37 太平記 巻第三十七 (その二)


○身子声聞、一角仙人、志賀寺上人事
凡煩悩の根元を切り、迷者の絆を離るゝ事は、上古にも末代にも、能難有事にて侍るにや。昔天竺に身子と申ける声聞、仏果を証ぜん為に、六波羅蜜を行ひけるに、已に五波羅蜜を成就しぬ。檀波羅蜜を修するに至て、隣国より一人の婆羅門来て、財宝を乞に、倉の内の財、身の上の衣、残る所なく是を与ふ。次に眷属及居室を乞に皆与へつ。次に身の毛を乞に、一筋も不残抜て施けり。波羅門猶是に不飽足、「同は汝が眼を穿て、我に与へよ。」とぞ乞ける。身子両眼を穿て、盲目の身と成て、暗夜に迷が如ならん事、いかゞ在べきと悲ながら無力、此行の空くならん事を痛て、自ら二眼を抜て、婆羅門にぞ与へける。婆羅門二の眼を手に取て、「肉眼は被抜て後、涜き物成けり。我何の用にか可立。」とて、則地に抛て、蹂躙してぞ捨たりける。此時に身子、「人の五体の内には、眼にすぎたる物なし。是程用にもなき眼を乞取て、結句地に抛つる事の無念さよ。」と一念瞋恚の心を発しゝより、菩提の行を退しかば、さしも功を積たりし六波羅蜜の行一時に破れて、破戒の声聞とぞ成にける。又昔天竺の波羅奈国に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみけるを見て、婬欲の心ありければ、不覚して漏精したりける。其かゝれる草の葉を妻鹿食て子を生す。形は人にして額に一の角ありければ、見る人是を一角仙人とぞ申ける。修行功積て、神通殊にあらたなり。或時山路に降て、松のしづく苔の露、石岩滑なりけるに、此仙人谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人腹を立て、竜王があればこそ雨をも降らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。不如此竜王共を捕へて禁楼せんにはと思て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕へて、岩の中にぞ押篭ける。是より国土に雨を降すべき竜神なければ、春三月より夏の末に至るまで天下大に旱魃して、山田のさなへさながらに、取らで其侭枯にけり。君遥に民の愁を聞召して、「いかにしてか此一角仙人の通力を失て、竜神を岩の中より可出す。」と問給ふに、或智臣申けるは、「彼仙人縦ひ霞を喰ひ気を飲て、長生不老の道を得たり共、十二の観に於て未足所あればこそ、道にすべりて瞋る心は有つらめ。心未枯木死灰の如ならずは、色に耽り香に染む愛念などか無らんや。然らば三千の宮女の中に、容色殊に勝れたらんを、一人彼草庵の中へ被遣て、草の枕を並べ苔の筵を共にして、夜もすがら蘿洞の夢に契を結ばれば、などか彼通力を失はで候べき。」とぞ申ける。諸臣皆此儀に同じければ、則三千第一の后、扇陀女と申けるに、五百人の美人を副て、一角仙人の草庵の内へぞ被送ける。后はさしもいみじき玉の台を出て、見るに悲げなる草庵に立入給へば、苔もるしづく、袖の露、かはく間もなき御涙なれ共、勅なれば辞するに言ばなくして、十符のすがごもしき忍び、小鹿の角のつかの間に、千年を兼て契給ふ。仙人も岩木にあらざれば、あやなく后に思しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは不疑。夫仙道は露盤の気を嘗ても、婬欲に染ぬれば、仙の法皆尽て其験なし。されば此仙人も一度后に落されけるより、鯢桓の審も破れて通力もなく、金骨返て本の肉身と成しかば、仙人忽に病衰して、軈て空く成にけり。其後后は宮中へ立帰り、竜神は天に飛去て、風雨時に随しかば、農民東作を事とせり。其一角仙人は仏の因位なり。其婬女は耶輙陀羅女これなり。

☆ 身子声聞、一角仙人、志賀寺上人のこと

一般に煩悩の原因たるものを断ち切り、自分の進むべき道を迷わずに進むことなど、上古にもまた末代においてもあり得ないことでしょうか。昔、天竺(古代インド)に身子(しんし)と言う仏道修行者が、修行に集中して悟りを得ようと、六波羅蜜(ろくはらみつ::大乗仏教における六種の修行)を行い、

すでに五波羅蜜を成就しました。檀波羅蜜(だんはらみつ::六波羅蜜の一つ)の修行に入った時、隣国より一人の婆羅門(ばらもん::僧侶)がやって来ると、貴重な物品を求められ、倉の中にある財産や、身に着けている衣など残らず彼に与えました。すると今度は眷属(けんぞく::身内の者や家来など)と家屋を要求してきたので全て与えました。

次に体の毛を求められ、一本残らず抜いて与えました。婆羅門はこれでも飽き足らず、「そこまでしてくれるなら、汝の目をくりぬいて私に下さい」と、要求してきました。身子は両眼をくりぬいて盲目の身となれば、暗夜に迷うようなことになり、どうすれば良いのか悲しみながらも、

今行っている修行が無駄になることがつらいので、仕方なく自ら両眼をくりぬき、婆羅門に与えました。婆羅門は二つの目を手に取ると、「身体から取り出した眼球など汚いものだな。私に取って何の役に立つのか」と言って、すぐ地面に放り投げ踏みにじって捨て去りました。

この時身子は、「人間の五体の中で眼ほど大事なものはない。それほど役に立たない目を欲しがって手に入れておきながら、その挙句地面に放り投げるとはくやしい限りである」と、一瞬激しい怒りの気持ちを起こしたため、悟りの修行が中断することとなり、あれほど善行を積み上げてきた、

六波羅蜜の修行は一瞬に崩れ去り、身子は破戒(修行者の守るべき戒律を破ること)の僧となりました。また昔天竺の波羅奈国(はらなこく::古代インドにあった国)に一人の仙人がいました。小用を足している時、鹿が交尾するのを見て、性的欲望が起こり思わず精液を漏らしてしまいました。

その精液のかかった草の葉っぱを雌鹿が食べて子供が出来ました。姿形は人間ですが額に一本の角があるので、見る人はこれを一角仙人と呼びました。彼は修行、善行を積み重ねることによって、特別不思議な能力を手に入れたのです。ある時山道を下っている時、松から落ちるしずくや、

苔の露などで岩や石などが滑りやすくなっていたため、この仙人は谷に降りようとしてすべってしまい、地面に倒れ込みました。仙人は腹を立てて、竜王がいるから雨を降らせたのであり、雨が降ったから自分はすべって倒れたのだ。こうなりゃこの竜王どもを捕らえて閉じ込めておくに限ると考え、

国内外いたるところにいる大龍、小竜らを捕らえて、岩の中に押し込めました。このため国土に雨を降らすはずの竜神がいなくなり、春の三月から夏の末に至るまで、天下は大干ばつに見舞われ、山田の早苗はそのまま刈り取られることなく枯れてしまいました。国王は民衆の苦しみを耳にして、

「どうすれば一角仙人の神通力を削いで、竜神を岩の中から出せるのか」と問われると、一人の知恵ある臣下が、「かの仙人はたとえ霞を食べ、空気や水蒸気などを飲んで、長生不老の術を手にしているとしても、十二の観法(観無量寿経に説かれている十六種の観法の十二番目。物の真の姿をとらえようと思いを凝らすこと)において未だ修行の足らない所があったため、

道ですべって怒りを覚える心があったのでしょう。心が未だ煩悩や妄念に捕らわれているのであれば、色事にふけったり、色香に迷う愛欲の心がないとは言えないでしょう。それならば、三千人の宮中の女性の中で、容色が特に優れている者を一人彼の草庵(住居)に送り込み、草の枕を並べ、

苔の筵を共にして(夜具を共にする)、夜通し蘿洞(らとう::人里離れた所)の夢に契りを結んでいれば、どうして彼が神通力を失わずにおられるでしょうか」と、話されました。諸臣下も全員この意見に同意したので、すぐ後宮三千人中第一の女性、扇陀女(せんだにょ)を后として、五百人の美女を付き添わせ、一角仙人の草庵に送り込みました。

