35 太平記 巻第三十五 (その二)


○北野通夜物語事付青砥左衛門事
其比日野僧正頼意、偸に吉野の山中を出て、聊宿願の事有ければ、霊験の新なる事を憑奉り、北野の聖廟に通夜し侍りしに、秋も半過て、杉の梢の風の音も冷く成、ぬれば、晨朝の月の松より西に傾き、閑庭の霜に映ぜる影、常よりも神宿て物哀なるに、巻残せる御経を手に持ながら、灯を挑げ壁に寄傍て、折に触たる古き歌など詠じつゝ嘯居たる処に、是も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚くて、南殿の高欄に寄懸て、三人並居たる人あり。如何なる人やらんと見れば、一人は古へ関東の頭人評定衆なみに列て、武家の世の治りたりし事、昔をもさぞ忍覧と覚て、坂東声なるが、年の程六十許なる遁世者也。一人は今朝廷に仕へながら、家貧く豊ならで、出仕なんどをもせず、徒なる侭に、何となく学窓の雪に向て、外典の書に心をぞ慰む覧と覚へて、体縟に色青醒たる雲客也。一人は何がしの律師僧都なんど云はれて、門迹辺に伺候し、顕密の法灯を挑げんと、稽古の枢を閉ぢ玉泉の流に心を澄すらんと覚へたるが、細く疲たる法師也。初は天満天神の文字を、句毎の首に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現にもと覚る事共多かり。先儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘るに、戦国の七雄も終に秦の政に被合、漢楚七十余度の戦も八箇年の後、世漢に定れり。我朝にも貞任・宗任が合戦、先九年後三年の軍、源平諍三箇年、此外も久して一両年を不過。抑元弘より以来、天下大に乱て三十余年、一日も未静る事を不得。今より後もいつ可静期共不覚。是はそも何故とか御料簡候。」といへば坂東声なる遁世者、数返高らかに繰鳴し、無所憚申けるは、「世の治らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申に不及候へども、昔は民苦を問使とて、勅使を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故は、君は以民為体、民は以食為命、夫穀尽ぬれば民窮し、民窮すれば年貢を備事なし。疲馬の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は吏り科也。吏の不善は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩を用れば暴虎を恣にして、百姓をしへたげり。民の憂へ天に昇て災変をなす。災変起れば国土乱る。是上不慎下慢る故也。国土若乱れば、君何安からん。百姓荼毒して四海逆浪をなす。されば湯武は火に投身、桃林の社に祭り、大宗呑蝗、命を園囿の間に任す。己を責て天意に叶、撫民地声を顧給へと也。則知ぬ王者の憂楽は衆と同かりけりと云事を、白楽天も書置侍りき。

☆ 北野神社での通夜物語のことと、青砥左衛門のこと

さてその頃、日野僧正頼意(らいい)はひそかに吉野の山中を出て、かねてから少しばかりの願望があったので、霊験あらたかなことを頼りに、北野の菅原道真をまつった神社に一晩参篭しました。秋も半ばを過ぎ杉の梢を吹く風の音も激しさを増し、有明の月も松の西に傾き、

静かな庭の霜に映る明かりも、いつもとは違って何となく神秘的に感じられ、しみじみとした中、巻き終わっていないお経を手にしながら、灯の明かりを強めて壁に寄り添い、この時期に適した古歌などを小声で詠じていると、これもまた、秋の風情に誘われ月に心をひかれた人らしく、

南殿の欄干に寄りかかって三人の人達が並んでいました。どなたなのかと見ると、一人は以前関東の幕府職員の長だったらしく、武家が動乱の世を鎮めたことや、それ以前のことなど思い出しているように見え、関東訛りの声ではありますが、年の頃なら六十ばかりの遁世者(世俗から逃れた人)です。

もう一人は現在朝廷に勤めてはいますが、家が貧しく豊かでもないのに、仕事に行くこともせず、かと言って何かするわけでもなく書斎の窓の雪に向かい、仏教に関する本以外の書に心がなごむように見える、優美な体つきで顔色は青ざめた感じのする殿上人です。

残る一人は何某かの律師か僧都などと呼ばれて、門跡寺院などに奉仕しながら、顕教や密教の勉学に励んで、修行の妨げになることは拒否し、天台宗の教えに傾倒しているように見える、痩せて少し疲れ気味の法師です。最初は天満天神の文字を各句ごとの頭に使って、

連歌をしていましたが、その後異国の中国と我が国の話になり、なるほどと思えるようなことも多くありました。まず儒学を学んでいるように思える殿上人が、「ところで歴史書に書かれている乱世や治世の事を色々考えてみると、戦国時代の七雄(秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓)もついに秦国に統合され、

漢と楚国の七十余度に及ぶ戦いも、八ヶ年の後には漢国の世に定まりました。我が国においても安倍貞任、安倍宗任の合戦は先に九年間、その後三年間にわたった戦争であり、源平の争いは三ヶ年(六ヶ年?)ですし、この他も長くても二年を過ぎることはありませんでした。

それに比べて元弘(元弘の乱::1331年)以来天下は大いに乱れて三十余年、未だに一日とて乱の収まることもなく、今後も何時になったら収まるのか見当もつきません。これは一体どう言う訳かお考えください」と言うと、坂東訛りの遁世者が数回声高らかに繰り鳴らし(?)てから、

遠慮なく、「世の中が安定しないことは当然だと思います。異国や我が国のことについては、良くご存じのことと思いますので、ここで改めて申し上げませんが、昔は国民が何か苦しんでいないかと調べるための勅使を国々に派遣し、民に苦痛に思うことがないか調べました。

その訳は天皇は国民がいればこそその状態を維持出来、国民は食料があればこそ、その命をつなぐことが出来ます。もし穀物が尽きれば国民は困窮し、民が困窮すれば年貢を準備することも出来ません。疲馬の鞭を如不恐(疲れ果てた馬は鞭打たれても言うことを聞かない。生活に苦しむ民衆は厳しい刑罰で臨んでも犯罪を犯す)のように、

また王化(天皇の支配が及ぶこと)を恐れることもなく、ただ利益を優先して常に法を無視した行動を取ります。民衆が間違った行動をするのは、つまり官僚にその罪があります。官僚の誤った行動は、国王にその責任があります。君主が優秀な臣下を選ぶことなく、

利のみをむさぼるような人物を用いれば、権威を笠に着て悪政を好きなように行って、百姓をその支配下に置きます。民衆の苦しみは天に届き、天変地異を引き起こします。すると国土は乱れることになります。これは君主が常に注意を払わず、臣下が暴慢な行動をするからです。

もし国土が乱れるようなことがあれば、君主はどうして安心が出来るのでしょうか。百姓が荼毒(とどく::害毒を流すこと)を行えば、国家は乱れに乱れます。だから湯武(湯王と武王か?)は火に身を投げて(出典、意味不明)、桃林のお社(?)にまつり、皇帝太宗が蝗を飲み込んで、

その運命を鳥獣用の牧場にゆだねなした。これらは我が身を責めることによって天の意向に合わそうとし、民衆をいたわりその声に耳を傾けられました。すなわち王者の憂いと楽しみは民衆と共にあることを知っていると、白楽天もその詩に書き残しています」


されば延喜の帝は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍み給しだに、正く地獄に落給けるを、笙の岩屋の日蔵上人は見給けるとこそ承れ。彼上人、承平四年八月一日午時頓死して、十三日ぞ御在しける。其程夢にも非ず、幻にも非ず、金剛蔵王の善巧方便にて、三界流転の間、六道四生の棲を見給けるに、等活地獄の別処、鉄崛地獄とてあり。火焔うずまき黒雲空に掩へり。觜ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄の牙ある犬来て、罪人の脳を吸喰ふ。獄卒眼を怒して声を振事雷の如し。狼虎罪人の肉を裂、利剣足の蹈所なし。其中に焼炭の如なる罪人有四人。叫喚する声を聞ば、忝も延喜の帝にてぞ御在ける。不思議やと思て、立寄て事の様を問へば、獄卒答曰、「一人は是延喜帝、残は臣下也。」とて、鋒に指貫て、焔の中へ投入奉りけり。在様業果法然の理とは云ながら、余りに心憂ぞ覚ける。良暫有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇奉宥、今一度拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々宣ければ、一人の獄卒是を聞て、いたはしげもなく鉄の鉾に貫て、焔の中より指出し、十丈計差上て、熱鉄の地の上へ打つけ奉る。焼炭の如なる御貌散々に打砕れて、其御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々。」と云ければ、帝の御姿顕給ふ。上人畏て只泪に咽給ふ。帝の宣く、「汝我を敬事なかれ。冥途には罪業無を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。我は五種の罪に依て此地獄に落たり。一には父寛平法皇の御命を背き奉り久く庭上に見下し奉りし咎、二には依讒言、無咎才人を流罪したりし報ひ、三には自の怨敵と号して、他の衆生を損害せし咎、四には月中の斎日に、本尊を不開咎、五には日本の王法をいみじき事に思て人間に著心の深かりし咎、此五を為根本、自余の罪業無量也。故に受苦事無尽也。願は上人為我善根を修してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾申す。「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆を立て、大極殿にして仏名懺悔法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾に指貫、焔の底へ投入る。上人泣々帰給時、金剛蔵王の宣く、「汝に六道を見する事、延喜帝の有様を為令知也。」とぞ被仰ける。彼帝は随分愍民治世給しだに地獄に落給ふ。況て其程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚たり。

遁世者の話は続きます。「そこで延喜(901-923年)の醍醐天皇は寒い夜に衣を脱がれ、民衆の苦しみを共にして哀れに思われたのですが、間違いなく地獄におちられたのを、笙の岩屋(大峰山系国見山にある洞窟)に参篭中の日蔵上人が見られたと聞いています。

その日蔵上人は承平四年(934年)八月一日午前に突然お亡くなりになり、その後十三日間は中陰におられました。その間は夢でもなく幻でもないのですが、金剛蔵王菩薩が巧みに手立てを講じて人を導き、迷いの世界に生と死を繰り返している間に、

六道四生(ろくどうししょう::迷いの世界)での住処を見てみると、等活地獄(とうかつ::殺生を犯した者が落ちる地獄)の別処(べっしょ::八大地獄と言う熱気で苦しめられる八種の地獄に付属する小地獄)である鉄崛地獄と言う所でした。火炎が渦巻いて黒雲は天空を覆っています。くちばしのついた鳥が飛んで来て、

罪人の目を突き抜きます、また鉄の牙を持った犬がやって来て、罪人の脳に吸いつき食らいます。獄卒(ごくそつ::地獄で死者を責める悪鬼)は目を怒らし、その声は雷のようにふるえています。狼虎(ろうこ::狼と虎、残忍、欲深いもののたとえ)のような獄卒は罪人の肉を裂き、

鋭利な刀剣で足の踏み場もありません。その中に焼けた炭のような罪人が四人いました。喚き騒ぐ声を聞くと、もったいなくも延喜の帝(醍醐天皇)でございます。不思議に思って近づき、事の仔細をお聞きすると、獄卒が、『一人は延喜の帝であり、残りの者はその臣下です』と言って、

刃物の先端に刺し貫き、炎の中へ投げ入れました。その仕打ちは前世での報いを現世で受けるのは当然だとは言っても、あまりにも辛く情けなく思えます。しばらくしてから上人は、『何とか延喜の帝に少しばかりの暇を許してもらえませんか、

