37 太平記 巻第三十七 (その一)


○清氏正儀寄京事
相摸守は、石堂刑部卿を奏者にて、「清氏不肖の身にて候へ共、御方に参ずる故に依て、四国・東国・山陰・東山、太略義兵を揚候なる。京都は元来はか/゛\しき兵一人も候はぬ上、細川右馬頭頼之・赤松律師則祐は、当時山名伊豆守と陣を取向ふて、相戦ふ最中にて候へば、皆我が国を立離れ候まじ。土岐・佐々木等は、又仁木右京大夫義長と戦て、両陣相支て上洛仕る事候まじ。可防兵もなく助の勢も有まじき時分にて候へば、急ぎ和田・楠以下の官軍に、合力を致候へと仰下され候へ。清氏真前を仕て京都を一日が中に責落して、臨幸を正月以前に成進せ候べし。」とぞ申ける。主上げにもと思食ければ、軈て楠を召て、「清氏が申所いかゞ有べき。」と仰らる。正儀暫く思案して申けるは、「故尊氏卿、正月十六日の合戦に打負て、筑紫へ落て候しより以来、朝敵都を落る事已に五箇度に及候。然れども天下の士卒、猶皇天を戴く者少く候間、官軍洛中に足を留る事を不得候。然も、一端京都を落さん事は、清氏が力を借までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責られ候はん時、何れの国か官軍の助と成候べき。若退く事を恥て洛中にて戦候はゞ、四国・西国の御敵、兵船を浮べて跡を襲い、美濃・尾張・越前・加賀の朝敵共、宇治・勢多より押寄て戦を決せば、又天下を朝敵に奪れん事、掌の内に有ぬと覚候。但し愚案短才の身、公儀を褊し申べきにて候はねば、兔も角も綸言に順ひ候べし。」とぞ申ける。主上を始め進せて、竹園・椒房・諸司・諸衛に至るまで、住馴し都の変しさに後の難儀をば不顧、「一夜の程なり共、雲居の花に旅ねしてこそ、後は其夜の夢を忍ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉義一同して、明年よりは三年北塞りなり、節分以前に洛中の朝敵を責落して、臨幸を成奉るべき由儀定あて、兵共をぞ被召ける。

☆ 畠山清氏と楠木正儀が京都に攻め寄せたこと

さて相模守細川清氏は石塔刑部頼房卿を奏者(そうしゃ::天皇への取り次ぎ者)として、「私、清氏は未熟者ではございますが、南朝軍に加わることになりましたので、四国、東国、山陰、東山などのほとんどが、南朝のために義軍として兵を挙げることになりました。京都、幕府軍にはもともとこれと言った軍人は一人もいない上、

細川右馬助頼之と赤松律師則祐は現在、山名伊豆守時氏と陣を向かい合っての交戦中なので、皆自国を離れることはないでしょう。土岐頼康、佐々木道誉らもまた仁木右京大夫義長と戦っていますから、両軍ともこの戦闘のため上洛することはないでしょう。都には防衛の軍勢もいない上、

救援に駆けつける軍勢も期待できない時なので、急いで和田(正武?)、楠木正儀以下の官軍らに、協力するよう仰せ下されたくお願いします。清氏は先頭を切って攻め込み、京都を一日の内に攻め落として、天皇の臨幸を正月前に実現いたしましょう」と、申し上げました。

後村上天皇はなるほどと思われ、すぐ楠木を呼ばれて、「清氏が申すことどう思うか」と、仰せられました。正儀はしばらく考えてから、「故尊氏卿が正月十六日の合戦に敗北を喫し、筑紫に落ちられてから、朝敵足利軍が都を落ちることすでに五回に及びます。しかしながら、

今なお天下の将官軍兵らは天皇(後村上天皇)に従おうとはせず、そのため我が官軍が洛中に足を留めることが出来ておりません。その上単に京都を落とすだけなら、何も清氏の力を借りるまでもないでしょう。正儀一人の軍勢でも簡単に出来ると思われますが、再び敵に取り返され攻撃を受けた時、

一体どこの国が官軍の救援に来てくれるでしょうか。もし撤退を恥じて洛中で戦うとなれば、四国、西国の朝敵らが兵船を浮かべて後方から攻撃をしかけ、美濃、尾張、越前、加賀の朝敵らが宇治、瀬田から押し寄せてきて、決戦ともなれば再び天下を朝敵に奪われること、間違いないと考えます。

ただしこれは才能乏しい私の浅はかな知恵であり、朝廷の決定事項に関して、私の考えなどを申し上げるべきではく、いずれにしても天皇のお言葉に従うことにしましょう」と、申し上げました。天皇をはじめとして、皇族、皇后、諸司(文官全般)、諸衛(武官全般)に至るまで、住み慣れた都の恋しさに、

後で起こると思われる苦労など考えることなく、「たとえ一夜なりとも、花の都にある皇居で旅の眠りを楽しんでこそ、後々までその夜の夢を懐かしく思い出すことが出来るでしょう」と話されたので、諸卿の会議は一決し、来年から三年は北塞がり(陰陽道によって、大将軍”金星”のある方角に向かって三年間は事を起こしてはいけないこと)に入るので、

