39 太平記 巻第三十九 (その二)


○神木御帰座事
大夫入道々朝都を落て後、越前国河口庄南都被返付しかば、神訴忽に落居して、八月十二日神木御帰坐あり。刻限卯時と被定たるに、其暁より雨闇く風暴かりしかば、天の忿猶何事にか残らんと怪かりしに、其期に臨で雨晴風定りて、天気殊に麗かりしかば、是さへ人の意を感ぜしめたり。先南曹弁嗣房参て諸事を奉行す。午刻許に鷹司左大臣殿・九条殿・一条殿、大中納言・大理以下次第に参り給ふ。関白殿御著座あれば、数輩の僧綱以下、御座の前にして其礼を致す。是時の長者の験也。出御の程に成ぬれば、数万人立双たる大衆の中より、一人進出て有僉議。音声雲に響き、言語玉を連ねたり。僉議終ば幄屋に乱声を奏す。翕如たる声の中に、布留の神宝を出し奉るに、関白殿以下、卿相雲客席を避て皆跪き給ふ。其次に本社の御榊・四所の御正体、光明赫奕としてゆすり出させ給へば、数千の神官共、覆面をして各捧げ奉る。両列の伶倫、道々還城楽を奏して、正始の声を調べ、神人警蹕の声を揚て非常を禁しむ。赤衣仕丁白杖を持て御前に立、黄衣神人神宝を頂戴して次々に順ふ。其外の神司束帯を著して列を引。白衣神人、数千人の国民等歩列る。時の関白良基公は、柳の下重に糸鞋を召、当りも耀く許に歩み出させ給へば、前駆四人左右に順ひ、殿上人二人御裾をもつ。随身十人有といへ共態御先をばをはず。神幸に恐を成し奉る故也。其次には鷹司左大臣・今出河大納言・花山院大納言・九条大納言・一条大納言・坊城中納言・四条中納言・西園寺中納言・四条宰相・洞院宰相中将、殿上人には、左中将忠頼・右中将季村・新中将親忠・左中弁嗣房・新中将基信・蔵人右中弁宣房・権右中弁資康・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕・左少将為有・右少将兼時、行妝を整へ、威儀を正くして、閑に列をなし給へば、供奉の大衆二万人、各貝を吹連て、前後三十余町に支たり。盛哉朝廷無事の化、遠く天児屋根の昔に立返り、博陸具瞻の徳、再び高彦霊尊の勅を新にし給へり。誠に利物の垂迹、順逆の縁に和光し不給、今斯る神幸を拝し奉るべしやと、岐に満る見物衆の、神徳を貴ばぬは無りけり。

☆ 春日の神木がお帰りになったこと

大夫入道斯波高経道朝が都を落ちてから、越前国河口庄が南都興福寺に返還されたので、強訴騒動はすぐに解決し、貞治六年(正平二十二年::1367年)八月十二日に神木は春日大社に戻りました。その時刻は卯刻(午前六時頃)と定められていましたが、その日は明け方から雨が激しく風も吹き荒れていたので、

天の怒りもまだまだ収まってはいないのかと危ぶんでいたところ、その時刻になってみると、雨は降り止み風も収まって良い天気になったので、このことだけでも人々の心に感動を与えました。まず南曹弁(なんそうべん::職名)の嗣房(つぎふさ)がやって来て全ての進行係を受け持ちました。

やがて午刻(正午頃)になると、鷹司左大臣殿、九条殿、一条殿、大納言、中納言、大理以下次第に参集されました。関白殿が席につかれると、数名の僧綱(そうごう::僧尼を統率し管理する官職)以下がそのお席の前で拝礼を行いました。これが現時点で長者であることの証明です。

出発の時刻になると、数万人の大衆が立ち並んでいる中から、一人が進み出て評議を行いました。その声は雲に響き、その言葉は玉を連ねたように美しいものでした。評議が終わると幄屋(あくや::儀式の時、臨時に設ける仮小屋)で雅楽が奏せられます。音律や調子などよくそろった声の中、石上神宮の宝物をお出しになると、

関白殿以下公卿や殿上人など、席から降りて全員ひざまずきました。その次に本社(春日大社)の御榊(春日大社の神霊が宿った榊)、四所(四柱の神が祀ってある四棟の本殿)の御正体(みしょうだい::御神体)が光明も赫奕(かくやく::光輝くさま)としてお出ましになると、数千の神官らは息のかからないよう布などで口や鼻を覆い、

それぞれを捧げられました。両側の伶倫(れいりん::楽器を奏する人)は歩みながら還城楽(げんじょうらく::雅楽のなかの唐楽の曲名)を演奏して、周辺の人々に注意を与えると共に、神官らは先頭を歩みながら声を上げ先払いをして、非常事態発生の警戒を行います。赤色の衣服を着用した男が白い杖を持って御前に立ち、

黄色の法衣を着用した神官が宝物を受け取り、次々と後に続きます。その外の神官らは束帯(そくたい::儀式等用の正装)を着用して列に続きます。白衣を着た神官は、数千人の民衆らと一緒に歩み続きます。現在の関白二条良基公が、柳色(白味のかかった黄緑色)の下がさね(束帯の内着、後ろに長く引きずる)に糸鞋(しがい::絹糸を編んで作った履物)を履かれ、

周辺を輝かすばかりに歩みだされると、前方を騎馬で先導していた四人が左右に従い、殿上人の二人が下がさねの裾を持ちます。良基公のお付きの者は十人おられるのですが、わざと列の先払いはしません。これは神幸(しんこう::神が進まれること)に畏れをなして遠慮させるからです。

その後には鷹司左大臣、今出川大納言、花山院大納言、九条大納言、一条大納言、坊城中納言、四条中納言、西園寺中納言、四条宰相、洞院宰相中納言、また殿上人としては、左中将忠頼、右中将季村(すえむら)、新中納言親忠(ちかただ)、左中弁嗣房(つぎふさ)、新中将基信(もとのぶ)、蔵人右中弁宣房(のぶふさ)

権中弁資康(すけやす)、蔵人左中弁仲光、右少弁宗顕(むねあき)、左少将為有(ためあり)、右少将兼時(かねとき)らが、外出用の正装を着用し、威厳を感じさせるような振る舞いで、静かに列を作って進まれると、行列に加わっている大衆(だいしゅ::興福寺の僧侶たち)ら二万人が、各自貝(法螺貝)を吹き鳴らしながら、

前後三十余町(約3.3Km)に連なりました。素晴らしく盛大な儀式であり、朝廷はますます安定し、遥か遠く天児屋根命(あまのこやねのみこと::天照大神が天の岩屋に隠れた時、祝詞を奏した神)の時代に戻ったようであり、関白を人々が尊び敬い仰ぎ見る人徳が、再び高彦霊尊(たかむすびのみこと::高天原の支配者)の命令を再確認しました。

確かに利物の垂迹(りもつのすいじゃく::仏や菩薩が衆生を救うため種々の姿をとって現われること)によって姿を現されたものの、順縁(仏の教えに素直に信じ、仏縁を結ぶこと)や逆縁(仏の教えを素直に信じようとしないが、結果として仏縁を結ぶこと)の衆生は救おうとはしないので、今このような神のお出ましを拝まねばと、巷に満ち溢れる見物人は、神の有難さをあがめ貴ばない人はいませんでした。


○高麗人来朝事
四十余年が間本朝大に乱て外国暫も不静。此動乱に事を寄せて、山路には山賊有て旅客緑林の陰を不過得、海上には海賊多して、舟人白浪の難を去兼たり。欲心強盛の溢物共以類集りしかば、浦々島々多く盜賊に被押取て、駅路には駅屋の長もなく関屋に関守人を替たり。結句此賊徒数千艘の舟をそろへて、元朝・高麗の津々泊々に押寄て、明州・福州の財宝を奪取る。官舎・寺院を焼払ひける間、元朝・三韓の吏民是を防兼て、浦近き国々数十箇国皆栖人もなく荒にけり。依之高麗国の王より、元朝皇帝の勅宣を受て、牒使十七人吾国に来朝す。此使異国の至正二十三年八月十三日に高麗を立て、日本国貞治五年九月二十三日出雲に著岸す。道駅を重て無程京都に著しかば、洛中へは不被入して、天竜寺にぞ被置ける。此時の長老春屋和尚覚普明国師、牒状を進奏せらる。其詞云、皇帝聖旨寰、征東行中書省、照得日本与本省所轄高麗地境水路相接。凡遇貴国飄風人物、往往依理護送。不期自至正十年庚寅、有賊船数多、出自貴国地面、前来本省合浦等処、焼毀官廨、掻擾百姓甚至殺害。経及一十余年、海舶不通、辺界居民不能寧処。蓋是島嶼居民不懼官法、専務貪婪。潜地出海劫奪。尚慮貴国之広、豈能周知。若使発兵勣捕、恐非交隣之道。徐已移文日本国照験。頗為行下概管地面海島、厳加禁治、毋使如前出境作耗。本省府今差本職等一同馳駅、恭詣国主前啓稟。仍守取日本国回文還省。閣下仰照験。依上施行、須議箚付者。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。とぞ書たりける。賊船の異国を犯奪事は、皆四国九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳刑を加るに拠なしとて、返牒をば不被送。只来献の報酬とて、鞍馬十疋・鎧二領・白太刀三振・御綾十段・綵絹百段・扇子三百本、国々の奉送使を副て、高麗へぞ送り被著ける。

