36 太平記 巻第三十六 (その二)


○佐々木秀詮兄弟討死事
又同年の九月二十八日、摂津国に不慮の事出来て、京勢若干討れにけり。事の起を尋ぬれば、当国の守護職をば、故赤松信濃守範資、無二の忠戦に依て将軍より給りたりしを、範資死去後、嫡子大夫判官光範相続して是を拝領す。而るを去年宰相中将義詮朝臣、五畿七道の勢を卒して、南方を被責時、光範が軍用の沙汰、毎年不足也と、将軍近習の輩共つぶやきけるを、佐々木佐渡判官入道々誉、能次でとや思けん、南方の軍散じて後、光範差たる咎もなきに、摂津国の守護職を可被召放由を申て、則我恩賞にぞ申給りける。光範は今度の軍用と云、合戦と云、忠烈人に超たりと思ければ、定て抜群の恩賞をぞ給らんずらんと思ける処に、夫こそ無らめ、結句二代の忠功を被処無に、多年管領の守護職を被改替ければ、含憤残恨といへ共、上裁なれば不及力、謹で訴詔をし居たりける。和田・楠是を聞て、能き時分也と思ければ、五百余騎を卒して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡判官入道々誉が嫡孫、近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門、兼て在国したりければ、千余騎にて馳向ひ、神崎の橋を阻て防戦んと議しけるを、守護代吉田肥前房厳覚、「何条さる事や候べき。近年赤松大夫判官、当国の守護にて乍有、動れば和田・楠等に境内を犯奪れんとする事、未練の至也とて、申給らせ給ひける守護職にて候に、敵の国を退治するまでこそ無らめ、当国に打越たる敵を、一人も生て返したらんは、赤松に被笑のみに非ず、京都の聞へも不可然。厳覚命を軽ずる程ならば、一族他門の兵共、誰か見放つ者候べき。恩賞ほしくはつゞけや人々。」と、広言吐て、厳覚真前に神崎の橋を打渡れば、後陣の勢一千余騎も、続て河を越したりける。爰にて敵の分際を問ふに、「楠は未河を不越、和田が勢許僅に五百騎にも不足見へて候。」と牛飼童部共の語りければ、吉田肥前から/\と笑て、「哀甘身や、敵の種をば此にて尽さすべし。同は楠をも河を越させて打殺せ。」とて、最閑に馬を飼てのさ/\としてぞ居たりける。和田・楠是を見澄して、河より西へ下部を四五人遣して、「南方の御敵は西より被寄候ぞ。神崎の橋爪を支させ給へ。」とぞ呼はらせける。佐々木判官是を聞て、「敵さては差違て迹より寄けり。取て返して戦へ。」とて両方深田なる道一を一面に打並て、本の橋爪へと馬を西頭に成して歩ませ行処に、楠が足軽の野伏三百人両方の深田へ立渡て、鏃を支へ散々に射る。両方は深田にて馬の足も不立、迹より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制せられて、後陣より返さんとする処に、和田・楠・橋本・福塚、五百余騎抜連て追懸たり。中津河の橋爪にて、白江源次六騎踏止て討死しける。是ぞ案内者なれば、足立の善悪をも弁へて一軍もせんずると、佐々木が兼てより憑ける国人の中白一揆五百余騎、一戦も不戦、物具・太刀・刀を取捨て、河中へ皆飛漬る。始はさしも義勢しつる吉田肥前、真先に橋を渡て逃けるが、続く敵を不渡とやしたりけん、橋板一間引落てければ、迹に渡る御方の兵三百余騎は、皆水に溺てぞ流れける。佐々木判官兄弟は、橋の辺まで落延たりけるが、県二郎が、「橋の落て候ぞ、とても叶ぬ所也。返て討死せさせ給へ。御共申さん。」と云けるに恥しめられて、兄弟二騎引返て、矢庭に討れてけり。瓜生次郎左衛門父子兄弟三人も、判官の討死するを見て、一所に打寄らんとしけるが、馬の平頚射られて、刎落されければ、田の畔の上に三人立双で、敵懸らば打違て死なんとしけるが、遠矢に皆射すくめられて、一所にて皆討れにけり。半時許の軍に、死する京勢二百七十三人、此内敵に討れて死する兵僅に五六人には不過。其外二百五十余人は、皆河に流てぞ失にける。楠父祖の仁慧をつぎ、有情者なりければ、或は野伏共に生捕れて、被面縛たる敵をも不斬、或は河より被引上、無甲斐命生たる敵をも不禁置、赤裸なる者には小袖を著せ、手負たる者には薬を与へて、京へぞ返遣しける。身の恥は悲しけれ共、悦ばぬ者は無りけり。

☆ 秀詮兄弟が討ち死にしたこと

また康安二年(正平十七年::1362年)九月二十八日、摂津国において思いがけない事件があり、京方(北朝、幕府方)の軍勢が多数討たれることがありました。その原因を調べてみるとこのようなものでした。摂津国の守護職は、故赤松信濃守範資(のりすけ)のまたとない忠義ある戦功によって将軍より賜ったものですが、

範資死去の後、嫡子の大夫判官光範(みつのり)が相続してこれを拝領していました。ところが昨年宰相中将義詮朝臣が五畿七道(五機::山城、大和、河内、和泉、摂津。七道::東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の軍勢を率いて南朝軍を攻撃された時、赤松光範が用意する兵糧などの軍事費用が毎年不足気味だと、

将軍の近習らがつぶやいているのを、佐々木佐渡判官入道道誉はこれは良い機会だと思ったのか、南朝との戦いが終わってから、光範には大した罪もないのに摂津国の守護職を取り上げて、すぐにそれを自分に対する恩賞に充てるよう上申しました。光範は今回の軍事費負担と言い、合戦での奮戦ぶりと言い、

忠義あふれる行動は他人に勝るとも劣らないと思っていたので、きっと抜群の恩賞が頂けると思っていたところ、恩賞がないばかりか、挙句の果て二代にわたっての忠功も無視されて、長年にわたり領有支配する守護職を交代させられ憤懣やるかたないとは言え、将軍の裁定であれば致し方なく、慎重な態度をもって訴訟に訴えました。

南朝の和田正武と楠木正儀はこの話を聞き、この内紛に乗じて攻撃には好機と考え、五百余騎を率いて渡辺橋を渡り、天神の森(北区天満宮の森)に陣を構えました。佐渡判官入道道誉の嫡孫(ちゃくそん::嫡子とその正妻の間に生まれた男子)、近江判官秀詮(ひであきら)とその弟、次郎左衛門氏詮(うじあきら)は当時摂津国に駐留していたので千余騎で駆けつけ、

神崎橋を防衛線として戦おうと協議しているのを、守護代吉田肥前房巌覚(げんかく)が、「とんでもない、何を相談しているのだ。最近赤松大夫判官は摂津国の守護でありながら、ややもすれば和田や楠木らに境内に侵入を許し、占領されることなど情けない限りである。自ら所望して任じられた守護職であるのに、

