35 太平記 巻第三十五 (その一)


○新将軍帰洛事付擬討仁木義長事
南方の敵軍、無事故退治しぬとて、将軍義詮朝臣帰洛し給ひければ、京中の貴賎悦合へる事不斜。主上も無限叡感有て、早速の大功、殊以神妙の由、勅使を下されて仰らる。則今度御祈祷の精誠を被致つる諸寺の僧綱・諸社の神官に、勧賞の沙汰有べしと被仰出けれ共、闕国も所領もなければ、僅に任官の功をぞ被出ける。其比畠山入道々誓が所に、細河相摸守・土岐大膳大夫入道・佐々木佐渡判官入道以下、日々寄合て、此間の辛苦を忘んとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊けるが、互に無隔心程を見て後に、畠山入道密に其衆中に私語けるは、「今は何をか可隠申。道誓今度東国より罷上り候つる事、南方の御敵退治の為とは乍申、宗とは仁木右京大夫義長が過分の挙動を鎮んが為にて候き。旁も定てさぞ被思召候覧。彼が心操曾一家をも可治者とは不見。然を今非其器用四箇国の守護職を給り、差たる忠無して、数百箇所の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩漁為業内には将軍の仰を軽じて毎事不拘成敗。然ば今度南方退治時も、敵の勝に乗る時は悦び、御方の利を得るを聞ては悲。是は抑勇士の本意とや可申、忠臣の挙動とや可申。将軍尼崎に御陣を被取二百余日に及しに、義長西宮に乍居、一度も不出仕、一献を進ずる事も無りしかば、何に抑斯る不忠不思議の者に大国を管領せさせ、大庄を塞せては、世の治ると云事や候べき。只此次に仁木を被退治、宰相中将殿の世務を被助申候はゞ、故将軍も草の陰にては、嬉くこそ被思召候はんずらめ。旁は如何被思召候。」と問ければ、細河相摸守は、今度南方の合戦の時、仁木右京大夫、三河の星野・行明等が、守護の手に属せずして、相摸守の手に付たる事忿て、彼等が跡を闕所に成て家人共に宛行はれたりしを、所存に違て思はれける人也。土岐大膳大夫入道善忠は、故土岐頼遠が子左馬助を仁木が養子にして、動れば善忠が所領を取て左馬助に申与んとするを、鬱憤する折節也。佐々木六角判官入道崇永は、多年御敵なりし高山を打て其跡を給たるを、仁木建武の合戦に恩賞に申給たりし所也とて、押て知行せんとするを、遺恨に思ふ人なり。佐渡判官入道は、我身に取て仁木に差たる宿意はなけれ共、余に傍若無人なる振舞を、狼藉なりと目にかけゝるとき也。今河・細河・土岐・佐々木、皆義長を悪しと思ふ人共なりければ、何れも不及異儀、「只此次に討て、世を鎮るより外の事は候はじ。」と、面々にぞ被同ける。然ば軈て合戦評定可有とて、人々の下人共を遠く除たる処に、推参の遁世者・田楽童なんど数多出来ける程に、諸人皆目加せして、其日は酒宴にて止にけり。

☆ 新将軍義詮が帰洛したことと、仁木義長を討ち取る相談をしたこと

さて南朝の敵軍を無事に征伐して将軍義詮朝臣が帰洛されたので、京中の人々は身分に関係なく大変喜びました。主上後光厳天皇のお喜びもひとしおで、その功績の速さと大きさはまことに殊勝であると、勅使を下されて仰せになられました。ただちに今回戦勝の祈祷に誠意を尽くした諸寺の僧綱(そうごう::僧尼を統率し諸寺を管理する官職)や諸社の神官に、

恩賞を与えるようにと仰せられましたが、闕国(けっこく::国司ら領主のいない国)も与えることの出来る領地もありませんので、わずかに官職に任ずるだけでその功に答えるよう仰せられました。その頃、畠山入道道誓の屋敷に、細川相模守、土岐大膳大夫入道、佐々木佐渡判官入道道誉以下が日々寄り合い、

今までの苦労を忘れようと、酒宴や茶の会などを夜昼なく行っていましたが、お互いの考えなどに隔たりがないのを確認してから、畠山入道がひそかに皆の前で、「今となっては何も隠すことなくお話ししましょう。道誓がこのたび東国より上洛してきたのは、南方吉野の征伐とは言いながら、

本来の目的は仁木右京大夫義長の行き過ぎた行動を抑えるためです。皆様もきっとそう思っておられるでしょう。彼の心構えでは一家を支えることも出来るとは思えません。それなのに現在その能力を超え、四ヶ国の守護職に命じられ、大した勲功も無いのに、数百ヶ所の大きな領地を支配している。

