36 太平記 巻第三十六 (その一)


○仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
都には去年の天災・旱魃・飢饉・疫癘、都鄙の間に発て、尸骸路径に充満せし事、只事にあらず、何様改元有べしとて、延文六年三月晦日に、康安に改られける。其夜四条富小路より火出て、四方八十六町まで焼失す。改元の始に、洛中加様に焼ぬる事、先不吉の表示也。此年号不可然と被申人多かりけれ共、武家既に宣下を承て国々へ施行しぬるを、いつしか又改元有ん条無其例とて、終に此年号をぞ被用ける。去程に仁木右京大夫義長は、三年が間大敵に取巻れて、伊勢の長野の城に篭りたれば、知行の地もなく、兵粮乏くなるに付て、憑切たる一族郎従漸々に落失て、僅に三百余騎に成にけり。土岐右馬頭氏光・外山・今峯、兄弟三人、始は仁木に属して城に篭りたりけるが、弟の外山・今峯は、忽に翻て寄手に加り、兄の右馬頭は、猶城に留て仁木が方にぞ居たりける。連枝の間なれば、外山・今峯、何にもして右馬頭を助ばやと思て、潜に人を遣し、「城のさのみ弱り候はぬ先に、急ぎ御降参候へ。将軍の御意も無子細候へば、御本領なども相違有まじきにて候。」と、申遣したりければ、右馬頭使に向て、兔角の返事をばせで、其文を引返て、一首の歌を書てぞ返しける。連りし枝の木葉の散々にさそふ嵐の音さへぞうき外山・今峯此返事を見て、是程に思切たる人なれば、語ふ共甲斐あるまじ。げにも連枝の兄弟散々に成て後、憂世を秋の霜の下に朽なん名こそ悲けれと、泪ぐみけるぞ哀なる。日に随て勢の落行気色を見て、我力にては遂に可叶とも不思けるにや、義長潜に吉野殿へ使者を進じて、御方に可参由をぞ申入たりける。伝奏吉田中納言宗房卿、参内して事の由を被奏聞けるに、諸卿異儀多しといへ共、義長御方に参りなば、伊賀・伊勢両国、官軍に属するのみならず、伊勢の国司顕能卿の城も、心安く成ぬべしとて、則勅免の綸旨をぞ被成ける。是を承て、武者所に候ける者共が囁き申けるは、「近年源氏の氏族の中に、御方に参ずる人々を見るに、何れも以詐君を欺申さずと云者なし。先錦小路慧源禅門は、相伝譜代の家人師直・師泰等が害を遁ん為に、御方に参りしか共、当方の力を仮て、会稽の恥を雪たりし後、一日も更に天恩を重しとせず、其譴身に留て遂に毒害せられにき。其後又宰相中将義詮朝臣、御方に可参由を申て、君臣御合体の由なりしも、何か天下を君の御成敗に任せたりし堅約忽に破て、義詮江州を差て落たりしは、其偽の果所に非ずや。又右兵衛佐直冬・石堂刑部卿頼房・山名伊豆守時氏等が、御方の由なるも、都て実共不覚。推量するに、只勅命を借て私の本意を達せば、君をば御位に即進する共、天下をば我侭にすべき者をと、心中に挟者也。今又仁木右京大夫義長、大敵に囲れたるが難堪さに、御方に参由を申を、諸卿許容し給こそ心得ね。彼が平生の振舞悪として不造云事なし。聊も心に逆ふ時は、無咎人を殺て誤れりとも不思、気に合時は、無忠賞を与て忽に是を取返す。先多年の芳恩を忘て、義詮朝臣を背く程の者なれば、君の御為に深く忠義を可存や。七箇国の管領を、尚あきたらず思し程の心なれば、此方の五箇国・三箇国の恩賞を、不足なしと可思や。若又彼が如所存恩賞を被行、日本六十六箇国に一所も残処不可有。多年旧功の官軍共、何れの所にか身を可置。倩是を思に、非忠臣非智臣、仏神に被捨進せ、人望に背て自滅せんとする悪人を、御方に被成たらば、豈聖運の助ならんや。只虎を養て自患を招く風情なるべき者を。」と申ければ、又傍に仁木を引者やと覚しくて申けるは、「此人悪き事はさる事なれ共、又直人とは不覚。鎌倉にては鶴岡の八幡宮にて、児を切殺して神殿に血を淋き、八幡にては、駒方の神人を殺害して若干の神訴を負ふ。尋常の人にて是程の悪行をしたらんに、暫くも安穏なる事や候べき。仙輿国王の五百人を殺し、斑足太子の一千の王を害せしも、皆権者の所変とこそ承れ。是も只人を贔屓して申に非ず。人の語り伝へし事の耳に留て候間申にて候也。近年此人伊勢国を管領して、在国したりしに、前々更に公家武家手を不指神三郡に打入て、大神宮の御領を押領す。依之祭主・神官等京都に上て、公家に奏聞し武家に触訴ふ。開闢以来未斯る不思議やあるとて、厳密の綸旨御教書を被成しか共、義長曾不承引。剰我を訴訟しつるが悪きとて、五十鈴川をせいて魚を捕り、神路山に入て鷹を仕ふ。悪行日来に重畳せり。よしやさらば神罰に任て亡んを待とて、五百余人の神官等榊の朶に木綿を懸、様々の奉幣を捧て、只義長を七箇日の内に蹴殺させ給へと、異口同音にぞ呪咀しける。七日に当りける日、十歳許なる童部一人、俄に物に狂て、「我に大神宮乗居させ給へり。」とて、託宣しけるは、「我本学覚如の都を出て、和光同塵の跡を垂しより以来、本高跡下の秋の月不照云処もなく、化属結縁の春の華不薫云袖もなし。去ば方便の門には罪有をも不嫌、利物の所には愚なるをも不捨。抑義長が悪行を汝等天に訴て呪咀する事こそ心得ね。彼が三生の前に義長法師と云し時、五部の大乗経を書て此国に納めたりき。其善根今生に答て当国を知行する事を得たり。加様の宿善ならずは彼豈一日も安穏なる事を得んや。嗚呼あたら善根や。若無上菩提の心に趣て、此経を書たらましかば、速に離生死至仏果菩提なまし。只名聞利養の為に、修せし処の善根なれば、今身は武名の家に生れて、諸国を管領し、眷属多くたなびくといへ共、悪行心に染て、乱を好み人を悩す。哀なる哉、過去の善根此世に答て、今生の悪業又未来に酬はん事を。」とかきくどきて泣けるが、暫寝入たる体にて物付は則覚にけり。加様の事を以て思時は、義長も故ある人とこそ覚へ候へ。」と申ければ、初譏つる者共、「其れは不知、於悪行は天下第一の僻者ぞ。」と終夜語て、明れば朝よりぞ退てける。