今一度帝のお顔を拝してから元の世界に帰ろうと思います』と泣きながら申し上げましたが、一人の獄卒がこれを聞き、可哀そうにも鉄の鉾に刺し貫いて、炎の中から取り出すと十丈(約30m)ばかり差し上げ、溶けた鉄の上に打ち付けました。焼けた炭のようなお顔はさんざんに砕かれて、

とてもそのお方には見えません。鬼どもが再び走り寄って来ると、足で一ヶ所に集めるようにして、『活々(かつかつ::失神した人や死者をよみがえらせるために唱える言葉)』と言うと、帝の御姿が現れました。上人は畏まってただただ涙にむせぶばかりです。

醍醐天皇は、『汝は何も私を敬うことなど不要である。冥途では罪となるような悪行の有無がすべてである。そこで身分の貴賤や上下など考える必要はない。私は五つの罪によってこの地獄に落ちたのだ。一つは父の寛平法皇(在位:887-897年::宇多天皇)に命じられたことに背き、

長い間無視を続けた罪です。二つ目は讒言によって、罪のない優秀な人物を流罪に処した報いです。三つ目は自分にとって怨敵であると言って、他の民衆たちに損害を加えた罪です。四つ目は月の中ごろにある縁起の悪い日に、本尊の扉を開かなかった罪、

そして五番目は日本の朝廷を特別なものと考え、人間として執着心が強すぎた罪であり、この五番目の罪が根本をなすため、この他の罪業は計り知れないほど多いのである。そのため限りなく苦痛を受けることになるのだ。お願いだから上人はこの私のため、善行を積み重ねてください』と仰せられました。

上人はその申し出を了承しました。『それでは諸国七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海道)に、一万本の卒塔婆(そとば::死者を供養するための板)を立てて、大極殿において仏名懺悔法(仏名経を読誦し、犯した罪障を懺悔する法会)を行ってください』と仰せられた時、獄卒はまた鉾に刺し貫き、

炎の底に投げ入れました。上人が泣く泣くお帰りになる時、金剛蔵王菩薩が、『汝に六道(ろくどう::生死を繰り返す迷いの世界)を見せたのは、延喜帝(醍醐天皇)の置かれている状況を知らせるためです』と、仰せられました。あの醍醐天皇はたいそう民衆を不憫に思い、

世を治められましたけれど、地獄に落ちたのです。であれば、彼ほどの政治を行っていない世であれば、きっと地獄に落ちる人は多いだろうと思います」


又承久より已降武家代々天下を治し事は、評定の末席に列て承置し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。夫天下久武家の世と成しかば尺地も其有に非と云事なく、一家も其民に非と云所無りしか共、武威を専にせざるに依て地頭敢て領家を不侮、守護曾て検断の外に不綺。斯りしか共尚成敗を正くせん為に、貞応に武蔵前司入道、日本国の大田文を作て庄郷を分て、貞永に五十一箇条の式目を定て裁許に不滞。されば上敢て不破法下又不犯禁を。世治り民直なりしか共、我朝は神国の権柄武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄の眸に懸りしを社歎きしか。されども上代には世を治んと思志深かりけるにや、泰時朝臣在京の時、明慧上人に相看して法談の次に仰られけるはく、「如何してか天下を治め人民を安じ候べき。」と被申ければ、上人宣く、「良医能く脈を取て、其病の根源を知て、薬を与へ灸を加れば、病自ら愈る様に、国を乱る源を能く知て可治給。乱世の根源は只欲を為本。欲心変じて一切万般の禍と成る。」と宣へば、泰時云、「我雖存此旨、人々無欲に成ん事難し。」と宣へば、上人云、「太守一人無欲にならん事を思給はゞ、其に恥て万人自然に欲心薄成べし。人の欲心深訴来らば我欲の直らぬ故ぞと我を恥しめ可給。古人云、其身直にして影不曲、其政正して国乱るゝ事なしと云云。又云、君子居其室其言を出事善なる則、千里の外皆応之。善と云は無欲也。伝聞、周文王の時一国の民畔を譲るも、文王一人の徳諸国に及す故、万人皆やさしき心に成し也。畔を譲ると云は、我田の堺をば人の方へは譲与れども、仮にも人の地をして掠取事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠取共、我物を人に遣事不可有。其比他国より為訴詔此周の国を通るとて、此有様を道畔にて見て、我欲の深事を恥て、路より帰りけり。されば此文王我国を収るのみならず、他国まで徳を施すも只此一人の無欲に依てなり。剰此徳満て天下を一統して取り百年の齢を持き。太守一人小欲に成給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣の頓死して譲状の無りし時倩義時の心を思に、我よりも弟をば鍾愛せられしかば、父の心には彼者にぞ取せ度思給て譲をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時・重時以下に宗徒の所領を与て、泰時は三四番めの末子の分限程少く取られけれ共、今までは聊不足なる事なし。

遁世者の話は続きます。「また承久(1219-1221年)よりこの方、武家が代々天下を治めてきたので、当時幕府の職員として末席ながら勤めていましたから、少々耳にしたこともございます。つまり長く武家の支配する世となれば、僅かな土地など有っても無いようなもので、

一家もその土地の民として生活はできますが、武力を充実させようとしないので、地頭は特に領主を重要視することなく、守護も今まで訴訟ごとにかかわろうとはしませんでした。とは言えども訴訟ごとの公正さを守ろうと、

貞応(1222-1223年)に武蔵前司入道が日本国の大田文(おおたぶみ::土地台帳)を作成し、公領と荘園などの私有地とを分別して、貞永(1232年)に五十一ヶ条の貞永式目(御成敗式目)を定めることによって、訴訟の判決に停滞を起こすことが無くなりました。

それによって、上部の者も強引に法を犯すこともなくなり、また一般庶民も禁止事項を破ることがなくなりました。これで世の中安定し、民衆も従順になりましたが、我が国は神国としての実権が武士の手に渡り、天皇による徳や情けある政治が、暴力的な政治に移行して行ったことを嘆かざるを得ません。

とは言え、昔は世の中を安定的に治めようとする気持ちが強かったのか、北条泰時朝臣が京都におられた時、明慧上人に面会して法談(仏法について話すこと)された折に、『どうすれば天下を治め、民衆から不安を除くことが出来るのでしょうか』と仰せられると、

上人は、『優秀な医者は診察に時間をかけて、その病の原因を特定し、薬を処方し、灸などで治療を加えれば、病は自然に治るように、国家においても乱れる要因をよく見極めて治めることです。世の中が乱れる原因はただ一つ、欲望がその根本にあります。

欲望が変じてあらゆる災禍の元になります』と仰せられると、泰時は、『私はそのことを良く存じていますが、人々に欲望を捨ててもらうことはとても難しいことです』と仰せられ、上人はそれに答えて、『泰時殿一人でも無欲になろうと思われれば、

それをおもんばかって多くの人々の欲望は自然に弱くなって行くでしょう。人々の欲望が強いと感じられたなら、それは自分の欲心がまだまだ強いからだと、自分を辱めることです。古人が言っているように、その身体がまっすぐであれば、その影が曲がることはなく、

その政治が正しく行われれば、国が乱れることはないとか云々。また曰く、君子がその部屋にあって発した言葉が善であれば、それは千里の遠方であっても皆その言葉に従うでしょう。ここで善と言うのは無欲のことです。またこのような話も聞いています、

周国の文王時代、ある国の民が境界の畔を譲ったのも、すべて文王の徳が諸国に行き渡っていたので、万人すべてが優しい気持ちを持つようになったからです。畔を譲るということは、自分の田の境界を他人の方へ移動して譲り渡すことで、めったに人の土地をかすめ取るようなことはしませんでした。

最近の人間とはその心がけが違っています。最近の人間はたとえ人の物をかすめ取ることはあっても、自分の物を他人に譲ることなどありません。当時他国から訴訟のため、この周国を通過中にこの状況をあぜ道で見て、自分の欲深さを恥ずかしく思い、その場から帰ったのでした。

このように文王が自国を治めるだけでなく、他国にまでその徳を施すことになったのも、ただ一つこの人ただ一人の無欲によるものです。それだけでなく、この徳が満ち溢れて天下を統一し、それが百年の年月を保ちました。時の支配者一人が無欲になれば、

天下は全てこのようになるでしょう』と仰せられたので、泰時はこのことを深く心に止め、父義時朝臣が突然死をしたために譲り状が無く、義時の心情をよくよく考えてみれば、義時は自分よりも弟を可愛がっていたので、父の本心としては彼に譲りたく思っていたのではなかろかと推察し、

弟の朝時や重時以下に主だった所領を与え、泰時自身は三、四番目の末っ子が与えられる程度の所領を引き継ぎましたが、今まで不足を感じることは少しもありませんでした」


如此万づ小欲に振舞故にや、天下随日収り、諸国逐年豊也き。此太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守て云く、「泰時天下の政を司て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直の中に無論。一方は定て姦曲なるべし。何の日両方証文を持て来べし。姦謀の人に於ては、忽に罪科に可申行。姦智の者一人国にあれば万人の禍と成る。天下の敵何事か如之。疾々可帰給。」とて被立けり。此体を見るに、僻事あらば軈而いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或は和談し或僻事の方は私に負て論所を去渡しける。凡無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥しめ給しかば、人の物を掠め取んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書を調へ判形を加へて、富祐の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直らば、本物計を借り主に可返納。利分は我添て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持たる人には、約束の本物を還させ、自我方添利分、慥に返し遣されけり。貧者には皆免して、我領内の米にてぞ主には慥に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物共も古物を用ふ。衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著し給ふ。夜は灯なく、昼は一食を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費を補給けり。仍一度食するに、士来れば不終に急ぎ是にあひ一たび梳にも訴来れば先是をきく。一寝一休是を不安して人の愁を懐て待んことを恐る。進では万人を撫ん事を計り、退ては一身に失あらん事を恥づ。然に太守逝去の後、背父母失兄弟とする訴論出来て、人倫の孝行日に添て衰へ、年に随てぞ廃たる。一人正ければ万人夫に随事分明也。然る間猶も遠国の守護・国司・地頭・御家人、如何なる無道猛悪の者有てか、人の所領を押領し人民百姓を悩すらん。自諸国を順て、是を不聞は叶まじとて、西明寺の時頼禅門密に貌を窶して六十余州を修行し給に、或時摂津国難波の浦に行到ぬ。塩汲海士の業共を見給に、身を安しては一日も叶まじき理を弥感じて、既に日昏ければ、荒たる家の垣間まばらに軒傾て、時雨も月もさこそ漏らめと見へたるに立寄て、宿を借給けるに、内より年老たる尼公一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共、藻塩草ならでは敷物もなく、磯菜より外は可進物も侍らねば、中々宿を借奉ても甲斐なし。」と佗けるを、「さりとては日もはや暮はてぬ。又可問里も遠ければ、枉て一夜を明し侍ん。」と、兔角云佗て留りぬ。旅寝の床に秋深て、浦風寒く成侭に、折焼葦の通夜、臥佗てこそ明しけれ。朝に成ぬれば、主の尼公手づから飯匙取音して、椎の葉折敷たる折敷の上に、餉盛て持出来たり。甲斐々々敷は見へながら、懸る態なんどに馴たる人共見へねば不審く覚て、「などや御内に被召仕人は候はぬやらん。」と問給へば、尼公泣々「さ候へばこそ、我は親の譲を得て、此所の一分の領主にて候しが、夫にも後れ子にも別て、便なき身と成はて候し後、惣領某と申者、関東奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押取て候へ共、京鎌倉に参て可訴詔申代官も候はねば、此二十余年貧窮孤独の身と成て、麻の衣の浅猿く、垣面の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡る露の身の、消ぬ程とて世を渡る。朝食の烟の心細さ、只推量り給へ。」と、委く是を語て、涙にのみぞ咽びける。

