38 太平記 巻第三十八 (その二)


○細川相摸守討死事付西長尾軍事
讃岐には細川相摸守清氏と細川右馬頭頼之と、数月戦けるが、清氏遂に討れて、四国無事故閑りにけり。其軍の様を伝聞に、相摸守四国を打平げて、今一度都を傾て、将軍を亡し奉らんと企て、堺の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸守がいとこの兵部太輔淡路国の勢を卒して、三百余騎にて馳著。其弟掃部助、讃岐国の勢を相催て五百余騎にて馳加る。小笠原宮内大輔、阿波国の勢を卒して、三百余騎にて馳著ける間、清氏の勢は無程五千余騎に成にけり。其比右馬頭頼之は、山陽道の蜂起を静んとて、備中国に居たりけるが、此事を聞て、備中・備前両国の勢千余騎を卒し、讃岐国へ押渡る。此時若相摸守敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦も利あるまじかりしを、右馬頭飽まで心に智謀有て、機変時と共に消息する人也ければ、兼て母儀の禅尼を以て、相摸守の許へ言遣けるは、「将軍群少の讒佞を不被正、貴方無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝に言無して寇讐に恨有し事、頼之尤其理に服し候き。乍去、故左大臣殿も、仁木・細川の両家を股肱として、大樹累葉の九功を光栄すべしとこそ被仰置候しに、一家の好を放て敵に降り、多年の忠を捨、戦を被致候はん事、亡魂の恨苔の下まで深く、不義の譏り世の末までも不可朽。頼之苟も此理を存ずる故に、全く貴方と合戦を可致志を不廻。往者不尤と申事候へば、御憤今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ御参候へ。御分国已下、悉日来に不替可申沙汰にて候。若又其れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨て備中へ可罷返候。」言を和げ礼を厚して、頻に和睦の儀を請れけるを、相摸守心浅信じて、問答に日数を経ける間に右馬頭中国の勢を待調へ城郭を堅く拵て、其後は音信も無りけり。相摸守の陣は白峯の麓、右馬頭の城は歌津なれば、其あはひ僅に二里也。寄やする待てや戦ふと、互に時を伺て数日を送りける程に、右馬頭の勢、太略遠国の者共なれば、兵粮につまりて窮困す。角ては右馬頭は讃岐国には怺じと見へける程に、結句備前の飽浦薩摩権守信胤宮方に成て、海上に押浮、小笠原美濃守、相摸守に同心して、渡海の路を差塞ける間、右馬頭の兵は日々に減じて落行き、相摸守の勢は国々に聞へて夥し。只魏の将司馬仲達が、蜀の討手に向て、戦はで勝事を得たりけん、其謀に相似たり。七月二十三日の朝、右馬頭帷帳の中より出て、新開遠江守真行を近付て宣ひけるは、「当国両陣の体を見るに、敵軍は日々にまさり、御方は漸々に減ず。角て猶数日を送らば、合戦難儀に及ぬと覚る。依之事をはかるに宮方の大将に、中院源少将と云人、西長尾と云所に城を構てをはすなる。此勢を差向て可攻勢を見せば、相摸守定て勢を差分て城へ入べし。其時御方の勢城を攻んずる体にて、向城を取て、夜に入らば篝を多く焼捨てこと道より馳帰り、軈て相摸守が城へ押寄せ、頼之搦手に廻りて先小勢を出し、敵を欺く程ならば、相摸守縦一騎なり共懸出て、不戦云事有べからず。是一挙に大敵を亡す謀なるべし。」とて、新開遠江守に、四国・中国の兵五百余騎を相副、路次の在家に火を懸て、西長尾へ向られける。如案相摸守是を見て、敵は西長尾の城を攻落して、後へ廻らんと巧けるぞ。中院殿に合力せでは叶まじとて、舎弟左馬助、いとこの掃部助を両大将として、千余騎の勢を西長尾の城へ差向らる。新開元来城を攻んずる為ならねば、態と日を暮さんと、足軽少々差向て、城の麓なる在家所々焼払て、向陣をぞ取たりける。城は尚大勢なれば、哀れ新開が寄て責よかし。手負少々射出して後、一度にばつと懸出て、一人も不残討留んとぞ勇ける。夜已に深ければ、新開向陣に篝を多く焼残して、山を超る直道の有けるより引返して、相摸守の城の前白峯の麓へ押寄る。

☆ 細川相模守が討ち死にしたことと西長尾城における合戦のこと

さて讃岐では細川相模守清氏と細川右馬頭頼之が数ヶ月にわたって戦っていましたが、清氏がついに討たれてしまい、四国は無事に収まりました。その合戦の様子についてこのように伝え聞いています。相模守清氏は四国を完全に支配してから、もう一度都を攻略し将軍(足利義詮)を亡きものにしようと企て、

堺の浜から舟に乗って讃岐に渡ると聞くと、相模守の従兄弟、兵部大輔が淡路国の軍勢三百余騎を率いて駆けつけて来ました。兵部大輔の弟、掃部助が讃岐国の軍勢を招集し、五百余騎にて駆け加わりました。また小笠原宮内大輔が阿波国の兵士三百余騎を率いて駆けつけて来たので、

清氏の軍勢はやがて五千余騎になりました。その頃右馬頭頼之は山陽道で発生した蜂起を収めようと備中国にいましたが、この情報を耳にすると備中、備前両国の軍勢千余騎を率いて、讃岐国に渡りました。もしこの時相模守清氏が舟より敵がおりようとするところに駆け向かって戦ったなら、

有利な戦闘が出来たと思われますが、右馬頭頼之は知恵、謀略に長じており、機に応じて策を立てる人なので、前もって母の禅尼を通じて相模守のもとへ、「将軍は取るに足らない中傷を詳しく調べず、無罪に関わらず貴殿に罪を着せられた時、弁明に努めることをせず、ただ政敵に対して恨みを持ったことは、

この頼之も至極もっともなことだと思っています。とは言えど、故左大臣尊氏殿も仁木、細川両家を足利家の重鎮中の重鎮として、足利家一族に対する忠功を称賛して重用されてきたのに関わらず、この度一家のよしみを捨てて敵に降り、多年の忠功をも無にして合戦を行うこととなれば、

亡き尊氏殿の悲しみは草葉の陰深くに達し、忠義に反する行為としてその非難は、世の末まで朽ちることはないでしょう。頼之はこの理屈が少しばかり理解できるので、貴殿との合戦をする意思はございません。過ぎたことはどうにもならないけれど、将来のことは改めることが可能だと言うこともあるので、

今は憤りもこれまでにしてください。無理を承知してのお願いですが、味方として我が陣に参られるように。貴殿の領国はすべて元通りにいたしましょう。もしそれでも貴殿のお考えに沿わず、あくまで天下の転覆を図ることに固執されるならば、頼之はやむなく四国を捨てて備中に帰ることとしましょう」と言葉を選び礼を尽くして、

申し送っていたのでした。このようにしきりに和睦の申し入れを行ったのを、相模守清氏は深く考えることなく信じて、調整に日数をかけている間に、右馬頭頼之は中国の軍勢の到着を待ち、軍の編成を行うとともに城郭を強化すると、その後は相模守との連絡も途絶えました。

相模守の陣営は白峯(坂出市)の麓であり、右馬頭の城は歌津(香川県綾歌郡宇多津町)なので、両軍の距離は僅か二里(約8Km)です。攻め寄せようかそれとも待ち受けて戦おうかと、互いに機会を狙っているうちに数日が過ぎてしまい、右馬頭の軍勢はほとんどが遠国の者なので、

兵糧が乏しくなり苦しい事態におちいりました。こうなっては右馬頭は讃岐国では持ちこたえられないと思われている時、備前の飽浦(あくら)薩摩権守信胤(のぶたね)が宮方に寝返り、海上に舟を浮かべ兵を展開すると、小笠原美濃守は相模守清氏の味方になって、渡海の航路を閉鎖したので、

右馬頭頼之の兵士は逃げ落ちて日々に少なくなり、相模守の勢いは近隣の国々に知れ渡り増加するばかりです。この状況は魏の将官、司馬仲達が蜀国の討っ手に対して、戦うことなく勝利を収めた時の謀略に似ているところがあります。康安二年(正平十七年::1362年)七月二十三日の朝、

右馬頭頼之は陣営から出ると、新開(しんがい)遠江守真行(さねゆき)を傍に呼んで、「ここ讃岐における両軍の状況を見ると、敵軍は日々その数を増やし、味方は徐々にその数を減らしている。この状況でこのまま数日を過ごせば、合戦は困難を極めると思える。今の状況において作戦を考えるならば、