節分以前に洛中の朝敵を攻め落し、臨幸を実現させることが議決され、兵士らの招集が行われました。


○新将軍京落事
公家大将には、二条殿・四条中納言隆俊卿、武将には、石堂刑部卿頼房・細川相摸守清氏・舎弟左馬助・和田・楠・湯浅・山本・恩地・牲川、其勢二千余騎にて、十二月三日住吉・天王寺に勢調へをすれば、細川兵部少輔氏春淡路の勢を卒して、兵船八十余艘にて堺の浜へつく。赤松彦五郎範実、「摂津国兵庫より打立てすぐに山崎へ攻べし。」と相図を差す。是を聞て京中の貴賎、財宝を鞍馬・高雄へ持運び、蔀・遣戸を放取る。京白川の騒動なゝめならず。宰相中将殿は二日より東寺に陣取て、著到を付られけるに、御内・外様の勢四千余騎と注せり。「さては敵の勢よりも、御方は猶多かりけり。外都に向て可防。」とて、時の侍所なればとて、佐々木治部少輔高秀を、摂津国へ差下さる。当国は親父道誉が管領の国なれば、国中の勢を相催して、五百余騎忍常寺を陣に取て、敵を目の下に待懸たり。今河伊予守に三河・遠江の勢を付て、七百余騎山崎へ差向らる。吉良治部太輔・宇都宮三河三郎・黒田判官を大渡へ向らる。自余の兵千余騎、淀・鳥羽・伏見・竹田へ引へさせ、羽林の兵千余騎をば、東寺の内にぞ篭られける。同七日南方の大将河を越て、軍評定の有けるに、細川相摸守進出て申されける様は、「京都の勢の分際をも、兵の気色をも皆見透したる事にて候へば、此合戦に於ては、枉て清氏が申旨に任られ候へ。先清氏後陣に引へて、山崎へ打通り候はんに、忍常寺に候なる佐々木治部少輔、何千騎候と云共、よも一矢も射懸候はじ。山崎を今河伊予守が堅て候なる。是又一軍までも有まじき者にて候。洛中の合戦に成候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍は、皆跣立に成て一面に楯をつきしとみ、楯の陰に鑓長刀の打物の衆を五六百人づゝ調えて、敵かゝらば馬の草脇・太腹ついては跳落させ/\、一足も前へは進とも一歩も後へ引く気色なくは、敵重て懸入る者候べからず。其時石堂刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手に成て敵の中を懸破り、義詮朝臣を目に懸候程ならば、何くまでか落し候べき。天下の落居一時が中に定り候べき物を。」と申されければ、「此儀誠に可然。」とて、官軍中島を打越て、都を差て責上る。げにも相摸守の云つるに少も不違、忍常寺の麓を打通るに、佐々木治部少輔は時の侍所也。甥二人まで当国にて楠に打れぬ。爰にて先日の恥をも洗んとて、手痛き軍をせんずらんと、思儲けて通けるに、高秀、相摸守に機を呑れて臆してや有けん、矢の一をも不射懸、をめ/\とこそ通しけれ。さては山崎にてぞ、一軍あらんずらんと思ふ処に、今河伊予守も叶まじとや思けん、一戦も戦はで、鳥羽の秋山へ引退く。此を見て此彼に陣を取たる勢共、未敵も近付ざるに、落支度をのみぞし居たりける。「かくては合戦はか/゛\しからじ。先京を落てこそ、東国・北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上をば警固し奉り、同八日の暁に、宰相中将殿、苦集滅道を経て勢多を通り、近江の武佐寺へ落給ふ。君は舟臣は水、水能浮船、水又覆船也。臣能保君、臣又傾君といへり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持し奉り、今年の冬は清氏忽に敵と成て、相公を傾け奉る。魏徴が太宗を諌ける貞観政要の文、げにもと思ひ知れたり。同日の晩景に南方の官軍都に打入て、将軍の御屋形を焼払ふ。思の外に洛中にて合戦なかりければ、落る勢も入勢も共に狼籍をせず、京白川は中々に此間よりも閑なり。爰に佐渡判官入道々誉都を落ける時、「我宿所へは定てさもとある大将を入替んずらん。」とて、尋常に取したゝめて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取副て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸双べ、三石入許なる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、「誰にても此宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細を申置にけり。楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、「定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候。」と、色代してぞ出迎ける。道誉は相摸守の当敵なれば、此宿所をば定て毀焼べしと憤られけれ共、楠此情を感じて、其儀を止しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖をも不失。剰遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置て、郎等二人止置て、道誉に■替して、又都をぞ落たりける。道誉が今度の振舞、なさけ深く風情有と、感ぜぬ人も無りけり。例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。

☆ 新将軍義詮が京を落ちられたこと

さて公家大将として、二条殿と四条中納言隆俊卿、武将には石塔刑部卿頼房、細川相模守清氏、舎弟の左馬助、和田、楠木、湯浅、山本、恩地、牲川(にえかわ)ら二千余騎が、康安元年(正平十六年::1361年)十二月三日、住吉、天王寺に集結しました。細川兵部少輔氏春は淡路の軍勢を率いて、

兵船八十余艘で堺の浜に到着しました。赤松彦五郎範実(のりざね)は、「摂津国兵庫より進発し、すぐ山崎に攻め込め」と、命を下しました。これを聞き、京都中の人々は身分に関係なく、財物類を鞍馬、高雄に運び込み、蔀(しとみ::板戸)や遣戸(やりど引き戸)を取り外しました。京白川の騒動は大変なものでした。