遁世者の話は続きます。「このように万事欲望を抑えて行動したので、天下の政治は日に日にその安定を増していき、諸国においては年々豊かになって行きました。この泰時の面前に訴訟を起こした人間が来ると、よくよく両人の顔を見つめ、『泰時は天下の政治を執るようになってから、

人の心の中にはよこしまな考えとか、人の道に外れる気持ちなどはないと信じている。だから私欲がなく正直な者ならなおさらのことである。一方は必ずや道理に反しているに違いない。いつか双方共証文を持って来るように。悪賢い企みを持ったに者は、即刻罪を問い刑を言い渡そう。

悪賢い人間が国内に一人でもいれば、万人にとって不幸の原因となる。天下にとっての敵とは全てこのようなものである。分かればさっさと帰るように』と言って、お立ちになりました。この様子から判断して、もし間違いがあればただちにどんな目にあわされるのかと思い、

各自帰ってから双方よくよく話し合い、ある者は和解をし、また間違っている者は自分からひいて、論争を打ち切りました。すべてにおいて私利私欲のない者を褒めたたえ、欲深い者については屈辱を与えたので、人の物をかすめ取ろうとする者はいなくなりました。

そこで寛喜元年(1229年)天下を襲った飢饉の時に、借用証を作り書き判(花押:手書きの印鑑)を添えて裕福な者から米を借りるのに、泰時は法を定めて、『来年世の中が回復したならば、借用した分だけ返納すればよい。利息分は私が添えて返そう』と定められ、各自の借用証を保管されました。

所領を持っている人には、約束した分を返させ、利息分は間違いなく泰時から返納されました。貧しい人には返納を全て免除し、我が領内の米をもって貸主に返しました。このような返済が発生した年には、家中においては何事にも倹約して、全ての保証用物品には使用済みの物を用いました。

衣裳にしても新品を着ることもなく、烏帽子さえ古い物を繕うてかぶりました。夜も灯をつけず、昼の食事は取らず、酒宴や遊覧の行事も中止して、これらの費用で政策の不足分を補いました。すでに食事中であっても、もし武士の訪問があれば食事を中断して急いで面会し、

整髪中であっても何か訴訟人が来るとまず話を聞きました。少しの時間を惜しむことによって、人が不安を抱えたまま待っていることを恐れました。積極的に万民をいたわることを重視し、我が身を振り返っては落ち度のないよう努めました。ところが太守泰時の逝去後、父母に背き、

兄弟が相争うと言う訴訟問題が起こり、人間として親や兄弟を大切にしようと言う気持ちは日ごとに衰え、年ごとにすたれていきました。指導者が正しい行いをしていれば、万人がそれに従うことははっきりしていることです。このため遠国において守護、国司、地頭、御家人らの中に訳の分からない悪人がいるのか、

他人の所領を横領したり、人民百姓を苦しめました。これではみずから諸国を巡察して、実地に事態を確認しなければならないと思い、西明寺(最明寺)の北条時頼禅門(第五代執権)はひそかに姿を変え、六十余州を托鉢巡礼していましたが、ある時摂津国難波の浦に行き着きました。

塩を汲む漁師の仕事ぶりを見、身体を使うことなく何もしないでいると、一日とて生きていけない理屈をますます強く感じました。しかしすでに日も暮れてきたので、荒れ果てた家の垣も隙だらけで、軒も傾き時雨も月の光もきっと漏れるだろうと思える家に立ち寄り、宿を借りようとしました。

中から年老いた尼君が一人出てくると、『宿をお貸しすることは簡単でございますが、藻塩(海藻を利用して作る塩)に使う海草ぐらいしか敷物もありませんし、磯に生える海草しか食事として提供が出来ませんので、とてもお宿としてお貸し出来るものではありません』と困った様子を見せるのを、

『と言われても、日もすでに暮れ果ててしまい、ほかに宿を求めようにも集落は遠くいので、無理は承知していますが何とか一夜を明かさせてください』と、大いに恐縮の態で泊めさせてもらいました。旅の宿の寝床に深い秋を感じ、浜を吹き抜ける寒い風の中、

折焼葦(おりたくあし::貧しい?)の家で一夜を静かに明かしました。朝になると主人の尼君がみずから、しゃもじ(飯匙::いいがい)を手にする音が聞こえ、椎の葉を敷いた食器の上に餉(かれい::ほしいい)を盛って来ました。手際の良さは見えますが、このようなことに馴れた人とも思えず不審を感じ、

『どうしてお宅には召使いの方はおられないのですか』と問いかけると、尼君は泣きながら、『そのことについてですが、私は親から譲られたこの場所の小さな領主でございますが、夫に先立たれ子供とも別れ、哀れな身となり果ててしまい、その後惣領(そうりょう::家の跡取り)の何某とかいう者が、

関東の幕府に奉公しているという権威を振りかざして、代々相続してきた財産や領土など奪い取ったのです。しかし京や鎌倉に参って訴訟を起こしてくれる代理人もいないため、この二十余年間貧窮、孤独の身となり、みすぼらしい麻の衣をまとっていれば、

とても長く生きることなど出来るとも思えず、袖を濡らす露のようにはかない我が身が、何時まで生き永らえるかと思いながら世を過ごしております。朝食を用意する煙の頼りなさから、ただただ推察をお願いします』と詳しく事情を話され、涙にくれるのでした」


斗薮の聖熟々と是を聞て、余に哀に覚て、笈の中より小硯取出し、卓の上に立たりける位牌の裏に、一首の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮畢て鎌倉に帰給ふと均く、此位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収して、尼公が本領の上に副てぞ是を給たりける。此外到る所ごとに、人の善悪を尋聞て委く注し付られしかば、善人には賞を与へ、悪者には罰を加られける事、不可勝計。されば国には守護・国司、所には地頭・領家、有威不驕、隠ても僻事をせず、世帰淳素民の家々豊也。後の最勝園寺貞時も、追先蹤又修行し給しに、其比久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給て、領家悉被没収給しかば、城南の茅宮に、閑寂を耕てぞ隠居し給ひける。貞時斗薮の次でに彼故宮の有様を見給て、「何なる人の棲遅にてかあるらん。」と、事問給処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具に聞て、「御罪科差たる事にても候はず、其上大家の一跡、此時断亡せん事無勿体候。など関東様へは御歎候はぬやらん。」と、此修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此御所の御様昔びれて、加様の事申せば、去事や可有。我身の無咎由に関東へ歎かば、仙洞の御誤を挙るに似たり。縦一家此時亡ぶ共、争でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此時にて候。」と語りければ、修行者感涙を押て立帰にけり。誰と云事を不知。関東帰居の後、最前に此事を有の侭に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領悉く早速に被還付けり。さてこそ此修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過たる哀はなし。況乎烟霞万里の道の末、想像だに憂物を、深山路に行暮ては、苔の莚に露を敷き、遠き野原を分佗ては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立、失山頭路帰る。烟蓑雨笠、破草鞋底、都べて故郷を思ふ愁ならずと云事なし。豈天下の主として、身富貴に居する人、好で諸国を可修行哉。只身安く楽に誇ては、世難治事を知る故に、三年の間只一人、山川を斗薮し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無りけり。

なおも遁世者の話は続きます。「斗薮(とそう::修行)の僧侶は注意深くこの話を聞くと、余りにも可哀そうになり笈(おい::修験者などが仏具、衣服などを収めて背に負う箱)の中から小さな硯を取り出して、仏前の台に置かれた位牌の裏に、一首の歌をお書きになられました。

      難波潟 塩干に遠き 月影の 又元の江に すまざらめやは

その後、禅門は諸国修行を終えて鎌倉に戻られるとすぐにこの位牌を取り寄せられ、横領した地頭の領地、財産、官職などを没収し、尼君の所有している代々の私領に加えてこれらを与えました。このこと以外にも、あらゆる土地で人々の行い全般を調べられ、

善人には褒賞を与え、悪者には罰を加えられたことなど、数多くありました(不可勝計::あげてかぞうべからず)。そのため国の官吏である守護、国司ら、地方官では地頭、領家など権威は持っていても驕ることなく、また隠れてする間違った行いもなくなり、

世の中は落ち着き素朴な民々の家庭は豊かになりました。その後、最勝園寺北条貞時(第九代執権)も先人の例を真似て修行の旅を行いました。その頃久我内大臣は上皇のご機嫌を損じたため、荘園などを全てを没収され都の南にある粗末な屋敷で、寂しく隠居されていました。

貞時は修行の途中にその古い屋敷をご覧になり、『如何なるお人の棲遅(せいち::世俗を離れて静かに住むこと、またそのような人の家)なのでしょう』と、問い合わせたところ、それなりの位階を持たれたような人が現れ、かくかくしかじかと答えられました。

貞時は詳しく話を聞くと、『大した罪とも思いませんし、その上立派な系統をお持ちの家柄なので、今その家系が断絶されることは勿体ないことです。なぜ関東の執権殿に善処をお願いされないのですか』と、この修行者が話されると、

その諸大夫は、『そこなのですが、この御所におられるお方様は昔気質の人で、そのようなことを話せば何かと不都合なことがあるだろう。自分には何ら罪がないことを関東に申し出れば、結果として上皇の間違いを指摘することになる。たとえこのために一家が滅びようとも、

朝臣として上皇を非難することなどとても出来ることではない。仕方ないことなので、その時が来ようとも嘆くことはないと仰せられる以上、御家門の滅亡も近いでしょう』と話されたので、修行僧は感極まり涙をおさえて帰られました。誰なのかは分かりませんでした。

関東にお帰りになってから、真っ先にこのことをありのままに話されると、上皇は大いに良心が咎められ、久我の旧領すべてをすぐに返還されました。それで初めてこの修行僧が貞時と分かったのでした。一日や二日であっても、旅以上に何かと辛いことが多いものはありません。

まして、はるかかなた万里の旅先となれば、想像するだけでも辛いのに、深い山中で日暮れを迎えたりすれば、苔の寝床に涙を落とし、また遠く続く野原を通り抜けることが出来なければ、草の枕を涙で濡らすことになります。喚渡口船立、失山頭路帰る。

烟蓑雨笠、破草鞋底(?)、全て故郷を思ってのわびしさ以外何物でもありません。まして天下の主として、豊かな生活をしている人が、好き好んで諸国修行の旅などするものでしょうか。とは言え安穏と過ごしていれば、世の中を治めて行くことは困難であろうと知っているため、