敵国を征伐せよとはいわぬまでも、摂津国に侵入した敵を一人でも生きて帰すようなことがあれば、赤松光範に笑われるだけでなく、京都への聞こえもよろしくないだろう。厳覚が命を度外視して戦へば、一族は勿論、他の家門の兵士らも、無視できる者などいないはずだ。恩賞が欲しければ続けや皆の者」と好き勝手な言葉を吐いて、

厳覚が真っ先に神崎の橋を渡ると、後続の千余騎もそれに続き川を渡りました。今ここで敵の軍勢を尋ねてみると、「楠木は未だ川を渡っておらず、和田の軍勢は僅か五百騎にも不足と思われます」と、牛飼いの子供らが話したので、吉田肥前房厳覚はカラカラと大声で笑い、「何と、情けない軍勢でないか、ここで敵の息の根を止めてしまおうじゃないか。

どうせなら楠木も川を渡らせ殺してしまえ」と言って、静かに馬に餌を与えて悠然としていました。和田と楠木はこの作戦を見破り、川の西方に家来を四、五人を行かせて、「南朝の御敵は西から攻め寄せて来るぞ、神崎の橋詰めの防衛に努めてください」と、叫ばせました。佐々木判官秀詮はこれを聞くと、「さては敵は向きを変えて後方から攻めて来るらしいぞ、

引き返して戦え」と言って、両側に深い田んぼの続く道を一面に並んで、元の橋詰めに向かって馬を西に向かせて歩ませていたところ、楠木の足軽部隊の野伏ら三百人が両側の深田に進出し、次々に矢をつがえては射込んできました。両側は深田で馬の足も立たないので、後方の部隊から引き返し広場で戦えと、

先陣の軍勢に行きてを止められ、後方部隊が引き返そうとしていると、和田、楠木、橋本、福塚ら五百余騎が、太刀を抜き放って追いかけてきました。中津川の橋詰めで白江源次ら六騎が踏み止まって討ち死にしました。この白江源次は土地に詳しい人間で、川の深浅に通じており、馬や兵士の進退に長けているので、

戦いも有利に運べると佐々木秀詮はかねてから頼りにしていた者です。白一揆の五百余騎はただの一戦さえ戦うことなく、甲冑、太刀、刀を捨てて全員川に飛び込みました。最初あれほど虚勢を張っていた吉田肥前は、真っ先に橋を渡って逃げましたが、追って来る敵を渡らせないようにしたのか、

橋の板を一間ばかり外して落としたので、後から渡ろうとした味方の兵士ら三百余騎は皆、水に溺れて流されたのでした。佐々木判官兄弟(秀詮、氏詮)は橋のあたりまで落ち延びてきましたが、県二郎が、「橋が落とされているので、とても渡ることが出来ません。引き返して討ち死にをしてください。

お供いたしましょう」と言われた言葉に恥を感じ、兄弟二人は引き返すとすぐに討たれてしまいました。瓜生次郎左衛門父子兄弟三人も、判官が討ち死にされるのを見て、一ヶ所に集まろうとしましたが、馬の平首(馬の首の両側の平らな所)を射られて跳ね飛ばされ落馬したので、田の畔に三人が並んで立ち、

敵がかかってきたら斬り合って死のうとしましたが、遠矢に射すくめられ動かれず、全員が一ヶ所で討たれてしまいました。半時(約一時間)ばかりの戦闘で死亡した京都勢(北朝、幕府軍)は二百七十三人ですが、このうち敵に討たれて死んだ兵士は僅か五、六人に過ぎません。それ以外の二百五十余人は皆、川に流されて死んだのでした。

楠木正儀は父や祖父ゆずりの、思いやり豊かな情けある武将ですから、野伏らに生け捕られ後ろ手に縛られた敵さえ斬ることなく、また川より引き上げられ不甲斐なく生き延びた敵も拘束せず、衣服を着けていない者には小袖を着せ、負傷した者には薬を与えて京都に帰しました。不名誉な事で恥ずかしくはありましたが、喜ばない人はいませんでした。


○清氏叛逆事付相摸守子息元服事
此等をこそ、すはや大地震の験に、国々の乱出来ぬるはと驚き聞処に、京都に希代の事有て、将軍の執事細河相摸守清氏・其弟左馬助・猶子仁木中務少輔、三人共に都を落て、武家の怨敵と成にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木佐渡判官入道々誉と、細河相摸守清氏と内々怨を含事有しに依て、遂に君臣豺狼の心を結ぶとぞ聞へし。先加賀国の守護職は、富樫介、建武の始より今に至るまで一度も変ずる事無して、而も忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖に復せしを、富樫介死去せし刻其子未幼稚也とて、道誉、尾張左衛門佐を聟に取て、当国の守護職を申与んとす。細河相摸守是を聞て、さる事や可有とて富樫介が子を取立て、則守護安堵の御教書をぞ申成ける。依之道誉が鬱憤其一也。次に備前の福岡の庄は頓宮四郎左衛門尉が所領也。而るを頓宮が軍忠中絶の刻、赤松律師是を申給る。後、頓宮、細河が手に属して忠有しかば、細河是を贔屓して、安堵の御教書を申与ふ。然共則祐は道誉が聟也ければ、国を押へられ上裁を支られて、頓宮所領に還住せず。是清氏が鬱憤の其一也。次に摂津国守護職をば道誉無謂申給て、嫡孫近江判官秀詮に持せたりけるを、相摸守本主赤松大夫判官光範に安堵せさせんと、時々異見を献ずる事所憚なし。依之道誉が鬱憤其二也。次に今度七夕の夜は、新将軍、相摸守が館へをはして、七百番の謌合をして可遊也と兼て被仰ければ、相摸守誠に興じ思て、様々の珍膳を認、哥読共数十人誘引して、已に案内を申ける処に、道誉又我宿所に七所を粧て、七番菜を調へ、七百種の課物を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中将殿を招請し奉ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾は珍き遊なるべしとて、兼日の約束を引違、道誉が方へをはしければ、相摸守が用意徒に成て、数寄の人も空く帰にけり。是又清氏が鬱憤の其二也。加様の事共互に憤深く成にければ、両人の確執止む事を不得。上にはさりげなき体なれども、下には悪心を挿めり。されば始終は如何と被思遣たり。此相摸守は気分飽まで侈て、行迹尋常ならざりけれ共、偏に仏神を敬ふ心深かりければ、神に帰服して、子孫の冥加を祈んとや思れけん、又我子の烏帽子親に可取人なしとや思けん、九と七とに成ける二人の子を八幡にて元服せさせ、大菩薩の烏帽子々に成て、兄をば八幡六郎、弟をば八幡八郎とぞ名付ける。此事軈て天下の口遊と成ければ、将軍是を聞給て、「是は只当家の累祖伊予守頼義三人の子を八幡太郎・賀茂次郎・新羅三郎と名付しに異ず。心中にいかさま天下を奪んと思ふ企ある者也。」と所存に違てぞ思はれける。佐渡判官入道道誉是を聞て、すはや憎しと思ふ相摸守が過失は、一出来にけるはと独笑して、薮に■し居たる処に、外法成就の志一上人鎌倉より上て、判官入道の許へをはしたり。様々の物語して、「さても都は還て旅にて、万づさこそ便なき御事にてこそ候らめ。誰か檀那に成奉て、祈なんどの事をも申入候。」と問れければ、「未甲斐々々敷知音檀那等も候はで、いつしか在京難叶心地して候つるに、細河相摸殿よりこそ、此一両日が先に一大事の所願候。頓に成就ある様に祈てたび候へとて、願書を一通封して、供具の料足一万疋副て、被送て候しか。」と、語り給ひければ、道誉、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切に被所望。生強に語りは出しつ、さのみ惜まん事も難叶ければ、無力此願書をぞ取寄て披見させける。道誉此願書を内へ持て入て、「只今些急ぐ事候間外へ罷出候。此願書は閑に披見候て返進べし。明日是へ御渡候へ。」とて、後の小門より出違ひければ、志一上人重て云入るゝに言なくして、宿所へぞ帰り給ひける。