☆ 仁木京兆が南朝朝廷に参内したことと大神宮の御宣託があったこと

さて都では昨年(延文五年::正平十五年::1360年)には天災、旱魃、飢饉、疫病などが都や地方に発生し、遺体が道路にまであふれる有様はただ事ではないと思われ、どうあっても改元を行わねばと、延文六年(正平十六年::1361年)三月晦日に康安(こうあん)と改元されました。その夜、四条富小路より出火して四方八十六町が焼失しました。

改元早々にこのような火災が発生するとは、先行き不吉なことの現れでしょうか。この年号はよろしくないと話される人は多かったのですが、幕府ではすでに宣下によって国々に実施させているので、またすぐにでも改元が行われることは、そのような例を聞いたこともないので、結局この元号を使用することになりました。

ところで仁木右京大夫義長は三年間敵の大軍に取り囲まれ、伊勢の長野城に篭っていますので、俸禄としての土地もなく、兵糧も乏しくなるにつけ、頼り切っている一族や家来などが次第次第に落ちて行ったりしたため、残っているのは僅か三百余騎になってしまいました。土岐右馬頭氏光、外山(とやま)、今峯の兄弟三人は、

はじめ仁木に属して城に篭っていましたが、弟の外山と今峯はすぐに裏切って寄せ手に加わりましたが、兄の右馬頭は今なお城に留まり仁木に属しています。兄弟の仲なので外山と今峯は何とかして右馬頭を助けたく思って、ひそかに人を遣わし、「籠城している軍勢がそれ程の打撃を受けぬ前に、急いで降参を申し出てください。

将軍のお考えにも特別な理由もないと思えますので、御本領にも変化などないでしょう」と申し伝えたところ、右馬頭は使者に向かって特別な返事はせず、その文を裏返し一首の歌を書きつけて返しました。
      連りし 枝の木葉(このは)の 散々に さそふ嵐の 音さえぞうき

外山、今峯はこの返事を見て、これほど覚悟を決めている人ならば、何をどう話しても無駄でしょう。とは言っても血族である兄弟が散り散りになり、秋の霜が降りたような息苦しい世の中で、消え去って行く名前も悲しいではないかと、涙ぐむのも哀れな話です。日に日に軍勢が逃げ落ちて行く様子を見ていれば、

とても独力で対抗など出来ないと思ったのか、義長はひそかに吉野殿へ使者を立て、味方として貴陣営に参加したいと申し入れました。伝奏(取り次ぎ奏上すること)の吉田中納言宗房卿が参内して事情を奏上されると、諸卿には異論も多かったのですが、もし義長が味方に参じて来れば、伊賀、伊勢両国が官軍に属するだけでなく、

伊勢の国司、北畠顕能卿の城も安心できるだろうと、すぐに勅免(ちょくめん::勅命による赦免)の綸旨が下されました。この話を聞いて、武者所(御所を警備する武士の詰め所)に詰めている者どもは、「最近源氏の血縁集団の中から味方に参じて来た人を見ると、どなたも嘘をついて天皇をだまそうとする人ばかりである。

まず錦小路慧源禅門直義は足利家譜代の家来、師直、師泰らによる迫害から逃れようと、味方に参じて来ましたが、わが陣営の力を利用して会稽の恥を雪いでからは、一日とて天皇の恩を重視しなかったため、その罪を背負ったのかとうとう毒殺されたのです。その後においても、また宰相中将義詮朝臣が味方に参じたいと申し入れてきて、

朝廷と幕府は合体化をはかり、いつかは天下の成敗を天皇にお任せすると言う固い約束も瞬く間に破られ、義詮が江州に向かって落ちて行ったのは、その申し入れが偽りだったことの証拠ではないか。また右衛門佐足利直冬、石塔刑部卿頼房、山名伊豆守時氏らが味方になると言ってきたのも、すべて本心からとは思えない。

