34 太平記 巻第三十四 (その二)


○銀嵩軍事付曹娥精衛事
此比吉野の将軍の宮と申は、故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹にてぞ御坐ける。御幼稚の時より文武二の道何も達して見へさせ給ひしかば、此宮ぞ誠に四海の逆浪をも静められて、旧主先帝の御追念をも休め進らせらるべき御機量にて御坐とて、吉野の新帝登極の後則被宣下、征夷将軍に成し進らせらる。去る正平七年に、赤松律師則祐、暫く事を謀て宮方に参ぜし時、此宮を大将に申下し進らせたりしが、則祐忽に変じて又武家に参ぜしかば、宮心ならず京へ上らせ給て、召人の如にして御座有しを、但馬国の者共盜出し奉て、高山寺の城へ入れ奉る。本庄平太・平三、御手に属して、但馬・丹波の両国を打随るに、不靡云者更になし。軈て播磨国を退治せんとて山陽道へ御越有しに、則祐三千余騎にて、甲山の麓に馳向て相戦ふ。軍未決、宮の一騎当千と憑み思召たりける本庄平太・平三、共に数箇所の疵を被て、兄弟同時に討れにければ、軍忽に破て、宮は河内国へ落させ給ひにけり。其後も大将にし奉らんとて、国々より此宮を申けれ共、自然の事もあらば、此宮をこそ大将にもし奉らんずれとて、何くへも下し進せられず、武略の為に惜まれて、吉野の奥にぞ坐ける。今紀伊国の合戦に四条中納言打負て、阿瀬河へ落給ぬ。和田・楠も津々山の敵陣に被攻て、機疲ぬと見へければ、「今はいつをか可期。可然兵共を被相副候へ、自出向て合戦を致候はん。」と、宮頻に被仰ける間、げにもとて、此三四年兄弟不和の事有て吉野へ被参たりける赤松弾正少弼氏範に、吉野十八郷の兵を差副て、宮の御方へぞ進せられける。宮此勢を付順へさせ給て後、何なる物狂はしき御心や著けん。さらば此時分に吉野の新帝を亡し奉て、武家の為に忠を致して、吉野十八郷を一円に管領せばやと思召けるこそ不思議なれ。密に御使を以て事の由を義詮朝臣の方へ被牒て、四月二十五日宮の御勢二百余騎、野伏三千人を召具して賀名生の奥に銀嵩と云山に打上り、御旗を被揚、先の皇居賀名生の黒木の内裡を始として、其辺の山中に隠居たる月卿雲客の宿所々々を一々に焼払はる。暫が程は真実を知たる人少なければ、是は如何様大宋の伯顔将軍が城を焼て敵を忻りし謀歟、不然は楚の項羽が自ら廬舎を焼て再び本の陣へ帰じと誓ひし道歟と、様々に推量を廻して、此宮尚も御敵に成せ給ひたりと知る人聊も無りけり。去程に探使度々馳廻て宮の御謀叛事已に急也と奏聞しければ、軈其翌の日二条前関白殿を大将軍として和泉・大和・宇多・宇智郡の勢千余騎を向らる。是を見てさらば御謀叛の宮に可奉著様なしとて、吉野十八郷の者共皆散々に落失ける程に、宮の御勢僅に五十余騎に成てげり。され共赤松弾正少弼氏範は、今更弱きを見て捨るは弓矢の道にあらず、無力処也。討死するより外の事有まじとて、主従二十六騎は、四方に馳向て散々に戦ける程に、寄手無左右近付得ず、三日三夜相戦て、氏範数箇所の疵を被てければ、今は叶はじとて宮は南都の方へ落させ給へば、氏範は降人に成て、又本国播州へ立返る。不思議なりし御謀反也。

☆ 銀嵩(銀峯山)合戦のことと、曹娥精衛のこと

さてこの頃、吉野において将軍の宮(興良親王か陸良親王か。同一人物の説もあり)と申されるのは、故兵部卿(護良親王)の御子で、御母親は北畠准后(北畠親房)の妹御でございます。幼い頃より文武二道とも熟達され、この宮こそ天下の騒動を鎮圧され、旧主護良親王と先帝後醍醐天皇のご無念を、

晴らすことの出来る御器量をお持ちだと思われ、吉野において新帝後村上天皇が即位されるとすぐに宣旨が下され、征夷将軍になられました。去る正平七年(文和元年::1352年)に、赤松律師則祐がしばらくの期間、ある謀略を持って宮方に属していた時、この宮を大将としてお迎えしましたが、

則祐は突然心変わりし、再び武家、幕府側に属したので、宮は不本意ながら京に上り、使用人のような待遇を受けられていましたが、但馬国の者らが誘拐し、高山寺の城にかくまいました。本庄平太、平三が宮の支配下に入り、但馬、丹波両国を従えると、彼らの支配下に入らない者などいませんでした。

やがて、播磨国の征伐をしようと山陽道に進出した時、則祐が三千余騎で摂津国の甲山(西宮市)の麓に駆け向かい、戦闘になりました。勝敗が未だ決する前に、宮が一騎当千(いっきとうせん::一人で多数の敵に対抗できること)の武士として頼みにしていた本庄平太、平三の二人とも、数ヶ所の傷を負い、

兄弟同時に討たれてしまったので、戦いはすぐに敗れてしまい、宮は河内国に落ちられたのでした。その後も大将に迎えたいと色々な国々から申し入れがありましたが、不測の事態が起こって宮を大将にすることもあり得るのではないかと思われ、どこにも宮は下されることもなく、

武略上惜しまれながら吉野の奥深くに居られました。この度、紀伊国の合戦に四条中納言が負けを喫し阿瀬河城に落ちられました。和田、楠木も津々山(富田林市)の敵軍に攻められ、戦意も消沈気味に思われたので、「これではこの先何をしようと言うのか。こうなれば勇猛な兵士を招集した上、

みずから出向いて合戦をしようではないか」と宮がしきりに仰せられるので、確かにそうかも知れぬと、ここ三、四年兄弟の仲に具合の悪いことがあって、吉野に属していた赤松弾正少弼氏範に、吉野十八郷の兵士を従えさせ、宮の味方として派遣しました。宮はこの軍勢を支配下においてから、