宮方の大将で中院(なかのいんの)源少将と言う人が、西長尾(丸亀市::西長尾城)と言う所で城を構えておられるが、この軍勢に向かって攻撃をかけるそぶりを見せると、相模守は間違いなく軍勢を分けて城に入るだろう。その時味方の軍勢は城への攻撃態勢を取って、

向城(敵城を攻めるために構築する築く城)を構え、夜になると篝を多数燃やし別の道を通って駆け戻ると、すぐに相模守の城に押し寄せ頼之が搦手に回り、まず小勢で仕掛けて敵を騙し混乱させれば、相模守清氏はたとえ一騎であっても、駆け出て来て戦う事間違いないだろう。

これが一挙に大敵を滅ぼす謀略だろう」と言って、新開遠江守に四国、中国の兵士五百余騎を従わせ、道中の民家にに火をかけながら西長尾城に向かわせました。予想通り相模守はこの状況に、敵は西長尾城を攻め落としてから後方に回ろうと言う作戦に違いない。

中院殿の軍勢と一つにならねば対抗出来ないだろうと、舎弟の左馬助頼和と従兄弟の掃部助両人を大将に命じて、千余騎の軍勢を西長尾城に向かわせました。新開はもともと攻城が目的ではないので、わざと日を稼ぐため足軽を少しばかり城に向かわせ、城の麓で所々の民家を焼き払い、

向陣(向城と同じような陣)を構えました。敵城には大軍がいますので、新開め、早く攻め寄せて来ればよいのに。負傷者を少しばかり出させてから、一斉に駆け出て一人残さず討ち取ってやろうと奮い立ちました。夜もすでに更けてきたので、新開は向陣に多数の篝を焼いたままにして、

山越えの近道を通って引き返し、相模守の城前方、白峯の麓に押し寄せました。


兼て定めたる相図なれば、同二十四日の辰刻に、細川右馬頭五百余騎にて搦手へ廻り、二手に分れて時の声をぞ挙たりける。此城元来鳥も難翔程に拵たれば、寄手縦如何なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易可攻落城ならず。其上新開、西長尾より引帰ぬと見へば、左馬助・掃部助軈て馳帰て、寄手を追掃はん事、却て城方の利に成べかりけるを、相摸守はいつも己が武勇の人に超たるを憑て、軍立余りに大早なる人なりければ、寄手の旗の手を見ると均く、二の木戸を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷の小袖引せたをりて、鎧許を取て肩に抛懸て、馬上にて上帯縮て、只一騎懸出給へば、相順ふ兵三十余騎も、或はほうあてをして未胄をも不著、或は篭手を差して未鎧を不著、真前に裹連たる敵千余騎が中へ破て入る。哀れ剛の者やとは乍見、片皮破の猪武者、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守敵を物とも思はざりけるも理り哉。寄手千余騎の兵共、相摸守一騎に懸分られて、魚鱗にも不進鶴翼にも不囲得、此の塚の上彼の岡に打上りて、馬人共に辟易せり。相摸守は鞍の前輪に引付て、ねぢ頚にせられける野木備前次郎・柿原孫四郎二人が首を、太刀の鋒に貫て差挙げ、「唐土・天竺・鬼海・太元の事は国遠ければ未知、吾朝秋津島の中に生れて、清氏に勝る手柄の者有とは、誰もやはいふ。敵も他人に非ず、蓬く軍して笑はるな。」と恥しめて、只一騎猶大勢の中へ懸入給。飽まで馬強なる打物の達者が、逃る敵を追立々々切て落せば、其鋒に廻る者、或は馬と共に尻居に打居られ、或は甲の鉢を胸板まで被破付、深泥死骸に地を易たり。爰に備中国の住人真壁孫四郎と備前国の住人伊賀掃部助と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引けるを、相摸守追付て切んと、諸鐙を合せて責られける処に、陶山が中間そばなる溝にをり立て、相摸守の乗給へる鬼鹿毛と云馬の、草脇をぞ突たりける。此馬さしもの駿足なりけれ共、時の運にや曵れけん一足も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守は近付て、敵の馬を奪はんと、手負たる体にて馬手に下り立ち、太刀を倒に突て立れたりけるを、真壁又馳寄せ、一太刀打ち当倒んとする処に、相摸守走寄て、真壁を馬より引落し、ねぢ頚にやする、人竜礫にや打つと思案したる様にて、中に差上てぞ立れたる。伊賀掃部助高光は懸合する敵二騎切て落し、鎧に余る血を笠符にて押拭ひ、「何くにか相摸殿のをはすらん。」と東西に目を賦る処、真壁孫四郎を中に乍提、其馬に乗んとする敵あり。「穴夥し。凡夫とは不見、是は如何様相摸殿にてぞをはすらん。是こそ願ふ処の幸よ。」と思ければ、伊賀掃部助畠を直違に馬を真闇に馳懸て、むずと組で引かづく。相摸守真壁をば、右の手にかい掴で投棄、掃部助を射向の袖の下に押へて頭を掻んと、上帯延て後に回れる腰の刀を引回されける処に、掃部助心早き者なりければ、組と均く抜たりける刀にて相摸守の鎧の草摺はねあげ、上様に三刀さす。刺れて弱れば刎返して、押へて頚をぞ取たりける。さしもの猛将勇士なりしか共、運尽て討るゝを知人更に無りしかば、続て助る兵もなし。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方もなし。其身は深田の泥の土にまみれて、頚は敵の鋒にあり。只元暦の古、木曾義仲が粟津の原に打れ、暦応二年の秋の初、新田左中将義貞の足羽の縄手にて討れたりし二人の体に不異。西長尾の城に向られたりつる左馬助、二十四日の夜明て後、新開が引帰したるを見て、「是は如何様相摸殿御陣の勢を外へ分させて、差違ふて城へ寄んと忻けるを。軍今は定て始りぬらん。馳返て戦へ。」とて、諸鐙に策をそへて、千里を一足にと馳返り給へば、新開道に待受て、難所に引懸て平野に開合せ、入替々々戦たり。互に討つ討れつ、東西に地を易へ、南北に逢つ別つ、二時許戦て、新開遂に懸負ければ、左馬助・掃部助兄弟、勝時三声揚させて、気色ばうたる体にて、白峯城へ帰給ふ。斯る処に笠符かなぐり捨て、袖・甲に矢少々射付られたる落武者共、二三十騎道に行合たり。迹に追著て、「軍の様何と有けるぞ。」と問給へば、皆泣声にて、「早相摸殿は討れさせ給て候也。」とぞ答へける。「こは如何。」とて、城を遥に向上たれば、敵早入替ぬと覚て、不見し旗の紋共関櫓の上に幽揚す。重て戦んとするに無力、楯篭らんとするに城なければ、左馬助・掃部助、落行勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其国に志有し兵共、此事を聞て、何しか皆心替しければ、淡路にも尚たまり得ず、小船一艘に取乗て、和泉国へぞ落られける。是のみならず、西長尾城も被攻ぬ前に落しかば、四国は時の間に静りて、細川右馬頭にぞ靡順ひける。

前もって決めていた作戦なので、同じく康安二年(正平十七年::1362年)七月二十四日の辰刻(午前八時頃)に、細川右馬頭は五百余騎を率いて搦手に回ると、二手に分かれて鬨の声をあげました。この城はもともと鳥でさえ飛び回ることが難しいような造りになっていますので、寄せ手がたとえ如何に大軍であっても、

十日や二十日で簡単に城を落とすことなど出来ません。その上、新開遠江守が西長尾城から引き返してきたと分かると、左馬助、掃部助もすぐに馳せ帰ってきたので、寄せ手を追い払うのはかえって城方にとって有利になったのに、相模守清氏はいつも自分が誰よりも武勇に優れていると自信があり、

軍勢の配置などにあまりこだわらない人なので、寄せ手の旗を見ると一斉に二の木戸(外から二番目の城門)を開かせ、小具足(鎧以外の防具)さえも着けずに、裏地のついた小袖の裾をからげて帯に挟み、鎧だけを取ると肩に投げかけ、馬上で上帯を締めながら、ただ一騎で駆け出しました。

相模守に従う兵士ら三十余騎は、ある者は頬当て(あごから頬にかけて当てる防具)だけを着けてまだ兜は着けていませんし、また籠手は着けていますが鎧は着けていない者などが、真っ先に取り囲むように進んでくる敵千余騎の中に割って入りました。確かに勇気ある武者だとは見えますが、

命知らずの猪武者が馬鹿げたことをしているようにも思えます。なるほど相模守が敵を物ともしないことの証明のようです。寄せ手千余騎の兵士らは、相模守一騎に分断され、魚鱗(ぎょりん::魚のうろこのように中央部を突出させた陣形)に構えることも出来ず、

