34 太平記 巻第三十四 (その一)


○宰相中将殿賜将軍宣旨事
鎌倉贈左大臣尊氏公薨じ給し刻、世の危事、深淵に臨で薄氷を蹈が如にして、天下今に反覆しぬと見へける処に、是ぞ誠に武家の棟梁共成ぬべき器用と見へし新田兵衛佐義興は、武蔵国にて討れぬ。去年まで筑紫九国を打順へたりし菊池肥後守武光も、小弐・大伴が翻て敵に成し後は勢ひ少く成ぬと聞へしかば、宮方の人々は月を望むには暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲あつて、意に叶はぬ世のうさを歎ければ、将軍方の武士共は、樹を移て春の花を看が如く、危き中にも待事多して、今は何事か可有と悦ばぬ人も無りけり。去程に延分三年十二月十八日、宰相中将義詮朝臣、二十九歳にて征夷将軍に成給ふ。日野左中弁時光を勅使にて宣旨を下されければ、佐々木太郎判官秀詮を以て宣旨を請取奉る。天下の武功に於ては申に不及といへども、相続して二代忽に将軍の位に備り給ふ、目出かりし世の様し也。抑此比将軍家に於て、我に増たる忠の者あらじと擘を振ふ輩多き中に、秀詮宣旨を請取奉る面目身に余る。其故を聞ば、祖父佐渡判官入道々誉、去元弘の始、相摸入道が振舞悪逆無道にして武運已に傾べき時至ぬとや見たりけん。平家を討て代を知給へと頻に将軍を進め申せしが、果して六波羅、尊氏卿の為に亡びにき。然共四海尚乱て二十余年、其間に名を高くせし武士共、宮方に参らば又将軍方に降り、高倉禅門に属するかと見れば右兵衛佐直冬に与力し、見を一偏に決せず、道誉将軍方にして、親類太略討死す。中にも秀詮が父、源三判官秀綱、去る文和二年六月に山名伊豆守が謀叛に依て、主上帝都を去せ御座して、越路の雲に迷せ給ふ。爰に新田掃部助、山名が謀叛に節を得て、堅田浦にて君を襲奉し時、秀綱返し合せ命を軽ず。其間に主上延させ御座す事、偏に秀綱が武功に依て也。其忠他に異也とて、秀詮を撰出されけるとぞ。是は建久の古、鎌倉右兵衛佐頼朝々臣、武将に備り給し時鶴岡の八幡宮にて、三浦荒二郎宣旨を請取奉りし例とぞ見へし。

☆ 宰相中将義詮殿が将軍の宣旨を賜ったこと

鎌倉贈左大臣尊氏公がお亡くなりになられた時は、世の中まだまだ安定を欠き、深い淵を前にして薄氷を踏むようなもので、天下は今すぐにでもひっくり返るのではと思えましたが、この人をおいて他は考えられないほど、武家の棟梁にふさわしい能力を持っていると思われた新田左兵衛佐義興は、

武蔵国にて討たれました。昨年まで筑紫の九国を従えていた菊池肥後守武光も、少弐頼尚、大伴氏時が態度を変えて敵になってから後は、その勢いも落ちてしまったと言われているので、宮方の人々は月を眺めようとしても夜明けの雲に遮られるようで、期待する天空も思いにならぬ悲しさや、

自分らの考え通りにならない世の中の憂さを嘆きましたが、反対に将軍方の武士らは樹木を移植してでも春の花を見るように、不安定な世の中であっても期待することも多く、今に何か良いことがあるのではと、喜ばない人はいませんでした。さて延文三年(正平十三年::1358年)十二月十八日、

宰相中将義詮朝臣は二十九歳にして征夷将軍になられました。日野左中弁時光を勅使として宣旨が下されると、佐々木太郎判官秀詮が宣旨を受け取られました。この人事も天下の武功軍功においては当然とも言えますが、すぐに跡目を継いで二代にわたって将軍の位に就かれました。

めでたい世である証明みたいなものです。そもそもこの当時、将軍家において、自分をしのぐほど忠功のある者はいないと、擘(ただむき::肘から手首まで)を振り回して主張する連中が多い中で、秀詮は宣旨を受け取る役を得たこと、これ以上自分にとって名誉なことはありません。

その選ばれた理由と言うのも、祖父である佐渡判官入道道誉は去る元弘の乱(元弘元年::1331年)の当初、相模入道北条高時は度の過ぎた悪行が多く、武運もすでに傾き出し、時は熟したと判断しました。そこで平家である北条家を征伐して、天下を統治されてはとしきりに将軍(足利尊氏)にお勧めしていましたがその結果、

六波羅は尊氏卿のために滅ぼされました。しかしながら国内はなおも乱れに乱れ、二十余年の間に名を上げた武士らは、宮方に属するかと思えば将軍方に降伏を申し出、高倉禅門(足利直義::尊氏の弟)に従うかと思えば、右兵衛佐直冬(足利直冬::尊氏の子)に味方したり、態度を一方に決めることしない中で、

道誉は将軍方として通しますが、その親類の大半は討ち死にしました。その中でも秀詮の父、源三判官秀綱(佐々木道誉の長男)は去る文和二年(正平八年::1353年)六月、山名伊豆守時氏が謀反を企てたことによって、後光厳天皇は難を逃れるため都を去られ、越後の空に迷われました。

この逃避行の途中、新田掃部助が山名の謀反を利用して、堅田浦において天皇の一行に襲いかかった時、秀綱は引き返して戦い討ち死にしました。その間に天皇が落ち延びることが出来たのは、全て秀綱の武功によるものです。この忠義ある行いは他に例がないと、この大役に秀詮が選ばれたということです。

これはまた、建久(1190-1198年)の昔、鎌倉の右兵衛佐頼朝朝臣が征夷大将軍になられた時、鶴岡八幡宮において三浦荒二郎(三浦義澄::石橋山の戦いの後、衣笠城合戦で父の義明を討ち死にさせることになる)が宣旨を受け取られた例によるものと思われます。


○畠山道誓上洛事
思の外に世の中閑なるに付ても、両雄は必争ふと云習なれば、鎌倉の左馬頭殿と宰相中将殿との御中、何様不和なる事出来ぬと、人皆危み思へり。是を聞て畠山大夫入道々誓、左馬頭殿に向て申されけるは、「故左大臣殿の御薨逝の後天下の人皆連枝の御中に、始終如何様御不快の御事候ぬと、怪み思て候なる。昔漢高祖崩御成て後、呂氏と劉氏と互に心を置合て、世中又乱れんとしけるを、高祖の旧臣、周勃・樊会等、兵を集め勢を合せて、世を治めたりとこそ承及候へ。道誓誠に不肖の身にて候へ共、且く大将の号を可有御免にて候はゞ、東国の勢を引卒して、京都へ罷上て南方へ発向し、和田・楠を責落し天下を一時に定て、宰相中将殿の御疑をも散じ候はゞや。」と被申ければ、左馬頭、「此儀誠に可然。早く東八箇国の勢を催て、南方の敵陣へ可発向。」とぞ宣ひける。畠山入道は、元来上に公儀を借て、下に私の権威を貪んと思へる心ありければ、先大名共の許に行向ひ、未非功忠賞の厚からん事を約し、未親ざるに交りの久からん事を語ひ、一日も己を剋め礼に復する時は天下の人民帰仁習なれば、東八箇国の大名小名一人も不残、皆催促にぞ順ひける。此上は暫も不可有猶予とて、延文四年十月八日、畠山入道々誓、武蔵の入間河を立て上洛するに、相順ふ人々には、先舎弟畠山尾張守・其弟式部太輔、外様には、武田刑部太輔・舎弟信濃守・逸見美濃入道・舎弟刑部少輔・同掃部助・武田左京亮・佐竹刑部太輔・河越弾正少弼・戸島因幡入道・土屋修理亮・白塩入道・土屋備前入道・長井治部少輔入道・結城入道・難波掃部助・小田讃岐守・小山一族十三人・宇都宮芳賀兵衛入道禅可・子息伊賀守・高根沢備中守・同一族十一人、是等を宗徒の大名として、坂東の八平氏・武蔵の七党・紀清両党、伊豆・駿河・三河・遠江の勢馳加て、都合二十万七千余騎と聞へしかば、前後七十余里に支て櫛の歯を引が如し。路次に二十日余の逗留有て、京著は十一月二十八日の午刻と聞へしかば、摂政関白・月卿雲客を始として、公家武家の貴賎上下、四宮河原より粟田口まで、桟敷を打続け、車を立双べて、見物の衆二行に群をなす。げにも聞しに不違。天下久く武家の一統と成て、富貴に誇る武士共が、爰を晴と出立たれば、馬・物具・衣裳・太刀・刀・金銀をのべ綾羅を不飾云事なし。中にも河越弾正少弼は、余りに風情を好で、引馬三十疋、白鞍置て引せけるが、濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々に馬の毛を染て、皆舎人八人に引せたり。其外の大名共一勢一勢引分て、或は同毛の鎧著て、五百騎千騎打もあり、或は四尺五尺の白太刀に、虎皮の尻鞘引篭め、一様に二振帯副て、百騎二百騎打もあり。只孟嘗君が三千の客悉珠履をはいて春信君が富を欺しも、角やと覚へて目も盻也。

