39 太平記 巻第三十九 (その一)


○大内介降参事
聖人世に出て義を教へ道を正す時だにも、上智は少く下愚は多ければ、人の心都て不一致。肆に尭の代にすら四凶の族あり。魯国に小星卯あり。況時今澆季也。国又卑賎也。因何に仁義を知人有べきなれ共、近年我朝の人の有様程うたてしき事をば不承。先弓矢取とならば、死を善道に守り名を義路に不失こそ可被思、僅に欲心を含ぬれば、御方に成るも早く、聊も有恨、敵になるも易し。されば今誰をか始終の御方と可憑思。変じ安き心は鴻毛より軽く、不撓志は麟角よりも稀也。人数ならぬ小者共の中に、適一度も翻らぬ人一両人有といへ共、其れも若禄を与へ利を含めて呼出す方あらば、一日も足を不可留。只五十歩に止る者、百歩に走るを如咲。見所の高懸とかやの風情して、加様の事を申共、書伝の片端を聞たる人は古へを引て、さても百里奚は虞の君を棄て、秦の穆公に不仕、管夷吾は桓公に降て公子糾と不死しは如何に、とぞ思給らん。それは誠に似たる事は似たれ共、是なる事は是ならず。彼百里奚は、虞公の、垂棘の玉、屈産の乗の賄に耽て路を晉に開しかば、諌けれ共叶まじき程を知て、秦の穆公に仕へき。管夷吾は召忽と共に不死、子路非仁譏りしかば、豈如匹夫匹婦自経溝壑無知乎と、文宣王是を塞ぎ給へり。されば古賢の世を治めん為に二君に仕しと、今の人の欲を先として降人に成とは、雲泥万里の隔其中に有と云つべし。爰に大内介は多年宮方にて周防・長門両国を打平げて、無恐方居たりけるが、如何が思ひけん、貞治三年の春の比より俄に心変じて、此間押へて領知する処の両国を給らば、御方に可参由を、将軍羽林の方へ申たりければ、西国静謐の基たるべしとて、軈て所望の国を被恩補。依之今迄弐無りける厚東駿河守、長門国の守護職を被召放含恨ければ、則長門国を落て筑紫へ押渡り、菊池と一に成て、却て大内介を攻んとす。大内介遮て、三千余騎を卒して豊後国に押寄せ、菊池と戦けるが、第二度の軍に負て菊池が勢に囲れければ、降を乞て命を助り、己が国へ帰て後、京都へぞ上りける。在京の間数万貫の銭貨・新渡の唐物等、美を尽して、奉行・頭人・評定衆・傾城・田楽・猿楽・遁世者まで是を引与へける間、此人に勝る御用人有まじと、未見へたる事もなき先に、誉ぬ人こそ無りけれ。世上の毀誉非善悪、人間の用捨は在貧福とは、今の時をや申すべき。

☆ 大内介(大内弘世)が降参したこと

高い学識や人徳ある理想的な人が世の中に現れて、人として取るべき正しい道を教えたり修正したりする時でさえ、優れた知恵を持つ人は少なく、愚かな人が圧倒的に多いので、人の心は全てばらばらになって行きます。そのため、尭(ぎょう::古代中国の伝説上の聖王)の理想的な時代においても、

四凶(しきょう::古代中国の尭と並ぶ聖人、舜帝に追放された四柱の悪神)の部族がいました。魯国(ろこく::中国大陸に存在した国)に少正卯(しょうせいぼう::国の高官、評価は高かったが政治を乱す人間だと孔子に誅殺された)と言う人がいました。当時の魯国は道徳が衰え乱れた世であり、国そのものも貧しく未発達でした。

どうあっても仁義を知る人が当然いるべきですが、最近の我が国の人たちの有様ほど情けない話は聞いていません。(この段おかしい)弓矢をとる人ならば、死は正義を通すために守るものであり、名は義理を欠いたために失ってはならないと考えるべきなのに、わずかな欲望が満たされるなら、

素早く味方になったり、少しでも恨みを思えば簡単に敵になったりします。と言うことは今現在、誰を味方としていつまでも頼りに思ってよいのでしょうか。簡単に心変わりをする気持ちは、鴻毛(こうもう::おおとりの羽毛。非常に軽いもののたとえ)より軽薄であり、苦労や困難に立ち向かおうとする気持ちなど、

麒麟(きりん::伝説上の霊獣)の角より珍しいものとなりました。人の数に入らないような小者たちの中で、偶然一度も心変わりをしなかった人が、一人二人いたとしても、もしその人に俸禄を支給しようと、利をもって呼び出す人間がいれば、一日だってその場に足を留めることはないでしょう。

それはただ、五十歩を逃げて立ち止まった者が、百歩を走って立ち止まった者を笑うようなものです。傍観者の気ままでこのようなことを申し上げていますが、古人が残した書物の一端を知った人は、それでは百里奚(ひゃくりけい::秦国の宰相)は虞(ぐ)王朝の君を見捨てて秦国の穆公(ぼくこう)に仕えることはしなかったし、

管夷吾(かんいご::管仲:中国春秋時代における斉国の政治家)は桓公(かんこう::春秋時代、斉の君主)に降伏し、公子糾(こうしきゅう::桓公の兄、管夷吾の主君)と一緒に死ななかったのは、どうなのだと思われるでしょう。それは確かによく似た話ではありますが、それはそれなりに違いはあります。

あの百里奚は虞公(ぐこう::虞国の君主)が晋国の君主、献公(けんこう)からの垂棘の璧(すいしのへき::先君から伝わる宝物)と屈(名馬の産地)産の馬と言う賄賂に目がくらんで、街道を晋国のために開放しようとしたので、思い直すよう諫めましたがとても聞き入れられそうになく、止む無く秦国の穆公に仕えることになりました。

管夷吾(管仲)は桓公が公子糾を殺害した時、公子糾に仕えていた召忽(しょうこつ)は殉死しましたが、同じく仕えていた管夷吾は一緒に死ぬことなく、主君の敵、桓公に仕えました。子路は仁義に欠けるのではないかと非難しましたが、道理の良く分からない男女らは、国家社会のために死を賭すが故に、

山野の溝に遺体を晒すことなど理解できないだろうと(孟子の言葉)、孔子は子路の考えを否定しました。これらの話に見られるように、昔の賢人らが世の中を治めるためには、二人の主君に仕えてきたことと、今のように人間としての欲望を先に考えて降参を申し出ることは、その差たるもの、

天と地のように万里ほどかけ離れていると言えるでしょう。今現在、大内介(大内弘世)は長年宮方(南朝側)として周防、長門の両国を制圧し、恐れるもの何も無いような状況にいましたが、何を思ったのか貞治三(二年では?)(正平十九年::1364年)の春頃より突然気が変わり、今支配している領地をこのまま安堵してもらえるなら、

幕府の味方になっても良いと、将軍足利義詮に申し入れた結果、西国の安定には必要な事だろうと、すぐ要求通りにそれらの国を支配することを恩賞として与えられました。このため、今まで大内弘世に対して忠義のあった厚東義武(こうとうよしたけ)駿河守は、長門国の守護職を解任された恨みを持ってすぐ長門国を落ちると筑紫に渡り、

菊池武光軍と合体し反対に大内介を攻撃にかかりました。大内介はこれを妨害するため、三千余騎を率いて豊後国に押し寄せ菊池軍と交戦しましたが、二度の合戦に敗れ菊池の軍勢に取り囲まれてしまい、降参を申し出でて命だけは許してもらい、自国に帰ってから何と京都に上ったのです。

京都に滞在している間に、数万貫の銭貨、最新の唐からの輸入物など、贅沢に贅沢を重ねて、奉行(高級役人)、頭人(長官)、評定衆(裁判官)、傾城(遊女)、田楽(芸能演者)、猿楽(芸能演者)、遁世者(世捨て人)に至るまで、これらの物品を分け与えたので、この人以上に有難く大事な人はいないと、

まだ人物像もはっきり分からない内から、褒めない人などいませんでした。世間での悪口や称賛はその人の善悪で決まるのではなく、その人間の重要性や不要なども財産の多少で決まるとは、今の時代だからとも言えるのかも知れません。


○山名京兆被参御方事
山名左京大夫時氏・子息右衛門佐師氏は、近年御敵に成て、南方と引合て、両度まで都を傾しかば、将軍の御為には上なき御敵なりしか共、内々属縁、「両度の不義全く将軍の御世を危め奉らんとには非ず。只道誉が余に本意無りし振舞を思知せん為許にて候き。其罪科を御宥免有て、此間領知の国々をだにも被恩補候はゞ、御方に参て忠を致すべき。」由をぞ申たりける。げにも此人御方に成ならば、国々の宮方力を落すのみならず、西国も又可無為とて、近年押へて被領知つる因幡・伯耆の外、丹波・丹後・美作、五箇国の守護職を被充行ければ、元来多年旧功の人々、皆手を空して、時氏父子の栄花、時ならぬ春を得たり。是を猜て述懐する者共、多く所領を持んと思はゞ、只御敵にこそ成べかりけれと、口を顰けれ共甲斐なし。「人物競紛花、麗駒逐鈿車。此時松与柏、不及道傍花。」と、詩人の賦せし風諭の詞、げにもと思知れたり。