鶴翼(かくよく::鶴がつばさを張った形に兵を配置し、敵を包囲する陣形)の陣形で包囲することも出来ず、こちらの塚の上や、向こうの岡に上って人馬共々、圧倒されてたじろぐばかりです。相模守は鞍の前輪に引付て首をねじって殺した、野木(やぎ)備前次郎と柿原(かきはら)孫四郎二人の首を、

太刀の切っ先に貫いて差し上げると、「唐土、天竺(インド)、鬼海(東南アジア?)、太元(モンゴル?)のことは遠国ゆえに知らないが、我が国、秋津島(あきつしま::大和国の異称)に生まれて清氏に勝る剛勇の者がいると誰が言うのだ。敵であっても他人とは思えぬ、醜い戦をして笑われるな」と小馬鹿にして、

ただ一騎で大軍の中に駆け入りました。とことん馬術剣術に優れた勇者が、逃げる敵を追いかけ追いかけて切り落すので、その切っ先に狙われた者は、馬と一緒になって尻もちをついて討ちすえられたり、またある者は兜の鉢を胸板まで切り裂かれ、深い泥地は死骸で埋められました。

その時、備中国の豪族、真壁(まかべ)孫四郎と備前国の豪族、伊賀掃部助の二騎が田の中を通る細道を静々と退くのを、相模守が追いかけて斬ろうと馬の両の鐙を蹴り、攻め寄せようとしたところを、陶山(異本に真壁が陶山となっているのがあるようだ)の中間がそばの溝に降り立ち、

相模守の乗った鬼鹿毛と言う馬の草脇(くさわき::馬の前胸部)を突き刺しました。この馬は相当な俊足でしたが、時の運に見放されたのか足は一歩も動かず、その場に立ちすくみました。相模守は近づいて敵の馬を奪おうと、負傷した恰好で馬の右側に降り立ち、太刀を逆さまにして突き立てているのを、

真壁が再び駆け寄り一太刀浴びせようとしたところを、相模守は走り寄り真壁を馬から引き落とし、首をねじ切ってやろうか、それとも小石のように投げつけ討ち取ろうかと考える様子を見せて、宙に差し上げて立ちました。伊賀掃部助高光は駆け合わせて来る敵を二騎切り落とし、

鎧に流れる血を笠印で押し拭い、「どこかに相模守殿はおられぬか」と東西に目をやったところ、真壁孫四郎を宙に持ち上げ、その馬に乗ろうとする敵を見つけました。「なんと力の強い男だ、普通ではない、間違いなく相模殿であろう。願ってもない幸運だ」と思い、

伊賀掃部助は畑を斜めに横切ると馬を一目散に駆け寄せ、むんずと組み付き引っ張り落としました。相模守は真壁を右の手でつかむと放り投げ、掃部助を射向けの袖(鎧の左側の袖)の下に押さえつけて頭を切り落そうと、上帯が伸びたため背中に回った腰の刀を引き寄せようとしたところに、

掃部助は機敏な人間なので、組むと同時に抜き放った刀で相模守の鎧の草摺り(くさずり::鎧の下部にある大腿部を守るための防具)を跳ね上げ、上向きに三回刀で刺しました。刺されて弱って来た相模守を跳ね返すと、押さえつけて首を掻き切りました。あれほど猛将であり勇猛な武士ではありますが、

武運尽きて討たれたことを知る人間もいないので、続けて助けに来る兵士はいませんでした。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長が討ち死にをした以外、ここで一緒に討ち死にした味方はいませんでした。遺骸は深田の泥土にまみれ、首は敵が手にした刀の切っ先に貫かれています。

この様子はその昔、元暦元年(寿永三年::1184年)に木曾義仲が粟津(あわづ::大津市)の松原で討たれ、また暦応二年(延元四年::1339年)(暦応元年、延元三年::1338年の間違い?)の秋の初め頃、新田左中将義貞が藤島の戦いの時、足羽の縄手で討たれた二人の様子と、変わるところはありません。

西長尾の城に向かっていた細川左馬助頼和は、二十四日の夜が明けてから、新開が引き返しているのを見て、「これは間違いなく相模殿の軍勢を外におびき出し、入れ替わるようにして城に寄せる作戦だろう。今はもう合戦は始まっているに違いない。駆け戻って戦え」と言って、両の鐙で馬の腹を蹴り、

千里を一っ跳びの勢いで駆け戻ると、新開は街道途中で待ち伏せして、足場の悪い場所に引き入れたり、平場で展開するなど、入れ替わりまた入れ替わって戦いました。お互い討たれ討たれつ、東西に場所を入れ替わったり、南北に駆け違ったりして二時(ふたとき::約四時間)ばかり戦った挙句、

新開はとうとう負けてしまったので、左馬助と掃部助兄弟は勝鬨を三度繰り返し、意気揚々と白峯城に帰られました。その時、笠印をかなぐり捨て、鎧の袖や兜に少しばかり矢の刺さった落ち武者ら二、三十騎と途中で行き会いました。彼らに近づいて、「合戦の様子はどうなのか」と問いかけると、

皆泣き声で、「はや、相模殿は討たれました」と、答えました。「なんという事だ」と言って、城をはるかに見上げると、敵は早くも入れ替わって入城したようで、見かけない紋のついた旗が城戸や櫓に翻っているように見えます。この上再び戦うには戦力が不足しているし、立て篭もろうとしても城がないので、

左馬助、掃部助は落ち武者らを引き連れて、淡路国に落ち延びられました。淡路国で相模守に味方をしていた武将らは、この合戦の顛末を聞くといつしか皆は方針替えをしたため、淡路に留まることも出来ず、小舟一艘に乗り和泉国に落ちられました。これだけでなく、

西長尾城も攻撃を受ける前に落ちてしまったので、四国はアッと言う間に鎮静化して、細川右馬頭頼之に服従することになりました。


○和田楠与箕浦次郎左衛門軍事
南方の敵軍和田・楠も、相摸守に兼て相図を定て、同時に合戦を始んと議したりけるが、七月二十四日相摸守討れて、四国・中国は太略細川右馬頭頼之に靡順ぬと聞へければ、日来の支度相違して、気を損じ色を失てぞ居たりける。さもあれ、加様にて徒に日を送らば、敵は弥勝に乗て、諸国の御方降人になる者ありぬと覚れば、一軍して国々の宮方に気を直させんとて、和田・楠其勢八百余騎を卒し、野伏六千余人神崎の橋爪へ打臨む。此比摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道々誉が持たりければ、其身は京都に有乍ら、箕浦次郎左衛門に勢百四五十騎付て、国の守護代にぞ置たりける。催促の国人取合て、其勢僅に五百余騎、神崎の橋二三間焼落て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃を汰て待懸たり。和田・楠態敵を忻ん為に、神崎の橋爪と株瀬と二箇所に打向て引へたれば、此を渡させじと、箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ馳向ふ。守護代箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ打臨む。橋桁は元来焼落したり、株瀬は水深し。和田・楠が兵共、縦弥長に思ふ共、可渡とは見へざりけり。八月十六日の夜半許に、和田・楠、元の陣に尚控へたる体を見せん為に、殊更篝を多く焼続けさせて、是より二十余町上なる三国の渡より打渡て、小屋野・富松・河原林へ勢を差回して、敵を河へ追はめんと取篭たり。京勢は是を夢にも知ねば、徒に河向に敵未引へたりと肝繕して居たる処に、小屋野・富松に当て、所々に火燃出て、煙の下に旗の手数た見へたり。是までも尚敵川を越たりとは思も不寄、焼亡は御方の軍勢共の手過ちにてぞ有らんと由断して、明行侭に後を遥に見渡したれば、十余箇所に村雲立て引へたる勢、旗共は、皆菊水の紋也。「さては敵早川を渡してけり。平場の懸合は叶まじ、城へ引篭て戦へ。」とて、浄光寺の要害へ引返さんとすれば、敵はや入替りたりと覚て、勝時を作る声、浄光寺の内に聞へたり。是を見て中白一揆の勢三百余騎は、国人なれば案内を知て、何の間にか落失けん一騎も不残留、只守護の家人僅五十余騎、思切たる体に見へて、二箇所に控へて居たりける。両所に扣へたる勢、一所に打寄らんとしけるが、敵の大勢に早中を隔られて不叶ければ、箕浦次郎左衛門東を差して落行に、両方深田なる細堤を、敵立切て是を打留めんと、行前を遮り道を要て、取篭事度々に及べり。され共箕浦懸破ては通り取て返ては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門は討れぬ。是を見て芥河右馬允、すげなう引分れて落て行んとしけるを、「日比の口には似ぬ者哉。」と箕浦に言を被懸、一所に打寄て相伴ふ。箕浦是を案内者にて、数箇所の敵の中を遁れ出、都を差てぞ上りける。