☆ 畠山道誓が上洛したこと

世の中は意外にも平穏な時が過ぎて行きますが、両雄は必ず争うことになると言われていますので、鎌倉の左馬頭基氏殿と都におられる宰相中将義詮殿の仲も、いつ何時不和の原因が起こるのではと、人々は恐れていました。このことを聞き畠山大夫入道道誓(国清)は左馬頭殿に向かい、

「故左大臣尊氏殿の御逝去の後、天下の人々や一族の間で、今に何か問題が起こるのではないかと、いつも不安に感じております。昔、漢国の高祖が崩御されてから、呂氏と劉氏がお互い心を合わせ、世の中が不安定になりそうなのを、高祖の旧臣、周勃、樊かい(口偏に會)らが兵士を招集し、

軍勢を揃えて世の中を治めたと聞いております。この道誓まことに未熟な身ではありますが、しばらくの間だけでも、大将の地位をお許しいただければ、東国の軍勢を引率して京都に参り、南方吉野に向かって進攻し、和田や楠木を攻め落とし天下を瞬時に安定させ、宰相中将殿のお疑いを晴らしましょう」と申し上げると、

左馬頭殿は、「この提案はまことに当を得ている。すぐ東八ヶ国の軍勢を招集し、南方の敵陣へ発向するように」と、仰せられました。畠山入道はもともとは幕府での立場を利用して、下に対してその権威を振り回そうと考えているので、早速大名らのもとに向かい、まだ何の忠功もないのに恩賞の大きなことを約束し、

今まで交際の無い人に対しても、今後とも親しくしたいと話しかけ、一日でも自己にうち勝って礼全般に服すれば、天下の人民はその仁徳に服従するものなので(出典は論語)、東八ヶ国の大名、小名らは一人残らず全員が彼の催促に従いました。こうなれば一刻も猶予すべきでないと、

延文四年(正平十四年::1359年)十月八日、畠山入道道誓は武蔵国の入間川を出発し上洛しました。その時従った人々は、まず舎弟の畠山尾張守、その弟式部大輔、外様としては武田刑部太輔、その舎弟信濃守、逸見(へんみ)美濃入道、舎弟の刑部少輔、同じく掃部助、武田左京亮、

佐竹刑部太輔、河越弾正少弼、戸島(とじま)因幡入道、土屋修理亮、白塩(しらしお)入道、土屋備前入道、長井治部少輔入道、結城入道、難波掃部助、小田讃岐守、小山一族の十三人、宇都宮芳賀兵衛入道禅可、その子息伊賀守、高根沢備中守、その一族十一人、この人らを主力の大名として

坂東の八平氏(平安時代中期に坂東に下向し武家となった諸氏)、武蔵の七党(平安時代以後武蔵国を中心に勢力を伸ばした同族的武士団)、紀清両党(宇都宮氏家中の精鋭武士団)など、伊豆、駿河、三河、遠江などの軍勢が駆けつけ、総勢二十万七千余騎だと言われ、その軍列は前後七十余里にわたり、

絶え間もない有様です。途中二十日余りの宿泊を重ね、京都の到着は十一月二十八日の午刻(午後零時頃)と聞いたので、摂政関白、月卿雲客(公卿や殿上人)をはじめとして、公家や武家の人達は身分に関係なく、四宮河原(山科区)から粟田口(東山区)まで桟敷を組み並べ、車を並べ立て、

見物の人たちは二列になって群れをなしています。確かに耳にしていた通りです。天下は長らく武家の支配下にあるので、富と名誉をほしいままにする武士らは、この場を晴れの舞台と思って出てきていますから、馬、甲冑、衣裳、太刀、刀など金銀を貼り付け、美しい布で飾っています。

その中でも河越弾正少弼は大変趣向を凝らし、引き馬三十頭に白鞍(しろくら::鞍の表面を銀で飾ったもの)を置いて引かせていますが、濃紫、薄紅、萌黄(もえぎ::黄と青の中間色)、水色、豹文(豹の毛皮の模様)など色々に馬の毛を染めて、すべて舎人(とねり::馬を引く担当の家来)八人に引かせています。

その外の大名らの行列も間隔をおいて、ある大名は同じ色で威した鎧を着けて、五百騎千騎と進むものもあり、またある大名は四尺五寸の白太刀(しろだち::柄や鞘などの金具を銀製にした太刀)を、鞘にかぶせる虎革の袋で覆い、皆が皆二振りの太刀を差して、百騎二百騎が進んで行きます。

この様子は、孟嘗君(もうしょうくん::中国、戦国時代の王族)が三千人の食客全員に、玉で飾った立派な履物を履かせて、春申君(しゅんしんくん::中国、戦国時代、楚国の政治家)の資産と張り合ったのも、このような感じではなかったかと思われ、驚きに目を見張るばかりです。