推し量って見れば、ただ単に勅命を手に入れて、自分の本意さえ実現できれば、天皇をその位におつけしたとしても、天下は自分の思い通りにしようと心中考えている者である。今、仁木右京大夫義長は大軍に取り囲まれ、打開出来そうにない苦しさから味方に参じたいと申し入れて来ただけなのに、諸卿の皆さまがお許しになることは全く納得できない。

彼の平素の行動は、ほしいままに悪事を繰り返していたことに間違いない。少しでも自分の気に入らなければ、罪のない人を殺しても間違っているとは思わないし、気に入れば忠功がなくても恩賞を与えるが、すぐに取り上げます。いずれにせよ、多年にわたって恩を受けてきたことを忘れ、義詮朝臣を裏切るような者であれば、

天皇に対して忠義心を持っているとは考えられません。現在の七ヶ国の領有では飽き足らないと思う位ならば、南朝での五ヶ国や三ヶ国の恩賞で不足無しと思うはずなどない。もし彼が望んでいる恩賞を行ったりすれば、日本六十六ヶ国に一ヶ所たりと残る所があるとは思えない。長年南朝に忠功を尽くしてきた官軍たちは、

一体どこに身を置けばよいのでしょうか。これらのこと、よくよく考えてみれば、忠臣でもなければ優秀な臣下でもない者が、神や仏にも捨てられ人々の信頼を裏切り、自滅しようとしている悪人を味方になど迎えたら、どうして天皇の運に良い結果など得られるのでしょうか。ただそれは虎を養って自ら禍を招き入れる状況になるだけなのに」と話されると、

また傍にいた仁木を贔屓する者と思える人は、「この人が悪いことは認めても、また凡人とも思えません。鎌倉において鶴岡八幡宮にて稚児を切り殺し神殿に血を注ぎ、八幡では駒方の神人(馬の作り物をつけて行列に従う神人)を殺害したためそれなりの強訴を受けました。尋常な人間がこのような悪行をすれば、たとえわずかな時間でも安閑としてはいられないでしょう。

仙予国王(釈迦?)が五百人を殺害し、斑足太子(はんそくたいし::古代インドの伝説上の王。父王と雌獅子が交わって生まれ、足に斑点があった)が千人の王を殺害しようとしたのも、皆衆生を救うため仮に姿で現れ行ったものと理解されたい。何もこれはただ人を贔屓して話をしているのではありません。人が語り伝えていることを耳に留め、

それを話しているだけです。最近この人が伊勢国を領有しその国にいましたが、今まで公家や幕府が干渉したことのない神三郡(しんさんぐん::特定の神社の所領、神域として定められた郡。ここでは度会郡、多気郡、飯野郡)に進攻し、伊勢大神宮の神領を横領しました。このため祭主(伊勢神宮の神職の長)や神官らが京に上り、公家を通じて天皇に申し上げ、

幕府に訴えを起こしました。我が国始まって以来の不可解な出来事であると、厳しい内容の綸旨や御教書(みぎょうしょ::将軍よりの伝達文書)が下されましたが、義長は全く意に介しませんでした。そればかりか私を訴えるとはけしからぬとばかりに、五十鈴川をせき止めて魚を捕り、神路山(かみじやま::五十鈴川上流域の総称)に入り鷹狩をしました。

悪行は日毎に激しくなっていきました。よしそれでは神罰によって自滅を待とうではないかと、五百余人の神官らが榊の枝に紙を垂らし、様々なお供えを揃えて、ただただ義長を七日以内に蹴り殺してくださいと異口同音に呪詛しました。そして七日目にあたる日、十歳ばかりの子供が突然物狂いになり、『私に大神宮が乗り移りました』と言って、

『私は解脱の世界から俗世間に仮の姿を現してから、日本国土くまなく秋には月の光を照らさないことはなく、人に真実を教え導くため春の花の香りを袖にひそませています。そのため方便として仮に便宜的な手段として、罪ある人も嫌がることなく、衆生を救済するためには愚かなる人も見捨てることなどいたしません。

そもそも義長の悪行を、汝らが天に訴え呪詛することは全く理解できません。彼が三生の前(?)に義長(ぎちょう)法師と名乗っていた時、五部の大乗経(大乗の教えを説いた経典)を書写しこの国に納められました。その善根が今生に反映されて、伊勢国を領有することになりました。このように前世での善行がなければ、

彼は一日だって安穏と過ごすことはできません。あぁ、何と素晴らしい善根ではないでしょうか。もしこの上なく悟りの心をもって、この経を書いたのであれば、速やかに生死の煩悩から逃れ、悟りの境地を得ることが出来たでしょう。しかし、ただ名誉と利欲のために行った善行であれば、今は武家としての名家に生まれて、

諸国を領有して一族大勢が彼に従えども、悪行は彼の心に染み付き、乱を好んで人を困らせることになる。悲しいことであるが、過去の善根が現世に現れ、今生の悪行が未来にその報いが現れるだろう』と、くどくど話しながら泣かれ、しばらく寝入った様子の後、憑き物は落ち正気に戻ったのです。このようなことを考慮して考えれば、

義長もそれなりに訳ありの人間とお考えください」と話されたので、初めは批判的なことを話していた人たちも、「そのような事情だったのか、知らなかった。悪行に関しては天下第一のひねくれ者だが」と終夜話していましたが、朝ともなると皆帰られたのです。


