38 太平記 巻第三十八 (その一)


○彗星客星事付湖水乾事
康安二年二月に、都には彗星・客星同時に出たりとて、天文博士共内裏へ召れて吉凶を占ひ申けり。「客星は用明天皇御宇に、守屋仏法を亡さんとせし時、始て見へたりけるより、今に至るまで十四箇度、其内二度は祥瑞にて、十二度は大凶也。彗星は皇極天王の御宇に、豊浦大臣の子、蘇我入鹿が乱を起して、中臣大兄皇子並中臣鎌子と合戦をしたりし時、始て此星出たりしより、今に至迄八十六箇度、一度も未災難ならずと云事なし。尤天下の御慎にて候べし。」と、博士一同に勘申ければ、諸臣皆色を失て、「さればよ、此乱世の上には、げにも世界国土が金輪際の底へ落入か、不然は異国の蒙古寄来て、日本国を打取かにてこそあらめ。さる事有まじき世共不覚。」と、面々に申合れけり。誠に天地人の三災同時に出来ぬと覚て、去年の七月より日々に二三度の地震も未休、又今年の六月より同十一月の始まで旱魃して、五穀も不登、草木も枯萎しかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥に吻のみならず、人民共の飢死ぬる事、所々に数を不知。此時近江の湖も三丈六尺干たりけるに、様々の不思議あり。白髭の明神の前にて、奥に二人して抱許なる桧木の柱を、あはひ一丈八尺づゝ立双べて、二町余に渡せる橋見へたり。「古人の語り伝たる事もなし、古き記録にも不載。是は何様竜宮城の道にてぞ有覧。」と云沙汰して、見る人日々に群集せり。又竹生島より箕浦まで水の上三里、入譱瑙なる切石を広さ二丈許に平に畳連ねて、二河白道も角やと覚たる道一通顕出たり。是も如何様竜神の通路にてぞ有らんとて、蹈では渡る人なし。只傍の浦に船を浮て見る人如市也。此湖七度まで桑原に変ぜしを我見たりと、白髭明神、大宮権現に向て被仰けると云古の物語あれば、左様の桑原にやならんずらんと見る人奇み思へり。天地の変は既に如此、人事の変又さこそあらんずらめと思処に、国々より早馬を打て、宮方蜂起したりと、告る事曾て休時なし。

☆ 彗星や客星のことと湖水が干上がったこと

康安二年(正平十七年::1362年)二月に都では彗星と客星(かくせい::常には見えないが一時的に現れる星)が同時に現れたと言うことで、天文博士らが内裏に呼ばれ、吉凶を占いました。その結果、「客星は用明天皇の御代(585年?-587年?)に、物部守屋(もののべのもりや::古墳時代の豪族)が仏教を滅ぼそうとした時に初めて見えて以来、

今まで十四回現れ、そのうち二回は縁起の良い前兆であり、十二回は大凶でした。また彗星は皇極天皇の御代(こうぎょくてんのう::642-645年)に豊浦大臣(とよらのおおおみ)の子、蘇我入鹿(そがのいるか)が乱を起こし、中臣大兄皇子(なかとみのおおえのおうじ)と中臣鎌子(なかとみのかまこ::飛鳥時代の豪族)を相手に合戦をした時に、

初めてこの星が出現してから、今に至るまで八十六回現れていますが、ただの一度も無事だったと言うことはありません。ここは当然天下一同、万事に注意を払う必要があります」と博士ら全員が検討の結果を申し上げたので、諸臣全員顔色が変わり、「それでは、今のこの乱世であれば、

やはり世界国土は金輪際(こんりんざい::大地の最下底のところ)の底まで落ちて行くのか、それでなければ、異国の蒙古が攻め寄せて来て、日本国を占領することになるのだろうか。そのようなことが起こらない世とも考えられない」と、各自が見解を共有しました。確かに天地人の三つの災難が同時に発生したと考えられ

、昨年、康安元年(正平十六年::1361年)の七月より毎日二、三度起こる地震も未だ収まることなく、また今年、康安二年(正平十七年::1362年)の六月より十一月の初めまで旱魃(かんばつ::ひでり)が起こり、五穀(ごこく::五種類の穀物。普通、米、麦、粟、きび、豆をいう)も実らず、草木も枯れ果ててしまったので、鳥はねぐらを失い、

魚が泥にまみれてアプアプするだけでなく、民衆らが飢え死にすることも、ここかしこで起こりその数さえ分かりません。この時近江の湖(琵琶湖)も三丈六尺(約11m)が干上がったために、様々な想像を絶することがありました。白髭明神(しらひげみょうじん::高島市)の前には、沖合に二人して抱きかかえる程の檜の柱が、

一丈八尺(約5.5m)の間隔をおいて立ち並び、二町(約200m)余りを渡した橋が見えました。「この橋については、古人から語り伝えられたことでもなければ、古い記録にも載ってはいません。これは間違いなく竜宮城への道に違いない」と結論付けたりしたので、見物の人々が毎日押し寄せました。

また竹生島(ちくぶじま)より箕浦(みのうら)までの水上三里に入譱瑙(?美しいメノウなのか)を切り出した石が、幅二丈(約6m)ほどで平らに敷き並べられ、二河白道(にがびゃくどう::極楽浄土に往生したいと願う人の、入信から往生に至る道筋をたとえたもの)もこのようなものであろうと思われる道が一筋現れ出ました。

これもまた間違いなく竜神の通る道だろうと、誰も歩いて渡りませんでした。ただ付近の浜辺には舟を浮かべて見物する人は、市が立ったように多かったのです。この湖は過去七度、桑の植わった畑になったのを私は見たと、白髭明神が大宮権現(日吉大社の山王権現、釈迦の垂迹)に向かって話されていたという、

昔の言い伝えもあるので、そのような桑畑になるのではと、見た人達は疑いました。すでに天地の異変はこのように起こり、この後人間社会もまたどのような異変が起こるのかと思っている所に、国々から早馬が到着し、宮方が蜂起したとの連絡は途切れることもありません。