☆ 山名京兆時氏が幕府軍の味方として来られたこと

山名左京大夫時氏とその子息、右衛門佐師氏(師義)は最近敵として南朝軍と一緒になり、二度にわたって都を攻略したので、将軍(足利義詮)にとってはこの上ない敵ですが、内密に将軍側と交渉を重ね、「二度の将軍家に対する敵対は、全く将軍家支配の御世を落とし入れようとしたのではございません。

ただ佐々木道誉があまりにも道理の通らない行為をするので、思い知らせてやろうとしただけです。今回の罪を許していただき、現在領している国々を安堵していただけるなら、将軍家の味方となって忠を果たそうと考えています」と、申し入れました。確かにこの人物が味方になれば、

諸国に点在する宮方の勢力がそがれるだけでなく、西国もまた安定が期待できると考え、最近になって支配下にした因幡、伯耆の両国以外に、丹波、丹後、美作を合わせて五ヶ国の守護職を命じました。しかし元々長年にわたって忠功を積んできた人々は、何らの恩賞に浴することもないので、

時氏父子の栄華は思いがけない幸運を得たようなものです。この処置に対して立腹し不平を言う者どもは、多くの所領を手に入れたければ、ただ敵になるのに限ると、不満たらしくしかめっ面をしましたが、どうにもなりません。「人物競紛花、麗駒遂鈿車。此時松与柏、不及道傍花」と、詩人がありのままを遠回しに詠んだ詩句も、なるほどと思い知らされました。


○仁木京兆降参事
仁木左京大夫義長は、差たる不義は無りしか共、行迹余りに思ふ様也とて、諸人に依被悪、心ならず御敵になり、伊勢国に逃下て、長野の城に楯篭りたりしを、初めは佐々木六角判官入道崇永・土岐大膳大夫入道善忠両人討手を承、是を攻けるが、佐々木は他事に被召て上洛しぬ。土岐一人国に留て攻戦けれども、義長敢て城を不被落。此時又当国の国司北畠源中納言顕信卿、雲出川より西を管領して、兵を出し隙を伺て戦ひ挑し間、一国三に分れて、片時も軍の絶る日もなし。角て五六年を経て後、義長日来の咎を悔て降参すべき由を被申ければ、「此人元来忠功異于他。今又降参せば、伊賀・伊勢両国も静るべし。」とて、義長を京都へ返し入られける。是は勢已に衰たる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従し兵も身に不添、李陵が如在胡にして、旧交の友さへ来らねば、省る人遠き庭上の花、春独春の色なり。鞍馬稀なる門前の柳、秋独秋の風なり。

☆ 仁木京兆義長が幕府に降参したこと

仁木左京大夫義長は特に問題となるような不義は無いのですが、今までの行動があまりにも自分勝手すぎたため、諸人から悪者にされて不本意ながら幕府に敵対することとなり、伊勢国に逃亡し長野の城に立て篭もっていました。当初、佐々木六角判官入道崇永(そうえい)と土岐大膳大夫入道善忠の二人が討っ手を命じられて、

長野城を攻撃していましたが、佐々木は他の用件で呼び出され上洛しました。そこで土岐一人が伊勢国に残り攻城を続けましたが、義長は防戦に努め落城はしませんでした。この時、伊勢国の国司である北畠源中納言顕信卿が雲出川より西を支配し、兵士を繰り出し隙を狙って戦いを挑んだので、

伊勢の国は三つに分かれて、戦闘の絶える日もありませんでした。このようにして五、六年が過ぎてから、義長は今までの不忠を後悔し、降参したい旨を申し入れたので、「この人物は元来忠義に関して他の人たちとは比べ物にならない。その上今降参を認めてやれば、

伊賀、伊勢両国は鎮静化が期待できる」と言って、仁木義長を京都に送り返しました。この降参の申し出では、もはや勢力の衰えた挙句のことなので、領知を認められた国もなければ、従う兵士もいない有様で、その様子は李陵(りりょう::前漢時代の軍人。匈奴と善戦しながら寝返ったと誤解され、親族その他を処刑された将軍)が匈奴に降伏したものの、

昔から交際のあった人が訪ねて来ることもないので、目に入る人は親しい人でもなく、庭の花のようであり、春と言っても自分には関係のない春です。訪問してくる人も少ないので、鞍を置いた馬が門前の柳につながれることも珍しく、秋も自分には関係のない秋の風情です。(?)


○芳賀兵衛入道軍事
如斯近年は、敵に成たりつる人々は皆降参して、貞治改元の後より洛中西国静也といへ共、東国に又不慮の同士軍出来して里民樵蘇を不楽。其事の起りを尋れば、此三四年が先に、将軍兄弟の御中悪く成給て、合戦に及し刻、上杉民部大輔、故高倉禅門の方にて、始は上野国板鼻の合戦に宇都宮に打負て、後には薩■山の軍に御方の負をしたりしが、兔角して信濃国へ逃下り、宮方に成て猶此所存を遂ばやと、時を待てぞ居たりける。上杉斯る不義を致しけれども、鎌倉左馬頭基氏、幼少より上杉に懐きそだてられたりし旧好難捨思はれければ、以別儀先越後国守護職を与て上杉をぞ被呼出ける。此時芳賀兵衛入道禅可は、越後国の守護にて有けるが、「降参不忠の上杉に被思替奉て、忠賞恩補の国を可被召放様やある。」とて、上杉と芳賀と越後国にて及合戦事数月也。禅可遂に打負しかば当国を上杉に被奪のみならず、一族若党其数を不知落様に皆討れにけり。禅可是を忿て、「哀不思議も有て世中乱よかし。上杉と一合戦して此恨を散ぜん。」と憤けり。斯る処、上杉已に左馬頭の執事に成て鎌倉へ越ると聞へければ、禅可道に馳向て戦はんとて、上野の板鼻に陣を取てぞ待せける。然共上杉、上野国へも不入先に、左馬頭宣ひけるは、「何ぞ任雅意加様の狼籍を可致。所存あらば逐て可致訴詔処に、合戦の企奇怪の至也。所詮可加退治。」とて、自大勢を卒して宇都宮へぞ被寄ける。禅可此事を聞て、「さらば鎌倉殿と先戦はん。」とて、我身は宇都宮に有ながら、嫡子伊賀守高貞・次男駿河守八百余騎を差副て、武蔵国へぞ遣しける。此勢坂東路八十里を一夜に打て、六月十七日辰刻に、苦林野にぞ著にける。小塚の上に打上て鎌倉殿の御陣を見渡せば、東には白旗一揆の勢五千余騎、甲胄の光を耀して、明残る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆の勢三千余騎、戟矛勢ひ冷して、陰森たる冬枯の林を見に不異。中の手は左馬頭殿と覚て、二引両の旗一流朝日に映じて飛揚せる其陰に、左輔右弼密く、騎射馳突の兵共三千余騎にて控へたり。上より見越ば数百里に列て、坂東八箇国の勢共、只今馳参ると覚て如雲霞見へたり。雲鳥の陣堅して、逞卒機尖なれば、何なる孫呉が術を得たり共、千騎に足ぬ小勢にて懸合すべしと不覚。芳賀伊賀守馬に打乗て、母衣を引繕ひて申けるは、「平一揆・白旗一揆は、兼て通ずる子細有しかば、軍の勝負に付て、或は敵ともなり或は御方とも成べし。跡にさがりて只今馳参る勢は、縦ひ何百万騎有と云共、物の用に不可立。家の安否身の浮沈、只一軍の中に定むべし。」と高声に呼て、前後に人なく東西に敵有とも思はぬ気色にて、真前にこそ進だれ。

☆ 芳賀兵衛入道の合戦のこと

このように最近は敵になった人々は皆降参を申し出て、貞治(じょうじ::康安二年:1362年改元)の改元以降は洛中はもとより、西国の騒乱は鎮静しましたが、東国においてはまた思いがけないような味方同士の合戦が起こり、里の農民や樵蘇(しょうそ::きこり)らは心の休まることがありませんでした。

合戦の原因を調べてみると、この三、四年前に将軍兄弟の尊氏、直義の仲が悪化して合戦となった時、上杉民部大輔(上杉憲顕::のりあき)は故高倉禅門(足利直義)の味方として戦い、上野国板鼻(群馬県安中市)の合戦で宇都宮氏綱軍に負け、その後薩た(土偏に垂)山の合戦で直義軍は敗北を喫しましたが、

何とか信濃国に逃げ下り、宮方としてなおも自分の考えを実現しようと、時期を待っていました。上杉憲顕はこのように足利尊氏に敵対すると言う不義を犯しましたが、足利尊氏の四男、鎌倉左馬頭基氏は幼少の頃より上杉憲顕に抱かれて育ててもらった恩を忘れがたく、

特別な配慮によってまず越後国の守護職に任命することで上杉を呼び出しました。この時越後の守護だった芳賀兵衛入道禅可(ぜんか::芳賀高名:たかな)は、「降参してきた忠義のかけらもない上杉に目をかけて、今まで忠義を果たしてきた結果として守護を務めている国を取り上げられることなどあって良いのか」と言って、

上杉と芳賀による越後国においての合戦は数ヶ月に及びました。しかし禅可はとうとう負けてしまい、越後国を上杉に取られただけでなく、一族、若武者らその数も分からないくらい、落ち武者並みに全員討たれてしまいました。禅可はこのことに怒りを覚え、「なんてことだ、