個人的には仏や神を敬うこともなく、朝夕漁を業とし、公務においては将軍の言葉を軽視して、何事においても決済に関知しようとしません。そのためか今回の南方征伐の時も、敵が勝ちに乗じている時は喜び、味方が優勢であると聞けば悲しんでいた。こんなことが勇者の取るべき態度と言うのでしょうか、

また忠義ある臣下の行うべき行動と言えるのでしょうか。将軍義詮殿が尼崎に御陣を置いて、二百余日に及ぶ間、義長は西宮に居ながら、一度も将軍の陣営に出仕(しゅっし::出勤すること)することなく、酒席を設けて酒をお勧めすることもなかったのに、一体どう言う訳でこのように忠義を果たさないような変人に、

大国を管理させ、大きな領地の支配を許すのでしょうか。こんなことをしていれば、世の中が治まるとは考えられません。ただ一つ、次に仁木を征伐して宰相中将殿のお勤をお助けすれば、故尊氏将軍も草葉の陰でお喜びになられるでしょう。皆さまはどうお考えになられますか」と、ささやきました。

すると細川相模守清氏は今回の南方との合戦の折、仁木右京大夫義長は三河の星野行明(ぎょうみょう)らが、守護である仁木義長の支配に属さず細川相模守清氏の支配下に入ったことに怒って、彼らの所領を闕所(けっしょ::領主のいない土地)として扱い、自分の家来らに分け与えたことを、

とんでもないことをされたと思っている人たちです。土岐大膳大夫入道善忠(土岐頼康)は故土岐頼遠の子供左馬助を仁木が自分の養子として迎え、何かあれば善忠の所領を横領して、左馬助に与えようと考えていることに腹を立てているこの頃です。また佐々木六角判官入道崇永(六角氏頼)は、

長年敵であった高山を討ち取りその所領を手に入れたのを、仁木右京大夫は建武(1334-1336年)の合戦の折、恩賞として賜った地であると主張して、手放そうとしないのを遺恨に思っている人です。そして佐々木佐渡判官入道道誉は自分自身にこれと言って仁木に恨みはありませんが、

余りにも傍若無人な行動を繰り返す仁木に対して、秩序を守らない無法者だと注意深く見ていました。このように今川、細川、土岐、佐々木ら全員が、仁木義長に憎しみを感じている人たちですから異論の出ることもなく、「ではこの機会に討ち取って、世を鎮める以外ないだろう」と、各自賛同しました。

では早速合戦について打ち合わせを行おうと、各自の下人らを遠くに下げたのですが、呼びもしていないのに遁世者(とんせいしゃ::仏門に入った人)、田楽童(田楽など演じる子供)などが多数やって来たので、皆は互いに目配せし、その日は酒宴だけにとどめました。


○京勢重南方発向事付仁木没落事
斯る処に和田・楠等、金剛山並に国見より出て、渡辺の橋を切落し、誉田の城を責んとする由、和泉・河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を可被下と告たりければ、先日数月の大功、一時に空く成ぬと、宰相中将義詮朝臣周章し給けれ共、誰を下れと下知する共、不可有下者、諸人の心を推量し給て、大息突て御坐けるに、聞と等く畠山入道々誓・細河相摸守清氏・土岐大膳大夫入道善忠・佐々木六角判官入道崇永・今河上総介・舎弟伊予守・武田弾正少弼・河越弾正・赤松大夫判官光範・宇都宮芳賀兵衛入道禅可以下、此間一揆同心の大名三十余人、其勢都合七千余騎、公方の催促をも不相待我先にと天王寺へぞ向ける。後に事の様を案ずれば、是全く南方の蜂起を鎮ん為にては無りけり。只右京大夫義長を亡さんが為に、勢を集めける企也。何とは不知、京より又大勢下りければ、和田・楠、渡辺にも不支、誉田の城をも不責、又金剛山の奥へ引篭る。京勢、本より敵対治の為ならねば、楠引け共続いても不責、勝にも不乗、皆天王寺に集居、頭を差合せ諾て、仁木右京大夫を可討謀をぞ廻しける。只二人して云事だにも天知地知我知いへり。況や是程の大勢集て云私語く事なれば、なじかは可有隠。此事軈て京都へ聞てげり。義長大に忿て、「こは何に某が討るべからん咎は抑何事ぞ。是只道誓・清氏等が、此次に謀叛を起さん為にぞ、左様の事をば企らん。此事を急ぎ将軍に申さでは叶まじ。」とて、中務少輔計を召具し、急ぎ宰相中将殿へ参て、「道誓・清氏こそ義長を可討とて、天王寺より二手に成て、打て上り候なれ。是は何様天下を覆んと存る者共と覚候。御由断あるまじきにて候。」と申ければ、「さる事や可有。云者の誤にぞ有らん。千万に一もさる事あらば、義詮を亡さんとする企なるべし。我与御辺一所に成て戦はゞ誰か下剋上の者共に可与。」と宣へば、義長誠に悦て、己が宿所へぞ帰ける。義長分国よりの兵共、未一人も下さで置たりければ、天王寺の大勢、已に二手に作て、責上ると告けれ共、敢て物ともせず。「さもあれ当手の軍勢何程か有覧、著到を著て見よ。」とて、国々を分て著到を付たるに、手勢三千六百余騎、外様の軍勢四千余騎とぞ注しける。義長著到を披見して、「あはれ勢や、七千余騎は、天王寺の勢十万騎にも勝るべし。然ば手分をして敵を待ん。」とて、猶子中務少輔頼夏に二千余騎を著て四条大宮に引へさせ、舎弟弾正少弼に一千余騎を付て東寺の辺に陣を張せ、我身は勝りたる兵相具して、宿所の四方四五町の程の在家を焼払ひ、馬の懸場を広く成して、未惟幕の中に並居たり。其勢ひ事柄、げにも寄手縦何なる大勢なり共、此勢に二度三度は何様懸散されんとぞ見へたりける。宰相中将殿若讒人の申旨に付て細河・畠山に御内通の事有なば、外様の兵何様弐ろを仕つべく覚れば、中将殿を取篭奉て、近習の者共をあたり近く不可寄とて、中務少輔を召具し、宿に入れば義長二百余騎にて、中将殿御屋形へ参じ、四方の門を警固して、曾て御内外様の人を不近付、毎事己が所存の侭に申行ひければ、天王寺下向の軍勢共は、忽に朝敵の名を蒙て、追罰の綸旨・御教書を成れ、義長は武家執事の職に居て、天下の権を司る。只五更に油乾て、灯正に欲銷時増光不異。