三年の間ただ一人で山河で修行されるお気持ちこそ、ありがたいものだと感じない人はいませんでした」


又報光寺・最勝園寺二代の相州に仕へて、引付の人数に列りける青砥左衛門と云者あり。数十箇所の所領を知行して、財宝豊なりけれ共、衣裳には細布の直垂、布の大口、飯の菜には焼たる塩、干たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀を持せけるが、叙爵後は、此太刀に弦袋をぞ付たりける。加様に我身の為には、聊も過差なる事をせずして、公方事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食、疲れたる訴詔人などを見ては、分に随ひ品に依て、米銭絹布の類を与へければ、仏菩薩の悲願に均き慈悲にてぞ在ける。或時徳宗領に沙汰出来て、地下の公文と、相摸守と訴陳に番事あり。理非懸隔して、公文が申処道理なりけれ共、奉行・頭人・評定衆、皆徳宗領に憚て、公文を負しけるを、青砥左衛門只一人、権門にも不恐、理の当る処を具に申立て、遂に相摸守をぞ負しける。公文不慮に得利して、所帯に安堵したりけるが、其恩を報ぜんとや思けん、銭を三百貫俵に裹て、後ろの山より潜に青砥左衛門が坪の内へぞ入れたりける。青砥左衛門是を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿を奉思故也。全地下の公文を引に非ず。若引出物を取べくは、上の御悪名を申留ぬれば、相摸殿よりこそ、悦をばし給ふべけれ。沙汰に勝たる公文が、引出物をすべき様なし。」とて一銭をも遂に不用、迥に遠き田舎まで持送せてぞ返しける。又或時此青砥左衛門夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋に入て持たる銭を十文取はづして、滑河へぞ落し入たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過べかりしが、以外に周章て、其辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松を十把買て下、是を燃して遂に十文の銭をぞ求得たりける。後日に是を聞て、「十文の銭を求んとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損哉。」と笑ければ、青砥左衛門眉を顰て、「さればこそ御辺達は愚にて、世の費をも不知、民を慧む心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈て永く失ぬべし。某が続松を買せつる五十の銭は商人の家に止まて永不可失。我損は商人の利也。彼と我と何の差別かある。彼此六十の銭一をも不失、豈天下の利に非ずや。」と、爪弾をして申ければ、難じて笑つる傍の人々、舌を振てぞ感じける。加様に無私処神慮にや通じけん。或時相摸守、鶴岡の八幡宮に通夜し給ける暁、夢に衣冠正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直くして、世を久く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門を賞翫すべし。」と慥に被示と覚へて、夢忽覚てげり。相摸守夙に帰、近国の大庄八箇所自筆に補任を書て、青砥左衛門にぞ給ひたりける。青砥左衛門補任を啓き見て大に驚て、「是は今何事に三万貫に及ぶ大庄給り候やらん。」と問奉りければ、「夢想に依て、先且充行也。」と答給ふ。青砥左衛門顔を振て、「さては一所をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通も歎入て存候。物の定相なき喩にも、如夢幻泡影如露亦如電とこそ、金剛経にも説れて候へば、若某が首を刎よと云夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟。報国の忠薄して、超涯の賞を蒙らん事、是に過たる国賊や候べき。」とて、則補任をぞ返し進せける。自余の奉行共も加様の事を聞て己を恥し間、是までの賢才は無りしか共、聊も背理耽賄賂事をせず。是以平氏相州八代まで、天下を保し者也。夫政道の為に怨なる者は、無礼・不忠・邪欲・功誇・大酒・遊宴・抜折羅・傾城・双六・博奕・剛縁・内奏、さては不直の奉行也。治りし世には是を以て誡とせしに、今の代の為体皆是を肝要とせず。我こそ悪からめ。些礼義をも振舞、極信をも立る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰の色代や。」とて、目を引、仰に倒笑ひ軽謾す。是は只一の直なる猿が、九の鼻欠猿に笑れて逃去けるに不異。又仏神領に天役課役を懸て、神慮冥慮に背かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料を貪事を業とす。是然上方御存知なしといへ共、せめ一人に帰する謂もあるか。角ては抑世の治ると云事の候べきか。せめては宮方にこそ君も久艱苦を嘗て、民の愁を知食し候。臣下もさすが知慧ある人多候なれば、世を可被治器用も御渡候覧と、心にくゝ存候へ。」と申せば、

なおも遁世者の話は続きます。「また宝光寺(北条時宗)、最勝園寺(北条貞時)二代にわたって相模守に仕え、引付衆(訴訟、庶務担当職)の一員であった青砥左衛門と言う人がいました。数十ヶ所の所領を支配し、資産も豊かなのですが、衣裳は細布(さいみ::織りの粗い麻布)で作った直垂に、

綿や麻で縫った裾の大きい大口と言う袴をはき、食事のおかずには焼いた塩と干した魚一つ以外は食べませんでした。出仕の時は木刀を差し白木の鞘の太刀を持たせましたが、爵位を授けられてからは、この太刀に予備の弓弦を巻いた輪をつけました。

このように我が身に対しては少しも贅沢などしませんでしたが、将軍家に対する職務に関しては、如何ほどの出費も惜しみませんでした。また物乞いをする飢えた人や、訴えを起こし疲れ切った人などを見れば、身分に従いまた人柄など考慮して、米やお金、絹布などを与えたので、

仏、菩薩が人々を救おうと誓った願いと変わらないほどです。ある時北条家の嫡子累代の領地に問題が発生し、地元の年貢徴収官と相模守との間に訴訟内容の陳述で争うことがありました。両者の言い分は大きくかけ離れていたものの、徴収官の言い分が理屈にあっていたのですが、

訴訟に携わった奉行、頭人、評定衆らが皆、領地を支配する北条家に遠慮して、地元の徴収官の言い分を却下しました。しかし青砥左衛門ただ一人が権力に負けることなく、理路整然と事の仔細を申し述べて、とうとう相模守の言い分を却下させたのでした。

地元役人は思いがけず利益を得ることになり、生活その他すべてに安心できましたが、その恩に報いようと思ったのか、お金を三百貫俵に包んで、裏山からソッと青砥左衛門の庭に置いたのです。青砥左衛門はこれを見て大変な怒りようで、『裁決について道理のあるなしを率直に申し述べたのは、

相模殿を思ってのことである。全く地元の役人を贔屓したものではない。もしこのような贈答品など受け取れば、お上の悪い評判が収まって、相模殿こそお喜びになるでしょう。訴訟に勝った役人が物品など贈る理由などない』と言って、

一銭たりと受け取ることなく遥か遠くの田舎まで送り返したのです。またある時、この青砥左衛門が夜になってから出仕したことがあり、いつも燧袋(ひうちぶくろ::火打道具を入れて携帯する袋)に入れて持ち歩いているお金十文を、うっかりして滑川に落としたことがありました。

わずかなことなのでよかろうと行き過ぎると思われますが、意外にも慌てられその辺の町屋に人を走らせ、五十文を支払って松明十把を買って来させ、これを燃やして落とした十文の銭貨を探し求めました。後日この話を聞いて、『十文のお金を探そうと、五十文で松明を買って燃やせば、

損の方が大きいではないか』と笑うと、青砥左衛門は眉にしわを寄せて、『そのことですが貴方たちは考えが足りず、世の中の経済などご存じでない上、民衆に利を与える気持ちもない人です。銭の十文は今ここで探し出さなければ滑川の底に沈んで、永久に失うこととなります。

私が松明を買い求めた五十文のお金は、商人の家に留まり、永く残ります。私の損は商人の利益となります。彼と私とを分けて考えることは不要です。このように銭貨六十文の内一文さえ失うこともないこと、これを天下の利益と言わずにどうするのだ』と爪弾きをして話されると、

今まで非難して笑っていた傍の人々は、恐れ入って感心するばかりでした。このように私利私欲のない心がけが、神のお気持ちに通じたのでしょうか。ある時相模守が鶴岡八幡宮に終夜篭られたのですが、翌明け方夢の中で衣冠正しくされた老翁が一人枕に立たれ、

『政治を正しく行い、永く世の中の安定を求めるならば、私利私欲を求めることなく、道理を重視する青砥左衛門を重用するのが良いだろう』と確かに仰せられたと思った時、夢はすぐに覚めたのでした。相模守は朝早くお帰りになると、近国八ヶ所の土地に対して直筆の官職任命書を書き、

青砥左衛門に与えました。青砥左衛門は任命書を開いて読んだところ大変驚き、『これは一体何に対して三万貫にもなる大きな領地を頂くことになったのか』と質問すると、『夢のお告げによって、ひとまず先に給付するものです』と、答えられました。

青砥左衛門は顔を振って、『そんなことなら一ヶ所たりと賜ることなど出来ません。しかも相模守殿のお考えそのものも情けなく思います。物には不変の形などないことの例えに、如夢幻泡影如露亦如電(この世のものは、夢、幻、泡、影、露、電光などのように、すべてはかないものである)と金剛経に説かれていますので、

もし私の首を刎ねよと言う夢をご覧になれば、何ら罪もないのに関わらず、夢の通りにされるのでしょうか。国に対してそれ程の貢献などしていないのに、過分の褒賞を頂くこと、これ以上の国賊はいません』と言って、すぐ任命書を返されました。その他各省庁の役人らもこの話を聞いて、

自分の足りなさを恥じましたが、彼ほどの賢才は居ないとは言え、少しでも道理に反することを行ったり、賄賂を要求するようなことはしませんでした。この時以後平氏北条家は、相模守八代にわたって天下を収めることになりました。政治の行い方に恨みを抱く者は、

無礼、不忠、邪欲、功誇(こうか::功名を誇示すること)、大酒、酒宴、抜折羅(ばさら::遠慮なく勝手な行動をとる者)、傾城(遊女)、双六、博奕(ばくえき::金品を賭けて勝負事を行うこと)、剛縁(ごうえん::有力者や権力者と縁故のある者)、内奏(ないそう::側近や後宮から天皇に奏上すること)など、

またそれら以外では不正を行う官吏などです。世の中が正しく治められていれば、これらはすべて禁止されるべきことなのですが、今の世の中は情けない話ですがこういうことは重視されません。自分こそ悪人だ。少しでも礼儀ある行いをしたり、

真面目で慎み深く行動する人に対して、『これはまた珍しい堅物だとか、融通の利かない人間だ』とか言って、目配せをして仰向けになって笑い転げ、小ばかにしたりしました。この状況はただ一匹のまともな猿が、鼻を失った九匹の猿に笑われて逃げ去るのと変わりません。

また神社仏閣の領地に臨時に課税したり、労働力として徴発を行なったりして、神や仏のお気持ちに背くことなど全く気にもしません。また寺や修行道場に必要な費用や寄進された物品、布施などを横領することを仕事にしているようです。

このような事実を執権殿が御存じないと言っても、全ての責任は執権にあるとも考えられます。これでは世の中を支配し、治めることなど出来るのでしょうか。少なくとも宮方においては天皇もながらく苦しい立場に置かれ、民衆の悩み苦しみもよく御存じです。