訳の分からないことが起こるから世の中が乱れるのだ。上杉と一戦交えてこの恨みを晴らそうではないか」と、憤慨しました。ところがその時すでに上杉憲顕が左馬頭基氏の執事に任命され、鎌倉に向かうと聞くと禅可は街道途中に馳せ向かって戦おうと、上野の板鼻に陣を構えて待ち受けました。

しかし上杉がまだ上野国に入る前に左馬頭が仰せられるには、「何ゆえに勝手気ままにこのような不法な行動をするのだ。思うことがあれば順を追って訴訟を起こせば良いのに、合戦の企てをするとはけしからぬことこの上ない。こうなった以上、征伐しなければならない」と言って、

自ら大軍を率いて宇都宮に寄せられました。禅可はこの情報を得ると、「それだったら鎌倉殿と先に戦おうじゃないか」と言って、自分は宇都宮に身を置きながら、嫡子(長男)の伊賀守高貞と次男の駿河守に八百余騎を与えて、武蔵国に向かわせました。この軍勢は坂東路の八十里を一夜に走り抜け、

貞治三年(正平十九年::1364年)六月十七日、辰刻(午前八時頃)に苦林野(にがはやしの::埼玉県入間郡毛呂山町)に到着したのです。小さな塚の上にのぼり、鎌倉殿の陣営を見渡して見ると、東には白旗一揆の軍勢五千余騎が甲冑の金具を、まるで明け方に夜の星が輝くようにして陣を構えています。

また西には平一揆の軍勢三千余騎が、様々な武器を静かに手にしている様子は、薄暗い冬枯れの林を見ているようです。真ん中あたりにいる軍勢は左馬頭殿と思われ、二引両(足利の紋)の旗一旒が朝日に照らされ翻っている陰に、左輔右弼(さほゆうひつ::君主の左右で政治を助ける臣)が厳しく護衛し、

一旦急あれば勢いよく突進する騎射に長けた兵士ら三千余騎で控えています。上から見渡して見ると、軍勢は数百里に連なり坂東八ヶ国の軍勢らは、今こそ駆けつけなければと考えたのか、まるで雲霞のように見えます。鳥雲の陣(ちょううん::鳥や雲のように、展開、密集を自在に行う陣形)は堅固に組まれ、

たくましく勇気ある兵士らが戦機をうかがう様子は厳しいので、孫子(兵法書)や呉子(兵法書)の兵術を会得し駆使したとしても、味方の千騎に満たない小勢で、正面よりの駆け合いは出来るものではありません。芳賀伊賀守は馬に乗って、母衣(ほろ::流れ矢を防ぐため鎧の後方に付ける布)を引き結びながら、

「平一揆、白旗一揆は以前より交際があるので、合戦ともなれば勝敗の行方によっては、敵になったり、また味方になったりするだろう。陣の後方に下がっている今来たばかりの軍勢は、たとえ何百万騎いたとしても物の役に立つとは思えない。各自、家の安否つまり存続か滅亡と、

我が身の浮沈はただこの一戦で決めようではないか」と声高に呼びかけ、前後の人など目に入らず、東西に敵がいるとも思わない様子で、真っ先に進んで行きました。


舎弟駿河守是を見て、「軍門に君の命なし。戦場に兄の礼なし。今日の軍の先懸は、我ならでは覚ぬ者を。」と、嗚呼がましげに広言吐て、兄より先につと懸抜て懸入上は、相従ふ兵共八百余騎誰かは是に可劣、我先に戦はんと、魚鱗に成てぞ懸りける。左馬頭の基氏、参然たる敵の勇鋭を見ながら機を撓め給はず、相懸りに馬を閑々と歩ませ事もなげに進まれたり。敵時の声三度作て些擬議したる処に、天も落ち地も裂るかと覚る許に、只一声時を作て左右に颯と分る。芳賀が八百余騎を東西より引裹て、弓手に相付け馬手に背けて、切ては落され、まくつまくられつ半時許戦て、両陣互に地を易、南北に分れて其迹を顧れば、原野血に染て草はさながら緑をかへ、人馬汗を流、堀かねの池も血となる。左馬頭は芳賀が元の陣に取上り、芳賀は左馬頭の始の陣に打上て、共に其兵を見るに、討れたる者百余人、被疵者数を不知。「さても宗との者共の中に、誰か討れたる。」と尋る処に、「駿河守殿こそ、鎌倉殿に切落され給ふと見へつるが、召れて候し御馬の放れて候つる。如何様討れさせ給てや候らん。」と申ければ、兄の伊賀守流るゝ涙を汗と共に推拭て云けるは、「只二人如影随ふて、死ば共にと思つる弟を、目の前にて被討、其死骸何くに有共不見、さてあると云事や可有。」とて、切散されたる母衣結継で鎧ゆり直し、喚ひてぞ懸入ける。鎌倉殿方にも、軍兵七十余人討れたるのみならず、木戸兵庫助、両方引分つる時、近付敵に引組て、落重る敵に被討ければ、是を聞給て、鎌倉殿御眼血をときたる如くに成て宣ひけるは、「此合戦に必死なば諸共に死し、生ば同生んと、深く契し事なれば、命を惜べきに非ず。」とて、如編木子叩きなしたる太刀の歯本を小刀にて削り直し、打振て懸足を出し給へば、左右の兵共三千余騎、大将の先に馳抜て、一度に颯と蒐り逢ひ、追廻懸違へ、喚き叫で戦ふ声、さしも広き武蔵野に余る許ぞ聞へける。大将左馬頭、余りに手繁く懸立々々戦ける程に、乗給へる馬の三頭・平頚三太刀斬れて、犬居にどうとぞ臥たりける。是を大将と見知たる敵多かりければ、懸寄々々胄を打落さんと、後より廻る者あり、飛下々々徒立に成、太刀を打背けて組討にせんと、左右より懸る敵あり。され共左馬頭元来力人に勝れ、心飽まで早して、膚撓まず目逃れず、黄石公が伝へし処、李道翁が授し道、機に膺て心とせし太刀きゝなれば、或は胄の鉢を真二に打破り、引太刀に廻る敵を斬居、或は鎧のどう中を不懸打切て、余る太刀にては、左に懸る敵を払はる。其刃に胸を冷して敵敢て不近付。東西開け前後晴て、弥大将馬に放れぬと、見知ぬ敵も無りけり。

次男の駿河守はこの様子を見て、「陣営では主君の命令に従わなくても良い。また戦場では兄に対する礼もない。今日の合戦の先駆けは自分以外には考えられないのだ」と生意気にも広言を吐き、兄より先にパッと抜け駆けに駈け入りました。後に従う兵士ら八百余騎は、これに劣らず我先に戦おうと、

魚鱗の陣(人の字型になるよう先頭を突出させた陣形)を作って駆け入りました。左馬頭足利基氏は敵の素晴らしく勇敢な戦意を感じながら、勝機を求めてひるむこともなければ、臆することもなく敵に合わせ馬を静かに進ませました。敵は鬨の声を三度にわたってあげ、若干躊躇したように見えたその時、

天も落ち地も裂けたかと思えるばかりの声で、ただ一度だけ鬨の声をあげると、左右にサッと分かれました。芳賀の軍勢八百余騎を東西から包み込むようにして、左側から接近するや右方向に引き、斬り込まれては落とされ、追い込んでは追い込まれ、半刻(約一時間)ばかり戦った後、両陣お互いに場所を変え、

南北に分かれて戦いの後を見れば、原野は血に染まって緑の草も色が変わり、人馬の流す汗に堀兼の池(狭山市堀兼神社にある池の名前?離れすぎと思うが)も血となりました。左馬頭は芳賀の元の陣に上り、芳賀は芳賀で左馬頭が最初に構えた陣に上って、お互い自軍の兵士を見てみれば、

討たれた者は百余人で、負傷した者はその数さえ分かりません。芳賀伊賀守は、「それはそうと、主だった者の中で誰か討たれた者がいるのか」と尋ねてみた所、「駿河守殿は鎌倉殿に切り落とされたように見えたのですが、乗っておられた馬には誰も乗っておりません。

おそらく討たれたのに違いないと思われます」と答えられたので、兄の伊賀守は流れ出る涙を汗と共に押し拭い、「今までただ二人で影のように寄り添ってきて、死ぬ時は一緒にと思ってきた弟を、目の前で討たれてその遺骸も何処にあるのかも分からない。このようなことがあって良いものか」と言って、

切り散らされた母衣をつなぎ合わせ、鎧を直すと喚き散らして駆け入りました。鎌倉方も軍兵七十余人が討たれただけでなく、両軍が二つに分かれようとした時、木戸兵庫助は近づいて来た敵に組み付かれ、馬から敵と落ち重なるようにして討たれたのです。鎌倉殿基氏はこの報告に目を真っ赤にして、

「この合戦において、もし死ぬならその時は必ず一緒にと、また生き残る時も一緒にときつく約束をしているので、命など惜しむべきではない」と言って、ササラ(編木子::短冊形の小板を綴じ連ねた楽器の一種)のようになった太刀の柄近くを小刀で削り直すと、振り回しながら駆け出されたので、

左右の兵士ら三千余騎は、大将の先に駆け抜けると一度にサッと一ヶ所に集まり、敵を追い回し、また駆け違って喚き叫んで戦う声は、あの広い武蔵野に響き渡るのに十分でした。大将の左馬頭殿はあまりにも激しく駆け入り駆け合わせ戦ったので、乗っておられた馬は三頭(さんず::馬の背の尻近く高くなっているところ)