○和田楠軍評定事付諸卿分散事
此比吉野の新帝は、河内天野と云処を皇居にて御座有ければ、楠左馬頭正儀・和田和泉守正武二人、天野殿に参じて奏聞しけるは、「畠山入道々誓東八箇国の勢を卒して二十万騎、已に京都に著て候なる。山陽道は播磨を限り、山陰道は丹波を堺ひ、東海・東山・南海・北陸道の兵、数を尽して上洛仕り候なれば、敵の勢は定て雲霞の如くにぞ候覧。但於合戦は、決定御方の勝とこそ料簡仕て候へ。其故は、軍に三の謀候べし。所謂天の時・地の利・人の和にて候。此内一も違ふ時は、勢ありと云共、勝事を不得とこそ見へて候へ。先づ天の時に付て勘候へば、明年よりは大将軍西に在て東よりは三年塞たり。畠山冬至以後、東国を立て罷上て候。是已に天の時に違れ候はずや。次に地の利に付て案じ候に、御方の陣、後は深山に連て敵案内を不知、前に大河流て僅なる橋一を路とせり。さ候へば、元弘の千盤屋の軍は中々不及申に。其後建武の乱より以来、細河帯刀・同陸奥守顕氏・山名伊豆守時氏・高武蔵守師直・同越後守師泰、今の畠山入道々誓に至るまで、已に六箇度此処へ寄て、猛勢を振ひ戦を挑しに、敵の軍遂に不利。或は尸を河南の路に曝し或は名を敗北の陣に失ひ候き。是当山形勝の地、要害の便を得たる故にて候。次には人の和に付て思案を廻し候に、今度畠山が上洛は、只勢を公義に借て忠賞を私に貪んと志にて候なる。仁木・細川の一族共も彼が権威を猜み、土岐・佐々木が一類も其忠賞を嫉まぬ事や候べき。是又人の心の和せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍ら違ひ候はゞ、縦敵百万の勢を合せて候共、恐に足ぬ所にて候。但、今の皇居は余りにあさまなる処にて候へば、金剛山の奥、観心寺と申候処へ、御座を移し進せ候て、正儀・正武等は和泉・河内の勢を相伴ひ、千葉屋・金剛山に引篭り、竜山・石川の辺に懸出々々、日々夜々に相戦ひ、湯浅・山本・恩地・贄河・野上・山本の兵共は、紀伊国守護代、塩冶中務に付て、竜門山・最初峰に陣を張せ、紀伊川禿辺に野伏を出して、開合せ攻合せ、息をも継せず令戦、極めて短気なる坂東勢共などか退屈せで候べき。退屈して引返す者ならば、勝に乗て追懸け、敵を千里の外に追散し、御運を一時に可開。是庶幾する処の合戦也。」と、事もなげにぞ申ける。主上を始進せて近侍の月卿雲客に至るまで、皆憑もしき事にぞ思食ける。さらば軈て観心寺へ皇居を移し進らすべしとて臨幸なるに、無用ならん人々を、そゞろに召具させ給べからずと申ける間、げにもとて伝奏の上卿両三人・奉行の職事一両輩・護持僧二人・衛府官四五人許を召具せられ、此外は何地へも暫く落忍て、御敵退散の時を可待と被仰出ければ、摂政関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・七弁・八史・五位・六位・後宮の美婦人・青上達部・内侍・更衣・上臈女房・出世・房官に至るまで、或は高野・粉川・天河・吉野・十津河の方に落行て、浅猿げなる山賎共に、憂身を寄る人もあり、或は志賀の古郷・奈良の都・京白河に立帰り、敵陣の中に紛れ居て、魂を消す人もあり。諸苦所因貪欲為本と、如来の金言、今更に思知こそ哀れなれ。

☆ 和田と楠木が作戦会議を行ったことと、諸卿らが離れ離れになったこと

この当時吉野朝廷の新帝、後村上天皇は河内の天野と言うところを皇居にしておられましたが、楠木左馬頭正儀と和田和泉守正武の二人が天野の皇居に参内し、「畠山入道道誓が東八ヶ国の軍勢を率いてその数、二十万騎がすでに京都に到着しています。山陽道は播磨を西端に、

山陰道は丹波を限界にして、東海、東山、南海、北陸道の兵士らが、最大限の招集を行い上洛しているので、敵の軍勢たるやきっと雲霞のごとくと思われます。ただし、合戦ともなれば間違いなく味方の勝利だとお考えください。その訳は、合戦には三つの要素が不可欠だと言われています。

いわゆる天の時、地の利、人の和でございます。このうち一つでも欠ければ、軍勢がいかに多いと言えども、勝つことは出来ないと思われます。まず天の時について考えれば、来年から陰陽道に言う大将軍(金星の精)は西にあるため、三年間は東から西に向かっての行動は万事うまくいきません。

畠山入道は冬至以降に東国を出発し、上洛してきました。このことはすでに天の時を失っています。次に地の利について考えれば、味方の陣構えは後方は深山が連なっており、敵は地理について知識はありませんし、前方は大河が流れており、粗末な橋一本だけが通路として使用できるだけです。

このため、元弘の千早城の合戦(元弘二年・正慶元年::1332年)は言うまでもありませんし、その後建武の乱(延元の乱・尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した挙兵)このかた、細川帯刀、同じく陸奥守顕氏、山名伊豆守時氏、高武蔵守師直、同じく越後守師泰そして現在の畠山入道道誓に至るまで、

敵はすでに六度にわたってここへ攻め寄せて来て、優勢なる軍勢で戦いを挑んできたものの、敵軍は有利な戦いが出来ませんでした。ある者は屍を河内の南にさらし、またある者はその名を敗北した陣営とともに失いました。これらのことは、この山が敵を防ぐのに適した土地であり、

要害としての必要条件を満たしているからです。次に人の和について考えてみますと、この度の畠山の上洛は、ただ単に職務として軍勢を率いてその実、自分が恩賞を得ようと考えているだけです。仁木や細川の一族たちも、彼の権威をねたんでいますし、土岐や佐々木の一族も、

彼の得る恩賞をねたまないとは考えられません。このことも人の心に和が生まれない原因となっているのに違いありません。天地人と言う重要事項が三つとも欠けていれば、たとえ敵が百万の軍勢であっても、恐れるに足りません。とは言えども、現在の皇居はあまりにも粗末で無防備ですので、

金剛山の奥地にある、観心寺と言うところに御座をお遷しなされ、正儀、正武らは和泉、河内の軍勢を従えて、千早、金剛山に引き篭もり、竜山や石川周辺へ頻繁に攻撃をかけて日々夜毎に戦闘を続け、また湯浅、山本、恩地、贄河(にえかわ)、野上、山本の兵士らは紀伊国守護代、

塩冶(えんや)中務に属して竜門山、最初峯(二つの山ともに、紀の川市、紀の川南方)に陣を構え、紀伊川の禿(学文路か?)辺に野伏を配置し、攻撃を加えたり緩めたりしながら、息をも継がせずに戦いを続けると、きわめて気の短い坂東の武者どもは、疲れ果て嫌気がささないとはとても思えません。

いやになって引き返すようであれば、勝ちに乗じて追いかけ敵を千里の先まで追い散らして、帝の御運をゆるぎなきものといたしましょう。これこそ願う所の合戦でしょう」と、何の不安も感じさせずに話されました。後村上天皇をはじめに、そばの公卿、殿上人にいたるまで皆が皆、

頼もしく思われました。それではと、すぐ観心寺へ皇居を移すことになりましたが、天皇の臨幸に際して不必要な人々を、理由もなくお連れすることはならないと話され、それも当然だと伝奏(天皇への取り次ぎ役)の上卿二、三人、奉行の職事(実務の執行役)一、二人、護持僧(祈祷僧)二人、

衛府官(臨幸の警備役)四、五人だけをお連れされ、この人達以外の人々については、しばらくどこかに落ちて身をひそめ、敵が退散するまで待つようにと仰せられたので、摂政関白、太政大臣、左右の大将、大中納言、七弁(太政官の七人の文書事務や諸国との連絡役)、八史(太政官での文書起草などの役人八人)、五位、

六位、後宮の美婦人、青上達部(若い高級官僚)、内侍(ないし::女官)、更衣(こうい::後宮の女官)、上臈女房(身分の高い女官)、出世(僧侶)、房官(在俗の僧)に至るまで、ある人は高野、粉河、天川、吉野、十津川などに落ちて行き、貧しい林業従事者らに身を寄せたり、あるいは志賀のふるさとや、

奈良の都、京都の白河などに帰り、敵陣の中に紛れ込み、ひっそりと寂しく過ごす人もいました。諸苦所因貪欲為本(妙法蓮華経譬諭品第三より・あらゆる欲望をむさぼることが、すべての苦しみの原因である)と釈迦如来の仰られた金言も、今更思い知らされることになったのも、可哀そうな話です。