宰相中将義詮殿は十二月二日から東寺に陣を構え、軍勢の到着を記録させたところ、一族と外様の軍勢は四千余騎と書き込まれました。「それでは敵の軍勢より味方がはるかに多いではないか。では都の外に出て防ぐのが良いだろう」と言って、当時侍所(さむらいどころ::御家人の統制や市政、所領などを扱う)の長官をしていた、

佐々木治部少輔高秀を摂津国に下しました。この国は父親の佐々木道誉が領有支配している国なので、国中の軍勢を招集し、五百余騎で忍常寺に陣を構え、敵を眼下に待ちかまえました。また今川伊予守に三河、遠江の軍勢を与えた七百余騎を山崎に向かわせました。

そして吉良治部大輔、宇都宮三河三郎、黒田判官らを大渡(宇治川、桂川の合流地点)に向かわせました。そのほかの兵士千余騎を淀、鳥羽、伏見、竹田に控えさせて、羽林(うりん::近衛中将の唐名)義詮の兵士千余騎は東寺の中に篭らせました。康安元年(正平十六年::1361年)十二月七日南朝の大将楠木正儀が川を渡って作戦会議が開かれると、

細川相模守清氏が一歩進み、「京都北朝軍の総数や、兵士の戦意など全て見通しているので、この合戦においては、どうあってもこの清氏が提案する作戦に任せて頂きたい。まず清氏が後方に備えるための軍勢として山崎を通過しようとしても、忍常寺に展開している佐々木治部少輔高秀の軍勢、

何千騎と言えども決して一矢たりと射掛けてはこないでしょう。山崎は今川伊予守が防御を固めていますが、この者もまた一戦に及ぶものではございません。その後洛中での合戦ともなれば、大和、河内、和泉、紀伊国の官軍は、全員が歩兵になって道路一面に楯を並べ、楯の陰に槍や長刀で武装した衆五、六百人づつ控えさせ、

敵がかかってきたら馬の胸先や太腹を突いて、跳ね落とし、また跳ね落としながら、一歩前に進むことはあっても、一歩も後ろに引く様子が見えなければ、なおも駆け入って来る敵などいないでしょう。その時、石塔刑部卿、赤松彦五郎と清氏は一団となって敵の中央を駆け破り、義詮朝臣を目にする状況になれば、

どこへ落ちると言うのでしょうか。天下の決着は一気につくでしょう」と、申されると、「この提案はまことに道理にかなっている」と言って、官軍南朝軍は中島を通過し都に向かって攻め上りました。確かに相模守が話したことに少しも違わず、忍常寺の麓にかかりましたが、佐々木治部少輔高秀は当時の侍所長官を務めており、

甥の二人まで摂津国において楠木に討ち取られていました。ここで先日の恥を雪ごうと考え、激しく攻撃を仕掛けて来るのではと予想しながら通り過ぎましたが、高秀は相模守に気合負けしておじけづいたのか、矢の一本さえ射ることなく、恥ずかしながら通してしまいました。

それなら山崎で戦を仕掛けて来るのかと思っていましたが、今川伊予守も勝ち目がないと思ったのか、一戦することもなく鳥羽の秋山に退却しました。この状況を見て、ここかしこに陣を構えていた軍勢らは、まだ敵が近づく前に落ち逃げる用意だけをしました。「これではとてもまともな合戦など出来そうにない。

ここはまず京都を落ちて、東国や北国の軍勢を待つことにしよう」と言って、持明院の主上後光厳天皇を警固して、十二月八日の明け方に、宰相中将義詮殿は苦集滅道(くずめじ::渋谷街道。京都から大津へ抜ける最短の間道)を経由して瀬田を通り、近江の武佐寺に落ちられました。君は舟臣は水と言うように、水は良く舟を浮かべもするが、

水はまた舟を転覆もさせる。臣は良く君を守りもするが、臣はまた君を滅ぼしもすると言います。一昨年、延文四年(正平十四年::1359年)の春には細川清氏は足利家の執事として相公義詮を補佐し、今年、康安元年(正平十六年::1361年)の冬に清氏は突然敵になると、相公義詮を滅亡に追い込みました。

魏徴(ぎちょう::唐の政治家、唐の太宗に直接諫言することで有名)が太宗に諫言を行ったと言う、貞観政要(じょうがんせいよう::太宗の政治に関する言行を記録した書)に書かれている文章も、なるほどと思い知らされました。同日十二月八日の夕方には南朝の軍勢が都に侵入し、将軍義詮の御屋敷を焼き払いました。

予想したほどは洛中で合戦がなかったので、落ちて行く軍勢も、進入してきた軍勢も共に不法な乱暴を行うことなく、京白川周辺は最近よりむしろ静かでした。ところで、佐々木佐渡判官入道道誉が都を落ちられる時、「私のこの宿所には、きっとそれなりの大将がお入りになるであろう」と言って、見苦しくないよう片づけて、

六部屋ある集会所には、大きな家紋のついた縁つきの畳を敷き並べ、本尊、脇絵(わきえ::三幅で一組になる絵の両脇の絵)、花瓶、香炉、鑵子(かんす::湯沸かし)、盆に至るまで全てを整え、書院には王義之(おうぎし::東晋の書家)の筆による草書の偈(げ::経典中で詩句の形式をとって、教理や仏、菩薩をほめたたえた言葉)や、