后はあれほど美しく素晴らしい御殿を出られて、見るからにわびしい粗末な草庵に入られ、苔に残るしずくなのか、また袖にかかる露なのか乾く間もないお涙でしたが、国王の命令とあれば断る言葉もなく、十符の菅薦(とふのすがごも::編み目を十筋にしてスゲで編んだむしろ)を敷くとつらさに耐えながら、

牡鹿の角が生え変わる程、短い間に千年の思いを込めて契りました。仙人も心を持たない岩や木ではないので、后の魅力に取りつかれ、言葉の端々に含まれていることが、自分にとって害あるものとは疑いませんでした。一般に仙人になるための修行では、露盤(ろはん::相輪を支える台)の気を嘗ても(意味不明)性的欲求にまみれてしまうので、

仙人としての神通力は皆失せてしまい、その効果は発揮できません。と言うことでこの一角仙人も、一旦后との愛欲におぼれてしまったので、鯢桓の審(げいかんのしん::鯨が集まるような水深の深い場所)も敗れて(他に超越していたものを失う?)神通力もなくなり、仙人としての優れた性格や運勢も、ただの人間に戻ってしまうと、

瞬く間に病に取りつかれ衰弱し、すぐに死んでしまわれました。その後后は宮中に帰り竜神は天に飛び去り、風や雨も随時発生したので、農民たちは農業にいそしみました。その一角仙人は修行中の仏でした。その淫乱な后とは耶輸陀羅(やしゅだら::釈迦が出家する前の妃)のことです。


又我朝には志賀寺の上人とて、行学勲修の聖才をはしけり。速に彼三界の火宅を出て、永く九品の浄刹に生んと願しかば、富貴の人を見ても、夢中の快楽と笑ひ、容色の妙なるに合ても、迷の前の著相を哀む。雲を隣の柴の庵、旦しばかりと住程に、手づから栽し庭の松も、秋風高く成にけり。或時上人草庵の中を立出て、手に一尋の杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつゝ、湖水波閑なるに向て、水想観を成て、心を澄して只一人立給たる処に、京極の御息所、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御帰ありけるが、御車の物見をあけられたるに、此上人御目を見合せ進せて、不覚心迷て魂うかれにけり。遥に御車の跡を見送て立たれ共、我思ひはや遣方も無りければ、柴の庵に立帰て、本尊に向奉りたれ共、観念の床の上には、妄想の化のみ立副て、称名の声の中には、たへかねたる大息のみぞつかれける。さても若慰むやと暮山の雲を詠ればいとゞ心もうき迷ひ、閑窓の月に嘯けば、忘ぬ思猶深し。今生の妄念遂に不離は、後生の障と成ぬべければ、我思の深き色を御息所に一端申て、心安く臨終をもせばやと思て、上人狐裘に鳩の杖をつき、泣々京極の御息所の御所へ参て、鞠のつぼの懸の本に、一日一夜ぞ立たりける。余の人は皆いかなる修行者乞食人やらんと、怪む事もなかりけるに、御息所御簾の内より遥に御覧ぜられて、是は如何様志賀の花見の帰るさに、目を見合せたりし聖にてやをはすらん。我故に迷はゞ、後世の罪誰が身の上にか可留。よそながら露許の言の葉に情をかけば、慰む心もこそあれと思召て、「上人是へ。」と被召ければ、はな/\とふるひて、中門の御簾の前に跪て、申出たる事もなく、さめ/\とぞ泣給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食ければ、雪の如くなる御手を、御簾の内より少し指出させ給ひたるに、上人御手に取付て、初春の初ねの今日の玉箒手に取からにゆらぐ玉の緒と読れければ、軈て御息所取あへず、極楽の玉の台の蓮葉に我をいざなへゆらぐ玉の緒とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固の聖人、久修練業の尊宿だにも、遂がたき発心修行の道なるに、家富若き人の浮世の紲を離れて、永く隠遁の身と成にける、左衛門佐入道の心の程こそ難有けれ。

また我が国には志賀寺の上人と言う修行と学問に卓抜した立派な僧侶がおられました。早くにあのような苦悩の絶えない人間界を離れて、いつまでも極楽浄土に生きていたいと願い、富貴な人を見ても、ただ夢の中での快楽に過ぎないと笑い捨て、容色の優れた人に会っても、色香に迷わせようと考えているのではと可哀そうに思いました。

粗末な家に仮住まいしながら、自ら植えた庭の松も高くなり秋風に吹かれています。ある時上人は草庵を出て、手に一尋(ひとひろ::約1.5m)ほどの杖を持ち、八の字のような白い眉をして、波静かな湖水に向かい、水の清らかなさまを見て極楽浄土に思いをはせながら、心を澄ましてただ一人で立っていました。

そこへ京極の御息所(藤原時平の娘、褒子)が志賀の花園で春の花見を楽しんでお帰りになられる所でしたが、お車の窓を開けられた時、この上人は彼女と目が合い、思わず心が乱れ魂も浮き立ちました。御息所のお車を遥か遠くまで見送り立ちすくんでいましたが、自分の思いはもうどうしようもなく、

粗末な家に戻り本尊に向かって、仏道に集中すべきにもかかわらず、彼女へのとらわれた思いが断ち切れず、念仏を唱える声はやがて大きなため息ばかりになりました。もしかすれば心も落ち着くのではないかと思い、暮なずむ山の雲を眺めてみても、却って心が迷うばかりで、

ひっそりとした窓から月に向かって詩の一節を吟じても、忘れることの出来ない思いは昂じるばかりです。現世においてこのような妄念に取りつかれているようでは、後生の障害になるのではと思い、自分の思いつめた心の一端でも御息所に伝えた上、心穏やかな往生を願って上人は、

狐の脇の下の白毛皮で作った皮衣を着て、握りに鳩の飾りがついた杖を手に、泣く泣く京極の御息所の御所に参り、蹴鞠を行う広場に植えられた木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる)の根元で、一日一夜を立ち続けました。見かけた人は皆、どういう修行者なのか、はたまた托鉢僧なのかと、

別に怪しむ風はありませんでしたが、御息所は御簾の内から遥かにご覧になり、この方は確か志賀へ花見に行った帰り、目の合った聖に違いないでしょう。私のせいで成仏できないようなことになれば、後世において誰がこの罪を受け取ってくれるのでしょうか。(この段?)それとなく思いやりのある言葉でもかければ、

慰めになるのではと思い、「上人よ、こちらへ」とお呼びになると、上人はわなわなと震えながら、中門の御簾の前にひざまずき、何ら言葉を発することもなくさめざめと泣かれました。御息所は偽りのない心の表れを可哀そうに感じ、また恐ろしくも思われて、雪のような白い手を御簾の内から少しばかり差し出されますと、

上人はそのお手を取られて、
      初春の 初ねの今日の 玉箒 手に取からに ゆらぐ玉の緒(大伴家持::新春の今日、玉箒を手にして掃くと花が揺れ、それが玉の緒のようです)

と詠まれると、すぐに御息所は、
      極楽の 玉の台(うてな)の 蓮葉に 我をいざなへ ゆらぐ玉の緒(極楽に私をお迎えください)

とご返歌を詠まれ、聖の心をお慰めされたのでした。このように仏道の修行に真剣に取り組んでいる聖人で、長年修行を修めた高徳な僧侶であっても、遂げることの難しい仏道修行に取り組み、家も裕福であり若いみそらに浮世との縁を断ち切って、遁世の身を永く通すことにした左衛門佐入道(斯波氏頼)のご決心はありがたいことでした。


○畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事
畠山入道々誓・舎弟尾張守義深・同式部大輔兄弟三人は、其勢五百余騎にて伊豆国に逃下り、三津・金山・修禅寺の三の城を構て楯篭りたりと聞へければ、鎌倉の左馬頭基氏先づ平一揆の勢三百余騎を被差向。其勢已に伊豆府に付て、近辺の庄園に兵粮を懸、人夫を駈立ける程に、葛山備中守と、平一揆と所領の事に就て闘諍を引出し、忽に軍をせんとぞひしめきける。畠山が手の者に、遊佐・神保・杉原此を聞て、あはれ弊に乗る処やと思ひければ、五百余騎を三手に分て、三月二十七日の夜半に、伊豆府へ逆寄にぞ寄せたりける。葛山は、平一揆の者共畠山と成合て、夜打に寄せたりと騒ぎ、平一揆は、葛山と引合て、畠山御方を打んとする物なりと心得て、共に心を置合ければ、矢の一をもはか/゛\しく不射出、寄手三万騎徒らに鎌倉を指て引退く。児女の嘲り理なり。左馬頭不安思ひければ、新田・田中を大将として、軈武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野・下野・上総・下総八箇国の勢、二十万余騎をぞ被向ける。畠山は此十余年左馬頭を妹聟に取て、栄耀門戸に余るのみならず、執事の職に居して天下を掌に握しかば、東八箇国の者共の、命に替らんと昵び近付けるを、我身の仁徳と心得て、何となく共我旗を挙たらんに、四五千騎も馳加らぬ事はあらじと憑しに、案に相違して余所の勢一騎も不付、結句一方の大将にもと憑し狩野介も降参しぬ。又其外相伝譜代の家人、厚恩異他郎従共も、日にそへ落失て今は戦ふべしとも覚へざりければ、大勢の重て向ふ由を聞て、二の城に火を懸て修禅寺の城へ引篭る。夢なる哉、昨日は海をはかりし大鵬の、九霄の雲に搏が如く、今日は轍に伏涸魚の、三升の水を求るに不異。「我身かゝるべしと知たらば、新田左兵衛佐を、枉て打つまじかりける物を。」と後悔せりといへり。早く報ひけるを、兼て不知こそ愚なれ。

☆ 畠山入道道誓が謀反を起こしたことと、楊国忠のこと

さて畠山入道道誓(国清)と舎弟の尾張守義深、同じく式部大輔の兄弟三人は、康安元年(正平十六年::1361年)に総勢五百余騎を率いて伊豆国に逃げ下り、三津城(沼津市)、金山城、修善寺城の三つの城を構築して立て篭もったと情報が入ったので、鎌倉の左馬頭足利基氏はまず平一揆(たいらいっき)の軍勢、

三百余騎を向かわせました。すでにそれらの軍勢は伊豆の国府に到着し、近隣の荘園に兵糧米の提供を命じ、作業員をかり集めている時、葛山(かつらやま)備中守と平一揆の間に所領の件で争いが起こり、皆が一ヶ所に集まり今まさに一戦に及びそうになりました。畠山の配下、遊佐(ゆさ)、神保(じんほ)

杉原らがこの状況を聞くと、ここは何としてもこの紛争に便乗しなければと思い、五百余騎の軍勢を三手に分け、康安二年(正平十七年::1362年)三月二十七日の夜半、逆に伊豆国府に押し寄せました。葛山は平一揆の者どもが、畠山と一緒になって夜討ちをかけてきたのではと騒ぎ立て、

また平一揆は平一揆で葛山備中守と一緒になった畠山が、我が軍を討とうと押し寄せてきたと理解し、お互い用心深くなりすぎ、矢の一本さえ思うように射ることが出来ず、寄せ手の三万騎は何することもなく鎌倉に向かって退却しました。女子供のやることだと馬鹿にされたのも当然でしょう。

左馬頭基氏は不安になり新田、田中を大将にして、武蔵、相模、伊豆、駿河、上野、下野、上総、下総の八ヶ国の軍勢、二十万余騎を向かわせました。畠山はここ十余年ばかり、左馬頭基氏を妹(清渓尼)の婿に取り、その栄華は一族に行きわたり、執事の職も手に入れると天下の権力も我がものとしたのです。

東八ヶ国の豪族らが命がけで仕えんと近づき寄って来るのを、自分自身に人徳があるからだと思い、特に理由はなくても自分が旗さえ上げれば、四、五千騎位が駆けつけてこないことなどあり得ないと信じ切っていたのに、予想は全く外れ他国からの軍勢は一騎も駆けつけて来ず、

その挙句一方の大将にと頼みにしていた狩野介も敵に降参してしまいました。またその外、先祖代々譜代として仕えてきた家来らも、日に日に落ちて行き今は戦闘意欲など全く感じられなくなり、その上攻撃軍が大挙寄せて来ると聞き、二つの城(三津城と金山城)に火をかけて修善寺城に引き篭もりました。

夢を見ているのでしょうか、昨日は海を翔ける大鵬(たいほう::古代中国の想像上の大鳥)が、九霄(きゅうしょう::天の高い所)にある雲を振り払いながら飛んでいたのに、今日は轍(わだち)にいる涸魚(かくぎょ::轍の中にいる魚の水が無くなった状態)が三升の水を求めているのと変わりありません。

「自分がこのような目に合うのが分かっていたなら、新田左兵衛佐義興を無理して討つことなどしなかったのに」と、後悔したと言われています。すぐ報いが来ることなのに、前もって分からないのも良くある話です。


抑畠山入道去去年東国の勢を催立て、南方へ発向したりし事の企を聞けば、只唐の楊国忠・安禄山が天威を仮て、後に世を奪はんと謀しに似たり。昔唐の玄宗位に即給ひし始、四海無事なりしかば、楽に誇り驕をつゝしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心にしめて、五雲の車に召れ、左右のをもと人に手を引かれ、殿上を幸して後宮三十六宮を廻り、三千人の后を御覧ずるに、玄献皇后・武淑妃二人に勝る容色も無りけり。君無限此二人の妃に思食移りて、春の花秋の月、いづれを捨べしとも思召さゞりしに、色ある者は必衰へ、光ある者は終に消ぬる憂世の習なれば、此二人の后無幾程共に御隠ありけり。玄宗余りに御歎有て、玉体も不穏しかば、大臣皆相許て、いづくにか前の皇后・淑妃に勝りて、君の御心をも慰め進すべき美人のあると、至らぬ隅もなくぞ尋ける。爰に弘農の楊玄■が女に、楊貴妃と云ふ美人あり。是は其母昼寝して、楊の陰にねたりけるに、枝より余る下露、婢子に落懸りて胎内に宿りしかば、更々人間の類にては不可有、只天人の化して此土に来物なるべし。紅顔翠黛は元来天の生せる質なれば、何ぞ必しも瓊粉金膏の仮なる色を事とせん。漢の李夫人を写し画工も、是を画かば遂に筆の不及事を怪み、巫山の神女を賦せし宋玉も、是を讃せば、自ら言の方に卑事を恥なん。其語るを聞ても迷ぬべし、況や其色を見ん人をや。加様にはりなく覚へし顔色なれば、時の王侯・貴人・公卿・大夫・媒妁を求め、婚礼を厚して、夫婦たらん事を望しか共、父母かつて不許。秘して深窓に有しかば、夭々たる桃花の暁の露を含で、墻より余る一枝の霞に匂へるが如く也。或人是を媒して、玄宗皇帝の連枝の宮、寧王の御方へ進せけるを、玄宗天威に誇て濫に高将軍を差遣して、道より奪取て後宮へぞ冊入奉ける。玄宗の叡感、寧王の御思、花開枝の一方は折てしぼめるに相似たり。されば月来前殿早、春入後宮遅と詩人も是を題せり。尋常の寒梅樹折て軍持に上れば、一段の清香人の心を感ぜしむ。民屋粛颯たるに衰楊柳移て宮苑にいれば、千尺の翠条、別に春風長かるべし。さらでだにたへに勝れたる容色の上に、金翠を荘り薫香を散ぜしかば、只歓喜園の花の陰に舎脂夫人の粧をなして、春に和せるに不異。一度君王に面をまみへしより、袖の中の珊瑚の玉、掌の上の芙蓉の花と、見る目もあやに御心迷ひしかば、暫其側を離れ給はず、昼は終日に輦を共にして、南内の花に酔を勧め、夜は通宵席を同して、西宮の月に宴をなし給ふ。玄宗余の柔なさに、世人の面に紅粉を施し、身に羅綺を帯たるは、皆仮なる嬋娟にて真の美質に非ず。同は楊貴妃の顕したる膚を見ばやと思召て、驪山宮の温泉に瑠璃の沙を敷き、玉の甃を滑にして、貴妃の御衣をぬぎ給へる貌を御覧ずるに、白く妙なる御はだへに、蘭膏の御湯を引かせければ、藍田日暖玉低涙、■嶺雪融梅吐香かとあやしまるゝ程也。牛車の宣旨を被て、宮中を出入せしかば、光彩の栄耀門戸に満て、服用は皆大長公主に均く、富貴甚天子王侯にも越たり。