☆ 高麗人が我が国に来たこと

さてこの四十余年にわたって我が国は大いに乱れ、同じく外国もまた静かではありませんでした。この動乱に便乗するかのように山道では山賊が横行し、旅行者は盗賊らがたむろする地域を通ることが出来ず、海上には海賊が多く、船乗りは海賊の襲撃から逃れがたい状況でした。

欲望だけが全てのようなあぶれ者が類をもって集まるので、浦々島々など多くが盗賊に略奪を受け、駅路(えきろ::宿駅から宿駅に通じる道)には駅屋(うまや::街道に置かれた施設、馬や宿泊に利用)の責任者もいなければ、関所では関所を守る役人を他に異動させました。その結果これらの賊徒は数千艘の舟を揃えて、

元朝や高麗(こうらい)の海岸一帯の海岸や港に押し寄せ、明州(めいしゅう::寧波の古名)、福州(ふくしゅう:福建省の省都)の財宝を奪い取りました。官舎や寺院を焼き払うので、元朝や三韓(さんかん::古代朝鮮南部の韓族国家、馬韓、辰韓、弁韓のこと)の役人や民衆らはこの賊徒に抵抗できず、

海岸近くの国々数十ヶ国は全て住む人もいなくなり、荒れ果てて行きました。このため高麗国の王から元朝皇帝の命令を受けて、通告の文書を携えた使者十七人が我が国にやってきました。この使者らは元朝の元号、至正(しせい)二十三年(1363年)八月十三日に高麗国を出発し、

日本国には貞治五年(正平二十一年::1366年)九月二十三日に出雲に着岸しました。宿を重ねる内、やがて京都に到着しましたが、洛内には入らせず天龍寺に留め置きました。この当時天龍寺の長老だった、春屋和尚覚晋明国師(妙葩::みょうは)が持参してきた国書を天皇に届けられました。

その国書には、皇帝は征東行中書省(元代の官署名)を通じて我が考えを広く伝える。日本と我が国の所管する高麗の地は、水路を挟んで接している。そのため時に貴国の荒くれ物どもの着岸があるが、その度、道理に従って送り返している。至正十年(1350年)庚寅(かのえとら)の年から、賊船が多数現れたが、

それらは貴国の土地から出帆したものであり、我が国の合浦(ごうほ::広西チワン族自治区)などにやって来て、官廨(かんかい::役所)を焼き払ったり、最悪の場合は百姓らを殺害するなど騒動を起こしている。それから十余年を過ぎた今も、船舶は海洋を航行することも出来ず、周辺の住民らは安心して暮らすことも出来ません。

これが原因なのか、大小の島々に居住する島民らは、国の法律を恐れることなく、強欲な行動を繰り返しています。地下に身を潜め、海に出没しては強奪をしています。付け加えて貴国の繁栄ぶりを考えれば、このことをご存じでないとは考えられません。万が一、兵を派遣し犯人逮捕などすれば、

隣国との国交が損なわれることを恐れます。今ここに国書を日本国に送りますので、よく調査をしていただきたい。所管する地域、海上の諸島など詳しく調べ、厳しい処置をしていただきたいし、使者が帰国から出国する前に危害を加えてはならない。本国の政府は今、宿場に職員を派遣し、

国主がこの命令に従おうとされる前に、敬意を表してお待ちしています。そういう事なので、日本国はこの国書に対する返答をするべきです。高位高官の方が良くお調べになることを願います。良く議論された上実行をお願いします。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。(意味不明)と、

書いてありました。賊徒らの船が海外の国々を襲撃し収奪を行うのは、全て四国や九州の海賊どもの仕業なので、都から厳しく取り締まる根拠はないと、返事を送ることはしませんでした。ただ我が国まで訪問された謝礼として、鞍を乗せた馬十頭、鎧二領、金具全てが銀製の太刀三振、上質の綾織物十反、美しい色どりの絹織物百反、扇子三百本を進呈し、途中の国々で見送りの役人を添えて、高麗国に送り届けました。(国書や寺院、寺社の手紙等難解すぎる。この段、かなりいい加減)


○自太元攻日本事
倩三余の暇に寄て千古の記する処を看るに、異国より吾朝を攻し事、開闢以来已に七箇度に及べり。殊更文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝支那四百州を討取て勢ひ天地を凌ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治かりしか共、輙く太元の兵を亡して吾国無為なりし事は、只是尊神霊神の冥助に依し者也。其征伐の法を聞けば、先太元の大将万将軍、日本王畿五箇国を四方三千七百里に勘へて、其地に兵を無透間立双て是を数るに、三百七十万騎に当れり。此勢を大船七万余艘に乗て、津々浦々より推出す。此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。去程に文永二年八月十三日、太元七万余艘の兵船、同時に博多の津に押寄たり。大舶舳艫を双て、もやいを入て歩の板を渡して、陣々に油幕を引き干戈を立双べたれば、五島より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲三百余里俄に陸地に成て、蜃気爰に乾闥婆城を吐出せるかと被怪。日本の陣の構は、博多の浜端十三里に石の堤を高く築て、前は敵の為に切立たるが如く、後は為御方平々として懸引自在也。其陰に屏を塗り陣屋を作て、数万の兵並居たれば、敵に勢の多少をば見透されじと思ふ処に、敵の舟の舳前に、桔槹の如くなる柱を数十丈高く立て、横なる木の端に坐を構て人を登せたれば、日本の陣内目の下に直下されて、秋毫の先をも数つべし。又面の四五丈広き板を、筏如に畳鎖て水上に敷双たれば、波の上に平なる路数た作出されて、恰三条の広路、十二の街衢の如く也。此路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方の軍勢の鉾たゆみて、多くは退屈してぞ覚ける。皷を打て兵刃既に交る時、鉄炮とて鞠の勢なる鉄丸の迸る事下坂輪の如く、霹靂する事閃電光の如くなるを、一度に二三千抛出したるに、日本兵多焼殺され、関櫓に火燃付て、可打消隙も無りけり。上松浦・下松浦の者共此軍を見て、尋常の如にしては叶はじと思ければ、外の浦より廻て、僅に千余人の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武けれ共、九牛が一毛、大倉の一粒にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討事は二三万人なりしか共、終には皆被生捕、身を縲紲の下に苦しめて、掌を連索の舷に貫れたり。懸りし後は重て可戦様も無りしかば、筑紫九国の者共一人も不残四国・中国へぞ落たりける。日本一州の貴賎上下如何がせんと周章騒ぐ事不斜。諸社の行幸御幸・諸寺の大法秘法、宸襟を傾て肝胆を砕かる。都て六十余州大小の神祇、霊験の仏閣に勅使を被下、奉幣を不被捧云所なし。如此御祈祷已に七日満じける日、諏訪の湖の上より、五色の雲西に聳き、大蛇の形に見へたり。八幡御宝殿の扉啓けて、馬の馳ちる音、轡の鳴音、虚空に充満たり。日吉の社二十一社の錦帳の鏡動き、神宝刃とがれて、御沓皆西に向へり。住吉四所の神馬鞍の下に汗流れ、小守・勝手の鉄の楯己と立て敵の方につき双べたり。凡上中下二十二社の震動奇瑞は不及申、神名帳に載る所の三千七百五十余社乃至山家村里の小社・櫟社・道祖の小神迄も、御戸の開ぬは無りけり。此外春日野の神鹿・熊野山の霊烏・気比宮の白鷺・稲荷山の名婦・比叡山の猿、社々の仕者、悉虚空を西へ飛去ると、人毎の夢に見へたりければ、さり共此神々の助にて、異賊を退け給はぬ事はあらじと思ふ許を憑にて、幣帛捧ぬ人もなし。

☆ 元王朝が日本を攻めてきたこと

さて三余(さんよ::読書に適した三つの時。冬、夜、雨の時)の暇に任せて過去の書物などをよく見ると、異国が我が国を襲撃したことは、我が国始まって以来すでに七回を数えます。特に文永の役(文永十一年::1274年)、弘安の役(弘安四年::1281年)の二回にわたる戦争の時、大元国の老皇帝(クビライ)が中国の四百州を征伐し、

その勢いたるや天地をも凌ぐほど強大なものになっていました。そのため小国である我が国にとっては、とても力で対抗することなど難しかったのですが、簡単に大元国の兵を滅亡に追いやり、我が国が無事を保つことができたのは、これはただ国民が尊敬し崇めている神々の隠れた援助によるものです。

その撃退した戦法を聞いてみると、まず大元の大将万将軍は、日本の畿内(きない::京都に近い国々)五ヶ国(山城、大和、河内、和泉、摂津)を四方三千七百里(中国の一里は400mと考えれば、約1480Km)と考え、その地に兵士を隙間なく配置した場合を計算すれば、三百七十万騎になります。

これだけの軍勢を大船七万余艘に乗せて、津々浦々より繰り出そうとしました。この計画は前もって我が国に聞こえていたので、その対策を取るようにと、四国、九州の兵士らは筑紫の博多に駆け集まり、山陽、山陰の軍勢は京都に駆けつけました。また東山道、北陸道の兵士らは、越前敦賀の港を警固しました。

やがて文永二年(文永十一年::1274年では?)八月十三日、大元七万余艘の兵船は同時に博多の港に押し寄せて来ました。大船が舳先を並べ、船と船をつなぎ止め、歩いて行き来できるように板を渡し、各陣営には雨露をしのぐため油を塗った天幕を張り、武器等を立て並べたので、五島の東から博多の入り江まで、