○新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
去程に足利新征夷大将軍義詮朝臣、延文四年十二月二十三日都を立て、南方の大手へ向給ふ。相順ふ人々には、先一族細川相摸守清氏・舎弟左近大夫将監・同兵部太輔・同掃部助・同兵部少輔・尾張左衛門佐・仁木右京大夫・舎弟弾正少弼・同右馬助・一色左京大夫・今河上総介・子息左馬助・舎弟伊予守、他家には、土岐大膳大夫入道善忠・舎弟美濃入道・同出羽入道・同宮内少輔・同小宇津美濃守・同高山伊賀守・同小里兵庫助・同猿子右京亮・厚東駿河守・同蜂屋近江守・同左馬助義行・同今峰駿河守・同舟木兵庫助・同明智下野入道・同戸山遠江守・同修理亮頼行・同出羽守頼世・同刑部少輔頼近・同飛弾伊豆入道・佐々木判官信詮・佐佐木六角判官入道崇永・舎弟山内判官・河野一族・赤松筑前入道世貞・舎弟帥律師則祐・甥大夫判官光範・舎弟信濃五郎直頼・同彦五郎範実・諏防信濃守・禰津小次郎・長尾弾正左衛門・浅倉弾正、此等を始として、都合其勢七万余騎、大島・渡辺・尼崎・鳴尾・西宮に居余て、堂宮までも充満たり。畠山大夫入道々誓は搦手の大将として、東八箇国の勢二十万騎引卒して、翌日の辰刻に都を立て、八幡の山下・真木・葛葉に陣を取。是は大手の勢渡辺の橋を懸ん時、敵若川に支て戦ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭んと也。大手の寄手赤松判官光範は、摂津国の守護にて、敵陣半ば我領知を篭たれば、人より先に渡辺の辺に、五百余騎にて打寄たり。河舟百余艘取寄て、河の面二町余に引並べ、柱をゆり立、もやいを入て、上にかぶ木を敷並べたれば、人馬打並て渡れ共曾て不危。和田・楠爰に馳向て、手痛く一合戦せんずらんと、人皆思ひて控たりけれ共、如何なる深き謀か有けん、敢て河を支ん共せざりけり。去間大手・搦手三十万騎、同日に河より南へ打越、天王寺・安部野・住吉の遠里小野に陣を取る。され共猶大将宰相中将殿は河を越不給、尼崎に轅門を堅してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥律師則祐は、大渡に打散て、斥候の備へを全し、仁木右京大夫義長は、三千余騎を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若戦負ば、荒手に成て入替、天下の大功を我一人の高名に称美せられんとぞ儀せられける。

☆ 新将軍義詮が南朝に向かって進発したことと、軍勢が狼藉を行ったこと

やがて足利新征夷大将軍義詮朝臣は延文四年(正平十四年::1359年)十二月二十三日都を出発し、南方吉野軍の大手に向かわれました。その軍勢には次のような人々が従いました。まず一族の細川相模守清氏、その舎弟左近大夫将監、同じく兵部太輔、同じく掃部助、同じく兵部少輔、

尾張左衛門佐、仁木右京大夫、その舎弟弾正少弼、同じく右馬助、一色左京大夫、今川上総介、その子息左馬助、その舎弟伊予守、他の家系からは土岐大膳大夫入道善忠、その舎弟美濃入道、同じく出羽入道、同じく宮内少輔、同じく小宇津美濃守、同じく高山伊賀守、

同じく小里(おさと)兵庫助、同じく猿子(ましこ)右京亮、厚東(こうとう)駿河守、同じく蜂屋近江守、同じく左馬助義行、同じく今峰(いまみね)駿河守、同じく舟木兵庫助、同じく明智下野入道、同じく戸山(とやま)遠江守、同じく修理亮頼行、同じく出羽守頼世(よりせ)、同じく刑部少輔頼近、

同じく飛騨伊豆入道、佐々木判官信詮(のぶのり)、佐々木六角判官入道崇永(そうえい)、その舎弟山内(やまのうち)判官、河野一族、赤松筑前入道世貞(せいてい)、その舎弟帥(そつの)律師則祐(そくゆう)、甥大夫判官光範(みつのり)、その舎弟信濃五郎直頼(なおより)、同じく彦五郎範実(のりざね)

諏訪(すわの)信濃守、禰津(ねつの)小次郎、長尾弾正左衛門、朝倉弾正らをはじめに、総勢七万余騎が大島、渡辺、尼崎、鳴尾、西宮に展開しきれず、堂宮あたりまで満ち溢れました。畠山大夫入道道誓は搦手の大将として、東八ヶ国の軍勢二十万騎を率いて、翌日の辰刻(午前八時頃)に都を進発し、

八幡の山下(さんげ)、真木(まき)、葛葉(くずは)に陣を構えました。これは大手の軍勢が渡辺の橋を攻略にかかった時、もし敵が川を楯に防戦すれば、左々良、生駒の道を経由して、敵を中に閉じ込めようと言うことです。大手の寄せ手軍、赤松判官光範は摂津国の守護ですから、

敵陣が自領の半ばを占めて篭っているので、人より先に渡辺周辺へ五百余騎で攻め込みました。川舟を百余艘取り寄せて、川面二町(約百九十m)余りにわたって並べ浮かせ、柱を立てて舟をつなぎ止め、上から木をかぶせるように敷き並べると、人馬が並んで渡ったところで危険は感じられません。

和田と楠木はここに馳せ向かい、敵に厳しく一撃を加えようと皆が考え待機していましたが、どんな謀略が隠されているのか分からないので、あえて川を守ろうとはしませんでした。そうこうしている内に大手、搦手の三十万騎が同じ日に川を南に渡り、天王寺、阿倍野、住吉の遠里小野(おりおの::大阪市住吉区)に陣を構えました。

しかし大将の宰相中将義詮殿は河を渡ることなく、尼崎で陣営の門を固く守っているので、赤松筑前入道世貞と同じく帥(そつの)律師則祐は大渡周辺に広く展開して、斥候(せっこう::敵の状況を探ること)としての役を完璧に行い、仁木右京大夫義長は三千余騎を一ヶ所に集め、西宮に陣を構えて、

先頭の部隊がもし負けるようなことがあれば、新手として入れ替わり、天下の大戦果を自分一人の手柄として称賛してもらおうと望んでいました。


南方の兵の軍立、始は坂東の大勢の程を聞て、「城に篭て戦はゞ、取巻れて遂に不被責落云事有べからず。只深山幽谷に走散て敵に在所を知れず、前に有かとせば後へ抜て、馬に乗かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻に懸らば難所に引懸て返合せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍に敵を疲かして、雌雄を労兵の弊に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸入ん共せず、爰に日を経、彼こに時をぞ送りける。さらば此方も陣を前に取り、城を後に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄に赤坂の城を拵て、三百余騎にて楯篭る。福塚・川辺・佐々良・当木・岩郡・橋本判官以下の兵は、平石の城を構て、五百余騎にて楯篭る。真木野・酒辺・古折・野原・宇野・崎山・佐和・秋山以下の兵は、八尾の城を取り繕て、八百余騎にて楯篭る。此外大和・河内・宇多・宇智郡の兵千余人をば、竜泉峯に屏を塗り、櫓を掻せて、見せ勢になしてぞ置たりける。去程に寄手は同二月十三日、後陣の勢三万余騎を、住吉・天王寺に入替させて、後を心安く蹈へさせ、先陣の勢二十万騎は、金剛山の乾に当りたる津々山に打上て陣を取。敵御方其あはい僅に五十余町を隔たり。互に時を待て未戦ざる処に、丹下・俣野・誉田・酒勾・水速・湯浅太郎・貴志の一族五百余騎、弓を弛し甲を脱で、降人に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵て、さればこそ敵早弱りにけり。和田・楠幾程か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只両陣互に野伏を出合せて、矢軍する事隙なし。元来敵は物馴て、御方は案内を知ねば、毎度合戦に寄手の手負、討るゝ事数を不知。角ては只和田・楠が、兼て謀る案の内に落されたる事よと云ながら、止事を不得ける。去程に始のほどこそ禁制をも用ひけれ。兵次第に疲れければ、神社仏閣に乱入て戸帳を下し神宝を奪ひ合ふ。狼籍手に余て不拘制止、師子・駒犬を打破て薪とし、仏像・経巻を売て魚鳥を買ふ。前代未聞の悪行也。先年高越後守師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻て居たりし時、無悪不造の兵共が塔の九輪を下て、鑵子に鋳たりし事こそ希代の罪業哉と聞しに、是は猶其れに百倍せり。浅猿といふも疎也。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已に是を以て亡き。前車の轍未遠。畠山今是を取て不誡、後車の危き事在近。今度の軍如何様にも墓々しからじと、私語く人も多かりけり。

