鞍馬天狗    三月 三級

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 鞍馬山東谷の僧が、西谷からの招待を受けて大勢の稚児を連れて西谷の花見に行く。すると、そこにひとりの見知らぬ山伏が割り込んで

来たので、僧は稚児たちを連れて帰ってしまう。ところが、稚児たちの中の沙那王だけが居残り、山伏に同情して好意を示すので、山伏の方でも

それが沙那王であることを知ることになる。そこで、山伏はその日陰者の境遇を憐れみ、一緒に方々の桜を見せて回り、再び鞍馬山に戻って来た。

 その後、山伏は沙那王に対して、「実は自分はこの山に住む大天狗であるが、あなたに兵法の大事を授けて平家を打たせるようにしますので、

また明日ここへおいでなさい」と言って飛び去った。

   翌日、沙那王が約束のところで待っていると、大天狗が各地の天狗どもを従えて現れ、

   沙那王に兵法の奥義を伝え、なお将来をも守護する事を約束して飛び去るのである。

 

   前シテ     山伏                   後シテ      天狗

   前子方    牛若丸と他の稚児(数人)     後子方     牛若丸

   ワキ      僧                   ワキツレ    従僧(二〜三人)

 

  ⇒鞍馬寺木の根道

          

 

名宣

  シテ 「かやうに候者は、鞍馬の奥僧正が谷に住居(すまい)する客僧にて候。さても當山に於いて、花見の由承り及び候間、立ち越え

      外(よそ)ながら梢をも眺めばやと存じ候

 

『狂言  「これは鞍馬の御寺に仕へ申す者にて候。さても山に於いて、毎年花見の御座候。殊に當年は一段と見事にて候。さる間東谷へ

       只今文を持ちて参り候。いかに案内申し候。西谷より御使に参りて候。これに文の御座候御覧候へ     狂言終り』

 

  ワキ 「何々西谷(にしだに)の花。今を盛りと見えて候に、など御(おん)訪(のとづ)れにも、預らざる。一筆啓上せしめ候、古歌に曰く

      「今日見ずは悔しからまし花盛り

      「咲きも残らず散りもはじめず

      「げに面白き歌の心。たとひ音信(おとづれ)なくとても、木蔭にてこそ待つべきに

上歌  【】小謡

   【「花咲かば、告げんと言ひし山里の、告げんと言ひし山里乃、使は来たり馬(んま)に鞍。鞍馬の山乃雲珠櫻(うずざくら)。手折(たおり)

      枝折(しおり)をしるべにて、奥も迷はじ咲き續く。木蔭に並み居ていざいざ、花を眺めん

 

『狂言  「いかに申し候。あれに客僧のわたり候。これは近頃狼藉なる者にて候。追っ立てうずるにて候     狂言終り』

 

  ワキ 「暫く。さすがにこの御(おん)座敷と申すに、源平両家(りょうか)の童形達(とうぎょうたち)各々御座候に、かやうの外人は(な)

      然るべからず候。然れども又かやうに申せば人を擇(えら)み申すに似て候間、花をば明日(みょうにち)こそ御覧候べけれ。まづまづ

      この所をば御(おん)立ちあらうずるにて候

 

『狂言  「いやいやそれは御諚にて候へども、あの客僧を追っ立てうずるにて候

  ワキ 「いやただ御(おん)立ちあらうずるにて候     狂言終り』

 