○諸国宮方蜂起事付越中軍事
山陽道には同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越て国々へ勢を差分つ。先一方へは、時氏子息左衛門佐師義を大将にて、二千余騎、備前・備中両国へ発向す。一勢は備前仁万堀に陣を取て敵を待に、其国の守護勢、松田・河村・福林寺・浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合ては叶はじとや思けん。又讃岐より細河右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待けん。皆城に楯篭て未曾戦。一勢は多治目備中守、楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵すまして、水も兵粮も卓散なる松山の城へ、多治目・楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀可戦様無して、備前の徳倉の城へ引退く刻、郎従赤木父子二人落止て、思程戦て遂に討死してけり。依之敵勝に乗て国中へ乱入て、勢を差向々々責出すに、一儀をも可云様無れば、国人一人も順ひ不付云者なし。只陶山備前守許を、南海の端に添て僅なる城を拵て、将軍方とては残りける。備後へは、富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞八百余騎、出雲より直に国中へ打出たるに、江田・広沢・三吉の一族馳著ける間、無程二千余騎に成にけり。富田其勢を合て、宮下野入道が城を攻んとする処に、石見国より足利左兵衛佐直冬、五百騎許にて富田に力を合戦と、備後の宮内へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮下野入道の許へ使に立て被仰けるは、「天下の事時刻到来して、諸国の武士大略御方に志を通ずる処に、其方より曾承る旨なき間に、遮て使者を以て申也。天下に人多といへ共、別して憑思奉る志深し。今若御方に参じて忠を被致候はゞ、闕所分已下の事に於ては毎事所望に可随。」とぞ宣ひ遣れける。宮入道道山先城へ使者の僧を呼入て点心を調、礼儀を厚して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼禅門道山、僧に向て申けるは、「天下に一人も宮方と云人なく成て、佐殿も無憑方成せ給ひたらん時、さりとては憑ぞと承らば、若憑れ進する事もや候はんずらん。今時近国の者共多く佐殿に参りて、勢付せ給ふ間、当国に陣を召れて参れと承らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。悪し其儀ならば討て進せよとて、御勢を向られば、尸は縦御陣の前に曝さる共、魂は猶将軍の御方に止て、怨を泉下に報ぜん事を計ひ候べし。抑加様の使などには御内外様を不云、可然武士をこそ立らるゝ事にて候に、僧体にて使節に立せ給ふ条、難心得こそ覚て候へ。文殊の、仏の御使にて維摩の室に入り、玄奘の大般若を渡さんとて流沙の難を凌しには様替りて、是は無慚無愧道心の御挙動にて候へば、僧聖りとは申まじ。御頚を軈て路頭に懸度候へ共、今度許は以別儀ゆるし申也。向後懸る使をして生て帰るべしとな覚しそ。御分誠に僧ならば斯る不思議の事をばよもし給はじ。只此城の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌を禅僧に作立られてぞ、是へはをはしたるらん。やゝ若党共、此僧連て城の有様能々見せて後、木戸より外へ追出し奉れ。」とて、後の障子を荒らかに引立て内へ入れば、使者の僧今や失はるゝと肝心も身にそはで、這々逃てぞ帰りける。「此使帰らば佐殿定て寄せ給はんずらん。先ずる時は人を制するに利ありとて、逆寄に寄て追散せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百余騎を差副、佐殿の陣を取て御坐宮内へ押寄せ、懸立々々責けるに、佐殿の大勢共、立足もなく打負て、散々に皆成にければ、富田も是に力を落して、己が本国へぞ帰りにける。直冬朝臣、宮入道と合戦をする事其数を不知。然共、直冬一度も未打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札に書て、道の岐にぞ立たりける。直冬はいかなる神の罰にてか宮にはさのみ怖て逃らん侍大将と聞へし森備中守も、佐殿より前に逃たりと披露有ければ、高札の奥に、楢の葉のゆるぎの森にいる鷺は深山下風に音をや鳴らん

☆ 諸国の宮方が蜂起したことと、越中における合戦のこと

山陽道では同年、康安二年(正平十七年::1362年)六月三日に山名伊豆守時氏(ときうじ)が五千余騎で、伯耆から美作の院庄(いんのしょう::津山市)に進出し、軍勢を分割配置しました。まず一方には時氏の子息、左衛門佐師義(もろよし)を大将にして、二千余騎が備前、備中の両国に発向しました。

また軍勢の一隊は備前の仁万堀(?)に陣を構えて敵を待ち構えていましたが、備前国の守護ら松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景らは皆無勢なので、敵と遭遇してはかなわないと思ったのでしょうか、また讃岐から細川右馬頭頼之が近日中に児島へ渡海すると聞き、待ち受けようとしたのか、

皆、城に立て篭もって戦おうとしませんでした。また他の一軍は多治米(たじめ)備中守、楢崎(ならさき)を侍大将(さぶらいたいしょう::戦闘時に一軍を率いる侍)にして、千余騎で備中の新見(にいみ::新見市)に進出したところ、秋庭(あきば)三郎が長年にわたり準備して、水も兵糧も潤沢な松山城(高梁市)へ多治米、楢崎を引き入れたので、

当国の守護、高越後守師秀は戦いようがなく、備前の徳倉城(とくらじょう::岡山市)へ引き返そうとした時、家来の赤城父子二人が逃げ落ちるのをやめ、思う存分戦ったあげく、ついに討ち死にしました。これによって敵は勝ちに乗じて備中の国中に乱入すると、次々と軍勢を繰り出して攻めてきたため、

何ら反撃のしようもなくなったので、国の武将らは誰も従おうとはしませんでした。ただ陶山(すえやま)備前守だけは南海の端に小さな城を構築し、将軍(足利義詮)方として残りました。備後へは富田(とんだ)判官秀貞の子息弾正少弼直貞(なおさだ)の八百余騎が出雲より一気に備後へ進出すると、

江田、広沢、三吉(みよし)の一族らが駆けつけて来たので、すぐに二千余騎に膨らみました。富田はこれらの軍勢を結集して、宮(みや)下野入道の城を攻めようとしたところ、石見国から足利左兵衛佐直冬(ただふゆ::尊氏の庶子)が五百騎ほど率いて富田と協同して戦おうと、備後の宮内(みやのうち::福山市)に進出してきたのですが、

一人の禅僧を宮下野入道のもとに使者として送り、「天下の乱れは今や決着の時を迎え、諸国の武士達はほとんどが味方になることを約束している時に、貴殿より味方すると何らの申し入れがないので、使者を通じて連絡いたします。天下に武将数多しと言えども、貴殿には特別なる信頼をしています。

もし今味方に加わり、忠功があれば所有者不在の土地の分配に関しては、全て貴殿の所望通りにいたしましょう」と、直冬の仰せを伝えてきました。宮下野守入道道山(兼信::かねのぶ)はとりあえず使者の僧を城内に呼び入れて、簡単な食事を提供し、礼を尽くして面会しましたので、

