40 太平記 巻第四十


○中殿御会事
貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸あり。是は後白河法皇の御遠忌追賁之御為に、三日まで御逗留有て法花御読経あり。安居院の良憲法印・竹中僧正慈照、導師にぞ被参ける。難有法会なれば、聴聞の緇素不随喜云者なし。惣じて此君御治天の間、万づ継絶、興廃御坐す叡慮也しかば、諸事の御遊に於て、不尽云事不御座。故に中殿御会は、累世の規摸也。然るを此御世に未無其沙汰。仍連々に思食立しかば、関白殿其外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴は大儀なる上、毎度天下の凶事にて先規不快由、面々一同に被申ければ、重て有勅定けるは、聖人有謂、詩三百一言思無邪と。されば治れる代の音は安して楽む。乱れたる代の音は恨て忿るといへり。日本哥も可如此。政を正して邪正を教へ、王道の興廃を知は此道也。されば昔の代々の帝も、春の花の朝・秋の月の夜、事に付つゝ哥を合せて奉らん人の慧み、賢愚なるをも知食けるにや。神代の風俗也。何れの君か是を捨給ん。聖代の教誡也。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工の桜花を叡覧有て土御門大納言師房卿に勅して、「新成桜花。」と云題を令献、清涼殿に召群臣御製を被加、同糸竹の宴会あり。自爾以来、白河院応徳元年三月左大弁匡房に勅して「花契多春。」と云題を令献、於中殿被講之。又堀河院御代永長元年三月権大納言匡房卿に課て、「花契千年。」と云題を令献、宴遊を被伸。又崇徳院御宇天承元年十月、権中納言師頼に勅して、「松樹緑久。」と云題を令献、宸宴有き。其後建保六年八月順徳院光明峯寺の関白に勅して、「池月久澄。」と云題を令献被講き。次後醍醐院御宇元徳二年二月、権中納言為定卿に勅して、「花契万春。」と云題にて、中殿の御会を被行之。此外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度、中殿の御会先規には不加侍にや。加様の先蹤皆聖代洪化なり。何ぞ不快の例といはんや。然に今年の春は九城の裏の花香く、八島の外に風治れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並序の事。関白可被献之由強て有勅定しかば、中殿の御会の事内々已に定りにけり。征夷将軍も、此道に数奇給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比は建武の宸宴、贈左府の嘉躅非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚の人々に賦題。「花多春友。」と云題を、任建保例兼日に関白被出けるとかや。既に其日に成しかば、母屋の廂の御簾を捲て、階の西の間より三間北にして、二間に各菅の円座を布て公卿の座とす。長治元年には雖為二行、今度は関白殿の加様に座を被設。御帳の東西には三尺の几帳を被立、昼の御座の上には、御剣・御硯箱を被措たり。大臣の座末、参議の坐の前には、各高灯台を被立たり。関白直廬より御参あれば、内大臣已下相随ひ給ふ。任保安例今日既に直衣始の事あり。前駆・布衣・随身の褐衣如常なれば、差たる見事は無りけり。丑刻許に将軍已に参内あり。其行妝見物の貴賎皆目を驚かせり。公家家礼の人々には、為秀・行忠・実綱卿・為邦朝臣なんど庭上に下て礼あり。左衛門の陣の四脚に、将軍即参入あり。先帯刀十人左右に相番て曳列。左は佐々木佐渡四郎左衛門尉時秀、地白の直垂に金銀の薄にて四日結を挫たる紅の腰に、鰄の金作の太刀を帯く。右は小串次郎左衛門尉詮行、地緇の直垂に、銀薄にて二雁を挫白太刀を佩く。次伊勢七郎左衛門貞行、地白の直垂に、金薄にて村蝶を押て白太刀を佩て左に歩む。右は斉藤三郎左衛門尉清永、地香の直垂に、二筋違の中に、銀薄にて■菱を押たる黄腰に、鰄の太刀を佩たり。次に大内修理亮、直垂に金薄にて大菱を押す。打鰄に金作の太刀を帯く。右は海老名七郎左衛門尉詮季、地黒に茶染直垂に、金薄にて大笳篭を押して、黄なる腰に白太刀帯たり。次本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易の直垂に金銀の薄にて十六目結を押、紅の腰に白太刀を佩く。右に山城四郎左衛門尉師政、地白に金泥にて州流を書たる直垂に、白太刀佩て相随ふ。次に粟飯原弾正左衛門尉詮胤、地黄■に銀泥にて水を書、金泥にて鶏冠木を書たる直垂に、帷は黄なる腰に白太刀を帯たり。由々敷ぞ見へたりける。此次に征夷大将軍正二位大納言源朝臣義詮卿、薄色の立紋の織物の指貫に、紅の打衣を出し、常の直垂也。左の傍に山名民部少輔氏清、濃紫の指貫に款冬色の狩衣著して帯剣の役に随へり。右は摂津掃部頭能直、薄色の指貫、白青織物の狩衣著て沓の役に候す。佐々木備前五郎左衛門尉高久、二重狩衣にて御調度の役に候す。本郷左近大夫将監詮泰は、香の狩衣にて笠の役に随ふ。今河伊予守貞世は侍所にて、爽かに胄たる随兵、百騎許召具して、轅門の警固に相随。此外土岐伊予守直氏・山城中務少輔行元・赤松大夫判官光範・佐々木尾張守高信・安東信濃守高泰・曾我美濃守氏助・小島掃部助詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部新左衛門尉秀光。藤民部五郎左衛門盛時・八代新蔵人師国・佐脇右京亮明秀・藁科新左衛門尉家治・中島弥次郎家信・後藤伊勢守・久下筑前守・荻野出羽守・横地山城守・波多野出雲守・浜名左京亮・長次郎、是等の人々思々の直垂にて、飼たる馬に厚総係て、折花尽美。