どう言う訳か不穏当な考えが起こりました。それは今ここで吉野の新帝後村上天皇を亡き者にし、幕府に忠義立てをした上、吉野十八郷全域を領有し、支配下にしようと思ったのですが、理解に苦しみます。しかし、ひそかに密使を送って事の次第を義詮朝臣に通報し、正平十五年(延文五年::1360年)四月二十五日、

宮は手勢の二百余騎と野伏三千人を引き連れて、賀名生の奥地、銀嵩(かねがだけ::銀峯山:吉野三山の一つ)と言う山に上ると旗を揚げ、先帝後醍醐天皇の皇居である黒木(丸太造り)の内裏をはじめとして、周辺の山中に隠れ住んでいる公卿や殿上人の屋敷などを、漏れなく焼き払いました。

しかししばらくの間は、この真実を知っている人が少なかったので、これは間違いなく大宗の伯顔将軍(?)が、城を焼き払って敵を欺いた謀略か、それでなければ楚国の項羽が自ら小屋に火を付け、再び元の陣営に戻らないと、覚悟を決めさせた手段ではないかとか、様々に推測するばかりで、

この宮が敵側の人間になっていることを知る人は一人もいませんでした。やがて事実を調べに幾度も走り回ってみた結果、事態は急を要する謀反であるとわかり、天皇に奏聞しましたので、すぐその翌日、二条前関白(二条師基::もろもと)殿を大将軍として、和泉、大和、宇多、宇智郡(うちのこおり)などの軍勢千余騎を向かわせました。

この状況を見て御謀反を起こした宮に加勢する理由などないではと、吉野十八郷の者たちは皆、散りじりになって逃げ落ちてしまったので、宮の軍勢はわずか五十余騎になってしまいました。しかし赤松弾正少弼氏範は、今更弱り目になった宮を見捨てるのは、弓矢の道に外れることになる、

ここは止むを得ないだろう。討ち死にする以外取るべき方法はないだろうと、主従二十六騎は四方に駆け向かい激しく戦ったので、寄せ手もむやみに近づき戦うことが出来ず、三日三晩戦う内に氏範は数ヶ所に傷を負ったので、もうこれまでかと宮は南都に落ちていただき、氏範本人は降伏して再び本国の播州に帰りました。なんとも不思議な謀反の話です。


抑故尊氏卿朝敵と成て、先帝外都にて崩御なり、天下大に乱て今に二十七年、公家被官人悉道路に袖をひろげ、武家奉公の族は、皆国郡に臂を張る事は何故ぞや。只尊氏卿、故兵部卿親王を殺し奉し故也。天以て許し給はゞ、天下の将軍として六十六箇国などか此宮に帰伏し奉らざらん。然ば旧主先皇も草の陰にても喜悦の眉を開せ給はゞ、忠孝の御志を天神地祇もなどか感応の御眸を添させ給はざらん。然ば御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛起されて、先皇梁園の御尸血をそゝき給へば、厳親幽霊も、いかに方見しく覚すらんと、草の陰さこそは露も乱らめ。昔漢朝に一人の貧者あり。朝気の煙絶て、柴の庵のしば/\も、事問通はす人もなければ、筧の竹の浮節に堪て、可住心地も無て明し暮しけるが、或時曹娥と云ける一人の娘を携へて、他国へぞ落行ける。洪河と云河を渡らんとするに、折節水増りて橋もなく船もなし。行前遠して可留里も遥に過ぬれば、何までか角ても可有。さらば自此娘を負てこそ渡らめと思て、先川の淵瀬を知ん為に、娘をば岸の上に置て、只一人河の瀬を蹈み行ける時に、毒蛇俄に浮出て、曹娥が父を噛へて碧潭の底へぞ入にける。曹娥是を見て、手を揚て地に倒て、如何せんと佗て、悲めども可助人もなし。一日二日は尚も無墓心にて、若や流の末に浮出たると、河に傍て下て見れ共、浮出たる事もなし。若や岩のはざまに流懸りたると、岸に上り見れ共、散浮ぶ木葉ならでは、せかれて留る物もなし。日を暮し夜を明し、空くをくれて独は可帰心地も無りければ、七日七夜まで川の上にひれ臥、天に叫び地に哭して、「我父を失つる毒蛇を罰してたび候へ。縦空き形なり共、父を今一度我に見せしめ給へ。」と、梵天・帝釈・堅牢地神に肝胆を砕てぞ祈ける。夫叶はぬ物ならば同水底に沈まんともだへあこがる。志誠に蒼天にや答へけん、洪河の水忽に血に成て流けるが、毒蛇遂に河伯水神に罰せられて、曹娥が父を乍呑其身寸々に被切割て、波の上にぞ浮出たりける。曹娥此処に空き骨を収て、泣々故郷へ帰にけり。彼処の人是を憐て、此に墳を築き石を刻て、碑の文を書て立たりける。其銘石今に残て、行客泪を落し騒人詩を題す、哀なりし孝行也。又発鳩山に精衛と申人、他国に行て帰るとて、難風に船を覆されて、海中に沈て無墓成にけり。其子未幼くて故郷に独有けるが、父が海に沈める事を聞て、其江の辺に行て夜昼泣悲けるが、尚も思に堪かね、遂に蒼海の底に身を投て死にけり。其魂魄一の鳥と成て、波の上に飛渡り、精衛々々と呼声、泪を不催云事なし。怨念尽る事なければ、此の鳥自ら大海を埋て、平地になさんと思ふ心を挿、毎日三度草の葉木の朶をくはえて、海中に沈めて飛帰る。尾閭洩せ共不乾、七旱ほせ共曾て一滴も不減大海なれば、何なる神通を以ても争か埋はつべき。され共父が怨を報ぜん為に、此鳥一枝一葉を含で、海中に是を沈る事哀なりける志也。されば此精衛を題するに、人笑其功少、我怜其志多と、詩人も是を賛たり。君不見乎、精衛は卑き鳥也。親の恩を報じて大海を埋ん事を謀る。曹娥は幼き女なれ共、父の為に悲で、毒蛇を害する事を得たり。人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如ず、何をか異也とせんやと、此宮の御謀叛を欺き申さぬ人はなし。