使者はもはや使命は果たせたと嬉しく思っていたところ、かの禅門道山(どうせん)は僧に向かって、「天下に宮方を名乗る人が一人もいなくなり、佐殿(直冬)も頼るべき武将に困られ、佐殿より頼りにしていると聞けば、もしかして頼みをお聞きすることもありましょう。ところが今や、近国の武将らは多数が佐殿に味方し、

軍勢はその勢いを増している中、当国に陣営を構えられ我が配下に入れと言われても、どうして味方に加わることなど出来ましょうや。生意気な奴め、それなら討ち取ってしまえと、軍勢を差し向けられれば、たとえ屍は御陣の前にさらすことになろうと、私の魂はなおも将軍義詮殿の陣営に留まり、

この恨みを死後の世界においてでも晴らそうと考えています。そもそもこのような使いには、身内とか外様とかに関係なく、それなりの武士を立てられるべきであり、僧侶を使節に立てられたことなど、どう考えても理解に苦しみます。文殊菩薩が仏陀(釈迦)の使者として、維摩居士(ゆいまこじ::釈迦の弟子)の部屋に入り、

玄奘(げんじょう)三蔵が翻訳した大般若経を渡そうと大変な困難を凌いだのとは異なり、今回の使いに関しては無慙無愧(むざんむき::悪事を働きながら恥じることなく平気でいること)な仏道修行者の行動と思えるので、貴殿を僧侶や聖とは申しません。お首を即刻路頭に架けたく思いますが、今回ばかりは特別にお許し致しましょう。

今後はこのような使いをして、生きて帰れることなどないと覚えておいてくだされ。貴殿がまことの僧であれば、このように理解に苦しむような行動などされるはずがない。ただこの城の内部を見たさに、夜討ちを指揮する人物が姿を禅僧に変えて、ここに来られたのではないでしょうか。

おい、若者らよ、この僧を連れて城の様子を良く見せてから、木戸から外へ追い出してあげるよう」と言って、後ろの障子を荒々しく引き立て中に入られたので、使者の僧侶はもうここで命を奪われるのかと生きた心地もせず、這うようにして逃げ帰りました。「この使者が帰られたら、佐殿はきっと攻め寄せて来るだろう。

先んずれば人を制し、利を得られると言うからには、逆に攻め寄せて追い散らしてしまえ」と言って、子息の下野次郎氏信に五百余騎を与えて、佐殿が陣を構えている宮内に押し寄せると、繰り返し繰り返し攻め込んだので佐殿の大軍らは支えることなく負け、散りじりになってしまったので、

富田もこの状況に戦意を喪失し自分の国に帰りました。直冬朝臣が宮入道と戦った合戦はその数さえ分かりません。しかし直冬は未だかって一度も勝利したことがないので、情けないことだと思う者の仕業なのか、落書として歌が札に書き付けられ、道の脇に立てられていました。

      直冬は いかなる神の 罰にてか 宮にはさのみ 怖れて逃げるらん
侍大将と言われていた森備中守も、佐殿より先に逃げたそうだと噂になったので、高札の奥に、

      楢の葉の ゆるぎの森に いる鷺は 深山下風に 音をや鳴らん


但馬国へは、山名左衛門佐・舎弟治部太輔・小林民部丞を侍大将にて、二千余騎、大山を経て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬国守護仁木弾正少弼・安良十郎左衛門、将軍方にて楯篭たる城未落ざりける間、長九郎左衛門尉・安保入道信禅已下の宮方共、我国を閣て、他国へ越ん事を不心得。さらば小林が勢許にても、播磨へ打越んと企る処に、赤松掃部助直頼大山に城を構て、但馬の通路を差塞ぎける程に、小林難所を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護仁木兵部太輔義尹、兼て在国して待懸たる事なれば、軈て合戦有ぬとこそ覚けるに、楚忽に軍しては中々悪かりぬとや被思けん、和久の郷に陣を取て、互に敵の懸るをぞ相待ける。「丹波は京近き国なれば暫くも非可閣、急大勢を下して義尹に力を合せよ。」とて、若狭の守護尾張左衛門佐入道心勝・遠江守護今河伊予守・三河守護大島遠江守三人に、三箇国の勢を相副て三千余騎、京都より差下さる。其勢已に丹波の篠村に著しかば、当国の兵共、心を両方に懸て、何方へか著ましと思案しける者共、今は将軍方ぞ強からんずらんと見定て、我先にと馳付ける程に、篠村の勢は日々に勝て無程五千余騎に成にけり。山名が勢は纔に七百余騎、国遠して兵粮乏く馬・人疲れて城の構密しからず。角ては如何怺べき、聞落にぞせんずらんと覚ける処に、小林右京亮伯耆国を出しより、「今度天下を動す程の合戦をせずは、生て再び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少も非可騒、一所にて討死せんと、気を励し心を一にする兵共、神水を飲て已に篠村を立と聞しかば、何くにても広みへ懸合せて、組打に討んと議しける間、篠村の大勢是を聞て、却て寄られやせんずらんと、二日路を隔たる敵に恐て一足も先へは不進、木戸を構へ逆木を引て、用心密くては居たりけれ共、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退ければ、「御敵をば早追落て候。」とて、気色ばうてぞ帰洛しける。越中には、桃井播磨守直常信濃国より打越て、旧好の兵共を相語ふに、当国の守護尾張大夫入道の代官鹿草出羽守が、国の成敗みだりなるに依て、国人挙て是を背けるにや、野尻・井口・長倉・三沢の者共、直常に馳付ける程に、其勢千余騎に成にけり。桃井軈て勢ひに乗て国中を押すに手にさわる者なければ、加賀国へ発向して富樫を責んとて打出ける。能登・加賀・越前の兵共是を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千余騎越中国へ打越て三箇所に陣を取る。桃井はいつも敵の陣未取をほせぬ所に、懸散を以て利とする者なりければ、逆寄に押寄て責戦に、越前の勢一陣先破て、能登・越中の両陣も不全、十方に散てぞ落行ける。日暮れば桃井本の陣へ打帰て、物具脱で休けるが、夜半計に些可評定事ありとて、此陣より二里許隔たる井口が城へ、誰にも角とも不知して只一人ぞ行たりける。此時しも能登・加賀の者共三百余騎打連て、降人に出たりける。執事に属して、大将の見参に入んと申間、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習の人に尋ぬれ共、「何くへか御入候ぬらん。未宵より大将は見へさせ給はぬ也。」とぞ答ける。陣を並べたる外様の兵共是を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒て、「我も何くへか落行まし。」と物具を著もあり捨るもあり、馬に乗もあり、乗ぬもあり、混ひしめきにひしめく間、焼捨たる火陣屋に燃著て、燎原の焔盛なり。是を見て、降人に出たりつる三百余騎の者共、「さらばいざ落行敵共を打取て、我が高名にせん。」とて、箙を敲き時を作て、追懸々々打けるに、返合せて戦んとする人なければ、此に被追立彼に被切伏、討るゝ者二百余人生虜百人に余れり。桃井は未井口の城へも不行著、道にて陣に火の懸りたるを見て、是は何様返忠の者有て、敵夜討に寄たりけりと心得て、立帰る処に、逃る兵共行合て息をもつきあえず、「只引せ給へ、今は叶まじきにて候ぞ。」と申合ける間不及力、桃井も共に井口の城へ逃篭る。昼の合戦に打負て、御服峯に逃上りたる加賀・越前の勢共、桃井が陣の焼るを見て、何とある事やらんと怪く思ふ処に、降人に出て、心ならず高名しつる兵共三百余騎、生捕を先に追立させ、鋒に頭を貫て馳来り、「如鬼神申つる桃井が勢をこそ、我等僅の三百余騎にて夜討に寄て、若干の御敵共を打取て候へ。」とて、仮名実名事新しく、こと/゛\しげに名乗申せば、大将鹿草出羽守を始として国々の軍勢に至迄、「哀れ大剛の者共哉。此人々なくは、争か我等が会稽の恥をば濯がまし。」と、感ぜぬ人も無りけり。後に生捕の敵共が委く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒るゝ処に土を掴む風情をしたりけるよとて、却て悪み笑れける。