平頚(ひらくび::馬の首の両側で平らになった所)を三太刀切られて、ドウと尻もちをついて倒れ込みました。この事態に大将と見知った敵が多かったので、次々と駆け寄って来て兜を打ち落とそうと後方に回る者や、馬から飛び降りて徒歩になって、太刀ではなく組み合って討ち取ろうと、左右からかかって来る敵もいます。

しかしながら左馬頭殿は、元来腕力は人より優れていますし、気も短く臆することのない気性なので困難な状況から逃げることもしないで、黄石公(こうせきこう::中国秦代の兵法の祖。張良に兵書を与えた伝説がある)が伝えたこと、また李道翁(?)が伝授した道理など、機を見て変化することを心掛けている太刀の名手なので、

ある時は兜の鉢を真っ二つに打ち割り、逃げようとする敵を斬り据え、またある者は鎧の胴中央を切りつけ、返す刀で左の敵を切り払いました。その激しい刃に肝を冷やして、敵は無理して近づこうとしませんでした。やがて東西方向も南北にも開けて見通しが良くなると、大将基氏殿がますます乗馬から離れてきたと、知らない敵はいませんでした。


大高左馬助重成遥に是を見て、急馳寄り弓手に下立て、「穴夥の只今の御挙動候や。昔の和泉・朝比奈も是まではよも候はじ。」と、覿面に奉褒、「早此馬に召れ候へ。」と申せば、左馬頭悦て、馬の内跨にゆらりと飛乗て、鞍坪に直り様に、「平家の侍後藤兵衛が主の馬に乗て逃たりしには、遥に替りたる御振舞哉。」と、「只今こそ誠に大高の名は相応したれ。」と、互にぞ褒返されける。其後左馬助は、放れ馬の有けるを取て打乗、所々に村立たる御方の勢を相招き、又敵の中へ懸入て、時移るまでぞ戦ける。互に人馬を休めて、両方へ颯と引分たれば、又鎌倉殿の御陣は芳賀が陣となり、芳賀が陣は二度鎌倉殿の御陣となる。芳賀伊賀守御方の勢を見巡して、「八郎がみへぬは、討れたるやらん。」と親の身なれば心元なげに申けるを、馬の前なる中間、「放れ馬の数百疋走散たる中に、毛色・鞍具足を委く見て候へば、黒鴾毛なる馬に連蒻の鞦懸たるは、慥かに八郎殿召れたりつる御馬にて候。早討れさせ給ひぬとこそ覚へ候へ。」と申ければ、「さて其馬に血や付たる。」と問ふに、「いや馬の頭に矢一筋立て見へ候へ共鞍に血は候はず。」とぞ答へける。是を聞てさしも勇める伊賀守、涙を一目に浮めて、「さては此者幼稚なれば被生捕けり。軍暫くも隙あらば、八郎如何様切られぬと覚ゆ。いさ今一軍せん。」と云ければ、岡本信濃守富高聞も敢ず莞爾とうち笑て、「子細候はじ。敵の大将を見知ぬ程こそ、葉武者に逢て組で勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て、下立たりつる若武者は、慥に鎌倉殿と見澄したり。鎧の毛をしるしにして、組討に討奉らんずる事、何よりも可安る。」とて、敵に心安く紛れんと、笠符を取て投捨、時衆に最期の十念を受て、思切たる機をぞ顕しける。左馬頭の御方に、岩松治部大輔はよく慮有て軍の変を計る人なりければ、大将左馬頭殿の鎧の毛を、敵何様見知ぬらんと推量して、御大事に替らんと思はれければ、我今まで著給へる紺糸の鎧に、鎌倉殿の白糸の鎧を俄に著替奉りてぞ控へたる。暫有て両陣又乱合て入替々々戦ける。岡本信濃守白糸の鎧著たる岩松を左馬頭殿ぞと目に懸て、組で討んと相近付く。岩松は又元来左馬頭の命に代らんと鎧を著替し上は、なじかは命を可惜。二人共に閑々と馬を歩ませ寄て、あはひ已に草鹿のあづち長に成ける時、岩松が郎等金井新左衛門、岩松が馬の前に馳塞て、岡本と引組馬よりどうと落けるが、互に中にて差違へて、共に命を止てけり。岩松は左馬頭の命に代らんと鎧を著かへ、金井は岩松が命に代て討死す。主従共に義を守て節を重んずる忠貞、難有かるべき人々也。其外命を軽じ義を重んじて、爰にて勝負を決せんと、相互にぞ戦ける。さて芳賀八郎は被生捕たりけれども、幼稚の上垂髪なりければ、軍散じて後に、人を付て被帰けるとかや。優にやさしとぞ申ける。去程に芳賀が八百余騎の兵、昨日は二日路を一夜に打しかば馬皆疲れぬ。今日は又入替る勢も無て終日戦ひくらしければ、兵息を不継敢。所存今は是までとや思けん、日已に夕陽に成ければ、被討残たる兵纔に三百余騎を助て、宇都宮へぞ帰ける。是を見て今まで戦を外に見て、勝方に付んと伺つる白旗一揆、弊に乗て疲を攻て、何くまでも追攻て打止んと、高名がほに追たりける。是のみならず芳賀が勢打負て引と聞へしかば、後れ馳に御陣へ参りける兵共、橋を引、路を塞で落さじとしける程に、道にても百余騎被討けり。辛き命を助て、故郷に帰ける者も、大略皆髪を切り遁世して、無きが如くに成にけり。軍散じければ、軈て宇都宮を退治せらるべしとて、左馬頭八十万騎の勢にて先小山が館へ打越給ふ。斯る処に、宇都宮急ぎ参じて申けるは、「禅可が此間の挙動、全く我同意したる事候はず。主従向背の自科依難遁、其身已逐電仕ぬる上は、御勢を被向までも候まじ。」と申ければ、左馬頭も深き慮やをはしけん、翌日軈て鎌倉へ打帰給にけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣。」と云り。禅可縦老僻て斯る悪行を企つ共、子共若義を知て制し止る事あらば、豈若干の一族共を討せて、諸人に被嘲哢乎。無思慮禅可が合戦故に、鎌倉殿の威勢弥重く成しかば、大名一揆の嗷儀共、是より些止にけり。

大高左馬助重成(しげなり)は遠くからこの様子を見て、急いで駆け寄り左手に降り立ち、「今のは何ともすさまじいご活躍でした。昔の和泉(泉親衡::ちかひら:泉親衡の乱の首謀者)、朝比奈(朝比奈義秀。大力の伝説がある)でさえこれほどの奮闘ではなかったでしょう」と、左馬頭殿を前にして褒めちぎり、

「お早くこの馬にお乗りください」と申し上げたので、左馬頭殿は喜んで馬の後方にひらりと飛び乗り、鞍壺(くらつぼ::鞍の人が乗る所)に坐り直しながら、「平家の侍、後藤兵衛盛長が主君平重衡の馬に乗って逃げたことに比べて、何とも素晴らしい行いではないか」と仰せられ、なおも、「今のこの行動こそ、

まさしく大高の名にふさわしい行いである」と、お互い褒め合いました。その後左馬助重成は放れ馬のいたのを幸いに乗ると、あちこちに群がっている味方の軍勢を招き寄せ、再び敵中に駆け入り長時間にわたって戦い続けました。やがて互いに人馬を休めようと、両側にサッと分かれたところ、

また鎌倉殿の御陣は芳賀の陣になり、芳賀の陣は再び鎌倉殿の御陣となっていました。芳賀伊賀守高貞は味方の軍勢を見まわし、「八郎が見えないが討たれたのではないか」と、親として不安げに話されると、馬の前にいた中間が、「放れ馬の数百匹が、散りじりになって走り逃げている中に、

毛色や色々な馬具をよく見ると、黒月毛(くろつきげ::灰色を帯びた栗毛)の馬に連着の鞦(れんじゃくのしりがい::馬具の一つ。総を連ねた緒)をつけたのがいました。あれは間違いなく八郎殿が召されていた御馬でしょう。もはや討たれたかと思われます」と、申し上げたところ、「ところで、

その馬には血がついていたか」と問われ、「いいえ、馬の頭に矢が一本立っていたように見えましたが、鞍には血はありませんでした」と、答えました。この説明を聞き、あれほど勇気ある伊賀守も、涙を目いっぱいに浮かべ、「すると彼はまだ幼稚なところがあるので生け捕りになったのだろう。

この合戦中に少しでも時間があれば、八郎は間違いなく斬られると思う。さぁ、今一度戦うぞ」と言われると、岡本信濃守富高は最後まで聞くことなく、にっこりと笑い、「勿論です、敵の大将基氏殿が分からなければ、端武者(はむしゃ::雑兵)に出会っても、組み打ちの勝負などしないつもりでも、

そうもいかず戦いにくいものです。今はよく分かりました。陣の先頭で白糸縅の鎧を身に着け、降り立っている若武者こそ、鎌倉殿に間違いないと見抜けるでしょう。鎧の縅の毛色を目印にして、組み討ちに持ち込み討ち取ることもたやすいでしょう」と言って、敵陣に安心して紛れ込めるように笠印を取ると投げ捨て、

時宗(じしゅう::浄土教の一宗派)の僧侶から最期の十念(じゅうねん::南無阿弥陀仏の名号を十回唱えてもらうこと)を唱えてもらうと、覚悟を決めた表情になりました。左馬頭殿の味方の岩松治部大輔は、非常に思慮深い人間であり、合戦の状況変化をつぶさに調べる人なので、大将の左馬頭殿の鎧の毛色を、