☆ 京都の軍勢が再び吉野に向かって発向したことと、仁木が没落したこと

そうこうしている内に和田や楠木らが金剛山並びに国見を進発し、渡辺橋を切り落とし、誉田城(こんだじょう::羽曳野市)を攻めるつもりらしいと、和泉、河内より京都に早馬が立てられ、急いで軍勢を派遣してほしいと急報があったので、先日来数ヶ月かけて挙げた戦果も一時に無駄になるのかと、

宰相中将義詮朝臣は慌てました。しかし出征を命じても応じる者など果たしているのかと、皆の心情を推察してため息をついていたところ、この情報を耳にした畠山入道道誓、細川相模守清氏、土岐大膳大夫入道善忠、佐々木六角判官入道崇永、今川上総守、その弟伊予守、竹田弾正少弼、

河越弾正、赤松大夫判官光範、宇都宮芳賀兵衛入道禅可以下と、先日来行動を共にすると決めた大名三十余人、総勢七千余騎が将軍義詮の催促を待つことなく、我先に天王寺に向かいました。後になってことのいきさつを調べてみると、これは全く南方吉野勢の蜂起を鎮圧するためではありませんでした。

ただ仁木右京大夫義長を滅ぼすために軍勢を集めただけでした。そんなことなど知らず、京より再び大軍が下って来たので、和田、楠木は渡辺で防戦することなく、誉田の城を攻めることもせずに、また金剛山の奥に引き籠りました。もともと京都の軍勢は吉野軍の征伐が目的でないので、

楠木が退却しても続けて攻めることもなく、勝ちに乗じる訳でもなく全員天王寺に集結し、額を合わせ協同して仁木右京大夫を討ち取る相談をしました。しかしただ二人だけで話したことも、天の神が知り、地の神が知り、私も知ると言います。ましてこれほど大勢の人間が集まってのひそひそ話なので、

どうして隠しおおせると言うのでしょうか。すぐにこのことは京都に漏れたのです。話を聞いた仁木義長は激怒し、「一体どんな罪をもって私を討とうと言うのか。ただこれは事のついでに謀反を起こすため企んだものだろう。このことは一刻も早く将軍に知らせなければならない」と言って、

中務少輔頼夏だけ連れて急ぎ宰相中将殿のもとに参り、「道誓、清氏の二人は間違いなく義長を討ち取ろうと、天王寺より二手に分かれて上って来るでしょう。これは何とかして天下を覆そうと考えている者どもだと思われます。御油断なされないように」と、話されると、「そのようなことがあるのか、

言った者の間違いではないのか。もし千万に一つでもそのようなことがあれば、義詮を滅ぼそうとする企てに違いない。私と貴殿が一つになって戦えば、上層の者を陥れようとする者に誰が味方などするのか」と仰せられたので、義長は心から喜んで自分の屋敷に帰りました。