○大地震並夏雪事
同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

☆ 大地震と夏に雪の降ったこと

さて同年康安元年(正平十六年::1361年)六月十八日、巳刻(午前十時頃)から十月に至るまで大地が度々揺れ動き、日夜止む時もありませんでした。山は崩れて谷を埋め、海は隆起して陸地に変わり、神社仏閣は倒壊し、牛馬人民らの死傷者は幾千万になるのか、その数も分かりません。全ての山や川、大きな川、林野また村落など、

この天災に見舞われなかった所などありませんでした。その中でも阿波の雪の湊(徳島県海部郡美波町)と言う海岸には、突然大きな山のような津波が押し寄せてくると、民家千七百棟あまりが全て引く潮にのまれて海底に沈んでしまったので、各家々にいた僧俗、男女、牛馬や鶏や犬に至るまで、一つ残らず海底の藻屑になってしまいました。

これこそめったにない大災害だと思っていると、同じく六月二十二日、突然空がかき曇ると雪が降りだし、寒いこと冬至前後のようでした。酒を飲むなどして体を暖めたり、火を燃やしたり炉を囲むことの出来る人は、寒さから身を護る方法もありますが、山に入っている木こりや、野道を行く旅人、牧場の馬、また林の鹿などことごとく氷に閉ざされたり、

雪の上に倒れ込んだりして、凍え死ぬものなどその数も分からない程です。七月(六月の間違い?)二十四日には摂津国難波浦で、沖合数百町(約十数キロ)が半時(約一時間)ばかり干上がり、多数の魚が砂の上でパクパクしているので、難波浦周辺の漁師らは網を巻き上げ、釣り針も捨てて我先に拾っていたところ、

また突然大きい山のような波が押し寄せ、一面海のようになり数百人の漁師らは一人も生きて帰ることは出来ませんでした。また阿波の鳴門では突然海水が引いて陸地になりました。高くそびえ立った岩の上に、筒の周り二十尋(約30-36m・ひろ::両手を左右に伸ばした時、指先から指先までの長さ)ばかりある太鼓に、銀の鋲を打って、

革の表面には巴の柄を描き、台には八竜を従えた模様のある物が現れました。しばらくこれを見た人はおびえて近づきませんでした。三、四日してから近くの浜の人たち数百人が集まり見てみると、筒は石で出来ており、表面は水牛の皮を張ってありました。普通のバチで打っても鳴らないのではと大きな撞木を作り、

大鐘を撞くようにして撞いてみました。するとこの太鼓の音は天に響き渡り、地をも動かすかのように三時(さんとき::約六時間)ばかり鳴り続きました。山は崩れて谷を埋め、海水は沸き立って天に届くかのようになったので、数百人の浜の人々は、もう大地の底に引きずり込まれそうな気持ちになり、精神も錯乱し倒れるでもなく、また走るでもなく、

てんでバラバラになって四方八方に散るように逃げました。その後はこの太鼓に近づく人もなく、天に上ったのか、それとも海中に入ったのか潮は元のごとく満ちて、太鼓は見えなくなりました。また八月(六月の間違い?)二十四日の大地震では激しい雨と共に風も吹き荒れて、空がしばらく真っ暗になった時、難波浦の沖より大きな龍が二匹浮き出てきて、

天王寺の金堂の中に入ったように見えた時、雲の中で鏑矢(かぶらや::大きな音を出しながら飛ぶ矢)の音が鳴り響き、矛(か::古代中国で使用された武器。ほこ)の光が四方にひらめき、大きな龍と四天王(してんのう::仏教の四人の守護神:持国天、増長天、広目天、多聞天)が戦っているように見えました。二匹の龍が去る時、

再び大地が大きく揺れ動き金堂は木っ端微塵に砕けたのです。しかし四天王は少しも傷つくことはありませんでした。これはまさしく聖徳太子が御安置された仏舎利が、このお堂に納められているのを、竜王がこれを盗もうとしたので、仏法護持にあたる四天王が護ろうとしたと思われます。洛内また周辺地域では傾かない塔の九輪などなく、

熊野参詣の参道においては地割れの起こっていないところもありません。古文書の記載をみても、日本が始まって以来これほどの大災害などないので、またこれ以上に世の乱れが起こるのではないかと、恐れおののかない人など一人もいませんでした。