臣下にもさすが知恵ある人が多く、世の中を治めることの出来る優秀な人材もおられるのではと、はっきりしないまでもそう考えられます」と話されました。


鬢帽子したる雲客打ほゝ笑て、「何をか心にくゝ思召候覧。宮方の政道も、只是と重二、重一にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候して候しが、天下を覆へさん事も守文の道も叶まじき程を至極見透して、さらば道広く成て、遁世をも仕らばやと存じて、京へ罷出て候際、宮方の心にくき所は露許も候はず。先以古思候に昔周の大王と申ける人、■と云所に御坐しけるを、隣国の戎共起て討んとしける間、大王牛馬珠玉等の宝を送て、礼を成けれ共尚不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。万民百姓是を忿て、「其儀ならば、よしや我等身命を捨て防ぎ戦んずる上は、大王戎に向て和を請ふ事御坐すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我国を惜く思ふは、人民を養はんが為許也。我若彼と戦はゞ、若干の人民を殺すべし。其を為養地を惜て、可養民を失ん事何の益か有べき。又不知隣国の戎共、若我より政道よくは、是民の悦たるべし。何ぞ強に以我主とせんや。」とて、大王■の地を戎に与へ、岐山の麓へ逃去て、悠然として居給ける。■の地の人民、「懸る難有賢人を失て、豈礼義をも不知仁義もなき戎に随ふべしや。」とて、子弟老弱引連て、同く岐山の麓に来て大王に付順ひしかば、戎は己と皆亡はてゝ、大王の子孫遂に天下の主と成給ふ。周の文王・武王是也。又忠臣の君を諌め、世を扶けんとする翔を聞に、皆今の朝廷の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人坐しけり。兄の宮をば寧王と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。玄宗位に即せ給て、好色御心深りければ、天下に勅を下して容色如華なる美人を求給しに、後宮三千人の顔色我も我もと金翠を餝しかども、天子再びと御眸を不被廻。爰に弘農の楊玄■が女に楊貴妃と云美人あり。養れて在深窓人未知之。天の生せる麗質なれば更に人間の類とは不見けり。或人是を媒して、寧王の宮へ進せけるを、玄宗聞召て高力士と云将軍を差遣し、道より是を奪取て後宮へぞ冊入奉りける。寧王無限無本意事に思召けれ共、御弟ながら時の天子として振舞せ給事なれば、不及力。寧王も同内裏の内に御坐有ければ、御遊などのある度毎に、玉の几帳の外金鶏障の隙より楊貴妃の容を御覧ずるに、一度び笑める眸には、金谷千樹の花薫を恥て四方の嵐に誘引れ、風に見たる容貌は、銀漢万里の月妝を妬て五更の霧に可沈。雲居遥に雷の中を裂ずは、何故か外には人を水の泡の哀とは思消べきと、寧王思に堪兼て、臥沈み歎かせ給ける御心の中こそ哀なれ。天子の御傍には、大史の官とて、八人の臣下長時に伺候して、君の御振舞を、就善悪注し留め、官庫に収る習也。此記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書置て、前王の是非を後王の誡に備る者也。玄宗皇帝今寧王の夫人を奪取給へる事、何様史書に被注留ぬと思召ければ、密に官庫を開せて、大夫の官が注す所を御覧ずるに、果して此事を有の侭に注付たり。玄宗大に逆鱗あつて、此記録を引破て被捨、史官をば召出して、則首をぞ被刎ける。其より後大史の官闕て、此職に居る人無りければ、天子非を犯させ給へども、敢て憚る方も不御坐。爰に魯国に一人の才人あり。宮闕に参て大史の官を望みける間、則左大史に成して天子の傍に慎随ふ。玄宗又此左大史も楊貴妃の事をや記し置たる覧と思召て、密に又官庫を開せ記録を御覧ずるに、「天宝十年三月弘農楊玄■女為寧王之夫人。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。玄宗弥逆鱗有て、又此史官を召出し則車裂にぞせられける。角ては大史の官に成る者非じと覚たる処に、又魯国より儒者一人来て史官を望ける間、軈て左大史に被成。是が注す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海無事也。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王之夫人。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記したりける。己が命を軽ずるのみに非ず、後史官に至まで縦万人死する共不記有べからずと、三族の刑をも不恐注留し左大史が忠心の程こそ難有けれ。玄宗此時自の非を知し食し、臣の忠義を叡感有て、其後よりは史官を不被誅、却て大禄をぞ賜りける。人として死不痛云事なければ、三人史官全く誅を非不悲。若恐天威不注君非、叡慮無所憚悪き御翔尚有ぬと思し間、死罪に被行をも不顧、是を注し留ける大史官の心の中、想像こそ難有けれ。国有諌臣其国必安、家有諌子其家必正し。されば如斯君も、誠に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌申人あらば、是程に払棄る武家の世を、宮方に拾て不捕や。か程に安き世を不取得、三十余年まで南山の谷の底に埋木の花開く春を知ぬ様にて御坐を以て、宮方の政道をば思ひ遣せ給へ。」と爪弾をしてぞ語りける。

鬢帽子(びんぼうし::左右に布を垂らし、鬢のあたりをおおうようにしたかぶりもの)をつけた殿上人は微笑んで、「何を気にしてお考えになるのでしょうか。宮方の政治と言っても鎌倉のそれとは五十歩百歩です。私も今年の春までは南方吉野朝廷に仕えていましたが、

天下を転覆することも、国を治めていくことも出来そうにないと見透かし、それなら思い切って遁世(とんせい::俗世から逃れること)でもしようかと京に上ってきたのですが、幕府に比して宮方にそれほど優れている所など全くありません。とにかく昔のことを考えてみれば、

周国の大王(古公亶父::ここうたんぽ)と言う人ですが、”ひん”と言う所におられたのですが、隣国の戎(じゅう::遊牧民族)らが蜂起して周国を討とうとしたので、大王は牛馬や珠玉などの財物を贈って礼を尽くしたのですが、彼らの作戦を止めることが出来ませんでした。

早急に国を出て行け、さもなくば大軍で攻め込むぞと言ってきました。これを聞いて周国の民衆、百姓ら全員が激怒し、『そのような申し入れなら、我ら全員が命をかけて防戦に努めますので、大王は戎に対して和を乞うことなどしないでください』と申し上げましたが、

大王は、『いやいや、そういう事ではない。私が国を大事に思うのは、人民の生活を守るためが全てです。もし我が国が彼らと戦えば、多数の死者が出るでしょう。国民の生活を守るはずの土地を惜しんだため、守らなければならない国民の命を失う事に、何の利益があるのでしょうか。

またよく知らない隣国、戎らの政治が我らの政治より良ければ、これもまた国民にとって喜びになる。なぜ私を国主にすることにこだわるのだ』と言って、大王は”ひん”の土地を戎に与え、岐山(きざん::中国陝西省)の麓に逃げ去り、何事もなかったようにしていました。

”ひん”に住んでいた国民らは、『あれほどありがたい賢人を失った上、どうして礼儀もわきまえず、仁義もないような戎に従わねばならないのだ』と言って、家族や老人、弱者ら全員を引き連れて、同じように岐山の麓にやって来て大王の統治下に入ったので、

戎は自分自身や他の人々も全て死に絶え、代わって大王の子孫らが最後には天下の主となられました。周国の文王や武王がその人たちです。また忠臣が帝を諫め、世の中を助けようとした例を聞くと、全て現在の朝廷に仕える朝臣とは違っています。唐の玄宗は兄弟が二人でした。

兄の宮は寧王と言い、弟は玄宗と言いました。弟の玄宗が帝の位に就きましたが、彼は好色のひどい人間なので、天下に命令を下して、容姿の優れた女性を求められたので、後宮にいる三千人の女性らが、我こそと宝石など身に着けて飾り立てましたが、天子は全く見ようともしませんでした。

その頃、弘農郡(こうのうぐん::漢代から唐代にかけて河南省に設置された郡)の楊玄えん(激のサンズイ偏を王偏にしたもの)の家に楊貴妃と言う美女がいました。家の奥深くで育てられ人々は彼女の存在すら知られていませんでした。天より授かった優れた顔立ちや肌、髪の毛など

とても普通の人間とは思われませんでした。ある人が、仲人になって楊貴妃を寧王の宮にお勧めしたのを、玄宗が耳にして、高力士(こうりきし::玄宗の腹心)と言う将軍を派遣して、途中で楊貴妃を略取して後宮に送り込みました。寧王はこの仕打ちに大変憤慨しましたが、

弟とは言え時の天子としての行為なので、泣き寝入りを余儀なくされました。寧王も同じ内裏におられますので、管弦などの御遊が行われる度に、帝のそば近くの金鶏(きんけい::キジ科の鳥)が描かれたふすま障子の隙間から、楊貴妃のお姿をご覧になれば、

一たびお笑いになるその瞳には、美しい谷間に咲く多くの花もその香りを恥じて、吹く風に誘われるようにして四方に散り、かすかに見えるその容貌は、天の川やはるかかなたの月さえ、その美しい容姿をうらやましくも憎く思い、五更(ごこう::現在の午前三時頃から六時頃)の霧にその姿を隠します。

雲居遥に雷の中を裂ずは、何故か外には人を水の泡の哀とは思消べき(宮中の中で起こっていることなど、水に出来た泡くらいに考えて無視すべきことではないか位の意味でしょうか?)と、寧王は思いに耐えかねて、哀しみに沈み嘆かれるお心の中も可哀そうになります。

天子のお側には大史の官(宮廷内の諸記録を司る官吏)と言う、八人の臣下が常時お仕えして、帝の行動全般についてその良し悪しを記録し、宮廷の書庫に収めることになっていました。この記録は天子もご覧になることがなく、お側に仕える人も見ることなく、

ただ記録書に書き残して、前代の帝の是非を後世の帝の訓戒とするものです。玄宗皇帝は、このように寧王の夫人を奪い取ったことなど、どのように歴史書に書き留められているのかと思い、ひそかに役所の書庫を開かせ、役人の書き記した個所をご覧になると、

案の定このことがありのままに書き付けられていました。玄宗は激怒してこの記録を破り捨て、役人を呼び出すと即刻首を刎ねられました。その後、大史の官は置かれませんでしたので、天子がどのように間違った行いをされても、ご注意する人もいなくなりました。

このような時、魯国に一人の賢人がいました。宮中に参内して大史の官を希望されたので、すぐ左大史に任命され天子の傍にお仕えすることになりました。玄宗皇帝は、この左大史もまた楊貴妃のことを書き記したのではと思い、ひそかに役所の書庫を開かせ記録を確認すると、

『天宝十年三月弘農に住む楊玄えんの娘を寧王の夫人にする。天子は彼女の並外れた美しい容色を聞くと、高将軍を派遣して自分の后にするため拉致しました。当時の大史の役人はこのことを史書に書き留めました。その後ひそかに天子がこれをご覧になった時、

激怒した天子は書記官を誅殺しました』と、記録してありました。玄宗は前に増して怒り狂い、再びこの役人を呼び出すと、すぐに車裂き(身体を引き裂く)の刑に処しました。このようなことが続けば大史の官になろうとする者などいないと思えましたが、再び魯国から儒者が一人来て、

歴史編纂職を希望するので、すぐに左大史に任命しました。彼が記録した個所をご覧になると、『天宝末頃より泰階(たいかい::星の名。この星が安定すれば五穀豊穣、天下泰平)が安定し、国内は平安無事です。政治、行政は停滞し、歓楽を追い求めることますます激しくなりました。

君主は容貌に目を奪われ寧王の夫人を拉致しました。書記官はこの事実を記録し、ある者は誅殺され、またある者は車裂きに処されました。臣たる者はその非を正すため、たとえ死するともこの職に居ます。今後記録官が任命され、たとえ死を賜り、続いて万人が死ぬことになろうとも、

記録官たる者はこの事実を書き留めないことなどないでしょう』と、書き記されていました。自分の命を惜しむことなく、今後の記録官までたとえ万人が死のうとも、書き記さないことなどあり得ないと、三族の刑(身近な三つの親族に及ぶ刑罰)を恐れることなく書き留めた左大史の忠義ある心情ほど、

ありがたいものはありません。玄宗はこの時自らの非に気付き、臣下の忠義に心を打たれて、その後は史官を誅することなく、却って高給を支給しました。人間として死ぬことほどつらいことはないので、三人の役人が全く悲しくないことなどあり得ません。

もし天子の権力に恐れをなして帝に諫言をしなければ、天子は何に遠慮することなく悪行を続けられたと思えるので、死罪になることを恐れず諫言を行った大史官の心中は、考えれば考えるほどありがたいものです。このように国家に諫言を行ってくれる臣下がいれば、その国は安泰であり、

家では諫言をする子のいる家は、乱れることなく栄えます。と言うことで、吉野におられる帝も本当に天下の人民の生活を安定させようと考えになり、臣下も自分のことばかり考えず、帝の過ちを諫言する者がいれば、これほどまで乱れきった武家の世を、