義長は自分の領国から呼んだ兵士らはまだ一人も天王寺に下すことなく手元に置いていたので、天王寺の大軍が、すでに二手になって攻め上って来ると報告があっても、全く問題にしませんでした。「とにかく我が軍が如何ほどのものか、軍勢の到着を記録するように」と言って、各国ごとに軍勢の到着を調べ、

一族関係では三千六百余騎、外様は四千余騎と記録しました。義長はこの記載を見て、「すばらしい軍勢ではないか。この七千余騎は、天王寺の敵勢十万騎に勝るぞ。では軍勢を配置して敵を待とう」と言って、養子の中務少輔頼夏に二千余騎を従わせて四条大宮に控えさせました。

弟の弾正少弼に一千余騎を与えて東寺周辺に陣を構えさせると、自分は精兵を従えて屋敷の周囲四、五町ほど民家を焼き払い、馬が駆け巡れるよう広場を整備して、未だ本営の幕内に控えていました。その軍勢と戦意戦略など、たとえ寄せ手がどれほどの大軍だと言っても、

待ち受けるこの軍勢に二度、三度は間違いなく蹴散らされるだろうと思われました。しかし宰相中将義詮殿が、もし讒言を行った人の言葉を信じて、細川や畠山に心を寄せるようなことになれば、外様の兵士らは裏切ることもあるかと考えられ、ここは中将殿を捕らえておいて近習(そば近く仕える者)の者らも近づかさないようにしなければと、

中務少輔を連れて屋敷に入ると義長は、二百余騎で中将殿の御屋形に行き、四方の門を厳しく警固することによって、身内や外様の人々を完全に近寄れなくして、すべての事案を自分の思いのまま決済したので、天王寺に出征していた軍勢は忽ちに朝敵の名を受け、その上追討の綸旨や御教書も下し、

義長は幕府足利家の執事の座を占め、天下の権力全てを握りました。その状況は五更(ごこう::一夜を五等分した五つ目。およそ午前三時から午前六時ころ)に油が切れて、灯が消えそうになった時、光が増すのと変わりありません。


去程に七月十六日に天王寺の勢七千余騎、先山崎に打集て二手に分つ。一方に細河相摸守を大将とし三千余騎、鵙目・寺戸を打過て、西の七条口より寄んとす。畠山入道・土岐・佐々木を大将にて五千余騎、久我縄手を経て東寺口より可寄とぞ定ける。今年南方既に静謐して御敵今は近国に有共聞へねば、京中貴賎、すは早世中心安く成ぬと悦合へる処に、又此事出来にければ、こは如何すべきと周章騒ぎ、妻子をもてあつかひ財宝を隠し運ぶ事、道をも通り得ぬ程也。折を得て疲労の軍勢猛悪の下部共、辻々に打散て、無是非奪取り剥むくりければ、喚き叫ぶ声物音も聞へず、京中只上を下へぞ返しける。是までも猶中将殿は、仁木に被取篭御座しけるを、佐々木判官入道、忍やかに小門より参て、「何なる事にて御座候ぞ。国々の大名一人も不残一味同心して、失はんと謀り候義長を、御一所して拘させ給候はゞ、可叶候歟。彼が挙動仏神にも被放、人望にも背はてたる者にて候とは被御覧候はざりけるか、乍去君の御寵臣を、時宜をも不伺、左右なく討んと擬し、忽に京中に打て入彼等が所存も一往御怖畏なきに非ず。されば先御忍候べし。道誉只今仁木に対面して軍評定仕候はんずる其間に、可然近習の者一人被召具、女房の体に出立せ給て、北の小門より御出候へ。御馬を用意仕て候。何くへも忍ばせ進せ候べし。」とぞ申たりける。将軍げにもと思給ければ、風気の事有とて帳台の内へ入り宿衣引纏頭臥給へば、仁木中務少輔も、遠侍へ出にけり。暫有て佐々木判官入道、百騎許にて馳来り、仁木に対面して、軍評定及数刻、去程に夜も痛く深ぬ。可見咎申人もなく成にければ、中将殿は女房の体に出立て、紅梅の小袖に、柳裏の絹打纏頭て、海老名信濃守・吹屋清式部丞・小島次郎計を召具して、北の小門より出給へば、築地の陰に、用意の御馬に手綱打係て引立たり。小島次郎そと寄り、掻懐き奉て馬に打乗せ進せて、中間二人に口引せ、装束裹持せて、四五町が程は閑々と馬を歩ませ、京中を過れば、鞭に鐙を合せて、花苑・鳴滝・並岡・広沢池を過て、時の間に西山の谷堂へ落給ふ。是を夢にも不知ける仁木右京大夫が運こそ浅猿けれ。中将殿今は何くへも落著せ給ぬと思ふ程に成ければ、判官入道己が宿所へとてぞ帰ける。其後義長常の御方へ参て、「夜明候はゞ、敵定て寄つと覚へ候に、今は御旗をも被出候へとて参て候、軍勢共に御対面も候へかし。余りに久く御宿篭り候者哉。御風気は何と御坐候やらん。」と申ければ、女房達一二人御寝所に参て此由を申さんとするに、宿衣を小袖の上に引係被置たる許にて、下に臥たる人はなし。女房達、「此は何なる御事ぞや。」と周章騒で、「穴不思議や、上には是には御坐も候はざりけるぞや。」と申ければ、義長大に忿て、女房達近習の者共の知ぬ事は有まじきぞ、四方の門をさし人を出すなと騒動す。中務少輔は余に腹を立て、貫はきながら、召合せの内へ走入て屏風障子を踏破り、「日本一の云甲斐なしを憑けるこそ口惜けれ。只今も軍に打勝ならば、又此人我等が方へ手を摺てこそ出給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐散して、己が宿所へぞ帰ける。宰相中将殿の仁木が方に御坐しつる程こそ、此人の難捨さに、国々の勢外様の人々も、数多義長が手には著順ひつれ、仁木を討せん為に中将殿落給ひたりと聞へければ、我も々もと百騎二百騎、打連々々寄手の方へ馳著ける程に、今朝まで七千余騎と注したりし義長勢、僅に三百余騎に成にけり。義長は暫はへらぬ体に打笑て、「よし/\云甲斐なからん奴原は足纏になるに、落たるこそよけれ。」云けるが、是を実に身に替り、命に替らんずる者と、憑み思たる重恩の郎従も、皆落失ぬと聞へければ、早、言もなく興醒、忙然としたる気色也。去程に夜も漸深行ば、鵙目・寺戸の辺に、続松二三万燃し連て、次第に寄手の近付勢ひ見へければ、義長角ては不叶とや思けん、舎弟弾正少弼をば、長坂を経て丹後へ落す。猶子中務少輔をば、唐櫃越を経て丹波へ落す。我身は近江路へ係る由をして、粟田口より引違へ、木津河に添伊賀路を経て、伊勢国へぞ落たりける。義長勢尽都を落ぬと聞へしかば、中将殿も軈て都へ帰入給ひ、寄手共も今度の軍は定て手痛からんずらんと、あぐんで思けるが、安に相違して一軍もなければ、皆悦勇で、軈て京へぞ入にける。