韓愈(かんゆ::唐の文学者、思想家)の文集、寝室には沈香(じんこう::沈香の木から取った香料)を焚きしめた枕に、緞子(どんす::絹の紋織物)の夜具を添えておきました。十二間の遠侍(とおさぶらい::警固の武士の詰め所)には鳥、兎、雉、白鳥を三本の竿に架けて、三石(約541リットル)が入るほどの大筒を酒で満たし、

遁世者(とんせいしゃ::世捨て人)二人を其処に残しおいて、「この宿所に来られた人には、誰であっても酒を一献すすめるように」と、何くれとなく細かいことまで言い残して行きました。やがて楠木正儀が一番最初にここに来ると、遁世者二人が出向き、「きっとこのあばら家にお入りになられるでしょう。

その時一献おすすめするようにと、道誉禅門が言い残して行かれました」と、挨拶して出迎えました。道誉は相模守清氏にとって一番の敵なので、怒ってこの宿所は必ず燃やし尽くすつもりでしたが、楠木は道誉の風情ゆたかな行為に感心し、屋敷の破壊などを止められたので、庭先の池の木一本さえ折られることなく、

客間の畳一畳たりと紛失しませんでした。そればかりか、遠侍の酒肴も用意されていたもの以上に揃え直し、寝室には秘蔵の鎧に白太刀(しろだち::柄、鞘など全て銀製の太刀)一振りを置き、家来二人を残して、道誉と交替するように都を落ちられました。道誉の今回の振る舞いは、人間味あふれ趣きのあるものだと感じない人はいませんでした。

いつもの古狸(道誉)に引っ掛かって、楠木は簡単に太刀や鎧を取られたと、笑う連中も多かったのでした。


○南方官軍落都事
宮方には、今度京の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付順ひ進せんずらんと被思けるに、案に相違して、始て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池・伊予土居・得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守・同左衛門佐、其外の一族共、国々に多しといへども、或は道を塞がれ、或は勢ひ未だ叶ざれば、一人も不上洛。結句伊勢の仁木右京大夫は、土岐が向城へよせて、打負て城へ引篭る。仁木中務少輔は、丹波にて仁木三郎に打負て都へ引返し、山名伊豆守は暫兵の疲を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実は、養父則祐様々に誘へ宥めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方機を得ずと云者なし。さらば軈て京へ責上れとて越前修理大夫入道々朝の子息左衛門佐以下、三千余騎にて近江武佐寺へ馳参る。佐々木治部少輔高秀・小原備中守は白昼に京を打通て、道誉に馳加る。道誉其勢を合て七百余騎、野路・篠原にて奉待。土岐桔梗一揆は、伊勢の仁木が向城より引分て五百余騎、鈴鹿山を打越て篠原の宿にて追付奉る。此外佐々木六角判官入道崇永・今川伊予守・宇都宮三河入道が勢、都合一万余騎、十二月二十四日に武佐寺を立て、同二十六日先陣勢多に付にけり。丹波路より仁木三郎、山陰道の兵七百余騎を卒して責上る。播磨路よりは、赤松筑前入道世貞・帥律師則祐一千余騎にて兵庫に著く。残五百余騎をば、弾正少弼氏範に付て船に乗せ、堺・天王寺へ押寄て、南方の主上を取奉り、楠が跡を遮んと二手に成てぞ上りける。宮方の官軍、始は京都にてこそ兔も角もならめと申けるが、四方の敵雲霞の如く也と告たりければ、是程に能しよせたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先南方へ引て、四国・西国へ大将を分遣し、越前・信濃・山名・仁木に牒合て、又こそ都を落さめとて、同二十六日の晩景程に、南方の宮方宇治を経て、天王寺・住吉へ落ければ、同二十九日将軍京へ入給ひけり。

☆ 南朝の官軍が都を落ちられたこと

さて南朝宮方では今度京都の敵を追い落としたなら、元弘(1331-1333年)のように天下の武士らは皆、結束が緩んで南朝側に従うのではと思っていましたが思惑は外れ、改めて参内する武士はいませんでした。南朝には筑紫(九州北部)の菊池、伊予土居、得能(とくのう)や周防の大内介、また越中の桃井、

新田武蔵守義宗同じく左衛門佐そのほか一族らが、各国々には多数いるのですが、ある者は街道を閉鎖されたり、あるいは軍勢の招集が出来ないため、一人も上洛してきませんでした。そのあげく伊勢の仁木右京大夫は、土岐の向い城(攻撃のため敵城の前に構築する城)に攻め寄せたものの負けてしまい、城に引き篭もりました。

仁木中務少輔は丹波で仁木三郎に負けて都に引き返し、山名伊豆守はしばらく兵士の疲労を回復しようと、美作を引き上げ伯耆国に帰りました。そのほか赤松彦五郎範実は養父の則祐から色々となだめ誘われて再び寝返り、播磨に降ったらしいと聞こえてきたので、諸国の北朝将軍方はこの機を逃してはならないと皆が言いました。

そうであればすぐにでも京に攻め上ろうと言って、越前修理大夫入道道朝(斯波高経)の子息左衛門佐以下が三千余騎で、近江武佐寺に駆けつけてきました。佐々木治部少輔高秀、小原備中守は白昼京都を通り抜け、佐々木道誉の陣営に加わりました。道誉はその軍勢を合わせて七百余騎で野路(草津市)、篠原(野洲市)で待機しました。