海上の周囲三百余里(約1200Km)は、にわかに陸地になり、乾闥婆(けんだつば::幻術師)がここに蜃気楼で城を作り出したかと怪しむばかりです。対して日本の陣立ては、博多の浜辺に十三里(約51Km)に渡って、石の防御壁を高く築き上げ、前方は敵の攻撃から護るため切り立ったようにし、

後方は味方のために平たく造って、兵士が自由に進退出来るようにしました。そしてその石塁(せきるい::防御用の石造りの土手)の陰に塀を造って陣屋を構え、数万の兵士を控えさせたので、敵に軍勢の数を知られるのではと思っていたところ、敵の船の舳先(へさき::船首)に桔槹(きっこう::はねつるべ)のような柱を数十丈(1丈=約3m)の高さに立て、

その柱の横に渡した木の端に場所を設け、人を登らせたので、日本の陣営は真下に見下ろされ、秋毫(しゅうごう::秋に抜け替わったきわめて細い獣毛)の先まで数えられるほどです。また表面が四、五丈もある広い板を筏のようにつなぎ止め、水上に敷き並べたので、波の上に平らな道路が数多く造られたようで、

それはまるで三条の大通りにある十二の市街地みたいなものです。この道路を利用して敵軍は数万の兵士、馬を駆け出し死を恐れることなく戦うので、味方の軍勢は戦意が消失し、多数の者がしり込みをしたように感じられました。太鼓を打ち鳴らし早くも兵士の刃が切り結んだ時、

鉄砲という鞠のような鉄の玉が飛び出してきて、その速さは坂道を下るわっかのようで、その大きな音と光は稲妻のように響き、それが一度に二、三千も投げ出されたので、日本の兵士らは多数が焼き殺された上、櫓などに火が燃え移って消火などとても追いつきません。

上松浦、下松浦の者たちはこの戦闘を見て普通の戦い方ではとても太刀打ち出来ないと思ったので、湾の外から回り込んで、わずか千余人の軍勢で夜討ちを仕掛けました。その勇気ある行動や戦意は称賛できますが、九牛の一毛のように取るに足らないもので、大きな米蔵の一粒にも足らない小勢で寄せたから、

敵をたとえ二、三万人討ち取ったところで、最後には全員生け捕られ、縲紲(るいせつ::罪人を縛る黒縄)で身体の自由を奪われ、手の平を船べりの縄に貫かれたのでした。この戦闘の後は二度とこのような戦いもなく、筑紫の九ヶ国の者どもは一人残らず、四国、中国に落ちたのでした。

日本全国の人々は身分の上下に関係なく、一体どうすれば良いのか、慌てうろたえること尋常ではありませんでした。諸神社への天皇の行幸や皇族の御幸や、諸寺院で行われる大法(だいほう::密教で重要な大掛かりな修法)や秘法(ひほう::真言密教で行う秘密の修法)などを実施され、帝は気持ちを込めて事の解決を願われました。

日本国六十余州にある大小の天の神、地の神や、霊験(れいげん::神社などが持つ不思議な力)豊かな仏閣に勅使を下され、幣帛(へいはく::供物全般)を奉納されなかった所などありませんでした。このようにして御祈祷が早くも七日の満願を迎える日に、諏訪の湖の上から五色の雲が西に向かってたなびき、

それは大蛇の形に見えました。石清水八幡宮の御宝殿の扉が開き、馬の駆ける音や、轡の鳴る音などが空中に響き渡りました。日吉大社では二十一の社で、錦の布で隔たれた鏡が動き、神社の宝物である刀剣は研ぎ澄まされ、お靴は全て西に向きました。また住吉神社の四柱の本宮では、

神馬の鞍の下には汗が流れ、小守、勝手(共に神社名なのかな?)の鉄製の楯は自立して、敵に向かって並びました。かれこれ上七社、中七社、八下社の二十二社では殿舎などの震動や、不思議な現象が起こったことなど言うに及ばず、神名帳(じんみょうちょう、しんめいちょう::神社や神の名を記した帳簿)に記載されている三千七百五十余社は勿論、

山中や村里にある小社、櫟社(れきしゃ::仮の祠や、鳥居だけのもの)、道祖神(どうそしん::道端にまつった神)などの小さな神社まで、扉の開かない所はありませんでした。これら以外にも、春日野(奈良春日山一帯の麓)の神鹿、熊野山の霊烏(ヤタガラス)、氣比神宮の白鷺(氣比神宮の使鳥)、稲荷山の名婦(名婦神::稲荷の狐は朝廷に出入りできる名婦の格が授けられた)

また比叡山の猿(比叡山の地主神である日吉大社の使い)、その他お社にお仕えする者など、全て空中を西に向かって飛び去るのを人々は皆夢に見たので、まさかこの神々のお助けをもって、異国の賊徒らを退治してくれないことなどあるはずがないと人々は信じ切って、神社にお供えをしない人などいませんでした。


浩る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜荒木田尚良・豊受太神宮の禰宜度会貞尚等十二人起請の連署を捧て上奏しけるは、「二宮の末社風の社の宝殿の鳴動する事良久し。六日の暁天に及て、神殿より赤雲一村立出て天地を耀し山川を照す。其光の中より、夜叉羅刹の如くなる青色の鬼神顕れ出て土嚢の結目をとく。火風其口より出て、沙漁を揚げ大木を吹抜く。測ぬ、九州の異狄等、此日即可滅と云事を。事若誠有て、奇瑞変に応ぜば、年来申請る処の宮号、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。去程に大元の万将軍、七万余艘のもやひをとき、八月十七日辰刻に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已に渡中をさしゝし時、さしも風止み雲閑なりつる天気俄に替て、黒雲一村艮の方より立覆ふとぞ見へし。風烈く吹て逆浪大に漲り、雷鳴霆て電光地に激烈す。大山も忽に崩れ、高天も地に落るかとをびたゝし。異賊七万余艘の兵船共或は荒磯の岩に当て、微塵に打砕かれ、或は逆巻浪に打返されて、一人も不残失にけり。斯りけれ共、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥たる空中に飛揚りてぞ立たりける。爰に呂洞賓と云仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占しけるは、「日本一州の天神地祇三千七百余社来て、此悪風を起し逆浪を漲しむ。人力の可及処に非ず。汝早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此言を信じて、一箇の破船有けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌て、無程明州の津にぞ著にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然として来て申けるは、「汝日本の軍に打負たる罪に依て、天子忿て親類骨肉、皆三族の罪に行はれぬ。汝帝都に帰らば必共に可被刑。早く是より剣閣を経て、蜀の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州を攻ばやと、羨念ふ事切なり。至らば必大功を建べしと云て別れたるが、我汝が餞送の為に嚢中を探るに、此一物の外は無他。」とて、膏薬を一付与へける。其銘に至雍発とぞ書付たりける。万将軍呂洞賓が言に任て、蜀へ行たるに、蜀王是を悦給ふ事無限。軈て万将軍に上将の位を授け、雍州をぞ攻させける。万将軍兵を卒し旅を屯て雍州に至るに、敵山隘の高く峙たるに、石の門を閉てぞ待たりける。誠に一夫忿て臨関に、万夫も不可傍と見へたり。此時に万将軍、呂洞賓が我に与し膏薬の銘に至雍発せよと書たりしは、此雍州の石門に付よと教へけるにこそと心得て、密に人をして、一付有ける膏薬を、石門の柱にぞ付させたりける。付ると斉く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便を失て、皆蜀王にぞ降りける。此功然万将軍が徳也とて、軈て公侯の位に登せられける。居る事三十日有て、万将軍背に癰瘡出たりけるが、日を不経して忽に死にけり。雍州の雍の字と癰瘡の癰字と■声通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書けるは、雍州の石門に付よと教けるか、又癰瘡の出たらんに付よと占しけるか、其二の間を知難し。功は高して命は短し。何をか捨何をか取ん。若休事を不得して其一を捨ば、命は在天、我は必功を取ん。抑太元三百万騎の蒙古共一時に亡し事、全吾国の武勇に非ず。只三千七百五十余社の大小神祇、宗廟の冥助に依るに非ずや。

このような状況にある弘安四年(1281年)七月七日、皇大神宮(伊勢神宮の内宮)の禰宜(ねぎ::神職)荒木田尚良(ひさよし)と豊受(とようけ)大神宮(伊勢神宮の外宮)の禰宜渡会貞尚(わたらえのさだひさ)ら十二人が、起請の連署(署名済の神仏に誓って書き記した文書)を用意して天皇に、「内宮と外宮の末社(まっしゃ::本社に付属する小さい神社)

風の社(外宮の境内別宮)の宝殿がしばらく鳴動しました。六日の明け方になって、神殿より赤い雲のかたまりが一つ湧きだし、天地を輝かせ山や川を照らしました。その光の中から夜叉羅刹(やしゃらせつ::古代インド神話の悪鬼の総称)の中にある鬼のような青色をした恐ろしい神が現れ、土嚢(どのう::土の入った袋)の結び目を解きました。

するとその開いた口から火や風が吹き出し、沙漁(しゃぎょ::=沙魚、はぜ?)を吹き上げ、大木をも風で抜き取りました。これは間違いなく、九州に攻めて来た異国の蛮族どもは、この日をもって全滅するでしょう。もしこれが間違いなく起こり、このめでたい不思議な現象が予兆であれば、長年申請している宮号について、