敵はきっと知っているだろうと推察し、基氏殿の身代わりになろうと考え、自分が今まで着けていた紺糸縅の鎧を急遽、鎌倉殿の白糸縅の鎧に着替えて控えました。しばらくして両陣は再び乱戦になり、入れ替わり立ち替わり戦いました。岡本信濃守は白糸の鎧を着た岩松を目にして、彼こそ左馬頭殿だと思い、

組み合って討ち取ろうとお互いその距離を縮めました。岩松はもともと左馬頭殿の身代わりになる積りで、鎧を着替えている以上、どうして命を惜しむ事などあるのでしょうか。二人は互いに静々と馬を歩ませて近づき、その距離がやがて草鹿のあづち(くさじしのあづち::弓の練習場における的の土盛り)までの長さぐらいになった時、

岩松の家来、金井新左衛門が岩松の馬の前に駆けつけると、行く手を遮断し岡本と組み合って馬よりドウっと落ちる時、互いに宙で刺し違えることとなって、二人共命を落としました。岩松は左馬頭殿の身代わりになるために鎧を着替え、また金井は岩松の命に替わって討ち死にしたのです。

主従共に義(正しい行いをすること)を守り、節(せつ::自分の信念)を重んじる結果として、忠義を守り節操を通したことは、まことに他にその例が見られないほどの人々でした。この二人以外の人々も、命を軽視するかわりに義を重視して、この戦闘で勝負をつけようと、お互い必死になって戦いました。

ところで、芳賀八郎は生け捕りになっていましたが、まだ幼い上、垂髪(すいはつ::結い上げずに垂らしたままの髪)なので合戦が終わってから、人を付けて帰らせたとか言われています。とても思いやりのある処置だと言われました。さて芳賀の八百余騎の兵士らは、昨日、二日行程の道を一夜で走り通したしたので、

馬は全て疲れ果てています。その上今日は今日で交替する軍勢もいない中、終日戦い続け兵士らは息を継ぐ間もありませんでした。内心今はこれまでと思ったのか、日も暮れ夕日になろうとした時、討たれずに生き残った兵士ら、わずか三百余騎を助けながら宇都宮に帰りました。

この戦況を見て今まで積極的には戦闘に参加せず、勝ちそうな方に味方しようと様子を見ていた白旗一揆は、敵の敗走に乗じて疲労した敵兵を攻め、どこまでも追走して討ち取り、手柄を手にしようと追いかけました。こればかりでなく、芳賀の軍勢が合戦に敗れ退却をするらしいと聞き、

遅れて戦陣に到着した兵士らは橋を取り壊し、街道も閉鎖して兵士らの逃亡を妨害したので、途中の街道でも百余騎が討たれました。何とか命をつないで故郷に帰りついた者でも、ほとんどが髪を切って出家し、世間から忘れ去られた存在になりました。合戦は終了したけれど、宇都宮は征伐するべきだと、

すぐ左馬頭基氏殿は八十万騎の軍勢で、まず最初に小山の舘に向かいました。そんな時、宇都宮氏綱が慌てて左馬頭殿の陣営に来ると、「芳賀高名(禅可)が今回起こした行動に、私は全く同意してはおりません。主従が意見を異にし、対立した罪を逃れることは出来ませんが、本人がすでに逃亡してしまった以上、

この上軍勢を向かわせるほどのこともないでしょう」と申し上げたところ、左馬頭殿もよくよく考えられたのか、翌日すぐ鎌倉へお帰りになられました。そこで、「君無諫臣即君失其国矣、父無諫子則父亡其家矣(君主に諫言をする臣下がいなければ、君主はその国を滅ぼし、父を諫める子供がいなければ、父はその家を滅ぼすことになる)」と、言います。

たとえ禅可が老いからくる、ひねくれた考えでこのような悪行を企てようと、子供らがもし義を重視して制止すれば、多くの一族らを討たせた上に、世間の人々から馬鹿にされ、笑われることなどなかったのです。禅可が起こした思慮のかけらもない合戦のため、鎌倉殿の支配力や軍事力はますます強くなり、

大名や一揆(各種武士連合)らの嗷議(ごうぎ::衆を頼んで無理を要求すること)などはこれを機会にしばらく収まりました。


○神木入洛事付洛中変異事
尾張修理大夫入道々朝は、将軍御兄弟合戦時、慧源禅門の方に属して打負しかば、鬱陶を不散、暫くは宮方に身を寄けるが、若将軍義詮朝臣より様々弊礼を尽して頻に招請し給ける間、又御方に成て、三男治部大輔義将を面に立て執事の職に居、武家の成敗をぞ意に任られける。去程に越前国は多年の守護にて、一国の寺社本所領を半済して家人共にぞ分行ける。其中に南都の所領河口庄をば、一円に家中の料所にぞ成たりける。此所は毎年維摩会の要脚たるのみに非ず、一寺の学徒是を以て、朝三の資を得て、僅に餐霞の飢を止、夜窓の燈挑て聚蛍の光に易ふ。而るを近年は彼依押領諸事の要脚悉闕如しぬれば、維摩の会場には、柳条乱て垂手の舞を列ね、講問の床の前には、鴬舌代て緩声の哥を唱ふ。是一寺滅亡の基、又は四海擾乱の端たるべし。早く当社押領の儀を止て、大会再興の礼に令復給べしと、公家に奏聞し武家に触訴ふ。然共公家の勅裁はなれ共人不用、武家の奉書は憚て渡す人なし。依之嗷儀の若輩・氏人の国民等、春日の神木を奉餝、大夫入道々朝が宿所の前に奉振捨。其日軈て勅使参迎して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自玉■を下させ給て、常の御膳を降ださる。摂家皆高門を掩て、日の御供を奉り給ふ。今澆末の風に向て大本の遠を見るに、政道は棄れて無に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀とく裁許あれかしと人々申合けれども、時の権威に憚て是をと申沙汰する人も無りけり。禰宜が鈴振る袖の上に、託宣の涙せきあへず、社人の夙夜する枕の上に、夢想の告止時なし。同五月十七日、何くの山より出たり共知ず、大鹿二頭京中に走出たりけるが、家の棟・築地の覆の上を走渡て、長講堂の南の門前にて四声鳴て、何の山へ帰る共見へずして失にけり。是をこそ不思議の事と云沙汰しける処に、同二十一日月額の迹有て、目も鼻も無て、髪長々と生たる、なましき入道頚一つ、七条東洞院を北へ転ありくと見へて、書消す様に失にけり。又同二十八日長講堂の大庭に、こま廻して遊ける童の内に、年の程十許なるが、俄に物に狂て、二三丈飛上々々、跳る事三日三夜也。参詣の人怪て、何なる神の託せ給たるぞと問に、物づき口うち噤て、其返事をばせで、人や勝つ神や負ると暫しまて三笠の山のあらん限はと、数万人の聞所にて、高らかに三反詠じて物付は則醒にけり。見るも懼しく、聞に身の毛も竪神託共なれば、是に驚て、神訴を忽に裁許有ぬと覚へけれ共、混ら耳の外に処して、三年まで閣れければ、朱の玉垣徒に、引人もなき御注連縄、其名も長く朽はてゝ、霜の白幣かけまくも、賢き神の榊葉も、落てや塵に交らんと、今更神慮の程被計、行末如何と空をそろし。今程国々の守護、所々の大名共、独として寺社本所領を押へて、不領知云者なし。然共叶はぬ訴詔に退屈して、乍歎徒に黙止ぬれば、国々の政に僻事多けれ共、其人無咎に似たり。然るに此人独斯る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀を負けるも、只其身の不祥とぞ見へたりける処に、同十月三日道朝が宿所、七条東洞院より俄に失火出来て、財宝一も不残、内厩の馬共までも多焼失ぬ。是こそ春日明神の御祟よと、云沙汰せぬ人も無りけり。されども道朝やがて三条高倉に屋形を立て、大樹に咫尺し給へば、門前に鞍置馬の立止隙もなく、庭上に酒肴を舁列ねぬ時もなし。夫さらぬだにも、富貴の家をば鬼睨之云り。何況や神訴を負へる人也。是とても行末如何が有んずらんと、才ある人は怪しめり。

☆ 春日の神木が都に入ったことと洛中に異変が起こったこと

尾張修理大夫入道道朝(どうちょう::斯波高経)は将軍兄弟(尊氏と直義)が戦っている時、慧源禅門(えげんぜんもん::弟の足利直義)の陣営に属して負けてしまい、気分がすぐれずしばらく宮方(南朝)に身を寄せていましたが、新しく将軍になった足利義詮朝臣から様々に礼を尽くし、しきりに招き迎えたいとの申し入れがあったので、

再び将軍方に属することとなり、三男(四男では?)の治部大輔斯波義将を前面に立てて執事の職に就かせ、自分は幕府の実権をほしいままにしました。やがて彼が長年守護を務めて来た越前国を半済(はんぜい::荘園年貢の半分を守護を通じて配下の武士に与える制度)を利用して、家人らに分け与えました。

その中でも南都(興福寺)の所領である河口庄(あわら市)全域を、尾張入道道朝一家の領地にしてしまいました。この土地は毎年興福寺で行われる維摩会(ゆいまえ)の費用に充てるばかりでなく、興福寺の学門研究者はこの資金で生計を立てて、何とか飲食の飢えから逃れ、夜の勉学には灯を掲げて、