☆ 和田と楠木が箕浦次郎左衛門と合戦したこと

さて南方吉野の敵軍、和田と楠木は細川相模守清氏と前もって合図を決め、同時に合戦を起こそうと相談していましたが、康安二年(正平十七年::1362年)七月二十四日、相模守が討たれてしまい、四国、中国のほとんどが細川右馬頭頼之に服従することになったと聞くと、いつもの緊張感も無くなり、

落胆し気力も失せてしまいました。とは言えども、このようにいたずらに日を過ごしていれば、敵はますます勝ちに乗じ、諸国の味方にも寝返る者が出て来るのではと思え、ここで一合戦でもして諸国の宮方に奮起をしてもらおうと、和田、楠木は八百余騎を率い、

野伏(のぶせり::山野に隠れて追剥や強盗などを働いた武装農民ら)の六千余人と神崎川の橋詰に展開しました。この当時摂津国の守護は佐々木佐渡判官入道道誉が務めており、本人は京都に在住しながら、箕浦次郎左衛門に軍勢として百四、五十騎を与えて、摂津国の守護代として配置していました。

招集をかけた土地の武将らを合わせてわずか五百余騎が、神崎橋の二、三間を焼き落として、敵が川を渡ろうとすれば途中で全員射落とそうと、弓矢を揃えて待ち受けました。和田と楠木は敵をあざむくため、神崎の橋詰と杭瀬(くいせ::尼崎市)の二ヶ所に向かい控えたので、此処を渡してはならないと、

箕浦弥次郎、同じく四郎左衛門、塩冶(えんや)六郎左衛門、多賀将監、後藤木村兵庫允(じょう)泰則(やすのり)以下、五十余騎は杭瀬に馳せ向かいました。また守護代、箕浦次郎左衛門、伊丹大和守、河原林(かわらばやし)弾正左衛門、芥河右馬允(あくたがわうまのじょう)

中白(なかじろ)一揆ら三百余騎は神崎橋の橋詰で待機しました。橋桁は前もって焼き落としていますし、杭瀬は水深がかなりあります。和田、楠木の兵士らがいくら勇み立とうとも、渡ることは出来そうにありません。康安二年(正平十七年::1362年)八月十六日の夜半頃、

和田、楠木が今なお元の陣営に控えているように見せるため、ことさら篝火を多数燃え続けさせておき、ここより二十余町(約2.2Km)ほど上流の三国(大阪市)の渡しを渡って、昆陽野(こやの::伊丹市)、富松(とまつ::尼崎市)、河原林に軍勢を向かわせ、敵を川に追い落とそうと取りこめました。

京都勢(幕府軍)はこのことを全く知らないので、敵は今も川の向こう岸に控えていると思い込んでいる所に、昆陽野、富松あたりに所々で火が燃え出し、煙の下に旗が多数見えています。この時になっても敵はまだ川を渡っているとは思いも寄らないので、この火は味方の軍勢らの不注意から起こったのではと油断し、

夜が明けてからはるか後方を見渡すと、十余ヶ所に群がっている軍勢の旗は皆、菊水の紋がついています。「そうすると敵はすでに川を渡ったのか。平場で駆け合っての戦いは勝ちそうにない、城に引き篭もって戦うことだ」と言って、防御に適した浄光寺(尼崎市)に引き返そうとしましたが、

敵は早くも侵入したと思われ、浄光寺の中から勝鬨をあげる声が聞こえます。この状況を見て、中白一揆の軍勢三百余騎は、当国の人間であり地理に明るいから、いつの間にか落ち逃げて、一騎さえ留まってはいませんが、ただ守護の家来ら僅か五十余騎が覚悟を決めた様子で、二ヶ所で控えていました。

二ヶ所に控えた軍勢は一ヶ所に集まろうとしますが、すでに敵の大軍に中を遮られて動けないので、箕浦次郎左衛門は東に向かって落ちて行こうとしましたが、敵は両側に深田の控えた細い土手を遮断して討ち取ろうと、行く先を遮るため道にたむろしており、取りこめられることも度々ありました。

しかし箕浦は囲みを破って通り抜け、引き返しては戦いましたが、一番最初に河原林弾正左衛門が討たれました。これを見て芥河右馬允が無情にもこの場から落ちようとしたのを、「日頃、話していることに似合わない行動だぞ」と箕浦に言葉をかけられ、一ヶ所に寄り合いました。

箕浦は芥河を道案内にして数ヶ所の敵を破って逃れ出ると、都を目指して上りました。


下の手に扣へたる者共は、落方を失て惘然として居たるを、木村兵庫允泰則、「兵共の掟、面々存知の前なれ共、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生んとすれば死る者にて候ぞ。只幾度も敵のなき方へ引かで、敵の大勢扣へたらん所へ懸入て戦はんに、討れば元来の儀、討れずは懸抜て、西を指て落て行んに、敵もさすが命を捨ては、さのみ長追をばし候はん哉。と云処げにもと思はゞ、泰則に続けや人々。」と云侭に、浄光寺前に百騎許扣へたる敵の方へ、馬を引返して歩ませ行く。敵是を見て、是は何様降人に出る者かと、少し猶余して扣へたる処に、歩立なる石津助五郎行泰に、矢二筋三筋射させて、敵の馬の足少しどろになれば、三騎の者どもをつと喚て懸入るに、百騎許扣へたる敵颯と分れ靡きて、敢て是に当らんとせず。只射手を進めて射させける程に、箕浦弥次郎討れぬ。同四郎左衛門深手を負て田中に臥たり。塩冶六郎左衛門・木村兵庫も、馬の平頚・草脇二所射させて深田のあぜに下立たり。すはや討れぬと見へけるが、木村兵庫放れ馬のありけるに打乗て、かちに成りたる塩冶を、馬の上より手を引て尼崎へ落て行く。敵迹に付ても追ざりければ、道場の内に一夜隠れ居て翌の夜京へぞ上りける。和田・楠等只一軍に摂州の敵を追落して勝に乗といへ共、赤松判官・信濃彦五郎兄弟、猶兵庫の北なる多田部城に篭て、兵庫湊河を管領すと聞へければ、九月十六日、石堂右馬頭・和田・楠三千余騎にて、兵庫湊川へ押寄せ、一宇も不残焼払ふ。此時赤松判官兄弟は、多田部・山路二箇所の城に篭て、敵懸らば爰にて利をせんと待懸けるが、楠いかゞ思ひけん、軈て兵庫より引返しければ、赤松出会に不及、野伏少々城より出して、遠矢射懸たる許にて、墓々敷軍は無りけり。都には同九月晦日改元有て貞治と号す。是は南方の蜂起さてもや静まると、諸卿申合れし故也。げにも改元の験にや、京都より武家の執事尾張大夫入道、大勢を討手に下すと聞へければ、和田・楠又尼崎・西宮の陣を引て河内国へ帰りぬ。是を聞て山名伊豆守時氏が勢の、丹波の和久に居たりしも、因幡国へぞ引返しける。今年天下已に同時に乱て、宮方眉開きぬと見へけるが、無程国々静りけるも、天運の未至らぬ処とは云ながら、先は細川相摸守が楚忽の軍して、無云甲斐討死をせし故也。

もう一ヶ所に控えていた軍勢は、落ち行く先もなくなり茫然としていましたが、木村兵庫允泰則が、「兵士としての心構えたるもの、皆々ご存じのことだと思うが、戦闘が苦しい展開の時、死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬものである。ただ何度も敵のいない方向に向かうのではなく、

敵の大勢が控えている所に駈け入って戦えば、討たれてもともとであり、討たれなければ駆け抜け、西に向かって落ちて行けば、敵もさすがに命がけで長追いなどしないものである。このこと、なるほどと思う者は、この泰則に続けや、皆の者」と言うや、浄光寺の前に控えていた百騎ばかりの敵に向かって、

馬を返して歩ませました。敵はこの様子に、何だこれは降参するつもりなのかと、少し不審げに控えていたところ、徒歩立ちの石津助五郎行泰に矢を二、三筋射させました。敵の馬が少しばかり足がよろついたので、突然三騎の兵士を喚きながら駈け入らせました。

百騎ばかり控えていた敵は、サッと二つに割れたままで、全く攻撃を仕掛けて来ません。ただ射手を前進させて射かけてくるだけなのに、箕浦弥次郎は討たれてしまいました。同じく四郎左衛門も重傷を負って田んぼに伏せてしまいました。また塩冶六郎左衛門と木村兵庫も、