天皇のお褒めをいただき、至急勅許の宣下をお願い致します」と、奏上しました。やがて大元軍の万将軍は、七万余艘をつないである縄を解き、弘安四年(1281年)八月十七日辰刻(午前八時頃)に、門司、赤間が関を通って、長門、周防に押し寄せました。軍船がすでに海峡の中ほどを進んでいる時、

あれほど風もなく雲も穏やかに流れていた天気が突然急変し、真っ黒な雲のかたまりが艮(うしとら::北東)の方角から現れ、天を覆い尽くすように見えました。風は激しく吹きつけ、逆巻く波はその勢いをますます強め、雷鳴がとどろき渡り稲光は大地を激しく揺すりました。大きな山も瞬時に崩れ、

天空も地に落ちるのではと思えるほど激しいものでした。異国の賊徒軍七万余艘の兵船は、あるものは荒磯の岩に激突して微塵に砕かれたり、またあるものは逆巻く波に転覆し一人残らず死亡しました。そのような状況の中でも万将軍一人だけは、大風に吹き飛ばされることなく、

荒波に沈むことなく、窈冥(ようめい::薄暗いさま)な空中に飛び上がって立たれたのでした。その時呂洞賓(りょとうひん)と言う仙人が西の天空から飛んで来て万将軍を占って、「日本全国の天の神や地の神など全ての神々、三千七百余社がやって来て、この暴風を生じさせ、逆巻く波をも引き起こしたのです。

人力の及ぶところではありません。貴殿は破損した船の一艘にでも乗って、出来るだけ早く本国に帰るべきである」と、話されたのです。万将軍はこの言葉を信じ、一艘の破損した船を見つけて乗り込むと、ただ一人で万里の大海を逆巻く波に耐えて、やがて明州の港に着いたのでした。

船を降りて帝都(ていと::老皇帝の居られる都)に向かおうとしているところに、また呂洞賓が突然現れ、「貴殿は日本の軍隊に負けた罪によって、皇帝は激怒して親類は勿論、血縁者一同に至るまで全員、三族の罪(罪を犯した者の三族にまで及ぶ刑罰)に処されました。貴殿は帝都に帰ると必ず刑を受けるだろう。

ここから早く剣閣(けんかく::四川省にある要衝の地)を経由して、蜀の国へ逃げて行くことです。蜀王は貴殿を大将に命じて、雍州(ようしゅう::古代中国の行政区画)を攻めることを一途に願い続けています。行けば間違いなく大きな功績を上げるでしょうとだけ言って別れますが、今私が貴殿に何か餞別でもと思い懐を探ってみましたが、

この物以外に何もありません」と言って、一枚の膏薬を与えました。その膏薬には至雍発(しようはつ)と銘が書き付けてありました。万将軍は呂洞賓が言うように、蜀国に行ったところ、蜀王はこの上なくお喜びになりました。すぐ万将軍に全軍の総大将の位を与え、雍州を攻撃させることになりました。

万将軍は兵を率いて遠征の旅に出て、宿営を重ねる内雍州に到着したところ、敵は高い山々が入り組み、そびえ立った場所で石の門を閉じて待っていました。確かに一人が厳しく関所を守れば、たとえ万人の力でも通れないと思われるほど堅い守りで簀。この時、万将軍は呂洞賓が自分に与えた膏薬の銘に、

至雍発せよと書かれていたのは、この雍州の石門に貼り付けよとの指示ではないかと考え、ひそかに人をやって一枚ある膏薬を石門の柱に張り付けました。張り付けると一斉に石門の柱も扉も雪か霜のように溶けだし、山は崩れて道も平らになってしまったので、雍州の敵数万騎は防御するすべを失って全員蜀王に降伏しました。

この功績は全て万将軍の持つ天性の能力であると、すぐに公、候爵の位に昇られました。蜀国に滞在すること三十日が過ぎたころ、万将軍は背中に癰瘡(ようそう::おでき、化膿性の炎症)が出来たのですが、日を経たずして急死されました。雍州の雍(よう)の字と、癰瘡の癰(よう)の字とは発音が一緒です。

呂洞賓が膏薬の銘に至雍発と書いたのは、雍州の石門に張り付けよと教えたのか、または癰瘡が発症した時に張り付けよと暗示したのか、この二つの違いを知るのは難しいことです。功績は抜群でしたが、命は短いものでした。何を捨てて、何を取ればよいのでしょうか。

もし止むを得ず一つを捨てるならば、人の寿命などは天の定めるものなので、私は必ず功績を選ぶでしょう。(?)そもそも大元朝三百万騎の蒙古軍が一時に滅び去ったことは、何も我が国の武勇があったからではありません。それはただ、三千七百五十余社の大小の天の神、地の神と、皇室の祖先をまつった諸神社の、隠れた援助があったからではないでしょうか。


○神功皇后攻新羅給事
昔し仲哀天皇、聖文神武の徳を以て、高麗の三韓を攻させ給ひけるが、戦利無して帰らせ給ひたりしを、神功皇后、是智謀武備の足ぬ所也とて、唐朝へ師の束脩の為に、沙金三万両を被遣、履道翁が一巻の秘書を伝らる。是は黄石公が第五日の鶏鳴に、渭水の土橋の上にて張良に授し書なり。さて事已に定て後、軍評定の為に、皇后諸の天神地祇を請じ給ふに、日本一万の大小の神祇冥道、皆勅請に随て常陸の鹿島に来給ふ。雖然、海底に迹を垂給阿度部の磯良一人不応召。是如何様故あらんとて、諸の神達燎火を焼き、榊の枝に白和幣・青和幣取取懸て、風俗・催馬楽、梅枝・桜人・石河・葦垣・此殿・夏引・貫河・飛鳥井・真金吹・差櫛・浅水の橋、呂律を調べ、本末を返て数反哥はせ給たりしかば、磯良感に堪兼て、神遊の庭にぞ参たる。其貌を御覧ずるに、細螺・石花貝・藻に棲虫、手足五体に取付て、更に人の形にては無りけり。神達怪み御覧じて、「何故懸る貌には成けるぞ。」と御尋有ければ、磯良答て曰く、「我滄海の鱗に交て、是を利せん為に、久く海底に住侍りぬる間、此貌に成て候也。浩る形にて無止事御神前に参らんずる辱しさに、今までは参り兼て候つるを、曳々融々たる律雅の御声に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答申ける。軈て是を御使にて、竜宮城に宝とする干珠・満珠を被借召。竜神即応神勅二の玉を奉る。神功皇后一巻の書を智謀とし、両顆の明珠を武備として新羅へ向はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡大菩薩已に五月に成せ給ひしかば、母后の御腹大に成て、御鎧を召るゝに御膚あきたり。此為に高良明神の計として、鎧の脇立をばし出しける也。諏防・住吉大明神を則副将軍・裨将軍として、自余の大小の神祇、楼船三千余艘を漕双べ、高麗国へ寄給ふ。是を聞て高麗の夷共、兵船一万余艘に取乗て海上に出向ふ。戦半にして雌雄未決時、皇后先干珠を海中に抛給しかば、潮俄に退て海中陸地に成にけり。三韓兵共、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下、徒立に成てぞ戦ひける。此時に又皇后満珠を取て抛給しかば、潮十方より漲り来て、数万人の夷共一人も不残浪に溺て亡にけり。是を見て三韓の夷の王自罪を謝て降参し給ひしかば、神功皇后御弓の末弭にて、「高麗の王は我が日本の犬也。」と、石壁に書付て帰らせ給ふ。是より高麗我朝に順て、多年其貢を献る。古は呉服部と云綾織、王仁と云才人、我朝に来りけるも、此貢に備り、大紋の高麗縁も其篋とぞ承る。其徳天に叶ひ其化遠に及し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易征伐せられしに、今無悪不造の賊徒等、元朝高麗を奪犯、牒使を立させ、其課を送らしむる事、前代未聞の不思議なり。角ては中々吾朝却て異国に奪るゝ事もや有らんずらんと、怪しき程の事共也。されば福州の呉元帥王乙が吾朝へ贈りたる詩にも、此意を暢たり。日本狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。篳篥按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。此詩の言に付て思ふに、日本一州に近年竹の皆枯失るも、若加様の前表にてやあらんと、無覚束行末也。

☆ 神功皇后が新羅国を攻められたこと

昔仲哀(ちゅうあい)天皇は聖文神武の徳(文武両道に精通している天子の徳)を以て、高麗の三韓(さんかん::古代朝鮮南部の韓族国家、馬韓、辰韓、弁韓のこと)を攻撃されましたが、戦闘を有利に進めることが出来ずにお帰りになりました。しかし神功皇后はその原因は智謀武備(戦略と武力)が足らないからだと、

唐朝に戦争の件で教えを乞うため、謝礼として砂金三万両を贈られて、履道翁(りどうおう::?)の書いた秘蔵の書籍一巻を授けてもらいました。この書物は黄石公(こうせきこう::秦代の隠者、兵法の祖)が再会を約束した第五日目の早朝に、渭水(いすい::陝西省中央部を流れる川)の土橋の上で張良に授けた書物です。

さて三韓征伐全ての準備が整ってから作戦会議を開くため、皇后が諸国の天地の神々を招きますと、日本中一万もの大小の神々や死後世界の諸仏らは、皆招きに従って常陸の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に来られました。しかしながら海底に垂迹(すいじゃく::仏や菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿で現れること)された阿度部(あとべ)の磯良(いそら)一人だけ呼びかけに応じませんでした。