但馬国へは、山名左衛門佐、舎弟の治部大輔、小林民部丞を侍大将にして、二千余騎が大山経由で播磨に進出しようとしましたが、但馬国の守護、仁木弾正少弼、安良(やすら)十郎左衛門らが将軍方として立て篭もっている城が未だ落ちずに健在なので、長(ちょうの)九郎左衛門尉、

安保(あふ)入道信禅(しんぜん)以下の宮方らは我が国をそのままにして他国に侵攻しようとはしませんでした。それなら小林の軍勢だけでも、播磨へ侵攻しようと計画していたところ、赤松掃部助直頼(なおより)が大山に城を構えて、但馬への街道を閉鎖し、通行困難な場所の防御に努めたので、

小林は方向を変えて丹波方面に進軍しました。丹波では当国の守護、仁木兵部大輔義尹(よしたか)が以前より在国し待ち構えていたので、すぐにでも合戦が始まると思われましたが、軽はずみに合戦などしては良くないと思ったのか和久の郷に陣を構えて、お互い敵が仕掛けてくるのを待っていました。

「丹波は京都に近い国なので、少しの油断も許されない、急いで大軍を派遣して義尹の軍と戦え」と言って、若狭の守護、尾張左衛門佐入道心勝(しんしょう)、遠江守護、今川伊予守、三河守護、大島遠江守の三人に三ヶ国の軍勢を加えて、総数三千余騎を京都より下しました。

その軍勢らがすでに丹波の篠村(亀岡市)に到着しましたが、丹波の兵士らは味方する相手に迷い、どちらに付くべきか考えていた連中も、今は将軍方がより強いのではと見極めて、我先に駆けつけたので、篠村の軍勢は日に日に増加し、やがて五千余騎に膨らみました。対して山名の軍勢はわずかに七百余騎であり、

自国は遠く、兵糧も乏しく、人馬とも疲れている上、城の構えも粗末です。これではとても持ちこたえることなど出来るはずがなく、敵の勢いを聞いただけで落ちるのではと思っていたところ、小林右京亮は伯耆の国を出た時より、「今回は天下を動かすほどの合戦をしなければ、再び生きて本国には帰らない」と、

覚悟を決めて出て来ているので、少しも騒ぐことなどしませんでした。全員一ヶ所で討ち死にしようと、お互い戦意を高揚し、覚悟を確認しあった兵士らは、敵の軍勢が神水(誓いのしるしとして神前で飲む水)を酌み交わしてすでに篠村を進発したらしいと聞こえてきたので、どちらにしても広場におびき寄せ駆け合わせた上、

組み打ちで討ち取ろうと作戦を練っていました。しかし篠村の大軍はこの話を聞いて、反対に攻め寄せて来るのではないかと、二日分の行程も離れている敵に恐れをなして、一歩も前進することなく木戸を構え、逆茂木を並べ立て防御に努めて待機していましたが、小林の軍勢は兵糧が尽きて再び伯耆国に退却したので、

「早くも敵を追い落としたのだ」と言って、意気揚々と帰洛しました。越中には桃井播磨守直常が信濃国から進攻し、昔なじみの兵士らに声をかけたところ、当国の守護、尾張大夫入道(斯波高経)の代官、鹿草(かくさ::完草とも)出羽守が行う国の政治が乱れ切っているので、

国の武将ら全員が守護に反旗を翻したのか、野尻、井口(いのくち)、長倉、三沢などの武将が直常に駆けつけて来たので、軍勢は千余騎になりました。桃井播磨守はすぐにこの勢いに任せて越中国を攻撃しましたが、抵抗する者もいないので、加賀国に発向し富樫を攻略しようと進発しました。

能登、加賀、越前の武士らはこの情報を手に入れると、敵に先手を取られてはならないと集まり、三千余騎で越中国に進入し三ヶ所に陣を構えようとしました。桃井播磨守直常はいつも敵が陣を固める前に攻撃を仕掛け、追い散らすことを得意の戦法にしている者なので、逆に押し寄せ攻撃したところ、

越前軍は先頭の軍勢が破られると、能登、越中の両陣営とも抵抗できず、四方八方に散りじりになって逃げ落ちて行きました。日が暮れると桃井は元の陣営に帰り、甲冑を脱いで休んでいましたが、夜半頃少しばかり相談したいことがあると、この陣営から二里ほど離れた井口城(南砺市)へ、誰にも言わずに一人で出かけました。

丁度その時、能登、加賀の兵士ら三百余騎が連れだって降伏を申し出てきました。執事の配下に入って大将に面会するべく一緒に彼の陣営に参り、事情を説明しようとしたところ、大将の陣営には誰一人いません。傍に控える者に訊ねてみましたが、「どこへ行かれたのでしょうか。