南方吉野軍では軍勢の配置について、当初坂東の大軍の様子を聞いて、「城に篭って戦ったりすれば、取り囲まれてしまい、最後には攻め落とされることになるだろう。ここはただ、深山幽谷に紛れ込み、敵に所在を知られないようにして、前方にいるかと思えば後方に回り込み、

騎乗の武士かと思えば野武士になったりして、あちこちで戦闘を行い、敵が激しい攻撃を仕掛けてくれば、戦闘困難な地形に誘い込んで反撃に移り、退却しようとすればその後ろについて追いかけ、野戦に敵を疲労させ雌雄を兵士の体力勝負で決しよう」と決定はしましたが、

東国の軍勢らは予想に反してむやみに敵陣に駆け込もうとはせず、ここで日の過ぎるのを待ち、あちらで時の経過に任せました。それならば、わが軍も前方に陣営を構え、城を後方に控えて合戦をしようと、和田と楠木の二人は急遽赤坂の城をこしらえ、三百余騎にて立てこもりました。

福塚、川辺、佐々良、当木(まさき)、岩郡(いわくに)、橋本判官以下の兵士らは平石の城を構えて、五百余騎にて立て篭もりました。また真木野、酒辺(さかべ)、古折(ふるおり)、野原、宇野、崎山、佐和、秋山以下の兵士らは、八尾の城を修理して八百余騎で立て篭もりました。

その外大和、河内、宇多、宇智郡(うちのこおり)の兵士ら千余人を、竜泉峯に塀を作り櫓を掻き上げ、見せかけの軍勢として控えさせました。やがて延文五年(正平十五年::1360年)二月十三日になると寄せ手は、後詰として控えていた三万余騎の軍勢を、住吉、天王寺に新手として投入して後方の憂いをなくすと、

先陣の二十万騎の軍勢を金剛山の乾(いぬい::北西)の方向にあたる津々山(つづやま::富田林市?)に上らせ陣を構えました。敵と味方はわずか五十余町(五百m弱)を隔てているだけです。お互い戦機が熟すのを待ち、まだ戦闘も始まらないのに、丹下、俣野、誉田(こんだ)、酒匂(さかわ)

水速(みはや)、湯浅太郎、貴志の一族ら五百余騎が、弓の弦を緩め兜を脱いで降伏を申し出たので、津々山の兵士らは皆、声高に激しく非難しましたが、敵の戦意は衰えるばかりです。和田や楠木はいつまで支えられるのかと、思わない人はいませんでした。かと言ってまだ騎馬の兵らが駆け合っての勝負をすることはありませんでした。

ただ両軍とも互いに野武士を向かわせての矢戦だけ、休むことなく続けるばかりです。もともと敵は地理に通じており、味方は不案内のため毎度の合戦に、寄せ手側の負傷者や討ち死にする者は、その数も分からないほどです。このまま続ければ、最後は和田や楠木が計画した謀略にはまることになるとは言いながら、

中止することも出来ませんでした。長引く駐留に最初のうちこそ、色々と軍の統制は守られていました。しかし兵士らは次第に疲労が重なってくると、神社仏閣に乱入し、内部の仕切り布を下して神仏の宝物類を奪い合いました。このように狼藉は手に負えないありさまで、

制止することも出来ず、師子(しし::神社の社頭などに置いてある魔除け)、狛犬(こまいぬ::神社の社頭などにある獣の像)を破壊して薪にしたり、仏像や経巻を売って魚や鳥を買ったりしました。前代未聞の悪行の数々です。過去にも、高越後守師泰が石川川原に陣を構えて、楠木を攻めていた時、

無悪不造(むあくふぞう::好き勝手に悪事を働くこと)の兵士らが塔の九輪(くりん::寺の塔の頂上部にある九つの装飾輪)を下に下して、鑵子(かんす::やかん)に鋳なおしたことが、当時あってはならない罪業だと言われたのに、今回の悪行はこれに百倍するほどです。あまりにも情けなく馬鹿げた話です。

「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之」(不善をなしても賢明な者は人に討たれ、不善をなす馬鹿な者は鬼に討たれます::こんな意味で良いのかな?)と言います。師泰はこの理に基づきすでに亡くなっています。前に行った車の轍(わだち)はまだ残っています。同じ轍を行くという失敗は繰り返さないでしょう。

畠山がもしこの悪行を許すような事があれば、今後の展開が危うくなるのは必至です。今回の合戦も順調に進むとは考えられないと、ささやく人も多かったのです。


○紀州竜門山軍事
四条中納言隆俊は、紀伊国の勢三千余騎を卒して、紀伊国最初峯に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山入道々誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆・平一揆・諏防祝部・千葉の一族・杉原が一類、彼れ此れ都合三万余騎、最初が峯へ差向らる。此勢則敵陣に相対したる和佐山に打上りて三日まで不進、先己が陣を堅して後に寄んとする勢に見へて、屏塗り櫓を掻ける間、是を忻らん為に宮方の侍大将塩谷伊勢守、其兵を引具して、最初峰を引退て、竜門山にぞ篭りける。畠山が執事、遊佐勘解由左衛門是を見て、「すはや敵は引けるぞ。何くまでも追懸て、打取れ者共。」とて馳向ふ。楯をも不用意、手分の沙汰もなく、勝に乗る処は、げにもさる事なれ共、事の体余りに周章ぞ見へたりける。彼竜門山と申は、岩竜頷に重なて路羊腸を遶れり。岸は松栢深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠茂りて露に馬蹄を立かねたり。され共麓までは下り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段平なる所に馬を休めて、息を継んと弓杖にすがり太刀を逆に突処に、軽々としたる一枚楯に、靭引付たる野伏共千余人、東西の尾崎へ立渡り、如雨降散散に射る。三万余騎の兵共が、僅なる谷底へ沓の子を打たる様に引へたる中へ、差下て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。一矢に二人は射らるれ共、はづるゝは更になし。進で懸散さんとすれば、岩石前に差覆て、懸上るべき便もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶て、梯ならでは道もなし。

☆ 紀州竜門山合戦のこと

四条中納言隆俊が紀伊国の軍勢三千余騎を率いて、紀伊国最初峯(さいしょがみね)に陣を構えておられると聞き、延文五年(正平十五年::1360年)四月三日、畠山入道道誓は舎弟の尾張守義深(よしふか)を大将にして、白旗一揆、平一揆、諏訪祝部(すわのはふり)、千葉の一族、杉原の一門などかれこれ総勢三万余騎を、

最初峯に向かわせました。到着するやすぐに軍勢は敵陣に向かい合う和佐山に上り、三日間は進むことなくまず我が陣の防御を固め、その後攻勢に移る作戦らしく、塀を建て櫓を築きだしたので、これに対抗するため宮方の侍大将、塩谷伊勢守は支配下の兵士を率いて最初峯を引き払い、