これは一体どう言う訳なのかと、色々な神々が篝火を燃やし、榊の枝に白和幣(しらにぎて::神前に捧げる白い布)や青和幣(青い布)を掛けて、風俗(ふぞく::古代地方の国々に伝承されていた歌)や催馬楽(さいばら::平安初期頃成立した歌謡の一つ)の色々な曲目、梅枝(うめがえ)、桜人(さくらびと)、石河(いしかわ)、葦垣(あしがき)

此殿(このとの)、夏引(なつひき)、貫河(ぬきかわ)、飛鳥井(あすかい)、真金吹(まがねふく)、差櫛(さしぐし)、浅水の橋(あさんづのはし)など呂律(りょりつ::呂の曲、律の曲)を演奏し、本方(もとかた::先に歌う方)と末方(すえかた::後から歌う方)を入れ替えて数回歌われると、磯良は感激し我慢が出来ずに歌舞の行われている庭にやってきました。

その容貌をよく見ると、細螺(まさご::巻貝の一種)、石花貝(せっかがい::牡蠣とかカメノテ)、海藻に棲む虫などを手足五体に付けて、とても人の姿には見えません。神々は不気味に思いながら見つめて、「どうしてそのような姿になったのですか」と尋ねると、磯良は、「私は大海原で鱗(うろくず::魚)と一緒になって、

彼らを救済するため永く海底で暮らしている内に、このような容貌になりました。このような姿では貴ぶべき御神前に参ることはあまりにも恥ずかしく、今まで参ることが出来ませんでしたが、曳々融々(えいえいゆうゆう::のどかなさま?)にして優雅な響きの音に誘われ、恥も忘れ我が身を顧みることなく参ったのです」と、答えられました。

すぐに彼を使者として竜宮城で宝物としている干珠(かんじゅ::潮を引かせる霊力があると言う玉)、満珠(まんじゅ::潮を満ちさせる霊力がると言う玉)をお借りすることにしました。竜神はすぐに神の御命令に応じて二つの玉を差し出しました。神功皇后は履道翁一巻の書籍を謀略のかなめにし、二つの美しい玉を軍備として新羅に向かおうとしたところ、

胎内に宿っていた八幡大菩薩がすでに五か月になっていましたので、母の皇后のお腹は大きくなっていましたから、御鎧を召されると肌にあたります。このため高良(こうら)明神の提案で、鎧の脇立(わきだて::兜の頭頂部脇に付ける飾り物)を取り付けました。すぐに諏訪、住吉大明神を副将軍、裨将軍(ひしょうぐん::副将軍の一つ)に命じ、

そのほか大小の天の神や地の神、屋形のついた舟、三千余艘が並んで漕ぎ進み、高麗国に寄せて行きました。この情報を得て、高麗の異民族らは兵船一万余艘に飛び乗ると沖合の海上に出向きました。戦闘半ばで未だに勝敗も決していない時、皇后がまず干珠を海中に放り投げられると、

潮は急激に引き始め海中は陸地に変わりました。三韓の兵隊らは天が我々を有利にしてくれたと喜び、全員舟から降りると徒歩立ちになって戦いました。この時再び皇后が満珠を取り出し、放り投げられると潮が四方八方より勢いよく満ちて来て、数万人の異民族ら一人残らず波に溺れて亡くなったのでした。

この状況を見て三韓の異民族らの王は、自ら自分らの罪を謝って降参されたので、神功皇后は御弓の末弭(うらはず::弓の上端弦をかける所)で、「高麗の王はわが日本の犬である」と石の壁に書き付けて、お帰りになりました。このことがあってから高麗は我が国の支配下に属し、長年にわたって色々な物品を献上してきました。

昔は呉服部(くれはとり::綾模様のある絹織物)と言う綾織物や王仁(わに::百済の学者)と言う賢者が我が国に来ましたが、これら献上品などと一緒になって、大きな模様のついた高麗縁(こうらいべり::畳の縁の一種。紋に大小がある)も、その時貨物の底に入っていたと聞いています。天皇の人徳は天の神に受け入れられ、

その教えは遠くまで影響を及ぼした古代でさえ、異国を従えることは天の神、地の神の力をお借りしてこそ、簡単に征伐できたのでした。それにもかかわらず、今ほしいままに悪事を働いてきた賊徒は元朝、高麗国を侵略して一方的な要求を求めて使者を派遣させ、貢納を実施させようとすることは、理解に苦しむこと前代未聞です。

このような状況では、もしかして我が国が異国に侵略されることもあるかと不安になります。だから福州の呉元帥王乙(おういつ::?)が我が国に送ってきた詩にも、この思いが述べられています。日本狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。

篳篥(ひちりき)按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。(日本国に浙江の東より賊が乱入して、日本の将軍はこれを聞いて気が動転しました。海岸の砂浜には陣営が列をなし、その狼煙は闇に上がります。夜半に敵兵は皆殺され、海水は赤く染まりました。ヒチリキの調べは西の月に響き、ドクロは酒の中で爽やかな風を受けています。何時南山の竹((孔子:論語に南山の竹は武具になるとある))を切り尽くすのだ。此処全て不可解)この詩の言わんとすることを思えば、最近日本全国で竹が皆枯れているのも、もしかしてこのような前兆ではないかと、行く末不安な気持ちになります。


○光厳院禅定法皇行脚事
光厳院禅定法皇は、正平七年の比、南山賀名生の奥より楚の囚を被許させ給て、都へ還御成たりし後、世中をいとゞ憂き物に思召知せ給しかば、姑耶山の雲を辞し、汾水陽の花を捨て、猶御身を軽く持たばやと思召けり。御荒増の末通て、方袍円頂の出塵の徒と成せ給しかば、伏見の里の奥光厳院と聞へし幽閑の地にぞ住せ給ひける。是も猶都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭はしく、浮世の事の御耳に触るも冷く思召れければ、来無所止、去無住。柱杖頭辺活路通ずと、中峯和尚の被作送行偈、誠に由ありと御心に染て、人工・行者の一人をも不被召具、只順覚と申ける僧を一人御共にて、山林斗薮の為に立出させ給ふ。先西国の方を御覧ぜんと思食て、摂津国難波の浦を過させ給ふに、御津の浜松霞渡て、曙の気色物哀なれば、迥に被御覧て、誰待てみつの浜松霞らん我が日本の春ならぬ世にと、打涙ぐませ給ふ。山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給て、猶過うしと思召たるに、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉と云対句の時節に相叶たるにも、捨ぬ世ならば、何故浩る風景をも可見と被仰けるも物悲し。是より高野山を御覧ぜんと思召て、住吉の遠里小野へ出させ給ひたれば、焼痕回緑春容早、松影穿紅日脚西なり。海天野景歩に随て新なる風流に、御足たゆむ共不被思食。昔は銷金軽羅の茵ならでは、仮にも蹈せ給はざりし玉趾を、深泥湿土の黯に汚れさせ給ひ御供の僧は、仕へて懸し肘後の府に替れる一鉢を脇にかけ、今夜堺浦までも歩ませ給へば、塩干の潟にむれ立て、玉藻を拾ひ磯菜取る海人共の、各つげの小櫛を差て、葦間に隠れ顕れたる様を被御覧にも、「御貢備し民の営、是程に身を苦しめけるをしらで、等閑にすさびける事よ。」と、今更浅猿く思食知せ給ふ。回首望東を、雲に聯なり霞に消て、高く峙てる山あり。道に休める樵に山の名を問はせ給へば、「是こそ音に聞へ候金剛山の城とて、日本国の武士共の、幾千万と云数をも不知討れ候し所にて候へ。」とぞ申ける。是を聞食て、「穴浅猿や、此合戦と云も、我一方の皇統にて天下を争ひしかば、其亡卒の悪趣に堕して多劫が間苦を受けん事も、我罪障にこそ成ぬらめ。」と先非を悔させ御坐す。経日紀伊川を渡らせ給ひける時、橋柱朽て見るも危き柴橋あり。御足冷く御肝消て渡りかねさせ給ひたれば、橋の半に立迷てをはするを、誰とは不知、如何様此辺に、臂を張り作り眼する者にてぞある覧と覚へたる武士七八人迹より来りけるが、法皇の橋の上に立せ給ひたるを見て、「此なる僧の臆病気なる見度もなさよ。是程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくは後に渡れかし。」とて、押のけ進らせける程に、法皇橋の上より被押落させ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら浅猿や。」とて、衣乍著飛入て引起し進せたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬りてしぼり不得。泣々傍なる辻堂へ入れ進せて、御衣を脱替させ進せけり。古へも浩る事やあるべきと、君臣共に捨る世を、さすがに思召出ければ、涙の懸る御袖は、ぬれてほすべき隙もなし。行末心細き針道を経て御登山有ければ、山又山、水又水、登臨何日尽さんと、身力疲れて被思食にも、先年大覚寺法皇の、此寺へ御幸成りしに、供奉の卿相雲客諸共に、一町に三度の礼拝をして、首を地に著け、誠を致されける事も、難有かりける御願哉。予が在位の時も、代静かなりせば、などか其芳躅を不蹈と、思召准へらる。さて御山にも御著有しかば、大塔の扉を開せて両界の曼荼羅を御拝見あれば、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊をば、入道太政大臣清盛公、手ら書たる尊容也。さしも積悪の浄海、何なる宿善に被催、懸る大善根を致しけん。六大無碍の月晴る時有て、四曼相即の花可発春を待けり。さては是も只混なる悪人にては無りけるよと、今爰に思召知せ給ふ。