○天王寺造営事付京都御祈祷事
南方には此大地震に、諸国七道の大伽藍共の破たる体を聞に、天王寺の金堂程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂たる地もなければ、是外の表事には非じと御慎有て、様々の御祈共を始らる。則般若寺円海上人勅を承て、天王寺の金堂を作られけるに、希代の奇特共多かりけり。先大廈高堂の構なれば、安芸・周防・紀伊国の杣山より、大木を取んずる事、一二年の間には難道行覚へけるに、二人して抱き廻す程なる桧木の柱、六七丈なるかぶき三百本、何くより来る共不知、難波の浦に流寄て、塩の干潟にぞ留りける。暫くは主ある材木にてぞ在らんと、尋くる人を待れけれ共求くる人も無りければ、さては天竜八部の人力を助給にてぞ有らんとて、虹の梁・鳳の甍、品々に是をぞ用ひける。又柱立已に訖、棟木を揚んとしけるに、■巻の縄に信濃皮むき千束入べしと、番匠麁色を出せり。輙く可尋出物ならねば、上人信濃国へ下て便宜の人に勧進せんと企給ける処に、難波堀江の汀に死蛇の如くなる物流寄たり。何やらんと近付見れば、信濃皮むきにて打たる大綱、太さ二尺長さ三十丈なるが十六筋まで、水泡に連てぞ寄たりける。上人不斜悦て、軈てくるまきの綱に用ひらる。是第一の奇特也とて、所用の後は、此綱を宝蔵にぞ収め給ひける。又三百余人有ける番匠の中に、肉食を止め酒を飲ぬ番匠あまたあり。上人怪く思給ひて是がする業を見給に、一人のする業、余の番匠十人にも過たり。さればこそ直人にては無りけれと、弥怪く覚して、日暮て帰るを見送り給へば、何くへ行共不見、かき消す様に失にけり。其数二十八人有つるは、何様千手観音の御眷属、二十八部衆にてぞ御坐すらんと、皆人信仰の手を合す。されば造営日あらずして奇麗金銀を鏤たり。霊仏の威光、上人の陰徳、函蓋共に相応して、奇特なりし事共也。都には東寺の金堂一尺二寸南へのきて、高祖弘法大師南天へ飛去せ給ぬと、寺僧の夢に見ければ、洛中の御慎たるべしとて、青蓮院の尊道法親王に被仰、伴僧二十口八月十三日より内裏に伺候して、大熾盛光の法を行る。聖護院覚誉親王は、二間に御参有て、九月八日より一七日、尊星王の法をぞ修せられける。是のみならず、近年絶て無りつる最勝講を行る。初日は問者叡山の尋源・東大寺の深慧、講師には、興福寺の盛深・同寺の範忠、第二日の問者は、東大寺の経弁・同良懐、講師は興福寺の実遍・山門の慈俊、第三日の問者は、興福寺の円守・山門の円俊、講師は、三井寺の経深・興福寺の覚成、第四日の問者は、興福寺の孝憲・同寺の覚家、講師は、叡山の良憲・三井寺の房深、結日の問者は、東大寺の義実・興福寺教快講師は、山門良寿・興福寺実縁、証義は、大乗院の前大僧正孝学・尊勝院の慈能僧正にてぞ御坐ける。講問朝夕に坐を替て、学海に玉を拾へる論談を決択して詞の林に花開く。富楼那の弁舌、文殊の智恵も、角やと覚る許也。

☆ 天王寺造営のことと、京都で御祈祷が行われたこと

さて吉野朝廷では、この大地震による諸国七道の大伽藍などの被害状況を問い合わせましたが、天王寺の金堂ほど損壊した堂舎はなく、紀州の山々ほど地割れの起こった場所もなかったので、これは何かの前兆ではないだろうかと謹慎することにして、様々な御祈祷を始められました。すぐに般若寺の円海上人が天皇の命令を受けて、

天王寺の金堂を建立しようとしたところ、めったにないような珍しいことがたくさん起こりました。まず立派な高く構えた堂舎の建築なので、安芸、周防、紀伊国などの木材切り出しの山から、大木を調達するのは一年や二年では難しいだろうと考えられていましたが、二人で抱きかかえるほどの檜の柱で、

その長さ六、七丈(約20m前後)もあるかぶき(冠木::門などの上に渡す木)三百本が、どこからともなく難波の浦に流れ着き、潮の引いた海岸に留まりました。しばらくは持ち主のある材木であろうと、尋ねて来る人を待ちましたが、探し求めて来る人も現れないので、もしかすればこれは天や竜をはじめとする仏法守護の八神が、

人間を助けようとしてくれたのではと考えて、虹の梁(虹型に上方に反り返った梁)や鳳の甍(?)などに用いました。また柱もすでに立て終えて、棟木(むなぎ::家屋の頂上に渡す横木)を上げるため、くる巻(滑車のような物)の縄に使用する信濃皮むき(?)千束が必要だと、大工から麁色(そしき::見積もり)が出ました。しかし簡単に調達出来るものでもないので、

上人は信濃国に下り奇特な人を捜し求めて、寄付をお願いしようと考えていたところ、難波の堀江の波打ち際に死んだ蛇のような物が流れ寄ってきました。何が流れ着いたのかと近づいて見ると、信濃皮むきで編んだ大綱、太さ二尺(約60cm)長さ三十丈(約90m)もあるものが、十六本も水の泡と一緒になって流れ着いていたのです。

上人はこの上なく大喜びされ、すぐにくる巻の綱として使用されました。これが一番神仏による不思議な出来事だと、役目の済んだ後この綱を宝蔵に納められました。また三百余人いる大工の中には、肉食を禁じ酒も断っている大工が多数います。上人は不審に思って彼らの仕事ぶりを見ていると、一人が行う作業は他の大工の十人分以上になります。

これはただ者ではないと怪しみ、日が暮れて帰るのを見送っていると、どこに行ったのか分からないまま、かき消すようにいなくなったのです。その数は二十八人なので、もしかして千手観音の従者である二十八部衆の神々ではないかと、人々は皆、信じあがめて手を合わせました。こうして金堂の造営はやがて金銀をちりばめたような美しさに仕上がりました。

霊験あらたかな仏のお力と、上人の他人に知られぬ徳が呼び合い一体化して、このように不思議なことが起こったのでしょう。都では東寺の金堂が一尺二寸(約36cm)南にずれて、開山した弘法大師が南の空に飛び去ったと言う夢を、寺の僧侶が見たので、京都内では謹慎するのが当然だと、青蓮院の尊道法親王(後伏見天皇の第十一皇子)に仰せつけられ、