☆ 宮中清涼殿で行われた中殿御会(和歌の披露と管弦の宴のこと

貞治六年(正平二十二年::1367年)三月十八日、後光厳天皇が長講堂(ちょうこうどう::後白河法皇が建立した持仏堂が前身)に行幸されました。これは後白河法皇の御遠忌(おんき::この場合175年忌)追善供養のため、三日間御逗留され法華経の御読経がありました。安居院(あぐい)の良憲法印と竹中僧正慈照の二人が導師(どうし::法会などの時、長として儀式を執り行う僧)として参られました。

前代未聞のありがたい法会なので、聴聞に来る緇素(しそ::僧や俗人)らが参列し、ありがたく思い喜ばない者などいませんでした。この後白河法皇が世を治めていた時代は、全体として全ての事柄に対して廃れたことを再興し、絶えてしまったことを再び行おうとのお考えに基づいていましたから、

諸事一般の行事、御遊(ぎょゆう::管弦の催しなど)に際して、出来る得る限りのことをしました。宮中の清涼殿で行われる中殿御会は、過去何代にもわたって行われてきた国家の行事でした。ところが今、後光厳天皇の治世にあたり、その行事に関して何らの計画もありませんでした。

そのため常々考えていたことなので、関白殿やその外の近臣らに内々その旨仰せられていました。しかし、清涼殿で行う天皇主催の酒宴は大掛かりになる上、毎回天下の凶事に重なり先例としてあまり良いとは思えないと、皆が皆、同様の意見を申し上げたので、ならばと改めて天皇は、

聖人有謂(荘子::聖人が存在したか存在しなかったかは不確実である)、詩三百一言思無邪(論語::詩経には三百以上の詩があるが、一つの言葉でまとめられる。それはよこしまな気持ちではないと言う事)と話されました。と言うことは安定した世では、音は安心して楽しむことが出来るが、乱れた世では恨みを含んだように聞こえると言われている。

日本の和歌もこのようなものである。政治を正しく行って事の善悪をはっきりとさせ、皇室の興廃に関心を持つのはこの故である。そこで過去代々の天皇は、春の花咲く朝や、秋の月が美しい夜など、ことごとに機会を持って和歌を詠まれた人たちの才能の豊かさを御存じでした。神代の時代からの風習でもあります。

何時の時代の天皇がこの風習を中断したでしょうか。優れた天皇が治められた世の中における教訓でもあります。一体誰がこのことを批判するでしょうか。そもそもこの中殿において天皇によって行われる酒宴と言うのは、後冷泉院が天喜四年(てんぎ::1056年)三月、画工(がこう::絵師)の桜花をご覧になり、

土御門大納言師房卿の命じて、「新成桜花」と言う題にて、一首献上させるため、清涼殿に群臣を呼び寄せ、天皇自ら詠まれた一首を披露して、これをきっかけに管弦の宴会を行われました。このこと以来、白河院が応徳元年(おうとく::1084年)三月、左大弁匡房(大江匡房)に命じて、「花契多春」という題を与え、

中殿においてこれを披露させました。また堀河院の御代、永長元年(えいちょう::1096年)三月、権大納言匡房(くにふさ::大江匡房)卿に、「花契千年」と言う題を課して、献上させると共に酒宴をも開きました。また崇徳院の御代、天承元年(てんしょう::1131年)十月、権中納言師頼(源師頼)に命じ、「松樹緑久」と言う題で披露させ、

酒宴を開催しました。その後も建保六年(けんぽう::1218年)八月、順徳院が光明峯寺の関白(九条道家)に命じて、「池月久澄」という題にて披露させました。次の御会は後醍醐院の御代、元徳二年(げんとく::1330年)二月、権中納言為定(二条為定)卿に命じて、「花契万春」と言う題にて中殿の御会を開催しました。

これら以外にも承保二年(じょうほう::1075年)四月、長治二年(ちょうじ::1105年)三月、嘉承二年(かしょう::1107年)三月、建武二年(けんむ::1335年)正月に清涼殿において、和歌の宴ですが行われたのです。一度だけでなく度々中殿で行われた御会を、先例とはしないのですか。(?)

このような先例はすべて時の帝に徳ある政治があったからです。どうして縁起でもないことだと言うのでしょうか。ところで今年の春は皇居に咲く花も香ばしく、日本国内外も平穏な時になりました。ここは早く建保の時代に行われた素晴らしい行事を行うべく、お題の件や開催の段取りなどを調査することになりました。

関白にこの件について答申をするよう強く天皇から指図があったので、中殿の御会を実施することは一応内定しました。征夷大将軍足利義詮も和歌の世界にご興味をお持ちなので、勅撰和歌集(新拾遺和歌集)などの編纂を奏上するとともに、最近行われた建武(けんむ::1334-1336年)時代の天皇が主催された酒宴や、

贈左府(足利尊氏)の行われた素晴らしい業績などについて申し上げますと、特に問題はなく了承する旨仰せられました。これによって、御会は蔵人左少弁仲光を奉行(責任者)にして貞治六年(正平二十二年::1367年)三月二十九日に行うことが決定されました。そして天皇からお呼びのかかった人々にお題を与えることになりました。

「花多春友」と言う題を、建保の例に従いあらかじめ関白が出されたそうです。さて早くもその日になりましたので、母屋(もや::清涼殿正面の奥まった部屋)のひさしにかかる御簾を巻き上げ、階(きざはし::庭から殿上への階段)の西の間より三間北側の二間(ふたま::部屋の名前)に、それぞれ菅(すげ::多年草の名)の円座を敷いて公卿の席にしました。

長治元年(ちょうじ::1104年)には二列にしましたが、今回は関白殿の席をこのように設けました。御帳台(みちょうだい::部屋の名前)の東西には三尺の几帳(きちょう::間仕切りに使う家具)を立てられ、昼の御座(おまし::部屋の名前)の上には御剣、御硯箱が置かれていました。大臣の座席の後方や参議の席の前には、