☆ 細川清氏が反逆を起こしたことと、相模守の子息が元服したこと

この摂津での合戦こそ先の大地震(正平地震::1361年)の予言による国の乱れなのかと、驚いて聞きましたが、またもや京都にめったにない事件が起こりました。それは足利義詮将軍の執事である細川相模守清氏とその弟左馬助頼和と猶子(養子)の仁木中務少輔の三人が都を落ちると幕府に反逆し敵対しました。

事の発端を聞いてみると、佐々木佐渡判官入道道誉と細川相模守清氏とが内心お互いに恨みを持っていたため、とうとう君臣豺狼(くんしんさいろう::残酷強欲な関係)の感情を起こしたと言われています。まず加賀国の守護職は富樫介高家が建武(1334-1338年)の始めに就任してから、今日に至るまで一度も富樫氏以外に変わることなく、

その上合戦に際しては忠義ある行動を取り、政治においても優れているので、先祖代々恩賞として守護職を続けて来ましたが、富樫介氏春(?)が死去された時、その子供(昌家::まさいえ)がまだまだ幼稚だと、道誉が尾張守左衛門佐を婿に迎え、加賀国の守護職に就かせようとしました。細川相模守はこの話を聞いて、

そのようなことがあってはならないと富樫介の子供(昌家)を登用し、すぐに守護職安堵の御教書(みぎょうしょ::公文書)を頂けるよう段取りしました。このことが道誉にとって鬱憤の一つになりました。次に備前の福岡の庄(瀬戸内市)は頓宮(とんぐう)四郎左衛門尉の所領です。それを頓宮が幕府に対して忠義を果たすことを中断した時(南朝に加担した?)

赤松律師則祐がこの庄を賜りました。その後、頓宮が細川の支配下に入って忠義を果たしたので、細河はこの忠義を称賛して、福岡の庄安堵の御教書を与えました。しかし則祐は道誉の婿なので彼の指示により国の支配を続けたため、頓宮は所領に帰り住むことが出来ませんでした。このことが清氏にとって鬱憤の一つです。

次に摂津国の守護職を道誉が正当な理由のないまま賜り、嫡孫である近江判官秀詮に任せていることに対して、相模守清氏が本来の守護、赤松大夫判官光範が支配出来るように安堵状を頂こうと、折に触れて遠慮なく上申しました。このことが道誉にとって鬱憤の第二となりました。

次に今度の七夕の夜は、新将軍足利義詮が相模守清氏の屋敷を訪ね、七百番の歌合せの催しを行い楽しもうではないかと以前から仰せられていましたので、相模守は大いに感興を覚え、様々な珍しい食事を用意し、歌詠みも数十人を呼び寄せるなどの案内もすでに済んでいましたが、

道誉もまた自分の屋敷に七所飾り(花瓶や香炉、書、茶道具などを飾り立てる)を設え、七種類の料理を整え、七百種類の果物や菓子類を積み上げ、七十服の本茶(京都栂ノ尾産の茶)とそれ以外の茶を服することを申し上げ(闘茶の招待)、宰相中将義詮殿をご招待しましたので、義詮殿は歌合せはまた後日でも行うだろうし、

七所の飾りは珍しい遊びだと、以前の約束を違えて道誉のお誘いに乗られましたので、相模守が用意したもの全てが無駄になり、呼んでいた歌人らも空しくお帰りになられました。このことはまた清氏の鬱憤の第二となりました。このようなことが重なり、お互いに鬱憤がたまっていったので、両人の仲違いは度を加えて行きました。

表面上は何事も無いように振る舞っていましたが、内心はますます恨みがこうじて行きました。この結末は一体どうなるのかと思われました。この相模守清氏の性格としては、あくまで思い上がっており、その行動も普通ではないのですが、仏神を一途に敬う心は大変強く、神に全てをお任せし子孫に対して保護や援助をお願いしようと思ったのか、

また我が子の烏帽子親を頼める人がいないと思ったのか、九つと七つになる二人の子供を石清水八幡宮にて元服させ、大菩薩の烏帽子子(烏帽子をかぶらせてもらった子)になり、兄を八幡六郎、弟は八幡八郎と名付けました。このことはすぐ天下に噂となり知れ渡たったので、将軍はこれを聞かれ、

「この状況はまさしく当家の先祖である伊予守源頼義が三人の子供を、八幡太郎(源義家)、賀茂次郎(源義綱)、新羅三郎(しんらさぶろう::源義光)と名付けたことと異ならない。つまり心中何としても天下を奪いたいと企む気持ちがあるからだろう」と、思いがけない誤解を生むことになりました。佐渡判官入道道誉はこれを聞くと、

何だと、あれほど憎いと思っている相模守が一つの失敗を犯したと、一人ほくそ笑んで、気付かれないように素知らぬ振りをしていたところ、仏教以外の魔法や妖術を会得した志一(しいち)上人が鎌倉より上り、判官入道のもとに来られました。色々と話が交わされ、「ところで都にせっかく来られたのに、

何かと頼りにできる人がおられないのではないでしょうか。誰か寄進される奇特な人から、祈祷の依頼などございましたでしょうか」と、質問されると、「まだまだ頼りにできる知人や檀那(布施をしてくれる人)などはおりませんので、何時まで京都に滞在できるか心細く思っていたところ、細川相模守殿よりこの二日ほど前に重大な願い事がありました。

速やかにことが成就するよう祈祷をお願いしたいと、願書を一通同封の上、神へのお供え費用として一万疋(一疋は二反)の織物を添えて送られてきました」と話されたので、道誉は、「何をお願いしようとされるのでしょうか」と、強引に願書を見せてくれるよう頼まれました。話さなければよかったのですが、話した以上断ることも難しく、

仕方なくこの願書を取り寄せてお見せになりました。道誉はこの願書を別室に持って入り、「たった今、急用が出来て、外出しなければならなくなりました。この願書はあとで静かに見させてもらい、お返しいたしましょう。明日ここに来てもらえませんか」と言って、裏の小門から志一上人を避けるように出かけられたので、志一上人はなおも申し上げる言葉もなく、宿所にお帰りになられました。