二十人の僧侶を従えて八月十三日より内裏に参内し、大熾盛光法(だいしじょうこうほう::密教で主に天皇、上皇のため行われる修法)が行われました。聖護院の覚誉親王(かくよ::花園天皇の第一皇子)は二間(ふたま::清涼殿の夜のおとどの隣室)に参られ九月八日より七日間、尊星王法(そんしょうおうほう::国家安泰を祈る法)を執り行われました。

こればかりではなく、最近行われなかった最勝講(さいしょうこう::清涼殿で行われる法会、天下泰平、国家安穏を祈る)を行いました。初日の問者(もんじゃ::論議の際の質問者)は叡山の尋源(じんげん)、東大寺の深慧(しんえ)、講師には二日目の問者は東大寺の経弁(けいべん)、同じく良懐(りょうかい)、講師としては興福寺の実遍(じつべん)

山門(延暦寺)の慈俊(じしゅん)、第三日の問者は興福寺の円守、山門の円俊、講師には三井寺の経深(けいじん)興福寺の盛深(じょうじん)、同寺の範忠(はんちゅう)、、孝憲(こうけん)、同寺の覚家(かくげ)、講師は比叡山の良憲(りょうけん)、三井寺の房深(ぼうじん)です。そして結日(けつにち::満願の日)の問者は東大寺の義実(ぎじつ)

興福寺の教快(きょうかい)、講師は山門の良寿興福寺の覚成(かくせい)、第四日の問者は興福寺の(判定役)には大乗院の前(さき)の大僧正孝学(こうがく)、尊勝院の慈能(じのう)僧正でございました。講問(こうもん::問答)は朝夕と席を変えて、幅広い学問の海から玉を捜し求めるような議論に決着をつけようとするりょうじゅ)、興福寺の実縁(じつえん)

証義(しょうぎ::論議問答の問答(ふるな::釈迦十大弟子の一人、弁舌に優れていた)の弁舌や、文殊の知恵もこのようなものであったろうと思えました。のやり取りは、言葉の花が咲くようでした。富楼那


○山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
斯る処に、七月十二日山名伊豆守時氏・嫡子右衛門佐師義・次男中務大輔、出雲・伯耆・因播、三箇国の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。当国の守護赤松筑前入道世貞、播州に在て未戦前に、広戸掃部助が、名木杣二箇処城、飯田の一族が篭たる篠向の城、菅家の一族の大見丈の城、有元民部大夫入道が菩提寺の城、小原孫次郎入道が小原の城、大野の一族が篭りたる大野城、六箇所の城は、一矢をも不射降参す。林野・妙見二の城は、二十日余り怺たりけるが、山名に兔角すかされて、遂には是も敵になる。今は倉懸の城一残て、佐用美濃守貞久・有元和泉守佐久、僅に三百余騎にて楯篭りたりけるを、山名伊豆守時氏・子息中務少輔三千余騎にて押寄せ、城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取て、鹿垣を二重三重に結ひ廻し、逆木しげく引懸て、矢懸り近くぞ攻たりける。播磨と美作との堺には、竹山・千草・吉野・石堂が峯、四箇所の城を構て、赤松律師則祐、百騎づゝの勢を篭たりける。山名が執事小林民部丞重長、二千余騎にて星祭の岳へ打上り、城を目の下に直下して、透間もあらば打蒐らんと、馬の腹帯を堅めて引へたり。赤松筑前入道世貞・舎弟律師則祐・其弟弾正少弼氏範・大夫判官光範・宮内少輔師範・掃部助直頼・筑前五郎顕範・佐用・上月・真島・杉原の一族相集て二千余騎、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸の城を攻ば弊に乗て後攻をせんと企つと聞へければ、山名右衛門佐師義、勝れたる兵八百余騎を卒して、敵の近付ん所へ懸合せんと、浮勢に成て引へたり。赤松は右衛門佐小勢也と聞て、先此敵を打散さんと打立ける処に、阿保肥前入道信禅、俄に敵に成て但馬国へ馳越、長九郎左衛門と引合て播磨へ打て入んと企ける間、赤松、「さらば東方に城郭を構へ、路々に警固の兵を置け。」とて、法花山に城を構へ、大山越の道を切塞で、五箇所へ勢をぞ差向ける。依之進んで山名に戦んとするも勢少く、退て但馬へ向はんとするも不叶。進退歩を失て前後の敵に迷惑す。さらば中国の大将細河右馬頭頼旨、讃岐国の守護を相論して、四国にをはするに触送て其勢を呼越し、備前・備中・備後、当国四箇国の勢を以て、倉懸の城の後攻をせよとて、事の子細を牒送するに、右馬頭大に驚て、九月十日備前へ押渡て後陣の勢を待けるに、相順ふ四箇国の兵共、己が国々の私戦を捨かねて、大将に不属。備前・備中・備後三箇国の勢は、皆野心を含める者共なれば、非可憑とて、大将唐河に陣を取り、徒に月日をぞ被送ける。去程に倉懸の城には人多して兵粮少かりければ、戦ふ度に軍利有といへ共、後攻の憑もなく、食尽矢種尽ければ、無力十一月四日遂に城を落にけり。是より山名山陰道四箇国を合せて勢弥近国に振のみに非ず、諸国の聞へをびたゝしかりければ、世中如何あらんと危く思はぬ人も無りけり。又筑紫には去ぬる七月初に、征西将軍宮、新田の一族二千余騎、菊池肥後守武光三千余騎、博多に打て出て香椎に陣を取と聞へしかば、勢の著ぬさきに追落せとて、大伴刑部太輔七千余騎・太宰小弐五千余騎・宗像大宮司八百余騎・紀井常陸前司三百余騎、都合二万五千余騎の勢、一手に成て大手へ向ふ。上松浦・下松浦の一党、両勢の兵三千余騎は、飯守山に打上て敵の後へぞ廻りける。寄手は目に余る程の大勢にて、而も敵を取巻たり。宮方は対揚までもなき小勢にて、而も平場を陣に取たりけれ共、菊池が気分元来大敵を拉心ね也ければ敢て事ともせざりけり。両陣の間僅に二十余町を阻たれば、数日互に馬の腹帯を堅め、鎧の高紐を弛さで、懸りてや責る、待てや闘ふと、隙を伺ひ気をためらいて、徒に両月をぞ送りける。菊池が家の子城越前守は、謀ある者なりければ、山臥・禅僧・遁世者なんどを、忍々に松浦が陣へ遣して、其陣の人々の中に、「たれがしは御方へ内通の事あり、何がしは後矢射て降参すべき由を申候ぞ。野心の者共に心を置で、犬死し給ふな。」なんど、様々にぞ申遣しける。是を聞て去事や可有と乍思、今時の人の心、又あるまじき事にてもなしと、互に心置合て危ぶまぬ人も無りけり。其後少し程経て、八月六日の暁、城越前守千余騎の勢にて飯守山に押寄、楯の板を敲て時をどつと作る。松浦党元来大勢也。城よかりければ、此敵に可被落様は無りけるを、城中に敵の内通の者多しと、敵の謀て告たりしを誠と心得て、「御方に討るな、目を賦れ。」と云程こそ有けれ、我先にと落ける間、寄手勝に乗て追懸々々是を討。夜明たりせば一人も助るべしとは不見けり。乍敵手痛からんずると思つる松浦党をば、城越前守が謀にて輙く責落しぬ。小弐・大友を打散さん事は指掌よりも可輙とて、菊池、宮の御勢と一手に成て五千余騎、明る七日午刻に香椎の陣へ押寄る。松浦党昨日搦手の軍に打負ぬと聞しより、哀引ばやと思小弐・大友が勢共なれば、何かは一積も積るべき。鞭に鐙を合せて我先にと落て行。道も不去得脱捨たる物具弓矢に目を懸ずは、一日路余り追れつる大手二万余騎は、半も生て本国へ可帰とは不見けり。