各々灯台が立てられていました。やがて関白殿が休憩の間より参られると、内大臣以下関白に従いました。保安(ほうあん::1120-1123年)の先例に従って本日すでに直衣始め(三位以上の公卿が天皇の許しを得て、初めて直衣を着用する儀式)の儀式がありました。前駆(ぜんく::先導の人)、布衣(ふい::無官の人)

随身(ずいしん::お供の人)の褐衣(かちえ::狩衣の一つ)は普段通りなので、特に見るべきものはありませんでした。丑刻(午前二時頃)頃に将軍が参内されました。その姿恰好や服装は見物の人々の目を奪いました。公家やその家礼(けれい::公家社会における一種の主従関係にある者)の人々では、為秀(冷泉為秀)

行忠、実綱卿、為邦朝臣などが庭に下りて挨拶されました。すぐに将軍は四本柱の左衛門の陣(建春門のこと)に入られました。まず帯刀(たちはき::将軍の参内時に太刀を帯びて供をする人)の十人が左右一組となって並びました。左には佐々木佐渡四郎左衛門尉時秀が白地の直垂(ひたたれ::鎧の下に着る服)に金銀の箔で四つ目結(模様、紋所の名)の紋を表した金具を兜の鉢に付け、

(かいらぎ::サメ類の背中中央部分の皮で装飾された刀)を黄金づくりにした太刀を佩いていました。右側には小串次郎左衛門尉詮行(のりゆき)が黒生地の直垂を着て、銀箔にて二雁(ふたつかり::雁金紋の一種)を押した銀作りの太刀を佩いていました。その次には伊勢七郎左衛門貞行(さだゆき)が、

白地の直垂に金箔にて村蝶(伊勢氏の家紋である蝶紋の一種か?)を押した銀づくりの太刀を佩いて左側を歩みました。右側には斎藤三郎左衛門尉清永(きよなが)が光沢のある生地で仕立てた直垂に、二筋違(ふたすじかい::四本の直線を交差させた紋の一種)の紋に、銀箔でなでしこを押した黄腰(きごし::草摺りの金具か?)に鰄(かいらぎ)の太刀を佩いています。

その次の大内修理亮は直垂に金箔で大菱(おおびし::家紋の一種)を押しています。そして打ち鰄(鮫皮のように粒を打ち出した金箔)に加工した黄金づくりの太刀を帯びています。右側には海老名七郎左衛門尉詮季(のりすえ)が、黒地に茶染めを施した直垂に、金箔で大笳篭(籠目紋のことか?)を押して、

黄の腰(草摺りの金具が黄金製なのか?)に銀作りの太刀を帯びています。次は本間左衛門太郎義景が、白地に紫の模様を左と右で異なった柄にした直垂に、金箔、銀箔で十六目結(家紋の一種)を押して、紅色の腰に銀作りの太刀を佩いています。右側には山城四郎左衛門尉師政(もろまさ)が白地に金泥(にかわで金粉を溶いたもの)

洲流し紋(金泥を散らして水の流れを表現した紋)を描いた直垂に、銀作りの太刀を佩いて従いました。次に粟飯原(あいはら)弾正左衛門尉詮胤(のりたね)が、イネ科の多年草であるカリヤスで染めた黄色の生地に、銀泥(ぎんでい::銀粉をニカワで溶いたもの)で水が流れる模様を描き、金泥にて鶏冠木(かえるで::カエデの古名)を書いた直垂に、

黄色の帷子(かたびら::一重の着物)を着て、銀づくりの太刀を帯びています。素晴らしく立派な姿です。その次には征夷大将軍正二位大納言源朝臣義詮卿が、薄紫色で縦柄(?)の織物で作った指貫(さしぬき::袴の一種)をはき、紅色の打衣(うちぎぬ::光沢を出した衣)を出したいつもと変わらない直垂です。

左側すぐそばには山名民部少輔氏清が濃い紫の指貫に款冬色(ふきいろ::薄いくすんだ橙色)の狩衣(かりぎぬ::常用の略服)を着て、護衛として従っています。右側には摂津掃部頭能直(よしなお)が薄紫色の指貫に白青(しらあお::白味を帯びた青)織物の狩衣を着て、履物の係として控えています。

佐々木備前五郎左衛門尉高久は二重狩衣(裏と表の色が同じ狩衣)を着て、弓矢の役を受け持っています。本郷左近大夫将監詮泰(のりやす)は香色(こういろ::丁子などの香料の煮汁で染めた色)の狩衣を着て、笠の役(陣笠を携帯する役目?)として従っていました。今川伊予守貞世は侍所(さむらいどころ::軍事、警察を担当する役所)として、

美しい甲冑で固めた警固兵百騎ばかりを引き連れて、轅門(えんもん::陣や役所の門)の警固として従っています。この他土岐伊予守直氏、山城中務少輔行元、赤松大夫判官光範、佐々木尾張守高信、安東信濃守高泰、曾我美濃守氏助、小島掃部助詮重、朝倉小次郎詮繁、同じく又四郎高繁、

彦部新左衛門尉秀光らも警固に携わっていました。藤民部五郎左衛門盛時、八代(やしろ)新蔵人師国、佐脇(さわき)右京亮明秀、藁科(わらしな)新左衛門尉家治、中島弥次郎家信、後藤伊勢守、久下(くげ)筑前守、荻野(おぎの)出羽守、横地(よこち)山城守、波多野出雲守、浜名左京亮、長次郎などの人々は、