土岐桔梗一揆は伊勢の仁木の向い城攻撃軍から五百余騎を引き抜いて鈴鹿山を越え、篠原の宿で追い付きました。この他佐々木六角判官入道崇永、今川伊予守、宇都宮三河入道の軍勢など、合わせて一万余騎は、康安元年(正平十六年::1361年)十二月二十四日に武佐寺を進発し、同じく二十六日に先陣は瀬田に到着しました。

丹波路からは仁木三郎が山陰道の兵士、七百余騎を率いて攻め上ってきました。また播磨路からは赤松筑前入道世貞(せいてい)と帥律師(そつのりっし)則祐(そくゆう)が、千余騎を率いて兵庫に着きました。残りの五百余騎は弾正少弼氏範に与えて舟に乗せ、堺、天王寺に押し寄せて、南朝の主上後村上天皇の身柄を確保の上、

楠木正儀の後方を遮断しようと、二手に分かれて上りました。南朝宮方の官軍は初めのうちこそ、京都に入れば何とかなるであろうと話していましたが、四方の敵は雲霞のようだと知らされると、このようにせっかく手に入れた天下を簡単に失う訳にはいかない。ここは一旦南方に退き、四国、西国へ本営から大将を派遣し、

また越前、信濃、山名、仁木らに書状を送って協力を取り付け、再び都を落とそうと、同じく康安元年(正平十六年::1361年)十二月二十六日の夕方、南朝の宮方は宇治を経由して、天王寺、住吉に落ちられたので、同じく二十九日、将軍義詮は京都に入られたのでした。


○持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
帝都の主上は、未近江へ武佐寺に御坐有て、京都の合戦いかゞ有らんと、御心苦敷く思食ける処に、康安元年十二月二十七日に、宰相中将殿早馬を立て、洛中の凶徒等事故なく追落し候ぬ。急ぎ還幸なるべき由を申されたりければ、君を始め進て、供奉の月卿雲客、奴婢僕従に至るまで、悦あへる事尋常ならず。其翌の朝軈て竜駕を促されて、先比叡山の東坂本へ行幸成て、此にて御越年あり。佐々波よする志賀の浦、荒て久しき跡なれど、昔ながらの花園は、今年を春と待顔なり。是も都とは思ながら馴ぬ旅寝の物うさに、諸卿みな今一日もと還幸を勧め申されけれ共、「去年十二月八日都を落させ給ひし刻に、さらでだに諸寮司さ闕たりし里内裏、垣も格子も破失、御簾畳も無りければ、暫く御修理を加てこそ還幸ならめ。」とて、翌年の春の暮月に至まで、猶坂本にぞ御坐ありける。近日は聊の事も、公家の御計としては難叶ければ、内裡修理の事武家へ仰られたりけれ共、領掌は申されながら、いつ道行べしとも見へざりければ、いつまでか外都の御住居も有べきとて、三月十三日に西園寺の旧宅へ還幸なる、是は后妃遊宴の砌、先皇臨幸の地なれば、楼閣玉を鏤めて、客殿雲に聳たり。丹青を尽せる妙音堂、瑠璃を展たる法水院、年々に皆荒はてゝ、見しにもあらず成ぬれば、雨を疑ふ岩下の松風、糸を乱せる門前の柳、五柳先生が旧跡、七松居士が幽棲も角やと覚て物さびたり。爰にて今年の春を送らせ給に、兔角して諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本の里内裏へ還幸なる。供奉月卿雲客は指たる行粧なかりしか共、辻々の警固随兵の武士共皆傍を耀してぞ見へたりける。「細川相摸守清氏は、近年武家の執事として、兵の随付たる事幾千万と云数を不知。其身又弓箭を取て、無双の勇士なりと聞へしかば、是が宮方へ降参しぬる事、偏に帝徳の天に叶へる瑞相、天下の草創は必此人の武徳より事定るべし。」と、吉野の主上を始進て、諸卿皆悦び思食ければ、則大将の任をぞ授られける。其任案に相違して、去年の冬南方官軍相共に、宰相中将殿を追落して、暫く洛中に勢を振ひし時も、此人に馳付勢もなし。幾程なくて官軍又都を落されて、清氏河内国に居たれ共、其旧好を慕て尋来る人も稀なり。只禿筆に譬へられし覇陵の旧将軍に不異。清氏は為ん方なさに、「若四国へ渡りたらば、日来相順ひし兵共の馳付事もや有らん。」とて、正月十四日に、小船十七艘に取乗て阿波国へぞ渡られける。

☆ 持明院の新帝が江州から還幸されたことと、相模守殿が四国に行かれたこと

帝都の主上後光厳天皇はまだ近江武佐寺におられて、京都における合戦の成り行きをご心配されていましたが、康安元年(正平十六年::1361年)十二月二十七日に、宰相中将義詮殿が早馬を立てられ、洛中の兇徒らは何ら問題なく追い落としました。急ぎ都に還幸されるよう申し上げたので、天皇をはじめとして、

お供する公卿殿上人も、奉公する下男下女全員の喜びは大変なものでした。翌日の朝、すぐ天子用の駕籠に乗られて、まず比叡山の東坂本に行幸され、ここで年越しをされました。さざ波(志賀にかかる枕詞::琵琶湖西南岸の古称)の寄せる志賀の浦は、荒れて久しい所ではありますが、