竜門山に篭りました。畠山の執事、遊佐(ゆさ)勘解由左衛門はこれを見て、「なんと敵は退却を始めたぞ、どこまでも追いかけて討ち取ってしまえや、者ども」と言って、駆け向かいました。急いでいたので楯を用意することなく、兵士の手分けについての指図も行われず、勝ちに乗じる時にはままあることとは言え、

あまりにもひどい慌てぶりに見えました。この竜門山と言うのは、岩が危険を感じさせるような重なり方をして、途中の道も羊の腸のように長く続いています。切り立った崖には松柏(しょうはく::松や柏の木)が生い茂り、吹き抜ける山風は鬨の声を思わせ、地面には背の低い笹が茂り、露に濡れて馬は進むことも難しい状況です。

とは言え麓までは山を下りてくる敵もいないので、逸る気持ちを力に坂の途中まで駆け上り、一段と平らになった所で馬を休ませ、息を継ごうと弓を杖にして太刀をさかさまに突いていたところ、簡単な盾一枚を持ち、矢を入れる筒型の容器を手にした野武士ら千余人が、東西の山がなだらかに延びた場所に行き、

雨の降るがごとくに激しく射込んできました。三万余騎の兵士らが、狭い谷底に隙間なく立ち並んで控えているその中に、射下すように射込んでくる矢なので、人を外れた矢は馬にあたり、馬を外れた矢は人にあたる有様です。一本の矢に二人が射られることがあっても、外れる矢など全くありません。

一気に突き進んで蹴散らそうにも、岩石が前方を塞いで駆け上る方法もありません。道を求めて敵に出会おうとしても、南北の谷は深く切れ、梯子がなければ進む事の出来る道もありません。


いかゞせんと背をくゞめて、引やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紺糸の鎧のまだ巳の剋なるを著たる武者、濃紅の母衣懸て、四尺許に見へたる長刀の真中拳て、馬の平頚に引側め、塩谷伊勢守と名乗て真前に進めば、野上・山東・貴志・山本・恩地・牲河・志宇津・禿の兵共二千余騎、大山も崩れ鳴雷の落るが如く、喚き叫で懸たりける。敵を遥のかさに受て、引心地付たる兵共なれば、なじかは一足も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討るゝをも不顧、馬物具を脱捨て、さしも嶮き篠原を、すべる共なく転ぶ共なく、三十余町を逃たりける。塩谷は余りに深く長追して、馬に箭三筋立、鑓にて二処つかれければ、馬の足立兼て、嶮岨なる処より真逆様に転ければ、塩谷も五丈計岩崎より下に投ふれければ、落付よりして目くれ東西に迷、起上んとしける処を、蹈留敵余に多に依て、武具の迦れ内甲を散々にこみければ、つゞく御方はなし、塩谷終に討れにけり。半時許の合戦に、生慮六十七人、討るゝ者二百七十三人とぞ聞へし。其外捨たる馬・物具・弓矢・太刀・刀、幾千万と云数を不知。其中に遊佐勘解由左衛門が今度上洛之時、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺八寸の太刀もあり。又日本第一の太刀と聞へたる禰津小次郎が六尺三寸の丸鞘の太刀も捨たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也。此禰津小次郎は自讃に常に申けるは、「坂東八箇国に弓矢を取人、駈合の時根津と知らで駈合せ太刀打違んは不知、是禰津よと知たらん者、我に太刀打んと思人は、恐くは不覚。」と申程の大力の剛の者なれ共、差たる事もせで力のある甲斐には、人より先に逃たりけり。

どうしたものかと背をかがめて、進退窮まっているところに、黄瓦毛の色をした太ってたくましい馬に、紺糸威の鎧、それも真新しいのを身に着けた武者が、濃い紅色の母衣(ほろ::矢を防ぐための布)をかけ、四尺はあるかと思える長刀の真ん中あたりを握り、馬の平首に隠すように持って、

塩谷伊勢守と名乗りを上げて真ん前に進み出ると、野上、山東、貴志、山本、恩地、贄河(にえかわ)、志宇津(しうつ)、禿(かぶろ)の兵士ら二千余騎が、大山が崩れ、落雷したかと思えるほどの大きな声で、喚き叫びながら突撃しました。敵の攻撃をはるか高い場所から受け、もともと退却を考えていた兵士らですから、

どうして少しでも防御しようとするでしょうか。負傷者を助けようともせず、親や子が討たれようとしても顧みることなく、馬を捨て甲冑も脱ぎ捨て、あれほど険しい笹原を滑るのでもなく転ぶ訳でもなく、三十余町(300m弱)ばかり逃げたのでした。塩谷は余りにも深追いしすぎて、馬も矢を三本射られた上、

槍で二ヵ所も突かれたので、馬は立つことが出来ず、険しい場所から真っ逆さまに転び落ちました。塩谷も五丈(15m強)ばかりを岩の先から下に投げつけられたので、落ちた時より目も見えず付近の様子も分からないまま、起き上がろうとしたところを、思いがけなく多く踏みとどまっていた敵が、

武具の隙間や内兜を徹底的に攻撃しました。しかし後に続く味方もなく塩谷はとうとう討たれたのでした。半時(約一時間)ばかりの合戦で、生け捕り六十七人、討たれた者は二百七十三人だったと言われています。それ以外にも捨てられた馬や甲冑、弓矢、太刀、刀などその数幾千万なのか分かりません。

それらの中には、遊佐(ゆさ)勘解由(かげゆ)左衛門が今回上洛した時、天下の人間に目を見張るほど驚かそうとして、金百両をつぎ込んで作った三尺八寸の太刀も含まれていました。また日本で最高の太刀だと言われていた、禰津小次郎の六尺三寸の丸鞘(断面が楕円形に近い鞘)の太刀も捨てられたのです。

と言うことは、大力であるとか名が知られているとか、失敗を犯すとかなど全て時の運によるものです。この禰津小次郎と言う男は、自慢話をする時は常に、「坂東八ヶ国において弓矢を取る者で、禰津だと知らずに太刀で勝負をしかける者は別として、禰津だと分かって太刀で勝負をする者などおそらくいないだろう」と言うほどの、

大力の持ち主で勇猛な者でしたが、たいした役割を演じることもなければ力を発揮することもなく、人より先に逃げたのでした。


○二度紀伊国軍事付住吉楠折事
紀伊国の軍に寄手若干討れて、今は和佐山の陣にも御方怺へ難しと云たりければ、津々山の勢も尼崎の大将も、興を醒し色を失ふ。され共仁木右京大夫義長一人は、「あらをかしやさてこそよ。哀同じくは津々山・天王寺・住吉の勢共も皆被追散裸に成て逃よかし。興ある見物せん。」とて、えつぼに入てぞ咲ける。是をば御方とや云べき敵とや申べき。難心得所存也。紀伊路の向陣を追落されなば津々山とても不可怺。さらば敵の懸らぬ前に荒手を副て、尾張守に力を付よとて、同四月十一日、畠山式部大夫・今河伊予守・細河左近将監・土岐宮内少輔・小原備中守・佐々木山内判官・芳賀伊賀守・土岐桔梗一揆・佐々木黄一揆、都合其勢七千余騎、重て紀伊路へぞ向られける。中にも芳賀兵衛入道禅可は我身は天王寺に止られて、嫡子伊賀守公頼を紀伊路へ向られけるが、二三里が程打送て、泪を流て申けるは、「東国に名ある武士多しといへ共、弓矢の道に於て指をさゝれぬは只我等が一党也。御方の大勢先度の合戦に打負て敵に機を著ぬれば、今度の合戦は弥手痛からんと知べし。若し合戦仕違て引返しなば、只少しも違はぬ二の舞にて、敵に力を付るのみならず、殊に仁木左京大夫に笑れん事、我一人が恥と存べし。されば此軍に敵を追落さずは、生て二度我に面を不可向。是は円覚寺の長老より持ち奉りし御袈裟也。是を母衣に懸て、後世の悪業を助れ。」とて、懐より七条の袈裟を取出て泣々公頼に与ふ。公頼庭訓を受て、子細に不及と領掌して両へ別れけるが、今生の対面若是や限なるべきと、名残惜げに顧て、互に泪をぞ浮めける。恩愛の道深ければ、何なる鳥獣さへも子を思ふ心浅からず。況乎於人倫乎。況乎於一子乎。され共弓矢の道なれば、禅可最愛の子に向て、只討死せよと進めける心の中こそ哀なれ。去程に四条中納言隆俊は、重て大勢懸る由聞へしかば、尚本の陣にてや戦ふ、平場に進でや懸合ひにすると評定有けるに、湯川庄司心替りして後に旗を挙げ、熊野路より寄する共披露し、船をそろへて田辺よりあがるとも聞へければ、此陣角ては如何が可有と、案じ煩てをはしけるを見て、大手の一の木戸を堅めたりける越智、降人に成て芳賀伊賀守が方へ出たりける。さらでだに猛き清党、兼て父に義を被勧、今又越智に力を被著、なじかは少しも滞るべき。竜門の麓へ打寄ると均く、楯をも不突、矢の一をも不射、抜連れて責上ける程に、さしもの兵と聞へし恩地・牲河・貴志・湯浅・田辺別当・山本判官、半時も不支竜門の陣を落されて、阿瀬河の城へぞ篭りける。芳賀二度めの軍に先度の恥をぞ洗ける。