それぞれ思い思いの直垂を身に着け、我が馬を厚総(あつぶさ::馬の各部につけた糸の房を特に厚く垂らしたもの)に飾り、競うように美を尽くしていました。


将軍堂上の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮を布て列居す。先依別勅御前の召あり。関白殿御前に被参。其後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣・按察使実次・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従宰相行忠・小倉前宰相実名・二条宰相中将為忠・富小路前宰相中将実遠なんどぞ被参ける。関白殿奉行職事仲光を召て、事の具否を尋らる。軈て被伺出御。御衣は黄直衣・打の御袴也。関白殿著座有て後、頭左中弁嗣房朝臣を召て、公卿可著坐由を仰す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣以下、次第に著座有しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直に御前に進著せらる。爾後嗣房朝臣・仲光・懐国・五位殿上人伊顕なんど、面々の役に随て、灯台・円座・懐紙等を措く。為敦・為有・為邦朝臣・為重・行輔なんど迄著座ありしか共、右兵衛督為遠は御前には不著、殿上の辺に徘徊す。是は建保に定家卿如此の行迹たりし其例とぞ申合ける。富小路前宰相中将・冷泉院中納言・藤中納言・鎌倉大納言・内大臣・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行皆思々也。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺て膝行あり。故太閤元徳の中殿の御会に被参しに此作法侍りけるとかや。右大臣依為読師、直に御前の円座に著し給て、講師仲光を召す。又序を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是を読上たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首並序関白従一位臣藤原朝臣良基上。夫天之仁者春也。地之和者花也。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新■素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也。好文之主、未必携和語、兼之者我君也。一場偉観千載之徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。其辞曰、つかへつゝ齢は老ぬ行末の千年も花になをや契らん此次に右大臣正二位藤原朝臣実俊・内大臣正二位臣藤原朝臣師良・正二位行陸奥出羽按察使藤原朝臣実継、此次は征夷大将軍正二位臣源朝臣義詮・正二位行権中納言臣藤原朝臣時光・正二位行権中納言藤原朝臣為秀・権中納言従三位兼行左衛門督臣藤原朝臣忠光、此次参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠・従三位兼右兵衛督臣藤原朝臣為遠・蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国等に至迄、披講事終て、講師皆退給ければ、講誦の人々、猶可祗候由、依天気関白読師の円座に著給しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂ふ雲居の花の本つ枝に百代の春を尚や契覧講誦十返許に及しかば、日已に内樋に耀く程也。されば物の色合さだかに、花の薫も懐しく、霞立気幸も最艶なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許ぞ聞へける。御製の披講終て、各本坐に退けば、伶人にあらざる人々も座を退く。其後軈て御遊始り、笛は三条大納言実知卿、和琴は左宰相中将実綱、篳篥は前兵部卿兼親、笙は前右衛門督刑時、拍子は綾小路三位成方、琴は公全朝臣、付歌者宗泰朝臣也。呂には此殿・鳥の破・席田・鳥の急、律には万歳楽・伊勢海・三台急也けり。玉笙の声の中には鳳鳥も来儀し、和琴の調の間には鬼神も感動するかとぞ覚し。此宸宴に有御所作事邂逅也。建保には御琵琶にて有ける也。爾後は稀なる御事なるを、今此御宇に詩哥両度の宸宴に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸る大会は聊の故障もある事なるに、一事の違乱煩なく無為に被遂行ぬれば、万邦磯城島の政道に帰し、四海難波津の古風を仰て、人皆柿本の遺愛を恋るのみならず、世挙て柳営の数奇を感嘆し、翌日午刻許に人々被退出しかば、目出なんど云ふ許りなし。さても中殿の御会と云事は、吾朝不相応宸宴たるに依て、毎度天下に重事起ると人皆申慣せる上、近臣悉眉を顰て諌言を上たりしか共、一切無御承引終に被遂行けり。さるに合せて、同三月二十八日丑刻に、夥敷大変西より東を差て飛行と見へしが、翌日二十九日申刻に天竜寺新造の大廈、土木の功未終、失火忽に燃出て一時の灰燼と成にけり。故に此寺は、公家武家尊崇異于他して、五山第二の招提なれば、聊爾にも攘災集福の懇祈を専にする大伽藍なるに、時節こそあれ、不思議の表示哉と、貴賎唇をぞ翻しける。因慈将軍御参内の事は可有斟酌由、再三被経奏聞しか共、是寺已に勅願寺たる上者、最天聴を驚す所なれ共、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早諸卿に被仰下しかば、此問答に時遷て、御参内も夜深過る程になり、御遊も翌日に及びけるとかや。浅猿かりし事共なり。

将軍が清涼殿に昇られると、帯刀の役人は全員申門(?)の外に毛皮の敷物を敷いて居並びました。まず最初に、御前に参るよう特別な勅命がありました。そこで関白殿は御前に参られました。その後時間になり人々は殿上に着座されました。やがて右大臣、内大臣、按察使実次(さねつぐ)、藤中納言時光、冷泉中納言為秀、

別当忠光、侍従宰相行忠、小倉前宰相実名(さねな)、二条宰相中将為忠、富小路前宰相中将実遠などが参られました。関白殿は行事進行役の仲光をお呼びになり、準備が整ったかと尋ねられ、すぐに部屋を出られました。お着物は黄色の直衣(のうし::公家の平常服)に光沢ある御袴を着用されていました。

関白殿は着座されると、頭左中弁嗣房(つぎふさ)朝臣を呼ばれ、公卿たちに着座するよう仰せられました。嗣房は諸卿を殿上に来るようお呼びになりました。右大臣、内大臣以下順次着座されますと、将軍は殿上に着座することなく、まっすぐ御前にお進みになられました。

その後嗣房朝臣、仲光、懐国(やすくに)、五位殿上人伊顕(これあき)らは各自の役職に従って、照明や敷物、懐紙(ふところがみ::詩歌などを書き込む紙)などを用意しました。為敦(ためあつ)、為有、為邦朝臣、為重、行輔(ゆきすけ)らまでが着座されましたが、右兵衛督為遠は御前に着くことなく、殿上周辺を歩き回っていました。