昔ながらの花園は今年こそ春の華やかさを待っているようです。ここも都だとは思いながら、馴れない旅先でのつらい宿泊に、諸公卿らは皆、一日でも早く還幸されるようお勧めしましたが、「昨年康安元年(正平十六年::1361年)十二月八日、都を落ちられた時、それでなくても役所の諸建造物が破壊された里内裏では、

その他にも垣根や格子など破壊され、御簾も畳も無いような状態であるので、しばらく修理を行い、その後還幸をお願いしたい」と言って、翌年、康安二年(正平十七年::1362年)の春の暮月(春の最終月::陰暦三月)までそのまま坂本に御滞在されました。最近は些細な事であっても、公家の判断では出来かねるので、

内裏修理のことも幕府武家に頼まれ、了承はされたものの何時になったら完成するのか見当がつかないので、いつの間にか内裏以外のお住まいも必要ではとないかと、三月十三日に、西園寺の旧宅に還幸されました。この旧宅は后妃が遊宴された場所であり、先皇が臨幸された地でもあるので、

豪華な建造物は玉をちりばめ、客殿は雲に届くかと思えるほどの高さを誇っています。しかし絵の具による彩色を凝らした妙音堂、瑠璃(るり::ガラス)を隅々まで使用した法水院(ほっすいいん)なども年を追うごとに荒れ果てて、見る影もなくなってしまいました。岩を吹き抜ける松風は雨を思わせ、

糸が乱れたような門前の柳など、五柳先生(陶淵明::世捨て人)の旧跡(住居)や、また七松居士(鄭薫::世捨て人)が俗世間から離れてひっそりと暮らしていた家も、このように寂れていたのでしょうか。この旧宅にて今年の春を送っていただいている内に、なんとか諸役所の修理が型どおり完了したので、

康安二年(正平十七年::1362年)四月十九日に以前の里内裏に還幸されました。お供する公卿殿上人らは特別な衣装などで着飾ってはいませんが、辻々で警固する武士や、行列の前後を警備する武士らは、皆あたりを輝かしているように見えました。「細川相模守清氏は最近武家足利義詮の執事として、

動員可能な兵士らは何千万人になるのかその数も分かりません。彼は弓箭を取れば、天下に二人と無き勇者とも言われていましたので、その彼が宮方に降参したことは、間違いなく後村上天皇の帝徳が天に認められた喜ばしい前兆であり、天下の再構築は必ずやこの人の武徳によって成し遂げられるだろう」と、

吉野南朝の主上後村上天皇をはじめに、諸卿ら全員が喜ばれたので、すぐ大将に任命されました。ところがその任命は期待に応えられず、昨年、康安元年(正平十六年::1361年)の冬、南朝の官軍と一緒に宰相中将義詮殿を都から追い落とし、しばらく洛中に勢力を広げた時も、この人の支配下に入ろうと駆けつけてくる軍勢はいませんでした。

まもなく官軍が再び都を落とされた後、清氏は河内国に滞在していましたが、彼を慕って旧交ある人が来ることもまれでした。ただ穂先が擦り切れて役に立たない筆と例えられた、覇陵の旧将軍(はりょう::捕虜になった罪で将軍から庶民に落とされた李広が、役人にも顔を忘れられたと言うたとえ)と何も変わる所がありません。

清氏はやりきれない気分の中、「もし四国に渡ったら、長年従ってきた兵士らが駆けつけて来ることも有るかもしれない」と言って、康安二年(正平十七年::1362年)正月十四日、細川清氏一行は小舟十七艘に分乗して、阿波国に渡られました。


○可立大将事付漢楚立義帝事
夫大将を立るに道あり。大将其人に非ざれば、戦に勝事を得がたし。天下已に定て後、文を以て世を治る時は、智慧を先とし、仁義を本とする故に、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行はせ大官を授る事あり。所謂魏徴は楚の君の旧臣なりしか共、唐太宗是を用給ふ。管仲は子糾が寵人たりしか共、斉の桓公是を賞せられき。天下未定時、武を以て世を取らんずるには、功ある人を賞し咎ある人を罰する間、縦威勢ある者なれども、降人を以て大将とはせず。伝聞秦の左将軍章邯は、四十万騎の兵を卒して、楚に降参したりしか共、項羽是を以て大将の印を不与。項伯は、鴻門の会に心を入て高祖を助たりしか共、漢に下て後是に諸侯の国を不授。加様の先蹤を、南方祗候の諸卿誰か存知し給はざるに、先高倉左兵衛督入道慧源に、大将の号を授て、兄の尊氏卿を打せんと給ひしか共叶はず。次に右兵衛佐直冬に、大将の号をゆるされて、父の将軍を討せんとし給ひしも不叶。又仁木右京大夫義長に大将を授て、世を覆さんとせられしも不叶。今又細川相摸守清氏を大将として、代々の主君宰相中将殿を亡さんとし給ふ不叶。是只其理に不当大将を立て、或は父兄の道を違へ、或は主従の義を背く故に、天の譴あるに非ずや。されば古も世を取んとする人は、専ら大将を撰びけるにや。昔秦の始皇の世を奪んとて陣渉と云ける者、自ら大将の印を帯て大沢より出たりしが、無程秦の右将軍白起が為に被討ぬ。其後又項梁と云者、自ら大将の印を帯て、楚国より出たりけるも、秦左将軍章邯に被打にけり。爰に項羽・高祖等色を失て、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増とて年七十三に成ける老臣、座中に進出て申けるは、「天地の間に興も亡も、其理に不依と云事なし。されば楚は三戸の小国なれども、秦を亡さんずる人は、必楚王の子孫にあるべし。其故は秦の始皇六国を亡して天下を並呑せし時、楚の懐王遂に秦を背事なし。始皇帝故なく是を殺して其地を奪へり。是罪は秦に有て善は楚に残るべし。故に秦を打たんとならば、如何にもして、楚の懐王の子孫を一人取立て、諸卒皆命に随べし。」とぞ計申ける。項羽・高祖諸共に、此義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありと尋求けるに、懐王の孫に孫心と申ける人、久く民間に降て、羊を養けるを尋出て、義帝と号し奉て、項羽も高祖も均く命を慎み随ひける。其後より漢楚の軍は利あつて、秦の兵所々にて打負しかば、秦の世終に亡にけり。是を以て思に、故新田義貞・義助兄弟は、先帝の股肱の臣として、武功天下無双。其子息二人義宗・義治とて越前国にあり。共に武勇の道父に不劣、才智又世に不恥。此人々を召て竜顔に咫尺せしめ、武将に委任せられば、誰か其家を軽じ、誰か旧功を続ざらん。此等を閣て、降参不儀の人を以て大将とせられば、吉野の主上天下を被召事、千に一も不可有。縦一旦軍に打勝せ給事有とも、世は又人の物とぞ覚へたる。