☆ 光厳院禅定法皇が行脚されたこと

光厳院禅定法皇は正平七年(文和元年::1352年)の頃、南朝の行宮、賀名生の山奥から望郷の思いを抱く捕らわれの身を許されて、都に還御されたのでしたが、世の中のこと全てが非常に疎ましく、気分も塞ぎ切っていましたから、姑射山(こやさん::不老不死の仙人が住むと言う山。ここでは法皇の住む御所)の雲に別れを告げて、

汾水陽(ふんすいよう)の花(嵯峨天皇の詠まれた”河陽花”のことか?河陽は花の多い土地)を捨てられて、なお一層我が身を世間から隔絶したいと思われました。以前からお考えのことでもあり、袈裟に身をつつみ、頭も髪を落とされ御出家され、伏見の里の奥、、光厳院(金剛寿院)と言われている静かな土地にお住まいになりました。

しかし此処もまだ都に近い所なので、旧臣らが参上し、お傍にお仕えようとするのも疎ましく思い、その上浮世のことなど耳に入るのも気が重く思われ、留まることなく去ることになりました。頼りとするものが近くにあればなんとかなると言う、中峯和尚(ちゅうほう::中峰明本:中国の禅僧)の作られた

送行(そうあん::修行を終えて僧が各地に別れて行くこと)の偈(げ::韻文の形式で述べた言葉)もまことにい言えて妙であると感じ入り、人工(にんく::禅寺にいる在家の使用人)、行者(あんじゃ::身の回りを世話する見習僧)など一人もお連れにならず、ただ順覚(じゅんかく)と言う僧侶一人をお供にして、山林斗藪(さんりんとそう::山などに篭り仏道の修行をすること)のために、

お出かけになりました。まず最初に西国方面をご覧になりたく思われ、摂津国難波の浦をお通りになられた時、御津の浜(万葉集に歌われた、大伴の御津)の松に霞がかかり、明け方の物悲しい景色を遠くからご覧になって、
      誰待て みつの浜松 霞らん 我が日本の 春ならぬ世に(誰のために御津の松はかすんでいるのか、私はもうこの国の天皇ではないのに)

と、涙ぐまれました。遠くに山を望む海岸で、夕日が波に沈むころまでお楽しみになったものの、なお過ぎ去りがたく思われましたが、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉(はるか遠くに夕日の沈むのを見たが、今なお夕日は山を照らしている)と言う対句のような状況に、捨て去った世なのに、何のためにこのような風景を見ているのだと、

仰せられるのも悲しいことです。ここから高野山をご覧になりたく思い、住吉の遠里小野(おりおの::大阪市住吉区の町名)に御着きになると、住吉神社の焼け跡はすでに緑が戻って春の装いをしており、松の影には沈む夕日の輝きが差し込んでいます。海や空また山野の景色など、歩むに従い新たな感興を覚えるので、

足の疲れるのもお感じになられない御様子です。以前なら金箔を施した絹織物などの敷物がなければ、かりそめにも踏むことなどない御足を、泥や湿気のある黒土に汚れさせたお供の僧侶は、仕へて懸し肘後の府(?)の代わりに一つの鉢を脇にかけ、今日の夜までに堺の海岸あたりまで歩まれると、

潮の引いた干潟に群れになって、海藻を拾い集め、磯辺に生える海草などを集め取っている漁師らが皆、つげの小さな櫛をさして、葦の隙間から見え隠れする様子をご覧になってさえ、「貢をするために民たちの行う作業が、これほど彼らの身を苦しめているとも知らないで、いい加減な気持ちで済ませていたのだな」と、

今更ながら無知を思い知らされたのでした。首を回して東の方向をご覧になると、雲に連なり霞で消えそうになりながらも、高くそびえる山が見えました。道端で休憩している木こりに、山の名前をお聞きになると、「この山こそ音に聞こえた金剛山で、そこにあった城では日本国の武士らが、

幾千万ともその数さえ分からないくらい討たれた所でございます」と、申し上げたのです。このことをお聞きになると、「なんとも情けない話ではある、この合戦というのも、私は一方の皇統(持明院統)を率いて天下を争っていたため、ここで死亡した将官兵士らが赴いた苦悩の世界に落ちて、

長期にわたって苦しみを受けるのも、私の往生や成仏の妨げとなる悪行のためであろう」と、過去の過ちを後悔されました。やがて日も過ぎ、紀伊川(紀ノ川)をお渡りになる時、橋脚が朽ちて見るからに危なっかしい、雑木で造られた橋が架かっていました。恐さに足も震え、気持ちも滅入って渡りかね、

橋の半ばで立ち止まり動きが取れずにいたところ、誰とは分かりませんが、この周辺で威張り散らし目つきも恐ろし気な武士ら七、八人が後ろからやって来ました。法皇が橋の上に立ち止まっているのを見て、「ここにいる僧の臆病な姿はみっともないな。このように一つしかない急ぐための橋なので、

渡るなら早く渡ってください。でなければ後から渡ればよい」と言って、押しのけて通られると、法皇は橋の上から押し落とされ水中に沈まれました。順覚は、「なんと言うことだ」と言って、法衣を身に着けたまま飛び込み、法皇を引き起こしたところ、お膝は岩の角に当たって出血しており、

お着物は水に浸かってとても絞れそうにありません。泣きたい気持ちで近くにある辻堂にお入りになっていただき、お着物を着替えてもらいました。過去にこのようなことなどあっただろうかと、光厳院も順覚も捨てたはずの世のことを改めて思い出すと、涙に濡れた御袖は乾く間もありませんでした。

行く先不安に感じながら、細い道をたどってお登りになると、山また山、谷川また谷の連続に、何時になれば高い場所から下を見ることが出来るのかと、体力の限界を思うにつけても、以前大覚寺法皇(後醍醐天皇)がこの寺に御幸された時に、お供の公卿殿上人ら全員が、一町(約109m)進むごとに三度の礼拝を繰り返し、

頭を地面に付け信仰の深さを表現されたことも、ありがたい御祈願でした。この私が皇位に就いている時でも、世の中が落ち着いてさえいたならば、どうして先人のそのような事跡を継がないことなどあるはずもないと思われました。さて高野山にご到着されると、大塔の扉を開いていただき、

両界(胎蔵界と金剛界)の曼陀羅(まんだら::たくさんの仏が規則正しく並んで書かれた絵)を拝見されると、胎蔵界(たいぞうかい::密教で説く二つの世界の一。大日如来の理性の面をいう)七百余尊と金剛界(こんごうかい::密教で説く二つの世界の一。大日如来の強固な知恵の面をいう)五百余尊は、入道太政大臣平清盛公が自ら自分の血をもって書いたとされる曼陀羅です。

あれほど悪行を重ねた浄海(じょうかい::平清盛)は、前世でのいかなる良い行為に誘われて、このように果報を得られる行いをされたのでしょうか。空海はこの世界の構成は、地、水、火、風、空の五大に識(精神要素)を加えた六大とし、この六大は互いに関係しながらも独立して、

真言密教の四種の曼荼羅(大曼荼羅、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨曼荼羅)が互いに融通し合って離れず、やがて花開く春を待っていると説いています。(何のこっちゃ?)そうすればこの清盛もただの極悪人ではなかったのかと、今ここに思い知らされたのでした。


落花為雪笠無重、新樹謬昏日未傾、其日頓て奥の院へ御参詣有て、大師御入定の室の戸を開かせ給へば、嶺松含風顕踰伽上乗之理、山花篭雲秘赤肉中台之相。前仏の化縁は過ぬれ共、五時の説今耳に有かと覚え、慈尊の出世は遥なれ共、三会の粧已に眼に如遮。三日まで奥院に御通夜有て暁立出させ給に一首の御製あり。高野山迷の夢も覚るやと其暁を待ぬ夜ぞなき安居の間は、御心閑に此山中にこそ御坐あらめと思召て、諸堂御巡礼ある処に、只今出家したる者と覚くて、濃墨染にしほれたる桑門二人御前に畏て、其事となく只さめ/\とぞ泣居たりける。何者なるらんと怪く思召てつく/゛\御覧じければ、紀伊川を御渡有し時、橋の上より法皇を押落し進らせたりし者共にてぞ有ける。不思議や何事に今遁世をしけるぞや。是程無心放逸の者も、世を捨る心の有けるかと思召て過させ給へば、此遁世者御迹に随て、順覚に泣々申けるは、「紀伊川を御渡候し時、懸る無止事〔御事〕共知奉り候はで、玉体にあしく触奉し事、余に浅猿く存候て、此貌に罷成て候。仏種は従縁起る儀も候なれば、今より薪を拾ひ、水を汲態にて候共、三年が間常随給仕申候て、仏神三宝の御とがめをも免れ候はん。」とぞ申ける。「よしや不軽菩薩の道を行給しに、罵詈誹謗する人をも不咎、打擲蹂躙する者をも、却て敬礼し給き。況我已貌を窶して人其昔を不知。一時の誤何か苦かるべき。出家は誠に因縁不思議なれ共、随順せん事は怒々叶まじき。」由を被仰けれ共、此者強て片時も離れ進らせざりしかば、暁閼伽の水汲に被遣たる其間に、順覚を召具して潜に高野をぞ御出有ける。御下向は大和路に懸らせ給ひしかば、道の便も能とて、南方の主上の御座ある吉野殿へ入らせ給ふ。此三四年の先までは、両統南北に分れて此に戦ひ彼に寇せしかば、呉越の会稽に謀しが如く、漢楚の覇上に軍せしにも過たりしに、今は散聖の道人と成せ給て、玉体を麻衣草鞋にやつし、鸞輿を跣行の徒渉に易て、迢々と此山中迄分入せ給たれば、伝奏未事の由を不奏先直衣の袖をぬらし、主上未御相看なき先に御涙をぞ流させ給ける。