さて故尊氏卿は朝敵となり、先帝後醍醐天皇は行宮にて崩御され、天下は大いに乱れやがて二十七年になりますが、公家から下級官僚に至るまで皆、道路で物乞いをし、武家に奉公する人間どもは皆、国や地方において威張った態度を取るのは何故でしょう。それはただ尊氏卿が故兵部卿親王(護良親王)を殺害したからです。

もし天が許すなら天下の将軍として、六十六ヶ国はすべてこの宮(護良親王の御子)に従うことになるでしょう。そうなれば護良親王や後醍醐天皇も草葉の陰で喜ばれ、晴れやかな御顔をされ、また忠義と忠孝あふれる信念に対して、天の神、地の神すべての神々も心を動かし感動されることでしょう。

そうなれば御子孫も大いに栄え、天下の武将として君臨できるのに、軽はずみな謀反の気持ちを起こし、先帝後醍醐天皇の御遺体に血を注ぐことになり、先帝の霊魂も情けなくあきれ返っておられるのではないかと、草葉の陰では露さえ落ち着きを失っているでしょう。昔漢国の時代に一人の貧しい人がいました。

朝食を用意する煙も絶え、柴で屋根を葺いた貧しい家にも、尋ねて来る人もいないので、辛く悲しい暮らしに耐えるだけで、生きている実感など持つことなく毎日を暮らしていましたが、ある時、曹娥(そうが::後漢の孝女)と言う一人の娘を連れて、他国に落ちて行きました。洪河(こうが::揚子江の支流)と言う河を渡ろうとしましたが、

丁度その時は水かさが増えている上に、橋もなければ舟もありません。目的の土地はまだまだ遠い上、逗留出来る人里もはるかに通り過ぎているので、何時までもじっとしている訳にもいきません。しかたないから、自ら娘を背負って渡ろうと思い、まず渡るために河の淵(深い所)や瀬(浅い所)を調べようと、

娘を岸の上に置いて、ただ一人で河の瀬を踏み渡っている時、突然毒蛇が浮き上がってくると、曹娥の父をくわえて青々とした深場の底にもぐりこみました。曹娥はこれを見て手を上げ、地面に倒れ込んでどうすれば良いのか身もだえしましたが、いくら悲しんでも助けてくれる人などいません。

一、二日はどうすれば良いのか分からず、ただもしかして流れのどこかに浮き出て来るのではないかと、河に沿うて下って見ましたが浮き出た様子などありません。もしかすれば、岩の隙間に引っ掛かっているのではと岸に上って見ましたが、散らばって浮かぶ木の葉以外に、

流れをせき止めている物などありません。ただ昼を過ごしては夜を明かせども、何するもなく一人生き残って帰る気持ちなど起こらないので、七日七晩まで河原にひれ伏し、天に叫び、地に向かっては大声で泣き、「私の父を亡き者にした毒蛇を罰してください。たとえ遺体であっても父を今一度私に見せてください」と、

梵天(仏法守護の主神)、帝釈(梵天とともに仏法守護の主神)、堅牢地神(けんろうじしん::大地を司る神)に心を込め懸命に祈りました。それも叶わぬのなら私を同じ水底に沈めてくださいと、身もだえして頼みました。その真心に天の神が答えたのか、洪河の水がたちまちにして血になって流れ、

毒蛇はとうとう河の神、水の神に罰せられ、曹娥の父を呑んだまま、その体はずたずたに引きちぎられて浮かび上がりました。曹娥はこの場所に亡き父の骨をおさめて、泣く泣く故郷に帰りました。この地の人たちはこの話を哀れみ、ここに土を盛り上げて墓とし、石に碑の文章を刻んで立てました。

その銘を刻んだ碑は今なお残り、旅行者は涙を落とし、詩人は詩歌に詠み込みました。まことに哀れで立派な孝行です。また発鳩山(はっきゅうさん::?)にいる精衛(せいえい)と言う人が、他国に行ってから帰る途中、暴風に出くわし舟が沈没したため、海中に沈んで亡くなりました。

彼の子供はまだ幼いので故郷に一人でいましたが、父が海に沈んだことを聞いて、沈んだと思われる海のあたりに行き、昼夜なく泣き悲しんでいましたが、あまりの切なさに耐えかねて、とうとう青々とした海の底に身を投げて死んだのです。その魂魄(こんぱく::霊魂、死者の魂)は一羽の鳥となり、

波の上を飛び回り、精衛精衛と叫ぶ声を聴いて、涙を誘われないことなどありませんでした。恨む気持ちが収まらないので、この鳥は自分で大海を埋めて平地にする考えが起こり、毎日三度草の葉や、木の枝をくわえて来ると、海中に沈めては飛んで帰りました。海水を尾閭(びりょ::大海の底にあって絶えず海水を漏らしているという穴)から漏らしても干上がることなく、

度重なる干ばつにあっても、未だかつて一滴の水さえ減ることのなかった海なので、どれほど計り知れない力をもってしても、どうして大海を埋め尽くすことが出来るというのでしょう。とはいえ父の恨みを晴らさんがため、この鳥が一枝一葉をくわえて来ては、信念をもって海中に沈め続けることも可哀そうな話です。

だからこの精衛を題材に書き記すとき、その行動を笑う人などいないし、その志をいとおしむ人は多いと、詩人らは褒めたたえました。御存知でしょう、精衛は取るに足らない鳥です。それでも親の恩に報いようと、大海を埋めることを計画しました。また曹娥は幼い女児ですが、父の死を悲しむあまり、

毒蛇を殺すことができました。それにひきかえ、人として鳥獣にさえ及ばず、男子であるのに女子にも叶わない有様とは、一体何がどうなっているのかと、この宮の御謀反をあれこれと非難しない人はいませんでした。