道誉、其翌日此願書を伊勢入道が許へ持て行て、「是見給へ。相摸守が隠謀の企有て、志一上人に付て、将軍を呪咀し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上は、所疑にて候はず。急是を持参して、潜に将軍に見せ進せられ候へ。」とて、爪弾をして懐よりぞ取出しける。伊勢入道不思議の事哉と思て、披て是を見るに、三箇条の所願を被載たり。敬白荼祇尼天宝前一清氏管領四海、子孫永可誇栄花事。一宰相中将義詮朝臣、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇条之所願、一々令成就者、永為此尊之檀度、可専真俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守清氏と書て、裏判にこそせられけれ。伊勢入道此願書を読畢て、眉を顰めて大息をつぐ事良久して、手迹は誰共知ね共、判形共に於ては疑なければ、宰相中将殿の見参にこそ入んずらめと思けるが、是を披露申なば、相摸殿忽に身を可被失。其上斯る事には、謀作謀計なんども有ぞかし。卒爾にはいかゞ申入べきと斟酌して、深く箱の底にぞ収めける。斯る処に羽林将軍俄に邪気の事有て、有験の高僧加持し奉れ共不静、頭の痛み日を追て増る由聞へしかば、道誉急ぎ参て、「先日伊勢入道の進じ候し清氏が願書をば御覧ぜられ候けるやらん。」と、問奉るに、「未披露せず。」と宣ふ。「さては御労其故と覚候。」とて、急伊勢入道を呼寄、件の願書を召出して、羽林将軍に見せ奉る。其後幾程無して邪気立去て、違例本復し給ければ、「道誉が申処偽らで、清氏が呪咀疑無りけり。」と、将軍是を信じ給ふ。其後又心付て、八幡に清氏願書を篭ぬる事有べからずとて、内々社務を召て問れければ、「去願書は封して神馬と送られて候が、頓て神殿にこめて候。」と申ければ、「其取出て奉るべし、聊不審あり。」と仰有ければ、軈て取出し持参しけり。是を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我世を取んとの発願也。弥疑所なし。凡志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特の人と思ひ、同心に京・関東を取んとて、其祈祷の為に畠山吹挙にて上られけり。其後よりは、兔やして清氏を討まし、角やせましと、道誉一人に談合有て、案じ煩ひ給ひける処に、道誉俄に病と称して為湯治湯山へ下りぬ。其後四五日有て、相摸守普請の為とて、天竜寺へ参りけるが、不例庭に入て物具したる兵共、三百余騎召具したり。将軍是を聞給て、「さては道誉に評定せし事、はや清氏に聞へてけり。さらんに於ては却て如何様被寄ぬと覚るぞ。京中の戦は小勢にて叶まじ。要害に篭て可防。」とて九月二十一日の夜半許に、今熊野に引篭り、一の橋引落して、所々掻楯掻き車引双て、逆木轅門を堅めて待懸給へば、今川上総守・宇都宮参川入道以下、我も我もと馳参る。俄の事なれば、何事のひしめきと、聞定たる事はなけれ共、武士東西に馳違ひ、貴賎四方に逃吟。相摸守は天竜寺にて、京中のひしめきを聞て、何条今時洛中に何事の騒ぎ可有。告る者の誤りにてぞあらんとて、騒ぐ気色も無りけるが、我身の上と聞定てければ、三百余騎にて天竜寺より打帰り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進せて、「洛中の騒動何事とも存知仕候はで、急馳参て候へば、清氏が身の上にて候ける。罪科何事にて候やらん。若無実の讒に依て、死罪を行れ候はゞ、政道の乱れ御敵の嘲、不可過之。暫御糺明の後に、罪科の実否を可被定にて候はゞ、頭を延て軍門に参候べし。」とぞ申入たりけれ共、「清氏が多日の隠謀、事已に露顕の上は、兔角の沙汰に不可及。」とて、使僧に対面もなく一言の返事にも及給はねば、色を失て退出す。

翌日、道誉はこの願書を伊勢入道の所に持って行き、「これをご覧なさい、相模守が陰謀を企てて、志一上人に依頼して将軍を呪詛しようとしています。自筆で印章のある願書ということが明らかな以上、疑いを挟む余地はありません。急いでこれを持参の上、内密に将軍にお会いし、お見せしてください」と言って、

非難する気持ちを爪弾きにあらわし、願書を懐から取り出しました。伊勢入道はおかしな話だと思いながらもこれを開いてみると、三ヶ条の所願が書かれていました。
      敬白荼枳尼天(だきにてん)宝前(敬って申し上げます。夜叉の御前にて)

      一、清氏が国内を領有支配し、子孫が未来永劫に栄華を誇れること。
      一、宰相中将義詮朝臣が即刻発病し死去されること。

      一、左馬頭足利基氏(尊氏の四男)が武将としての威光を失い、人望に背き私の軍門に下ること
      右の通り三ヶ条の所願、漏れなく成就したならば、この神仏に対しお布施を永く行い、僧俗のすべてを繁栄させましょう。祈願の内容はこの通りです。

      康安元年(正平十六年::1361年)九月三日相模守清氏

と書き付けて裏判がなされていました。伊勢入道はこの願書を読み終わると、眉をひそめて大息をつき、しばらくして筆跡は誰のものか分かりませんが、書き判は疑いないので宰相中将殿にお見せしようとは思いましたが、これをお見せすれば相模殿はただちに失脚することになります。

その上このような事案には、陰謀や策略のあることも多いのが事実です。軽はずみにお見せするのもいかがなものかと考え、箱の底に深く納めていました。そうこうしている内に、羽林(近衛中将)将軍義詮は突如、病に犯されて、祈祷に優れた高僧に加持祈祷を行わせましたが効果なく、

頭の痛みは日を追って激しくなっていると聞こえてきたので、道誉は急いで参り、「先日伊勢入道がお持ちした清氏の願書はご覧になられましたか」と、問われると、「まだ見ておらぬ」と、仰せられました。「もしかするとこの病の原因はそのためと思われます」と言って、急いで伊勢入道を呼び寄せ、例の願書を取り出させ、

義詮将軍にお見せしました。その後しばらくして体調は良くなり、病気が全快されると、「道誉の申すこと間違いないだろう、清氏の呪詛は疑う余地はない」と、将軍は全面的に信じられました。その後また気にかかることがあって、石清水八幡宮に清氏が願書を納めることも有りうるのではと、

内々に社務所の者を呼んで問われると、「その願書は封をした上、神馬と共に送られてきましたが、すぐに神殿に納めております」と、返答されたので、「それを取り出してください、いささか不審なことがあります」と仰せられたので、すぐに取り出してお持ちしました。これを開いてみると、