馬の平頚(ひらくび::馬の首両側の平らな場所)と草脇(胸先)二ヶ所を射られ、深田の畔に降り立ちました。もはや討たれるのではと見えましたが、木村兵庫は乗り手のいない馬がいたのでそれに乗り、徒歩になった塩冶を馬の上から引き上げると、尼崎に向かって落ちて行きました。敵は後を追ってこなかったので、

とある寺院で一夜を隠れ過ごし、翌日の夜京都に上りました。和田、楠木らの軍勢は、ただの一戦で摂津国の敵を追い落とし勢いづいたとは言っても、赤松判官光範と信濃彦五郎兄弟が、今なお兵庫の北方再度山にある多田部(たたへの)(大龍寺)に篭って、兵庫湊川を支配下に置いていると言われているので、

康安二年(正平十七年::1362年)九月十六日、石塔右馬頭、和田、楠木らの三千余騎が兵庫湊川に押し寄せ、一軒残らず焼き払いました。この時、赤松判官兄弟は多田部城と山路(やまじ)(別名:諏訪城。神戸市)の二つの城に篭って、敵が押し寄せて来たなら、ここで戦い勝利を収めようと待ち構えていましたが、

楠木は何を考えたのかすぐに兵庫から撤退したので、赤松は敵と出会うことなく、野伏らを少しばかり城から出して遠矢を射かけた程度で、これと言った戦闘はありませんでした。都ではこの九月晦日に改元が行われ、貞治となりました。これは南方吉野朝廷の蜂起もこれによって鎮まるのではと、

諸卿らが話し合われた結果です。なるほど改元した効果なのか京都より幕府の執事、尾張大夫入道(斯波高経)が討っ手として大軍を向かわせると言われ出したので、和田、楠木は再び尼崎、西宮の陣を引き払い、河内国に帰りました。この情報に山名伊豆守時氏の軍勢は、

丹波の和久に駐留していましたが、これも因幡国に引き返しました。今年になって天下が同時に乱れだし、宮方にとっても好機到来と思われましたが、やがて諸国の騒動が鎮まったのは、南方の天運も未だ熟してはいないからだとは言えども、何はともあれ細川相模守清氏が軽率な軍をして、

馬鹿げた討ち死にをしたからです。


○太元軍事
昔孔子謂顔淵曰、「用之則行舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」とほめ給ひけるを、傍にて聞ける子路、大に忿て曰、「子行三軍則誰与。」と申ければ、孔子重て子路を諌て曰、「暴虎憑河死而無悔者吾不与也。必也。臨事而懼、好謀而成者也。」とぞ宣ひける。されば古も今も、敵を滅し国を奪ふ事、只武く勇めるのみに非ず。兼ては謀を廻らし智慮を先とするにあり。今大宋国の四百州一時に亡て、蒙古に奪はれたる事も、西蕃の帝師が謀を廻せしによれり。其草創のよれる所を尋ぬれば、宋朝世を治て已に三十七代、其亡し時の帝をば幼帝とぞ申ける。此時太元の国主老皇帝、其比は未吐蕃の諸侯にてありけるが、哀れ何にもして宋朝四百州・雲南万里・高麗三韓に至るまで不残是を打取ばやと思ふ心、骨髄に入て止時なし。或時彼老皇帝此事を天に仰ぎ、少し目睡給ける夢に、「宋朝の幼帝と太元の老皇帝と楊子江を隔て陣を張て相対する事日久し。時に楊子江、俄に水旱て陸地となる。両陣の兵已に相近て戦はんとする処に、幼帝は其身化して勇猛忿迅の獅子となり、老皇帝は形俄に変じて白色柔和の羊となる。両方の兵是を見て、弓をふせ戈を棄て、「天下の勝負は只此獅子と羊との戦に可在。」と伺見る処に、羊獅子の忿れる形に懼れて忽に地に倒る。時に羊二の角と一の尾骨をつき折て、天にのぼりぬ。」とぞ見給ひける。老皇帝夢醒て後心更に悦ばず、大に不吉なる夢なりと思ひ給ければ、夙に起て西蕃の帝師に此夢を語り給ふ。帝師是を聞て心の中に夢を占て謂、「羊と云文字は八点に王を書て懸針を余せり。八点は角なり、懸針は尾なり。羊二の角と一の尾を失はゞ王と云字になるべし。是老皇帝太元宋国高麗の国を合せ保て天下に主たるべき瑞相也。又宋朝の幼帝獅子に成て闘ひ忿ると見へけるも、自滅の相也。獅子の身中に毒虫ありて必其身を食殺す。如何様幼帝の官軍の中に弐ある者出来て、戈を倒にする事あるべし。」と占。夢の理り明に両方の吉凶を心に勘へければ、「是大なる吉夢也。時を不易兵を召れて宋国を可被攻。」とぞ、帝師勧め申されける。老皇帝は元来帝師が才智を信じて、万事を是が申侭に用ひ給ひければ、重て吉凶の故を尋問までに不及、太元七百州の兵三百万騎の勢を催して、楊子江の北の畔に打臨み、河の面三百余箇所に浮橋を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。太宋国幼帝此事を聞給て、「さらば討手を差下せ。」とて、伯顔丞相を上将軍として百万騎、襄陽の守呂文煥を裨将軍として三十万騎、大金の賈似道・賈平相兄弟を副将軍として、六十万騎を差下さる。三軍の兵三百万騎、江南に打臨み、夜を日に継で、楊子江を前に直下て、三箇所に陣をぞ取たりける。中にも伯顔丞相一陣に進て、楊子江の南に控へたりけるが、太元の兵共の浮橋をかけ陣を張たる体を見て、謀を廻して不戦勝事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里後に高く岨き山を城に拵て、四方の屏を何に打破る共無左右破られぬ様に高く塗せて、内に数千間の家を透間もなく作り並べ、櫓の上矢間の陰に、人形を数千万立置て、或は戈をさしまねき刃を交へ或は大皷を打弓を引て、戦を致さんとする様に、風を以て料理、水を以てあやつりて、岩を切たる細道に、たゞ木戸一開て、内に実の兵を二百余人留置き、敵城へ寄せば暫し戦ふ真似をしてふせぎ兼たる体を見せよ。敵勝に乗て城中へ責入らば敵を皆内へ帯き入て後、同時に数千の家々に火を懸て、己が身許隠して、堀たる土の穴より遁出て敵を皆可焼殺とぞ謀りける。

☆ 大元(蒙古)が行った合戦のこと

昔、孔子が顔淵(がんえん::孔門十哲の一人)に向かって、「採用されれば俗世で活躍し、採用されなければ俗世から離れる。こんなことが可能なのは私と汝だけだろう」と褒めたたえられたのを、傍で聞いていた子路(しろ::孔門十哲の一人)が大変憤慨しながら、「先生が三軍を指揮する時には、

誰と一緒に行動するのですか」と申し上げると、孔子は子路を諭すように、「暴虎(ぼうこ::虎を素手で打つこと)や憑河(ひょうが::黄河を徒歩で渡ること)をして命を落としても、後悔しないような無鉄砲な人間とは、私は一緒に行動しない。当然だろう。事に臨んで非常に用心深く、綿密な計画のもとに、

物事を成し遂げることの出来る人物としたいものだ」と、仰せられました。だから昔から今に至るも、敵を滅ぼし国を奪うことは、単に武力に勝り勇気あることだけで可能なものではない。前もって謀略をめぐらし、物事を深く考え、知恵を働かせることを優先しなければならない。

今、大宋国(南宋)の四百州が一瞬のうちに滅ぼされて、蒙古(モンゴル)に奪われたのも、西蕃(せいばん::チベット周辺国)の帝師(皇帝に仕える軍師::バヤンのことか?)が謀略をめぐらしたからである。大宋国滅亡の事情を調べてみると、宋朝が世の中を治めてすでに三十七代になり、その滅亡の時、

帝の位に就いていたのは幼帝(南宋最後第九代皇帝、祥興帝::しょうこうてい)と言いました。この時大元の国主である老皇帝(クビライ::フビライ)、その頃はまだ吐蕃(とばん::チベット)の諸侯(帝から所領を与えられ人民を支配する人)でしたが、どんなことがあっても、宋朝の四百余州、

雲南万里(中国の南西部一帯)そして高麗三韓(高句麗、馬韓、弁韓、辰韓)に至るまで残らず奪取しようという気持ちが、骨髄にまで染み込み収まることがありませんでした。ある時この老皇帝がこの思いを天に願いをかけ、少しばかりまどろんだ時、「宋朝の幼帝と大元の老皇帝とが、

揚子江を挟んで陣を構えて睨みあう事、長きにわたっていました。偶然ある時、突然揚子江の水が枯れて陸地になりました。両陣の兵士ら早くも近づいて戦闘が起ころうとした時、幼帝はその姿を変え、何物にも恐れることのない激しい気性を持った獅子(ライオン)となり、老皇帝も同じく姿を変え、