宮方がどうして手に入れることが出来ないのでしょうか。これほど情けない天下を手に入れることも出来ず、三十余年も吉野山の奥、谷底で再び華やかな地位に返り咲くことを考えもせずにおられることから、宮方の政治程度をお考えになってください」と、爪弾きをして話されました。


両人物語、げにもと聞居て耳を澄す処に、又是は内典の学匠にてぞある覧と見へつる法師、熟々と聞て帽子を押除菩提子の念珠爪繰て申けるは、「倩天下の乱を案ずるに、公家の御咎共武家の僻事とも難申。只因果の所感とこそ存候へ。其故は、仏に無妄語と申せば、仰で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見に、増一阿含経に、昔天竺に波斯匿王と申ける小国の王、浄飯王の聟に成んと請ふ。浄飯王御心には嫌はしく乍思召辞するに詞や無りけん、召仕はれける夫人の中に貌形無殊類勝たるを撰で、是を第三の姫宮と名付給て、波斯匿王の后にぞ被成ける。軈此后の御腹に一人の皇子出来させ給ふ。是を瑠璃太子とぞ申ける。七歳に成せ給ける年、浄飯王の城へ坐して遊ばれけるが、浄飯王の同じ床にぞ坐し給たりける。釈氏諸王大臣是を見て、「瑠璃太子は是実の御孫には非、何故にか大王と同位に座し給べき。」とて、則玉の床の上より追下し奉る。瑠璃太子少き心にも不安事に思召ければ、「我年長ぜば必釈氏を滅して此恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十余年を歴て後、瑠璃太子長となり浄飯王は崩御成しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒して摩竭陀国の城へ寄給ふ。摩竭陀国は大国たりといへ共、俄の事なれば未国々より馳参らで、王宮已に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種に強弓共数百人有て、十町二十町を射越しける間、寄手曾不近付得、山に上り河を隔て徒に日をぞ送りける。斯る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手の方へ返忠をして申けるは、「釈氏の刹利種は五戒を持たる故に曾て人を殺事をせず。縦弓強して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只寄よ。」とぞ教へける。寄手大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄けるに、げにも釈氏共の射る矢更に人に不中、鉾を仕ひ剣を抜ても人を斬事無りければ、摩竭陀国王宮忽に被責落、釈氏の刹利種悉一日が中に滅んとす。此時仏弟子目連尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲て、釈尊の御所に参て、「釈氏已に瑠璃王の為に被亡て、僅に五百人残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人の刹利種を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣ける。目連尊者尚も不堪悲に、「縦定業也共、以通力是を隠弊せんになどか不助や。」と思召て、鉄鉢の中に此五百人を隠入て、■利天にぞ被置ける。摩竭陀国の軍はてゝ瑠璃王の兵共皆本国に帰ければ、今は子細非じとて目連神力の御手を暢て、■利天に置れたる鉢を仰けて御覧ずるに、以神通被隠五百人の刹利種、一人も不残死けり。目連悲て其故を仏に問奉。

お二人の話をなるほどとお聞きになり、耳を澄ましていた仏教の修行者のように見える法師が熱心に聞き終わると、帽子を押しのけて菩提子(ぼだいし::テンジクボダイジュの実)の念珠を指先で動かしながら、「つくづくと天下の乱れを考えてみると、公家に罪があるとも、

武家に間違った所があるとも言い難いところです。ただ前世における行動の結果がここに現れただけと思われます。その訳は、仏のおっしゃられることには嘘がないと言うので、誰もが信仰心を起こすのでしょう。仏教の思想について記述を見ると、

増一阿含経(ぞういつあごんきょう::原始仏教の経典の一つ)に、昔天竺(古代インド)にあった波斯匿王(はしのくおう::釈迦と同時代の古代インド、コーサラ国の王)という名の小さな国の王が、浄飯王(じょうぼんのう::釈迦の父)の婿になりたいと申し入れました。浄飯王は心の中では断りたかったのですが、

これと言ってその理由がありませんので、召し使っている後宮の女性の中から容姿の優れた人を選び、その女性を第三の姫宮と言うことにして、波斯匿王の后にさせました。やがてこの后のお腹に一人の皇子が宿りました。この皇子を瑠璃太子と言います。

彼が七歳になられた時、浄飯王の宮城へ行かれ浄飯王と同じ席につかれました。釈迦族の諸王や大臣はこれを見て、『瑠璃太子は本当のお孫ではないのにかかわらず、なぜ浄飯王と同じ席につかれるのだ』と言って、すぐに大王の床から追い出しました。

瑠璃太子は幼いながらもこのことが心に焼き付き、『私は成人すれば必ずや釈迦族を滅ぼし、この恥を雪いでやろう』と、強い遺恨を持つことになりました。さてそれから二十余年が過ぎて、瑠璃太子は族長になり、また浄飯王も崩御されたので、

瑠璃太子は三百万騎の軍勢を率いて摩竭陀国(まがだこく::古代インドにおける十六大国の一つ)の城に押し寄せました。摩竭陀国は大国と言っても突然の襲撃に、国々からの援軍もいまだに到着せず、もはや宮城も陥落寸前かと思えたのですが、

釈迦族の刹利種(せつりしゅ::古代インドの四姓制度の第二階級)に強弓を扱う兵士数百人がおり、十町、二十町を飛ばして矢を射込んでくるため、寄せ手は全く近づくことが出来ず、山に登り河を間にして何することもなく日を送りました。そのような時に、釈迦族の中から当時の大臣を務める一人の人物が、

寄せ手に味方することを申し出て来て、『釈迦族の刹利種は五戒(在家の信者が守るべき五つの戒め)を持っているため、今だかつて人を殺したことはありません。たとえ強弓をもって遠矢を射ようとも、あたることなど決してありません。ここはただ攻め寄せるべきです』と、教えました。

寄せ手軍は大いに喜び、もう楯を突き出すこともしなければ、鎧を身に着けることもなく、鬨の声を上げながら寄せて行きましたが、なるほど釈迦族の射込んでくる矢は人にあたることなく、鉾を振り回そうが剣を抜いてかかってきても人を切ることもないので、摩竭陀国の王宮は瞬く間に攻め落とされ、

釈迦族の刹利種の人々はことごとく一日にして滅びようとしました。その時、釈迦の弟子である目連尊者(モクレンソンジャ::釈迦の弟子中、神通力第一と言われた)は釈迦族が一人残らず討たれていくのを悲しみ、釈迦がおられる所に行き、『釈迦族は瑠璃王のため早くも滅ぼされ、

わずか五百人が残っているだけです。お釈迦様はどうして神通力をもって、五百人の刹利種の人々を助けてくれないのですか』と申し上げると、釈尊は、『とんでもない、因果(前世の行為が現在の結果となっていること)にかかわることは、仏の計り知れない力をもってしても、

いかようにも出来ないものだ』と、仰せられました。目連尊者はなおも悲しみに耐えられず、『たとえ前世の因果であっても、超人的な能力によってかくまうことが出来ないはずがない』と考え、鉄製の鉢の中にこの五百人を隠し、とう(リッシン偏に刀)利天(欲界に属する六つの天の第二。須弥山の頂にある)に置きました。

摩竭陀国の軍隊は全滅し、瑠璃王率いる兵士らは全員本国に帰ったので、もう大丈夫だろうと目連は特殊能力をもつ手を伸ばして、とう利天に置いておいた鉢をあお向けてご覧になったところ、神通力を使って隠した五百人の刹利種は、一人残らず死に絶えていました。

目連は悲しくてその理由を釈尊に尋ねられました」


仏答て宣く、「皆是過去の因果也。争か助る事を得ん。其故は、往昔に天下三年旱して無熱池の水乾けり。此池に摩羯魚とて尾首五十丈の魚あり。又多舌魚とて如人言ふ魚あり。此に数万人の漁共集て水を換尽し、池を旱て魚を捕んとするに、魚更になし。漁父共求るに無力空く帰んとしける処に、多舌魚岩穴の中より這出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚は此池の艮の角に大なる岩穴を掘て水を湛、無量の小魚共を伴ひて隠居たり。早く其岩を引除て隠居たる摩羯魚を可殺。加様に告知せたる報謝に、汝等我命を助よ。』と委く是を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入にける。漁父共大に悦て件の岩を掘起して見に、摩羯魚を始として五丈六丈ある大魚共其数を不知集居たり。小水に吻く魚共なれば、何くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許を生たりけり。されば此漁父と魚と諸共に生を替て後、摩羯魚は瑠璃太子の兵共と成り、漁父は釈氏の刹利種となり、多舌魚は今返忠の大臣と成て摩竭陀国を滅しける。又舎衛国に一人の婆羅門あり。其妻一りの男を産り。名をば梨軍支とぞ号しける。貌醜く舌強くして、母の乳を呑する事を不得。僅に酥蜜と云物を指に塗り、舐せてぞ命を活けたりける。梨軍支年長じて家貧く食に飢たり。爰に諸の仏弟子達城に入て食を乞給ふが、悉鉢に満て帰給を見て、さらば我も沙門と成て食に飽ばやと思ひければ、仏の御前に詣でゝ、出家の志ある由を申に、仏其志を随喜し給て、『善来比丘於我法中快修梵行得尽苦際。』と宣へば、鬢髪を自落て沙門の形に成にけり。角て精勤修習せしかば軈阿羅漢果をぞ得たりける。さても尚貧窮なる事は不替。長時に鉢を空くしければ仏弟子達是を憐て、梨軍支比丘に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐よ。参詣の人の奉んずる仏供を請て食んに不足あらじ。』とぞ教られける。梨軍支悦て塔の中に入て眠居たる其間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更に是を不知。時に舎利弗五百人の弟子を引て、他邦より来て仏塔の中を見給に、参詣の人の奉る仏供あり。是を払集て、乞丐人に与へ給ふ。其後梨軍支眠醒て、食せんとするに物なし。足摺をしてぞ悲ける。舎利弗是を見給て、『汝強に勿愁事、我今日汝を具して城に入り、旦那の請を可受。』とて伽耶城に入て、檀那の請を受給。二人の沙門已に鉢を挙て飯を請けんとし給ける処に、檀那の夫婦俄喧をし出して、共に打合ける間、心ならず飯を打こぼして、舎利弗・梨軍支共に餓てぞ帰給ける。其翌の日又舎利弗、長者の請を得て行給ひけるが、梨軍支比丘を伴ひ連給ふ。長者五百の阿羅漢に飯を引けるが、如何して見はづしたりけん。梨軍支一人には不引けり。梨軍支鉢を捧て高声に告けれども人終に不聞付ければ、其日も飢て帰にける。阿難尊者此事を憐て、『今日我仏に随奉て請を受るに、汝を伴て飯に可令飽。』と約し給。阿難既に仏に随て出給時に、梨軍支に約束し給つる事を忘て、連給はざりければ、今日さへ鉢を空して徒然としてぞ昏しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支を忘たりし事を浅猿く思召て、是に与ん為に或家に行て飯を乞て帰給。道に荒狗数十疋走進ける間、阿難鉢を地に棄て、這々帰給しかば、其日も梨軍支餓にけり。第六日に、目連尊者梨軍支が為に食を乞て帰給に、金翅鳥空中より飛下て、其鉢を取て大海に浮べければ、其日も梨軍支餓にけり。第七日に、舎利弗又食を乞て、梨軍支が為に持て行給に、門戸皆堅く鎖して不開。舎利弗以神力其門戸を開て内へ入給へば、俄に地裂て、御鉢金輪際へ落にけり。舎利弗、伸神力手御鉢を取上げ飯を食せんとし給に、梨軍支が口俄に噤て歯を開く事を不得。兔角する程に時已に過ければ、此日も食はで餓にけり。此に梨軍支比丘大に慚愧して、四衆の前にして、『今は是ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲て即涅槃に入けるこそ哀なれ。諸の比丘怪て、梨軍支が前生の所業を仏に問奉る。于時世尊諸の比丘に告曰、『汝等聞け、乃往過去に、波羅奈国に一人の長者有て名をば瞿弥といふ。供仏施僧の志日々に不止。瞿弥已に死して後、其妻相続て三宝に施する事同じ。長者が子是を忿て其母を一室の内に置き、門戸を堅く閉て出入を不許。母泣涕する事七日、飢て死なんとするに臨で、母、子に向て食を乞に、子忿れる眼を以て母を睨て曰、「宝を施行にし給はゞ、何ぞ砂を食ひ水を飲で飢を不止。」と云て遂に食物を不与。食絶て七日に当る時母は遂食に飢て死ぬ。其後子は貧窮困苦の身と成て、死して無間地獄に堕す。多劫の受苦事終て今人中に生る。此梨軍支比丘是也。沙門と成即得阿羅漢果事は、父の長者が三宝を敬し故也。其身食に飢て砂を食て死せし事は、母を飢かし殺したりし依其因果也。』」と、釈尊正に梨軍支過去の所業を説給しかば、阿難・目連・舎利弗等作礼而去給。加様の仏説を以て思ふにも、臣君を無し、子父を殺すも、今生一世の悪に非ず。武士は衣食に飽満て、公家は餓死に及事も、皆過去因果にてこそ候らめ。」と典釈の所述明に語りければ、三人共にから/\と笑けるが、漏箭頻に遷、晨朝にも成ければ、夜も已に朱の瑞籬を立出て、己が様々に帰けり。以是安ずるに、懸る乱の世間も、又静なる事もやと、憑を残す許にて、頼意は帰給にけり。