そもそも畠山入道が延文四年(正平十四年::1359年)東国の軍勢を招集して、南朝攻撃のために鎌倉を発向した時の計画を聞いてみると、それはただ唐の楊国忠(ようこくちゅう::玄宗皇帝の権臣)と安禄山(あんろくざん::唐代の軍人)が皇帝の権威をかさにきて、将来天下を奪おうとした計略に似ています。

昔、唐の玄宗が皇帝の位に就かれた当初、国の内外は安定していましたので、快楽のみ追い求め、驕る気持ちを抑えようともしませんでしたから、浮ついた色欲ばかりが心を占めて、五色の雲を描いた天子用の車に乗られ、左右に仕える侍従に手を引いてもらい、宮殿内の奥向きの宮殿、三十六宮を廻られ、

三千人の妃をご覧になっても、玄献(げんけん)皇后、武淑妃(ぶしゅくひ)二人に勝る容色の女性はいませんでした。玄宗皇帝はこの二人の妃に心が奪われ、春の花かそれとも秋の月かと、どちらを選ぼうとか考えてもいなかったのですが、美しい女性でも必ず衰え、光輝く者も最後には消えるのが憂き世(無常であるこの世)の習いであれば、

この二人の妃もやがてお亡くなりになりました。玄宗のお嘆きは大変大きく体調もすぐれなかったので、大臣らは皆で相談し、どこかに前の皇后や淑妃に勝り、皇帝の御心を癒して頂けるような美人はいないかと、国内くまなく探し求めました。その結果、弘農(こうのう)郡にいる楊玄エン(王偏に炎::ようげんえん)の娘に楊貴妃と言う美女のいることがわかりました。

この女性は母が楊(やなぎ)の木の陰で昼寝している時、枝から滴る露が婢子(ひし::幼児の魔除けとして作られた人形?)にかかって胎内に宿ったので、全く人間であるはずがなく、ただ天上界に住む人が、人間の姿をしてこの地上に来られたのでしょう。血色の良い顔と美しい緑がかった眉は、元来天の技がなせる資質なので、

決して瓊粉(けいふん::玉のように美しいおしろい)や金膏(きんこう::黄金色の口紅)による仮の美しさではありません。漢国の武帝が愛した李夫人を描いた絵師でさえ、彼女を描こうとしてもとても描き切れないことを不思議に思い、また巫山(ふざん::中国四川省、湖北省の境近くの山)の天女を題材に詩を作った宋玉(そうぎょく::中国戦国時代末の文学者)であっても、

彼女を褒めたたえようにも、自分の言葉が貧弱なことに恥じました。彼女が話されるのを聞いても心が乱れるので、まして、その美しい姿を見た人はどうなるのでしょう。このようにはりなく覚えし(?)容貌なので、当時の王侯、貴人、公卿、大夫らが婚約の仲立ちを求め、婚礼の儀式に費用をかけてでも、

夫婦になることを望まれましたが、彼女の父母は今まで許すことはありませんでした。家の奥深くで育てられているので、その若々しく美しい容姿は、暁の露を含んだ桃の花が一枝、垣根の上にぼんやり見えるようなものです。ある人が彼女の仲立ちをして、玄宗皇帝の兄、寧王の后にお勧めしたのを、

玄宗が天子としての権力を用いて高将軍を向かわせ、無道にも途中で拉致すると勅命をもって後宮に入らせました。玄宗皇帝の得意満面の様子と、寧王のやりきれない思いは、花の咲いた枝の片方が折れて、しぼんでいるのと同じです。そこで月来前殿早、春入後宮遅(月[秋を表す]は前殿[後宮に対して表向きの殿舎]に早く来て、春は後宮に遅れて来る。?)と、

詩人もこれを題材にしました。普通の寒梅でも枝を折って花瓶に生ければ、一層清らかな香りが人の心を動かします。民家ではもの寂しく秋風の吹いているように枯れかかった柳でも、宮中の庭園に移植すれば、千尺もあるかと思える緑の細枝も、春の風に特別のんびりと揺れているようです。

ただでさえ他人に優れた美貌の持ち主であるのに、黄金やヒスイで飾り立て芳香を漂わせているので、この様子は全く歓喜園(かんぎおん::入ると自然に歓喜の心が生じるとされる天にある庭園)に咲く花の陰で、舎脂夫人(シャチーふじん::阿修羅の娘。帝釈天に誘拐凌辱された)の雰囲気を感じさせながら、媚びを振りまいているのに変わりません。

一度玄宗皇帝が彼女にお会いしてからは、袖の中にある珊瑚の玉か、はたまた手のひらの上にある芙蓉(ふよう::ハス)の花かと見まごうばかりに心が乱れてしまい、そのあげくしばしの間もそのお側を離れることなく、昼は終日輦輿(れんよ::輿の一種)に同乗して南内(なんだい::?)の花を見ながら酒を勧め、

夜は夜通し席を共にして西宮(せいきゅう::後宮の建物の名前)の月を愛でて酒宴を開かれました。玄宗は余りの美しさに世間の人が化粧をほどこし、華やかで美しい衣装を身にまとっているのは、すべてかりそめの美しさであり真の美しさではないだろう。いっそのこと楊貴妃の何もつけない肌を見ようと考え、

驪山宮(りざんきゅう::驪山にあった離宮)の温泉に瑠璃(るり::ガラスの古称)の沙(いさご::砂)を敷き詰め、滑らかな玉を石畳のように敷きならべ、楊貴妃が御衣をお脱ぎになる姿をご覧になると、言いようのない美しい白い肌に、蘭膏(らんこう::蘭の花を練り込んだ油でよい香りがする)を思わせる良い香りのお湯が流れる様は、

藍田(らんでん::陝西省にある山、美玉の産地)の日暖かく、玉低涙(?)、ゆ嶺(江西省と広東省との境にある山、梅の名所)雪とけて梅が香りを放つとは、このことかと思えるほどです。(?)牛車に乗車したまま内裏に参内することを皇帝から許されて、宮中に出入りしていると、光輝く栄華は一族に行きわたり、

身にまとう衣服は全て大長公主(今上皇帝の伯叔母)と同じものであり、その資産や身分は天子、王侯をはるかに凌ぐものでした。


此楊貴妃のせうとに、楊国忠と云者あり。元来家賎して、■畝の中に長となりしかば、才もなく芸もなく、文にも非ず武にも非ざりしか共、后の兄なりしかば、軈て大臣にぞなされける。此時に安禄山と云ける旧臣、権威爵禄共に楊国忠に被越て、不安思ひけれ共、すべき様なければ力不及。係る処に、天子色を重じて政を乱り、小人高位に登て国の弊を不知を見て、吐蕃の国々皆王命を背と聞へしかば、「誰をか打手に向べき。」と議せられけるに、楊国忠武威を恣にせん為に、大将の印を被授ば、罷向て輙く是を可静由を望申ける間、是に上将軍の宣旨をぞ被下ける。楊国忠則五十万騎の勢を卒して、大荒峯に陣を取る。夫大将となる人は、士卒の志を一にせん為に、士未食将不餐、士宿野将不張蓋。得一豆之飯与士喫、淋一樽之酒与兵飲とこそ申に、此楊国忠明れば旨酒に漬て、兵の飢たるを不知。暮れば美女に纏れて人の訴をも不聞入。只長時の楽にのみ誇り、軍の事をば忘ても不云けるこそ浅猿けれ。去程に兵疲れ将懈りて、進む勢無りければ、吐蕃の戎狄共二十万騎の勢を引て、逆寄にこそ寄たりけれ。大将は元来臆病なり、士卒の心を一にせざれば一戦も不戦、楊国忠が五十万騎、我先にと河を渡して、五日路まで逃たりければ、大荒の四方七千余里、吐蕃に随ひ靡きにけり。敵はさのみ追はざりしか共、楊国忠此にも猶たまり得ずして、都を差て引けるが、今度大将を申請て、発向したる甲斐もなく、一軍せで帰らん事、上聞其憚有ければ、御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲たる兵を一万人首を刎て、各鋒に貫き、是皆吐蕃の徒の頚なりと号して、都へぞ帰参りける。罪無して首を刎られたる兵共の親子兄弟幾千万、悲を含て声を呑み、家々に哭すといへ共、楊国忠が漏聞んずる事を恐て、奏し申人なければ、御方の兵一万人は、敵の頚となして獄門の木に懸られ、大荒の地千里は、打平げたる所と号して楊国忠にぞ被行ける。上乱れ下不背と云事なれば、挙世、只楊国忠を滅さんずる事をぞ計りける。安禄山、此比大荒の境に吐蕃を防がんとて居たりけるが、時至りぬと悦て、諸侯に約をなし、士卒に礼を深して、「楊国忠を打べしと、宣旨を給たり。」と披露して兵を催に、大荒にて楊国忠に打れたりし、一万人の兵共の親類兄弟大に悦て、我先にと馳集りける程に、安禄山が兵は程なく七十万騎に成にけり。