○龍泉寺軍事
竜泉の城には和田・楠等相謀て、初は大和・河内の兵千余人を篭置たりけるが、寄手敢て是を責ん共せざりける間、角ては徒に勢を置ても何かせん、打散してこそ野軍にせめとて、竜泉の勢をば皆呼下て、さしもなき野伏共百人許見せ勢に残し置き、此の木の梢、彼この弓蔵のはづれに、旗許を結付、尚も大勢の篭りたる体を見せたりける。津々山の寄手是を見て、「あなをびたゝし。四方手を立たる如くなる山に、此大勢の篭りたらんずるをば、何なる鬼神共いへ、可責落者に非ず。」とろ々に云恐て、責んと云人は一人もなし。只徒に旗許を見上て、百五十余日過にけり。或時土岐桔梗一発の中に、些なま才覚ありける老武者、竜山の城をつく/゛\と守り居たりけるが、其衆中に語て云く、「太公が兵書の塁虚篇に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也といへり。我此三四日相近て竜泉の城を見るに、天に飛鳶林に帰る烏、曾て驚事なし。如何様是は大勢の篭りたる体を見せて、旗許を此彼に立置たりと覚ゆるぞ。いざや人々他の勢を不交此一発許向て竜泉を責落し、天下の称歎に備ん。」と云ければ、桔梗一発の衆五百余騎、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈て打立とて、閏四月二十九日の暁、桔梗一揆五百余騎、忍やかに津々山より下て、まだ篠目の明はてぬ霧の紛れに、竜泉の一の木戸口に推寄、同音に時をどつと作る。細川相摸守清氏と、赤松彦五郎範実とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前を懸られぬるは。但城へ切て入んずる事は、又一重の大事ぞ。夫をこそ誠の先懸とは云べけれ。馬に鞍置け旗差急げ。」と云程こそ有けれ。相摸守と彦五郎と、鎧取て肩に投懸、道々高紐堅て、竜泉の西の一の城戸、高櫓の下へ懸上たり。爰にて馬を蹈放し、後を屹と見たれば、赤松が手の者に、田宮弾正忠・木所彦五郎・高見彦四郎、三騎続ひたり。其迹を見れば、相摸守の郎従六七十、かけ堀共云はず我先にと馳来る。其旗差、高岸に馬の鼻を突せて、上かねたるを見て、相摸守自走下て、其旗をおつ取て、切岸の前に突立て、「先懸は清氏に有。」と高声に名乗ければ、赤松彦五郎城の中へ入、「先懸は範実にて候。後の証拠に立て給り候へ。」と声々に名乗て、屏の上をぞ越たりける。是を見て桔梗一揆の衆に日吉藤田兵庫助・内海修理亮光範、城戸を引破て込入る。城の中の兵共、暫く支へて戦けるが、敵の大勢に御方の無勢を顧て、叶はじとや思けん、心閑に防矢射て、赤坂を差して落行ける。暫くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆が竜泉へ寄て責けるは。但し輙くはよも責落さじ。楯の板しめせ、射手を先立よ。」と、最騒ず打立て、其勢既に十万余騎、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早已に責落されて、櫓掻楯に火を懸けり。数万の軍勢頭を掻て、「安からぬ者哉、是程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙を喫ぬ者は無りけり。

☆ 龍泉寺合戦のこと

竜泉城には和田と楠木が相談の上、最初は大和、河内の兵士ら千余人で守備を固めていましたが、寄せ手は何故かここを攻撃しようとしないので、これではここに軍勢を控えさせても無駄であろう、ここは部隊を展開して野戦に持ち込もうと、竜泉の軍勢を全員呼び寄せ、あまり役に立ちそうもない野伏ら百人ばかりを見せかけの兵士として残し、

こちらの木の梢や、あちらの弓隠し(射手を隠すためのむしろ)の端っこに旗だけを結わいつけ、今もなお大勢が篭っているかのように見せかけました。津々山の寄せ手軍はこれを見て、「すごい大軍ではないか。四方がそびえ立ったような山にあのような大軍が篭っているのを、

いかに鬼神(きじん::超人的な能力を持つものの総称)と言えども、攻め落とすことなど出来ないだろう」と口々に不安を漏らし、攻めようと言う人など一人もいませんでした。ただいたずらに旗だけを見上げるだけで、百五十余日を過ごしました。そんなある時、土岐桔梗一揆に属する兵士で、少しばかり知恵のある老武者が、

竜山の城をつくづくと眺めていましたが、同僚の兵士らに、「太公(太公望::呂尚)の兵書の中にある塁虚編(六韜塁虚第四十二)に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也(その砦の上を眺めても、飛んでいる鳥の驚く気配がないのは、間違いなく敵は人形を作っていると知ることだ)と、書いてある。

私はここ三、四日、竜泉の城に近づいて見たけれど、天に飛ぶトンビや林に帰るカラスなど、ただの一度も驚くことはなかった。間違いなくこれは大軍が篭っているように見せるため、旗だけをあちこちに立てていると思われる。さあ皆の者、他の軍勢など誘うことはせずに、

ここは一揆の軍勢だけで向かっていき、竜泉を攻め落とし世間の称賛を手にしようではないか」と話されたので、桔梗一揆の衆ら五百余騎は全員、「当然である」と、賛同しました。ならばすぐに出撃だと、正平十五年(延文五年::1360年)閏四月二十九日の明け方、桔梗一揆の五百余騎は、足音を忍ばせて津々山を下り、

まだ晴れない明け方の霧に紛れ、竜泉城の一番目の木戸の前まで押し寄せて、一斉にドッと鬨の声を上げました。細川相模守清氏と赤松彦五郎範実の二人は津々山にそれぞれ陣営を並べていましたが、竜泉城からの鬨の声を聞くと、「えらいことだ、人に先を越されるとは。

しかし城に切り込むことが一番重要である。それを以て真の先駆けと言うものだ。馬に鞍を置け旗差しの者(主人の旗を持つ侍)、急げや」と言う間もなく、相模守と彦五郎は鎧を手にすると肩にかけ、駆けさせながら高紐(鎧の前と後ろを結ぶ紐)をしばり、竜泉の西側の一の木戸高櫓の下に駆け上りました。

ここで馬から降りて後をキッと見た所、赤松の配下である田宮弾正忠、木所(きどころ)彦五郎、高見彦四郎の三騎が後についていました。その後方を見ると相模守の家来ら六、七十人がかけ堀(?)をものともせず我先に駆け寄せて来ました。その中の旗差しの者が、高く切り立った崖に馬の鼻が当り、

上りかねているのを見て、相模守は自ら走り下りその旗を取り上げ、切り立った崖の先端に突き立て、「先駆けは清氏であるぞ」と声高に名乗りを上げると、赤松彦五郎は城の中に入り、「先駆けは範実である。後々の証拠のために、証人になってください」と声々に名乗りをあげ、塀を飛び越えました。