将軍の命を奪い、我が世を手に入れようとする発願です。ますます疑う所は全くありません。そもそも志一上人を都に上らせたことも、畠山国清が自分は特別な人間だと考え、味方と心を合わせて京都、関東を手中に収めようと、その祈祷を行うため畠山が志一上人を推薦して都に上らせたものです。

その後義詮はいかにして清氏を討とうか、こうすればどうだろうかとか、佐々木道誉一人に相談をかけ、悩み続けていたところ、道誉は急に病気になったと言って、湯治のため湯の山(三重県湯の山温泉?)に下っていきました。その後四、五日して相模守は堂塔建築の為と称して天龍寺に行かれましたが、

いつもと違い甲冑に身を固めた兵士ら三百余騎を引き連れて庭に入られました。将軍義詮殿はこのことを聞くと、「さては道誉と相談していることが、早くも清氏に感ずかれたのだろう。もしそうだったら、逆に攻め寄せて来ること間違いないと思われる。洛内で合戦となれば小勢では無理だろう。要害の地に篭って防戦しよう」と言って、

康安元年(正平十六年::1361年)九月二十一日の夜半頃、新熊野に引き篭もり、一の橋を落とし、所々に掻楯(大型の楯を垣のように並べたもの)を立て並べ、車も並べその上逆茂木で轅門(えんもん::軍門)を固めて、敵の来襲を待ち受けられると、今川上総守、宇都宮三河入道以下、我も我もと駆けつけてきました。

突然の出来事であり、何を大騒ぎしているのか、はっきりと分かりませんが、武士らが東西に掛け周り、人々は身分の上下に関わらず逃げ迷う始末です。相模守清氏は天龍寺で京中が大騒ぎになっているのを聞かれ、京都で一体今頃何を騒いでいるのだ。知らせて来た者の間違いではないかと、騒ぐ気配もありませんでしたが、

我が身に関係のあることが判明したので、三百余騎を率いて天龍寺から帰られ、弟の僧愈侍者(そうよじしゃ)を新熊野に向かわせ、「洛中の騒動が何なのか分からないまま、急いで駆け参じてきたところ、清氏の身の上に関係しているそうです。一体罪科は何なのでしょうか。もし無実であるのにかかわらず、

落とし入れようとする言葉を真に受けて、死罪に処するようなことがあれば、政治の乱れ、敵から軽蔑をうけることなど、これ以上のものはありません。少しでも真相の究明を行っていただき、その結果有罪だと決定すれば、首を洗って軍門に参じましょう」と、申し入れましたが、「清氏が前々から企てていた陰謀が、今すでに露見した以上、

今更何をどうせよと言うのか」と言って、使いの僧侶に会うこともなく、一言の返事も頂けなかったので、青ざめた顔色をして退出しました。


清氏此上は陳じ申に言ばなし。今は定て討手をぞ向らるらん。一矢射て腹を切んとて、舎弟左馬助頼利・大夫将監家氏・兵部太輔将氏・猶子仁木中務少輔、いとこの兵部少輔氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿取出し、馬の腹帯を堅めさすれば、重恩、新参の郎従共、此彼より馳参て七百余騎に成にけり。今熊野には、始五百余騎参して、「哀れ、我討手を承て向ばや。」と義勢しける者共、相摸守七百余騎にて控へたりと聞へしかば、興醒顔に成て、此の坊中彼の在家に引入り、荒く物をも不云、只何方に落場あると、山の方をぞ守りける。相摸守は今や討手を給ると、甲の緒を縮二日まで待れけれども、向ふ敵無りければ、洛中にて兵を集め、戦を致さんと用意したるも、且は狼籍也。陣を去り都を落てこそ猶陳じ申さめとて、二十三日の早旦に、若狭を差して落て行。仁木中務少輔・細河大夫将監二人は、京に落留りぬ。相順ふ勢次第に減じぬと見へけるに、辺土洛外の郎等共、少々路に追付て、「将軍の御勢は、僅に五百騎に不足とこそ承候に、などや此大勢にて都をば落させ給候やらん。」と申せば、相摸守馬を引へて、「元来将軍に向奉て、合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一の取集勢四五百騎戦き居たるを、清氏物の数とや可思。君臣の道死すれども上に逆へざる義を思ふ故に、一まども落てや陳じ申すと存て、無云甲斐体を人に見へつる悲さよ。身不肖なれば、無罪討れ進らす共世の為に可惜命に非ず。只讒人事を乱て、将軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞ん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に泪を浮べ給へば、相順ふ兵共、皆鎧の袖をぞぬらしける。千本を打過て、長坂へ懸る処にて、舎弟兵部太輔といとこの兵部少輔二人を近付て、「御辺達兄弟骨肉の義依不浅、我安否を見はてんと、是まで付纏ひ給ふ志、千顆万顆の玉よりも重く、一入再入の紅よりも猶深し。雖然、清氏は依佞人讒不慮の刑に沈む上は力なし。御辺達両人は讒を負たる身にも非ず、又将軍の御不審を蒙たる事もなき者が、何と云沙汰もなく、我共に都を落て、路径に尸を曝さん事後難なきに非ず。早く此より将軍へ帰参して、清氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ様に計ひ給へ。是我を助る謀、又身を立る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、両人の人々押ふる泪に咽で、暫しは返事にも不及。良暫有て、「心憂事をも承候者哉。縦是より罷帰て候共、讒人君の傍に有て、憑影なき世に立紛れ候はゞ、何つ迄身をか保候べき。将軍には心を置進せ、傍への人には指を差れ候はん事、恥の上の不覚たるべきにて候へば、何くまでも伴ひ奉て、安否を見はて進せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、相摸守、「さては弥我に隠謀有けりと、世の人の思はんずる処が悲く候へば、枉て是より帰られ候て、真実の志あらば、後日に又音信も候へ。」と、強て被申ければ、二人の人々、「此上の事は兔も角も仰にこそ随ひ候はめ。」とて、泣々千本より打別れて、本の宿所へぞ帰にける。京中には、合戦あらば在家は一宇も不残と、上下万人劇騒ぎけるが、相摸守無事故都を落にければ、二十四日、将軍軈今熊野より本の館へ帰給。何しか相州被官の者共、宿所を替身を隠たる有様、昨日の楽今日の夢と哀也。有為転変の世の習、今に始ぬ事なれ共、不思議なりし事ども也。

清氏はこうなった以上申し開く言葉もありませんでした。こうなったからにはきっと討手を差し向けて来るでしょう。たとえ一矢なりと射て、その上腹を切ろうではないかと、舎弟の左馬助頼利(弟に頼利はいない?)、大夫将監細川家氏、兵部大輔細川将氏(まさうじ)、養子の仁木中務少輔、従兄弟の兵部少輔氏春ら六人が中門において、

甲冑でひしひしと身を固め、旗や竿を取り出し、馬の腹帯もきつく締めあげたので、代々の家来は勿論、新参の家来らがあちこちから駆けつけて来て、七百余騎になりました。新熊野には当初五百余騎が集まり、「是非とも私を討手として向かわせていただきたい」と意気込んでいた者どもも、相模守が七百余騎で控えていると聞こえてくると、