これは建保六年(1218年)に行われた中殿御会の時、藤原定家卿が取った行動を先例にすると申し合わせていました。富小路前宰相中将、冷泉院中納言、藤中納言、鎌倉大納言、内大臣、右大臣、関白らは歌と名前を書き込んだ懐紙を膝をついて思い思いに提出しました。

関白は建保の例に従うとは言えども、先頭を受け持つ役なのでこれを二番目に置きました。またその時、直衣の裾を丸め込むように膝頭をついて進みました。これは故太閤が元徳二年(1330年)に行われた中殿の御会に参られた時の作法とか。右大臣は読師(どくし::歌会などで懐紙など整理して講師に渡す役)を受け持っているので、

早速御前の円座に着席し、講師(こうじ::宮中の歌会などで詩歌を詠み上げる役)の仲光を呼ばれました。また開催を告げるため特に指図があり時光卿を呼ばれました。右代弁為重をお呼びになり、懐紙を集められました。そして初めより順にこれを詠み上げました。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首並序関白従一位臣藤原朝臣良基上。

夫天之仁者春也。地之和者花也。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰謄哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。

奎章之巧、新■(つぐ)素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也。好文之主、未必携和語、兼之者我君也。一場偉観千載之徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機政。親奏鳳韶、聊記一日之遊。其辞曰、(現代語訳不能)
      つかえつゝ 齢は老ぬ 行末の 千年も花に なをや契らん

この次に、右大臣正二位藤原朝臣実俊、内大臣正二位臣藤原朝臣師良、正二位行陸奥出羽按察使藤原朝臣実継が続き、その次に征夷大将軍正二位臣源朝臣義詮、正二位行権中納言臣藤原朝臣時光、正二位行権中納言藤原朝臣為秀、権中納言従三位兼行左衛門督臣藤原朝臣忠光、

この次には参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠、従三位兼右兵衛督臣藤原朝臣為遠、蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国らに至るまで詠み上げが終了したので、講師ら全員は退出しようとしましたが、詩文を詠み上げていた人々は今しばらくこの場に居りたく、

依天気関白読師(?)の座にお着きになられたので、特に権中納言時光卿を呼ばれて、天皇作の歌を披露し、
      開匂ふ 雲居の花の 本つ枝に 百代の春を 尚や契覧

この歌を十度ばかり読み返されるうち、日はすでに室内に設けられた雨樋を輝かせるほど傾いていました。だから周りの景色など色合いもくっきりとして、花の香りも心地よく霞のたつような気配もなまめかしく、皆さまが詠みあげられる声も宮中に響くのではと思われ、心に染み入るように聞こえました。

天皇の詠まれた歌の披露も済んだので皆は元の席に戻られ、楽器演奏を行う人たち以外の方々も座を離れました。その後すぐに宴会が始まり、笛は三条大納言実知(さねとも)卿、和琴(わごん)は左宰相中将実綱、篳篥(ひちりき)は前兵部卿兼親(かねちか)、笙(しょう)は前右衛門督刑時(のりとき)

拍子は綾小路三位成方(なりかた)、琴は公全(きんまさ)朝臣、そして付歌(つけうた::催馬楽などで発声の人が歌う第一句に付けて第二句以降を唱和すること)を行うのは宗泰(むねやす)朝臣です。催馬楽の曲の内、呂(りょ)の曲として此殿(このとの)、鳥の破(とりのは)、蓆田(むしろだ)、鳥の急(とりのきゅう)、律(りつ)の曲としては、万歳楽(まんざいらく)

伊勢海(いせのうみ)、三台急(さんだいのきゅう)です。美しい笙の響きに鳳(ほう::想像上の瑞鳥)も姿を現し、和琴の調べには鬼神(きじん::荒々しく恐ろしい神)と言えども感動を覚えるのではと思われました。この天皇主催の宴会時に、御所の建築工事が行われたのは偶然のことです。

建保の御会では御琵琶の新調でした。(?)これ以後はめったに無かったことですが、今回後光厳天皇の御代において、詩歌と酒宴に作事を行うことは無理だったと聞いています。このような大きな行事には何かと不都合なことが起こりやすいのに、何らの事故もなく無事に行われたのは、

日本全国の安定した政治が可能にしたと考え、難波津の古歌(難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花)を尊重し、人々は皆柿本人麻呂の詠まれた歌に心を惹かれるだけでなく、国を上げて幕府の波乱に満ちた運命に感動し、翌日午刻(午後零時頃)頃に人々が退出され、人々はただただ目出たいと言うばかりでした。

ところで中殿の御会というものは、我が国にとって身分不相応な宴会であり、毎回のように天下に重大な事件が起こるのではと、皆が不安を言い合うので、近臣ら全員が眉をひそめて中止を進言したのですが、全く取り入れようとせずついに実施されたのでした。そのせいか、

同じく貞治六年(正平二十二年::1367年)三月二十八日丑刻(午前二時頃)に、何か変事を起こすかと思われるものが多数、西から東に向かって空を飛んで行くのが見えたのですが、案の定翌日の二十九日、申刻(午後四時頃)に天龍寺で新築中の大きな建造物が、まだ建築工事も終了していないのに、

突然の失火により瞬く間に全焼してしまいました。この寺は特に公家や武家から絶大な尊敬を受けており、京都五山第二の寺院として、何はさておき災いを払いのけ福を招くことを第一に祈願する大伽藍であるのに、なんでまたこの時期にこんなことになるとは予期もしていないので、

身分に関係なく皆が皆、失火について非難しました。このため将軍の御参内については、遠慮すべきではと議論もあったのですが、この寺はすでに勅願寺(ちょくがんじ::皇室の祈願によって建造された寺)である以上、天皇もこの事態に大変驚かれましたが、このような火災のために宮中の行事が中止になったことなど、