これを見た桔梗一揆の衆の日吉藤田兵庫助と内海修理亮光範が、城戸を引き破って城中に入りました。城内の兵士らはしばらく防戦しましたが、敵の大軍に比べて自軍の無勢を考え、戦闘の継続は不可能と思ったのか、静かに防ぎ矢(敵の進撃を阻止するための矢)を射ながら、赤坂を目指して落ちて行きました。

しばらくした頃、各陣営に集まっている大軍らが、「あっ、桔梗一揆が竜泉に攻め寄せたぞ。しかし、そう簡単に攻め落とせないだろう。楯の板を湿らせて矢を防げ、射手を前に進ませよ」と特に騒ぎ立てることもなく進軍を始め、その軍勢はすでに十万余騎になり、竜泉城の麓に向かってみれば、

城はすでに攻め落とされており、櫓や掻楯(立て並べた楯)には火が放たれていました。数万の軍勢は頭をかいて、「これは参ったな、これほど敵が小勢だとは知らずに、土岐や細川に手柄を取らせたのは気分が悪い」と、歯ぎしりして悔しがらない者はいませんでした。


○平石城軍事付和田夜討事
今河上総守・佐々木六角判官入道崇永・舎弟山内判官、竜山の軍に不合つる事、安からぬ者哉と思はれければ、態他の勢を不交して、五百余騎、同日の晩景に平石の城へ押寄する。一矢射違ふる程こそあれ、切岸高ければ、先なる人の楯の■を蹈へ、甲の鉢を足だまりにして、城戸逆木を切破り、討るゝをも不云、手を負をも不顧、我先にと込入ける間、敵不怺して、其日の夜半計に金剛山を差て落にけり。二箇所の城輙く落されしかば、寄手は勝に乗て、竜の水を得たるが如くになり、和田・楠は機を失て、魚の泥に吻が如し。如斯ならば、赤坂の城も幾程か怺ふべき。暫時に責落して後、主上を生虜進らせ、三種の神器を取奉て、都へ返し入れ進らすべしと、諸人指掌を思ひをなす。すはや天下静りて、武家一統の世に成ぬと、思はぬ人は無りけり。竜門・平石二箇所の城落しかば、八尾城も不怺、今は僅に赤坂の城許りこそ残りけれ。此城さまでの要害共不見、只和田・楠が館の当りを敵に無左右蹴散されじと、俄に構へたる城なれば、暫もやは支るとて、陣々の寄手一所に集て二十万騎、五月三日の早旦に赤坂の城へ押寄せ、城の西北三十余町が間に一勢々々引分て、先向城をぞ構へける。楠は元来思慮深きに似て急に敵に当る機少し。「此大敵に戦はん事難叶。只金剛山へ引隠て敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申けるを、和田はいつも戦ひを先として、謀を待ぬ者なりければ、都て此儀に不同、「軍の習ひ負るは常の事也。只可戦所を不戦して身を慎を以て恥とす。さても天下を敵に受たる南方の者共が、遂に野伏軍許しつる事のをかしさよと、日本国の武士共に笑れん事こそ口惜けれ。何様一夜討して、太刀の柄の微塵に砕る程切合んずるに、敵あらけて引退なば、軈て勝に乗て討べし。引ずんば又力なく、其時こそ金剛山の奥までも、引篭て戦はんずれ。」とて、夜討に馴たる兵三百人勝て、「問はゞ武しと答へよ。」と、約束の名乗を定つゝ、夜深る程をぞ待たりける。五月八日の夜なれば、月は宵より入にけり。時剋よく成ぬとて三百人の兵共、一陣に進で見へける結城が向城へ忍寄て、木戸口にして時を作る。其声に驚て、外の陣には騒げ共、結城が陣は少も不騒、鳴を静めて待懸たり。射手は元来櫓にあれば、矢間を引て差攻々々散々に射る。打物の衆は、掻楯逆木を阻てゝ、上れば切て落し、越れば突落し、此を先途と防けれ共、和田和泉守正武・真前に懸て切て入る。「日来の言を不忘して、続けや人々。」と喚て、掻楯切て引破り、一枚楯引側めて、城の中へ飛入ければ、相順兵三百人、続て城へぞ込入ける。甲の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合せ/\切逢て、天地を動かし火を散す。互に喚叫で半時計切合たるに、結城が兵七百余人、余に戦屈して、已に引色に見へける処に、細川相摸守五百余騎にて敵の後へ廻り、「清氏後攻をするぞ、引な/\。」と呼りけるに力を得て、鹿窪十郎・富沢兵庫助・茂呂勘解由左衛門尉三人、蹈止々々戦けるに、和田が兵数十人討れ、若干疵を被て、叶はじとや思けん、一方の掻楯蹈破て、一度にばつと引たりけり。爰に結城が若党に、物部次郎郡司とて、世に勝たる兵四人あり。兼てより、敵若夜討に入たらば、我等四人は敵の引返さんずるに紛れて、赤坂の城へ入、和田・楠に打違へて死るか、不然は城に火を懸て焼落すかと、約束したりけるが、少も不違、引て帰る敵に紛て、四人共に赤坂の城へぞ入たりける。夫夜討強盜をして帰る時、立勝り居勝りと云事あり。是は約束の声を出して、諸人同時に颯と立颯と居、角て敵の紛れ居たるをえり出さん為の謀也。和田が兵赤坂の城に帰て後、四方より続松を出し、件の立勝り居勝りをしけるに、紛れ入四人の兵共、敢て加様の事に馴ぬ者共なりければ、無紛えり出されて、大勢の中に取篭られ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀なれ。天下一の剛の者とは、是をぞ誠に云べきと、褒ぬ人こそ無りけれ。和田が夜討にも、敵陣一所も不退、城気に乗て見へければ、此城にて敵を支へん事は叶はじとて、和田も楠も諸共に、其夜の夜半許に、赤坂の城に火を懸て、金剛山の奥へ入にけり。

☆ 平石城合戦のことと和田が夜討をかけたこと

ところで、今川上総守、佐々木判官入道崇永(すうえい)、その弟山内判官は竜山の合戦に間に合わなかったことを残念に思い、わざと他の軍勢を交えずに、五百余騎で同日閏四月二十九日の夕方、平石(ひらいわ::河内郡河南町)の城に押し寄せました。矢を交えたのかどうかも分からないうちに、