☆ 山名伊豆守時氏が美作城に落ちられたことと、菊池が行った合戦のこと

さて康安元年(正平十六年::1361年)七月十二日、山名伊豆守時氏とその長男右衛門佐師義、次男中務大輔氏冬は出雲と伯耆、因幡三ヶ国の軍勢三千余騎を率いて美作に発向しました。美作国の守護、赤松筑前入道世貞(せいてい::赤松貞範)は播州にいましたが、戦う前に広戸掃部助の名木(なぎ::岡山県勝田郡奈義町)と杣の二ヶ所の城、

飯田の一族が篭っていた篠向(ささむき)の城(真庭市)、菅家(かんけ)の一族の大見丈(たいけんじょう)の城(岡山県勝田郡奈義町)、有元民部大夫入道佐顕の菩提寺の城(岡山県勝田郡奈義町)、小原孫次郎入道信明の小原の城(美作市)、大野一族が篭っている大野城など六ヶ所の城は、一矢を射ることもなく降参しました。

林野(はやしの::美作市)と妙見の二つの城は二十日余り抵抗をしましたが、山名時氏に何かと言いくるめられ、最後には敵の手中に落ちました。今となっては倉懸の城(赤磐市)一つが残るだけになり、作用美濃守貞久と有元和泉守佐久の僅か三百余騎で立て篭もっているのを、山名伊豆守時氏と子の中務少輔氏冬が三千余騎で押し寄せ、

城の四方の山々、峰々の二十三ヶ所に陣を構え、鹿垣(ししがき::敵を防ぐための竹や木で編んだ垣根)を二重三重に張り巡らし、逆茂木も細かく作って、射程距離近くで攻撃をかけました。播磨と美作の国境には竹山(美作市)、千草(宍粟市)、吉野(美作市)、石堂が峯(備前市)の四ヵ所に城を構え、赤松律師則祐がそれぞれ百騎づつの軍勢で篭らせています。

山名の執事、小林民部丞重長は二千余騎で星祭山(美作市)に上り、城を眼下に見て隙あらば攻撃しようと、馬の腹帯(馬に鞍を取り付けるための帯)を締めて控えていました。赤松筑前入道世貞(貞範)、弟の律師則祐、その弟弾正少弼氏範、大夫判官光範、宮内(くないの)少輔師範(赤松師範)、掃部助直頼、筑前五郎顕範(あきのり)

佐用、上月、真島、杉原の一族らが集まり総勢二千余騎で高倉山(佐用町)の麓に陣を構え、敵の倉懸城(赤磐市)を攻めて、敵の疲労に乗じて背後からの攻撃を企てていることを聞いた山名右衛門佐師義は、優れた兵士、八百余騎を率いて敵が近づく所を駆け合わせようと本隊とは離れ、別動隊になって控えました。