この楊貴妃の舅に楊国忠(ようこくちゅう)と言う者がいました。もともと実家は社会的地位も低く、貧しい田舎で成長したので、特に才能や技術も持たず、文芸も武術にも疎いのですが、后、楊貴妃の兄であることにより、やがて大臣になられました。この時、安禄山と言う旧臣が、権力や爵位また俸禄において楊国忠より上位にあるため、

不安を感じていましたが、何ら対処することなど出来ませんでした。そのような時、天子玄宗皇帝が色欲に溺れて政治がおろそかになり、その上、才能の乏しい人間が高位高官に上り、国が疲弊して行くのことに無頓着なことを知った、吐蕃(とばん::チベット地方)の国々は皆、玄宗皇帝の命令に従おうとはしないと聞き、

「誰かを討手として向かわさねば」と、会議が開かれました。すると楊国忠は武力を握って権力を思い通りにしたく考え、大将の資格を与えて頂ければすぐに向かい、簡単に敵を征伐いたしましょうと希望を申し上げたので、彼に全軍の総大将を命じる旨の宣旨が下されました。

楊国忠はすぐに五十万騎の軍勢を率いて、大荒峯に陣を構えました。本来なら大将になるような人は、将官や兵士の戦意をまとめるために、将官の食事が済むまで飲食はせず、将官が野営の済むまで宿営の用意はしません。一粒の豆を手に入れても、これを将官の食料として与え、またわずか一樽でも酒があれば、

兵士に飲ませるため与えると言うのにかかわらず、この楊国忠は朝になると美酒に酔いつぶれ、兵士が飢えていることに無関心でした。日が暮れると美女に囲まれて、人が裁決を求めて来ても聞こうとしませんでした。ただ長時間にわたる快楽に酔いしれ、軍事のことなどに無関心な態度は情けない話です。

そのうち兵士らは疲労が蓄積し、将官らも指揮統制の義務を怠けだしたため、進軍を続けようとする軍勢もいなくなると、吐蕃の戎狄(じゅうてき::辺境の民族の蔑称)らは二十万騎の軍勢を寄せ集め、逆に攻め寄せて来ました。楊国忠大将はもともと臆病者であり、士卒の戦意を一つにまとめることも出来ないので、

一戦さえ行うことなく楊国忠の軍勢、五十万騎は我先に河を渡り、五日間にわたって逃げ延びたので、大荒の周辺四方七千余里は、吐蕃の支配下に入り服従することになりました。敵はそれ以上の追撃はしませんでしたが、楊国忠は此処に駐留することも出来ず、都に向かって退却しましたが、

今回大将を自ら志願して発向したのにかかわらず、一戦さえすることなく帰るのは、さすがに帝への聞こえも悪いと考え、味方の兵士の中で、馬に乗らず武具も着けていない疲れ切った兵士ら一万人の首を刎ね、それぞれ切っ先に突き刺し、これらは全て吐蕃の賊徒らの首だと称して、都に帰られたのでした。

何ら罪もないのに首を刎ねられた兵士らの親子、兄弟など幾千万になるのか、悲しくはあっても声を出すことはなく、ただ各家々では大声を出して泣き悲しみましたが、楊国忠が耳にすることを恐れて、誰も真実を申し上げる人がいなかったので、味方の兵の一万人は、敵の首として獄門の木に架けられ、

大荒の土地、千里は、征伐した場所として楊国忠に与えられました。上層が乱れ切っていても、家臣として何も手を打とうともしないので、世をあげてただ楊国忠を滅ぼすべしと計画されました。この頃安禄山は大荒地帯で吐蕃の襲撃を防ぐため駐留していましたが、好機がやって来たと喜び、諸侯と同盟を結び、

将官や兵士らには充分な報酬を約束して、「楊国忠を討ち取れと、宣旨をいただきました」と発表し、兵の招集にかかったところ、大荒で楊国忠に討たれた一万人の兵士の親類、兄弟など大いに喜び、我先にと馳せ集まってきたので、しばらくすると安禄山の軍勢は七十万騎になりました。


則崔乾祐を右将軍とし子思明ら左将軍として都へ上るに、路次の民屋をも不煩、城郭をも不責、安禄山朝敵に成て長安へ責上とは、夢にも人思ひよらず。箪食瓠漿を持て、士卒の疲をぞ労りける。此勢既に都より七十里を隔たる潼関と云山に打あがりて、初て旗の手をおろし、時の声をぞ揚たりける。玄宗皇帝は、折節驪山宮に行幸成て、楊貴妃に霓裳羽衣の舞をまはせて、大梵高台の楽も是には過じと思召ける処に、潼関に馬烟をびたゝしく立て、漁陽より急を告る■鼓、雷の如くに打つゞけたり。探使度々馳帰て、安禄山が徒、崔乾祐・子思明等、百万騎にて寄たりと騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、哥舒翰に三十万騎を相副て、咸陽の南へ被差向。安禄山既に潼関の山に打挙りて、哥舒翰麓に馳向ひたれば、かさよりまつくだりに懸落されて、官軍十万余騎河水に溺て死にけり。哥舒翰僅に打なされて、一日猶長安に支て居たりけるが使を馳て、「幾度戦ふとも勝事を難得。急ぎ竜駕を被廻て蜀山へ落させ給ふべき。」由を申たりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未終に、玄宗皇帝と楊貴妃と、同く五雲の車に被召て都を落給へば、楊国忠を始として、諸王千官悉く歩跣なる有様にて、泣々大軍の跡に相順。哥舒翰長安の軍にも打負て鳳翔県へ落ければ、安禄山が兵、君を追懸進て、旗の手五十町計の跡に連りたり。竜駕既に馬嵬の坡を過させ給ひける時、供奉仕る官軍六万余騎、道を遮て君を通し進せず。「是は何事ぞ。」と御尋ありければ、兵皆戈をふせ地に跪て、「此乱俄に出来て天子宮闕を去せ給ふ事、偏に楊国忠が驕を極め罪なき人を切たりし故也。然れば楊国忠を官軍の中へ給て首を刎、天下の人の心を息め候べし。不然は縦禄山が鋒には死すとも、天子の竜駕をば通し進すまじ。」とぞ申ける。跡より敵は追懸たり。惜むとも不可叶と思召ければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ被仰ける。官軍大に喜て、楊国忠を馬より引落し、戈の先に指貫き、一同にどつとぞ笑ける。是を御覧じける楊貴妃の御心の中こそ悲けれ。角ても官軍猶あきたらざる気色ありて、竜駕を通し進せざりければ、「此上の憤り何事ぞ。」と尋らるゝに、兵皆、「后妃の徳たがはゞ四海の静る期あるべからず。褒■周の世を乱り、西施呉の国を傾し事、統■耳を不塞。君何ぞ思召知らざらん。早く楊貴妃に死を給らずは、臣等忠言の為に胸を裂て、蒼天に血を淋くべし。」とぞ申ける。

すぐに崔乾祐(さいけんゆう)を右将軍に命じ、史思明(ししめい::唐代の軍人)らを左将軍に命じて都に上りましたが、進軍途上で民家に迷惑をかけることもなく、城郭などの攻撃もせずに、安禄山が朝敵となって長安に攻め上って来るとは、人々にとって夢にも思い寄らないことでした。