蛍を集めての光に変えました。ところが最近では彼による領地の横領や、その他もろもろの妨害等により、必要な経費が不足して、維摩会が行われる道場では、柳条乱れて垂手の舞を連ね(意味不明?)、講問(こうもん::講義や質疑応答)が行われる床の前では、美しい声に替わって、だみ声で歌を歌う有様です。

このような状況は寺の滅亡を招く基となるか、または国内に騒乱の起こるきっかけともなります。早々に興福寺の荘園横領を停止して、維摩会が再興できるよう以前の状態に戻して下さいと、天皇に申し上げるため公家には申し入れを行い、武家幕府に対しては訴訟を起こしました。

しかしながら公家によって天皇の判断は下っても、それを守ろうとする人はなく、武家から下された文書は、皆恐れて渡す人もいませんでした。このため無理難題を要求する若輩者や氏人などの大和の国民たちは、春日の神木(春日大社で榊や梛の枝を春日明神の御神体としたもの)を神鏡やしめ縄で飾り立て、

尾張修理大夫入道道朝の屋敷の前に振り捨てました。その日すぐに勅使が神木を迎えに来て、長講堂(京都市にある浄土寺の寺)に神木を運び入れました。天皇自ら玉い(い:戸の中央中に衣::玉座の背後に立てる屏風)を立てられ、日常の食事を供えられました。摂関家(鎌倉時代に成立した公家の家格で頂点の五家)も皆、

高門を覆い隠し日々お供えをされました。最近のように人情が薄くなり末世を思わせる中、その風潮の根本を見てみると、国を治めるべき政治は行われていないように思われますが、天子の御意思は明確に保たれています。是非とも早急に天皇の御判断を頂きたいと、人々は話し合われましたが、

時の権威に恐れをなして、このことを申し上げる人もいませんでした。神官が鈴を振り鳴らすその袖に、神のお告げを期待する気持ちも抑えることが出来ず、神職は寝ても覚めても夢のお告げが止む時もありません。貞治四年(正平二十年::1365年)五月十七日、何処の山から現れたのか分かりませんが、

大きな鹿が二頭、京中に走り出て来て、家の棟や築地塀の上を走り抜け、長講堂の南門の前で四度鳴き声を上げると、どこの山に帰ったのか見えなくなりました。何とも不思議なことだと話し合っていたところ、同じく五月の二十一日、月代(さかやき::成人男子が額から頭上にかけて髪をそり上げた部分)の跡は残ってはいるけれど、

目も鼻もなく髪だけ長く生えている生々しい入道の首が一つ、七条東洞院を北に向かって転がって行くように見え、すぐかき消すように無くなったのでした。また同じく二十八日、長講堂の大きな庭でコマを回して遊んでいた子供の中で、年の頃十歳ばかりの子が突然物狂いになって、

二、三丈(6〜9m)も飛び上がり、また飛び上がること、三日三晩も続きました。参詣に訪れた人が怪しみ、如何なる神が乗り移っているのかと問うたところ、その子供は口をつぐんでその返事はせずに、人や勝つ神や負けると暫しまて、三笠の山のあらん限りは、と数万人が聞いている所で、高らかに三度繰り返して詠んだあと、

憑き物からすぐに覚めたのでした。見るのも恐ろしく聞けば身の毛がよだつ神託(しんたく::神のお告げ)ですが、これに驚いて興福寺の強訴をすぐにお許しになるとも思われず、聞かないふりをして三年間もそのままにしていたため、長講堂の朱色の垣根も空しく痛み、手入れもされずに放置されたしめ縄も朽ち果て、

霜のごとくに白い神前に捧げる布をかける榊の葉も落ちて、塵に混じり込もうとしている今、神の御意向を推察すれば、この先どうなるのか恐ろしい限りです。最近ほど諸国の守護らや諸所の大名達の内、一人として寺社の本所(寄進を受けた荘園所有者)を無視して、自分の領地としない者などおりません。

とは言ってもどうにもならない訴訟に疲れて、不満に嘆きはすれども黙らざるを得ず、諸国の政治向きに不正が横行していても、その罪を問われる人などいない状況でした。ところでこの人一人は興福寺と言う大寺院との訴訟に関わり合って、神威をたてにした強訴を受けて神から呪われながらも、

その身に何ら不吉なことなど見えなかったのですが、貞治四年(正平二十年::1365年)十月三日、道朝、斯波高経の七条東洞院にある宿所から突然出火し、財宝など一つとして残らず焼失し、また馬屋につないでいた馬も多数が焼死しました。これこそ間違いなく春日明神の御祟りだと、言わない人はいませんでした。

しかし、道朝はすぐに三条高倉に屋敷を建てて、征夷大将軍義詮殿に拝謁しましたので、新居の門前には鞍を置いた馬が立つ隙間もないほどで、庭に酒肴の並ばない時などありませんでした。裕福な家は鬼がいつもにらんでると言います。ましてこの人は興福寺から強訴を受けている人です。このこともこの先一体どういうことが起こるのかと、知恵や知識のある人は不安を持ちました。


○諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
抑此管領職と申は、将軍家にも宗との一族也ければ、誰かは其職を猜む人も可有。又関東の盛なりし世をも見給たりし人なれば、礼儀法度もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是ぞ誠に武家の世をも治めんずる人よと覚けるに、諸人の心に違ふ事のみ有て、終に身を被失けるも、只春日大明神の冥慮也と覚へたり。諸人の心に違ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分一の武家役を毎年被懸けるを、此管領の時に二十分一になさる。是天下の先例に非ずと憤を含む処也。次に将軍三条の坊門万里小路に御所を立られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課て被造。赤松律師則祐も其人数たりけるが、作事遅して期日纔に過ければ、法を犯す咎有とて新恩の地、大庄一所没収せらる。是又赤松が恨を含む随一也。次には佐々木佐渡判官入道々誉、五条の橋を可渡奉行を承て京中の棟別を乍取、事大営なれば少し延引しけるを励さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩をも不成、厳密に五条の橋を数日の間にぞ渡にける。是又道誉面目を失ふ事なれば、是程の返礼をば致さんずる也とて、便宜を目に懸てぞ相待ける。懸処に、柳営庭前の花、紅紫の色を交て、其興無類ければ、道朝種々の酒肴を用意して、貞治五年三月四日を点じ、将軍の御所にて、花下の遊宴あるべしと被催。殊更道誉にぞ相触ける。道誉兼ては可参由領状したりけるが、態と引違へて、京中の道々の物の上手共、独も不残皆引具して、大原野の花の本に宴を設け席を妝て、世に無類遊をぞしたりける。已に其日に成しかば、軽裘肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山にぞ趣きける。麓に車を駐て、手を採て碧蘿を攀るに、曲径幽処に通じ、禅房花木深し。寺門に当て湾渓のせゞらきを渉れば、路羊腸を遶て、橋雁歯の危をなせり。此に高欄を金襴にて裹て、ぎぼうしに金薄を押し、橋板に太唐氈・呉郡の綾・蜀江の錦、色々に布展べたれば、落花上に積て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏に足冷く歩むに履香し。遥に風磴を登れば、竹筧に甘泉を分て、石鼎に茶の湯を立置たり。松籟声を譲て芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝毎に高く平江帯を掛て、■頭の香炉に鶏舌の沈水を薫じたれば、春風香暖にして不覚栴檀林に入かと怪まる。眸を千里に供じ首を四山に廻、烟霞重畳として山川雑り峙たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云に聚り、足を不移寸歩、四海五湖の風景立に得たり。一歩三嘆して遥に躋ば、本堂の庭に十囲の花木四本あり。此下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸て、一双の華に作り成し、其交に両囲の香炉を両机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在が如し。其陰に幔を引曲■を立双て、百味の珍膳を調へ百服の本非を飲て、懸物如山積上たり。猿楽優士一たび回て鸞の翅を翻し、白拍子倡家濃に春鴬の舌を暢れば、坐中の人人大口・小袖を解て抛与ふ。興闌に酔に和して、帰路に月無れば、松明天を耀す。鈿車軸轟き、細馬轡を鳴して、馳散り喚き叫びたる有様、只三尸百鬼夜深て衢を過るに不異。華開花落る事二十日、一城の人皆狂ぜるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、げにさこそは有つらめと思知るゝ許也。此遊洛中の口遊と成て管領の方へ聞へければ、「是は只我申沙汰する将軍家の華下の会を、かはゆ気なる遊哉と欺ける者也。」と、安からぬ事にぞ被思ける。乍去是は心中の憤にて公儀に可出咎にもあらず。「哀道誉、何事にても就公事犯法事あれかし。辛く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処、二十分一の武家役を、道誉両年まで不沙汰間、管領すはや究竟の罪科出来すと悦て、道誉が近年給りたりける摂州の守護職を改め、同国の旧領多田庄を没収して政所料所にぞ成たりける。

☆ 諸大名が斯波高経道朝について悪口を言ったことと、佐々木道誉が大原野で茶会をしたこと

そもそもこの管領職と言うのは、将軍家にとって主力の一族が勤める職なので、その職をうらやむ人が当然います。また関東の支配力が全盛時代だった世を見て来た人ならば、礼儀や守るべき行動など最近の人とは違っているはずなので、この人こそ間違いなく武家による幕府の世を治めてくれる人だと思っていたのに、