☆ 二度にわたって行われた紀伊国合戦のことと住吉神社の楠が折れたこと

幕府側では紀伊国での合戦に、寄せ手軍の兵士らが多数討たれてしまい、今は和佐山の陣営でも味方はとても守り通せないと言い出したので、津々山(つづやま)の軍勢も、尼崎の大将も落胆し愕然としました。しかし仁木右京大夫義長一人だけは、「これは面白くなってきたぞ、思った通りだ。

こうなれば同じように津々山、天王寺、住吉などの軍勢も皆、追い立てられ裸になって散りじりに逃げればよい。面白いじゃないか、見物でもしよう」と言って、大いに笑い興じました。この放言は一体味方と言うべきか、敵と言うべきなのでしょうか。理解に苦しむ態度ではあります。

紀伊に構えた付け城が追い落とされたら、津々山も守り切れないだろう。それならば敵が押し寄せて来る前に、新手を投入して尾張守義深(よしふか)の軍勢を補強することとなり、延文五年(正平十五年::1360年)四月十一日、畠山式部大夫、今川伊予守、細川左近将監、土岐宮内(くないの)少輔、

小原備中守、佐々木山内(やまのうち)判官、芳賀(はが)伊賀守、土岐桔梗一揆、佐々木黄一揆ら総勢七千余騎を、再度紀伊路に向かわせました。その軍勢の中でも、芳賀兵衛入道禅可(ぜんか)は自身は天王寺に残され、嫡子の伊賀守公頼(きんより)が紀伊路に向かうことになりましたが、

二、三里ばかり見送って、涙を流しながら、「東国には有名な武士が多いとは言えども、弓矢の道において人から批判されることなどないのは、ただ我らの一党だけである。味方の大軍が前回の合戦に負けを喫し、敵に勢いがついているようなので、今回の合戦は少し手こずると覚悟すべきである。

もし今度の合戦を仕損じて引き返すことになれば、前回と全く同じで敵に勢いをつけさせるばかりでなく、その上仁木左京大夫に笑われることは、自分自身の恥だと知るべきである。そこでこの合戦において、敵を追い落とすまでは生きて再び私に顔を合わすことのないように。

これは円覚寺の長老から頂いた御袈裟である。これを母衣にかけて死後に受ける悪い報いから逃れるように」と言って、懐から七条(布の幅・一幅”ひとの”::鯨尺で一尺。七幅の布で作ったもの)の袈裟を取り出し、泣く泣く公頼に与えました。公頼は父から教訓を受けて、御心配には及びませんと了承し、

父子は両方向に別れましたが、今生で会うことが出来るのはこれが最後かと思えば名残惜しく、振り返ってお互い涙を浮かべました。親子の愛情は非常に深く、如何なる鳥や獣においても子を思う気持ちは強いものです。いわんや我が嫡子の場合では。とは言え、弓矢の道であれば仕方なく、

禅可が最愛の子供に向かって、ただ討ち死にを目指せと勧める心の中は、一体どれほど哀しいものでしょうか。ところで四条中納言隆俊は再度大軍が攻め寄せて来るらしいと聞き、このまま現在の陣地で戦うべきか、それとも平らな場所に進出して戦闘を行うべきか、会議が持たれましたが、

湯川庄司が裏切り後方から反旗を翻して、熊野路方面から攻めて来るらしいとかの報告があり、また兵船を集めて田辺から上陸するとも言われているので、この状況において、この陣地はどう考えれば良いのか思案にくれているのを見て、大手の一の木戸(門)を固めていた越智が、

芳賀伊賀守公頼に降伏を申し出ました。それでなくても勇猛果敢な清党(精鋭で知られた武士団)であり、出陣に際して父から義に関して教えを受け、今また越智の協力が得られた以上、瞬時の休戦も許されません。竜門山の麓に攻め寄せると、楯で防御をしたり、矢の一本さえ射ることなく、

一斉に太刀を抜き放って攻め上がったので、勇猛な兵士団と言われていた恩地、贄河、貴志、湯浅、田辺別当、山本判官らも半時(約一時間)さえ持ちこたえることが出来ず、竜門の陣地を攻め落とされ、阿瀬河の城に篭りました。芳賀は二度目の合戦で先の恥をすすぎました。


今は是まで也。一功なす上はとて、紀州の討手伊賀守、無恙津々山の陣へ帰ければ、父の禅可悦喜して、公私の大崇是に過るは非じとぞ申ける。四条中納言隆俊卿、竜門山の軍に打負て阿瀬河へ落ぬと聞へければ、吉野の主上を始進せて、竜顔に咫尺し奉る月卿雲客、色を失ひ胆を銷し給ふ。斯る処に又住吉の神主津守国久密に勘文を以て申けるは、今月十二日の午剋に、当社の神殿鳴動する事良久し。其後庭前なる楠、不風吹中より折れて、神殿に倒れ懸る。され共枝繁く地に支て、中に横はる間、社壇は無恙とぞ奏し申ける。諸卿此密奏を聞て、「神殿の鳴動は凶を示し給条無疑。楠今官軍の棟梁たり。楠倒れば誰か君を擁護し奉るべき。事皆不吉の表事也。」と、私語き合れけるを、大塔忠雲僧正不聞敢被申けるは、「好事も不如無と申事候へば、まして此事吉事なるべしとは難申。但神凶を告給ふは、天未捨者也。其故は後漢の光武の昔、庭前なる槐木の高さ二十丈に余たるが、不風吹根より抜て倒にぞ立たりける。諸臣相見て皆恐怖しけるを、光武天の告を悦て、貧き民に財を省き余れるを以て不足助給ければ、此槐木一夜に又如本成て一葉も不枯けり。又我朝には応和の年の末に、比叡山の三宮林の数千本の松一夜に枯凋て、霜を凌ぐ緑の色黄葉に成にけり。三千の衆徒大に驚て、十善寺に参て、各自受法楽の法施を奉り、前相何事ぞと祈誓を凝さしめたりけるに、一人の神子俄に物に狂出て、「我に七社権現乗居させ給へり。」とて託しけるは、「我内には円宗の教法を守て化縁を三千の衆徒に結び、外には国家の安全を致して利益を六十余州に垂る。雖然今衆徒の挙動一として不叶神慮、兵杖を横へて法衣を汚し、甲胄を帯して社頭を往来す。嗚呼自今後、三諦即是の春の華誰が袂にか薫はまし。四曼不離の秋の月、何れの扉をか可照。此上は我当山の麓に迹を垂ても何かせん。只速に寂光の本土へこそ帰らめ。只耳に留る事とては、常行三昧の念仏の音、尚も心に飽ぬは、一乗読讃の論義の声。」と、泣々託宣しけるが、額より汗を流して、物の付は則醒にけり。大衆是に驚て、聖真子の御前にして、常行三昧の仏名を唱へ、止観院の外陣にして一乗読讃の竪義を執行ふ。衣之神慮も忽に休まりけるにや、月に叫峡猿の声も暁の枕を不濡、戴霜林松の色本の緑に成にけり。其後住吉大明神の四海の凶賊を静め給ひし御託宣に曰、「天慶に誅凶徒昔は我為大将軍、山王は為副将軍。承平に静逆党時山王は為大将軍、我は為副将軍。山王は鎮に飽一乗法味に。故に勢力勝我に云云。」彼を以て此を思ふに、叡慮徳に趣き、四海の民を安穏ならしめんと思召す大願を被発、以法味を神力を被添候はゞ、朝敵は還て御方になり、禍は転じて幸に帰せん事、疑ふ処に非ず。」と被申ければ、群臣悉此旨に順ひ、君も無限叡信を凝させ給て、軈て住吉四所の明神、日吉七社権現を勧請し奉て、座さまさずの御修法を百日の間行はせらる。主上毎朝に御行水を召れて、玉体を投地に除災与楽の御祈り、誠に身の毛も弥立許也。天地も是に感応し、神明仏陀もなどか擁護の御手を垂れ給はざらんと、憑も敷ぞ見へたりける。