将軍らは箪食瓠漿(たんしこしょう::竹の器に盛った飯と、壺に入れた飲み物)を持って士卒の疲労をいたわりました。この軍勢が早くも都より七十里ほど離れた潼関(どうかん::陝西省)と言う山に上ると初めて旗の手を下し、鬨の声をあげました。玄宗皇帝はその時、驪山宮に行幸されて、楊貴妃に霓裳羽衣(げいしょううい::舞曲の名)の舞を舞わせていました。

大梵高台(だいぼんこうだい::きらびやかで美しい宮殿のたとえ)の楽しみもこれほどではないだろうと思っていたところ、潼関近辺におびただしい馬煙(うまけむり::馬の立てるすなぼこり)が立ち上がり、漁陽(ぎょよう::現在の北京市周辺)から急を告げるヘイ(鼓の下に卑)(へいこ::馬上で打ち鳴らす攻め太鼓)が、雷鳴のように打ち続けられました。

偵察隊が何度か馳せ帰ってくるたび、安禄山の軍勢、崔乾祐、史思明らが百万騎で攻め寄せて来ると騒ぎ立てるので、「事の実態を調べて来い」と言って、哥舒翰(かじょかん::唐の将軍)に三十万騎の軍勢を与えて、咸陽(かんよう::陝西省)の南方に向かわせました。安禄山はすでに潼関の山に上っており、

哥舒翰は麓に到着したものの、高所からの攻撃に蹴落とされ、官軍の十万余騎は河に追い落とされて溺れ死んだのでした。哥舒翰は軍勢も残り少なくなるまで戦い、なお一日は長安で防御に努めましたが使者を派遣し、「幾度にもわたって戦ったものの勝利を得ることが出来ません。

至急お車を用意して蜀山(しょくざん::四川省)に落ちられるが良いでしょう」と、非常事態の報告をさせたので、あれほど楽しんでいた霓裳羽衣の舞も、未だ終わらないのに玄宗皇帝と楊貴妃は、同じ五雲の車(五色の雲を描いた天子用の車)にお乗りになって都を落ちられると、楊国忠をはじめに諸王や千官(多数の役人)らは全員徒歩で裸足になり、

泣きたい気持ちで大軍の後に続きました。哥舒翰は長安での合戦にも負けて、鳳翔県(ほうしょうけん::陝西省)に落ちたので、安禄山の兵士らは皇帝の追撃にかかり、一行の五十町(約5.5Km)ほど後方を進んでいました。天子のお車がすでに馬嵬(ばかい::陝西省)の堤を通過されている時、

お供をしていた官軍の六万余騎が、街道を閉鎖して皇帝の通行を阻止しました。「一体どう言う訳だ」と尋ねられると、兵士らは皆、手にした矛(ほこ::武器、両刃の剣)を下に向けてひざまずき、「このような兵乱が突然発生し、天子が皇居をお出にならざるを得なくなったのは、楊国忠が驕慢な行動を続け、

罪のない人たちを切ったことが原因の全てです。そこで楊国忠を官軍に引き渡して頂き、首を刎ねて天下の民衆の気持ちを和らげましょう。お聞き入れがかなわなければ、たとえ安禄山の刃に倒れようとも、天子のお車はお通しいたしません」と、申し上げたのです。後方より敵が追いかけてくる中、

残念なことだとは思いながらやむを得ず、「即刻、楊国忠に死罪を申し付ける」と、仰せられたのでした。官軍らは大喜びし楊国忠を馬から引き落とし、矛の先に刺し貫くと一同はドッと笑いました。この様子をご覧になっていた楊貴妃の心中は、どれほど悲しかったでしょうか。

官軍はこれだけではまだ飽き足らない様子でまだ車を通そうとはしないので、「この上何に文句があるのだ」と、尋ねられると、兵士らは皆、「后妃の品性、人徳に問題があれば、天下の安定など期待できるものではありません。褒ジ(ほうじ::女偏に以)は周の世を乱し、西施(せいし)が呉の国を傾けた事など、統コウ耳を塞がず(?)

帝が御存じでないことなどあり得ません。早く楊貴妃に死を与えなければ、臣下は忠告の言葉に殉じて胸を切り裂き、青空に血を注ぐことになるでしょう」と、申し上げました。


玄宗是を聞食て遁まじき程を思召ければ、兔角の御言にも不及、御胸もふさがりて、御心消て鳳輦の中に倒れ伏させ給ふ。霞の袖を覆へ共、荒き風には散る花の、かくるゝ方も無るべきに、楊貴妃さてもや遁るゝと、君の御衣の下へ御身を側めて隠れさせ給へば、天子自御貌を胸にかきよせて、「先朕を失て後彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、指も忿れる武士共も皆戈を捨て地に倒る。其中に邪見放逸なる戎の有けるが、「角ては不可叶。」とて、玉体に取付せ給ひたる楊貴妃の御手を引放て、轅の下へ引落し奉り、軈て馬の蹄にぞ懸たりける。玉の鈿地に乱て、行人道を過やらず。雪の膚泥にまみれて、見人袖をほしかねたり。玄宗は無力して、御貌をも擡させ給はず、臥沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様を、まのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶ぬ玉の緒の、長き恨とは成にけれ。其後に二陣の兵ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀へ落著せ給ひけり。則回■十万騎の勢を卒して馳参る。厳武・哥舒翰又国々の兵催立て、五十万騎蜀の行在へぞ参りける。安禄山が勢は、始楊国忠を打んとする由を聞てこそ、我も我もと馳集りしか、今の如は只天下を奪んとする者なりけりとて、兵多く落失ける間、安禄山が栄花、たゞ春一時の夢とぞ見へたりける。加様に都の敵は日々に減じ、蜀の官軍は国々より参りけれ共、玄宗皇帝は、楊貴妃の事に思沈ませ給ひて、万機の政にも御心を不被懸、只死しても生れ合べくは、いきて命も何かせんと、思召外は他事もなし。厳武・哥舒翰・回■等、角ては叶まじと思ければ、玄宗皇帝の第二の御子粛宗の、鳳翔県と云所に隠てをはしけるを、天子と仰奉て四海に宣旨を下し、諸国の兵を催て、八十万騎先長安へぞ寄たりける。安禄山、崔乾祐・子思明を大将にて、是も八十万騎長安に馳向ふ。両陣相挑未戦処に、祖廟の神霊百万騎の兵に化し、黄なる旗を差て、哥舒翰が勢に加り、崔乾祐と戦ける間、安禄山が兵共に破れ立て、一時に皆亡にけり。朝敵忽に被誅て、洛陽則静りければ、粛宗位を辞して、又玄宗を位に即奉らん為に、官軍皆蜀へ御迎にぞ参りける。玄宗はかく天下の程なく静りぬるに付ても、只楊貴妃の世にをはせぬ事のみ思召て、再び天子の位を践せ給はん事も、御本意ならねども、馬嵬の昔の跡をも御覧ぜばやと、思食す御心に急がれて、軈て遷幸の儀則を促されける。馬嵬の道の辺に鳳輦を留られて、是ぞ去年の秋楊貴妃の武士に被殺て、はかなく成し跡よとて御覧ずれば、長堤の柳の風にしなへるも、枕に懸りしねみだれ髪の、朝の面影御泪に浮び、池塘の草の露にしほれたるも、落て地に乱けん玉の鈿、角やと思食知られて、いとゞ御心を悩まされ、うかれて迷ふ其魄の跡までも猶なつかしければ、只日暮夜明れ共、此にて思消ばやと思食けれ共、翠花揺々として東に帰れば、爰をさへ亦別ぬる事よと、御涙更に塞あへず、遥に跡を顧させ給ふに、蜀江水緑蜀山青、聖主朝々暮々情譬へて云はん方もなし。

玄宗はこの申し入れをお聞きになり、もはや逃れることは出来ないと思われて一言も仰せられず、やりきれない感情に心も打ちひしがれ、お車の中に倒れ込むとそのまま伏せられたのです。霞のように頼りない袖で覆っても、吹き荒れる風に散らされる花を隠すことなど出来ないのに、楊貴妃はもしかして逃れることが出来るのではと、

帝のお着物の下に身を横にして隠れようとされると、玄宗皇帝は自らお顔を胸にかき寄せ、「まずわしを殺し、それから彼女を殺せ」と、血を吐くように仰せられると、あれほど怒り狂っていた武士らも、皆矛を捨てて地に倒れ込みました。その兵士の中に人の感情など全く無視する野蛮な人間がいましたが、