世間の人々が心中期待していたことと違うことが多く、とうとう身の破滅を招くことになったのも、ただ春日大明神のお考えに沿ったことと考えられます。また人々の期待と異なったのは、一つは最近日本国の地頭や御家人の所領に五十分の一相当の武家役(ぶけやく::御家人や奉公衆に課した課役)が毎年掛けられていたのを、

この管領時代に二十分の一にされたのです。このことは前例のない処置だと、憤懣を持つことになりました。次に将軍が三条坊門万里小路に御所を建造された時、大名一人あて一棟の殿舎、楼閣を割り当てて造られました。赤松律師則祐もその人数に入っていましたが、

工事が遅れ気味で少しばかり納期に間に合わなかったため、約束を守らなかった罪だと言う理由で、新たに恩賞として与えられた大きな領地を没収されました。このことが赤松が恨みを持った最大の理由です。その次は、佐々木佐渡判官入道道誉が五条の橋の建造責任者を命じられて、京中の家屋単位に課税をしておきながら、

大規模な工事のため少し遅れ気味なので急かそうとして、斯波高経道朝は他人の力を借りることなく、また民衆を煩わすこともなく、数日の間に五条の橋を完璧に架け終えました。このことはまた、道誉が面目を失うことなので、この仕返しはしなければならないと、常にその機会を狙っていました。そのような時、

将軍屋敷の庭の花が様々な色を交えて、その趣たるもの他に例がないほどなので、道朝は種々の酒肴を用意し、貞治五年(正平二十一年::1366年)三月四日を期して、将軍の御所において花の下での遊宴開催を計画しました。道誉には特別熱心に連絡を取りました。道誉は当初から出席することは承諾していましたが、

わざと間違えたふりをして、洛中の諸芸に熟練した人たちを一人残らず呼び寄せ、大原野の花のもとに宴席を設けて、かつてなかったほどの遊宴を企画しました。やがてその日が来ると、軽裘肥馬(けいきゅうひば::富貴な人が外出する時のいでたち、転じて富貴な人)の家を誘って、大原や小塩(おしお)の山に向かいました。

麓に車を停め、手で碧蘿(へきら::緑色のつたかずら)をつかみながら登っていくと、曲がりくねった道はやがて静かな落ち着きのある場所に着き、そこは花をつけた木々に囲まれています(常建作::曲径通幽処、禅坊花木深)。寺の門に着き曲がりくねったせせらぎを渡ると、小道は羊の腸のようにめぐり、橋を渡ろうとすれば、

橋の横板は雁の歯並びのように、一枚一枚が食い違って危ない限りです。ここにある欄干を金糸などで模様を織りだした美しい織物で覆い、擬宝珠(ぎぼし::欄干などの柱の上端につける装飾物)には金箔を貼り付け、橋板には唐製の毛氈を敷き、呉郡の綾織物や蜀江の錦など、有名な産地の布を色々と並べれば、

散り落ちた花々がその上に積る様子は、朝の光がまだ渓谷の岩陰に届かない時、橋板に雪が消えずに残っているようです。踏めば足は冷たく履物の後は美しく残ります。風の吹き抜ける石段を登ると、竹の樋に美味なる水が分け流れ、磁器製の茶器には茶を立てるお湯が準備されています。

松の梢を吹き抜ける風の音と共に、春の気配も味わい深い雰囲気の中、茶の入った椀を傾ければ女神の優しさを感じることが出来ます。藤の曲がりくねった枝ごとに、高く平江帯(ひごたい::多年草、アザミによく似た花をつける)を飾り、ち頭(?)の香炉に鶏舌(けいぜつ::丁子の類の香料)から作った香料を薫じれば、

春の風は良い香りに包まれて暖かく感じられ、栴檀(せんだん::落葉高木。白檀の別名)の林に入り込んだのかと不思議な気持ちになります。瞳を遠くにやり、首を四方の山々に回せば、けむりか霞かはっきりしませんが、幾重にも重なり連なって山や川が混じり合った景色は、絵具で筆を動かすこともなく、

細かい部分まで注意をはらって描かれた絵画のようです。足をわずかでも運ぶことなく、この世界のあらゆる景色を一瞬に我が物にすることが出来ます。歩みを進めるたびに感激を新たにし、はるかに登っていくと、本堂の庭には十人の腕で抱える程の美しい花の咲いた木が四本植わっています。

この木の下に一丈(約3m)もある真鍮で鋳造した花瓶を置いて一組の生け花に見せ、その間には二抱えもある香炉を二つの台に並べて、一斤(きん::600g)も名のある香木を一度に薫じれば、その香りは四方に流れて人々は全員、浮香世界(ふこうせかい::芳香の漂っている浄土)の中にいるような気持になります。

その裏手に幔幕を張り、曲ろく(ろく=緑の旁部::法会の時に使用する椅子)を並べ、多種の珍しい食膳を整え、百服のお茶の銘柄を推測し合うため、その懸賞として様々な品物が山のように積み上げられています。猿楽の巧みな演者が一度回って鸞鳥(らんちょう::中国の想像上の鳥)の羽をひるがえし、

白拍子(しらびょうし::遊女)とその置屋の者達によって、心を込めて春を告げる鶯のごとくに歌を歌えば、その場にいる人々は、大口(大口袴)や小袖を脱いで彼女らに投げ与えました。興が最高潮に達し、酔いと一緒になって帰路につこうとする時、月も隠れて見えなければ、灯した松明は天を焦がすかのごとく照らします。

螺鈿(らでん:貝殻の薄片を埋め込んだりしての装飾技法)で装飾された車は轟くような音を出し、良馬が轡を鳴らして駆け散る騒ぎ、その歓呼の声、喚き散らす声の様子は、ただ三尸(さんし::人間の体内にいると考えられていた三匹の虫)や百鬼(色々な化け物)が深夜街を走り抜けるのと変わりません。花が開き、

やがて散る二十日間というものは、その場にいた人々が皆狂ってしまったようだと、牡丹の美しさに人の心が乱れたと詠んだ、白居易の「牡丹芳」も、このような状況であったのではと思い知らされるばかりです。この遊宴が洛中の噂話となって管領の耳にも入ると、「この宴は私が提案した将軍家で実施予定の、

花をめでる宴を侮辱するための遊宴である」と、不穏な考えを持たれたのでした。とは言えこの思いは心中に納め、表面だって不満をあらわにしたものではありません。「くそ、道誉の奴め、どんなことでもよいから不法なことをやって見ろ、その時は厳しく罪を問うてやるからな」と、

心に留めて待ち受けていたところ、二十分の一を課せられた武家役に対して、道誉が二年間も滞納したので、管領はよし完全なる罪科が発覚したと大いに喜び、道誉が最近賜った摂州の守護職を罷免し、同国の旧領多田庄を没収し、幕府政所管轄の土地にしました。


依之道誉が鬱憤不安。如何にもして此管領を失ばやと思て、諸大名を語ふに、六角入道は当家の惣領なれば無子細。赤松は聟也。なじかは可及異儀。此外の太名共も大略は道誉に不諛云者無りければ、事に触此管領天下の世務に叶まじき由を、将軍家へぞ讒し申ける。魯叟有言、曰、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或は其衆阿党比周して好ずる事あり。或は其人特立不詳にして悪るゝ事あり。毀誉共に不察あるべからず。諸人の讒言遂に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽に可討に定けり。此事内々佐々木六角判官入道崇永に被仰て、江州の勢をぞ被召ける。道朝此由を伝聞て、貞治四年八月四日晩景に、将軍の御前に参じて被申けるは、「蒙御不審由内々告知する人の候つれ共、於身不忠不儀の事候はねば、申人の謬にてぞ候らんと、愚意を遣候つるに、昨日江州の勢共、合戦の用意にて、罷上り候ける由承及候へば、風聞の説早実にて候けりと信を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器の職を汚し候ぬれば、讒言も多く候覧と覚候。然るを讒者の御糺明までも無て、御不審を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老の後に尸を曝さん事何の子細か候べき。」と、恨の面に涙を拭て被申ければ、将軍も理に服したる体にて、差たる御言なし。良久黙然として涙を一目に浮べ給ふ。暫有て道朝已に退出せんとせられける時、将軍席を近付給て、「条々の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中我心にも任たる事にても無ければ、暫く越前の方へ下向有て、諸人の申処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈被退出ぬ。去程に崇永兼て用意したる事なれば、稠くよろひたる兵八百余騎を卒して将軍の御屋形へ馳参り、四門を警固仕る。是より京中ひしめき渡て、将軍へと馳参る武者もあり、管領へと馳る人もあり。柳営家臣の両陣のあはひ僅に半町許あれば、何れを敵何れを御方共不見分。道朝始は一箭射て腹を切らんと企けるが、将軍より三宝院覚済僧正を御使にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪かりなん。敵共に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許に、二宮信濃守五百余騎、高倉面の門より、将軍家に押寄る体を見せて、鬨をぞ揚たりける。是を聞て、将軍家へ馳参りたる大勢共、内へ入んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・胄を奪れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知。未戦先に、禍蕭墻の中より出たりとぞ見へたりける。此ひしめきの紛れに、道朝は三百余騎の勢を卒し、長坂を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許も落延ぬらんと覚る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共、疲れに乗て打止めんと追懸たり。二宮長坂峠に控て少も漂へる機を不見、馬に道草かふて嘲たる声ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置奉る故也。今は都をも離れぬ。夜も明ぬ。敵も御方も只今まで知り知られたる人々也。爰にては我人の剛臆の程を呈さでは何れの時をか可期。馬の腹帯の延ぬ先に早是へ御入候へ。我等が頚を御引出物に進するか、御頚共を餞に給るか、其二の間に自他の運否を定め候ばや。」と高声に呼て、馬の上にて鎧の上帯縮直して、東頭に引へたり。其勇気誠に節に中て、死を軽ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共、よしや今は是までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。道朝、二宮を待付て、越前へ下著し、軈て我身は杣山の城に篭り、子息治部大輔義将を栗屋の城に篭て、北国を打随へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下せ。」とて、畠山尾張守義深・山名中務大輔・佐々木治部大輔高秀・土岐左馬助・佐々木判官入道崇永・舎弟山内判官入道崇誉・赤松大夫判官・同兵庫助範顕、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国勢、相共に七千余騎、同年の十月より二の城を囲て、日夜朝暮に攻けれ共、此城可被落とも不見けり。斯る処に翌年七月に道朝俄に病に被侵逝去しければ、子息治部大輔義将様様に歎申されけるに依て、同九月に宥免安堵の御教書を被成、京都へ被召返。無幾程越中の討手を承て、桃井播磨守直常を退治したりしかば、軈越中の守護職に被補。是より北国は無為に成にけり。此濫觴抑道朝が僻事は何ぞや。唯依諸人讒言失身給し者也。されば楚の屈原が泪羅の沢に吟て、「衆人皆酔、我独醒たり。」と、世を憤しを、漁父笑て、「衆人皆酔らば、何ぞ其糟を喰て其汁をすゝらざる。」と哥て、滄浪の舟に棹しも、げにさる事も有けりと、被思知世と成にけり。