防ぐものがないため雪によって花は落ち重なり、樹勢豊かな木々に日も暮れたのではと思えるその日には、奥の院に御参詣され、弘法大師が御入定(にゅうじょう::高僧が死ぬこと)された部屋の戸をお開きになると、峰の松は風を含み、瑜伽(ゆが::真言密教)は大乗仏教の理論を明らかにして、

山の花は雲に隠れて曼荼羅(まんだら::宇宙の真理を表す絵)を秘めているようです。(?)釈迦が衆生を仏道に導くことは昔のことになりましたが、今再び釈迦の五期にわたる説法を耳にするかと思え、弥勒菩薩(みろくぼさつ::釈迦入滅後五十六億七千万年後に現れる菩薩)がこの世に現れるのははるか将来の事ですが、

その弥勒菩薩が衆生のために三度にわたって開くと言う説法の会が、今すでに目に見えるようです。光厳院は三日間奥の院にお篭りになって、明けの早朝ご出発にあたって、一首の御製(ぎょせい::天皇作の歌)を詠まれました。
      高野山 迷い夢も 覚るやと 其暁を 待ぬ夜ぞなき(高野山に来れば、迷いも晴れる日が来るかと、その暁を待ち続けています)

修行中は御心も静かにこの山中で過ごそうとお思いになり、諸堂舎をご巡礼されていると、今まさに出家されたかと思われる、濃い墨染の衣に身をまとった修行中の僧侶が二人、法皇の御前に控えられ、訳も分からずたださめざめと泣かれました。これは一体何者なのかと不審に思い、

よくよくご覧になると、法皇が紀ノ川をお渡りになる時、橋の上から法皇を突き落とした者どもです。おかしいではないか、どう言う訳で今出家したのか。これほど思慮分別のない無法者でも、世を捨てる決心などするものかと思われながら通り過ぎようとされると、この二人は法皇の後について来て、

順覚に向かい泣きながら、「法皇が紀ノ川をお渡りになられている時、恐れ多いお人とも知らずに、法皇のお体に荒っぽく触れてしまったことが、あまりにも情けなく思われ、この姿になったのでございます。仏道に入るのも何かの縁に依るとか言われていますので、これからは薪を拾い、

水を汲んだりして三年の間、常にお傍でお世話をさせてもらい、仏教における仏、法、僧三つの宝物に帰依し、犯した罪を許して頂きたいのです」と、話されました。法皇は、「いいですか、例えば不軽菩薩(ふきょうぼさつ::法華経を宣伝した人)のように、道路を通行している時、悪口を言い、非難する人がいても、

その人を責めることなどせず、暴力を振るう人に対しても恨むことなく合掌されました。まして私はすでにその姿をやつし、誰も昔の私など御存じない。一時の過ちなど何も気にすることなど無用である。出家するその縁そのものは不思議なものではあるが、私に付き従うことは決して許さない」と仰せられましたが、

この者たちは無理やり一時も離れることもないので、明け方仏前に供える水を汲みに行かせたその隙に、順覚を連れてそっと高野山を出られました。やがてお進みになる道も大和路にかかりましたので、都合も良いのではと、南朝の後村上天皇が居られる吉野朝廷にお入りになられました。

この三、四年前までは両統(持明院統と大覚寺統)に別れて、此処で戦ったと思えば、彼処に攻め込むと言う事を繰り返していたので、呉王夫差(ふさ)と越国勾踐(こうせん)が会稽の戦いに謀略をめぐらしたり、漢王の劉邦と楚国の項羽が覇上(はじょう::咸陽から渭水を隔てた南側。劉邦が関中((西安一帯))に入って最初に陣を張った場所)で合戦をしたこと以上の戦いでしたが、

今は散聖(さんじょう::世俗を捨て仏門に入られること)の僧侶となられ、質素な衣に、草鞋(わらじ)履きと言うみすぼらしいお姿で、鸞輿(らんよ::天子の乗られる輿)を利用することなく、跣行(せんこう::裸足)での渡渉(としょう::徒歩で歩むこと)に変えて、はるかこの山中まで分け入って来られたので、後村上天皇はお傍の者がまだご事情をご説明する前に、直衣(のうし::天皇の平服)の袖を濡らされ、まだお会いする前にお涙を流されました。


是に一日一夜御逗留有て、様々の御物語有しに、主上、「さても只今の光儀、覚ての後の夢、夢の中の迷かとこそ覚へて候へ。縦仙院の故宮を棄て釈氏の真門に入せ給ふ共、寛平の昔にも准へ、花山の旧き跡をこそ追れ候べきに、尊体を浮萍の水上に寄て、叡心を枯木の禅余に被付候ぬる事、何なる御発心にて候けるぞや。御羨こそ候へ。」と、尋申させ給ければ、法皇御泪に咽て、暫は御詞をも不被出。良有て、「聰明文思の四徳を集て叡旨に係候へば、一言未挙先に、三隅の高察も候はん歟。予元来万劫煩悩の身を以て、一種虚空の塵にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業の嬰る所に旧縁を離兼て、可住荒増の山は心に乍有、遠く待れぬ老の来る道をば留むる関も無て年月を送し程に、天下の乱一日も休む時無りしかば、元弘の始には江州の番馬まで落下り、五百余人の兵共が自害せし中に交て、腥羶の血に心を酔しめ、正平の季には当山の幽閑に逢て、両年を過るまで秋刑の罪に胆を嘗き。是程されば世は憂物にて有ける歟と、初て驚許に覚候しかば、重祚の位に望をも不掛、万機の政に心をも不留しか共、一方の戦士我を強して本主とせしかば、可遁出隙無て、哀いつか山深き栖に雲を友とし松を隣として、心安く生涯を可尽と、心に懸て念じ思し処に、天地命を革て、譲位の儀出来しかば、蟄懐一時に啓て、此姿に成てこそ候へ。」と、御涙の中に語尽させ給へば、一人諸卿諸共に御袖をしぼる許也。「今は。」とて御帰あらんとするに、寮の御馬を進せられたれ共、堅御辞退有て召れず。いつしか疲させ給ひぬれ共、猶如雪なる御足に、荒々としたる鞋を召れて出立させ給へば、主上は武者所まで出御成て、御簾を被掲、月卿雲客は庭上の外まで送り進せて、皆泪にぞ立ぬれ給ける。道すがらの山館野亭を御覧ぜらるゝにも、先年■里の囚に逢せ給て、一日片時も難過と、御心を傷しめ給し松門茅屋あり。戦図に入山中ならずは斯る処にぞ住なましと、今は昔の憂栖を御慕有けるぞ悲き。諸国御斗薮の後、光厳院へ御帰有て暫御座有けるが、中使頻に到て松風の夢を破り、旧臣常に参て蘿月の寂を妨ける程に、此も今は住憂と思召、丹波国山国と云所へ、迹を銷して移せ給ける。山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅、一聯句甘閑味給ふ。身の安を得る処即心安し。出有江湖、入有山川と、一乾坤の外に逍遥して、破蒲団の上に光陰を送らせ給けるが、翌年の夏比より、俄に御不予の事有て、遂に七月七日隠させ給にけり。

吉野の朝廷にまる一日御逗留され、様々なお話の中で後村上天皇は、「ところで今回の御来訪は、覚めてもまだ夢の中にいるのか、または夢の中で迷っているのかとも思われます。たとえ法皇が仙洞御所をお捨てになり、釈迦の門弟になるとしても、寛平(かんぴょう::889-898年)の昔の宇多天皇のように譲位され、

花山院が巡礼された三十三の観音霊場を廻られればよろしいのに、お体は水上の浮草のように落ち着くことなく、御心は世俗から超然とした悟りの境地をお求めになることなど、如何なる御発心(ほっしん::仏門に入る決心)がおありになってのことでしょうか。まことに羨ましく思います」とお尋ねになられると、

光厳法皇はお涙に息を詰まらせ、しばらくはお言葉もありませんでした。少し時間をおいて、「聰明文思(聡明さと道徳心など)と言う四つの徳を持ち合わせた天子としてのお考えからのお言葉なので、私が一言発する前に全てご賢察のことだと思います。(三隅::論語)私は元々いつまでも断ち切ることの出来ない煩悩を持った身なので、

ある意味全てのものが存在する空間で、俗世間のわずらわしさにかわりを持つことなど、本当の気持ちではなかったのです。しかし、前世における行いのせいなのか、古くからの因縁から逃れられず、自分のいるべき世界は心に持っていましたが、やがて来る老いへの進行に関心を持つこともなく年月を過ごしている内に、

天下の乱は一日とて休む間もなく続き、元弘(げんこう::1331-1334年)の初めころは江州の番場宿(ばんば::米原市)まで落ちて行き、五百余人の兵士らが自害する中に混じって、腥羶(せいせん::生臭いこと)な血のにおいに気分も悪くなり、正平(しょうへい::1346-1370年)の末ころ(1352年では?)には吉野山に幽閉され、