さて延文五年(正平十五年::1360年)七月十六日、天王寺の軍勢七千余騎は、まず山崎に集結して二手に分けました。一方は細川相模守を大将にした三千余騎が、物集女(鵙目::もずめ・向日市)、寺戸を経由して都の西七条口より寄せることにしました。畠山入道、土岐、佐々木を大将にした五千余騎は、

久我縄手(畷)を経由して東寺口より攻めることと決めました。今年になってから南方吉野軍は落ち着いているし、敵が近くにいるとも聞いていないので、京中の人々はもう世の中安心できると喜んでいたところに、またもやこのような事件が起こり、一体どうすれば良いのか慌てふためき、

妻子の安全をはかるため逃がしたり、資産を隠すため運び出したりするので、道路は通行も困難な状況となりました。これ幸いにと遠征に疲れた軍兵や、荒くれた下っ端の連中は辻々に出没し、運搬中の品々を無理やり奪い取り、はぎ取ったりしたものの、喚き騒ぐ声や騒々しい物音は聞こえませんが、

京中は上を下への大騒ぎになりました。この時まだなお中将義詮殿は仁木に捕らえられいましたが、佐々木判官入道道誉が人目を忍んで小門から参り、「どういう事ですか。各国の大名らが、一人残らず協同して殺害を計画している義長を、同じ建物内に庇護などされたら、とても計画の成功は無理でしょう。

義長の行動は神や仏にも見放され、人望も失った者だとはご覧になられませんか。とは言えども御主君のお気に入りの臣下を、時期と場合を考えずに有無を言わせず討とうとして、突然京都に乱入はしましたが、彼らの考え方も全く恐れないわけではありません。そこで殿にはまずお忍びの体で脱出願います。

道誉は今すぐ仁木義長に対面し作戦会議を開きますから、その間にしかるべき近習の者を一人お連れして、女房の姿で北の御門より脱出願います。御馬をご用意していますから、どこにでも姿をお隠しになってください」と、申し上げました。将軍も納得され、風邪気味であると言って、

寝所にお入りになり頭から夜着をかぶって臥せられたので、仁木も中務少輔も母屋を出て、警固する武士の詰め所に行きました。しばらくして佐々木判官入道道誉が百騎ばかりを率いて駆けつけてくると、仁木に面会して作戦会議を数刻にわたって行う内、やがて夜も更け切りました。咎める人もいなくなったので、