  シテ 「遥かに人家を見て花あれば便(すなわ)ち入(い)る。論ぜず貴賎と親疎とを辨(わきま)へぬをこそ、春の習ひと聞くものを。浮世に

      遠き鞍馬寺。本尊は(な)大悲多聞天(でん)。慈悲に洩れたる人々かな

  子方 「げにや花の下(もと)乃半日(はんじつ)の客(かく)。月の前の一夜乃友

      「それさへ好(よし)みはあるものを。あら傷はしや近う寄って花御覧候へ

  シテ 「思ひ寄らずや、松虫の、音(ね)にだに立てぬ深山櫻(みやまざくら)を、御(おん)訪(とむら)ひのありがたさよ、この山に

  子方 「ありとも誰か白雪の、立ち交はらねば知る人なし

  シテ 「誰をかも知る人にせん、高砂の

  子方 「松も昔の

  シテ 「友烏(ともがらす)の

上歌  【】小謡

   【「御(おん)物笑ひの種蒔くや。言乃葉しげき戀草(こいぐさ)の、老(おい)をな隔てそ垣ほの梅(んめ)さてこそ花乃情なれ。花に

      三春(さんしゅん)乃約あり。人に一夜(ひとよ)を馴れ初(そ)めて、後(のち)いかならんうちつけに心空(そら)に楢柴(ならしば)乃、

      馴れはまさらで戀の増(まさ)らん悔しさよ

  シテ 「いかに申し候。只今の稚児達は皆々御(おん)歸り候に、何とて御一人(ごいちにん)これには御座候ぞ

  子方 「さん候只今の稚児達は平家の一門、中にも安藝(あき)の守清盛が子供たるにより、一寺(いちじ)乃賞翫(しょうかん)他山(たさん)の

      覚え時の花たり

      「みづからも同山(どうさん)には候へども、よろづ面目もなき事どもにて、月にも花にも捨てられて候

  シテ 「あら傷はしや候。さすがに和上臈(わじょうろう)は、常盤腹(ばら)には三男、毘沙門の沙乃字をかたどり、御(おん)名をも遮那王殿と

      つけ申す           『上臈:上臈御年寄の役にある大奥女中最高位の女中を単に上臈と言う』

      「あら傷はしや御(おん)身を知れば、所も鞍馬の木蔭乃月

下歌

   「見る人もなき山里乃櫻花(ばな)。外(よそ)の散りなん後(のち)にこそ、咲かば咲くべきにあら傷はしの御(おん)事や

上歌  【】小謡

      【「松嵐(しょうらん)花の跡訪(と)ひて、松嵐花乃跡訪ひて、雪と降り雨となる哀猿(あいえん)雲に叫んでは、膓(はらわた)を断つとかや。

      心すごの氣色や。夕べを残す花のあたり、鐘は聞えて夜(よ)ぞ遅き、奥は鞍馬の山道乃、花ぞしるべなる此方へ入(い)らせ給へや

下歌

      「さてもこの程お供して見せ申しつる名所(などころ)の、ある時は、愛宕高雄の初櫻。比良や横川(よかわ)の遅櫻。吉野初瀬乃名所を、

      見残す方もあらばこそ

ロンギ

  子方 「さるにても、如何なる人にましませば、我を慰め給ふらん。御(おん)名を名のりおはしませ

  シテ 「今は何をか裹(つつ)むべき。我この山に年経たる、大天狗は我なり

    「君兵法の、大事を傅へて平家を滅ぼし給ふべきなり。さも思し召されば、明日(みょうにち)参會申すべし。さらばと言ひて客僧は、

      大僧正が谷を分けて雲を踏んで飛んで行く、立つ雲を踏んで飛んで行く

                            −−中入−−

  後子方 「さても遮那王が出立には、肌には薄花櫻の單衣(ひとえ)に、顕紋沙(けんもんしゃ)の直垂乃、露を結んで肩に懸け、白糸の腹巻

      白柄(しらえ)の長刀

    「たとへば天魔鬼神(てんまきじん)なりとも、さこそ嵐の山櫻。花やかなりける出立かな

  後シテ  「そもそもこれは、鞍馬の奥僧正が谷に、年経て住める、大天狗なり

    「まづ御(おん)供の天狗は、誰々ぞ筑紫には

  シテ  「彦山の豊前坊

    「四州には

  シテ 「白峯(はくふう)の、相模坊。大山乃伯耆坊

    「飯綱(いづな)の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一黨(いっとう)葛城(かづらき)高間。外(よそ)までもあるまじ。邊土(へんど)に

      於いては

  シテ 「比良

    「横川(よかわ)

  シテ 「如意が嶽

    「我慢高雄の峯に住んで、人の為には愛宕山。霞と靉(たなび)き雲となって

  シテ 「月は鞍馬乃僧正が

    「谷に充ち満ち峯を動かし、嵐木枯瀧の音。天狗倒(だお)しは夥(おびたた)しや

  シテ 「いかに遮那王殿。只今小天狗(しょうてんぐ)をまゐらせて候に、稽古の際(きわ)をばなんぼう御(おん)見せ候ぞ

  子方 「さん候只今小天狗ども来り候程に、薄手をも斬りつけ、稽古の際を見せ申したくは候ひつれども、師匠にや叱られ申さんと思ひ、

      留まりて候

  シテ 「あらいとほしの人や

      「さやうに師匠を大事に思し召すに就いて、さる物語の候語って聞かせ申し候べし

      「さても漢の高祖乃臣下張良と云ふ者、黄石公(こうせきこう)にこの一大事を相傅(そうでん)す。ある時馬上にて行(ゆ)き逢ひたりしに

      何とかしたりけん。左の沓(くつ)を落し、いかに張良あの沓取って履かせよと言ふ。安からずは思ひしかども沓を取って履かす。また

      その後以前の如く馬上にて行き逢ひたりしに、今度は左右(ひだりみぎ)の沓を落し、やあいかに張良あの沓取って履かせよと言ふ

      「なほ安からず

      「思ひしかども、よしよしこの一大事を相傳する上はと思ひ、落ちたる沓をおっ取って

    「張良沓を捧げつヽ、張良沓を捧げつヽ、馬(んま)の上なる石公(せきこう)に、履かせけるにぞ心解け兵法(へいほう)の、

      奥義(おおぎ)を傅へける

  シテ 「その如くに和上臈も

    「その如くに和上臈も、さも花やかなる御(おん)有様(なりさま)にて姿も心も荒天狗を、師匠や坊主と御賞翫(しょうかん)は(な)、

      いかにも大事を残さず傅へて平家を討たんと思し召すかや優し乃志やな

      「そもそも武畧(ぶりゃく)の譽乃道

    「そもそも武畧の譽乃道。源平藤橘四家(しけ)にも取り分きかの家乃水上(みなかみ)は、清和天皇の後胤として、あらあら時節を(と)

      勘(かんが)へ来(きた)るに、驕れる平家を西海(さいかい)に追つ下(くだ)し、煙波滄波(そうは)の浮雲(ふうん)に飛行(ひぎょう)の

      自在を受けて、敵(かたき)を平らげ、會稽を雪(すす)がん。御(おん)身と守るべしこれまでなりや、お暇申して立ち歸れば、牛若袂に

      縋(すが)り給へばげに名残あり。西海四海(さいかいしかい)の合戦(かせん)と云ふとも、影身を離れず弓矢の力を添へ守るべし。

      頼めや頼めと夕影暗き、頼めや頼めと。夕影鞍馬の、梢に翔(かけ)って、失せにけり

 

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