この宵より大将はお見掛けしていません」との、答えでした。同じ陣営に陣を構えている外様の兵士らはこれを聞くと、「さては桃井殿落ちられたのではないか」と騒ぎ立て、「我々もどこかに落ちようではないか」と甲冑を着ける者や、捨てる者、また馬に乗る者や乗らない者など、混乱に混乱を重ねている内、

燃やされたままとなっていた火が陣屋に燃え移り、野原が燃え広がるような手のつけられない火災になりました。この様子を見て降伏を申し出ていた三百余騎の者どもは、「こうなりゃ落ちて行く敵どもを討ち取って、自分の手柄にしようじゃないか」と言って、箙(えびら::矢を入れる筒)を叩き鬨の声をあげ、

追いかけ追いかけては斬り込んで行きましたが、誰も立ち止まって戦おうとはしないので、この状況の中追い立てられて、切り伏せられ討ち取られた者は二百余人、また生け捕りになった者も百人を超えました。桃井直常がまだ井口の城に到着する前、途上で我が陣に火の手が上がるのを見て、

これは間違いなく裏切者が現れ、敵が夜討ちを仕掛けて来たものと判断し、引き返そうとしたところに、逃げて来た兵士らと出会うと息もつかずに、「ここはただ退いてください、今はもう手の打ちようがありません」と口々に言うので、止む無く桃井も一緒になって井口城に逃げ込みました。

昼の合戦に負けて御服峯(白鳥城::富山市)に逃げ込んだ加賀、越前の兵士らは、桃井の陣営が燃えているのを見て、一体どうなったのかと不審に思っていたところ、敵に降伏を申し出たものの、思いがけなく手柄を上げた兵士ら三百余騎が、生け捕りにした敵を前に追い立てながら、刃先には首を刺し貫いて馳せて来ると

、「まるで鬼神のように言われている桃井の軍勢を、我らがわずか三百余騎で夜討ちをかけ、多数の敵どもを討ち取って来た」と言って、通称や実名などわざとらしく名乗りを上げたので、大将の鹿草出羽守をはじめとして諸国の軍勢に至るまで、「何と素晴らしい剛勇なる人達であろうか。

これらの人がいなければ、どうして我らの会稽の恥(かいけい::史記より敗戦の恥辱)をすすぐことが出来ようか」と、感心しない人などいませんでした。後になって生け捕りになった敵兵らが詳しく話すのを聞いて、何だとそれでは降伏を申し出た情けない奴らが、倒れても其処にある土をつかんで来るような話(欲の深いたとえ)ではないかと、反対に非難してあざけり笑いました。


○九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
筑紫には、小弐・大友以下の将軍方の勢共、菊池に追すへられて、已に又九州宮方の一統に成ぬと見へければ、探題を下して、小弐・大友に力を合せでは叶まじとて、尾張大夫入道の子息左京大夫氏経を、九州の探題に成てぞ被下ける。左京大夫先兵庫に下て、四国・中国の勢を催しけれ共、付順ふ勢も無りければ、さりとては道より非可引返とて、僅に二百四五十騎の勢にて、已に纜を解けるに、左京大夫の屋形船を始として、士卒の小船共に至まで、傾城を十人二十人のせぬ船は無りけり。磯に立双で是を見物しける者共の中に、些こざかしげなる遁世者の有けるが、傍への人々に向て申けるは、「筑紫九箇国の大敵を亡さんとて、討手の大将を承る程の人の、是程物を知らでは、何としてか大功を成るべき。夫大敵に向て陣を張り、戦を決せんとする時、兵気と云事あり。此兵気敵の上に覆て立時は、戦必勝事を得、若陣中に女多く交てある時は、陰気陽気を消す故に、兵気曾不立上。兵気立ざれば、縦大勢なりといへ共、戦勝事を不得いへり。されば昔覇陵の李将軍と云ける大将、敵国に赴て陣を張り旅を調へて、単于と戦を決せんとしけるに、敵僅に三万余騎、御方は是に十倍せり。兵気定て敵の上に覆らんと思て、李将軍先高山の上に打上り、両方の陣を見るに、御方の陣にあがらんとする兵気、陰の気に押れて、立んとすれ共不立得。李将軍倩是を案ずるに、何様是は我方の陣に女交て、隠れ居たればこそ、加様には有らんと推して陣中をさがすに、果して陣中に女隠れて三千余人交り居たり。さればこそ是故に兵気は不上けりとて、悉此女を捕へて、或は水に沈め或は追失て、後又高き山に打上て、御方の陣を見に、兵気盛に立て敵の上に覆へり。其後兵を進めて闘を決するに、敵四方に逃散て勝事を一時に得しかば、李将軍と云れて武功天下に聞へたり。智ある大将は加様にこそあるに、大敵の国に臨む人の兵をば次にして、先女を先立給ふ事不被心得。」と難じ申けるが、果して無幾程高崎の城にも不怺、浅猿き体にて上洛し給ひしが、面目なくや被思けん、尼崎にて出家して諸国流浪の世捨人と成にけり。

☆ 九州探題が下向したことと、李将軍が陣中で女性を禁じたこと

筑紫では少弐頼尚(よりひさ)、大友氏時(うじとき)以下、将軍方の軍勢らは菊池武光(たけみつ)に押さえ込まれ、もはや再び宮方の支配下に入るのではと思われたので、軍事権を持つ探題を九州に下し、少弐、大友と協力して戦わなければならないと、尾張大夫入道斯波高経の子息、

左京大夫斯波氏経を九州の探題に任命して下しました。左京大夫はまず兵庫まで下ると、四国、中国の軍勢に招集をかけたものの、誰も呼びかけに応じようとはしませんでした。かと言ってここから引き返すわけにもいかず、わずか二百四、五十騎の軍勢で、すでに舟のとも綱を解きましたが、

左京大夫氏経の舟をはじめとして、将官、兵士らの小舟に至るまで、遊女の十人や二十人を乗せていない舟などありません。磯に並んでこの舟を見物している人の中に、少しばかり能書きを垂れたがる遁世者(とんせいしゃ::世を捨て仏門に入った者)がいましたが、周りの人々に向かって、「筑紫九ヶ国の大敵を征伐しようと、

討手の大将に命じられる程の人間が、これほど物を知らないようでは、どうして使命を果たすことなど出来るのだろうか。そもそも、大敵に向かって陣営を構え決戦を挑もうとする時にあたり、兵気(へいき::兵士の士気、戦意)というものが重要である。この兵気が敵軍の上に覆いかぶさるように立つ時、