中将殿は女房の姿になって、紅梅(こうばい::華やかな高級生地)の小袖に柳裏(薄緑色)の絹布を頭からかぶって、海老名信濃守、吹屋清(ふきやせいの)式部丞、小島次郎だけをお連れになって、北の小門よりお出でになられると、築地(つきじ::土塀)の陰に用意の御馬が手綱を付けて待っていました。

小島次郎がソッと近寄り、抱き上げるように馬にお乗せして、中間二人に馬の口を取らせ、装束を包むように持たせ、四、五町ほどは、ゆっくりと静かに馬を歩ませましたが、京の町中を過ぎると、鞭をあて鐙であおって速足になり、花園、鳴滝、双ヶ岡、広沢の池を過ぎ、瞬く間に西山の谷堂に落ちられました。

こんなことが起こっているとは夢にも知らない、仁木右京大夫の運こそ哀れなものです。中将殿はもう今頃はどこかに落ち着かれていると思われる頃になったので、判官入道道誉は自分の屋敷に帰られました。その後義長は将軍の陣営に行き、「夜が明ければ敵は間違いなく寄せて来ると思うので、

もう御旗をお出しになって頂こうと参りました。軍勢らとのご対面もお願いします。それにしても長くお部屋に篭っておられますが、お風邪の具合はいかがなものでしょう」と申し上げたので、女房達一、二人が御寝所に参り、この旨お告げしようとしましたが、夜着が小袖の上にかけられているだけで、

下には誰も伏せてはいません。女房達は、「これは一体どうしたことか」と慌て騒ぎ、「何とも不思議な事です、将軍殿はここにはおられません」と申し上げると、義長は大変怒って、女房達や近習の者どもが知らないことなどないはずだ、四方の門を閉ざして人を出すなと大騒ぎになりました。

中務少輔はあまりにも腹が立ち、貫(つらぬき::毛皮の浅靴)を履きながら障子戸の内側へ走り込み、屏風や障子を蹴破り、「日本一情けない男に頼ったことこそ悔しい限りだ。今すぐにでもこの合戦に勝ったら、この男はまた我々の方に手を擦りながら出て来るのだろう」とさんざん悪口を吐き散らして、自分の屋敷に帰りました。

宰相中将殿が仁木の支配下に置かれている間は、中将殿を見捨てるわけにはいかないので、各国の軍勢も多数義長の支配下に属していましたが、仁木を討たせるために中将殿が落ちられたと聞こえてくると、我も我もと百騎、二百騎と連れだって寄せ手軍に駆けつけてくるので、

今朝まで七千余騎と記された義長軍は、僅か三百余騎になってしまいました。義長はしばらくのあいだこそ臆する様子もなく、笑いながら、「よしよし、頼りにならない者は足手まといになるだけなので、落ちて行くのも良いだろう」と話していましたが、長年仕えて来て何かあれば我が身、

我が命を捨ててくれる者だと頼りきっていた家来らも、皆が皆、逃げ落ちてしまったと聞くと、さすが言葉も出ず気も落ち込み、ただただ茫然とするばかりです。やがて夜もようやく更けて来ると、物集女、寺戸周辺に松明の二、三万本を燃やし連ねて、寄せ手が次第に近づいてくる様子が感じられたので、

義長はもはや戦闘不可能と思ったのか、弟の弾正少弼を長坂経由で丹後に落としました。養子の中務少輔は唐櫃越を経て丹波に落としました。そして我が身は近江路に向かう様子を見せて、粟田口から向きを変え木津川に沿い、伊賀路経由で伊勢国に落ちて行きました。

このように義長の軍勢ことごとく都を落ちたと聞いたので、中将殿もすぐに都へお帰りになり、また寄せ手の軍勢も、今回の合戦はきっと苦戦するだろうと、いやな気分でいましたが、思いがけなく一度だって戦うこともなかったので、皆は喜び勇んですぐに京都に入りました。