この仕打ちに道誉の鬱憤は収まりません。どんなことがあってもこの管領は罷免せずにはおかないと考え、諸大名に話しかけたところ、六角入道(氏頼・入道して崇永)は当家佐々木の惣領なので問題ありませんし、また赤松則祐は娘婿なのでめったに異議を挟むことはありません。

この人達以外の大名らもほとんどの者は、道誉に追従する人ばかりですから、この管領に天下の政治を任せることは良くないと、何かにつけ将軍家に申し入れをしました。魯国の孔子にはこのような言葉があります、曰く大衆がこれを憎んでも良く調べなければならないし、

大衆が好んでも良く調べなければならない(論語)。あるいは人間というものは権力のある者に味方し、徒党を組んで良く言う場合もありますし、またある場合は特別な理由もなく非難されることもあります。人の称賛や非難などについては、良く調査をしなければなりません。

この場合、人々の讒言について、最後まで真偽を調べなかったので、道朝は無罪であるのに関わらず、追討を受けることに決まりました。この決定は内々に佐々木六角判官入道崇永に仰せられ、江州の軍勢を招集されました。斯波高経道朝はこの話を伝え聞き、貞治五年(正平二十一年::1366年)八月四日の夕方、

将軍の御前に参り、「私が将軍殿より嫌疑を受けていると知らせる者がいますが、私には何ら不忠なことは勿論、不義などもありませんので、その人の話すことなど何かの間違いであろうと、楽観していましたところ、昨日、江州の軍勢らが合戦の用意をして上洛してきたと聞き、

あの世間の噂話は早くも現実のものになったのかと、信じざるを得ない次第です。そもそも此の道朝は特別な才能などもない身でありながら、重要な職務を任されていますので、何かと讒言も多いのではと思っています。ところが讒言を行う者に対して、十分な調査も行われずに、嫌疑を受ける位ならば、

なにも国々の軍勢を催すことなどございません。ただ武士一人に命じられ、主君を思って諫言を行った罪で死を賜るなら、老いさらばえた屍を晒すことに、何の異議があると言うのでしょうか」と恨みを含んだ顔で、涙を拭いながら話されると、将軍も納得のいく様子で特にお言葉はありませんでした。

しばらく沈黙が続き、涙を目一杯に浮かべられました。やがて道朝が退出しようとした時、将軍は座を近づけ、「色々と事情もあるとは思うが、今の世の中、自分の思うに任せないことが多いので、しばらくは越前に下向し、人々が話される内容に対してよく説明するのが良いだろう」と仰せられたので、道朝は、

「謹んでお受けいたします」と言って、すぐに退出されました。やがて六角入道崇永は予定の行動なので、甲冑に厳しく身を固めた兵士、八百余騎を率いて将軍の屋敷に駆けつけ、四門を警固しました。このため京都中は大騒ぎになり、将軍のもとに駆けつけて来る武者や、管領のもとに駆けつける人もいました。

幕府の本陣と家臣である管領の陣営はその距離僅か半町(約109m)ほどなので、誰が味方なのか敵なのか見分けもつきません。道朝は当初矢の一本でも放ってから腹を切ろうと考えていましたが、将軍より三宝院覚済僧正を使者として、たびたび落ち着いて行動するようにと話があり、

それならばここは北国へ下向しようと、方針が定まりました。とは言え余りにも無様な格好で、都を出るわけにもいきません。敵どもに追撃されることもあろうかと、貞治五年(正平二十一年::1366年)八月八日の夜中ごろ、二宮信濃守の五百余騎が高倉通りに面した門から、将軍の屋敷に押し寄せる様子を見せ、

鬨の声をあげたのです。この声を聞き、将軍家に駆けつけていた大勢の武士ら、屋敷内の入ろうとする者や、屋敷内から外に出ようとする者もなどがいました。何がどうなのか分からずにひしめき合っている内に、鎧の袖や兜などが奪われたり、太刀や長刀など取られたり、馬や甲冑を失った者などその数も分からない程です。

まだ戦闘も始まらない先に、将軍家に内輪もめが起こったようにも見えました。この騒動に紛れて道朝は三百余騎の軍勢を率いて、長坂街道経由で越前に落ちて行きました。今や落ち行く軍勢の先頭が一里(約4Km)ばかり落ちたと思われる頃、二宮信濃守は後を追って落ちて行きました。

将軍側の諸大名の軍勢らは、疲れに乗じて討ち取ろうと追いかけて来ました。二宮は長坂峠(京見峠)を前にして少しもたじろぐ様子を見せず、馬に草を食べさせながら小馬鹿にした口ぶりで、「都にて合戦をしなかったのは、何も敵が怖かったのではなく、ただ将軍に遠慮しただけである。

今は都も離れたし、夜も明けた。敵も味方も今までお互いに知り合った人々である。ここで我らが剛勇なのか、それとも臆病なのかはっきりさせなくて、いつ出来ると言うのか。馬の腹帯が伸びない先に、早くこちらに駆け入って来られよ。我らの首を引き出物として進上するか、それとも貴殿らの御首を餞別として賜るか、

二つに一つ、お互いの運命を決しようではないか」と大声で呼びかけ、馬の上で鎧の上帯を締め直し、東頭(ひがしがしら::?)に控えました。その危険を恐れない勇気はまことに信念に満ち、死を恐れぬ忠義に溢れて、眼前に恐れる敵などいないように見えたので、数万騎の寄せ手らは、

もう良いだろう此処までにしようと言って、長坂の麓から引き返しました。道朝は二宮がやって来るのを待ってから、越前国に入るとすぐに自分は杣山(そまやま::福井県南条郡南越前町)の城に篭り、子息の治部大輔義将を栗屋(くりや::福井県丹生郡越前町)の城に篭らせて、北国を支配下に置こうと計画したので、

将軍は、「そのようなことを考えているなら討手を送りこめ」と言って、畠山尾張守義深、山名中務大輔、佐々木治部大輔高秀、土岐左馬助、佐々木判官入道崇永(そうえい)、その弟山内判官入道崇誉(そうよ)、赤松大夫判官、同じく兵庫助範顕(のりあき)、能登、加賀、若狭、越前、美濃、近江など各国の軍勢、

合わせて七千余騎が同年貞治五年(正平二十一年::1366年)十月より二つの城を包囲して、連日連夜攻撃を続けましたが、これらの城はとても落ちそうには見えませんでした。このような状況の中、翌年の貞治六年(正平二十二年::1367年)七月に道朝が突然発病し急逝したので、子息の治部大輔義将は色々と情状酌量を嘆願したところ、

同年の九月に赦免と身分保障の書状が下され、京都に呼び戻されました。その後しばらくしてから越中の討手を命じられ、桃井(もものい)播磨守直常(ただつね)を征伐したので、すぐに越中の守護職に任じられました。そしてこの後北国は平穏無事になりました。この濫觴(らんしょう::大河も初めは盃を浮かべる程の細流から、物事の始まり)は一体道朝の何処が間違っていたのでしょうか。

それはただ諸人の行った讒言(ざんげん::事実でない悪口を上部に話すこと)によって、その身を滅ぼされただけです。つまり楚国の屈原(くつげん::楚国の政治家、詩人)が泪羅(べきら:汨羅::湖南省北東部、屈原が投身自殺されたとする川)の渓谷で、「衆人は全員酔っている、覚めているのは自分一人だけだ」と世の中を憤っているのを、

漁夫が笑って、「もし衆人全員が酔っているなら、どうして酒粕を食べ、その汁をすすろうとしないのだ(時代と共に生きれば良い)」と歌い、滄浪(そうろう::川の名前)に浮かんだ舟に棹さして離れて行ったのも、なるほどこのような事もあるのかと、思い知らされる世の中になったのでした。      (終り)

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