意気込みも薄れてしまい、ここの各坊の中やあちこちの在家の中に入り込み、大口を叩くこともなく、ただどこに逃げ道があるのかと、山の方ばかり見張りました。相模守は今にも討手が寄せて来るだろうと、兜の緒を締めて二日ばかり待たれましたが、向かって来る敵もないので、洛中で兵士を集めて合戦の用意をしたことも、

こうなれば単に法に違反した行動となります。ここは陣を解散し都を落ちてから改めて申し開きをしようと、九月二十三日の早朝、若狭に向かって落ちて行きました。仁木中務少輔と細川大夫将監の二人は京都に留まりました。清氏に従う軍勢は次第に減少しているように思える中、

都近郊や都の周辺の兵士らが途中で追いついて来て、「将軍義詮殿の軍勢は僅か五百騎に足らないと聞いていますのに、どうしてこれほど大勢で都を落ちられるのですか」と、疑問を話されると、相模守は馬を止めて、「もともと将軍に向かって合戦をするつもりでいたなら、

寄せ集めの臆病風にふかれた四、五百騎の兵士らが恐怖に震えているのを、この清氏が物の数と思うはずがない。君と臣下の関係は切れたと言え、道義として君に逆らうことなど出来ないと思えば、ここはひとまず落ちてその後、申し開こうと考えているため、このようにみじめな格好を人に見られることになり、悲しい限りである。

我が身未熟者であれば、無罪にかかわらず討たれようとも、世のためを思えば命を惜しむものではない。ただ人を落とし入れようとする言葉に人事が乱されて、将軍が天下を失うようなことがあれば、草葉の陰から見聞きするのも悲しい話である」と言って、両の目に涙を浮かべられると、従ってきた兵士らも皆、鎧の袖を濡らされたのです。

千本(せんぼん::地名)も過ぎて長坂にかかろうとした時、舎弟の兵部太輔と従妹の兵部少輔の二人を近くに呼び、「あなた達とは兄弟肉親としての義理は浅いものでない。私の安否を見届けようとここまで付き従ってくれた志は、千顆万顆(せんかばんか::きわめて数の多いこと)の玉より重く、一入再入(いちじゅうさいじゅう::布を何度も染め重ねること)の紅よりもなお深い。

とは言っても、清氏はよこしまな人間による讒言のため、思いがけない刑に処せられる以上、どうすることもできない。あなた方二人は讒言を受けた身ではないし、また将軍から不審をかけられた身でもないのに、これと言った事情もなく我らとともに都を落ちて、途上で屍をさらすことがあれば、後世に非難を受けることもあるだろう。

早くここから将軍のもとに参り、清氏の考えも良く説明し、父祖からの家系を失うことのないよう計らってください。これが私を助けることになる思案であり、またあなた達の身を立てる方法にも通じるだろう」と涙を流して話されると、二人は押さえた涙にむせび、すぐには返事も出来ませんでした。しばらくしてから、「何と情けない話を聞くことになるとは。

たとえこの場から帰ろうとも、讒言をした人間が君の傍におり、頼りにできる寄る辺もない世の中を如何に振る舞おうとも、何時まで身を保つことが出来るのでしょうか。将軍には距離を置かれ、傍の人からは指を指されることなど、恥の上塗りとも言うべき失態だと思えば、ここはどこまでもお供をして、相模守殿の安否を見届けることこそ、

私の本意でございます」と幾度も申し上げましたが、相模守は、「そのようなことをすれば、ますます私が陰謀を企てていたのだと、世の中の人々に思われるのも悲しいので、ここは納得出来なくともお帰りになり、事の真相結末など知りたければ、後日また文でも送って下さい」と強く話されたので、

二人は、「こうなればとにかく仰せに従うしかないでしょう」と言って、泣く泣く千本で別れ元の宿所に帰られました。京都の市中では合戦になれば民家は一棟さえ残らないのではと、上下万人全てが大騒ぎしましたが、何事もなく相模守が都を落ちられたので、二十四日、すぐに将軍は新熊野から元の屋敷にお帰りになりました。

いつの間にか相模守殿に仕えていた奉公人らが宿所を引き払ったり、その身を隠そうとする様子は、昨日楽しんだことは今日では夢のこととなり悲しい話です。何事も無常なのが世の常であれば今に始まったことではないけれど、不可解な出来事ではあります。


○頓宮心替事付畠山道誓事
若狭国は、相摸守近年管領の国にて、頓宮四郎左衛門兼て在国したりければ、小浜に究竟の城を構て、兵粮数万石積置たり。相摸守此に落付て、城の構へ勢の程を見に、懸合の合戦をする共、又城に篭て戦共、一年二年の内には輙く落されじ物をとぞ思はれける。去程に尾張左衛門佐氏頼、討手の大将を承て、北陸道の勢三千余騎を卒して、越前より椿峠へ向ふ。仁木三郎搦手の大将を承て、山陰道の勢二千余騎を卒して、丹波より逆谷へ向と聞へければ、相摸守大に笑て、「穴哀の者共や。此等を敵に受ては、力者二三人に杉材棒突せて差向たらんに不足あるまじ。先敦賀に朝倉某が先打にて陣を取たるを打散せ。」とて、中間を八人差遣さる。八人の中間共敦賀の津へ紛入、浜面の在家十余箇所に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。朝倉が兵三百余騎時の声に驚て、「すはや相摸守の寄たるは。定て大勢にてぞ有らん。引て後陣の勢に加れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引ければ、相伴兵三百余騎、馬物具を取捨て、越前の府へぞ逃たりける。さればこそ思つる事よと、人毎に云弄ぶと沙汰せしかば、尾張左衛門佐大に忿て、軈て大勢を卒して十月二十九日椿峠へ打向ふ。相摸守是を聞て、「今度は一人も敵と云者を生て遣まじければ、自身向はでは叶まじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門尉を残し置、舎弟右馬助共に五百余騎にて追手の敵に馳向ふ。敵陣難所なれば、待てや戦、懸りやすると思安して、未戦決処に、重恩他に異なれば、是ぞ弐有まじき者と憑れける頓宮四郎左衛門俄に心替して、挙旗城戸を打て寄手の勢を後より城へ引入ける間、相摸守に相順兵共、可戦力尽はてゝ、右往左往に落て行。朽たる縄を以て、六馬をば紲て留るとも、只難憑此比の武士の心也。清氏さしもの勇士なりしか共、角ては叶はじとや思れけん、舎弟右馬助と只二騎打連て篠峯越に忍で都へ紛入。一夜の程も洛中には難隠と思れければ、兄弟別々に成て、相摸守は東坂本へ打越へ、一日馬の足を休て天王寺へ落ければ、右馬頭は夜半に京中を打通り、大渡を経て、兼ての相図を不違天王寺へぞ落著ける。相摸守軈石堂刑部卿の許へ使者を立、「清氏已に依讒者訴、無罪死罪を行れんと候つる間、身の置所なき余に、天恩を戴て軍門に降参仕て候。旧好其故も候へば、混ら貴方を憑申にて候。兔も角も可然様に御計候へ。」とぞ言遣されける。石堂刑部卿急使者に対面して、先兔角の返事に不及、「こはそも夢か現か。」とて、良久く泪を袖に押へらる。軈参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議して云、「敵軍首を延て帝徳に降る。天恩何ぞ是を慧れざらん。早く軍門に慎仕へて、征伐の忠を専にすべし。」と、恩免の綸旨を下されしかば、石堂限なく悦て、則細河に対面し給ふ。互に言ば無して泪に咽び給ふ。暫有て、「世の転変今に始ぬ事にて候へ共、不慮の参会こそ多年の本意にて候へ。」と許、色代してぞ被帰ける。只秦の章邯・趙高が讒を恐れ、楚の項羽に降し時、面をたれ涙を流して言ばには不出ども、讒者の世を乱る恨を含し気色に不異。