優しくおとなしい白い羊になりました。両軍の兵士らはこれを見て、弓を伏せ戈(か::鉾:古代中国の武器)を捨てて、『天下の勝負は、ただこの獅子と羊の戦いで決することになるだろう』と成り行きを見守っていたところ、羊は獅子の怒った形相に恐れて、すぐ地に倒れ込みました。

その時、羊は二本の角と一本の尾骨を折って天に上りました」と、言う夢を見ました。老皇帝(クビライ)は夢から覚めてから気分が晴れず、大変不吉な夢を見たのではないかと思われ、すぐに起きると西蕃の帝師にこの夢のことを話されました。帝師はこの夢の話を聞くと、心の中でこの夢を占い、

「羊と言う文字は八の形に字を書き、その下に王を書いて懸針(けんしん::縦の画の下端を筆をはらって、針先のようにとがらす筆法)を用いています。八点は角で、懸針は尻尾です。羊の二つの角と一つの尻尾を失うと、王と言う字になります。これすなわち、老皇帝が大元国と高麗の国を合わせ支配して、

天下の主となると言うめでたい兆しでしょう。また宋朝の幼帝が獅子に姿を変え、怒り闘うように見えたのは、自滅の相を表しています。獅子の身中には毒虫がいて、必ずその身体を食い殺します。間違いなく幼帝の率いる官軍の中から裏切る者が現れ、武器を味方に向けることになるでしょう」と、占いました。

夢の占い結果により、明らかに両方の吉凶についての判断を心に植え込んだので、「これはとんでもない吉夢です。時を移さず兵士を率い、宋国を攻撃されるのが良いでしょう」と、帝師は勧められました。老皇帝はもともと帝師の知略智謀を信じ切って、万事彼の言うがままに採用されていますから、

改めて吉凶の分析理由を問うまでもなく、大元七百州の兵士三百万騎の軍勢を招集し、揚子江の北岸に侵攻し、河の水面三百余ヶ所に浮橋を架けて、同時に兵士を渡河させようと準備を進めました。大宋国の幼帝はこの情報を耳にすると、「ならば討手を向かわせよ」と言って、

伯顔丞相(はくがんじょうしょう)を上将軍(総大将)に命じて百万騎、襄陽(湖北省)の守将(しゅしょう::官職名)、呂文煥(りょぶんかん::南宋末期の軍人)を将軍補佐として三十万騎、大金(たいきん::女真族の王朝)の賈似道(かじとう::南宋末期の軍人)、賈平相(かへいしょう)兄弟を副将軍として六十万騎を向かわせました。

三軍の軍兵三百万騎は江南(揚子江南方)に侵攻すると夜を日に継いで進軍し、揚子江を前にして、三ヶ所に陣営を構えました。その中でも伯顔丞相は先鋒に進み出て揚子江の南に控えましたが、大元の兵士らが浮橋をかけ陣を構えているのを見て、謀略をめぐらして戦わずして勝つのは難しいと思い、

現在の陣から六十里(約24Km)後方の高く険しい山に城を構築し、四方の塀を如何なる攻撃にも耐えられるよう高く造り上げ、内部には数千軒の家屋を隙間なく造り並べました。また、櫓の上には矢狭間(やざま::城壁などに開けた矢を射るための穴)の陰に人形を数千万体立てて置き、

また戈を振り回して刃を交えているように見せたり、また大皷(おおかわ::鼓の様な形の楽器)を打ち鳴らし弓を引き、戦をしているように見えるよう、風を利用したり、水で操ったりして造り上げ、岩を切り通した細道にただ一つの木戸だけを開き、内部には本物の兵士ら二百余人を留めおいて、

敵が城に寄せて来ればしばらく戦う振りをして、防御に努めているように見せるように。敵が勝ちに乗じて城内に攻め込んだら、敵を全員城内におびき入れて、その後、同時に数千軒の家々に火をかけ、自分らだけは姿を隠し、掘っておいた土の穴より逃れ出て、敵を全員焼き殺すという計略を立てました。


去程に三百余箇所の浮橋を已に渡すましてければ、太元の兵三百万騎争ひ前で橋を渡る。伯顔丞相兼て謀たる事なれば、矢軍些する真似して、暫も不支引て行。太元の兵勝に乗て、逃るを追事甚急也。宋国の兵猶も偽て引体を敵に推せられじと、楯・鉾・鎧・胄を取捨て、堀溝に馬を乗棄て我先にと逃走る。是を謀るとも不知ける羽衛斥候の兵、徒に命を軽じて討死するも多かりけり。日已に暮ければ、宋国の兵城へ引篭る真似をして後なる深山へ隠れぬ。太元の兵は敵の疲れたる弊に乗て、則是を討んと城の際までぞ攻たりける。旗を進め戈をさしまねきて、城を遥に向上たれば、櫓の上屏の陰に、兵袖を連ねて並居たりとは見へながら、時の声も幽に、射出す矢楯をだにも不徹。太元の将軍是を見て、人形の木偶人共に誠の人が少々相交りてふせぐ真似するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引して気疲勢尽はてけるぞ。時を暫も不可捨。攻よや兵共。」と諌め罵て、責皷を打て楯を進めければ、城中に少々残置れたる兵共、暫有て火の燃出る様に、家々に火を懸て、ぬけ穴より逃走ける。木偶人誠の兵ならねば、敵責入れ共防ぐ者なし。太元三百万騎の兵共、勇み進で二つともなき木戸より城の中へ込入り、或は偽て棄置たる財宝を争て奪合ひ、或は忻て立置たる木人に向て、剣を拉ぎ戈を靡処に、三万余家作双べたる城中の家々より同時に火燃出て、煙満城に炎四方に盛なり。太元の兵共屏を上超て火に遁れんとすれば、可取付便もなく橋もなし。責入つる木戸より出んとするに烟に目くれて胆迷て何くを其方共不覚、只猛火の中に走倒れて、太元の兵三百万人は皆焼死にけり。太元王は、多日の粉骨徒に一時の籌策に被破、大軍未帝都の戦を不致前に三百万人まで亡びければ、此事今は叶まじかりけりと、気を屈して黙止されける処に、西蕃の帝師太元王に謁して申けるは、「大器は遅くなるといへり。太元国の天下豈大器に非ずや。又機巧は大真に非ず。成る事は微々にして破る事は大也。今宋国の節度使等が武略の体を聞に、死を善道に守り命を義路に軽んずるに非ず、只尺寸の謀を以て大功の成らん事を意とする者也。宋国り臣独智あつて元朝の人皆愚ならんや。我今謀を廻さば勝事を一戦の前に得つべし。君益志を天下の草創に懸給へ。臣須く以智謀、太宋国の四百州を一日の中に可傾。」と申ければ、太元王大に悦て、「公が謀を以て我若太宋国を得ば、必公を上天の下、一人の上に貴で、代々帝王の師と可仰。」とぞ被約ける。帝師則形をかへ身を窶して太宋国へ越、江南の市に行て、哀身貧して子多く持たる人もがなと伺見る処に、年六十有余なる翁の、一の剣を売て肉饅頭を買あり。帝師問て曰、「剣をうりて牛を買ふは治れる世の備へなり。牛を売て剣を買ふは乱たる時の事也。父老今剣を売て饅頭を買ふ。其用何事ぞや。」老翁答て曰、「我嘗兵の凶器なる事を不知、若かりし時好で兵書を学びき。智は性の嗜む処に出る者なれば、呉氏・孫氏が秘する処の道、尉潦・李衛が難しとする処の術、一を挙て占へば、則三を反してさとりき。然れば乍坐三尺の雄剣を提て、立処に四海の乱を理めん事、我に非ずは誰そやと、心を千戸万戸の侯に懸て思しに、我壮んなりし程は世治り国静なりし間、武に於て用られず、今天下方に乱れて、剣士尤功を立る時には、我已に老衰して其選に不当、久く此江南の市の上りに旅宿して、僅に三人の男子を儲たり。相如が破壁風寒して夜の衣短く、劉仲が乾鍋薪尽て朝の餐空し。只老驥の千里を思ふ心未屈せざれ共、飢鷹の一呼を待身と成ぬ。故に此剣を売て三子の飢を扶んと欲する也。」と委く身上の羸を侘て涙を流してぞ立たりける。

やがて三百余ヶ所の浮橋がすでに渡し終わったので、大元の兵士ら三百万騎が争うようにして橋を渡りました。伯顔丞相(はくがんじょうしょう)は前もって計画していたことなので、しばらく矢戦をするように見せかけてから、少しも支えようとはせずに退却しました。