高く切り立った崖をものともせず、先を進む人の楯を踏みつけ、兜の鉢金を足掛かりにして、城戸や逆茂木を破壊し、討たれることも厭わず、負傷した者を顧みることもなく、我先に城内に突入したので、敵はとても防ぐことが出来ず、その日の夜半頃に金剛山に向かって落ちて行きました。

こうして二ヶ所の城がいとも簡単に落とされてしまったので、寄せ手は勝ちに乗じて竜が水を得たがごとくに活気づき、反対に和田、楠木は勝機を見出すことが出来ず、魚が干上がった水底で、泥にまみれて息をしているようなものです。この勢いならば、赤坂の城もとても抵抗など出来ないだろう。

時を置かずに攻め落とし、主上後村上天皇の身柄を拘束して、三種の神器の提供を受けてから、都に御遷り願うのが良かろうと、今後の展開に全員が何ら疑問を感じませんでした。そこで天下の騒乱は終息し、幕府が天下を支配する世の中になると思わない人などいませんでした。

竜門、平石の二ヶ所の城が陥落し、八尾の城も長くは保てそうにないため、今は僅か赤坂の城だけが残っている状況です。この城も大して攻略困難とも思えず、ただ和田と楠木が本営としている屋敷周辺を、敵に簡単に蹴散らされないよう、急遽構築した城なので、しばらくとて支えることなど出来ないだろうと、

各陣営の寄せ手は一ヶ所に集結し、総勢二十万騎が正平十五年(延文五年::1360年)五月三日の早朝に、赤坂城に押し寄せると、城の西北三十余町の間に各軍勢を分散配置して、まず向い城(敵の城を攻めるため、それに対して構える城)を構えました。楠木は元来思慮深い人間なので、

急いで敵と戦う気はありませんでした。「これだけの大軍と戦うことは難しい。ここは一旦金剛山に引きこもり、敵の戦意にゆるみが出てくるのを待って、その後戦おうではないか」と話されるのを、和田は常に戦うことを前提に考え、謀略などには縁遠い男なので、この意見には賛成出来ず、

「合戦の習いとして負けることも当然ある。ただ戦うべきところを戦わずして、自重して何もしないことを恥とするものである。それにしても、国を敵から攻撃された南方吉野の軍勢が、とうとう野武士のするような奇襲戦ばかりして、おかしいではないかと、日本国中の武士らの物笑いになることこそ残念ではないか。

ここはどうあっても一度夜討ちをかけ、太刀の柄が粉々になるほど切り合いをして、もし敵が散りじりになって退却するなら、勝ちに乗じてすぐ討ち取ってしまえば良い。もし引く気配がなければ、その時こそ仕方ないので、金剛山の奥に引きこもって戦おうではないか」と言って、夜討ちに慣れた兵士三百人を選び出し、

「名を聞かれれば”武(たけ)し”と答えるように」と約束の名乗りを決めて、夜が深まるのを待ちました。その日は五月八日の夜なので、月は宵には沈みました。頃も良しと三百人の兵士が一団となって進み、結城が構築した向い城に忍び寄り、木戸口で鬨の声を上げました。

その声に驚いて他の陣営では騒ぎましたが、結城の陣営では少しも騒ぐ様子もなく、鳴りをひそめて控えていました。射手は言うまでもなく櫓に控えていますから、矢狭間(やざま::塀や櫓などの側壁に設けた矢を射るための穴)から休む間もないほど続けざまに射込みました。武器を手にした兵士らは、

掻楯や逆茂木を前にして防戦し、上って来る者は切り落とし、越えて来た者は突き落とし、ここを死処と防戦に努めましたが、その時和田和泉守正武が真っ先を駆け、切り込みました。「日頃話している言葉を忘れず、者ども続けや」と喚くや、掻楯を切りちぎると、楯一枚を小脇に抱え込んで、

城の中に飛び込んだので、ついて来た兵士ら三百人も続けて城内に入り込みました。兜の鉢を傾け、鎧の袖を揺り合わせ(どちらも矢に対する防御)ながらの切り合いは、天地を動かし火を散らす激しいものでした。お互い喚き散らしながら半時(約一時間)ばかり戦うと、結城の兵士ら七百余人は戦いに疲れ戦意も失いかけ、

すでに退却しそうになりましたが、その時細川相模守清氏が五百余騎を率いて敵の後方に回り込み、「清氏が後方から攻撃をかけるぞ、退くな、退くな」と呼びかけると、その言葉に勇気づけられ、鹿窪(かのくぼ)十郎、富沢兵庫助、茂呂(もろの)勘解由(かげゆ)左衛門尉の三人が踏み止まって戦う内、

和田の兵士ら数十人が討たれ、その上多数の兵士が負傷したので、とても勝ち目がないと思ったのか、一方の掻楯を蹴散らすと一度にパッと引き上げました。この状況の中、結城に従う若武者に、物部(もののべ)次郎郡司と言う、人並み以上の技量を持つ武者四人がいました。

以前から敵がもし夜討ちをかけて来たなら、我ら四人は敵が引き返すのに紛れ込んで赤坂の城に侵入し、和田、楠木と刺し違えて死ぬか、それとも城に火をかけて焼け落そうと約束していましたが、その約束に少しも違えることなく、引き上げる敵に紛れて四人とも赤坂の城に入り込みました。

よく言うように、夜討強盗(寝込みを襲って刃物で脅し、金品を奪うこと)をして引き返す時、立勝り居勝り(たちすぐりいすぐり)と言うことを行います。これは約束の合言葉を言った時、皆が同時にサッと立ち上がったり、座ったりすることによって、敵が紛れ込んでいるのを選び出すための計略です。

和田の兵士らは赤坂の城に戻ってから、四方から松明で照らし、例の立勝り居勝りを行ったところ、紛れ込んでいた四人の兵士らは、全くこのようなことを経験していないので、きっちりと選び出されて大勢に取り囲まれた上、四人とも討ち死にしてしまい、名前だけが残ったことも可哀そうなことです。

天下一の勇者とはこのような人こそ言われるべきだと、褒めない人はいませんでした。和田が行った夜討ちに対しても、敵の陣営は一歩も退却しない上、敵の城内では戦意がますます盛んになったように見えたので、この赤坂城で敵を防ぐことは無理だと判断し、和田も楠木もともに、その日の夜半に赤坂の城に火をかけて、金剛山の奥へと入り込みました。


○吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事
南方の皇居は、金剛山の奥観心寺と云深山なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候の御警固に憑思召れたる龍泉・赤坂も責落されぬ。又昨日一昨日まで御方せし兵共、今日は多く御敵と成ぬと聞へしかば、山人・杣人案内者として、如何様何くの山までも、敵責入ぬと申沙汰しければ、主上を始進せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何すべき。」と、懼恐れさせ給ふ事無限。爰に二条禅定殿下の候人にて有ける上北面、御方の官軍加様に利を失ひ城を落さるゝ体を見て、敵のさのみ近付ぬ先に妻子共をも京の方へ送り遣し、我身も今は髻切て、何なる山林にも世を遁ればやと思て、先吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨はてゝ主君に離れ、此境を立去る事の悲さに、せめて今一度先帝の御廟へ参り、出家の暇をも申さんと思て、只一人御廟へ参りたるに、近来は洒掃する人無りけりと覚て、荊棘道を塞ぎ、葎茂て旧苔扉を閉たり。何の間にかくは荒ぬらんと此彼を見奉るに、金炉香絶草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更之夜。思有て聞く時は、心なき啼鳥も哀を催す歟と覚へ、岩漏水の流までも、悲を呑音なれば、通夜円丘の前に畏て、「つく/゛\と憂世の中の成行く様を案じつゞくるに、抑今の世何なる世なれば、有威無道者は必亡ぶと云置し先賢の言にも背き、又百王を守らんと誓ひ給し神約も皆誠ならず。又いかなる賎き者までも、死ては霊となり鬼と成て彼を是し此を非する理明也。況君已に十善の戒力に依て、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨は縦郊原の土と朽させ給ふとも、神霊は定て天地に留て、其苗裔をも守り、逆臣の威をも亡さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿をも未見。こはいかに成行世の中ぞや。」と泣々天に訴て、五体を地に投礼をなす。余りに気くたびれて、頭をうな低て少し目睡たる夢の中に、御廟の震動する事良久し。暫有て円丘の中より誠にけたかき御声にて、「人やある/\。」と召れければ、東西の山の峯より、「俊基・資朝是に候。」とて参りたり。此人々は、君の御謀叛申勧たりし者共也とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬れ、俊基は其後鎌倉の葛原が岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬れし人々也。貌を見れば、正く昔見たりし体にては有ながら、面には朱を差たるが如く、眼の光耀て左右の牙銀針を立たる様に、上下にをひ違たり。其後円丘の石の扉を排く音しければ遥に向上たるに、先帝袞竜の御衣を召れ、宝剣を抜て右の御手に提げ、玉■の上に坐し給ふ。此御容も昔の竜顔には替て、忿れる御眸逆に裂、御鬚左右へ分れて、只夜叉羅刹の如也。誠に苦し気なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔はつと燃出て、黒烟天に立上る。暫有て、主上俊基・資朝を御前近く召れて、「さても君を悩し、世を乱る逆臣共をば、誰にか仰付て可罰す。」と勅問あれば、俊基・資朝、「此事は已に摩醯脩羅王の前にて議定有て、討手を被定て候。」「さて何に定たるぞ。」「先今南方の皇居を襲はんと仕候五畿七道の朝敵共をば、正成に申付て候へば、一両日の間には、追返し候はんずらん。仁木右京大夫義長をば、菊池入道愚鑑に申付て候へば、伊勢国にてぞ亡び候はんずらん。細川相摸守清氏をば、土居・得能に申付て候へば、四国に渡て後亡候べし。東国の大将にて罷上て候畠山入道・舎弟尾張守をば、殊更嗔恚強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興が申請候て、可罰由申候つれば、輙かるべきにて候。道誓が郎従共をば、所々にて首を刎させ候はんずる也。中に江戸下野守・同遠江守二人は、殊更に悪ひ奴にて候へば、竜の口に引居て、我手に懸て切候べしとこそ申候つれ。」と奏し申ければ、主上誠に御心よげに打咲せ給て、「さらば年号の替らぬ先に、疾々退治せよ。」と被仰て、御廟の中へ入せ給ぬと見進せて、夢は忽に覚にけり。上北面此示現に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無りけり。げにも其験にてや有けん、敵寄せば尚山深く主上をも落し進せんと、逃方を求て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居へは敵曾不寄来、剰へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治今は是までぞ。」とて、同五月二十八日、寄手の総大将宰相中将義詮朝臣尼崎より帰洛し給しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木・宇都宮以下、都て五畿七道の兵二十万騎、我先にと上洛して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云夢も、げにやと思合せられて、如何様にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑し人々も、却て是をぞ憑ける。

☆ 吉野の御廟で神の霊験があったことと、諸国の軍勢が京都に帰還したこと

南方吉野朝廷の皇居は金剛山の奥、観心寺と言う深山にある寺なので、そう簡単に敵が近づくことなど出来ない所ではありますが、敵情の偵察や警固の役として頼りにしていた竜泉、赤坂の城が攻め落とされたのです。また昨日や一昨日までは味方だった兵士らが、今日は多数が敵に寝返ったと聞くと、

山で生活している者や木こりなどに案内させて、どれほどの奥山であっても、必ず敵が攻め込んでくるのではと取り沙汰されているので、主上後村上天皇をはじめに女院、皇后、公卿、殿上人などが、「一体どうすれば良いのか」と、不安にかられ恐怖に震えあがっていました。

さて二条禅定殿下のもとに職員として勤務していた、上北面(じょうほくめん::北面の武士の内、身分の高い者)の武士が、味方の軍勢がこのように合戦に負けては城を落とされて行くのを見て、敵がそれほど迫ってくる前に妻子らを京に送って避難させ、自分も今となっては髷を切り、どんな山奥にでも身を隠そうと考え、

とりあえず吉野周辺まで出て来ました。しかし何と言っても長年努めて来た奉公を捨て去り、主君とも別れてこの地を立ち去ることが悲しく、せめて今一度先帝、後醍醐天皇の御廟に参り、出家の挨拶でもしておこうと思い、ただ一人で御廟にお参りしたところ、最近は洒掃(さいそう::水をかけたり塵をはらったりすること)する人もいなくなったと思われるほど、