☆ 大将を選出任命することと、漢楚が義帝を大将に選出したこと

一般に大将を立てるには理由があります。大将としての器量がなければ、戦に勝つことは出来ません。天下がすでに決定されてから、文官による治世が行われるようになれば、知恵を優先し義理や道徳がその根本におかれるので、今まで敵であった人でも許され、政治を任され大官を命じられることもあります。

いわゆる魏徴(ぎちょう::唐の政治家)は楚の君の旧臣でしたが(?裏付けなし)、唐国の太宗は彼を重用されました。管仲(かんちゅう::斉の政治家)は子糾(しきゅう::公子糾)が寵愛していましたが、斉の桓公(かんこう::斉の君主)は彼を重視されました。天下が未だ定まらない時において、武力をもって天下を取ろうとすれば、

功績のある人間を褒賞し、罪のある者は罰するので、たとえ強い勢力を持つ者でも、降伏してきた人間を大将にすることはありません。話に聞いていますが、秦国の左将軍、章邯(しょうかん)は四十万騎の兵士を率いて楚国に降伏しましたが、項羽はだからと言って大将の印は与えませんでした。

また項伯(こうはく::中国戦国時代末期から前漢初期の政治家)は鴻門の会(楚の項羽と漢の劉邦が咸陽郊外で会見した故事)に配慮に配慮を重ねて高祖(劉邦::前漢の皇帝)を助けましたが、漢国に降伏を申し出てから、高祖は彼に貴族としての国を与えはしませんでした。このような前例を南朝にお仕えする諸卿が御存じなかったのか、

まず最初、高倉左兵衛督入道慧源(足利直義)に大将の号を与え、兄の尊氏卿を討たせようとしましたが成功しませんでした。次に右兵衛佐直冬(足利直冬)に大将の号を許して、父の将軍、尊氏卿を討たせようとしましたが、叶いませんでした。また仁木右京大夫義長に大将の位を授けて、世を覆させようとしましたが出来ませんでした。

今回再び細川相模守清氏を大将に任命して、代々仕えてきた主君の宰相中将義詮殿を滅ぼそうと企てましたが、実現できませんでした。これらの失敗は人としての道理に逆らった大将を立てたので、ある者は父兄の道を間違い、またある者は主従の義に背いたばかりに、天から咎めを受けたのではないでしょうか。

そこで古来より天下を手にしようとする者は、大将の選出を重視しました。昔、秦国の始皇帝の世を奪おうとした、陣渉(ちんしょう::陣勝とも。秦代末期の反乱指導者)と言う者は、自ら大将としての資格で、大沢(たいたく)より蜂起しましたが、すぐ秦の右将軍白起(はくき::秦の武将)によって討たれました。

その後また項梁(こうりょう::秦末期の武将、反乱指導者)というものが同じく自ら大将になって、楚国より立ち上がりましたが、秦の左将軍章邯(しょうかん::秦の将軍)に討たれました。この状況に項羽や高祖らは愕然とし、それでは誰を大将にして、秦国を攻めればよいのか検討していると、范増(はんぞう::楚国の軍師)と言う七十三歳の老臣が、

座の中央に進み出て、「この地球上において興るも滅ぶも全て興亡の理屈によるものです。だから楚国は非常に小さな国ですから、秦を滅ぼそうとする人は必ず楚王の子孫にあたります。その訳は秦の始皇帝が六国(斉、楚、燕、韓、魏、趙)を滅ぼして天下を統一した時、楚国の懐王(かいおう::暗君の代名詞的存在)は、

最後まで秦に背くことはありませんでした。しかし、始皇帝は理由もなく彼を殺害し、その領地を奪いました。この罪は秦にあって、楚には正しい道理があります。そのため秦を討とうとすれば、どうあっても楚国懐王の子孫を一人取り立てれば、全ての将官は皆彼の命令に従うでしょう」と、考えを話されました。