☆ 頓宮が心変わりをしたことと、畠山道誓のこと

さて若狭国は細川相模守清氏が最近になって領有支配することになった国ですが、若狭国は頓宮四郎左衛門が以前より在国しており、小浜に堅固な城郭を構えて兵糧も数万石を蓄積していました。相模守清氏はこの国に落ち着いてから、この城の構えや軍勢の程度を調べてみると、駆け合いの合戦(敵味方がぶつかり合っての戦い)をしても、

また城に篭って戦おうとも、一年や二年の内にそう簡単に落とせそうには思えませんでした。やがて幕府北朝では尾張左衛門佐氏頼(斯波氏頼)が討手軍の大将を命じられ、北陸道の軍勢三千余騎を率いて越前より椿峠(三方郡美浜町)に向かいました。また仁木三郎は搦手軍の大将を引き受けて、山陰道の軍勢二千余騎を率いて、

丹波から逆谷(綾部市)へ向かうようだと聞くと、相模守は大笑いで、「何と可哀そうな奴らだ。この連中らが敵なら、力仕事が専門の者、二、三人に杉材棒(すぎざいぼう::杉の堅木の先にとげを付けた武器)を突かせるように向かわせたら十分だろう。まず敦賀に隊列の先頭を切って進んで来た朝倉の何某が陣を構えているのを蹴散らしてしまえ」と言って、

中間(ちゅうげん::下級奉公人)ら八人を向かわせました。八人の中間らは敦賀の船着き場に紛れ込み、浜辺の民家十余ヶ所に火をかけ、鬨の声をあげました。朝倉の兵士ら三百余騎は鬨の声に驚き、「うわっ、相模守が寄せて来たぞ。きっと大軍に違いない、ここは退却して後方の軍と一緒になろう」と言って、矢の一本さえ射ることなく、

朝倉軍は敦賀を引き上げることとなり、従ってきた三百余騎の兵士らは、馬や甲冑など脱ぎ捨てて越前の国府(越前市)に逃げました。そうなるとはわかっていたではないかと、人々が皆、馬鹿にしているという噂が入ってくると、尾張左衛門佐は激怒し、すぐ大軍を率いて康安元年(正平十六年::1361年)十月二十九日、椿峠に向かいました。

相模守はこの情報を聞くと、「今度は敵という敵は一人だって生きては帰さないつもりなので、私自身が出陣せずにはできないだろう」と言って、城には頓宮四郎左衛門尉を残して、舎弟の右馬助と共に五百余騎で、大手の敵に駆け向かいました。敵陣は攻略困難な場所に構えているので、持久戦に持ち込むか、

力攻めにかかって行くか思案してまだ戦いが起こる前に、代々奉公を続けて来ているので、この人に限って裏切りなどあるはずがないと信じ切っていた頓宮四郎左衛門が突然裏切ると、旗をあげ城戸を叩いて知らせ、寄せ手の軍勢を背後から城内に引き入れたので、相模守に従っていた兵士らは戦う力も尽き果て、うろたえてあちこちに落ちて行きました。

腐った縄で六頭の馬をつなぎ操るほど困難な時でも、ただただ人に頼めないのがこの当時武士の心意気でした。細川清氏はまれにみる勇士ですが、この状況ではとても打開出来ないと思ったのか、弟の右馬助とただ二騎が連れだって、篠峯越(仰木越::仰木と大原を結ぶ峠)でひそかに都に紛れ込みました。

しかし都では一晩でも身を隠すことなど困難だと思われるので、兄弟は別れ別れになって相模守は東坂本に行き、一日だけ馬に休養を与えて天王寺に落ちて行きました。また右馬助は夜中に京都を通り抜け、大渡(宇治川と木津川の合流点近く)を経由して前もっての約束通り天王寺に落ち着きました。

相模守はすぐ石塔刑部頼房卿のもとに使者を立て、「清氏はすでに讒言のため訴えられて、無罪でありながら死罪に処せられると思われ、身の置き所もなくなり、後村上天皇の恩情を頼って、南朝の陣営に降参致します。古くからのよしみを頼りに、ただただ貴方にお願いする次第です。何はともあれ、しかるべき計らいをお願いいたします」と、申し上げさせたのです。

石塔刑部卿はすぐに使者と面会し、まずは何らの返事をすることなく、「これは一体夢か現なのか」と言って、しばらく涙を袖で押さえられました。すぐ参内し事の次第を後村上天皇に申し上げると、左右の大臣(左大臣と右大臣)は協議の上、「敵軍が首を延べて我が天子の威光に降るのか。天皇の恩情はどうしてこれに答えないと言うのか。

早く我が軍門に誠意をもって仕え、北朝幕府軍の征伐に向かって忠勤を怠らないように」と、恩赦する旨の綸旨が下されると、石塔は大変喜ばれ、早速細川清氏と対面されました。お互い言葉を発することなく、涙にむせぶばかりでした。しばらくして、「世の転変は何も今に始まったことではないけれど、

このように思いがけなく再会出来ることは長年の望みでもありました」とだけ話され、挨拶をして帰られました。この状況は昔、秦国の章邯(しょうかん::秦の将軍)が趙高(ちょうこう::秦の政治家)による讒言を恐れて、楚国の項羽に降った時、顔を伏せ涙を流し言葉にはしませんでしたが、讒言をする者が世を乱す原因なのだという恨みをにじませた様子と変わりません。