赤松は右衛門佐師義軍が小勢だと聞き、まずこの敵を蹴散らそうとしていたところ、阿保肥前入道信禅(しんぜん::阿保忠実)が突然敵に寝返り但馬国の国境を越え、長九郎左衛門と一緒になって播磨に打ち入ろうと計画しているので、赤松は、「それなら東方に城郭を構築して、街道街道に警固の兵士を配置せよ」と言って、

法華山(河西市、一乗寺)に城を構え、大山越え(大山道。大山を中心に四方に発達した古道の総称)の道を閉鎖し、五ヶ所に軍勢を送り込みました。このため進んで山名時氏と戦う軍勢が少なくなり、退いて但馬に向かうことも出来なくなりました。前後に敵を迎えて進退が不自由になりました。それでは中国の大将、細川右馬頭頼旨(よりむね)や讃岐国の守護らに話をつけて、

四国にいる軍勢を呼び寄せ、備前、備中、備後そして当国の美作合わせて四ヶ国の軍勢で、倉懸城を背後から攻めようと、作戦に関して連絡を取りました。この連絡に右馬頭は大変驚き、康安元年(正平十六年::1361年)九月十日備前に進出して、後方より参陣する勢を待ちましたが、参陣すべき四ヶ国の兵士らは、

各自それぞれの国における戦闘に手を取られ、大将右馬頭頼旨の呼びかけに応じませんでした。備前、備中、備後三ヶ国の軍勢らは、それぞれ内心は野心溢れる者ばかりなので、頼りすぎることは出来ないので右馬頭は唐河(からかわ::岡山市北区)に陣を構えて、何することもなく月日を送りました。

その頃、倉懸城では多数の兵士が籠城しているものの兵糧が乏しいので、戦闘の度ごと有利に戦ってはいますが救援の軍勢は期待できず、やがて食料も尽き、また矢種も尽きてしまったので止む無く十一月四日とうとう城を落ちました。これにより山名伊豆守時氏は山陰道の四ヶ国を抑え、その勢いたるものただ近国ばかりでなく、

諸国にも知れ渡り、世の中これから一体どうなるのかと危惧しない人はいませんでした。また筑紫においては、去る康安元年(正平十六年::1361年)七月初め頃、征西将軍宮(懐良親王)、新田一族ら二千余騎と、菊池肥後守武光の三千余騎が博多に進出し、香椎(かしい::福岡市)に陣を構えたと噂され、勢力が強化される前に追い落とさなければと、

大伴刑部太輔の七千余騎、太宰少弐五千余騎、宗像(むなかた)大宮司八百余騎、紀井常陸前司三百余騎の総勢二万五千余騎の軍勢が一つにまとまり、敵の主力部隊に向かって行きました。上松浦(かみまつら)、下松浦の一党(松浦地方を根拠に活動している武士団)らの三千余騎は、飯守山(飯盛山::福岡市)に上って敵の後方に回りました。

寄せ手軍は目に余るほどの大軍であり、しかも敵を取り囲んでいます。一方宮方はとても匹敵など出来ない小勢であり、その上平場に陣を構えていますが、元々菊池の気性としては、大敵の壊滅しか考えていないので、この状況にも全く気後れしません。両軍の距離は僅か二十余町(約2200m弱)しか隔てていませんから、

数日間はお互い馬の腹帯を緩めることなく、鎧の高紐(鎧の前後をつなぐ紐)も解くことなく、駆け込んで攻撃をしようか、それとも待ち受けて戦おうかと、隙を伺いながら躊躇している内に、無駄な二か月を過ごしました。菊池武光の家来である城(じょう)越前守(城武顕)は謀略に優れた者なので、山伏、禅僧、遁世者(世捨て人)などを、

ひそかに松浦の陣中に送り込み、その陣内の人々に対して、「誰それは味方を裏切って内通しているようだ、何某は味方を背後から射かけて敵に降伏するとか言っているぞ。野心を持った者共に遠慮して犬死などされないように」などなど、色々と言いふらさせました。このことを聞いてそのようなこともあるかとは思いながらも、

今時の人の心、またそのようなことはないだろうととか、お互い探り合う状況に不安を感じていました。その後しばらくして、八月六日の明け方、城越前守が千余騎の軍勢を率いて飯守山に押し寄せ、楯の板を叩きドッと鬨の声をあげました。松浦党は元々大軍です。また城も防御が固く、この敵に攻略されるはずなどなかったのですが、

城内には敵に内通している者が多いという、敵の謀略の言葉を信じて、「味方に討たれるな、周りの者に注意を怠るな」と言い合う間もなく、我先に落ちて行ったので、寄せ手は勝ちに乗じて追いかけ、追いかけては討ち取りました。夜が明けてみると、一人たりと助かっているとは見えませんでした。敵ながら手ごわいと思っていた松浦党を、

城越前守が謀略を使って簡単に攻め落としたのです。少弐、大友を蹴散らすことなど、いとも簡単なことだと、菊池は懐良親王の軍勢と一緒になり、五千余騎で翌日七日、午刻(午後零時頃)に香椎の陣営に押し寄せました。松浦党が昨日敵の搦手軍に敗れたと聞いていたため、心中退却もやむなしと思っている軍勢なので、

どうして少しでも持ちこたえることが出来るのでしょうか。馬に鞭をあて、鐙を蹴って我先に落ちて行きました。退却路は混乱を極め、脱ぎ捨てられた甲冑や弓矢を気にすることなく、まる一日追い回された大手の二万余騎は、半数とて生きて本国に帰ることが出来るとは見えませんでした。      (終り)

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