大元の兵士らは勝ちに乗じて、逃げる兵士を激しく追撃しました。宋国の兵士らは偽装の退却を見破られないようにと、楯、鉾、鎧、兜などを捨て、堀溝に馬を乗り捨てて我先に逃走しました。これらのこと全てが謀略だとは知らない羽衛(皇帝直属軍?)斥候(偵察兵)の兵士らは命を惜しむことなく闘い、

無駄死にする者も多かったのです。すでに日も暮れたので、宋国の兵士らは城に篭る振りをして、後方の深山に隠れました。大元の兵士らは疲労した敵の弱みにつけこんで、この機に彼らを討ち取ろうと、城の間近まで攻め込みました。旗を進め戈(か::古代中国の武器)を振り回しながら城をはるかに見上げてみると、

櫓の上や塀の陰に兵士らが、袖を連ねて居並んでいるように見えながら、鬨の声も極めて小さいうえ、射出してくる矢は楯を突き抜くこともありません。大元の将軍はこの様子を見て、人間の姿をした木彫りの人形に、本物の兵士が少しばかり混じって、防御する真似をしているとは夢にも思いませんでした。

「敵は今朝の戦闘で、長距離の退却を余儀なくされ、気力体力ともに尽き果てているぞ。一刻の猶予も与えることなく攻め込めや、兵士ども」と激しい言葉で喚きたて、攻め太鼓を打ち鳴らしながら楯を前進させてきたので、城中に少しばかり残されていた兵士らは、しばらくすると火が燃え出るように家々に火をかけ、

抜け穴から逃走しました。人形は本物の兵士ではないので、敵が攻め込んできても防ごうとはしません。大元の三百万騎の兵士らは張り切って、二つとは無い木戸から城の中に入り、ある者はわざと捨ておいた財宝を争って奪い合い、またある者は敵をだますため、立てて置いた木造の人間に向かって、

剣を振り下ろし戈で切り払おうとしているところに、三万余戸造り並べた城中の家々より、同時に火が燃え出たので煙は城に充満し、炎は四方に燃え広がっていきました。大元の兵士らは塀を乗り越えて火から逃れようとしましたが、手掛かりになる物もなく、また橋もありません。

攻め入った木戸から出ようとしても、煙のため目は見えず、意識も乱れてどちらが木戸なのか分かりません。ただただ猛火の中を逃げ回った挙句に倒れてしまい、大元の兵士ら三百万人は皆、焼け死んだのでした。大元の老王(クビライ)は長期にわたっての努力も空しく、たわいもない計略に引っかかって負けてしまい、

大軍が未だ帝都における合戦を行う前に、三百万人も死者を出してしまったので、この計画は今となっては無理なのではないかと、気落ちしてふさぎこんでいました。そんな折、西蕃の帝師が大元王に謁見し、「偉大なものごとは大成するのに時間がかかると言います。大元国の天下は大器ではございませんか。

また色々と才知をめぐらして物事を行うのは、正当な方法ではございません。成し遂げることの出来るものは微々たるもので、失敗することの方が多いものです。今、宋国の節度使(せつどし::軍職の一つ。軍団の統率者)等の戦略方針を聞いてみると、道徳にかなったことを守るために死んだり、

道義を守るために命を捧げるようなものではありません。ただちっぽけな謀略を使って、大きな成果を得ることばかり考えているものです。宋国の臣下だけに知恵があって、元朝の人が全て愚かということなどあり得ません。私が今ここで謀略をめぐらせば、勝利は一戦を交える前に得ることが出来るでしょう。

陛下は天下の創造に力をますます注がれますよう。臣は当然、智謀をもって大宋国の四百州を、一日のうちに傾けて見せましょう」と申し上げたので、大元王は大いに喜び、「汝の謀略によって、もし私が大宋国を得ることが出来れば、必ずや汝をこの天下において帝王の位を超える尊敬を捧げて、

代々帝王の師と仰ぎましょう」と、確約されました。帝師は早速姿をみすぼらしく変え、大宗国(南宋)に入国し江南の市場に行き、誰か貧しい生活をしながらも、子供だけは大勢持った人はいないかと、探していたところ、年齢六十過ぎくらいの老人で、一振りの剣を売り肉まんじゅうを買う人がいました。

帝師は、「剣を売って牛を買うと言うのは、世の中が平和な時代の備えであり、牛を売って剣を買うと言うのは乱世の時のことであろう。貴殿は今、剣を売ってまんじゅうを買われたが、何のために買われたのでしょうか」と、問いかけました。老人は、「私は昔、兵器、兵法などは人を殺傷するためのものとは知らずに、

若かりし時は好んで兵書を学びました。好きこそものの上手なれと言う言葉があるように、呉子(ごし::兵法書)や孫子(そんし::兵法書)が秘匿している戦術や、尉繚子(うつりょうし::尉繚によって書かれた兵法書)や李靖(りせい::唐代の軍人、政治家。李靖と太宗の対話は「李衛公門対」という書物にまとめられ、

兵法書として評価を受けている)が困難としている戦術も、一つを取り上げて研究すれば、すぐに三つの戦術を理解したものです。だから座ったままで三尺の雄剣(ゆうけん::正義の剣)をささげて、たちどころに四海(世の中)の乱を鎮めることの出来るのは、自分以外に一体誰が出来るのかと、

我が意思を土地を支配する領主に伝えようとしたのだが、自分の若かりし時は、世の中は安定し平和な時代であったので、武に関して用いられることはなかった。ところが今、天下はまさに乱れて武術に優れた者が、一番成果を発揮出来る時に関わらず、私はすでに老いぼれてしまったため、

選ばれることもなく長らくこの江南の市場周辺に仮の宿を設け、わずかに三人の男子を授かったのである。司馬相如(しばそうじょ::前漢頃の文章家、若い頃非常に貧しかった)の住家は壁が破れて風が冷たい上、寝間着は短く、また劉仲(?)は四川料理を作る鍋の薪がなくなり、朝の食事が摂れないのと同じである。

ただ老いた驥(き::一日に千里を走る名馬)が千里を走ろうと思う心は未だ衰えていないが、飢えた鷹が声を掛けてもらうのを待つ身となり果てたのだ。と言うことでこの剣を売って、三人の子供の飢えを凌ごうと思ったのだ」と疲れ切った身の上を、詳しくまた辛そうに話すと、涙を流して立ち上がられました。


帝師重て問て云、「父老の言を聞に、三人の子共飢て、公が百年の命已に迫れり。我三千両の金を持たり。願は是を以て父老の身を買ん。父老何ぞ兔ても無幾程老後の身を売て、行末遥なる子孫の富貴を不欲せや。」と問に、老翁眉を揚げ面を低て、「誠に公の言の如く、我に三千両の金を被与、我豈三子の飢を助て無幾程命を不捨や。」とぞ悦ける。「さらば。」とて、帝師則老翁の身を三千両の金に買ひ、太元へ帰りて後、先使者を宋国の帝都へ遣して、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯にほこれりと聞る上将軍伯顔丞相・呂文煥等が事を、都にいかゞ云沙汰するとぞ伺聞せける。使者都に上て家々に彳み、事の体人の云沙汰する趣、能々伺聞て太元に帰り、帝師に対て語けるは、「伯顔丞相・呂文煥等太元の軍に打勝て、武功身に余れり。天下の士是を重ずる事、上天の威に超たり。若此勢を以て世を傾んと思はゞ、只指掌よりも安かるべし。古安禄山が兵を引て帝都を侵し奪しも、斯る折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。帝師使者の語るを聞て、今はかうと思ければ、三千両の金に身を売たりつる老翁を呼て、彼が股の肉を切裂て、呂文煥・伯顔将軍・賈丞相三人が手迹を学て返逆籌策の文を書、彼が骨のあはひに収て疵を愈してぞ持せける。其文に書けるは、「我等已に太元の軍に打勝て士卒の付順事数を不知。天已に時を与たり。不取却禍有べし。然ば早士を引約を成して帝都に赴んと欲す。若亡国の暗君を捨て有道の義臣に与せんとならば、戈を倒にする謀を可致。」と書て、宮中の警固に残し留られたる国々の兵の方へぞ遣しける。敵を討手だて如此認て、帝師重て老翁に向て申けるは、「汝先帝都に上り怪げなる体にて宮中を伺見るべし。去程ならば、宮門を守る兵共汝を捕へて嗷問すべし。縦水火の責に逢共、暫は勿落事。倒懸身を苦め炮烙骨を砕時に至て、我は伯顔将軍・賈丞相等が使として、謀反与力の兵共に事の子細を相触ん為に、帝都に赴きたる由を白状して、其験是也とて、件の身の中に隠しける書を可取出。」とぞ教へける。