「こうなっては止むを得ない」と言って、帝のお体に取りすがっている楊貴妃のお手を引っ張り、轅(ながえ::牛車などの前方に突き出ている二本の棒)の下に引きずり落とされると、すぐに馬の蹄で踏み殺されました。玉の飾りがついたかんざしは地にまみれ、道行く人も思わず立ち止まります。

雪のような白い肌は泥まみれになり、見る人は袖の乾くことなどありませんでした。玄宗は全身から力が抜けて、お顔を持ち上げることもせず伏せられていたので、彼女の死に際の御様子をご覧にならなかったことは、簡単に絶えることのない命(玉の緒)にとっては、いつまでも心のしこりになりました。

このあと、後方の部隊が防ぎ矢を放ち、前方の帝が乗られた車を急がせたので、やがて蜀に逃げ落ちることが出来ました。すぐに回キツが十万騎の軍勢を率いて駆けつけて来ました。厳武(げんぶ::唐代の官僚)と哥舒翰は再び国内の兵士らを招集すると、五十万騎で蜀にある帝のおられる皇居に参りました。

安禄山の軍勢は当初楊国忠を討ち取るのが蜂起の理由だと言われていたので、我も我もと駆け集まって来ましたが、今はただ天下を奪おうとする者になったと、多数の兵士が落ちて行ったので、安禄山の飛ぶ鳥落とす勢いは、ただ春のつかの間の夢になったように見えました。このように都の敵は日々減じて行き、

蜀の官軍には国々から次々と参集して来ましたが、玄宗皇帝は楊貴妃のことで気分が落ち込んでいたため、政治のことは何事にも判断を下すこともなく、ただ死んでも同じ世に生まれるのなら、今生きている命で何をするのだとか考えるばかりで、他のことには全く関心を持とうとしませんでした。

厳武、哥舒翰、回キツらはこの様子では手の打ちようがないと考え、玄宗皇帝の第二皇子、粛宗(しゅくそう)が鳳翔県と言う場所に隠れていましたが、天子に迎えると国内に宣旨を下して、諸国の兵士らを招集し八十万騎でまず長安に押し寄せました。安禄山は崔乾祐と史思明を大将に命じて、

こちらも八十万騎で長安に馳せ向かいました。両軍が睨みあったものの未だ戦闘が始まる前に、先祖の霊を護っている神々が百万騎の軍兵に姿を変え、黄色の旗をさして哥舒翰の軍勢に加わり、崔乾祐と戦った結果、安禄山の軍勢と共に一時に全滅しました。このように朝敵は瞬く間に征伐され、

洛陽はすぐ鎮静化したので粛宗は皇帝を辞し、再び玄宗を皇帝に即位していただくため、官軍は皆、蜀へお迎えに行きました。玄宗はこのように天下が鎮まっても、楊貴妃がこの世にいないことばかりが頭を占め、再び天子の位に就くことは本意ではありませんが、馬嵬で起こった昔の痕跡も見たいとの思いにかられ、

すぐに行幸の準備を急がせました。馬嵬の街道沿いに鳳輦(ほうれん::天子用の輿)を停められ、この場所こそ昨年の秋、楊貴妃が武士に殺され、はかなくなった跡だとご覧になれば、長く続く堤の柳が風に揺れているのも、枕に寝乱れた髪が覆っているような朝の面影がお目に浮かび、

池の堤で草が露にしおれているのを見ても、地に落ちて乱れた玉のかんざしも、このようなものだったろうと思えば、また心が痛みます。落ち着くことなく未だ成仏も疑わしいその霊魂さえなつかしさを覚え、日が暮れ、夜が明ければ、ここにて思いを断ち切って忘れようと思いましたが、翠花(すいか::天子の旗)を揺らしながら東に帰られると、

この場所でさえ別れを告げなければ涙はとまることもなく、はるか後方に目をやれば、蜀の河は水緑にして、蜀山青し。これを玄宗皇帝が毎朝毎夕の心情にたとえて言わない人はいませんでした。


日を経て長安に遷幸成て、楊貴妃の昔の住玉ひし驪山の華清宮の荒たる跡を御覧ずるに、楼台池苑皆依旧。太掖芙蓉未央柳、芙蓉如面柳如眉。君王対此争無涙。春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時、西宮南苑多秋草、宮葉満階紅不掃。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴断腸声、夕殿蛍飛思消然。孤灯挑尽未成眠、遅々鐘皷初長夜、耿々星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜花重。翡翠衾寒誰与共。物ごとに堪ぬ御悲のみ深く成行ければ、今は四海の安危をも叡慮に懸られず、御位をさへ粛宗皇帝に奉譲、玄宗はたゞいつとなく御涙にしほれて、仙院の故宮にぞ御座ける。爰に臨■の道士楊通幽、玄宗の宮に参て、「臣は神仙の道を得たり。遥に君王展転の御思を知れり。楊貴妃のをはする所を尋て帰参らん。」と申ければ、玄宗無限叡感有て、則高官を授て大禄を与へ給ふ。方士則天に登り地に入て、上は碧落を極め、下は黄泉の底まで尋求るに、楊貴妃更にをはしまさず。遥に飛去て、天海万里の波涛を凌ぐに、あはい七万里を隔てゝ、蓬莱・方丈・瀛州の三の島あり。一の亀是を戴けり。中に五城峙て、十二の楼閣あり。其宮門に金字の額あり。立寄て是を見れば、玉妃太真院とぞ書たりける。楊貴妃さて此中に御坐けりとうれしく思て、門をあらゝらかに敲ければ、内より双鬟の童女出て、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。」と問に、方士手を歛て、「是は漢家の天子の御使に、方士と申者にて候が、楊貴妃の是に御坐あると承て、尋参て候。」と答申ければ、双鬟の童女、「楊貴妃は未をうとのごもりて候。此由を申て帰侍らん。」とて、玉の扉を押たてゝ内へ入ぬ。方士門の傍に立て、今や出ると是を待に、雲海沈々洞天に日晩ぬ。瓊戸重り閉て、悄然として無声。良有て双鬟の童女出て、方士を内へいざない入る。方士手を揖して、金闕の玉の廂に跪く。時に玉妃夢さめて、枕を推のけて起き給ふ。雲鬢刷はずして、羅綺にだも堪ざる体、譬て言に比類なし。左右侍児七八人、皆金蓮を冠にし、鳳■を著して相随ふ。五雲飄々として、玉妃玉堂より出給ふ。雲頭艶々として、暁月の海を出るに不異。方士泪を押て、君王展転の御思を語るに、玉妃つく/゛\と聞給ひて、含情凝睇謝君王。一別音容両渺茫。昭陽殿裡恩愛絶、蓬莱宮中日月長となん恨給ひて、中々御言葉もなければ、玉容寂寞涙欄干たり。只梨花一枝春帯雨如し。将方士帰去なんとするに及て、「玉妃の御信を給候へ。尋奉る験に献ぜん。」と申ければ、玉妃手づから玉の鈿を半擘て方士にたぶ。方士鈿を給て、「是は尋常世にある物也。何ぞ是を以て験とするに足らんや。願は玉妃君王に侍し時、人の曾て不知事あらば、其を承て験とせん。不然は臣忽に新垣平が詐を負て、身斧鉞の罪に当ん事を恐る。」と申ければ、玉妃重て宣く、「我七月七日長生殿夜半無人上の傍に侍りし時、牽牛織女の絶ぬ契を羨て、「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。」と誓き。是は君王と我とのみ知れり。是を以て験とすべし。」とて泣々玉台を登り給へば、音楽雲に隔り、団扇大に隠て、夕陽の影の裏に漸々として消去ぬ。方士鈿の半と言の信とを受て宮闕に帰参、具に此を奏するに、玄宗思に堪兼て、伏沈せ給けるが、其年の夏未央宮の前殿にして、遂に崩御なりにけり。一念五百生繋念無量劫といへり。況や知ぬ世までの御契浅からざりしかば、死此生彼、天上人間禽獣魚虫に生を替て、愛著の迷を離れ給はじと、罪深き御契なり。抑天宝の末の世の乱、只安禄山・楊国忠が天威を仮て、功に誇り人を猜し故なり。今関東の軍、道誓が隠謀より事起て、傾廃古に相似たり。天驕を悪み欠盈。譴脱るゝ処なければ、道誓の運命も憑みがたしとぞ見へたりける。