戦闘は間違いなく勝利を収め、もし陣内に多くの女性が混じっている時は、陰気が陽気を消す故に、兵気が立つことなどあり得ないのだ。兵気が奮い立たなければ例え大軍であっても、合戦に勝利を収めることなど出来ないのである。たとえば昔、覇陵(はりょう::前漢の孝文帝のことか?)に仕えた李将軍と言う大将は、

敵国におもむき陣を構え部隊を編成して、単于(ぜんう::匈奴の君主)との決戦にかかろうとした時、敵はわずか三万余騎であり味方はこれの十倍でした。兵気は間違いなく敵の上を覆っていると思い、李将軍はまず高い山の上に登り両軍の陣を見ると、味方の陣に上がろうとする兵気が、

陰気に押されて立とうとしても立てなくなっていました。李将軍がよくよく考えてみると、これは間違いなく我が陣に女が混じり、隠れているからこそこのようなことになるのだと推量し、自陣内を捜してみれば、やはり陣中に三千余人の女が隠れていました。これだから兵気が上がらないのだと、これらの女を全て捕らえ、

ある者は水に沈めたり、またある者は追放してから、再び高い山に登り味方の陣を見ると、兵気が盛んに立ち敵の上を覆っています。その後兵士を前進させ決戦を挑んだところ、敵は四方に逃げ散り、一気に勝利を手に入れることが出来たので、李将軍と言われてその武功は天下に聞こえたのです。

知恵のある大将はこのようにあるべきなのに、大敵の国に向かう人が兵士を二の次にして、まず女を重視することなどとても理解に苦しむことである」と非難しましたが、やはりしばらくすると高崎の城も保ち切れず、情けない姿で上洛することになったので、面目ないと思ったのか尼崎で出家し、諸国流浪の世捨て人となられたのでした。


○菊池大友軍事
左京大夫已に大友が館に著ぬと聞へければ、菊池肥後守武光、敵に勢の著ぬ先に打散せとて、菊池彦次郎・城越前守・宇都宮・岩野・鹿子木民部大輔・下田帯刀以下勝れたる兵五千余騎を差副て、探題左京大夫を責ん為に、九月二十三日豊後国へ発向す。探題左京大夫是を聞に、「抑我九州静謐の為に被下たる者が、敵の城へ不寄して、却て敵に被寄たりと京都に聞へんずる事、先武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待までもあるまじ。路次に馳向て戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未幼稚にて今年十一歳に成けるを大将にて、大宰小弐・舎弟筑後二郎・同新左衛門尉・宗像大宮司・松浦一党都合其勢七千余騎にて、筑前国長者原と云所に馳向て、路を遮てぞ待懸たる。同二十七日に菊池彦二郎五千余騎を二手に作り長者原へ押寄て戦けるに、岩野・鹿子木将監・下田帯刀已下、宗徒の勇士三百余騎討れて、其日の大将菊池彦次郎、三所まで疵を被りければ、宮方の軍勢已に二十余町引退く。すはや打負ぬと見へける処に、城越前守五百余騎、入替て戦けるに、小弐筑後二郎・同新左衛門尉、二人共に一所にて討れぬ。其外松浦・宗像大宮司が一族・若党四百余人討れにければ、探題・小弐・大友二度目の軍に打負て、皆散々に成にけり。菊池已に手合の軍に打勝しかば、探題の勇威も恐るに不足と蔑て、菊池肥後守武光悪手の兵三千余騎を卒して、舎弟彦次郎が勢に馳加て、豊後の府へ発向す。是までも猶探題・小弐・大友・松浦・宗像が勢は七千余騎有けるが、菊池に気を呑れて、懸合の合戦叶まじとや思けん、探題と大友とは、豊後の高崎城に引篭り、大宰小弐は、岡の城に楯篭り、大宮司は棟堅の城に篭て、嶮岨を命に憑ければ、菊池は豊後の府に陣を取り、三方の敵を物共せず、三の城の中を押隔て、今年は已に三年まで、遠攻にこそしたりけれ。抑小弐・大友は大勢にて城に篭り、菊池は小勢にて是を囲む。菊池が城必しも皆剛なるべからず、小弐・大友が勢必しも皆臆病なるべきに非ず。只士卒の剛臆は大将の心による故に、九国は加様に成にける也。

☆ 菊池と大友が戦ったこと

探題の左京大夫斯波氏経がすでに大友氏時の舘に到着したと聞こえたので、菊池肥後守武光は敵に勢いがつかない内に、先に蹴散らしてしまえと、菊池彦次郎、城(じょうの)越前守、宇都宮、岩野、鹿子木(かのこぎ)民部大輔、下田帯刀(しもたたてわき)以下、優秀な兵士五千余騎を付き従わせ、

探題の左京大夫を攻撃するために、康安元年(正平十六年::1361年)九月二十三日、豊後国に発向しました。探題の左京大夫はこれを聞くと、「そもそも九州鎮圧のため下されてきた私が、敵の城に寄せることもなく、反対に敵から攻め寄せられたと京都に聞こえることなど、これはまず戦略の失敗である。

そこで敵の来るのを城で待つことなどせずに、途中まで駆け向かい戦おう」と言って、探題の子息松王丸、まだ幼く今年十一歳になった子を大将にして、太宰少弐(しょうに)、その舎弟筑後二郎、同じく新左衛門尉、宗像(むなかた)大宮司、松浦一党らの総勢七千余騎が、筑前国長者ヶ原と言う所に馳せ向かい、

街道を閉鎖して待ちかまえました。同じく九月二十七日に、菊地彦次郎が五千余騎を二手に分け、長者原へ押し寄せ戦ったところ、岩野、鹿子木将監、下田帯刀以下主だった勇士三百余騎が討たれ、その日、大将として戦った菊地彦次郎も三ヶ所に傷を負ったので、早くも宮方の軍勢は二十余町(約2.2Km)退却しました。

この状況に負けは決まったように見えましたが、城越前守の五百余騎が入れ代わって戦うと、少弐筑後二郎、同じく新左衛門尉の二人が一ヶ所で討たれました。その他、松浦、宗像大宮司の一族や若党(若武者)ら四百余人が討たれたので、探題、少弐、大友の軍は二度目の負けを喫し、

皆、散りじりになりました。菊池はすでに最初の合戦に勝っているので、探題の軍勢恐るるに足らずとなめてかかり、菊池肥後守武光は新手の軍勢三千余騎を率いて、舎弟の彦次郎の軍と一緒になって、豊後の国府に向かって発向しました。この時点でまだ探題、少弐、大友、松浦、宗像の軍勢は七千余騎でしたが、