法師の話は続きます。「釈尊は、『これらのことは全て前世の因果である。どうしても助かることなどは出来ない。その訳は、往昔(おうせき::昔々)に天下が三年にわたって干ばつが続き、無熱池(むねっち::ヒマラヤの北にあると言う想像上の池)の水が枯れたことがありました。

この池には摩羯魚(まかつぎょ::この世のもの一切を飲み込む、この上もない大魚)と言う、体長五十丈(約152m)もある魚がいます。また多舌魚(たぜつぎょ)と言う人間のように話す魚がいます。この池に数万人の漁師らが集まって、水をかい出し池を干あげて魚を捕ろうとしましたが、

一匹の魚もいませんでした。漁師たちが仕方なく帰ろうとした時、多舌魚が岩穴から這い出て来くると、漁師たちに、《摩羯魚はこの池の艮(うしとら::北東)の奥に大きな岩穴を掘って水を貯め、無数の小魚と一緒になって隠れています。早くその岩を取り除き、隠れている摩羯魚を殺すことだ。

このように教えてやった報酬として、汝らは私の命を助けるように》と詳しく事情を話すと、多舌魚は岩穴の中に入りました。漁師らは大いに喜び、その岩を掘り起こしてみると、摩羯魚をはじめに五丈、六丈もある大きな魚などが、その数も分からないくらい集まっていました。

僅かな水を頼っている魚らなので、どこへも逃げることが出来ず、一匹残らず漁師に殺され、多舌魚だけが生き残りました。そんなわけで、この漁師らと魚たちは生まれ変わってから、摩羯魚は瑠璃太子の兵士達となり、漁師らは釈迦族の刹利種になり、また多舌魚は今味方を裏切り、

敵に通じた大臣となって、摩竭陀国を滅ぼしたのです。また舎衛国に一人の高僧がいました。その妻が一人の男子を出産しました。その子供は梨軍支(りぐんし)と名付けられました。容貌が醜い上、舌の力が強くて、母の乳を飲むことが出来ませんでした。

わずかに酥蜜(そみつ::牛乳から作ったバターのような油と蜂蜜を混ぜたもの)と言うものを指に塗り、それを舐めさせて命をつないできました。梨軍支は成長しましたが、家は貧しくて食事もままなりません。その頃、仏の弟子たちは城に入って食事を乞うていましたが、皆が皆、鉢に食料を一杯にして帰るのを見て、

それなら私も僧侶になって食事に困らないようにしようと考え、仏の前に参り、出家の気持ちがあることを申し出た所、仏はその気持ちに大喜びされ、《出家希望者よ、私の弟子である僧侶らと共に仏道の修行に励み、もろもろの苦から逃れるが良い》と仰せられたので、自ら鬢髪を落として僧形となりました。

このようにして修行に精を出し勉学に励みましたから、やがて阿羅漢果(あらかんか::一切の悩みや束縛から脱した悟りの境地)に達しました。とは言え未だ貧窮の境涯にあることには変わりません。いつも食料を入れる鉢が空っぽなので、仏弟子らはかわいそうに思い、

梨軍支修行者に向かって、《宝塔(円筒形の塔に方形の屋根を乗せた建築物)の中に入って座られたら良い。参詣に来られた人が供える物を貰い受ければ、食に困ることはないだろう》と、教えました。梨軍支は喜んで塔の中に入り居眠りをしている間に、参詣の人々はお供えをしますが、

こんなことになっているとは知りませんでした。その時、舎利弗(しゃりほつ::釈迦の十大弟子の一人)が五百人の弟子を率い、他の土地からやって来て仏塔の中をご覧になると、参詣の人が納めたお供えがあります。これを集めて乞丐(かたい::ものもらい、乞食)の人達に与えました。

その後、眠りから目が覚めた梨軍支が食べようとしましたが、何も残っていません。じだんだを踏んで悲しみました。舎利弗はこの姿を見て、《汝よ、何もそれ程悲しむことはない、今日私が汝を連れて城に入り、お布施を行う人有徳の人の招きを受けよう》と言って

伽耶城(がやじょう::古代マガダ国の都城。ブッダが悟りを得た地)に入り招きを得ました。二人の修行僧が鉢を手にして食料を乞い受けようとしたところ、有徳者の夫婦が突然大声を発して叩き合いを始めたため、思いがけなく食料をこぼしてしまったので、舎利弗と梨軍の二人は空腹のまま帰られたのでした。

その翌日、再び舎利弗は長者からの招きを得て、梨軍支修行僧と一緒に行きました。長者は五百人の阿羅漢(あらかん::聖者)に食事を提供していましたが、どうして見落としたのでしょうか。梨軍支一人だけ提供がありませんでした。梨軍支は鉢を高く上げて大きな声で知らせましたが、

とうとう気付いてもらえず、その日も空腹のまま帰りました。阿難尊者(あなんそんじゃ::釈迦の十大弟子の一人)はこのことを気の毒に思い、《今日私は仏に付き添っての招きを受けているので、汝を伴って充分な食事にありつこう》と、約束されました。しかし阿難は仏に従ってすでに出かけたのですが、

梨軍支と約束したことを忘れて、連れて行ってもらえず、今日もまた空の鉢を前に空しく一日を暮らしました。五日目に阿難は、昨日梨軍支のことを忘れていたことを情けなく思い、彼に与えようと思ってある家に行き、食を乞うて帰られました。途中の道で獰猛な野犬数十匹が走り寄ってきたので、

阿難は鉢を地面に捨てて這うようにして帰ることとなり、結局その日も梨軍支は食事にありつけませんでした。六日目には目連尊者が梨軍支のために、食を貰い受けて帰る途中、金翅鳥(こんじちょう::想像上の大鳥)が空中より飛び下りて来て、食料の入った鉢をつかんで大海に運び去ったので、

その日も梨軍支は食べることが出来ませんでした。七日目には再び舎利弗が食を乞うて、梨軍支のために持って行きましたが、梨軍支宅の門戸は全て固く閉ざされて開きません。舎利弗は不思議な力を発揮して門戸を開き、中に入ったところにわかに地面が引き裂かれ、

鉢は金輪際(こんりんざい::大地の最下底)に落ちてしまいました。舎利弗は不思議な力で手を伸ばし鉢を取り上げ、梨軍支に食事をさせようとしたところ、梨軍支の口が突然閉じてしまい、開くことが出来ませんでした。何とかしようとしている内に、時間がどんどん過ぎていき、この日も食事することが出来ませんでした。

ここに至って梨軍支修行僧は大いに反省し、四衆(ししゅ::仏教教団を構成する人々)を前にして、《今はもうこれしか食べるものはない》と言って、砂を噛み、水を飲むとすぐに亡くなられたのは可哀そうなことでした。他の修行僧らは不審に思い、梨軍支の前世における行動などを仏に尋ねました。

その時釈迦は諸修行僧に向かって、《皆の者よ、私の話を聞きなさい。遠い昔、波羅奈国(はならこく::古代インドの王国、釈尊が初めて説法した土地)に一人の裕福な者がおり、名を瞿弥(くみ)と言います。供仏施僧(くぶつせそう::仏を供養し僧をもてなすこと)の気持ちは日々に強く止むことはありませんでした。

すでに瞿弥が死んでからもその妻は継続して三宝(仏全体。仏、法、僧)に施しを同じようにされました。長者の子供はこのことに怒りを覚え、その母を一室に閉じ込め、門戸を固く閉ざして出入りすることを許しませんでした。母が泣涕(きゅうてい::涙を流して泣くこと)すること七日になり、

飢えから命も絶えようとした時、母は子供に食事を要求しましたが、子供は怒りの目を母に向け、《《財物を仏に施すことをされるなら、どうして砂を食べ水を飲んで、飢えをしのがないのですか》》と言って、とうとう食物を与えませんでした。食事が摂れなくなって七日目に母はついに餓死しました。

その後子供の生活は貧しさと苦しみにおちいり、死んでから無間地獄(むけんじごく::八大地獄の第八。大悪を犯した者が落ちる所)に落ちました。長年受け続けた苦しみが終わって、今この世に生まれたのです。この梨軍支修行僧がその人です。僧侶となり修行僧として最高の位を得ることが出来たのは、

父の長者が三宝を敬っていたからです。そして自分は食べ物に飢え砂を食べて死んだのは、母に食事をさせず、殺した因果によるものです。》』と釈尊が理を尽くして、梨軍支の過去における行いを説明されたので、阿難、目連、舎利弗らは礼を尽くして去られました。

このように仏教の教えを基準に考えてみると、臣下が主君をないがしろにしたり、子供が父を殺害することも、人間にとってそれ程の悪行でもありません。武士が十分すぎる衣食につつまれ、公家が餓死することも全て過去の因果によるものです」と、仏書に書かれていることを明確に語られたので、

三人ともカラカラと笑われましたが、漏箭(ろうせん::水時計の時刻を指す矢)もしきりに動いて明け方近くになり、夜もすでに明けて、日も垣根から顔を出したので、各自それぞれお帰りなられました。このように色々考えてみると、このように乱れた世間も、

