ、水におぼれそうになった真似をして、「あゝもうだめだ、助けてくれ」と、叫び通した挙句に死んだのでした。有為無常(ういむじょう::この世の全ての現象や存在は常に移り変わり、はかないものということ)なこの世では当然ですが、

明日をも保証できない命であるのに、僅かな欲におぼれて、人としての情を過つような事を考え出した挙句行動に移したため、一ヶ月も過ぎることなく悪事の報いはすぐ我が身に降りかかったことは、これもまた何時の時代になっても、悪業を行えば必ずその報いを受けると言うことでしょう。

その家に生まれた以上、父祖の業を継いで弓箭を取る身になるのは、世俗では当然のことですから仕方がありません。人は決してこのようにとんでもないことを望んだり、行動に移すことなどするものではありません。またその翌日の夜、畠山大夫入道殿が見た夢は、黒雲の上で太鼓を打ち鳴らし鬨を作る声がしたので、

何者が寄せて来るのかと不審に思い、音のする方向をはるかに見れば、新田左兵衛佐義興が身長二丈(約6m)ほどもある鬼になって、牛頭(ごず::頭が牛、体は人の形をした地獄の鬼)、馬頭(めず::頭が馬、体は人の形をした地獄の役人)、阿放羅刹(あぼうらせつ::地獄にいるとされる獄卒)ら十余人を前後に従えて、

亡者を乗せて地獄に運ぶという火の燃えた火車(かしゃ)を引いて、左馬頭基氏殿のおられる陣中に入るかと思った時、胸騒ぎがして夢から覚めました。禅門は朝早く起きて、「このような不思議な夢を見たのだ」と話される言葉も、まだ終わらないうちに、突然落雷があり、入間川の民家三百余棟、

堂舎仏閣十ヶ所など一時に灰塵となったのでした。これだけでなく、義興が討たれた矢口の渡しに夜毎何か光る物体が現れ、往来を行く人を苦しめるので、近隣の農民や長老らが集まり、社殿を建造し義興の亡霊を神として祭り上げ、新田大明神(大田区の新田神社)と名づけ、常盤堅盤(ときわかきわ::常緑の松と固い岩、すなわち永遠に変わらないこと)の祭礼は、今なお絶えることもないと聞いています。まことに不思議な事ばかりです。      (終り)

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