去程に仁木中務少輔は、京より伊勢へ落て、相摸守に相順ふと聞へ、兵部少輔氏春は、京より淡路へ落て国中の勢を相付て、相摸守に力を合せ、兵船を調へて堺の浜へ著べしと披露あり。摂津国源氏松山は、香下城を拵て南方に牒し合、播磨路を差塞で、人を不通聞へければ、一方ならぬ蜂起に、京都以外に周章して、すはや世の乱出来ぬと危ぬ人も無りけり。宰相中将殿は畿内の蜂起を聞て、「近国は縦起るとも、坂東静なれば、東八箇国の勢召上て退治せんに、何程の事か可有。」とて、強ちに騒ぐ気色も無りける処に、康安元年十一月十三日、関東より飛脚到来して、「畠山入道々誓、舎弟尾張守御敵に成て、伊豆国に楯篭り候間、東国の路塞て、官軍催しに不応。」とぞ申ける。其濫觴何事ぞと尋ぬれば、去々年の冬、畠山入道南方退治の大将として上洛せし時、東八箇国の大名・小名数を尽してぞ上りける。此軍勢長途に疲れ数月の在陣にくたびれて、馬物具を売位に成しかば、怺兼て、畠山に暇をも不乞抜々に大略本国へ下ける。遥に程経て、畠山関東に下向して彼等が一所懸命の所領どもを没収して、歎け共耳にも不聞入、適披露する奉行あれば、大に鼻を突せ追込ける間、訴人徒に群集して、愁を不懐云者なし。暫は訴詔を経て廻りけるが、余に事興盛しければ、宗との者共千余人、神水を呑で、所詮畠山入道を執権に被召仕、毎事御成敗に随まじき由を左馬頭へぞ訴申ける。下として上を退る嗷訴、下刻上の至哉と、心中には憤思はれけれども、此者どもに背れなば、東国は一日も無為なるまじと覚して、軈て畠山が許へ使を立て、「去々年上洛の時、南方退治の事は次に成て、専仁木右京大夫を討んと被謀候し事、隠謀の其一にて非や。其後関東に下向して、差たる無罪科諸人の所帯を没収せられ候ける事、只世を乱して、基氏を天下の人に背かせんとの企にてぞ候覧。叛逆旁露顕の上は一日も門下に跡を不可被留。退出及遅々、速に討手をさし遣すべし。」とぞ被云送ける。畠山は其比鎌倉に有けるが、此上は陳じ申とも叶まじとて、兄弟五人並郎従已下引具して、三百余騎伊豆国を指して落て行。此勢小田原の宿に著たりける夜、土肥掃部助、「御敵に成て落る者に、矢一射懸ずと云事や可有。」とて、主従只八騎にて小田原の宿へ押寄せ、風上より火を懸て、烟の下より切て入る。畠山が方に、遊佐・神保・斎藤・杉原、出向て散々に追払ふ。是程小勢なりける者をとて、時の興にぞ笑合ける。さて其後は後陣に防矢少々射させて、其夜小田原の宿を落て、伊豆の修禅寺に楯篭る。其後畠山が舎弟尾張守義深、信濃へ越て、諏防の祝部と引合て、敵に成と聞へしかば、東国・西国・東山道、一度に何様起り合ぬと、洛中の貴賎騒合り。

さて仁木中務少輔は京都から伊勢に落ちて、相模守清氏に属することになったと聞こえ、また兵部少輔細川氏春は京都を落ちて淡路に入り、国中の軍勢を従えて相模守に協力し、兵船を揃えて堺の浜に着けるらしいと知られるようになりました。摂津国の源氏松山(北近江の豪族で清和源氏の流れを汲む)は香下城(かしたじょう::三田市)を構築すると南朝と書面による相談の上、

播磨路を閉鎖して人の往来を禁止したとの情報が入るなど、安心ならない蜂起の連続に、京都では思いのほか慌てふためき、このまま世の中は乱れだすのではと危ぶまない人はいませんでした。宰相中将義詮殿は畿内での蜂起を聞くと、「近国でたとえ反乱が起こっても、坂東が鎮静であれば東八ヶ国の軍勢を招集して鎮圧をするのに、

何か問題があると言うのか」と言って、特に騒がれる様子もありませんでしたが、康安元年(正平十六年::1361年)十一月十三日、関東から飛脚が到着し、「畠山入道道誓と舎弟の尾張守が裏切って伊豆国に立て篭もり、東国の街道を閉鎖しましたから、官軍の招集に応じることが出来ません」と、言って来ました。

その濫觴(らんしょう::物事のきっかけ)とは何なのかと尋ねてみれば、一昨年、延文四年(正平十四年::1359年)の冬、畠山入道が南朝征伐軍の大将として上洛された時、東八ヶ国の大名、小名らは出来うる限りの軍勢を招集して都に上りました。この軍勢は長距離の遠征に疲れた上、数ヶ月にわたる戦場暮らしに経済は破綻し、

馬や甲冑まで売却しなければならなくなり、とても耐えられなくなり畠山国清に暇乞いもせずに、ほとんどの軍勢がこっそりと本国に下りました。その後月日が過ぎて、畠山国清が関東に下向すると、彼らが命がけで守っている領地を没収し、いくら嘆願しても耳を貸すことなく、たまに意見を言う役人がいたとしても、

厳しいお咎めを受けるので、訴えを起こした人はただ集まっては不服を言って、不満を抱かない者などいませんでした。しばらくは訴訟を通じて対応していましたが、余りにも訴訟案件が多いので、主だった者たち、千余人が神水(じんすい::誓いのしるしとして神前で飲む水)を飲んで結束を誓うと、どうあっても畠山入道を執権に命じられるなら、

全てのことに対して彼の裁決には従わない旨、左馬頭義詮殿に訴えました。身分的に下位の者が上位の者を退かそうとする強硬な訴えは、下剋上(げこくじょう::下の者が上の者を除いて権力を手中にすること)の極みだと心中憤慨はしましたが、この者らが逆らえば東国は一日とて安定は保てないと考え、

すぐ畠山国清に使者を送り、「一昨年上洛した時、南朝の征伐については二の次にして、もっぱら仁木右京大夫を討とうと謀ったことは陰謀の第一ではないのか。その後関東に下向してから、大して罪もない人々の財産を没収されたことも、ただ世の中を乱して、足利基氏(もとうじ::尊氏の四男鎌倉の主)を天下の人々から離反させようとの企みと思える。

このように反逆の意図が露見した上は、一日たりとわが足利家一門としておくことは出来ない。鎌倉を去るのに手間取るようであれば、速やかに討手を派遣する」と、申し伝えました。畠山はその頃鎌倉にいましたが、こうなれば弁解不可能であろうと、兄弟五人と家来以下引き連れた三百騎は、伊豆国に向かって落ちて行きました。

この軍勢が小田原の宿に到着した夜、土肥掃部助は、「敵となって落ちて行く者に対して、矢の一本も射かけないことなどあってはならない」と言って、主従ただ八騎で小田原宿に押し寄せ、風上から火をかけると、煙の中を切り込みました。畠山の配下である遊佐(ゆさ)、神保(じんぼ)、斎藤、杉原らが出て来て応戦し激しく追い払いました。

これほどの小勢であるのに何が出来るのかと、その場は面白がり笑い合っていました。しかしその後、後方部隊に防ぎ矢を少しばかり射させると、その夜小田原の宿を落ち、伊豆の修善寺に立て篭もりました。その後畠山国清の舎弟、尾張守畠山義深は信濃に入り諏訪大社の祝部(はふり::神職総称)と手を握り、敵になったと伝えられてきたので、

東国、西国、東山道など一度に蜂起するのではないかと、洛中の人々は立場に関係なく大騒ぎになりました。      (終り)

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