また静かに治まることになるのだろうと期待を残して、日野僧正頼意はお帰りになられました。


○尾張小河東池田事
去程に小河中務丞と、土岐東池田と引合て、仁木に同心し、尾張小河庄に城を構て楯篭りたりけるを、土岐宮内少輔三千余騎にて押寄せ、城を七重八重に取巻て、二十日余り責けるが、俄拵たる城なれば、兵粮忽に尽て、小河も東池田も、共に降人に出たりけるを、土岐日来所領を論ずる事有し宿意に依て、小河中務をば則首を刎て京都へ上せ、東池田をば一族たるに依て、尾張の番豆崎の城へぞ送りける。吉良治部太輔も仁木が語ひを得て、参河国の守護代西郷兵庫助と一に成て、矢矧の東に陣を張り、海道を差塞ぎ、畠山入道が下向を支たりけるが、大島左衛門佐義高、当国の守護を給て、星野・行明等と引合ひ、国へ入ける路次の軍に打負て、西郷伊勢へ落行ければ、吉良治部太輔は御方に成て、都へぞ出たりける。是のみならず、石塔刑部卿頼房、仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を起し、二千余騎にて近江国に打越、葛木山に陣を取。佐々木大夫判官入道崇永・舎弟山内判官、国中の勢を集て飯守岡に陣を張り数日を経る処に、九月二十八日早旦に、仁木三郎兵を印て申けるは、「当国に打越て、数日合戦に不及して徒に里氏を煩す事非本意上、伊勢の京兆も定て未練にぞ思給らん。今日吉日なれば敵を一当々て可散。但佐々木治部少輔高秀が手の者を分て守るなる市原の城を責落し、敵を一人も跡に不残、心安く合戦を可致。」とて打立ければ、石塔刑部卿も伊賀の名張が一族、当国の大原・上野の者共付順ひける間、手勢三百余騎是も同く打立て、旗を靡け兵を進めければ、此勢を見て佐々木大夫判官入道、「すはや敵こそ陣を去て色めきたれ、打立や者共。」とて兵を集ける。譜代恩顧の若党三百余騎の外は、相順勢も無りけり。敵は是が天下の要めなるべし。仁木京兆の憑たる桐一揆を始として、宗徒の勇士五百余騎に、伊賀の服部・河合の一揆馳加て、廻天の勢を振ふ。其様を見に、五百騎に足ぬ佐々木が勢可叶とは見へざりけり。され共佐々木大夫判官入道其気勇健なる者なりければ、「此軍天下の勝負を計るのみに非ず。今日打負なば弓矢の名を可失とて、僅の勢を数たに成ては叶まじ。」とて、目賀田・楢崎・儀俄・平井・赤一揆を旗頭にて、河端に傍て引へたり。青地・馬淵・伊庭入道・黄一揆を大将として、左手の河原に陣を取。佐々木大夫判官入道に、吉田・黒田・二部・鈴村・大原・馬杉を始として、宗との兵を馬回に引へさせて、敵の真中を破んと引へたり。■弱の勢かさを見て大勢の敵などか勇まであるべき、「三手の小勢を見に、中なる四目結の大旌は、大将佐々木と見るぞ。打取て勲功に預れや。」と呼て、長野が蝿払一揆、一陣に進で懸出たり。元来佐々木は機変■控を心に得て、死を一時に定たる気分なれば、何かは些も可擬議、大勢の真中に懸入て十文字巴の字に懸散し、鶴翼魚鱗に連て東西南北に馬の足を不悩、敵の勢を懸靡て、後に小野の有けるに、西頭に馬を立直し人馬の息を継せければ、朱に成たる放馬其数を不知。蹄の下に切て落したる敵共、算を散てぞ臥たりける。是を見て残の兵気を失て、さしも深き内貴田井を天満山へと志し、左になだれて引ける間、機に乗たる佐々木が若党共、息をもくれず追懸たり。引立たる者共が、難所に追懸られて、なじかは可能。矢野下野守・工藤判官・宇野部・後藤弾正・波多野七郎左衛門・同弾正忠・佐脇三河守・高島次郎左衛門・浅香・萩原・河合・服部、宗との者共五十余人、一所にて皆討れにけり。軍散じければ、同十一月一日、彼首共を取て都に上せしかば、六条河原にぞ被懸ける。是を見ける大名・小名・僧俗・貴賎、哀哉、昨日までも詞をかはし肩を双て、見馴し朋友なれば、涙を拭て首を見、悲の思散満たり。懸りしかば仁木義長も、三千余騎と聞へし兵皆落失て五百余騎にぞ成にける。結句憑たる連枝仁木三郎は、今度軍に打負て、其侭降参して出たりける。加様に義長微々に成しかば、「軈て責よ。」とて、佐々木大夫判官入道・土岐大膳大夫入道、両人討手を承て、七千余騎にて伊勢国へ発向す。義長さしもの勇士なりしか共、兵減じ気疲れしかば、懸合て一度も軍をせず、長野が城に楯篭る。要害よければ寄手敢て不近得。土岐・佐々木は又大勢なれば、平場に陣を取れども、義長打出て散すに不及。両陣五六里を隔て、玉笥二見の浦の二年は、徒にのみぞ過しける。

☆ 尾張の小河中務丞と土岐東池田のこと

さて小河中務丞と土岐東池田が協力して仁木義長に味方をし、尾張小河庄に城を構え立て篭もっているのを、土岐宮内少輔が三千余騎で押し寄せ、城を七重八重に取り巻き、二十日余りにわたって攻めたところ、にわか造りの城なので兵糧もすぐに底をつき、小河も東池田も降伏して出頭してきたのを、

土岐宮内少輔は日頃から所領について争っていることを恨みに思い、小河中務を即刻首を刎ねて京都に届け、東池田は一族であるので、尾張の番豆崎(はずがさき)の城(幡豆崎城か?)に送りました。吉良治部大輔満貞は仁木義長の要請を受けて、三河国の守護代西郷兵庫助と一つになり、

矢矧の東に陣を構え、街道を閉鎖して畠山国清入道の下向を防いでいましたが、大島左衛門佐義高が三河国の守護に命じられ、星野、行明らと一緒になって三河国に入る途中で行われた合戦に負けてしまい、西郷兵庫助は伊勢に落ちて行ったので、吉良治部大輔は降伏して幕府に下り、

都に向かいました。(この段不可解)こればかりでなく、石塔刑部卿頼房は仁木三郎を大将にして伊賀、伊勢の兵を招集し二千余騎で近江国に侵攻し、葛木山(かつらぎさん::滋賀県甲賀市)に陣を構えました。佐々木大夫判官入道崇永とその弟、山内判官は国内の軍勢を招集し飯守岡に陣を構えて数日経った、

延文五年(正平十五年::1360年)九月二十八日早朝に仁木三郎が兵を通じて、「当国に進出して数日間合戦をすることもなく、いたずらに庶民や士官や兵士らに面倒をかけることは本意でない上、伊勢の仁木京兆義長も定めて歯がゆく思っていることでしょう。

今日は吉日なので敵に次々と攻撃を仕掛けて散らそうではないか。但し佐々木治部少輔高秀が自分の手兵を分割して守っている市原の城を攻め落とし、敵を一人も後方に残さずに安心して合戦をしよう」と言ってくると進発を始めたので、石塔刑部卿も伊賀の名張一族や当国伊賀の大原、

上野の武将らも従軍することになり、手勢三百余騎は同様に進発し、旗をなびかせ進軍を始めました。この軍勢を見た佐々木大夫判官入道崇永は、「そらっ!敵は陣を払って動き出したぞ、皆の者立ち上がれ」と言って、兵を集めました。しかし譜代や恩顧の若党ら三百余騎以外は誰も従おうとはしませんでした。

敵は今が天下にとって重要な時だと認識しています。仁木京兆が頼りとしている桐一揆をはじめに、主だった勇士五百余騎と伊賀の服部や河合の一揆が駆けつけて加わり、一気にことを決しようと軍勢はいきり立ちました。この様子を見ると、五百余騎に足らない佐々木の軍勢がかなうとは思えませんでした。

しかし佐々木大夫判官入道は勇猛果敢な人間なので、「この合戦は天下の勝負を決するだけでなく、もし今日の合戦に負けるようなことがあれば、弓矢の名を失うことになるだろう、わずかの軍勢が分散などすればとても戦えない」と言って、目賀田(めかだ)、楢崎、儀俄(げが)、平井、

赤一揆を旗頭にして、川岸に沿うようにして控えました。また青地(あおち)、馬淵(まぶち)、伊庭(いばの)入道、黄一揆らを大将にして、左手の河原に陣を構えました。そして佐々木大夫判官入道には吉田、黒田、二部(にいべ)、鈴村、大原、馬杉(ますぎ)をはじめとして、

主なる兵士を馬回り(大将の馬周辺に付き添って、護衛、伝令、兵力を受け持つ役)に控えさせて、敵の中央突破を目指して控えました。おう弱なる(弱弱しい)軍勢を見て敵の大軍がどうして奮い立たないことなどあるのでしょうか、「三手に分かれた小勢を見ると、真ん中の四ツ目結の大きな旗は、

大将の佐々木と思える。討ち取って手柄を自分のものにすればよい」と叫び、長野の蝿払(はいはらい)一揆が先頭に進み駆け出しました。元来佐々木は機に応じて策を変えたり、進退を柔軟にすることを心掛けている上、死をも覚悟したからにはいまさら何を躊躇するのかと、

大軍のど真ん中に駆け入り、十文字にまた渦巻くように駆け散らし、鶴翼魚鱗(かくよくぎょりん::V形、△形に兵を配置する陣形)に構え、四方八方に馬を駆け巡らせて、敵の軍勢を思うように振り回し、後方に小野が控えているのに、馬の頭を西に向かせて人馬の息を休ませてみれば、

血に染まった放れ馬(乗り手のいない馬)はその数も分からないくらいです。馬蹄の下には切り落された敵兵がバラバラに伏せています。これを見た敵の残兵は戦意喪失し、あれほど深い内貴田井(?)を天満山に向かってなだれるように退却を始めたので、機に乗じた佐々木の若党らは、

息の切れるのをものともせず追いかけました。浮足立った兵士らが難所に追い詰められては、どう頑張っても抵抗などできません。矢野下野守、工藤判官、宇野部、後藤弾正、波多野七郎左衛門、同じく弾正忠、佐脇(さいき)三河守、高島次郎左衛門、浅香、萩原、河合、

服部など主だった者たち五十余人が、全員一ヶ所で討たれました。合戦が終わったので、延文五年(正平十五年::1360年)十一月一日、それらの首を集めて都に届けると、六条河原に架けられたのです。この様子を見た大名、小名、僧俗、貴賤らは悲しいことですが、

昨日までお互い言葉をかけたり、肩を並べたりしていた見慣れた友達や同僚なので、涙をぬぐって首を見れば、悲しい気持ちが溢れかえりました。このようにして仁木義長も三千余騎と言われていた軍勢も、皆落ちたり逃げ去ったりしたので、五百余騎になってしまいました。

そればかりか頼みにしていた同族の仁木三郎は今回の合戦に負けを喫し、そのまま降参して敵陣に向かいました。こうして仁木義長は取るに足らない勢力となり、「すぐに攻めてしまえ」と言って、佐々木大夫判官入道と土岐大膳大夫入道の二人は討手を命じられ、

七千余騎にて伊勢国に発向しました。義長はあれほど勇猛な武将ですが、兵士は減少したままであり、戦意もくじけているので、駆け合っての合戦は一度もすることなく、長野城(津市美里町)に立て篭もりました。要害の地にある城なので、寄せ手も無理に近づくことはしませんでした。

土岐、佐々木の寄せ手も大軍なので、平場に陣を構えていると言っても、義長は打って出て散らすことも出来ません。このまま両陣営とも五、六里を隔てて玉笥(たまくしげ)二見の浦(?)での二年を無駄に過ごすこととなりました。      (終り)

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