未だかつてそのような例などありません。すでに諸卿に開催を連絡していますので、この事態の対応に時間を取られ、諸卿の参内も深夜を過ぎることになり、そのため酒宴も翌日まで続くこととなったそうです。あまりにも情けない結果になったのでした。(この段全ておかしい)


○左馬頭基氏逝去事
角ては天下も如何んと危ぶめる処に、今年の春の比より、鎌倉左馬頭基氏、聊不例の事有と聞へしかば、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳にて忽に逝去し給けり。連枝の鍾愛は多けれ共、此別に至ては争か可不悲。矧や是は唯二人、二翼両輪の如くに華夷の鎮憮と成給しかば、さらぬ別の悲さもさる事ながら、関東の柱石摧ぬれば、柳営の力衰ぬと、愁歎特に不浅。就之京都大に怖慎て、祈祷なども可有と沙汰ありけり。

☆ 左馬頭足利基氏が逝去されたこと

このようなことでは天下も一体どうなるのかと危ぶんでいたところ、今年の春ごろより鎌倉の左馬頭基氏が少しばかり体調を崩されていると言われていたのですが、貞治六年(正平二十二年::1367年)四月二十六日、生年二十八歳にして急逝されたのでした。兄弟としてお互いに重視し合ってきたので、

この死別はどれほど悲しい出来事でしょうか。言うまでもなくこの二人は、鳥の二翼また車の両輪のごとく、都の地とまだまだ未開の地である関東を、安定した社会にするため力を注いできたので、このように兄弟としての死別の悲しみとは別として、関東の政治力が衰えると幕府全体の権勢も衰退するのではと、

嘆き悲しむ人も多かったのです。この事態に京都の朝廷では大いに恐怖を覚え、全てのことに慎重となり、祈祷なども行うが良いのではと議論されました。


○南禅寺与三井寺確執事
同六月十八日、園城寺の衆徒蜂起して、公武に致列訴事あり。其謂を何事ぞと尋ぬれば、南禅寺為造営此比被建たる於新関、三井寺帰院の児を関務の禅僧是を殺害す。是希代の珍事とて寺門の衆徒鬱憤を散ぜんと、大勢を卒し、不日に推寄て、当務の僧共・人工・行者に至迄、打殺すのみならず、猶も憤を不休、南禅寺を令破却、達磨宗の蹤跡を削て、為令達宿訴、忽に嗷訴にぞ及ける。即山門・南都へ牒送して、四箇の大寺の安否を可定由、已に往日の堅約也。何の余儀にか可及。一国に触訴て、事令遅々、神輿・神木・神坐の本尊、共に可有入洛罵りければ、■や天下の重事出来ぬるはと、有才人は潜に是を危みける。され共事大儀なれば、山門も南都も急には不思立。結句山門には、東西両塔に様々の異儀有て、三塔の事書、鳥使翅を費許也。然ば無左右可事行共不覚、公方の御沙汰は、載許無其期しかば、園城寺は款状徒に被抛て、忿の中に日数をぞ送りける。

☆ 南禅寺と三井寺の確執のこと

同じく貞治六年(正平二十二年::1367年)六月十八日、園城寺の衆徒らが蜂起し、朝廷と幕府に対して訴訟を起こしました。その原因は何かと言えば、南禅寺楼門造営の費用調達するため最近設けた関所で、三井寺(園城寺)に帰ろうとした稚児を、関所勤務の禅僧がこの子を殺害したのです。

こんなこと今までなかった珍事であり、園城寺の衆徒らは鬱憤を晴らすべく、多くの衆徒を率いてすぐに押し寄せ、関所勤務の僧侶や人工(にんぐ::禅宗で剃髪して下働きをする者)、行者(あんじゃ::寺院の諸用をする者)に至るまで殺害するだけでなく、なお鬱憤が晴れないのか、南禅寺の破壊と達磨宗(禅宗の別名)が行ってきた今までの実績等も削除するよう命令することを求め、

これがたちどころに強訴の体をなしたのです。また園城寺はすぐに山門延暦寺と南都興福寺、東大寺にも書状を送り、本朝四箇大寺(しかだいじ::東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)の安全の確保を守ることを確認しましたが、これは昔からの堅い約束でもあります。何ら異議などあるはずがありません。

国家に対して訴訟を起こしたものの、遅々として解決のめども全く立たないので、こうなれば神輿(しんよ::神霊を乗せる輿)、神木(しんぼく::神霊が宿るとされた春日神社の榊)、神座の本尊(御神体)など全てを入洛させようと大騒ぎになったので、えらいことになったぞ、またもや天下に大乱が起こるのではと、

知識人と言われる人たちはひそかに危ぶんだのでした。しかしことは重大な意味を持っているので、山門も南都にしても急にことを起こすことは出来ませんでした。反対に山門において、この件に関して東西両塔で意見が割れ、三塔(東塔、西塔、横川)の各見解を記述した書類を急いで回覧する使者は疲れるばかりでした。

このような状況でしたから簡単に事を起こすことも出来ないし、朝廷や幕府の採決も何時になったら出るのやら、その日もはっきりしない状態なので、園城寺は訴訟の趣旨を記した書状をただ提出しただけで、怒りの中に日を過ごすこととなりました。