○南方蜂起事付畠山関東下向事
去程に京都に同士軍有て、天王寺の寄手引返すと聞へしかば、大和・和泉・紀伊国の宮方時を得て、山々峯峯に篝を焼、津々浦々に船を集む。是を見て京都より被置たる城々の兵共、寄合寄除き私語きけるは、、「前に日本国の勢共が集て責し時だにも、終に退治し兼て有し和田・楠也。まして我等が城に篭て被取巻なば、一人も帰者不可有。」とて、先和泉の守護にて置れし細河兵部太輔、未敵の係らぬ前に落しかば、紀伊国の城湯浅の一党も、船に取乗て兵庫を差て落行。河内国の守護代、杉原周防入道は、誉田の城を落て、水走の城に楯篭り、爰に暫く支て京都の左右を待んとしけるが、楠大勢を以て息も不継責ける間、一日一夜戦て、南都の方へぞ落にける。根来の衆は、加様に御方の落行をも不知、与力同心の兵集て三百余人、紀伊国春日山の城に楯篭り、二引両の旗を一流打立て居たりけるを、恩地・牲河・三千七百余騎の勢にて押寄、城の四方を取巻て、一人も不余討にけり。熊野には湯河庄司、将軍方に成て、鹿の瀬・蕪坂の後に陣を取り、阿瀬河入道定仏が城を責んとしけるを、阿瀬河入道・山本判官・田辺別当、二千余騎にて押寄せ、四角八方へ追散し、三百三十三人が頚を取て、田辺の宿にぞ懸たりける。鷸蚌相挟則烏乗其弊とは、加様の時をや申べき。都には仁木右京大夫落たりと、悦ばぬ人も無りけれ共、畿内遠国の御敵は、是に時を得て蜂起すと聞へければ、すはや世は又大乱に成ぬるはと、私語かぬ人も無りけり。其比何なる者の態にや、五条の橋爪に高札を立て、二首の歌を書付たり。御敵の種を蒔置畠山打返すべき世とは知ずや何程の豆を蒔てか畠山日本国をば味噌になすらん又是は仁木を引人の態かと覚て、一首の歌を六角堂の門の扉に書付たり。いしかりし源氏の日記失ひて伊勢物語せぬ人もなし畠山入道、其比常に狐の皮の腰当をして、人に対面しけるを、悪しと見る人や読たりけん、畠山狐の皮の腰当にばけの程こそ顕れにけれ又湯河庄司が宿の前に、作者芋瀬の庄司と書て、宮方の鴨頭になりし湯川は都に入て何の香もせず今度の乱は、然畠山入道の所行也と落書にもし歌にも読、湯屋風呂の女童部までも、もてあつかひければ、畠山面目なくや思けん、暫虚病して居たりけるが、如斯ては、天下の禍何様我身独に係りぬと思ければ、将軍に暇をも申さで八月四日の夜、密に京都を逃出て、関東を差てぞ下りける。参河国は仁木右京大夫多年管領の国也ければ、守護代西郷弾正左衛門尉、五百余騎にて矢矧に出張て、道を差塞ぎける間不通得、路次に日数をぞ送りける。如斯何までか中途に浮れて可有、中山道を経てや下る、京へや引返すと案じ煩ひける処に、小川中務仁木に同心して、尾張国にて旗を揚る間、関東下向の勢、畠山を始として、白旗一揆・平一揆・佐竹・宇都宮に至るまで、前後の敵に被取篭、前へも不通、迹へも不帰得、忙然としてぞ居たりける。山名伊豆守は、東国勢既に南方を退治して、都へ帰ぬと聞しかば、始は何様此次に我方へも被寄ぬと推量して、城を構へ鏃を磨て、可防用意をせられけるが、都に不慮の軍出来て、仁木右京大夫宮方になり、和田・楠又打出たりと聞へければ、伊豆守軈機に乗て、其勢三千余騎を卒し二手に分て、因幡・美作両国の間に勢を分てぞ置たりける。赤松筑前入道世貞・同律師則祐が、所々の城を責るに・草木・揉尾・景石・塔尾・新宮・神楽尾の城共、一怺もせず、或は敵に成て却て御方を責め、或は行方を不知落失ぬ。脣竭て歯寒、魯酒薄して邯鄲囲るとは、加様の事をや申べき。

☆ 吉野軍が蜂起したことと、畠山入道道誓が関東に下向したこと

さて京都で同士討ちの合戦が行われそうになり、天王寺に進出していた寄せ手の軍勢が、引き返すそうだと聞こえて来たので、大和、和泉、紀伊国の宮方吉野軍はこれを機に、山々峰々に篝を燃やし、津々浦々に舟を集めました。京都から派遣され未だに各城々に残っている兵士らはこの状況を知って、

集まった時互いにささやき合ったり、一人になった時独り言で、「以前日本国中の軍勢で総攻撃をかけた時でさえ、とうとう征伐することが出来なかった、和田や楠木である。だったら我らが城に篭って、もし取り囲まれたりしたら、一人だって帰ることなど出来ないだろう」と言って、

まず和泉の守護として残っていた細川兵部大輔が、まだ敵が攻めてこない内に逃げ落ちると、紀伊国の湯浅城の一党も、舟に飛び乗り兵庫に向かって落ちて行きました。河内国の守護代、杉原周防入道は誉田(こんだ)の城を落ちて、水走(みはや)の城に立て篭もり、ここでしばらく防戦しながら、