もう充分です。今や一つ大手柄をたてたので、紀州の討手である伊賀守は無事に津々山の陣に帰ると、父の禅可は大喜びで、公私ともこれ以上の名誉はないと話されました。四条中納言隆俊卿が竜門山の合戦に負けて、阿瀬河に落ちたと聞くと、吉野の主上、後村上天皇をはじめに、

帝に近侍する公卿、殿上人らは落胆し不安にかられました。このような時にまた、住吉神社の神主、津守国久が秘密裏に意見書の形で報告してきたのは、四月十二日午刻(午後零時頃)に当神社の神殿がしばらく鳴動を続けました。その後、神殿の縁側近くの庭に生えた楠が、風も吹いていないのに半ばから折れて、

神殿に倒れ掛かりました。とは言っても枝がよく茂っていたため、地上で支えることが出来、空中に横たわる格好になったものの、社殿は無事でありますと、奏上してきました。諸卿らはこの密奏を聞くと、「神殿の鳴動は凶を明示しているのに間違いはないでしょう。楠木は現在官軍の棟梁です。

楠木が倒れたりすれば、誰が帝をお護りするするのでしょうか。すべて不吉の前兆です」と互いに囁き合うのを、大塔(おおとう)忠雲(ちゅうん)僧正は聞こうともせず反対に、「良いことがあれば、人はそれに執着しがちなので、むしろ良いことなどない方が良いと、言われておりますし、

この件が吉事であるとはとても言えません。ただし、神が凶のお告げをしたと言うことは、天が未だ我々をお捨てになっていないと言うことです。その理由は、昔、後漢の光武帝が治めていた時代、庭先にある高さ二十丈(60m強)もあると言う槐(えんじゅ)の木が、風もないのに根元から抜けて逆さまに立ちました。

諸臣下らはこれを見て皆が皆、恐怖を覚えましたが、光武帝は天のお告げだと喜び、貧しい人民に財物を分け与え、残った物を不足分に充てたので、この槐は一夜にして元通りの木になり、一枚の葉さえ枯れませんでした。また我が国においては、応和(961-964年)の年末に、

比叡山の三宮林(さんのみやはやし::不明)に生えている数千本の松が、一夜にして枯れしぼんで、霜に耐え忍んでいた緑の葉が、黄色になってしまいました。三千の衆徒は大変驚き、十善寺に参りめいめいが自受法楽(じじゅほうらく::苦楽ともに思い、仏を信じる喜びにひたること)の経を唱え、

あの前兆のようなものは一体何事なのかと、祈りに集中していたところ、一人の巫女が突然物狂いになり、『我に七社権現(比叡山に祀られた神々)が乗り移っています』と言って、『私は仏道においては、天台宗(円宗)の教義を守り、三千の衆徒を仏道に導くことに努め、仏道以外では国家の安全を守って、

その恵みと幸福を六十余州に施しています。しかしながら最近衆徒の挙動は、一つとして神のお考えにかなっていません。武器を身のそばに置いて法衣を汚し、甲冑を身に着けて社殿の前を行き来しています。あぁ、これから後は三諦即是(さんだいそくぜ::空諦、仮諦、中諦、の三つの真理は一体であること)を求め修行する人などいるのでしょうか。

四曼不離(しまんふり::四種の曼荼羅はお互い関係しあって離れないこと)の修行を見守る秋の月は、一体どの道場の扉を照らすのでしょうか。こうなれば、私がこの比叡山の麓に垂迹(すいじゃく::仏や菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿になって現れること)していても仕方がないでしょう。

ここは早速寂光の本土(仏や菩薩が本来いる世界?)へ帰ることにしましょう。ただ私の耳に残るのは、常行三昧(阿弥陀仏の周りを歩行しながら仏名を唱え、仏を念ずる行)を行う念仏の声と、今なお心に残っているのは、法華経をひたすら読経し議論しあう声々です』と泣きながら神仏のお告げを話されると、

額より汗を流し神がかりはすぐに覚めました。聞いていた大衆らは驚いて聖真子(しょうしんし::阿弥陀如来のこと)の御前にて常行三昧の仏の名号を唱え、止観院(しかんいん::現根本中堂の前身)の外陣(げじん::神社、仏寺の内陣の外側で、一般の人々が礼拝する所)において、法華経を読誦して竪義(りゅうぎ::学僧試験のために行う問答論議の儀式)を執り行いました。

このため神の御心もたちまちに落ち着きを取り戻したのか、月に向かって叫ぶ山猿の声が、明け方の枕を濡らすこともなく、霜をかぶっていた林の松も本来の緑色になりました。その後住吉大明神が我が国の賊徒を征伐するため発した神のお告げには、『天慶(てんぎょう::938-947年)の御時、

兇徒を誅罰した昔、私(延暦寺)が大将軍となり山王(日吉大社)は副将軍になりました。また承平(じょうへい::931-938年)に逆徒を鎮圧した時は、山王が大将軍となり、私は副将軍になりました。山王は永久に法華経の読誦を行います。そのため当然のごとく力は我々が勝っています云々(この段不明解)』以上のことから考えてみると、

帝のお気持ちとして徳を積むことを求め、国家の民らが平穏無事に暮らせるようにと願いを立てられ、読経や法要を神の不思議な力に付加すれば、朝敵は反対に味方となり、災いは転じて幸運なことになることなど、疑う余地はありません」と話されると、居並ぶ群臣らは皆この意見に賛同し、

天皇もはっきりと方針を決められ、早速住吉四所明神と日吉七社権現を勧請(かんじょう::神仏の分身、分霊を他の地に移し祭ること)され、中断することのない御修法(加持祈祷の法)を百日間行われました。後村上天皇は毎朝、心身を清めるため御行水をされ、お体を投げ伏されて災いを除去するとともに、

心身安らかになるようお祈りされます。まことに身の毛がよだつばかりの行ではあります。これらの行為は必ずや天地の神々に通じ、神や仏陀がお加護の手をさし伸ばさないことなど、どうしてあるものかと、頼もしく見えました。      (終り)

太平記総目次に戻る    次へ→