菊池軍の勢いに圧倒され、駆け合っての合戦にはとても勝機があると思えず、探題と、大友は豊後の高崎城(大分市)に引き篭もり、太宰少弐は岡城(竹田市)に立て篭もりました。また大宮司は宗像の城(白山城?)に篭って、険しい地形を頼りに生命の安全をはかりましたが、

菊池は豊後の国府に陣を構えると、三方の敵など気にすることなく、三つの城の中央付近に軍を展開して、今年ですでに三年間、遠くより攻め続けました。考えてみれば少弐や大友は大軍で城に篭り、菊池は小勢でこれを取り囲む格好になったのです。菊池の城は全てが鉄壁な守りである訳でなく、

少弐、大友の軍勢が必ずしも臆病な訳でもありません。これらの将官や兵士らが、勇猛とか臆病であるとかは、率いる大将の心構えの影響を受けるものなので、ここ九州はこのような状況におちいったのです。


○畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
筑後には宮方蜂起すといへ共、東国は無程静りぬ。去年より畠山入道々誓・舎弟尾張守義深、伊豆の修禅寺に楯篭て東八箇国の勢と戦けるが、兵粮尽て落方も無りければ、皆城中にて討死せんとす。左馬頭殿より使者を以て、先非を悔て子孫を思はゞ、首を延て可降参由被仰けるを、誠ぞと信じて道誓は禅僧になり、舎弟尾張守は、伊豆国の守護職還補の御教書を給て、九月十日降参したりけるが、道誓は伊豆の府に居て、先舎弟尾張守を、鎌倉左馬頭の御坐する箱根の陣へぞ参らせける。旧好ある人、万死を出て二度び見参に入事の嬉しさよなど云て一献を勧め、此程無情あたりつる傍輩は、いつしか媚を諛て、言を卑しくし礼を厚して、頻に追従をしける間、門前に鞍置馬の立止隙もなく、座上に酒肴を置連ねぬ時も無りけり。角て三四日経て後、九月十八日の夜、稲生平次潜に来て道誓に囁きけるは、「降参御免の事は、元来被出抜事に候へば、明日討手を可被向にて候なる。げにも聞に合せて、豊島因幡守俄に陣を取易て、道を差塞ぐ体に見へて候。今夜急何くへも落させ給べし。」とぞ告たりける。道誓聞も不敢、舎弟式部大輔に屹と目加せしけるが、仮初に出る由にて、中間一人に太刀持せ、兄弟二人徒にて、其夜先藤沢の道場までぞ落たりける。上人甲斐々々敷馬二疋、時衆二人相副て、夜昼の堺もなく、馬に鞭を進めて上洛しけるをば、知人更にも無りけり。舎弟尾張守義深は、箱根の御陣に有けるが、翌の夜或時衆の斯る事と告けるに驚て、さては我も何くへか落なましと案ずれ共、東西南北皆道塞りて可落方も無りければ、結城中務大輔が陣屋に来て、平に可憑由をぞ宣ひける。是を隠さんずる事は、至極の難義なれ共、弓矢取身の習、人に被憑て叶はじと云事や可有と思ければ、長唐櫃の底に穴をあけて気を出し、其櫃の中に臥させて、数十合舁連ねたる鎧唐櫃の跡にたて、態と鎌倉殿の御馬廻に供奉して、尾張守をべ夜に紛て、藤沢の道場へぞ送りける。

☆ 畠山兄弟が修善寺城に立て篭もったことと、遊佐入道のこと

さて筑後では宮方が蜂起したとは言え、東国の騒乱はやがて鎮静化しました。昨年の康安元年(正平十六年::1361年)より畠山入道道誓国清とその弟尾張守義深は伊豆の修善寺城に立て篭もって、東八ヶ国の軍勢と戦っていましたが、兵糧も尽きてしまい逃げ落ちて行く先もないので、皆は城中で討ち死にしようとしました。

その時、左馬頭足利基氏殿より使者を通じて、犯した過ちを反省し子孫のことを考えるならば、首を差し伸ばして降参してくるのも良いだろうと、話されていると聞き、その話を真に受けて、道誓国清は禅僧になり、舎弟の尾張守は伊豆国の守護職還補(守護職に再任されること)の辞令を賜って、

康安二年(正平十七年::1362年)九月十日に降参しましたが、道誓は伊豆の国府に留まって、先に弟の尾張守を左馬頭殿のおられる箱根の陣営に参らせました。昔なじみの人と生命の危険から逃れ、再会出来たことが嬉しいなどと言いながら酒を勧め、最近は無愛想にしていた仲間たちも、

いつの間にか彼に愛想を振りまき、辞を低くし礼を正してしきりに取り入ろうとするので、門前には鞍を置いた馬の立ち止まる場所もなく、席近くに酒肴が置き並べてない時などありません。このようにして三、四日過ぎた九月十八日の夜、稲生(いなふ)平次が人目を忍んでやって来ると、「降参すれば許してやろうと言うのは、

もともと欺くための方便なので、明日には討手が向かってくるでしょう。確かに聞いていたように豊島因幡守が急遽陣を移動して、街道を閉鎖するように見えます。今夜どこにでも落ちられるように」と、ささやくように話されたのです。道誓は聞き終わるか終わらない内に舎弟の式部大輔にキッと目配せし、

特に用事などのない振りをして、中間一人に太刀を持たせ、兄弟二人は徒歩でその夜にはまず藤沢の道場(藤沢市、清浄光寺)まで落ちられたのです。寺の住職、遊行上人は色々と世話をし、馬を二頭と、時宗の信者二人をお付きにさせて、昼夜兼行で馬に鞭を当てて上洛しましたが、このことを知っている人は誰もいませんでした。

舎弟の尾張守義深は箱根の陣営にいましたが、翌日の夜、時宗の僧侶がこの事情を話すのを聞くと驚いて、それでは私もどこかに落ちなければと考えましたが、東西南北全ての街道が閉鎖されて、どこへも落ちることなど出来そうにないので、結城中務大輔の陣屋に行き、ただただ援助をお願いしたいと話されました。

この事態を隠しおおせることなど、大変難しい話ではありますが、弓矢を取る武士としての習性上、人から頼まれて断ることなど出来ず、長唐櫃(からびつ::足とかぶせ蓋のついた大型の箱)の底に穴を開けて空気を通し、その唐櫃の中に寝かせて、鎧を収納した数十の唐櫃を舁き連ねた列の最後に付いて、