京都の情勢を伺おうとしましたが、楠木が大軍で息も継がせず猛攻を加えたので、一日一夜戦ったものの南都に向かって落ちて行きました。また根来の衆はこのように他の味方が落ちて行ったことを知らないので、味方として加勢してきた兵士を集め、その数三百余人が紀伊国の春日山の城に立て篭もり、

二引両(足利家の紋、つまり幕府側)の旗を一旒立てていましたが、恩地、牲河(にえがわ)らが三千七百余騎で押し寄せると、城の四方を取り巻き一人残さず討ち取りました。熊野では湯河庄司が幕府将軍方に寝返り、鹿の瀬、蕪坂(かぶらざか)の後方に陣を構え阿瀬河(あぜかわ)入道定仏(じょうぶつ)の城を攻めようとしましたが、

阿瀬河入道、山本判官、田辺別当らが二千余騎にて押し寄せてくると四方八方に追い散らし、三百三十三人の首を取って田辺の宿に架けたのでした。鷸蚌(いつぼう)相挟則烏乗其幣(水鳥と貝が争っている内にカラスが利を得る。漁夫の利)とはこのような時にいうのでしょう。都では仁木右京大夫が落ちて行ったと喜ばない人はいませんが、

畿内や遠国の敵はこれを好機として蜂起するのではと言われており、これでは再び世の中大乱になるのではと、ひそひそと話さない人などいませんでした。当時誰の仕業なのか、五条の橋詰めに高札を立てて、二首の歌を書きつけました。

      御敵の 種を蒔置 畠山 打返すべき 世とは知ずや
      何程の 豆を蒔てか 畠山 日本国をば 味噌になすらん

また仁木を贔屓する人の仕業かと思えますが、一首の歌が六角堂の門扉に書き付けてありました。
      いしかりし 源氏の日記 失ひて 伊勢物語 せぬ人もなし

畠山入道は当時、いつもキツネの皮の腰当をして人に面会するのを、良くないと思う人が詠んだのか、
      畠山 狐の皮の 腰当に ばけの程こそ 顕れにけれ

また湯河庄司の宿所の前には、作者芋瀬の庄司と書いて、
      宮方の 鴨頭(こうと::吸い物に入れるユズの皮など薬味のこと)になりし 湯川(ゆのかわ)は 都に入りて 何の香もせず

今回の騒乱は、ただ畠山入道道誓の仕組んだことだと落書にも、また歌にも詠まれて湯屋風呂で、女子供までが話題にするので、畠山国清は立場が無くなったと思って、しばらくは仮病を使っていましたが、このままでは天下の騒動の原因は全て我が身にかかってくると思ったのか、

将軍に休暇を申し出ることなく延文五年(正平十五年::1360年)八月四日の夜、ひそかに京都を逃げ出し、関東に向かって下りました。三河国は仁木右京大夫が長年支配してきた国なので、守護代西郷弾正左衛門尉が五百余騎を率いて矢矧まで出張って街道を閉鎖し、通行が出来ないため、途中で日を送ることになりました。

このように途中でいつまでも日を送る訳にもいかず、中山道を通って下るか、それとも京へ引き返すか悩んでいると、小川中務が仁木に協力して尾張国で旗を揚げたので、関東に下向しようとしていた軍勢は、畠山をはじめに白旗一揆、平一揆、佐竹、宇都宮に至るまで前後の敵に取り囲まれて、

前にも行けず後にも引けず、ただ茫然とするばかりです。山名伊豆守は東国の軍勢は、すでに南方吉野軍を征伐し終わって都へ帰ったと聞いたので、初めのうちこそ次はどんなことがあっても我が方に攻め寄せて来るだろうと予測し、城を構え鏃を磨いて防衛戦の用意をしていましたが、

都において思いがけない戦いが起こり、仁木右京大夫が宮方に寝返って、和田、楠木らが再び進攻を始めたと聞こえてきたので、伊豆守はこの機を逃さず、すぐ三千余騎を率いて二手に分け、因幡、美作両国の間に分散して配置しました。赤松筑前入道世貞、同じく律師則祐らが諸所の城を攻めたところ、

草木(くさぎ)、揉尾(そとお)、景石(かげいし)、塔尾(とうのお)、新宮、神楽尾(かぐらお)の城など、まともに戦おうとせず、ある所では敵に寝返って味方を攻撃したり、またある城では逃げ落ち行方知れずになりました。脣(くちびる)(つき)て歯寒、魯酒薄して邯鄲囲る(出典・荘子::互いに助け合う関係にある一方が滅びると、他の一方の存在まで危うくなる)、とはこのようなことを言うのでしょう。      (終り)

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