○最勝講之時及闘諍事
去程に同八月十八日、最勝講可被行とて、南都・北嶺に課て、所作の人数をぞ被召ける。興福寺より十人、東大寺より二人、延暦寺より八人也。園城寺は今度の訴詔に、是非の左右に不及間、不可随公請由所存申に依て、四箇の一寺は被除畢。証義は前大僧正懐雅・山門の慈能僧正をぞ被召ける。講演論場の砌には、学海智水を涌し、慧剣を令闘事なるに、南都・北嶺の衆徒等、於南庭不慮に喧嘩を引出して、散々の合戦にぞ及ける。紫宸殿の東、薬殿の前には南都の大衆、西の長階の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差の太刀なんど用意の事なれば、抜連て切て懸る。山門の大衆は、太刀・長刀も不持ければ争か可叶。一歩も不践止、紫宸殿の大床の上へ被捲上、足手にも不係けるに、光円坊良覚・一心坊の越後注記覚存・行泉坊の宗運・明静房の学運・月輪房の同宿円光房・十乗房を始として、宗徒の大衆腰刀許にて取て返し、勇誇たる南都の衆徒の中へ、面も不振切て入る。中にも一心坊の越後注記は、南都若大衆の持たる四尺八寸の太刀を引奪て、我一人の大事と切て廻けるに、奈良法師被切立、村雲立て見へける処に、手掻の侍従房只一人蹈止て、一足も不退、喚叫で切合たり。追ひ廻し追靡け、時移る程闘けるに、山門の衆徒、始は小勢にて而も無用意也ける間、叶べくも不見けるが、山徒の召仕ふ中方の者共、太刀・長刀の鋒を調へ、四脚の門より込入て、縦横無碍に切て廻しかば、南都の大衆は大勢也といへ共、怺兼て、北の門より一条大路へ、白雲の風に雲珠巻が如にぞ、靉出たりける。されば南庭の白砂上には、手蓋の侍従を始として、宗との衆徒八人まで、尸を双て切臥らる。山門方にも手負数た有けり。半死半生の者共を、戸板・楯なんどに乗せて、舁連たる有様、前代未聞の事共也。浅猿哉、紫宸北闕の雲の上、玄圃茨山の月の前には、霜剣の光冷して、干戈の場と成しかば、御溝の水も紅を流し、著座の公卿大臣も束帯悉く緋の色に染成して、呆給許也。さしも是程の騒動なりしか共、主上は是にも騒がせ給御事もなく、手負・死人共を取捨させ、血を濯清めさせ、席を改させられて、最勝講をば無子細被遂行けるとかや。是則厳重の御願、天下の大会たるに、斯る不思議出来ぬれば、就公私不吉の前相哉と、人皆物を待心地ぞせられける。

☆ 最勝講を実施している時闘争が起こったこと

さて同じく貞治六年(正平二十二年::1367年)八月十八日、最勝講(さいしょうこう::東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺の高僧を呼んで、清涼殿で行われた法会)を実施しようと、南都、北嶺に命じて必要な人数を準備させました。興福寺より十人、東大寺より二人、延暦寺よりは八人です。しかし園城寺に関しては、

今回の訴訟の件でいまだに解決の糸口さえ見えないので、朝廷の要請に従うことは出来ないと申し出て、本朝四箇寺の中で一寺だけ除かれてしまいました。証義(しょうぎ::法会で論議問答の解答の判定役)には前大僧正懐雅(かいが)と山門の慈能(じのう)僧正を呼ばれました。

講演論場(経典の講義や仏法について議論すること)の場では、学問の世界は広く仏の智恵によって煩悩を洗い流すことに専念し、煩悩を断ち切るため智恵を剣のごとく戦わせなければならないのに、南都北嶺の衆徒らは南庭で不意に喧嘩を始め、まるで合戦のように激しく戦い出したのです。

紫宸殿の東側、薬殿(くすどの::安福殿内にあった。しかしこれは紫宸殿の西側である)の前には南都の大衆が、西の長階の前には山門の衆徒らが並び立ちましたが、南都の衆徒らはそれぞれ脇差の太刀などを用意していたので、抜き払って斬りかかりました。しかし山門の大衆らは太刀も長刀も手にしておらず、

とてもかなうものではありません。一歩さえ留まることが出来ず紫宸殿の大床の上に押しやられ、手も足も出せない状態になったのですが、光円坊良覚(りょうかく)、一心坊の越後注記覚存(かくそん)、行泉坊の宗運、明静(みょうじょう)坊の学運、月輪坊の同宿(どうしゅく::同じ寺、師匠について修行する同僚の僧)円光坊、

十乗坊をはじめとして主だった大衆が腰刀(こしがたな::腰にさす鍔のない短い刀)だけで引き返し、勝ち誇っている南都の衆徒の中へ、わき目もふらずに斬り込みました。その中でも一心坊の越後注記は、南都の若大衆が手にしていた四尺八寸の太刀を奪い取り、自分一人だけの危機かのように斬り回ったので、

興福寺や東大寺の大衆らは斬りたてられ、一ヶ所に追い詰められたように見えた時、手掻(てんがい::東大寺周辺に住む刀工か?手飼いか?)の侍従坊ただ一人が踏み止まり、一歩たりとも下がることなく喚き叫んで斬り合いました。追い回したり追い込んだりしながら数時間を戦う内に、山門延暦寺の衆徒ら最初は小勢で、

しかも武器の用意がないため、とても戦うことなど出来そうにないように見えましたが、比叡山の衆徒らが召し使っている中方(ちゅうほう::寺院で雑役に従事する者)の者たちが、太刀や長刀の切っ先を揃えて、四脚の門から突入し好き勝手に斬り回したので、南都の大衆らは数こそ多いとは言え、

踏みとどまることが出来ず、北の門から一条大路へ白い雲が渦巻くようにして出て行きました。この乱闘の結果、南庭の白砂の上には手蓋(手掻)の侍従をはじめとして、主だった衆徒の八人までが死骸を並べて伏せられていました。山門側にも多数の負傷者がいました。半死半生の者たちを戸板や楯などに乗せて、

担ぎ連ねている有様は前代未聞の出来事でした。全く情けなく恥ずかしいことですが、天子の住む皇居と言う畏れ多い場所で、また崑崙山上の仙人が住む荒れた山にかかる月を前にして、冷たく光る剣を振りかざして戦闘の場となったので、御溝水(みかわみず::宮中の庭を流れる溝の水)も赤く染まり、