帝師は重ねて、「今、汝の話を聞いてみると三人の子供は飢え、汝はすでに年齢は百歳に迫っている。私は三千両の金を持っている。出来ることならこの金で汝の身を買おうと思う。汝のどう考えてもそれほど長くもない老いた身を売って、行く先はるかに長い子孫の富貴を望まないのか」と問いかけると、

老翁は眉を上げて下から覗き込むようにして、「本当に貴殿のおっしゃるように私に三千両の金を下さるのなら、私はどうして三人の子供らの飢えを救って、如何ほどもない命を捨てないことなどあろうか」と、喜ばれました。「よし分かった」と言って、帝師はすぐ老翁の身体を三千両で買い受けて大元に帰ってから、

まず使者を宋国の首都臨安に派遣し、今回の揚子江での合戦に戦功著しく、千戸万戸を支配する領主に劣らず得意の絶頂にあると聞く、上将軍の伯顔丞相、呂文煥らのことを、都ではどのように評価されているのか聞き込み調査をさせました。使者は都に上って民家のあちこちにたたずんで、

実際の状況や人々のする噂話など、よくよく聞き込み調査を行い大元に帰りました。帰ると帝師に面会し、「伯顔丞相、呂文煥らは大元との合戦に勝利して、その戦功による恩賞は限度を超えています。天下の武将らが彼らに対する尊敬は、天の神が持つ威厳に対する尊敬も超えています。

もしこの軍勢をもって世を転覆しようと思えば、手の平にあるものを指すより簡単だと思います。その昔、安禄山(あんろくざん::唐の節度使、安史の乱の首謀者)が兵を率いて、帝都を侵略し奪取したことも、このような時節ではなかったのかと恐れ不安に思わない人はいません」と、話されました。

帝師は使者の話すことを聞き、今こそ好機ではないかと思い、三千両の金と引き換えに身を売った老翁を呼び、彼の股の肉を切り裂き、呂文煥、伯顔丞相将軍、賈丞相(賈似道)三人の筆跡を学ばせて、反乱計画の文書を書かせると、彼の骨の間に納めてから傷を治療することによって、彼に持たせました。

その文書には、「我らはすでに大元の軍勢に勝利し、将官兵士らの従属する人々たるや、数知れずの状況にある。天はすでに好機到来を伝えている。ここで立ち上がらなければ、かえって災いを招くことになろう。そこで出来るだけ早く将士を招集し、軍を編成して帝都に向かいたいと考えている。

もしはや滅亡が決定的な宋国の暗君(あんくん::無能な君主)幼帝を見捨てて、我ら正義の臣下に味方をしようとするのなら、戈の先を宋国に向け裏切ることもあり得る」と書いてありました。宮中の警固に残されていた諸国の兵士らに、このことを知らせようとしました。敵を討つ計画をこのように書き記して、

帝師は重ねて老翁に向かい、「汝はまず帝都に上り、怪しげな姿をして宮中に探りを入れることだ。すると宮中の門を守っている兵士らは汝を捕らえて拷問にかけるだろう。たとえ水責め、火責めにあおうとも、しばらくは耐えきり白状しないことだ。逆さづりにされたり、火あぶりにされたりして、

骨も砕けるかと言うような苦しみに耐えきれなくなった時、私は伯顔将軍、賈似道丞相らの使いとして、謀反に賛同する兵士らに実行計画を連絡するため、帝都に来たと白状し、その証拠だと言って、体の中に隠しておいた例の書類を取り出すように」と、教えました。


彼老翁已に三千両の金に身を売し上は、命を非可惜、帝師が教の侭に謀反催促の状を数十通身の肉を創て中に収め、帝都の宮門へぞ赴ける。忽身を車裂にせられ骨を醢にせらるべきをも不顧、千金に身を替て五刑に趣く、人の親の子を思道こそ哀なれ。老翁則帝都に上て、態怪げなる体に身を窶し、宮門を廻て案内を見る由に翔ひける間、守護の武士是を捕へて、上つ下つ責問に、暫は敢て不落。嗷問度重て骨砕け筋断ぬと見へける時に、「我は是伯顔将軍・呂文煥等が謀叛催促の使也。」と白状して、股の肉の中より、宮中洛外諸侯の方へ、約をなし賞を与たる数通の状をぞ取出たりける。典獄の官驚て此由を奏聞しければ、先使者の老翁を誅せられて、軈て伯顔将軍・賈丞相・呂文煥等が父子兄弟三族の刑に行れて、或は無罪諸侯死を兵刃の下に給り、或は功有し旧臣尸を獄門の前に曝せり。此事速に楊子江の陣へ聞へしかば、伯顔将軍・賈丞相・呂文煥等、頭を延て無罪由を陳じ申さん為に、太元の戦を打捨て都へ帰り上けるが、国々の諸侯道塞て不通ける間、三人の将軍空く帝師が謀に被落て、所々にて討れにけり。是より楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人も無れば、太元五百万騎の兵共、推して都へ責上るに、敢て遮るべき勢なければ、宋朝の幼帝宮室を尽し宗廟を捨て、遂に南蛮国へ落給ふ。太元の老皇帝、軈て都に入替り給しかば、天下の諸侯皆順付奉て、太宋国四百州、忽に太元の世に成にけり。さしもいみじかりし太宋国、一時に傾し事も、天運図に当る時とは云ながら、只帝師が謀によれる者也。今細河相摸守、無双大力世に超たる勇士なりと聞へしか共、細河右馬頭が尺寸の謀に被落、一日の間に亡ぬる事、偏に宋朝の幼帝、帝師が謀に相似たり。人而無遠慮、必有近憂とは、如此の事をや申べき。

この老翁はすでに三千両の金で身を売った以上、命を惜しむことなど出来ず、帝師の教えるままに謀反を催促する書状を数十通、我が身の肉を切り裂きその中におさめ、帝都の宮門に向かいました。確実に我が身が車裂きにされ、骨は塩漬けにされることも顧みず、

千金の金と引き換えに五刑(ごけい::古代中国の五つの刑罰。いれずみ、鼻切り、足切り、去勢、首切り)に向かうとは、人の親が子を思う気持ちこそ可哀そうなものです。老翁はすぐ帝都に上り、わざと怪しげでみすぼらしい姿になって、宮門の周りで内部の様子を探るように振る舞っていると、

門を守護していた武士は彼を捕らえ、あの手この手で拷問にかけましたが、しばらくは白状しませんでした。度重なる拷問に骨は砕け、筋肉もちぎれるかと思われる時になって、「私こそ伯顔将軍、呂文煥らが計画している謀反の催促をしに来た使いの者です」と白状し、股の肉の中から宮中や洛外諸侯の人々に対して、

間違いなく恩賞を与えると書かれた数通の書状を取り出しました。監獄の役人はびっくりしてこの事情を幼帝に申し上げたので、まず使者の老翁を処刑し、その後すぐに伯顔将軍、賈丞相、呂文煥らの父子兄弟に対して、三族の刑(本人だけでなく一族に対しても行われる処刑、ただし三族ははっきりしない)が行われました。

その外無罪に関わらず諸侯らが兵士によって殺され、また功績のあった旧臣もその屍を獄門にさらされました。このことはすぐに揚子江の陣営に聞こえて来たので、伯顔将軍、賈似道丞相、呂文煥らは忠節を誓い、無罪であることを弁明するために、大元との戦闘を中断して都に帰りました。

しかし国々の諸侯らが街道を閉鎖しているので、三人の将軍らは何らの罪もないのに帝師の謀略にかかり、ここかしこで討たれたのです。この後は揚子江の陣営には敵を防ぐ兵士らは一人もいないので、大元五百万騎の兵士らは、都に向かって強行に攻め上りましたが、全く防ごうとする軍勢もないので、

宋朝の幼帝は宮殿は勿論のこと、先祖を祀っている建物も捨てて、ついに南蛮国(南方の未開国、広州)に落ちられました。すぐ大元の老皇帝(クビライ)が入れ替わりに都に入られると、天下の諸侯は皆が皆、老皇帝に従属し、大宋国四百州は瞬く間に大元国の支配する世の中になりました。

あれほど安定していた大宋国が一瞬にして滅びたのも、天から与えられた運命によって決められた時に起こったことだとは言いながら、実際はただ帝師の謀略にはまっただけのものです。今、細川相模守清氏がその剛腕さと勇猛さにおいて、世の中で抜きんでている武士だと言われていながら、

細川右馬頭頼之のささいな謀略に引っかかり、一日にして滅びたことは、宋朝の幼帝が帝師の謀略によって滅ぼされたことと似たようなものです。人而無遠慮、必有近憂(孔子::人たる者は遠くまで見通す配慮が無ければ、確実に近いうちに心配事が起こるものだ)と言うことは、このようなことを言うのでしょう。      (終り)

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