日も過ぎて皇帝は長安に還幸され、楊貴妃が昔住まわれていた驪山の華清宮(かせいきゅう::唐代に造られた離宮)の荒れ果てた姿をご覧になると、楼台池苑皆依旧(建物や池、庭は全て昔のままである)。太液(たいえき)芙蓉未央柳(太液池のハス、未央宮の柳)、芙蓉如面柳如眉(ハスの花は楊貴妃の顔のように、柳は眉のようである)

君主対此争無涙(玄宗皇帝はこのことに対して、いささかの涙も見せません)。春風桃李花開日(春の風に桃やスモモの花が開く日)、秋霜梧桐落時(秋の霜にアオギリの葉が落ちる時)、西宮南苑多秋草(西の宮殿や南の庭園には秋草が茂り)、宮葉満階紅不掃(落ち葉が階段に満ちても掃く人もいません)。行宮見月傷心色(仮の宮殿で月を見れば心が痛み)

夜雨聞鈴断腸声(雨の夜に鈴の音を聞けば断腸の思いがします)、夕殿蛍飛思消然(夕方の宮殿に蛍が飛べば、気分は落ち込むばかりです)。孤灯挑尽未成眠(一つしかない灯をかきたてても、まだ眠ることが出来ず)、遅々鐘皷初長夜(時を告げる鐘の音はゆっくりで、初めて夜の長さを知ります)、耿耿星河欲曙天(光輝く天の川、今、夜は明けようとしている)

鴛鴦瓦冷霜花重(オシドリをかたどった瓦は冷ややかで、霜の花が降りています)。翡翠衾寒誰与共(カワセミの柄の寝具は寒々として、共に眠る人はいません)(以上長恨歌の一部 )何かにつけて耐えられない程の悲しみばかりが増して行くので、今はもう国家の安否など考える余裕もなく、帝の位さえ粛宗皇帝に譲位され、

玄宗はいつまでも泣きの涙で、退位した皇帝用の宮殿におられました。その頃、臨コウ(エ偏にオオザト::四川省あたり)の楊通幽(ようつうゆう)と言う道士(どうし::神通力の所持者?)が玄宗の宮殿に参内し、「臣は神通力を手に入れることが出来ました。遠くより君主の御心が悶々とされているのを知りました。

楊貴妃のおられる場所を探してきましょう」と申し上げたので、玄宗はこの上なく喜ばれ、すぐに高官に採用し、高額な俸禄を与えられました。方士(ほうし::神仙の術を得た者。楊通幽のこと)は早速天に登ったり地中に入ったりして、上は大空の遥までを捜索し、下は冥途の底まで探索したものの、楊貴妃の姿は全く見つかりませんでした。

天の海を万里にわたって荒波を乗り越えて行くと、距離にして七万里を隔てたところに、蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう::日本の雅称とも)と言う三つの島がありました。一の亀(霊亀と言う怪物の一種で、蓬莱山を背負った巨大な亀)がこの島を背負っています。中には五つの城がそびえ、十二の楼閣が建っています。

その宮殿の門には金字で書かれた額があります。立ち寄って見ると、玉妃太真院(ぎょくひたいしんいん)と書かれていました。さては楊貴妃はこの中におられるのではないかとうれしくなり、門を激しく叩いたところ、中から双鬟(そうかん::髪型の一種、あげまき)に結った童女が出て来て、「貴方はどこから来られて、

どなたをお尋ねですか」と問われ、方士は手を元に戻し、「私は漢家(かんか::漢国の帝室)の天子から派遣された使いで、方士と言う者ですが、楊貴妃がここにおられるとお聞きしたので、尋ねて来たのです」とお答えすると、あげまき(総角::頭髪を中央で二つに分け、耳の上で輪の形に束ねて結ったもの)に結った童女は、

「楊貴妃はまだお休みになっておられます。ご訪問の件を申し上げてきましょう」と言って、美しい扉を押し開けて中に入りました。方士が門の傍に立って今や出て来られるかと待っている内に、仙人が住むと言うこの島は、果てしない雲海の中に夜は更けて行きました。美しい扉は相変わらず重なるように閉じたままで、

ひっそりと静まり返っています。しばらくすると、あげまきの童女が出て来て、方士を中に誘い入れました。方士は手を胸の前に組み礼をすると、皇居の玉の様に美しいひさしにひざまずきました。丁度その時王妃は夢から覚められ、枕を押しのけて起きられました。美しい王妃は特に身なりを整え装わなくても、

その優美な美しさはたとえようのないものでした。左右に控えているお付きの女児七、八人は皆、黄金のハスを冠にして鳳セキ(?)を身に着けて従っています。五色の雲をひらひらとさせながら、王妃は美しい宮殿からお出ましになられました。雲をキラキラと輝かせながら、明け方の月が海から出て来る様と変わりません。

方士は涙を押さえながら、君主の悶々としたお気持ちを話されると、美しい王妃はしみじみとお聞きになられ、思いのこもった眼差しで、君王に対して感謝の言葉を述べられました。あの日の別れ以来、お声を聞くこともなく、お姿を拝見することもなくなり、全て遠い昔の話となりました。昭陽殿で賜ったご寵愛も絶えてしまい、

ここ蓬莱宮で過ごした年月が長くなりましたと、恨みをにじませ、そのあとは言葉も続かず、美しい容貌は寂しげで、ただ涙があふれるばかりです。その有様はただ春の雨に濡れている、一枝の梨の花に見えます。今まさに辞去しようとした時方士は、「何か玉妃の形見となるものを頂きたく思います。

ここへ尋ねてきたことのしるしとして君主に献じましょう」と申し上げると、玉妃は自ら玉のかんざしを半分に分け、方士に与えました。方士はかんざしを受け取りましたが、「これは普通に世の中にあるものです。これを証拠とするには少し無理があります。出来れば玉妃が君王のそばにおられた時に、

他の人が全く知らないことなどがあれば、そのことを聞いて帰り証拠としましょう。そうでなければ、私は新垣平(しんえんぺい::趙国の人物。前漢の文帝に虚偽の報告を行った)のように嘘の報告を行ったとされ、私に重い刑罰が科せられることを恐れます」と申し上げると、玉妃は重ねて、「私が七月七日、長生殿において夜半誰もいない時、

皇帝のお側にいましたが、牽牛織女の絶えることのない契りの強さが羨ましくて、『在天願作比翼鳥(天にあっては願わくば比翼の鳥=”夫婦仲の良いたとえ”となり)、在地願為連理枝(地にあっては願わくば連理の枝=”夫婦仲の良いたとえ”となりましょう)』と、お誓いしました。このことは君王と私しか知らないことです。

この話を証拠にされれば良いでしょう」と話され、泣きながら美しい楼台を登られると、音楽が雲の向こうに聞こえ、従者のさしかける柄の長いうちわ様のさしはにその姿を隠し、夕陽を受けながら次第次第に消え去ったのでした。方士はかんざしの片割れと言う形見を貰い受けて皇居にお帰りになり、

これまでのいきさつを事細かく申し上げると、玄宗は胸が一杯になって倒れるように伏せられ、その年の夏、未王宮(びおうきゅう)の前殿(殿舎の一つ)において、ついに御逝去されたのです。一念五百生繋念無量劫(一瞬の執着であっても、永劫にその思いを引きずることになる)と言います。それでなくても、

この先の先までの固い誓いで結ばれている上、ここに死に、彼の所に生まれるとかの決まりなどないので、天上界か人間界、はたまた鳥や獣なのか、それとも魚か虫に生まれ変わっても、いつまでもくすぶり続けると言う罪深い誓いです。そもそも天宝(唐、742-756年)の末に起こった世の乱れ(安史の乱)は、

ただ安禄山と楊国忠が玄宗皇帝の権威を利用して、功績を競って自慢をしたり、人をだましたりしたのがその原因です。現在関東に起こっている兵乱も、畠山道誓(国清)の陰謀がその原因であり、昔の国家滅亡の推移と似ているところがあります。天は思い上がった振る舞いに罰を下します。彼に正当な弁明理由がなければ、

道誓の運命も頼りない状況にあるように見えます。     (終り)

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