席についている公卿大臣の身に着けた束帯なども全て緋色に染まり、唖然とするばかりです。こんなにあきれ返るばかりの騒動であるのに、後光厳天皇はいささかも騒がれることなく、負傷者や死人などの処置をさせるとともに、血を洗い清めさせて席を改めてから、最勝講を何事もなかったかのように行われたそうです。

とは言えども、祈願のために厳かに実施される国家の大会(だいえ::規模の大きい法会)であるにかかわらず、このような理解に苦しむ事態が起こったとは、公私にわたって何か不吉なことが起こる前兆ではないかと、人々は皆、何かを待つ気分にさされたのでした。


○将軍薨逝事
斯る処に、同九月下旬の比より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気・丹波の両流は不及申、医療に其名を被知程の者共を召して、様々の治術に及しか共、彼大聖釈尊、双林の必滅に、耆婆が霊薬も其験無りしは、寔に浮世の無常を、予め示し置れし事也。何の薬か定業の病をば愈すべき。是明らけき有待転変の理なれば、同十二月七日子刻に、御年三十八にて忽に薨逝し給にけり。天下久く武将の掌に入て、戴恩慕徳者幾千万と云事を不知。歎き悲みけれ共、其甲斐更に無りけり。さて非可有とて、泣々薨礼の儀式を取営て、衣笠山の麓等持院に奉遷。同十二日午刻に、荼毘の規則を調て、仏事の次第厳重也。鎖龕は東福寺長老信義堂、起龕は建仁寺沢竜湫、奠湯万寿寺桂岩、奠茶真如寺清■西堂、念誦天竜寺春屋、下火は南禅寺定山和尚にてぞをはしける。文々に悲涙の玉詞を瑩き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速に出三界苦輪、直到四徳楽邦給けんと哀なりし事共也。去程に今年は何なる年なれば、京都と鎌倉と相同く、柳営の連枝忽に同根空く枯給ひぬれば、誰か武将に備り、四海の乱をも可治と、危き中に愁有て、世上今はさてとぞ見へたりける。

☆ 将軍足利義詮が薨去されたこと

何かと不安な時を過ごしていたところに、同じく貞治六年(正平二十二年::1367年)九月の下旬頃より、征夷大将軍義詮は心身とも不調になり、寝食も思うようにならなくなったので、和気、丹波(両家とも医術の専門家系)の両派は言うに及ばず、医療にかけてその名を知られている人々を呼んで、

色々と治療に手を尽くしましたが、あの釈迦が沙羅双樹のもとで死去される時、耆婆(きば::釈迦時代の伝説的名医)による霊薬もその効果が無かったのは、まことに浮世の無常を示して置いたと言えます。一体どのような薬が前世からの報いによる病を治すことが出来ると言うのでしょうか。

これらすべては明らかに有待転変(うだいてんぺん::はかない人間という存在は、生まれたり死んだりすることを繰り返す)の理屈通りなので、同じく十二月七日の子刻(午前零時頃)に御年三十八歳にて急逝されました。天下は長期にわたり武将による幕府の支配下に入り、その恩恵を受けたり、その徳から離れがたく思う人はその数さえ分からない程です。

いくら嘆き悲しんでも仕方ありません。いつまでも悲しんではおられないので、泣く泣く葬礼の儀式を執り行うため、遺体を衣笠山の麓にある等持院に移しました。同月十二日、午刻(午後零時頃)に荼毘の準備を整えて、仏事一切は厳かに執り行われました。鎖龕(さがん::棺のふたをすること)は東福寺の長老信義堂、

起龕(きがん::棺を墓所に送ること)は建仁寺の沢竜湫(たくりゅうしゅう)、奠湯(てんとう::死者の霊前に湯を供えること)は万寿寺桂岩(けいがん)、奠茶(てんちゃ::茶を霊前に供えること)は真如寺清■(せいぎん)西堂、念誦は天龍寺の春屋(しゅんおく)、下火(あこ::遺体を焼く燃料に火をつけること)は南禅寺定山和尚らがそれぞれ受け持ちました。

弔辞は悲しみに涙する美しい言葉が連なり、一つ一つの言葉に永久に変わることのない仏教の教えが説かれていますので、今は亡き義詮卿も生まれまた死ぬことを繰り返す輪廻の苦界から速やかに逃れ出て、常(不変不滅)(真の安楽)(自我を越えた状況)(清浄な世界)と言う四徳の境涯、

つまり阿弥陀仏の浄土に生まれ変わられたこともまた、悲しいことでもあります。それにしても、今年は一体何という年であればこのように、京都(義詮)と鎌倉(基氏)で幕府の重鎮である兄弟が相次いで急逝され、この後誰が将軍を引き継ぎ国家の騒乱を鎮圧出来るのかと、危険を感じて不安な気持ちが強く、今はもうこの世もどうなっていくのかと思われました。


○細河右馬頭自西国上洛事
爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。

☆ 細川右馬頭が西国から上洛してきたこと

ところで細川右馬頭頼之は当時西国の征伐に当たり、敵を滅亡に導き人々を手なずけ、あらゆる事案全般にわたって処置の道理が、少しばかり以前の貞永(じょうえい::1232年)、貞応(じょうおう::1222-1223年)時代の旧基準に近いと言われていましたので、早急に幕府の管領職に就かせ、

幼い若君、足利義満公を補佐させるのが適当であると、重臣ら多数による議決があり、右馬頭頼之に武蔵守の官職を与え、執事職に任命しました。外面的な行動や内面に秘めた美徳など人々の語る点も、なるほどと思わせるものがあるので、足利家の血縁家系も彼を重視し、外様も彼の命令に逆らうことなく、

都も安定を取り戻し平和な時代を迎えたこと、本当に目出たいことでした。      (太平記完 2017年9月6日)

太平記総目次に戻る