二ヶ年にわたる刑罰の屈辱に、肝をなめるような苦しみを味わいました。このような経験を重ねると、さすがこの世の中はつらく悲しいことばかりだと、初めて驚く始末で、退位した帝の位に再び就くことなど思いもよらず、あらゆる政治向きのことには心を動かすこともしませんでした。

しかし、一方の武家勢力が私を無理強いして、最高責任者の地位に就かせたので逃げ出すことが出来なかったのです。出来ることならいつかは山深い里に住み、雲を友に松を隣人として、心安らかに生涯を終えたいと心に念じ続けていたところ、天下に変革があり譲位の件が取りざたされたので、

蟄懐(ちっかい::心中の不満)は一時に解決され、この姿になることが出来たのです」とお涙の中、語り尽くされたので、後村上天皇をはじめ諸卿らは御袖を濡らされたのでした。「もうそろそろ」と仰せられ、お帰りになろうとされると、天皇は厩(うまや)で飼育している御馬を差し上げようとされましたが、

固く辞退されかないませんでした。すでに疲れ切っておられるとは思われるのですが、今なお雪のように白いおみ足に、如何にも粗末そうな草鞋をお履きになってご出発になられると、後村上天皇は武者所(むしゃどころ::御所を警備する武士の詰め所)までお出ましになると、御簾を上げられ、

また公卿殿上人は庭の外までお見送りされ、全員涙に濡れてお立ちになられました。帰途の道すがら、山中の屋敷や野に立つ建物などをご覧になられると、以前捕らわれの身となり、一日一時さえ過ごしがたいと、心を痛められた松の門や茅葺の家などがありました。戦争にからんで入った山中でなければ、

このような場所に住むことができれば良いのにと、今はもう昔のこととなった以前のつらい暮らしを、おしのびになられるのも悲しいことです。その後、諸国を修行の旅を続けられた後、法皇は光厳院にお帰りになられましたが、宮中からの使者が頻繁に来られれば、夢のような静かな環境を害され、

夜は夜で旧臣らが常に参られ、蔦葛の葉の陰に見える月の静かさも破られるので、此処も住むには嫌なことが多すぎると思われ、丹波国の山国庄と言う所へ未練を残すことなく御移りになられました。
      山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅

              (果物があれば三食に困らず、柴を燃やして暖を取り、薄衣で寒さを防ぎ、やせた体で水を汲むのがつらい時には雪を解かして茶を飲み、山に蕨を取りに行くのが億劫であれば、窓の梅をかじれば良い)

対句となった漢詩に今の快い静かな風情を重ねられました。身体に危険が及ばない所にこそ、精神の安定が保てます。俗世間を出でて大地に我が身を置こうぞと、この天地の枠組みの外で過ごし、質素な布団に身をくるんで月日を送られていましたが、翌年の夏頃に突然御体調を崩され、とうとう正平十九年(貞治三年::1364年)七月七日に崩御されました。


○法皇御葬礼事
比時の新院光明院殿も、山門貫主梶井宮も、共に皆禅僧に成せ給て、伏見殿に御座有ければ、急ぎ彼遷化の山陰へ御下り有て御荼毘の事共、取営せ給て、後の山に葬し奉る。哀仙院芝山の晏駕ならましかば、百官泪を滴て、葬車の御迹に順ひ、一人悲を呑で虞附の御祭をこそ営せ給ふべきに、浩る御事とだに知人もなき山中の御葬礼なれば、只徒に鳥啼て挽歌の響をそへ、松咽で哀慟の声を助る計也。夢なる哉、往昔の七夕には、長生殿にして二星一夜の契を惜て、六宮の美人両階の伶倫台下に曲を奏して、乞巧奠をこそ備へさせられしに、悲哉、当年の今日は、幽邃の地にして三界八苦の別に逢て、万乗の先主・一山の貫頂、山中に棺を荷ふて御葬送を営せ給ふ。只千秋亭の月有待の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随ふが如し。されば遶砌山川も、是を悲て雨となり雲となる歟と怪まる。無心草木も是を悼て、葉落ち花萎めるかと疑はる。感恩慕徳旧臣多といへ共、預め勅を遺されしに依て、参り集る人も稀なりしかば、纔に篭僧三四人の勤めにて、御中陰の菩提にぞ資け奉りける。御国忌の日ごとに、種々の作善積功累徳せらる。殊更に第三廻に当りける時は、継体の天子今上皇帝、御手自一字三礼の紺紙金泥の法華経をあそばされて、五日八講十種供養あり。伶倫正始の楽は、大樹緊那の琴の音に通じ、導師称揚の言は、富楼那尊者の弁舌を展たり。結願の日に当て、薪を採て雪を荷ふ夕郎は、千載給仕の昔の迹を重くし、水を汲て月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。是又善性・善子の珊提嵐国に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵・浄眼の妙荘厳王を化せし功にも越たれば、十方の諸仏も明かに此追賁を随喜し給ひ、六趣の群類も定て其余薫にこそ関るらめと、被思知御作善也。

☆ 光厳院禅定法皇の御葬礼のこと

光厳院が崩御された時、新院光明院殿も山門(比叡山延暦寺)の貫主(天台座主)梶井宮(承胤法親王)も共に禅僧になられ、伏見殿におられましたので、急いで法皇の御逝去された山深い常照皇寺までお下りになり、御荼毘など葬礼の儀を営まれ、寺の裏山に埋葬されました。

悲しいことですが法皇は山深い里での御崩御なので、本来なら官吏百官が涙を流しながら葬送のお車の後に従い、時の天皇が悲しみをこらえながら葬祭を執り行うのですが、何かにつけ無知な山里での御祭礼なので、ただいたずらに鳥が鳴いて葬列の歌となり、松はむせび泣くような音を発して、

人々の悲しむ声に溶け込んで来るように聞こえました。夢のようですが、かつての七夕の夜には長生殿(皇居)において、二星(にせい::牽牛と織女の星)が一夜の逢瀬を惜しむかのように、後宮にすむ美女らに楽師らが音楽を演奏して、乞巧奠(きっこうでん::七月七日の行事。女子が手芸、裁縫の上達を祈った)のまつりも催されていたのに、

悲しいことですが今年の七夕は、都から遠く離れた奥深い山里で、逃れられないあらゆる苦しみの中でも、愛する者との別れに出会い、先帝崇光(すこう)天皇と山門の天台座主である梶井宮は、山中で棺を肩に支え持って墓所まで送りました。ただ永遠に輝く月が火葬の煙にその姿を隠し、

原始からその姿を保ち続けた樹の花が、人の死によって散り急ぐようなものです。(?)そのために周辺の山や川も、この死を悲しんで雨になり雲となったのかと疑われ、感情など持つはずのない草や木さえ、この死を悲しんで葉が落ち、花もしぼんだのではと不思議に思います。

法皇に恩を感じその徳を慕っている旧臣らは大勢いましたが、前もって法皇として命じていましたから、集まり来る人も少ないので、わずかに虚無僧(禅僧)三、四人のお勤めにより中陰(ちゅういん::四十九日)の法要を行い、御冥福を祈りました。法皇の命日ごとに色々と供養となる善事を行い、

功徳(くどく::現世、来世に幸福をもたらすもととなる善行)を積み重ねました。中でも特に第三週にあたる時には、天皇の位を継いだ今上天皇(後光厳天皇)が御みずから一字三礼(いちじさんらい::一字書くごとに三度の礼拝をする)のお気持ちで紺色の紙に金泥(きんでい::金粉をにかわで溶いた顔料)で法華経を写経され、

五日間かけての法華八講(法華経八巻を八座に分けて講ずる法会)と十種供養(十種の華や香などで仏を供養すること)が行われました。伶倫(れいりん::古代中国伝説上の楽師)の奏でる正始の音楽(?)は大樹緊那羅(きんなら::仏教八部衆の一、音楽神)の琴の音かと思われ、儀式を執り行う僧侶が称賛する言葉は、

富楼那(ふるな::釈迦十大弟子の一人、弁舌に優れていた)尊者の弁舌のように響きました。満願の日に当たり、薪を拾って雪を運ぶ夕郎(せきろう::宮中の行事や事務に携わる役人)は、千載給仕(せんざいきゅうじ::釈尊の前世が仏敵の前世に法華経を教示してもらう。この彫刻に薪を背負ったり、水を汲んだりする様子が彫られている)を行った昔の修行を重んじ、

水を汲み写った月を運ぶ殿上人は、八相成道(はっそうじょうどう::釈迦が八つの段階を経て仏教の道を完成したこと)を終えた釈迦と、遠いながらも縁を結びました。これらはまた、善性・善子(?)が珊提嵐国(さんだいらんこく::日蓮上人が駿河の松野六郎左衛門入道に送った手紙に書かれた、昔に存在した国)に仕えた忠孝を越え、

浄蔵、浄眼(じょうぞう、じょうげん::妙荘厳王の子供の名)が妙荘厳王(みょうしょうごんおう::法華経に出て来る国王名。外道から改心して仏道に帰依する)を改心させた功績をも越えたので、四方八方の諸仏も明白に、この追賁(ついひ::追善供養)をお喜びになり、生死を繰り返す迷いの世界にいる人々も、その恩恵をこうむるのではと、思わずにいられないほどの追善供養でありました。      (終り)

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