わざと鎌倉殿(足利基氏)の馬廻り(主君の乗った馬の周囲を警固する一団)のお供をして、尾張守義深を夜に紛れて藤沢道場に送りました。


命程可惜者はなかりけり。此人遂には御免有て、越前の守護に被補、国の成敗穏かにて土民を安ぜしかば、鰐の淵を去り、蝗の境を出る許也。遊佐入道性阿は、主の被落妝を軈て知たりけれ共、暫く人にあひしらひて、主を何くへも落延させん為に少も騒たる気色を不見、碁・双六・十服茶など呑て、さりげなき体にて笑戯て居たりければ、郎従共も外様の人も、可思寄様無りけれ共、遂に隠るべき事ならねば、畠山兄弟落たりと沙汰する程こそ有けれ。軈て討手を被向と聞へければ、遊佐入道は禅僧の衣を著て、只一人京を志てぞ落行ける。兔角して湯本まで落たりけるが、行合人に口脇なる疵を隠さん為に、袖にて口覆して過けるを見る人中々あやしめて、帽子を脱せ袖を引のけゝる間、口脇の疵無隠顕れて可遁様無りければ、宿屋の中門に走上て、自喉ぶへ掻放ち返す刀に腹切て、袈裟引被きて死にけり。江戸修理亮は竜口にて生捕れて斬れぬ。其外此に隠れ、彼に落行ける郎従共六十余人、或は被捜出て切れ、或は被追懸腹を切る。目も当られぬ有様也。畠山入道兄弟、無甲斐命助りて、七条の道場へ夜半許に落著たりけるを、聖二三日労り奉て、道の案内者少々相副て、行路の資など様々に用意して南方へぞ被送ける。道誓暫く宇知郡の在家に立寄て、「楠が方へ降参の綸旨を申てたび候へ。」と、宣ひ遣されたりけれども、楠さしも許容の分無りければ、宇知郡にも不隠得都へ可立帰方もなし、南都山城脇辺に、とある禅院律院、或は山賎の柴の庵、賎士がふせ屋のさびしきに、袂の露を片敷て、夜を重ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬ許にて、朝三暮四の資に心有人もがなと、身を苦しめたる有様、聞に耳冷く、見に目も充られず。幾程もなく、兄弟共に無墓成けるこそ哀なれ。人間の栄耀は風前塵と白居易が作り、富貴草頭露と杜甫が作りしも理り哉。此人々去々年の春は、三十万騎が大将として、南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇で、靡かぬ草木も無りしに、いつしか三年を不過、乍生恥を曝して、敵陣の堺に吟ひぬる事、更に直事とは不覚。此人に被出抜討れし新田左兵衛佐義興怨霊と成て、吉野の御廟へ参たりけるが、「畠山をば義興が手に懸て、乍生軍門に恥を曝さすべし。」と奏し申ける由、先立て人の夢に見て、天下に披露有しも訛にては無りけりと、今こそ思知れたり。

命ほど惜しく思うものはありません。この人、義深は最後には許されて越前の守護に任命され、国の政治に関して何ら問題なく、民衆らの生活も安定させたので、鰐のいる淵を抜け出し、バッタによる被害地から抜け出たようなものです。遊佐(ゆさ)入道性阿(せいあ)はすぐに主人が落ちるための用意をされていることを知りましたが、

しばらくは人に会っても適当に受け答えして、主人をどこかに落ち延びさせんがため、少しも騒ぐ様子など見せず、碁、双六や十服茶(茶を飲み比べること)など楽しみ、何事もないように笑い戯れていましたので、家来や外様の人たちも気付くようには思えなかったのですが、いつまでも隠しおおせることではないので、

やがて畠山兄弟は落ちたのではと噂になりました。今にも討手が向けられると言われたので、遊佐入道は禅僧の衣を着て、ただ一人で京を目指して落ちて行きました。何とか湯本までは落ちましたが、行合う人に口の脇にある傷を隠そうとして、袖で口を隠して通り過ぎるのを見る人達が、

思いのほか怪しんで、帽子を脱がせたり袖を引きはがしたりする内に、口の脇にある傷がきっちりと現れたので、彼は宿屋の中門に走り上り、自分で喉ぶえを掻き切り返す刀で腹を切り、袈裟を頭からかぶって死んだのでした。江戸修理亮は竜口(たつのくち::藤沢市)で生け捕られ、その後斬られました。

その外ここに隠れたり、どこかに落ち延びようとした家来など六十余人は、ある者は探し出されて斬られたり、ある者は追いかけられて腹を切りました。目も当てられぬ凄惨な有様でした。畠山入道兄弟(国清と式部大輔)はどうでも良いような命を持ちこたえて、七条の道場(金光寺)に夜半頃落ち着くと、

寺の僧侶は二、三日間親切に接してから、地理に詳しい者を少しばかりお付けし、道中での必要物資など様々に用意して、南方吉野の陣営に送られました。畠山入道道誓はしばらく宇智郡(五条市)の民家に立ち寄り、「楠木正儀(まさのり)の陣営に降参したいので、綸旨を下されるようお願いしたい」と話され使いを送りましたが、

楠木には全く許す気などないので、宇智郡に身を隠す場所もなく、都にも帰る場所はありません。南都山城(木津川市?)近くの、とある禅宗の寺院や律宗の寺院、また木こりが暮らす粗末な小屋、貧しい人の住むみすぼらしい小屋などに、涙のかかる袂を敷いて布団の代わりにしなければ、夜を過ごす宿もないので、

道路の脇に袖を広げることしか出来ず、日々の食料を施してくれる心ある人がいないかとか、この苦しい境遇は聞く人の耳につらく、また見るに耐えられません。その内ほどなく兄弟共に亡くなられたことは、本当に哀れな話でした。人間の栄華などは風前の塵に過ぎないと、白居易が詠み、

富貴草頭露(富貴など草の露のごとくはかないもの)と杜甫が詠んだのも、なるほど理屈に違いません。この人たちは一昨年、延文四年(正平十四年::1359年)の春には、三十万騎の大将として、南方吉野軍征伐に発向しましたが、あふれる人徳から吹く風になびく草木もなく、いつの間にか三年を過ぎない内に、

たちまち生き恥をさらすこととなり、敵陣の周辺にさまようことになるとは、全く想像を絶する話ではあります。この人に騙されて討たれた、新田左兵衛佐義興が怨霊となって、吉野の後醍醐天皇の御廟に参られ、「畠山国清は私、義興が手にかけて、生きながら軍門に恥をさらそう」と申し上げたことなど、

以前誰かが夢に見たと、世間に話されたことも、今は決して嘘の話ではないと、思い知ったのです。      (終り)

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