項羽と高祖の二人とも、この理屈はなるほどと思われ、どこかに楚の懐王の子孫がいないか探し求めたところ、懐王の孫にあたる孫心と言う人が、かなり昔に民間に降り、羊を飼っていることを探し出しました。そして義帝(ぎてい)と名乗って頂き、項羽も高祖も彼の命令に忠実に従いました。

その後、漢、楚の軍勢は有利に戦い、秦の軍勢をここかしこで破ったので、秦の天下はとうとう滅びたのです。これらのことを考え合わせると、故新田義貞、脇屋義助兄弟は先帝、後醍醐天皇から全面的に信頼された臣下であり、武功も天下に並びない素晴らしいものでした。

その子ら二人は義宗(よしむね::新田義宗。義貞の三男)、義治(よしはる::脇屋義治。義助の子)と言って越前国にいました。二人とも武勇に関しては父に劣らず、知恵才覚も世間にひけを取るものではありませんでした。これらの人々を呼び出して天皇に拝謁を許した上、武将に抜擢したならば、誰が彼らの家系を無視したり、

誰が今までの勲功を継ごうとしないのでしょうか。この人たちを差し置いて、降参してきた不忠の人を大将に命じているようでは、吉野の主上、後村上天皇が天下を手に入れることなど、千に一つもあり得ません。たとえ一旦戦に勝利を得ることがあっても、世は再び他人のものになると思われます。


○尾張左衛門佐遁世事
都には細川相摸守敵になりし後は、執事と云者なくして、毎事叶はざりける間、誰をか其職に可置と評定ありけるが、此比時を得たる佐々木佐渡判官入道々誉が聟たるに依て、傍への人々皆追従にや申けん、「尾張大夫入道の子息左衛門佐殿に、増たる人あらじ。」と申ければ、宰相中将殿も心中に異儀無して、執事職を内々此人に定め給ひにけり。父の大夫入道は、元来当腹の三男治部大輔義将寵愛して、先腹の兄二人を世にあらせて見んとも思はざりければ、左衛門佐執事職に可居由を聞て、様々の非を挙て、種々の咎を立て、此者曾て其器用に非ざる由をぞ、宰相中将殿へ申されける。中将殿も人の申に付安き人にて御座ければ、「げにも見子不如父。さらば当腹の三男を面に立て、幼稚の程は、父の大夫入道に、世務を執行さすべし。」と宣ひける。左衛門佐是を聞て、父をや恨にけん、世をうしとや思ひけん、潜に出家して、いづちともなく迷出にけり。付随ふ郎従共二百七十人、同時に皆髻を切て、思々にぞ失にける。此人誠に父の所存をも不破、我身の得道をも願て、出家遁世しぬる事類少き発心なり。但此比の人の有様は、昨日は髻切て実に貴げに見ゆるも、今日は頭を裹て、無慚無愧に振舞事のみ多ければ、此遁世も又行末通らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、遂に道心さむる事なくして、はて給ひけるこそ難有けれ。

☆ 尾張左衛門佐斯波氏頼が遁世したこと

さて都では細川相模守清氏が敵として南朝に加担してから、執事と言われる者がいなくなったため、何かにつけ問題が多く、早急に誰かを執事として置くべきだと話し合いがありました。そして最近羽振りの良い佐々木佐渡判官入道道誉の婿というので、周りの人々は機嫌取りなのか、

「尾張大夫入道(斯波高経)の子息、左衛門佐殿(斯波氏頼)に勝る人はいないでしょう」と申されるので、宰相中将義詮殿も心中異論なく、執事職は内々この人にと決められていました。しかし父の大夫入道高経はもともと当腹(とうふく::今の妻が出産した)の三男治部大輔義将(よしゆき・よしまさ::四男では?)を寵愛していたから、

先妻の産んだ兄二人(氏経、氏頼。長男の家長は故人)を世間に出して認めてもらおうとは思ってもいなかったので、左衛門佐氏頼が執事職に就くらしいと聞き、色々と欠点をあげたり、様々な不法な行動などを列挙して、この者は全く執事が務まるような器ではないと、宰相中将殿に申し上げました。

中将殿も人の意見に左右されやすい人ですから、「なるほど、子の質を見ることにかかけて、父親を超える者はいないと言う。それなら、当腹の三男義将を執事に採用し、彼がまだ幼い件に関しては、父の大夫入道高経に政務を見させれば良い」と、仰せられました。左衛門佐氏頼はこのことを聞くと、父を恨みに思ったのか、

また世の中に嫌気がさしたのか、ひそかに出家してどことも分からず行方をくらましました。従う家来ら二百七十人、全員が同時に髷を切り、思い思いに姿をくらましました。この人は父の考えに全く不服を申し上げることもせず、我が身が悟りを得ることのみ願って出家遁世したのは、まことに例の少ない珍しいことでした。

ただし最近の人間模様は、昨日は髷を切って実に尊く見えていても、今日は頭を包み、悪事を働きながら平気で振る舞う事が多いので、この遁世も同じようにこの先どうなることかと思っていましたが、ついに仏道に帰依する気持ちが冷めることなく、お亡くなりになられたことも有難いことでした。      (終り)

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