荊棘(けいきょく::イバラなどとげのある低木)が道を塞ぎ、葎(むぐら::広範囲に茂る雑草)も生い茂り、古くからの苔が扉を閉ざしています。いつの間にこれほど荒れ果てたのかと、あちこちを見まわしてみれば、黄金の香炉には香も絶えて、草が煙のように固まって残り、美しい宮殿には灯さえなく、

五更(ごこう::一夜を五等分した五つ目。およそ午前三時から午前六時ころ)の夜を蛍が照らしています。考える所があって聞く時は、感情など持たない鳥の鳴き声も哀れを催すのか、岩から漏れ滴る水の流れも、悲しみを含んだ音に聞こえ、終夜円形をした御陵の前に畏まって、「この辛く無常な世の中の行く末を何かと考えてきましたが、

そもそも今の世の実態は、権力を手にしても道義をわきまえない者は、必ず滅亡すると言い残してきた、過去の賢者の言葉に反しており、また代々の帝を護ろうと誓ったはずの神の約束も全て守られていません。またどれほど身分の低い人間であっても、死ねば必ず霊魂となるか鬼になるかして、

この人は許され、これは許されないなど当然のことです。まして後醍醐の君はすでに十悪(殺生、窃盗など十の悪行)を犯すことなく、戒律を守ることにより不思議な力を得て、国内において最も尊い位に就いておられるので、帝の骨はたとえ都以外の地に朽ち果てられたとしても、

その霊魂は必ずやこの世に留まって、その子孫をまもり続け、逆臣に対してはその権力を取り上げるだろうと思っているのに、朝臣が帝に逆らっても天罰が下ることもなく、子供が父を殺害しても神が怒ることなど、未だ見たことがありません。これでは一体どのような世の中になって行くのだろうか」と泣きながら天に訴えて、

我が五体(ごたい::体全体)を地に投げ打って拝礼しました。やがて気疲れのためか少し頭をうなだれ、まどろんだ時に見た夢の中で、御廟がしばらく揺れ動きました。しばらくすると、御陵の中から確かに気高く感じる声があり、「誰かいないか、誰か」と呼ばれると、東西の山の頂上より、

「俊基(日野俊基)、資朝(日野資朝)がここにおります」と言って、御前にやって来ました。この人達は後醍醐天皇に対し、御謀反をお勧めした者だと言うことで、去る元徳三年(元弘元年::1331年)五月二十九日に資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後鎌倉の葛原ヶ岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬られた人達です。

その容貌を見ればまさしく当時のままですが、顔は朱をさしたように赤く、目は光り輝き左右の歯は銀の針を突き刺したように、上下に食い違って生えています。しばらくすると御陵の石の扉を押し開く音がしたので、遠くから見上げてみると、先帝後醍醐天皇が中国風の礼服を着用され、

宝剣を抜いて右の御手にささげ、玉い(戸の下に衣::玉座)の上に坐られています。帝のお姿は昔のお顔とは違って、怒りを含んだ御まなじりは逆さに吊り上がり、御髭は左右に分かれ、まさしく夜叉羅刹(やしゃらせつ::悪鬼、鬼神の総称)そのままです。大変苦しそうな息をされるたびに、お口から炎がパッと燃え出し、

黒煙が天に立ちのぼります。しばらくすると、天皇は俊基、資朝を御前近くに呼ばれ、「ところで帝を苦しめ世を乱す逆臣どもを、一体誰に命じて征伐させれば良いのか」とお尋ねになると、俊基、資朝は、「この件に関しては、すでに摩醯首羅王(まけいしゅらおう::仏教の守護神)の御前で会議があり、

討手は決められております」と、答えられ、「ではどのように決まったのか」「まず現在南方、吉野の皇居を襲撃しようとしている、五畿(山城、大和、河内、和泉、摂津)七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の朝敵どもは、楠木正成に申し付けておりますので、一両日の間には追い返してしまうでしょう。

仁木(にっき)右京大夫義長に対しては菊池入道愚鑑(ぐかん)に申し付けていますから、伊勢国で滅亡することになるでしょう。細川相模守清氏は土居、得能に申し付けていますから、四国に渡ってから滅ぼすでしょう。また東国の大将として上洛している、畠山入道道誓(畠山国清)とその弟、尾張守は特に激しい怒りを持った、

大魔王の新田左兵衛佐義興がみずから志願して、討ち取ると話していますから簡単にすむでしょう。また道誓の郎等などは、あちこちで首を刎ねさせております。中でも江戸下野守と同じく遠江守の二人は、格別あくどい男ですから、龍ノ口(たつのくち::鎌倉時代から室町時代の刑場)に引き据えて、

我々の手で処刑すると話してあります」と天皇に申し上げると、後醍醐天皇はまことに気分よくお笑いになり、「だったら年号の変わらない内に、急いで征伐をするように」と仰せられ、御廟の中に入られたように見えた時、夢はすぐ覚めたのでした。上北面の武士はこの示現(じげん::神仏のお告げ)に驚き、

吉野から再び観心寺に引き返し、人々にこっそりと話してみると、「それはまた、喜ばしい話ではないですか、あなたの思いが強いのでそのような夢を見たのでしょう」と言って、誰一人信用しませんでした。なるほどそのお告げのせいなのか、もし敵が攻め寄せて来れば主上、後村上天皇をなおも山奥深く落とし参らせようと、

逃亡方法を調べながら戦おうとはしませんでした。観心寺の皇居には敵は攻め寄せて来ることなく、その上特に変わったことがあった訳でもないのに、「南方吉野の征伐は今となっては、もうここまでだ」と言って、同じく正平十五年(延文五年::1360年)五月二十八日、寄せ手の総大将宰相中将義詮朝臣は尼崎より帰洛されたので、

畠山、仁木、細川、土岐、佐々木、宇都宮以下全て、五畿七道の兵士ら二十万余騎は我先に都へ帰ると、それぞれ自国に引き上げました。こうなると、上北面の武士が見た夢と言うのも、なるほどと思われ、それでは間違いなく仁木、細川、畠山らも滅びることになるのかと、以前夢を疑っていた人々も、反対にこの夢のお告げを頼りにしたのでした。      (終り)

←前へ   太平記総目次に戻る